1-9 さんぽ:その他の暗渠

杉並区外の暗渠

日本経済新聞の暗渠記事に取材協力しました

東京・渋谷川の暗渠をたどる」という記事。

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渋谷付近に行く頻度がめっきり減ったせいか、なんだか行くたびに渋谷川周辺も変わっている印象があります。

「蛇」の証言は、渋谷川といえばの梶山公子さんと一緒に渋谷川を歩いているときに、参加されていた方のものでした。当時はまだその一角はちょっとさみしい感じの駐輪場で、渋谷川のちょっと汚れた護岸やら水面をわたしは想像することができ、そこに蛇を(脳内で)泳がせました。

東京人のロケハンにやってきたとき、その空間は既に駐輪場ではなく、まっさらで真っ白に整備された、立ち入り禁止の空間でした。

そして今回、約半年後に訪れた同じ空間は開放されていて、テラス席のついた飲食店へのアプローチとなり、若い人たちが(時期的にたくさん、ではないけれど)歩いていました。

 

脳内で蛇を泳がせるには、不釣り合いな雰囲気になってきたなぁ…とは思うものの、変わり続けることが渋谷らしいのかもしれない。渋谷川の風景の時層は、この数年でさえも、何層も何層も増えてゆく。

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ライフルホームズ、暗渠記事に協力しました

住まいと街のプロ、中川さんと烏山川を歩いて、暗渠のお話をあれこれとしてきました。
それを記事にしていただきました。

「暗渠」都市を流れる見えない川を知る、楽しむ、歩いてみる

暗渠初心者さんにも読みやすい記事だと思います。

 

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烏山川、若林支流中流部にある、ワクワクの空間。ここはやっぱり良いですね。

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「暗渠」で味わう街歩きの進化形 記事の先にある細かい話

暗渠マニアックスで中央区の川跡(京橋川、楓川、浜町川、龍閑川など)を中心にコースを作り、ご案内したものを記事にしていただきました。奥山編集長、たいへんお世話になりました!

名前に“橋”がつく交差点の謎…「暗渠」で味わう街歩きの進化形
川と関係ない「小川橋」・公衆トイレが「暗渠サイン」…スマホ片手に「AR時間旅行」

 

ゴール地点のその先のことを、ちょこっとだけ補足。


龍閑川さんぽは、龍閑橋の親柱とコンクリートトラスを見てゴール、とすることが美しい、と思う。ただ、その先も実はちょっと、地味だけれどおもしろい。

本記事のゴール地点の上空を、googleの航空写真で眺めてみよう。

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鎌倉児童遊園と書かれたところに、龍閑橋は保存されている。そこから日本橋川に向かってツツツと視線を動かすと、駐車場がカーブを描いていることがわかる。

カーブ、に、ザワ、ザワ。昔の地図を見てみよう。

 

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東京時層地図の関東地震直前。龍閑橋も現役のころ。龍閑川の付け根が見えるだろう。

このカーブと、駐車場のカーブは、一致する。

 

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東京時層地図の、高度成長前夜も見てみる。

龍閑川は埋められた。しかし、末端だけは埋め残されていた。航空写真をみると、日本橋川には、たくさんの舟が浮かんでいる。


このカーブの場所は、もっとも遅くまで、龍閑川が残っていた場所だった。

実際の、カーブの場所に近づいてみる。

 

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カーブの場所に近づこうとすると、入ることはできないが、そこに並ぶは、水道局の車たち!

最後まで残った川跡は、水道局の敷地だった。

 

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ほか、伏越っぽいマンホールや、防災倉庫など、暗渠サインが並んでいる。
思わず下水道台帳にアクセスするわけだが、この位置の下水道台帳は秘匿エリアにつき、気軽に見られない。(下水道局に行けば、見られる。)

 

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この写真は日本橋川側から見たもの。随分前のクルーズ時の写真につき、画質が悪いんだけれど。

さきの航空写真をよく見ると、カーブの下に、何かある。ここには薄緑色の水門があり、下水道台帳では前述の通り詳細が見られないが、これもまた龍閑川の名残のものであるはずだ。


なお、下水道写真家の白汚さんが神田下水と龍閑川の接続地点に入ったことがあるらしい。その際のお話は、非常に興味深かった。

 

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マピオンで見てみると、区境以外は情報がない。まるで何もない場所であるかのようだ。
しかし、現地に行ってみれば、ささやかな、しかし暗渠好きとしては盛り上がる情報がてんこもり!なのである。


地味なことに変わりはないが、わたしはこういう場所に立ち、ひとりでニヤニヤしていることが、大好きだ。

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滝の川 足元を流れていた川のこと  暗渠カフェで暗渠ソング(1)

「泥水は揺れる」という歌がある。

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スーマーさんの歌だ。スーマーさんの歌を、ライブで聴くことがしばらくできなくなってしまった。
スーマーさんは、ご自身の歌を配信するページを作ってくれた。

その中に、暗渠カフェSammy'sさんでのコラボ・シリーズの一つも載せてくださった。
とてもとても、素敵な歌声です。「泥水は揺れる」、この暗渠的な歌詞もぜひ味わってほしいのです(歌詞を暗渠写真とともに視覚化するスライドをつけています)。
投げ銭もできます。

さて、その、六角橋でのライブで、何度か前座暗渠トークをさせていただいていた。
そのためだけにネタを仕込んだ回もある。郷土資料のみならず時には周辺のインタビューも。なんだか面白くなっちゃって、決して近くはないのに通ったなあ、白楽。
それらを、文章にしてみようと思います。

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前座暗渠トーク1回目は、白楽周辺の滝の川についての話だった。

滝の川の名の由来は、下流にあたる神奈川宿付近、権現山のところに滝があったという説が有力だ。現在は滝はない。

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が、滝の川は、どこに滝があってもおかしくないような、横浜らしい地形を縫って流れゆく。最下流部は開渠になっている。

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多くの川が暗渠化された歴史と同じような流れを、滝の川も、少しだけ後からたどっている。汚れがひどくなり、氾濫するようになったことがきっかけだった。たとえば流域の神大寺では、昭和40年代に車も動けないほどの洪水や、家にも浸水したとか、校庭が池のようになったなどという記録が残っている。そして昭和50年代、滝の川は暗渠化された。

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滝の川の本流支流について、主要な流路をスーパー地形にプロットした。このうち、赤点線あたりが、今回の話のエリアである。

このように、滝の川には立派な支流がいくつもある。そのひとつが、六角橋商店街を突っ切っていることは、意外と知られていない。

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六角橋商店街の地図をお借りして、そこに滝の川支流暗渠を水色で書き込んだ。暗渠、バッチリ、横切っている。

商店街でお茶を買い、この近くに川がありませんでしたかと尋ねた。
「そこに川があったよ。」少し先を指差して店主は言った。川幅はここでは3mくらい、先では5mくらいというから、想像より細い。「汚かった。ゴミが捨てられ、自転車まで捨てられてた。洪水になったこともある。昭和30年代に暗渠化、土管を通したんだよ。(30年代だったらこの辺じゃ早い方だ。商店街に橋はあった?)なかった、もともと下を通してた。鳥肉屋さんの隣が川だった。」店主は、じつに鮮明な記憶をもっていた。

六角橋商店街の脇に、薄汚れた自転車のただようドブが現れた。少なくとも、そういうふうに、わたしには感じられた。

「鶏肉屋さんの隣」、それが、Sammy’sのことである。(厳密にいうと、滝の川支流暗渠はSammy'sと鶏肉屋さんの間にまたがっている。)

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指差された先を見に行く。初めて、Sammy’sを見た瞬間である。営業時間帯とメニューを確認。ハワイアンカフェであり、昼からビールを供されていることがわかった。ぜひともここで一杯飲みたい、と、強く思った。

それで、付近の暗渠探索の帰りに寄って、一杯だけ、ハートランドを飲んだ。カウンターに座ったこの初訪問のぎこちない客に、店員さんが気遣って話しかけてくださったことを覚えている。それよりもわたしは、この足下の暗渠のことばかり考えていた。無愛想な客だ、と思われたことだろう。
流路の反対側は店が建たず、また、隣は鮮魚店だった。なるほどな、と思った。

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水辺のたましいとは、こんなふうに遺るものだ。

その後、「はま太郎」という横浜の酒場を探求した出版物の製作者と縁をつなげてもらい、彼らのイベントで「泥水は揺れる」という暗渠ソングの歌い手スーマーさんと出会うこととなる。

スーマーさんと初めて話したとき、「ライブが白楽である」と言われ、その店名を聞いてのけぞった。Sammy’sだった。まさか、そんなことが。興奮の度合いがえらいことだった。関内の、地下にあるイベントスペースだったが、心はすぐに六角橋に飛んでいった。

…。

話を滝の川に戻そう。滝の川のことを調べると、六角橋周辺の昔の風景がより明細に見えてくる。暗渠の持つ力は、じつに偉大だ。

郷土資料を眺める。市電の停車場が、六角橋の交差点近くにあった。

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滝の川本流の上に境橋がかかり、交番、対岸に市電の切符売り場があった 。古い写真をみると、切符売り場の脇は「平和樓遊技場」である。そう、今もパチンコ店だ。

牧場もあった。

S22bokujo昭和22年の地形図より

ここにあった牧場は、そのままの経営者でレストランに変貌した。現在の末広園である。

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新しいビルの横に旧い建物があり、その後ろに慰霊塔がある。
末広園には海鮮丼もあるが、わたしは土地の記憶に倣って牛丼を食べたい、と思っている。食べようとしたとき、残念ながら改装休業中だった。はやく、改めて行きたいものである。

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小川牧場、という記載も見られた。小川牧場は、残念ながら川沿いではなく、標高の高い位置にある。

なぜ牧場に執着するかというと、牧場が川沿い、暗渠沿いにある事例は少なくないためだ。都市化とともに、牧場は次第に郊外に追いやられる。そのとき、川沿いに移転する割合は低くはない。

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旧六角橋郵便局の向かいにはかつて「押尾牛乳店」があったという。その横に牧場があったようなイラストがあるが、実際はどうか、明確にはわからない。仮にあったとすると、その横には滝の川支流が流れていた。ビンゴ。Sammy'sまでやってくる流れだ。

この流れを遡ると、どこに行くものだろうか。

水源のうち、ひとつは篠原西町にある。

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谷頭に行ってみると、今も水が湧き、側溝の下から小川のせせらぐ音がした。
そのうえを、苔むしたコンクリート蓋暗渠が、狭く真っすぐに突き抜ける。ここの暗渠は本当に絶景。
なぜかスコップが置いてあるが、それもいい。

流路沿いで話を聞いたところ、この川は篠原池の方に行くという人もいた。六角橋とは逆方向。そう、この付近は分水嶺になっていて、どちらにも行くように見えるのだ。古地図を見ると、少なくとも六角橋方向にここから田んぼが連なっている時期がある。

六角橋方向へ、流れを追おう。

Hutatuike東京時層地図(昭和戦前期)より

まもなく出現するのが、二ツ池という大きなため池の跡。
天保8年、六角橋村には上池・下池という二つのため池があった。用途は、神奈川宿の用水である。
ため池はしばらく残り、このように戦前期の地図にも載る。戦後の航空写真をみると、まだ池っぽい区画が残っている。

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現在は概ね道路になっている。池をブルーで描いてみると…、こんな感じにため池はあった。

池のことを知るひとは少ない。しかし、痕跡は少しずつある。

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写真奥にあるわずかな段差は、池のヘリだ。

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ジョナサン脇の細い細い謎の道は、池の名残だ。
ジョナサン脇のこの細道のことを会場で知っている人がいなかったが、こんなにもソソる道が六角橋にはある。
古地図と照合すると、この道は池のヘリと重なる。奥に進むと左右に細道が別れるが、片方は池のヘリ、片方はため池に注ぐ細流と一致する。

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さきの池(想像)を重ねた写真、実は六角橋公園の市民プールを含んでいる。市民プールなぞ、もはや池の記憶をそのまま継承するといっていいだろう。わたしの妄想ではあるが。

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そしてなにより、幹線道路にかけられた歩道橋。
実はこの歩道橋の位置は、ため池時代の築堤の位置と一致するのだった。
こういった符合は、本当におもしろい。江戸時代から、ひとびとは、この谷底を横断するとき、この場所を渡っていたのだろうと思う。現代も、その土地の記憶は受け継がれているかもしれないのだ。たとえば大きな木を目印にして、あの場所に行けば渡れる、ということにしていたかもしれない。江戸以降、深くきざみこまれた土地の記憶。交通量の多い幹線道路を渡る、「あの場所」として、昭和に歩道橋が設えられる。

そんな流れでこの歩道橋が作られているといいな、などと思う。わたしは階段を上るのが苦手なので、基本的に歩道橋は避けているのだが、この歩道橋はなんだか不思議と、渡りたくなる。

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そして市民プールの脇から支流暗渠の緑道が始まる。区境も兼ねる、盛りだくさんの空間だ。

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川の形に沿う家。

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暗渠に舟があった。

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流路を撮っていたら、話しかけられたので逆質問をした。(ここ、川でしたよね。)「ここは63年くらいまで開渠だった。魚もいたし、水もきれいだった。」(川で遊びましたか?)「遊ばないよ(笑)、蛇がいっぱいいたし。」…このすぐ下流の、商店街と交差する地点の暗渠化は早かったのに、すぐ上流は30年ほども開渠のままだった、ということになる。
※滝の川暗渠のことは、「はま太郎15号」にも書いています。「はま太郎」に書いた、市場の方に流れて行くんだろ?も、この辺りの人に話を聞いていた時に複数回聞いたこと。

そして暗渠は六角橋商店街へと流れこむ。

その先、滝の川本流と合流し、海にいたるのだ。

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本流が開渠になる直前の橋も境橋。境橋、ふたつめ!

今回の記事で出てきた流路を、スーパー地形にプロットしたものがこちら。

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第一回目のコラボ泥水のときに、歌詞をつけた暗渠スライドの一部はこちら。

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回ごとに、テーマを変えています。この時のスライドは、滝の川の選りすぐり暗渠写真にしました。

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この記事を、スーマーさんと、Sammy'sさんに捧げます。良い場所、大事な場所、あの場を介してつながる、なんだかおもしろい人たち!早くまたあの空間が、歌声とビールジョッキで満ちますように。

「泥水は揺れる」、ぜひ一度、聞いてみてください。

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台北の街なか渓流暗渠さんぽ

10月3日発売の東京人は「台北ディープ散歩」に、暗渠のちょこっとした記事を寄稿しました。
これまでは、文章多め・写真少なめで書くことが多かったのですが、今回は逆転、台北で出会った素敵な暗渠を、ご一緒に泳ぐような感覚で読んでもらえたら、という書き方です。メインは台北ディープといえばの執筆陣。栖来ひかりさんのY字路、渡邊義孝さんの日式建築、水瓶子さんの水路や歴史の話など、愛情の詰まった濃い記事がたくさん!

で、今回は、もともと用意していた原稿があったのですが、より素敵な暗渠に出会ってしまったので、元原稿をボツにしたという経緯があります。そのボツ原稿の方を、せっかくなのでここに記載します。以下、もう一つの台北暗渠記事、ぜひ東京人と合わせてお読みください。

また、ちょうど10月3日から、南阿佐ヶ谷の台湾茶カフェ茶嘉葉さんにて「台湾暗渠展」を行います。その展示内の一角とこの記事も、リンクしています。

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台北の街なか渓流暗渠さんぽ

 

暗渠がない街、というものは殆ど存在しないという感触をもっている。大地が存在するなら、そこには必ず水の流れがあるからだ。現在川面が見えないとしても、どのような都会でも、失われた川は街並みの何処かに痕跡を遺している。台北とて例外ではない。

 

都心部にひそやかに遺る例をひとつ、挙げよう。忠孝復興駅北を通過する暗渠だ。ただしこの川には呼称が複数あり、どう呼べば良いのか、迷うところである。「上卑流域」とする文献と「渓流」とする文献があり、他方、現場には「瑠公圳公園」がある。瑠公圳とは東京でいうところの玉川上水のようなもの、すなわち台北の主要な用水路だ。この呼称の不一致は、日本統治下時代に多くの水路がひとまとめに「瑠公圳」と改称されたためであるようだ。ここでは大元の呼称に敬意を表し、「渓流」と呼んでいくことにしよう。

 

この渓流跡は現代の地図でも川らしさが漂うが、確認のためのアプリ「台北歴史地図」は有用だ。1974年の台北市航空写真を見ると、この川はくっきりと存在している。あちこちからの小川をあつめ、堀川へと合流してゆく流れだ。堀川の上には現在、新生高架道路が覆い被さり、開渠の箇所もあるが、暗渠部分が多い。1952年の台北市街路詳細図では新生南路一段とともに堀川は緩やかな弧を描いて南に延びるが、その弧部分に合流してくるのが、今回たどる渓流だ。接続地点に向かうと、水門らしき構造物がある。目の前は巨大な交差点なのであるが、蓋まであって川らしさが全開。ここから、遡ってゆこう。

 

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堀川の暗渠部分の上には道路が走る。
二重の蓋暗渠のようなものだ。
沿って歩けば、除塵機や水門が川端の感じを醸し出す  

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台北科技大学前では、現役時代の水路写真のある説明板が添えられた橋跡が現れる。
川があった位置に小川が設えられ、水の記憶を教えてくれる

台北科技大学の先、しばらくは緑道となり街を貫いてゆく。両岸に屋台がある。意麺や魯肉飯といった文字を見るたび、嗚呼ここで暗渠を眺めながら食べたい、という欲に駆られる。しかし店は全て閉まっている。欲を抑えて建国南路一段を渡ると、今度は瑠公圳公園という看板が現れ、まっすぐで細長い公園が連なる。東京でいう「玉川上水緑道」みたいなものであろう。1974年時点では蛇行しているので、暗渠化の際に直線化されたのかもしれない。そのさき、地面に瑠公圳之第一霧裡薛支線、と書かれたプレートが出現。交差してくる安東街を流れていた水路の名だ。

両岸には古めのビルが立ち並ぶ。台北中心部には、凹凸地形は存在しない。しかしここでは、川筋を避けて建てられたビルが山肌のように、水のありかを指し示す。

 

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比較的新しい瑠公圳公園に登場する古い壁。
色とりどりのペンキが塗られているが、往時の護岸か堤防だろうか。
他にも独特の遊具たちが緑道を賑やかす

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川跡に緑道を拵える点は日本と同じだが、そのセンスはどうも異なっている。
井戸を4台、放射状に並べるなんて斬新だ。
夜に訪れたら、子どもたちが井戸から水を発射して遊んでいた。
流れた水の先では、水車が回っていた

 緑道には多様な遊具が置かれていて、観察するのも愉しい。SOGO裏に行く手前、井戸と水車のモニュメントもある。龍門広場の斜めっぷりもまた、川らしい。そのさきは安和路一段、そしてビルの隙間となって辿れなくなる。ビルの隙間を眺めていると、傍らの料理店の店員さんに、「ここは入れないよ」というジェスチャーをされた。ここがもし東京だとしたら、好機とばかり「ここに昔、川がありましたよね」と話しかけていただろう。言葉が通じないことは、こういうときにもどかしい。

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安和路一段の先の川跡らしき隙間。
この空間の詫びた感じは、渓流が呼吸をしているようで好ましかった

 

 信義路四段を渡る。だだっ広い駐車場のような空間の裏に回ると、唐突に開渠が顔を出す。想像の斜め上の展開だ。暗渠が好きなはずだが、不意に現れる開渠には、いつも心惹かれる。この位置で、南からやってきた何本かの川筋が合流するようだ。名残が惜しいので周囲をうろつくと、2ブロック先で細流が再度顔を見せた。そろそろ、日が暮れる。最後に開渠を見られたことは、何よりのお土産であった。

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一瞬の開渠。
オシャレインテリアストリート、文昌街との交差地点というギャップもまた、見る者の心を掻き乱す。
撮影地点には、信義路八號橋という立派な橋が架かる。
反対側にも欄干はあるが、その先は住宅に呑まれ、もう川の気配はない

 

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水車モニュメント付近、店のある場所に戻って、魯肉飯と乾意麺。
暗渠を見ながら食べるご飯は川床のようで、また格別だ  

 暗渠さんぽの仕上げには、暗渠めしといこう。暗渠を前にして、台湾の美味なご飯をいただくという贅沢。先ほどの開渠の水が、ここまで流れてくるさまを思い浮かべる。目の前で、水面の幻影がゆらめく。夜の暗渠はとりわけ、川との境界が曖昧になっていくような気がする。

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世田谷線沿線本の暗渠こぼれ話


先月末に発売された「世田谷線沿線の本」に、暗渠で寄稿しています。
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そのこぼれ話をひとつ。


烏山川といえばザリガニを思い出す。

松庵川での取材時、銭湯のお客さんが語ってくれたのが、「川沿いで大人がザリガニを茹でて食べていた(自分は臭いので食べていない)」というエピソードだった。よくよく聴いていくとそれは、烏山川のことだった。あのおじいさんは、松庵川を通して烏山川を思い出していた、ということになる。

烏山川関連の資料の中で、なんだか好きなエピソードもまたザリガニだ。ある時代までは烏山川に居たのはエビばかりで、あるとき、ザリガニを捕まえた青年が「エビにハサミがついている!」と大騒ぎしたのだとか。数年後ザリガニは大繁殖、珍しくもなくなっていった。

だから烏山川というと、わたしはザリガニを思い出す。 烏山川にあるわずかな親水空間で目を凝らしたけれど、北沢川みたいにザリガニがいたりはしなかった。残念。


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それはそれとして、世田谷線沿線本、とってもオシャレなレイアウトで、わたし役のカエルもかわいくって気に入っています。編集さん、お世話になり、ありがとうございました。
書店さんで見かけられましたら、ぜひお手に取ってみてください。


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猫と暗渠~暗渠はニャンダーランドだ!~ 猫地名編

 
11月4日に、神楽坂で「猫でめぐる暗渠」というトークイベントを開催します。
そのイベントはもう満席になってしまったので(申し込んでくださったかた、本当にありがとうございます)、きょうはその宣伝ではありません。
「猫でめぐる暗渠」は、去年ひるねこBOOKSさんでやった「猫と暗渠」トークの続編でもあります。ただ、その第一回目にいらしていない方もいらっしゃると思うので、「第一回目のおさらい」(全部ではないですが)をしておこうと思うのです。
 
さてさて、去年、わたしは「猫と暗渠」で、こんな話をしていました。抜粋その1は、「猫地名と暗渠」です。
 
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東京近郊の猫地名といえば。
 
・・・浦安市「猫実(ねこざね)」、一択。
しかも、浦安市は「猫実川」まであるという、すばらしい土地である。

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「猫実川」なる、バス停まである。

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しかも、バス停「猫実川」は、ほんとうに猫実川の上に立っている、誠実バス停なのだ(左が欄干)。猫実川の暗渠上、と言ってもいい。
ここらへんでもう、猫と暗渠が両方好きな人は、若干心をつかまれるのではないか、と思う(たぶんね)。
 
・・・「浦安」というと、おそらく多くの人が思い浮かべるのは、ネズミーランドだろう。しかし、ある程度有名な話だが、ネズミーランドは埋立地につくられたものであり、古地図を見ても「無」である。いっぽう猫実は、浦安といえば猫実村と言ってもいいくらい、明治期の地図を見ると人口密集地なのであった。

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「東京時層地図」((財)日本地図センター)、明治9~19年より。右下にある村が、猫実村である。
 
そんな浦安の古きよき街について、暗渠と猫を絡めながら見ていこう。
 
まずは猫実川から。
猫実川には、開渠部分と暗渠部分がある。開渠は、浦安の駅南口から少し行ったところから、唐突に始まる。

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ちなみにこの猫実川、実は地名「猫実」を流れることはなく、ほとんどお隣の「北栄」を流れている。

奇遇なのだが、暗渠好きでもある大地丙太郎さんが監督をされた「浦安鉄筋家族」に、猫実川が出てくる。

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(浦安鉄筋家族よりキャプチャ。子どもをスーパーに忘れてきたお母さんが猫実川を飛び越えるシーン。)

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こんな感じか。猫実川中流部。
浦安鉄筋家族に出てくる街並みは、少し前の浦安の雰囲気なんだろうな、と思う。

さて、猫実川の暗渠部分を見てみよう。

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ここから潜り、駅付近を通過する。上はタイル張りの遊歩道と親水空間になっている。
親水空間で何かをつかまえている少女がいたので、「何が獲れるの?」と聞いてみた。

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答えは、「カニ」だった。
たしかに見渡してみると、人がいないときには油断してカニが出てくるようだ。
カニが大好物なので、すぐさま興奮した。猫実川、カニが獲れる暗渠!これはすばらしい。
 

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東西線のガードをこえると親水空間はなくなり、このような緑道が、道路を渡っても少しだけ続く。
そのうちただのアスファルトの道路になって、住宅街に埋もれてしまう。

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こちらは、猫実川の支流と言ってもいいであろう暗渠。
東西線高架下を流れている。立派な蓋暗渠だ。東西線が通る前からここにあったので、この水路の上に東西線を作ったのではないか、と思わせる。

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高架と分かれてゆくところはとても素敵で、浦安で最も好きな風景のひとつだ。
 
さて、ここまで紹介してきた猫実川。本流は、実は長いこと存在しておらず、高度経済成長期の地図にさえ載っていない。
街は東西線完成後に急速に発展したのであろう。それより以前は、浦安はとにかくたくさんの用水路が張り巡らされた土地であった。都市化に合わせてそれらの水路を廃し、そのさいにまとめられた1本が猫実川のようである。

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東京時層地図ふたたび。今度は、昭和初期の浦安である。
川に寄り添うように、市街地が発達していることが判る。この川は、今でも開渠で残っている「境川」だ。浦安の、母のような川。
 
人々は川の両岸に家を建て、川の水を飲料や洗い物に使った。漁業を営む人は船を係留し、農業を営む人は耕地の用水路とした。
 
浦安の生活は、境川とともにあったのだ。境川で洗い物をする光景は日常で、戦前はここで、米をも洗っていたという。
 
境川から縦横に広がる、一面の田んぼに用水路。用水路で、ザリガニをとる子どもたちの写真もあった。
そういえば知人(高円寺出身)が、東西線が通ってすぐの頃(当時小学生)、よく浦安に釣りをしに行っていた、と話してくれた。浦安駅は降りると一面の田圃と用水路であり、タナゴなどを釣って遊んでいたという。
タナゴを釣るために浦安まで行く必要があるのか、少々疑問でもあるが、そのひとはなんとも楽しそうに、この話をしてくれた。できたての東西線で釣りをしに行く、という行為に、なにやら胸が躍る感じはする。
 
川だけではなく、「水」はこの土地の産業と深く結びついていた。昭和5年頃、稲からハスへの転作が増加する。昭和32年には、堀江だけで319軒ものハス農家があった。じくじくした湿地が、ハスづくりに適していた、という。
しかし昭和33年以降、地盤沈下により塩分の強い水が入ってくるようになる(葛西のフラフープ工場が原因と書くものもあるが、詳細不明)。ハス農家は漸減するが、それでも、昭和40年代くらいまでは、ハス田が残っていたという。
 
古い地図には、大きな養魚場も描かれる。「秋山の金魚池」と呼ばれる一万二千坪もの養魚場で、存在していたのは明治19年から昭和50年まで。こちらは付近の海面埋立により水分が蒸発し、塩分の高い水が池に入ってきたため、廃業せざるをえなかったようだ。
その跡地には、現在公共施設がズドンと建っている。
 
いっぽう昭和24年、浦安駅西側のハス田だらけの土地に、遊郭的空間がつくられている。柳町という。玄関がちょっと立派な、しかし普通の家のような遊郭が9軒あった。当初はハス田の中にある店に、田んぼや堰を越えてお客さんが通ってきたそうだ。現在は名残があるかどうか、きわめて微妙な感じであるが、ともかくその後、東西線とネズミーランドで、浦安市は大いなる発展を遂げてゆくのである。
 
さて、長くなってしまったが、これは「猫地名」の紹介記事である。
 
「猫実」の由来とは、どのようなものなのか。郷土史を何篇か読んでみる。そこにあるのは、常に同じ解説であった。すなわち、
 
鎌倉時代、このあたりは大津波に遭い甚大な被害を受けた。
その後人々は、堅固な堤防を築き、その上に松を植えた。
村人たちは、「今後、どんなに大きな津波が来ても、この松の根を越すようなことはない」という願いを込めた。
松の根を越さない
根越さね
ねこざね
 
・・・という由来なのだそうだ。
 
 
がびーん。猫と関係なかった!
 
でもたぶん、猫実は猫が好きなのだろう、とわたしは開き直っている。
なぜなら、

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こういった屋根付きの猫スペースが少なくとも2つはあった。

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キャッツ!

Suki

 

「とまれ」のデザインがネコ科!

などなど、枚挙にいとまがない。

猫実はきっとこころのどこかで、猫を意識しているに違いない。

 
さて、ごはん。
猫実川暗渠沿いの食べものやさんたちをご紹介。

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本流暗渠に面して入口を持っている、スペイン料理屋さん。

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千葉で一番の品ぞろえのワイン。千葉でここでしか飲めないビール、など。
 

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しかしながらなぜか、スペイン人の腕利きシェフが辞めたばかり、かつ、新しいシェフが来る直前、というタイミングで訪問してしまった。パエリアは出せないというので、カルボナーラを食べた。
丁寧に作ってあるカルボナーラ。おいしかったですよ、とても。でもパエリアも食べに行きたいところ。
 

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支流暗渠沿いには蕎麦屋もあり。「ちんねん」さん。
飲める蕎麦屋さんでもあり。
せいろ、田舎、変わり(この日は大葉だったかな?)の三種盛り、に、とうもろこしのかき揚げをつけて。おいし!

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さきの蓋暗渠の延長上、東西線の高架下も川跡ということになる。
良い感じの店が並んでいるのだが、なかでもこの立ち飲み「づめかん」が実によかった。

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「パンの串焼き」というはじめての食べものをいただいた。
おもしろかった。そしてアリだった。他にもいろいろとおもしろい店。

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そして「ミー太郎」。
これもまた用水路跡沿いにある。しかも、「ミー太郎」ですよ。

このトーク時はわたしは「気になっている」と言っただけで、フロアにこの店をご存知の方がいて、「昔は看板に猫の絵がついていた」という新情報を得たのでした。

 

さてさて、暗渠沿い飲み屋「ミー太郎」と猫の関係やいかに?!

この「ミー太郎」潜入情報についても4日に、簡単にレポートしたいと思います。

ではでは、事前学習その1でございました。その2は、間に合えばまた書きたいと思います。

<文献>
・秋山武雄写真集「浦安 青べかの消えた街の時 17歳からの視点」
・「浦安町誌」
・「浦安の歩み」
・「浦安の民俗」
・三谷紀美「浦安・海に抱かれた町」

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香港暗渠さんぽ

暗渠さんぽ、久しぶりの海外編。
 
タイトルのとおり香港の街中の暗渠を追う記事を書こうと思う。が、その前に、マカオと中国珠海市にも触れておきたい。
 
まずは中国、珠海市。
マカオから徒歩で国境を越えられるので、半日ほど行ってみた。地形的には平坦なところから、水路の出処と思しき丘を目指し歩き始める。すると、

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予期していない場所で、このようなコンクリート蓋に出逢った。

うわ!日本と似てる!SUGEEEE!
蓋を見ただけで着火。

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おわ!道路を横断してきて合流してる・・・!!

早くも興奮が最高潮。さまざまな角度から写真を撮り始める。

が、しかし・・・数分後、あることに気付く。

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あれ。

これ、電気・・・。

ザザー・・・と、水が引くようにテンションが下がるのがわかる。(いや別に電線が嫌いなわけじゃないんです。水路ほど情熱が向けられないってだけで。)

他の蓋やいくつかの条件から、電気の蓋であることがほぼ確定した。なんということだろう。
奇しくもこの日は雨。こんな、隙間から水が入りまくるような構造で大丈夫なんだろうか・・・

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ともかく、珠海の街中では、このようなコンクリ蓋をかぶせて、電気が走っている。

この写真なんて、川じゃないのに優雅にカーブまでして・・・

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ちなみに雨水用の側溝の蓋はこういうものだったが、あまり見かけなかった。

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状況が分かってくると慣れたもので、このような景色を見てもハイハイ電気ね・・・と、心が揺るがなくなる。日本だったら、「キャー水路の立体交差!!!」と、大興奮するはずなのだが。

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そんなわけで、マカオの街中(競馬場前)でこのような蓋を見つけたときも、

「ハイハイ電気ですね」

と、かなり軽く流してしまった。そしてこれは、たしかに電気であった。

・・・こういった流れのなかで、香港を訪れた。珠海よりもマカオよりも、高低差が身近にあり、暗渠の出現に期待できる都市だ。

地図を眺め、「ありそう」な場所を見つけた(ちなみに日本国内ではマピオンやらさまざまな地図アプリを見比べるのだが、海外ではグーグル先生一択。そしてこのグーグル先生、暗渠探しの上では、非常に扱いづらい)。

遡っていくと、ここに到達する。おそらく水源だ。

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                     googlemapより

 

小西湖。
九龍塘という駅が最寄。日中に来ることができず、20時頃の到着となった。

大きなショッピングモールを抜け、湖のあたりに来るも、真っ暗で何も見えなかった。ただ、ザァァ・・・という、音だけはする。割と多くの水が、湖を出て谷を下る音だ。

 

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谷が公園(歌和老街公園)になっているようだが、用心のため通るのは止めた。
九龍塘駅前に戻ると、谷底らしき位置に、このような蓋があった。

しかし、これまでの流れからいって、わたしにはこれは電気だとしか思えない。
もう騙されないぞ。まったく紛らわしい場所に・・・ブツクサ言いながら遠目から写真を一応撮って、去った。

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谷は感じるが、暫く谷底らしき部分を辿ることはできない。大きなビルの敷地になっているからだ。
達之路という広い道路を渡ると、公園(桃源街遊楽場)になっている。ここは、流路のはずだ。右手には崖が見える。
この公園の感じは、日本の緑道と似ており、少し暗渠らしいといえる。しかしその先、再び川跡は暫く辿れなくなる。中学校の敷地になっているようだ。その、学校の敷地というのも、また、暗渠らしいことである。

・・・で、水源以来、地形だけをたよりに歩き、もんやりと暗渠らしさは感じつつも、決定的にはっきりとした暗渠サインには出会っていなかったところ、

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それは突然現れる。
渠務省の看板!
 
きょむしょう!!(と、広東語ではもちろん発音しないのだろうが。)
 
河川管理課とか、そういう感じだろうか。「渠」がこんなに公に使われているだなんて、感動的である。
この渠務省の看板の奥には、水防関係の施設があるようだった。地下に潜っていく道路がうっすら見え、どぶの匂いが盛大にした。わたしにとっては、暗渠であることを裏付けてくれる、うれしい匂い。

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水防施設の上は、グラウンドになっていた。これも日本と似ている。グラウンドには入れなかったので、脇の道を下ると、・・・また、あった。そして、この下からも、強いどぶの匂いがした。

もしかしてこれ・・・電気じゃなくて水路なのか?

ただ、この向きはちょっと事態をややこしくする向きで、本来の川筋に向かって斜めになっている。支流暗渠か、はたまた・・・??

いずれにせよ、この下には水が流れているようであった。香港にも、コンクリート蓋暗渠は存在する。

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暗渠蓋のすぐ近くには、さきほどと同じ渠務省の看板があった。なるほどここにある施設は、地下調整池のようだ。しかも、比較的新しい。
ここで、九龍塘駅前で軽く流したあの蓋も・・・と、後悔が押し寄せてくるが、戻るわけにもいかない。
 

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その先、また名を変えて、公園(界限街遊楽場)が続く。
 
この公園には屋外卓球台がどっしりと備わっていた。そして、多くの大人が卓球に興じていた。このとき、21時~22時くらいではなかったか。他のスペースでも、大量の大人が、ベンチに座ってしゃべったり、何かのカードゲームをしたり、遊具(健康器具様の遊具なのだ)で熱心に体を鍛えていたり・・・とにかく、人が多い。
 
そして、夏にこれだけ暗渠に人がたむろしていても、彼らは蚊に刺されない。というか、蚊がいないのだ、暗渠なのに!
これは日本の暗渠との物凄く大きな違いである。この時期に暗渠上の公園でくつろぐなんて、(蚊が)恐ろしすぎてわたしにはできない。

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公園の名がいつのまにかまた変わった。「洗衣街」が横にあるので、こんな名前となっている。洗衣。もちろん、広東語で洗濯、クリーニングの意だ。
 
それにしても児童遊園と名はつくものの、完全に大人の遊び場と化している、というのはおもしろかった。

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その先、太子道西を渡ればそこは、水渠道、という。
 
この川を見つけるとき、最初に手掛かりとなったのが、(google mapではなく)ガイドブック上に見えた僅かな池のようなものと、ひとつだけ変な角度に伸びている空間と、この水渠道という表記のコンボだった。

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水渠道の様子は、こう。

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でも暗渠は、たぶんこちら。道のすぐ脇にこのような空間があった。

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その立ち入り禁止空間の先に、公共の建物があった。
リサイクルごみの収集所、といったもののようだった。公共の施設ということ、それとごみ置き場ということ、それらもまた、日本の暗渠サインに似ている。

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その先は、川跡上がきれいな緑道になっていた。
繁華街のなかにある緑道。その整備されたての感じや、広さや、ひとびととの関係が、渋谷川っぽいなと思わせる一角。

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緑道には、謎の金魚オブジェ。

・・・川に因んでいたらいいなあ。

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延長線上にこんなものがあったので、水門か?と思ったら換気塔だった。

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喚起塔から道路を渡り、ふたたび学校の敷地となって、建物のない一角が斜めに続く。

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旺角道遊楽場上の斜めの区画に出てきて、公園の脇にはまたもごみ収集所だ。

なかなか日本の暗渠サインと重なりが多いので、うれしくなってくる。ただ、足はだいぶお疲れ。おなかもすいてきた。

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道端にあった簡単な食堂に入る。
言葉は通じない。ビールを頼み、あと、適当に餃子っぽいものを指さして頼む。

・・・すると、餃子だと思ったものは海老ワンタンで、期せずして香港名物の海老ワンタン麺が来た。

15年前、わたしはその食い意地ゆえ、「海老ワンタン麺を食べに」この地に来たことがある。むかしは1杯100円で、それをTVで見、とても魅力を感じたのだった。うれしくて、何杯も食べた。
いまの香港では、どのような店でも100円の海老ワンタン麺など出していない。500~700円くらいだろうか。

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さて、暗渠の続き。

今度はわかりにくく、長旺道という幅広の道となる。

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と、その道の最後で、あの蓋が現れた。やはり、どぶの匂いとともに。

そのさき、太い道路を渡るが、夜市にも行きたいので、ここまでで追うのをやめた。

 

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                        google mapより

暗渠のルート(一部)を、水色線で示す。
このように、地図上でもここだけが浮いていて、川っぽいことがわかるだろう。

このさき痕跡は減るが、海へ向かって流れているようだった。

さて、この暗渠の名前はなんというのだろうか?
広東語も出来ないし、香港で文献に当たることはできなかったので、あまりやりたくないけれど、今回はwikiに頼ることとする。

wikiに名前が載っていた。「花墟道明渠」という水路であったらしい。もしくは、旺角花墟道明渠。延長210mという短さと、この名称からして、この水路のほんの一部だけを指す名称のように思う。

あの屋外卓球台が設けられていた公園の隣の道が「花墟道」なので、おそらくあの連続する公園のあたりにかつてあった開渠のことをいうようだ。下水が流れ込むようになり、臭気が問題化したため、2008年までに蓋がけされたようである。

わりと最近のこと・・・!

wikiの写真を拝借する。(出処はこちら。)

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まさに蓋がけの最中の写真。

川全体を通しての名前は、見つけられなかった。小西湖からはじまり、その後姿を見せないこの川は、少しずつ暗渠にされてゆき、残る部分は地名を冠された明渠となっていた、ということだろうか。いくつかのポイントはまだ新しかったことから、2000年以降に着手されたものも少なくなかったのかもしれない・・・

wikiのリンク先「二十年代九龍地図」には、この川がはっきりと載っている。また、支流のようなものも見える。

暗渠蓋の隙間から流れ出る臭気になんとなく日本の1960年代を思った、香港の繁華街にある暗渠。・・・また行く機会があれば、今度は支流も辿ってみたい。

 

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地獄谷、あの日の記憶

「あの日」のことを、明瞭に語れる人は多いだろう。

それから、その場所を通ることで、関連付けて「あの日」を思い出すことも。わたしにとって、そのような場所はいくつかある。

あの日。
わたしは職場にいた。当時の職場は、文京区にあった。

あの時間のことをここで詳細に触れるつもりはないので、大きく省略して書いていく。

職場の敷地で最も広いところに、大勢が集まっていた。緊急放送が流れる。わたしは郷里のことばかり考えていた。放送の声は落ち着いていたが、論理的には矛盾していた。横で後輩が、「この放送が言っていること、論文だったら不採択ですね。」と言ったので、思わず、笑った。彼はきっと、大物になるんじゃないかな・・・なんとなくそんな気がする。

しばらく時間が経ち、歩いて帰ることになった。ざっくり言って同じ方向のひとたち、4人で職場を出る。わたしは暗渠を書き込んだ、紙の地図を持っていた。あまりにも繋がらない電波に、とっくに携帯の電池は切れている。あんなに紙の地図に感謝したことは、後にも先にもない。

九段下で、南へ行く二人と別れた。残る同僚は神奈川の人で、あまり地理がわからないようだったから、兎に角渋谷まで案内することにした。
通りは花火大会のようなありさま。わたしはなんとなく一本裏道を歩きたくなった。そして、以前から気になっていた「あの道」に同僚を誘った。

そこは谷なので、避けたほうがよかったのかもしれないと後にして思う。でもわたしは、崖線の話などに反応してくれるその同僚に、地形や暗渠の話をしながら歩きたかった。不安に直面したくなかったのかもしれない。結果、わたしたちはノンビリと裏道を歩き、気になっていた谷をのぼり、鮫河谷を横切り、そして明治通りで別れた。

あのとき、谷が思っていたよりずっと早く谷の形状でなくなってしまったことは、ずっと心のどこかに引っかかっていた。

わたしが「あの日」を思い出す「あの道」のひとつは、ここである。

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靖国神社付近。2005年からこの近くに仕事で来るようになり、そして、誰に問うでもなく、気になっていた谷だ。

千鳥ヶ淵に向かって、その谷は落ちている。

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千鳥ヶ淵側はこのようになっている。ここにだけぽっかりと団地がある。
(現存するか確認していないが、この写真は2014年のもの。)

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この給水塔も、周辺からすると異色の存在だ。

二松学舎大学の横の道から、目指す谷に入る。

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しかし、あっというまに谷は消えるのである。
たしかこのあたりにはもっと大きな谷があり、そこの下流部であるとばかり思っていたから、どうも辻褄が合わなかった。

その後、3D地形図を自分で見られるようになり、わたしの脳内地形図が間違っていたことが分かる。ここには3つの谷があるようで、二松学舎脇は、その北端のものだった。

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赤丸部分がさきほどの谷(「スーパー地形」より)。川もあったかもしれないが、とくに名付けられた文献をみたことはない。

この、十手みたいな形をした3つの谷は、内堀の形成と深く関係している。
これらの谷にあった川を堰き止めて、千鳥ヶ淵ができたという。江戸城以前は、城の内部を抜ける形で流れていたのではと推測する人もいる。地名として江戸以前から局沢というものがあり、川は局沢川と呼ばれる。この谷は、局沢川の支谷といっていいだろう。

ある日、ふと思いついたことがあった。それを確かめるために、千鳥ヶ淵でボートに乗った。

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ボートで探検したところ、さきほどの局沢支谷の先と思われる位置に、合流口があった。・・・本当にあるとは。
これには、かなりの感動を覚えた。地形は今もなお生きていて、時折、流下した雨水等が、ここから千鳥ヶ淵に注ぐのだろう。その流れは、大昔と同じルートかもしれない。

さて、「大きな谷があったはず」と、わたしに思わせていた別の谷も、確認してみたい。

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もっと深い谷は、すぐ南にあった。

 

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赤丸部分。さきほどの谷とは、比べものにならないほど深い。
そして、千鳥ヶ淵に食われてしまっているので、最下流部がさきほどの谷と異なる位置にある。

まずは、この谷の河口を見にゆこう。

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千鳥ヶ淵に向かう谷筋が見える。冒頭の谷よりも、凹凸としてはだいぶ緩やかだ。

ここの合流口は、ボートに乗らずとも見ることができる。

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フラップゲートがちらり、と見える。この季節は春だが、雑草ですでに隠れ気味なので、冬にゆけばもっとよく見えるかもしれない。

残念ながら、千鳥ヶ淵のボートでは行けない場所だった。

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高速道路に阻まれてしまい、おそらく何者も入れまい。

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その高速道路を含んだお濠と江戸城敷地、後方のオフィスビル群はハイブリッドで、いかにも東京な景色をつくりだしている。

中世以前にはあった流れの名残も、僅かに足元にある。
明治の頃、このへんで近所の子どもたちは釣りをしていたという。主にフナが釣れ、巡査に追い払われながら、遊んだそうだ。

さまざまな時代が交叉する。

・・・さて、局沢川を遡上しよう。

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大妻女子大エリアにやってくる。大妻の体育館は、まるまる谷底にある。すっぽり。
大妻の交差点から南北に延びる坂は、徳川家の厩舎があったため「御厩谷坂(おんまやだにざか)」と呼ばれるのだそうだ。馬が足を洗った池もあったという。
これらと関連して、この谷自体も御厩谷、とも言われることがある。

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主に住宅街だが、ぽつ、ぽつと大妻関連の敷地が続く。
いつのまにか両側の崖が立派になっており、ときどき目に入ってくる。

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その立派な崖には、すてきな階段が。

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ここはなんだか好きな階段なのだ。細い家もかっこいい。

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九段小学校のプールの前。やはり谷底に近い位置にプールは設けられている。

ちなみにここの公園にある高架水槽、

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色といい錆といい、激しく格好良い。

ここで谷はクランク状になっており、そのまま遡ることはできなくなる。いったん、坂道を上る。

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谷の敷地に学校が相次ぐ。千代田女学園。

この谷は、三番町の谷、とも言われる。大妻に千代田女学園、女子学院も隣にある・・・なんとも女子教育に彩られた谷である。

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テレビ局跡地が広い駐車場になっていて、その少し手前から谷は曖昧になっていた。
途中の崖の険しさにしては、どうもアンバランスな結末、という気がする。

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もう一本、南のものも辿らねばなるまい。
ここは局沢川の本流と言っていい大きさだ。
一番町の谷。それから、地獄谷、樹木谷、黄金谷、小粒谷、などとさまざまな名がある。「麹三渓の記」で三丁目谷、柳川と書かれているものもこれであろう。普段は4~5尺幅の小流であるが、大雨時には洪水となり、床上浸水となることもあったようだ。

河口は1つ前とおなじ。

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ちなみに、河口近辺に、珍しい段差スロープの集合体がある。

歩き出してみると、この谷はほぼまっすぐ、ずっと道路になっている。

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谷底喫茶店。店内にはウーパールーパーがいて、急激に昭和に引き戻される感覚。ナポリタンを食べたが、まだ先に行きたいのでここでは割愛する。

他の局沢支流が住宅とオフィス(含む教育施設)だらけなのに対し、この道は最も飲食店が多く、暗渠めしに困ることはない。

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唐突に甲斐犬が現れた。

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山梨愛にあふれる、Kaijiというレストランだった。

ほか、欧風カレー、フレンチ、創作イタリアン、中華、立ち食い蕎麦など、なんでもござれだ。

「紫の一本」で地獄谷として紹介されるこの地は、「昔この近所にて倒れ死ぬもの、成敗したるものをここに捨つ故、骸骨みちみちたりし故名付く」という、怖く、寂しい場所である。想像することが難しいくらいに、異なる風景である。

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あっというまに上流端にきた。
このあたりはおそらく、神楽坂へ移動した善国寺があったため善国寺谷と呼ばれたり、柳川の名のもとになった柳橋が架かっていたあたりではあるまいか。

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奥のあたりで、やんわりと谷は尽きる。
その区割りや雰囲気に、なんとなく川跡の感じはあった。

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明治期の地図でも、3つの谷のうち、ここにだけは流れが描かれていた(「東京時層地図」より)。「三丁目の下水」と言われている。

 

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ただ、この地形はかなり弄られているはずだ。付近では富士見地区(九段南3丁目)に貝塚があり、この谷が古代に水田として利用されたらしいとうことから、谷自体は古くからあっただろう。しかし外濠を作る際に出た土でこの局沢谷を埋め、宅地にしたという記録もある。江戸以前の地形が分かる史料にたどり着けず、もどかしいのだが、ここにはもっと深い谷があったのだろう。しかし、埋めて浅い谷にしても、そこに水の流れは、残らざるを得なかった。

さまざまな時代に、思いも交叉する。都心の暗渠、って感じだよなあ・・・

さて、ゴハン。

局沢谷ではよりどりみどりである。みたび河口に戻り、

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見晴らしの良いレストランにしよう。二松学舎大学の、最上階へ。

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ランチは日替わりのハンバーグや、カレーなどがある。きれいで、なかなかおいしい。時間が遅かったため人がほとんどおらず、所謂大学の学食とはなにもかも異なる雰囲気を堪能した。

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食後にかわいらしいケーキまでついてくる。

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二松学舎ビュー。
最上階のハンバーグは気に入って何度か食べている。地下に学食があり、そちらはまさに食堂で、「これこれ、こういうのでいいんだよ」と、学生に混じりながら味噌ラーメン、ハヤシライスなどを食べた。

もうひとつ局沢谷にある大学といえばここ、大妻女子大学の学食にも潜入する機会があった。

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こちらも地下であったが、名物らしいホットサンドの具のバリエーションがすばらしい。スープセットにして手作りプリンも付けたこと、具の片方がグラタンらしいこと、以外、忘れてしまった・・・食い意地が張っているはずなのだが、数年たつと記憶が薄れるらしいデス・・・

この記事は、前記事同様、「よいまち新聞」配布に絡めて描いたものです。そろそろ次号の配布に切り替わっているかもしれません。そのときは、「よいまち新聞」で検索をかけてみてください。きっと「大手町暗渠ロジー」も、出てくると思います。

<文献>
・「わが町あれこれ」
・「明治百年古老のつどい」
・「千代田区史」

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清水谷、谷底で飲む水

本当のところ、江戸の内側は苦手だ。
それなりに谷があり、暗渠だって存在するというのに、江戸をつくるさいに随分と土地が改変されているから、地形に対する鼻の利きが悪くなる。調べることは大好きだが、私の興味の中心は明治期までであり、読みにくい古い文字を、漁って読む気もあまりしない。特に千代田区なんて、皇居の関係か下水道台帳の秘匿エリアが多いため、気になる吐口を見つけても、台帳を開いて「ああっ(わかんないんだった)!」となるときのムナシサを思うと、いったい自分はどうやって戦えばいいんだ、という気持ちになってくる。
しかし、正体不明ではあっても、そこにあるうつくしい崖や、湧いちゃった水や、気になる地形は辿らざるを得ない。まして都心の谷は、さまざまな所用のついでに寄りやすく、つまり、やっぱり良いものなのだ。
 
上智大学の裏側で出会うこの崖は、なかなか凄い。
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これもよいのであるが、あるとき、そのさらに下の、壁が剝き出しになった駐車場に目が吸い寄せられた。

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こういった「現代の遺跡」には、なぜか心躍る。

遺跡も含め、ここは清水谷、という谷である。
 
Smzmap4

                                                       カシミール3Dより

上智大の裏から赤坂見附に至る、ごく短い谷だ。今回は、清水谷を練り歩くとしよう。
 
上智大の奥にまわり、坂道を下る。
 
Smzkabe2
 
この擁壁は圧巻。
昔はさぞ暗く、怖い道だったのではないかしらん。
 
じっさい、清水谷の一角にはこんもりとした森があり、戦前までは子どもが寄り付けない雰囲気を放っていたという。
もう少し下の清水谷公園は、小泉八雲「むじな」の舞台でもある。商人が女性に、「こんなところにいては危ない」と言いたくなるような、人気のない、さぞ恐ろしい場所だったのだろう。
 
それから、場所が曖昧ではあるのだが、カレー屋のみえるあたり、このあたりに江戸初期、遊郭があった、とも言われている。こんな傾斜地に?まあ、川沿いではある。ここ麹町遊郭をはじめ、3か所の遊郭が吉原にまとめられたのだそうだ。
麹町遊郭は、もとは京都から移転したものといい、吉原に移っても「京町」なる一角を形成し、京都出身ということに誇りを持っていた。大見世があったのも京町。吉原の区画では、もっとも奥に位置するものである。
 
下ってゆけば、視界が開けて冒頭の駐車場のところにくる。いつの間にか、駐車場には入れなくなり、工事らしきものが始まっていた。
なぜか「だし」の自販機がある。
 
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清水谷公園にさしかかる。

「清水谷」の由来は、この谷に柳の井という井戸があり、清冽な水が絶えず湧いていたことからきている。その井戸のイメージが、公園の中に設置されている。
 
Smzido

「八丁目続き、今の麹町谷町と称する地なり。古は67丁目の地はすべて清水谷と称せしか、四ツ谷御堀の揚土をもて78丁目の地を埋めしといへる也」

河内全節「番街誌略」によれば、これでもこの谷は江戸期に埋められている。もう少し、上に続きがあったかのようだ。
 
Smzmap3

東京時層地図((財)地図センター)、「文明開化期(明治9-19年)」を見てみる。冒頭の駐車場の位置に、池がある。そして、谷底に細い細い流れがあって、弁慶堀に注ぐことがわかるだろう。

Smzmap

同じく東京時層地図にて、大正5~昭和2年を見ると、このころには水路はなくなったかのように見える。

 

Simizukasai

ところが、それよりも後のはずの火災保険特殊地図(1953~55年)を見ると、流れは残っている。上流部など、道を逸れて敷地に食い込んでいる。

 

川、というには、細すぎるだろうか。
この清水谷には、明治期にも、昭和に入ってからも、流れが見られた。地形としては江戸時代に弄られているはずだが、それでも残る高低差に、水は絶えず湧かざるを得なかったのだろう。
 

しかしこの谷、じつに短い。
もうそろそろ、河口だ。
 
現在は「東京ガーデンテラス紀尾井町」が建っているが、これもごく最近のこと。
建設中は、赤プリ時代の写真なんかが、工事現場の壁に貼られていた。
 
Smzpool67

そこから拝借。おお・・・赤プリのプール、お濠の上じゃないか。景観を意識してのことかもしれないが、水の流れ的にも正しい位置だ。などと、思う。

 

そのお濠、弁慶堀は水面の残る貴重な場所。
 
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弁慶橋が架かる。

 

Smzbenkeibasi

ただしこの弁慶橋、もとは神田藍染川に架かっていた、とどこかの文献で読んだ。

 

弁慶堀には釣り堀があって、ボートに乗ることができて、ここだけ昭和の空気が漂っている。清水谷を流れてきた川の、河口の痕跡が見えないだろうか。雨水の合流口がぽっかりと在ることが、まあまあある。暗渠を歩くときには、できるだけ河口まで見ておきたいものである。
そう思って、ボートに乗りに来た。
 
Simizukakou_2

うーん・・・アレ・・・かな?

 

判然とせぬまま。
まあ、ボートでくまなく探索したので、これで良し、といたしましょう。
 
さて、ごはん。
清水谷の、井戸から湧き出す清水は、道行く人たちののどを潤していたという。
しかしその、のどを潤すものは、水だけではなかった。
 
ビール。
 
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前掲の地図の、行政裁判所と清水谷公園との間に、ビール工場があった、という。
明治期の地図に、工場のようなマークが入っている。大きな池のような描写も、恵比寿にあったビール工場のそれと似ている。
 
そのビール会社は、「櫻田麦酒会社」といった。
横浜で創業された、わが国最初のビール工場の代理店であった会社が、ここ紀尾井町に醸造用水等の理由から工場を移転。明治の、ほんの一時期、こんなところにビール工場があったのだ。
のちのアサヒ・サッポロの前身、大日本麦酒になってゆく会社である。
 
明治10~20年代の国産ビールといえば、この櫻田と、浅田であった、という。
浅田。
それは中野にあり、本ブログでもだいぶ前に桃園川支流の記事で話題にしている。
そして、前掲の地図に、伏見宮邸、という文字も見える。加藤清正の下屋敷が井伊家中屋敷となり、伏見宮邸となって、現在はニューオータニである。そういえば、中野にも伏見宮別邸があった。そして伏見宮別邸の近くには、浅田ビール工場があった。なんだか、ビールに縁のあるおかたで・・・
 
今は工場はないけど、ビールはある。
清水谷の暗渠がちょうど見える位置に、オーバカナルがある。
すばらしいことに、「牛肉のビール煮」もあった。
 
Beer

 

ビール煮、うまうま。
目の前に湧水と水路があり、左上の崖の上にビール工場があった。
とっくのむかしに、それは無い。
でも清水谷の谷底には、いまでも良い水があり、道行く人の喉を潤している。

 
さて、この記事は「よいまち新聞vol.3」に寄稿した、「大手町暗渠ロジー」という記事に合わせて書いたものです。
大手町ホトリア地下にあるよいまち、という飲食店街のラックにて、よいまち新聞配布中ですので、ぜひそちらも読んでみてくださいまし。
 
Yoimati

 

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