1-9 さんぽ:その他の暗渠

杉並区外の暗渠

三軒茶屋を流れるもの

 

三軒茶屋に行くと、「弟を心配する自分」を思い出す。

 

Taisi5

 

年の離れた弟がいる。

年が離れているから、ろくに喧嘩もすることなく、なんとなく仲良くやってきたように思う。

弟には、なんとなく深く悩んでいそうな時期があった。

そのころ彼は、三軒茶屋に住んでいた。

わたしは親の心配なども背負って、ときどき弟に会いにいき、一緒にご飯を食べたり、買い物をしたりしていた。 

 

だから今でも、三軒茶屋は「弟を心配する自分」の空気が残っている街だ。弟はとっくに転居し、もうそこに住んではいない。彼がこの街に居ないことを、なぜかわたしはさみしく思う。そして、たいした用はなくっても、たまに訪れてしまう。

 

田園都市線の改札を出て、246を歩く。茶沢通りを進んで下の谷商店街を歩いてもいいのだが、弟の家に行くときにみつけた、ある暗渠を歩きたいので、246を歩く。

 

Taisi8

 

テル子支流と呼ばれている暗渠だ。はじまりの細い路地が、いつの間にか綺麗になってしまっていた。

 

Taisi7

 

この細い路地が、たまらなくいい。

Taisi4

 

その先少し幅広となって、弧を描く。そこにあるテル子女神像が、この支流の名前の由来。といっても、適当に呼んでいるだけだけれど。

 

この暗渠が合流する先にあるのは、烏山川である。立派な緑道となっている。

 

 

この「三軒茶屋あたりの烏山川」のことを、三好達治が描いている。

 

ある年の5月に、三好は散歩に出かけた。5月は散歩に良い。三好は「とある大通りの、そこからその道の向こうがゆるやかな谷底になって」、川のありそうな場所に出る。家が途切れ、麦畑になる。

 

三軒茶屋の駅近辺に向かおうとする際、烏山川を渡る。

「そうした私は橋板のつぎはぎだらけな木橋の太子堂橋というのの上に立ちどまった。水の音がさらさらと声をたてている。そのせせらぎの起こっているところは、そこからずっと上流の方へかけて見通しになっていて、その両岸からここではまた鮮やかな緑の枝がところどころ危うげに傾きかかっているのが眺められた。」

Taisi2

 

なかなか風情ある景色・・・しかし描写はこのようにつづく。

 

「それは一寸洒落ていたが、けれどもその下を流れる水量の乏しい水は真っ黒な汚水で、汚水の臭気は橋の上の私までは届かなかったけれども、夏蜜柑の皮のいっぱい散らかっている間から起こるそのせっかくのせせらぎの声は、やがて私に戦慄を伝えないではおかなかった。」   三好達治「東京雑記」より

 

 

麦畑と鮮やかな緑の並ぶ川沿い。

しかし、川はくろぐろとしている。

 

あのときの弟は、くろぐろとしたものを抱えていたのかもしれないが、それをわたしに直接見せることはなかった。ただなんとなく、感じ取ることはあった。あのとき、わたしはもっと水面を見なければならなかったのだろうか。わたしたちは、好きなゲームやマンガ、最近作った料理の話、弟の家の近くの猫の話、そんな話ばかりしていた。

 

いま、烏山川はまったくそのころの面影をとどめていない。きれいな緑道になっていて、その装飾が想像させようとしているものは、澄んだ水が流れていた頃の烏山川なのである。実際は下水が流れているのだが、きれいに蓋をされ、安全にガードされている。

 

Taisi3

 

 

いま、弟は、わたしよりはるかに頼れる人物になっており、みなにやさしく、しっかりとした社会性をもっている。わたしが心配されることさえある。弟はいつのまにかおそらく、くろぐろとしたものを、乗り越えていたのだった。

 

三軒茶屋に行くとかならず寄る店がある。あの三角地帯の中華饅頭屋、包包。この店も、弟が教えてくれたもので、彼は海老包が好きだったらしい。この日は高菜と角煮入りまんと、なにも入っていない包と、春巻を買った。

Taisi10

 

 

何故わたしは、弟がこの街に居ないことをさみしく思うのだろう。もしかしたら、わたしは弟を心配するという、長子らしいことをしたかっただけなのだろうか。その役目を果たせたのかどうかも、よくわからない。

 

たぶん、わたしにとって三軒茶屋はいつまでも、「弟を心配しに行く街」なのだ。

弟はもうそこにはいないのだけど。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3月イベントのお知らせ

3月後半、いくつか暗渠のイベントをしますので、ぜひいらしてください!
1つめ。 3月20日(日) 昼
西荻ラバーズフェス の古本屋ステージにて、
11:15頃から、
「ロスト・リバー・ハンティング~暗渠道入門」(トーク&ツアー)
少しだけ暗渠の話をして、1時間半ほどのツアーを行います。
ツアーは、フェス会場から始まって2か所の用水路暗渠(六カ村分水)をたどり、その地のむかしに思いを馳せるもの。特別に潜入?する場所もあります。
10~15名ほど、参加費無料。
当日会場で希望者を募りますが、予約者優先、予約されたい方は西荻案内所まで。
2つめ。同じく3月20日(日)夜は、
「観光まちづくりシンポジウム すぎなみ「道草のススメ」 桃園川と飲み屋街散歩」
というトークをします。
午後5時 ~ 午後7時
開催場所:細田工務店リボン館2階(阿佐谷南3丁目35番21号)
内容:杉並区内に迷宮のように広がる桃園川(暗渠)と中央線沿線に今も広がる風情ある個性的な飲み屋街をテーマに、歴史的背景から生み出される個性的な「まち」の形成について各専門家による独自の視点からお話し頂きます。
申込:当日、直接会場へお越しください。
講師:吉村生(暗渠研究家)、髙山英男(暗渠研究家)、小川勝久(マイタウン阿佐谷協議会会長)、森口剛行(阿佐ヶ谷飲み屋さん祭り実行委員長)、松原隆一郎(杉並まちなみ愛好家・東京大学教授)
定員:120名(先着順)費用無料
3つめ。3月21日(祝)は、船橋にて、
「暗渠マニアック!+千葉スリバチ学会 滝口さんと歩く城門川」
というまち歩き。
集合場所:飛ノ台史跡公園博物館(※)の入り口前に午前10時集合。
※東武アーバンパークライン(野田線)「新船橋駅」から徒歩約8分、東葉高速線「東海神駅」から徒歩約12分、京成線「海神駅」から徒歩約15分。
小雨決行(悪天候の場合の中止連絡は千葉スリバチ学会のページで行います)、途中参加、途中抜け可、参加費無料です。
午前の部 集合10:00 @飛ノ台史跡公園博物館
飛ノ台史跡公園博物館の山本さんに公園内、行田海軍無線塔跡地、日本建鐵跡地を説明していただきながら散歩をします。その後、昼食休憩。
午後の部 再集合13:00 @飛ノ台史跡公園博物館前
船橋地名研究会会長の滝口さんによる説明を聞きながら、城門川を水源から下ります。
申し込み不要。午前か午後どちらかだけの参加も可能です。
4つめは、3月22日~29日。
「松庵川展」を、西荻案内所で行います。
こちら、会期中にさまざまに形を変える、いきもののような展示になりそうです。
詳細は追って。
4月5月も予定あり、後日お知らせします!

| | コメント (2) | トラックバック (0)

滝口さんと歩いた宮本川

お久しぶりの更新は、いつのまにやら大晦日。

2015年は、暗渠を通してさまざまなひとたちと出会い、新たな試みをおこなうこともできた、実に幸せな年でした。暗渠マニアック!発売以降、いよいよ日々の発信が出来なくなってしまいましたが、何かしら「貯めて」はいますので、ごゆるりとお待ちいただければ・・・と思います(すみません)。
2015年最後の記事は、暗渠マニアック!的宮本川ツアーの、後日談とします。
船橋の章は、現地の往復、そして郷土史家による文献を読み漁って書いたものでした。もっともお世話になったのが、滝口昭二さん。実に幅広く地元の歴史をしらべ行動されているかたで、調べたい事項は必ず滝口さんの文献に行き当たり、思いつくルートは必ず滝口さんが既に歩き記しているという、まるでお釈迦さまのような存在だったのでした(笑)。
宮本川ツアーの準備をしているとき、どうしても一目見たい、と思った古地図がありました。その地図をもとめ、お寺や小学校を回っていたら、なんと滝口さんに紹介していただける、という巡りあわせがありました。そして初対面はいきなり、宮本川を滝口さんと一緒に下る、という、ミニイベントに発展したのでした。
滝口さんはたいへん気さくな、そしてわかりやすく魅力的なお話をされるかたで、もちろん知識は豊富、手製の地図も丹念で、探究者として自分のモデルにしたい、と強く思いました。そしてなにより、ご一緒した宮本川では見えていなかったこと、周辺情報、生きた情報、さらなる深堀を経験できたのでした。
過去記事と重複するため、宮本川の詳細は省きます。以下、宮本川記事の補足を兼ね、新発見を羅列したいと思います。
まず、上流端の池についてはあまり変更はありませんが、高根道までの水路は、滝口さんでさえも「はっきりとはわからない」とのことでした。わたしが推している日枝神社下の小溝は、「湧水や雨水排水路があったかもしれないが、本流とは言いがたいかも」という推測でした。高根道に沿った流れ、ということがやはり有力であるようです。
最大のおどろきは、わりと初っ端に起きました。
その高根道を過ぎた場所もわたしにとっては不明瞭で、地元の方がガストの脇を流れていたよ、と仰ったことのみが得ていた情報でした。
滝口さんは、ここに「2流ある」と仰っていました。その片方は、
Miyar2
ここだというのです。
暗渠サインばかり目指してしまう自分としては、これほど「匂わない」場所はありません。ちょうどこの1ブロック隣に、いかにもあやしい細道があるのですが、それは「以前銭湯があり、通路として貸されていた私有地」で、暗渠ではない、ということでした。
かといって、ここだとは。一人で来たら確実にスルーだと思います(してました)。けれども逆さU字溝の隙間から覗き見れば、たしかに空間が残っていました。
しかもなんと、所有者とお知り合いだということで、奥の敷地にまで入れていただけました。
Miyar3
するとそこには、
開渠が。
Miyar4
まさか、こんなに立派な開渠が。ええー??
こんなことが、あるのか。千葉スリバチ会長と、高山氏とともに大興奮して写真を撮りまくりました。
それから、
Miyar1
まいまいずマンホール(もしくはスリバチマンホール)の通りが水路である可能性は薄そうです。既に並行するものが2本あり、ここの道路に水があった記憶があるかたはいませんでした。
この日、奥にあった神社は、きれいに散髪されていました。以前はもう少し広かったのだとか。
Miyar5
ガスト脇の暗渠がでてくるところ。先ほどの開渠との合流部でもある。
ここは以前も暗渠であろうと推測していた場所だったのですが、そこに滝口さんの記憶が合わさると、見え方がまただいぶ変わります。
ここに、たしかに開渠があった。そして、ドブの脇には細道がついていて、そこをよく歩いていたのだそうです。小学生のころの、滝口さんが。(脳内CGでどうぞ。)
おつぎは、わりと好きで毎回撮っていたここ。
Miyar6
ここは水路ではない、と通りがかりの人から言われてしまいました。奥の家(現在は廃屋)への入り口だったと。
たしかに、住宅地図を見ても、ここに水路マークはつねに無いのです。滝口さんも、そうかもしれないと思ったこともあるが、ちがうようだ、といった結論のようでした(はっきりとは否定されないところがお優しいのです~)。
が、小学校脇を進むと、
Miyar7
ここが小学校の排水路なのでは、ということでした。これは見逃していた!
宮本小学校の敷地に入れていただいたさい、小学校の縁のところには、ちいさな側溝がありました。もと水路かどうかは、なかなか判定の難しい雰囲気の側溝でした。
しかし、この排水路暗渠が存在することで、さきほどの家への入り口と言われた小径とここはつながり、となるとさきほどの空間も、傍流であった時代があるのではないか、と思わされるのです。傍流の存在は、小学校の敷地が複雑なくねりを見せている理由にもなるのではないか、と。
などと、往生際が悪いですが、ここはもう少し課題とすることにして。
宮本小の中には、砂山がふた山あり、上に墓地があった時代があった、なんて話をしたと思います。前校長の山本さんに教えていただいた情報でした。
その名残、もうないと思っていたら、いまもありました。
Miyar8
墓地井戸、と呼ばれていた(る?)そうです。
墓地で用いる水を供給していたのだとか。
それから、
Miyar9
小学校の向かいにはほんの少しだけ、墓地の名残がありました。
嗚呼、川沿いだけを歩いていたからどちらも気づかなかった。砂山の上にたっていた墓地群。いまは写真でしか拝むことができませんが、すべてが消えていたわけではなかったのでした。
Miyar10
もう少し下ったところ。文具店脇からザクザクっと入ると、変わった車止めがありました。
この「ザクザク入る」は、なかなか勇気がいるものです。しかし滝口さんは天晴な行動力の持ち主でした。また、お知り合いも多いので、「○○のところの滝口です」「あらぁ、どうも」と怪しまれることもないという。
Miyar11
下流部。
ここも滝口さんはザクザクと分け入っていきます。つられて我らも入ります。
滝口さんの旧地名、小字名、通称名などとにかく千葉の豊富な情報をお持ちです。いったいどうやってそれらを調べ抜いたのか、その術をいつか知りたいと思っていました。なんとなく、この行動力は一因であるような気がしました。
河口までいき、漁業権の話、ホテル市松の話、いろいろうかがって、名残惜しくも解散しました。むかしの街並みがより見えてくるような、たくさんの情報をお土産にいただいて。
さて、ゴハン(これ久しぶりw)。
市川の駅前、「かっぱ」で焼き鳥。
なぜ市川にきたのかというと、「市川真間に砂山の名残あり」と教えていただいたからです。宮本小にあったという2つの大きな砂山は、現在しか知らぬ者にとっては信じがたいものです。少しでも想像する手がかりを得ようと、滝口さんと別れたあと、市川真間に寄りました。・・・そこでの経験のことは、またいつか。
Kappa

かっぱは、市川駅前を見渡したときそこだけ空気がちがっていて、なんとも気になるお店でした。入ってみたら中にかつての市川の鳥瞰図があって、あれこれ復習ができてすごく良かったです。
中も外も、とても風情がいい。
にんにくしょうゆたれで、焼き鳥を数本。ビール。
ぷはー・・・やっぱいいよなあ、バーチー。
そうそう、今回の行程です。
Photo
カシミールスーパー地形セットを触ってみたかっただけです。
宮本川のため、いったい何度東船橋に行ったことだろう・・・
わたしが幼い頃に見ていた東船橋とは、まったく異なる、世界の見え方でした。
Miyar12
おまけ写真。ずうっと時をさかのぼって、於東船橋。いとこと公園で遊んだときのもの。残念ながらこの公園がどれなのか、記憶にありません。土管のある公園、当時はよくある景色でした・・・
それなりに親しみのあったこの地、自分で探ることもとてもたのしかったけれど、滝口さんと歩くことも、ほんとうにたのしかった。滝口さん、山本さん、お世話になり、ありがとうございました。

そして最後に、お知らせがあります。
現在、滝口さん、そして山本さんにご協力いただく暗渠ツアー(+α)の企画が進行中です。
タイトルは、「暗渠マニアック!+千葉スリバチ学会 滝口さんと歩く城門川」。
日程はちょっと先ですが、2016年3月21日、海神あたりを歩きます。
詳細は今後、いくつかのSNSも使いつつお伝えしてゆきたいと思いますので、ご興味おありのかた、どうぞよろしく!
この宮本川ひとつとっても、御礼を言いたいひとは山ほどいます。書ききれないほど本当に、たくさんのかたがたのお世話になった1年でした。
あらためて、どうもありがとうございました。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

暗渠蓋コレクションvol.3

あまり記事が書けないので、気まぐれにかんたんに更新しておきます・・・

                                              ***

No.7
蓋に蓋。

わたしたちはやや昔、汚い川、邪魔な川、危ない川たちに、蓋をした。
蓋をしたその場所は道路や、子どもの遊び場や、駐輪場などになった。

いま、東京では現役の川の真上に高速道路が走っていることもある。
そんな、高速道路の裏を見上げて、「あ・・・蓋」と、思うこともある。
広い意味では、蓋をされていると言ってもいいのではないか、と思ったりもする。

Huta7

ここの谷沢川は、子どもの遊び場と駐輪場となった暗渠、その上を覆う高速道路と、すべてが揃っている。
蓋の上に、さらに蓋。暗渠のエリート、みたいな場所なのかもしれない。
立派に残る橋の欄干も、心なしか誇らしげに見える。

(世田谷区玉川台2丁目)

                        ***

No.8

ゴミ置き場蓋。

川崎あたりではよく見られるゴミ置き場蓋。だけどもここは杉並区、松庵川の中流部。
コンクリ蓋がゴミ用に仕切られるという、ちょっと珍しい光景だ。

Huta8

手前のコンクリ蓋と、奥のコンクリ蓋との会話に、耳を傾けてみよう。

手前「アタシんとこなんて、毎日まいにちゴミが置かれてさあ、クサくてたまったもんじゃないわよ。」
奥「でもアンタ良いじゃないの、そのおかげで時々ニンゲンに掃き掃除してもらえるんだから。アタシたちんとこ見てごらんなさいよ、砂とか埃とか、ほったらかしでボサボサよう。」
手前「そういえばそうねぇ。どっちもどっちだわねぇ、アハハ!」

(杉並区宮前3丁目)

                        ***

No.9

スベリ台蓋。

Huta9


西荻窪にある謎の多い暗渠のひとつ、城山下支流(仮)には、こんな場所がある。
直角に流れ進む暗渠の、あるところはコンクリ蓋だし、あるところはアスファルト蓋なのだけれど、ここだけ、入り混じっているのだ。左側の家の要請でアスファルトを盛ったのが、一部で良いという判断か、節約か。

それがちょうどよい塩梅の傾斜で、わたしはいつも、冬になると実家の庭につくっていた、雪のスベリ台のことを思い出す。
ゆるやかな、ちいさな、わたしだけのスベリ台。
ミニスキーを履いて、気持ち良く滑るのだ。

ここに雪が積もったら、見に来てみよう。


(杉並区西荻北2丁目)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 船橋市場編

また間が空いてしまいましたが。バーチ編、今回は船橋にもどります。
船橋駅から線路沿いに東へゆくと。

Iti1

海老川が見えてきます。
海老川は堂々たる開渠なので、今回の目的地ではありません。しかし海老川の支流に行きたいので、海老川沿いに遡っていきます。
「市場小」なる表記が見え、おもしろい名前だなあ、などと思っているとこの辺の左岸はそもそも住所が「市場」なのです。おもしろいなあ。

すると、

Iti2

船橋中央卸売市場が見えてきます。

今回は最初に、まずここで朝ゴハンを。

Iti3

この市場、ぜんたいに年季が入っていて、この食堂エリアの店々の佇まいなんて非常に好みです。

ど ・ こ ・ に ・ し ・ よ ・ う ・ か ・ な 。

Iti4

いいお顔のお店が何軒もあって迷いましたが・・・、なんとなく、大乃家にしました。
魚系のメニューが充実していそうな雰囲気。で、お刺身の定食にしました。色々ある中から、マグロとホタテを選択。

Iti5

うま!!!これが非常にウマかったんです。
もう前すぎて値段の記憶が・・・700円前後だったんじゃないでしょうか?たしか。
朝ルービー、卯の花、手作りっぽい白菜の漬物。いずれも美味。なにより、ホタテは新鮮ぷりぷり、マグロは何種類か選べたので2種類頼んだ気がするんだけど、これがまたイイやつ。通常はわたしは新鮮じゃないと食べにくいアジもむしろおいしいと感じ(=とても新鮮)・・・兎に角コスパが良かった。

これまで、暗渠さんぽのついでに”市場めし”ってちょくちょくやってきてるんですが、いまのところ、(関東では)船橋市場のめしが最高!です、実は。これはまた来たい・・・近くだったら通うレベルだわ・・・

ふぅ、力説してしまった。思い出したらまた行きたくなってきた。

・・・ゴハンのためだけにこの地に来たわけではありません。
この市場は、海老川沿いにあるだけではなく、今回見たい海老川支流「市場川」の上に建っているものでもあります。

少し、この土地のことを。むかしは一帯を「五日市」といいました。
船橋大神宮のおひざ元、室町時代のいつ頃からか、このへんには5の日に市が開かれたといいます(駅近辺は9のつく日だったので九日市)。「市場」という住所になったのは、昭和40年代のこと。ということは、「市場川」なんていう名前で呼ばれたのも昭和40年代以降なのでしょうか。

むかしは5のつく日だけに立った市。いまはねんじゅう開いている、市場のある場所。

この船橋中央卸売市場の東側は、以前は「城ノ腰」という字名でした。今昔マップon the web にも、

Konjaku

城の腰松、が載っています。左上の水車も気になりますね。
平将門の腰掛の松、という伝承が残っているとか。

また、ちょうどこの場所、中世の城館跡の可能性がある、というのです。市場造成(史料には工場と表記)は昭和14年らしいのですが、それまでは市場の敷地に土塁状の土手があったそうです。
中世の武士の城館!・・・これはすなわち暗渠サインです。
とは思ったものの、この地は年代によって海になったりもするところ。中世の前半、夏見台地の南側には夏見入江が広がっており、標高からいって城ノ腰の西側は水際であったとされますから、この城の濠は川ではなく海、海城であった、ということになります。

Itibainnei

陰影図(google earthさんありがとうございます。赤丸内が市場/城ノ腰)をみてみても、少し高いのがわかる。市場をつくるために盛ったわけでなく、天然で高い、というわけです。むしろ土塁等が削られ、以前より低く均されていることでしょう。

Itukaichi        「写真でみる船橋1 五日市」より

五日市の小字の地図でも、城ノ腰だけ小高いことがわかるような、特殊なかたちをしています。
この城館に誰が住んでいたかも(そもそも城とも確定していない)わかりませんが、松戸の史料に出てくる「船橋の海賊」ではないかとか、峰台城の出城ではないかとか、ロマンいっぱいの想像をしている人もいたりします。

さて、この場所に流れ込んでくる川が見たいんだった。

Iti6

市場から、通りを挟んですぐ、開渠が顔をのぞかせます。これがウワサの、市場川さん。
船橋市のウェブにも、普通河川として載っています。

Iti7

振り返ると、市場の壁が見えます。
いま見えている開渠が、市場川の目視できる最下流部ということになります。

Iti8

遡りましょう。

Iti9 

意外にも、微量ではあるけれど、わりと清らかな流れがありました。

Iti10

家々の間をハシゴ式開渠が縫っていきます。

しかしこれ、暗渠さんぽになってないぞ。

Iti11

小さいバケツ。
ひとびとの生活感とともに。

Iti12

僅かに橋。

Iti13

植木置場とか。

Iti14

やっぱり、さらさら流れてる。

こんな平地で、どこからくるのか?排水なのか湧水なのか?この水路、なにものなのか。

Iti15

曲るときもある。

Iti16

看板、誰が見るんだろうあの向きで。

Iti17

と、唐突にきました。蓋暗渠。
なんだか新しいです。

Iti18

横には支流らしきものも。

Iti19

囲われ暗渠。なんだか、ピシっとしています。

Iti20

と思ったら、また開渠になりました。

Iti21

細い支流もありました。

このすぐ隣のブロックに、市立船橋高校が建っています。市船といえばサッカー。
先日TVで、ペナルティのひとが、市船サッカー部は過酷なランニングのすえ、近所のドブ川の水も飲んだ、などと回想していました。聞いていてまっさきに思い浮かべたのはこの市場川。海老川の水は飲む気にならないけど、市場川の水なら、これなら・・・いや、どお腹こわさないかなあ・・・。

Iti22

本流は開渠のまま、しぶとく水を湛えています。

Iti23

あ、未舗装暗渠に変わった。

Iti24

いいかたちになってきた。

Iti25

いよいよ、狭くなってきた。

Iti26

以降は明確な暗渠はなくなって、地形的にたぶんここ、というところ。

でもそれまでで、上流端は見失います。

Iti27

ぐるぐる歩きます。このあたりかなあ?

Iti28

夏見台地の麓の(つまりこの崖の下の)湧水をあつめた流れなのかなあ、などと推測しながら帰ってきました。

ちなみにこのとき、非常にトイレに行きたくて、しかしなかなか近くに無くて苦心しました。わたしには暗渠と食事をセットにしないと気が済まない一方で、お腹を壊しやすいところがあります。ですからトイレの存在は大事。千葉では、トイレ難民になることが少なくないから、慎重に行かねばなりません。ただし、千葉のコンビニのトイレは、個室が広かったり、個室が2つあったり、シャワートイレだったり空気清浄機がついていたりと、快適なものが多い気がしています(都心だとトイレがない/使えないこともありますからね)。これをわたしは、”千葉の余裕”と呼んでいます・・・

Iti29

・・・なんの話だっけ。

そうそう、もうひとつ、帰り道に見つけた謎の空間があったのです。
まっすぐまっすぐ延びる、暗渠様の場所。

近づいてみると、

Iti30

またこれだ。
千葉編を書き始めて何度か遭遇している、陶器片が敷き詰められた空間。最初、「麻雀杯か!?」と思う癖が抜けません。

Iti31

ここは陶器片だけじゃなくって、いろいろと変わってました。

謎穴から飛び出ている何かと、それを守るものたち。

Iti32

落とし穴w
ちょうど、やってきた方向に延びているので、これをたどって家路につきました。

さてさて。
これで終わり、とお思いでしょうか。暗渠率も低かったし、最後の空間も謎のまま。
実は、ここの取材はしてみたものの、どうもパンチに欠けるなあと思っていて、それでお蔵入りにしていました。その後、別な調べものをしていると、少しずつ情報が増えてきました。

城ノ腰のところで触れましたが、大昔この地の海岸線は現在よりもずっと北東にありました。現在開渠で海老川に合流する飯山満川、前原川は合流せずに個々に海に流入していたといいます。そしてそれらの河口には三角州が形成され、城ノ腰付近まで伸びていった。そして城ノ腰が前述のように小高くなった。そして、その後この地は海ではなくなります。田圃のひろがる低地になったのでした。

船橋の郷土史家滝口氏は、このあたりの用水路を抽出した地図を作成しています。それを見ると、現存しない水路が東西にたくさん走っています。田圃を潤していた無数の路です。
船橋の田圃のうち谷津田の多くは台地の麓から湧く水(シバレミズという)を用い、標高の高い方に用水、谷の中央に悪水路がある。今回の舞台になっている場所はその東側に宮本台地があり、宮本斜面には”飯山満川からの引き水が目立つ”と滝口氏は描写します。

ハテ。飯山満川はもっと北東を流れているのではあるまいか。
どうも、飯山満川から引いて来た用水というものが仮定されていて、その用水が宮本斜面に沿って船橋大神宮のほうへと、南北に走っているようです。前掲の城ノ腰松の傍にも水路らしき線がありました。
そこからの分流が、いくつも西流していくというわけで。城の腰のまわりもぐるりと用水路が走っていました。

Zentaimap

ここまで書いてきたことをプロットするとこういった感じ。
オレンジ点線が飯山満川から引いてきた用水路、現在はほぼ道路で、その対になっている悪水路が海老川といえましょう。こうやって陰影図をみていると、いまもいちめんの田圃であるかのように錯覚してしまいます。

最後に見た謎空間(黄色点線部分)は、田圃への用水路だったろうと思います。ただし、前述の用水路ではなくもっと北から引いてきた流れだと思いますが。
田圃がなくなったいま、車道にもならずにあんなふうに残っている、これも暗渠だったのか(似た空間は他にもあります)・・・

Iti29

滝口氏は次のように続けます。
”市立船高の北側から北は市場通り、西は農協のあるあたりまでは傾斜も少ない土地なので比較的早くから水田化し、台地麓の湧水で間に合っていたのではないか。”

この場所は、ほぼ市場川の流域のこと。

用水路たちが無機質な直線であるのに対し、市場川がこんなに曲がりくねっているのは、湧水たちがこの傾斜の緩やかな場所で彷徨った証ではないでしょうか。

市場川、中世のころは城の周囲をとりまく濠としての機能はあったかもしれない。
その後、田園地帯だったころは、夏見台地の湧水を湛えた用水路だったのではないでしょうか。もしかすると、いまも、流れているのは湧水なのかもしれない・・・

この、新たに知った歴史のこと、地形のことを思い浮かべながら、またあの流れる水を見にゆこうと思います。またおいしい朝ごはんを食べて。

寝かせていた千葉もの編、今回は軍事が出ませんでしたが、次回はがっつり触れることになる、はず。気力があれば、そうします(笑)

<文献>
「写真でみる船橋1 五日市」
創立50周年記念船橋市立宮本中学校「わが宮本」
滝口昭二「夏見低地の水田化について」史談会報第25号
長谷川芳夫「船橋地誌 夏見潟を巡って」
「船橋のあゆみ」
「ふるさとの地名~船橋・鎌ヶ谷の地名の由来を探る~」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 海神編

だいたい、名前からして、かっこいい。

海神、だなんて。
駅名にもある「海神」は、むかしから路線図で見るたびにキュンとしていた地名。あまりにかっこいいので、近年できたものかと思っていたほどでした。

ところが意外に「海神」は古くからある名で、太古の人たちが海の平安と大漁を願い、この名をつけたのだといいます。日本武尊が「海から上がった神を祀るところ」とした、という説もあります。

海神周辺もまた古くから人が居たようではありますが、農地と塩田が多かったそうで。それが大正期に海神駅ができると次第に宅地化されてゆき、なかでも「海神山」と呼ばれる砂丘は、東京湾や富士山の見える風光明媚な高台であったため、軍人あるいは外国の武官・留学生などが多く住んだのだそうです。馬具や馬、サーベルのガチャガチャする音などがよく聞こえ、それゆえ「将軍山」と呼ばれることもあったとか。
そんな海神山は、昭和5年(8年説も有)には「海浜別荘地」として京成電鉄により分譲され始めます。周囲からみると、憧れの土地だったのかもしれません。

・・・さて、暗渠さんぽの舞台は、もちろん高台なんかではありません。その海神山の、麓が今回のメイン。城門川、です。

Jomoninei

新船橋の南、海神の北。このあたりのおはなしです。google earthさんありがとうございます。

城門川の水源は、「飛谷津」にあります。
海神山(右岸)と反対に位置する隣の台地上(左岸)を、飛ノ台といいます。遺跡が有り、縄文時代から人が住んでいたことが明らかになっています。
この飛ノ台はおそらく飛谷津から影響を受けた名ではないかと思われ、「飛谷津」の指す意味は、トビ=ドブ=低湿地、と推測されています。実際、宅地となる前は一面の水田だったそうで、それは昭和23年の米軍撮影航空写真でも確かめられるようです。

それでは飛谷津の最深部までいってみましょう。

Jou1

確認できる限りの上流端はココです。(この手前は、地割の感じも違います。)

Jou2

蓋に沿って入ってゆくと、この位置で暗渠は太くなり、しかし入れなくなります。
自転車か何かが入れるようにと、手づくりの橋様のものが渡してあるんですがね・・・それを、さらに手づくりのフェンスで食い止めてあるのです。いったい何と何の攻防なのか・・・

Jou3

入れないので、仕方なく、交叉してくる道路から城門川を眺めます。
いま、立っているところが盛土で高くなっていて、

Jou4

道路を越えると、すんごい渓谷みたいに見えますが、これはおそらくほとんど盛土のせい。

それを証拠に、この一角を抜けると、

Jou5_2

唐突に平坦になります。

矢印のあたりを、奥から城門川が流れてきて、右に曲がっていきます。

Jou6

そして矢印の位置を下っていきます。歩道のように見えますが、先を見ると、ところどころ行く手をガードレールにふさがれています。この不自然さがまさに暗渠。非常に歩きにくいw

ここから暫く、城門川は鉄塔地帯の下を流れます。頭上も足元もたのしめる、というわけ。

Jou7

おそらく右手の植込み=川跡で、ここで道路を斜め横断します。

ここで、もうひとつの支流が写真左方向から合流してくるようです。そちらに向かうと・・・

Jou8

突如、マンションと海神中学校グラウンドとの間におおきな荒れ地が出現します。囲われていて入れませんでしたが、湿地のようにも見えます。

Jou9

そこから乾いた川跡が延び、

Jou10

畑の間をクランクで縫って、

Jou11

そして鉄塔下に在る本流に合わさります。

この支流の方がむしろ、

Hinodaimap

開渠として地図には載っているのでした。googleさんありがとうございます。

さて本流はどうしているかというと、

Jou12

ここでは鉄塔の下を通っているようなんですが、・・・ん、洗車場?

Jou13

それは地元のタクシー会社の簡素な青空洗車場で、それで、どうも排水は真下の城門川に行くような・・・この大きな鉄板は暗渠蓋のような・・・きっと、少し前はもっとあからさまに開渠にドボドボだったのでは??

Jou14

と、興奮もつかのま、普通の歩道になってコンビニの前を素知らぬ顔で通過、

Jou15

したものの、わりと速効でそのお化粧は剥がれてしまい、奴さんスッピンは恥ずかしいとばかりに、そそくさと曲がって道路を再横断しようとします。

Pan

ちなみに再横断するあたりにピーターパンがあります。
もやさま船橋でも出てきた(クイニーアマンを自作していた)、船橋の有名パン屋さん。この日もやたらと大勢の人でにぎわっていました。駐車場も広く複数あって・・・大人気のようです。
ちょうどこの日、別な暗渠を辿ってから飛谷津にきて、若干疲れていたところ。何か食べようかな・・・というか、涼を求めて(暑い日でした)、店内に入り、パンを物色しました。でも(暑かったので)結局買わずに、サービスの麦茶だけ飲んで出てきてしまいました・・・ゴメンナサイ。後日、JR船橋駅ナカにある支店で、ちゃんとパン買って帰りましたよ!

Jou17

ピーターパン以降は、道路沿いにしばし進みます。
こんな風にマイ橋跡を抱えながら。「公園と道路の間に水路があります」と書かれた文献もあるので、開渠時代はそう遠くないのかもしれない。

奥にチラリと見える公園は、海神蛇沼公園。旧小字で南沼ともいわれる場所です。
蛇沼という沼がかつてここにあったことは、江戸期の史料にも書かれています。

そしてその先、東武野田線の高架を潜った直後から、城門川の流路は複雑になってゆきます。

Jou20

これまで、道路に沿っていたものが唐突に曲がります。右側の駐車場のアスファルトと川跡の境界線に、僅かに木の板が挟まっています。

Jou21

そして未舗装暗渠となって家の間を抜け、

Jou22

追っていくとまた鉄塔が出現。

Jou23

砂利道で素朴に続きます。

Jou24

そしてふたたび東武野田線の高架に向かいます。

Jou25

しかもこんな入り方・・・まさかの左折です。川なのに鋭角なんですけど。

紅鉄板蓋が連なっていますが、紅いじゅうたんに見えてきます。

Jou26

曲ったら高架下を数メートル進み(ここは妙にきれいなので近年までは開渠だったと予想)、

Jou27

こんな変な溝を拵えた後、また直角に曲がって、

Jou29

高架から出ていきます。

この屈曲部について、低地であるのにこんな風に河川が曲がる要因は無いこと、以降しばらく谷地形ができていないことなどが、自然河川らしくないと物議を醸しているようなのでした(後述)。

Kukkyokubumap

赤丸部分が屈曲部。

たしかに、その前後に比べてごにゃごにゃしている箇所です。そしてたしかに高低差が殆どない。それを証拠に、このあたりを辿るときはわたしも何度か気づかずに暗渠を逸れていました(気づかないほど、他の道も暗渠らしかった。後述するようにこれが灌漑用水なのだとしたら、もしかすると間違えたと思った道も用水路だったのかもしれない)。

Jou31

その先、アスファルトの道路ではありますが、”ゆるアスファルトやや硬め”みたいな硬度となり、

Jou32

こんどは京成本線のガードに突っ込んでいきます。

”京成線のところではレンガ積みトンネルが現役で残っている”、という記述が複数あるんです。だからそれを見られると思っていたのだけれど・・・、名所!と、楽しみにしていたけれど・・・、うぅ、新築の家に阻まれて見ることが出来ませんでした。。。以前、ここには家が建っていなかったということでしょうか。。

Jou33

反対側も、レンガトンネルの期待を込めて見に行きましたが、此方も確認できず。恨めしや。

Jou34

若干の失意を胸に下ります。右の道路が城門川。

Jou35

カラリとした暗渠みちをすすんでゆき、

Jou36

こんどは総武本線を越えます。・・・東武線を潜り、東葉高速鉄道の上を越え、再び東武線を潜って、京成線を潜り、JRへ。線路を跨ぐこと5回。

さすがに総武本線はぶっといですね。線路の向こう側、隙間があるのがわかるでしょうか。

Jou37

地下道をまわり、そのあたりに向かうと、おっと、祠がありました。

Jou38

いえ、正しくはその奥を流れていました。じっとりと。

Jou40

と思ったのもつかのま、今度は千葉街道から分岐した道により分断されます。

Jou41

回り込むと、似た感じで再開。こっち側は入れるようです。

Jou42

すごい入っちゃいけない感ありますけどねw

でもここ、入れてよかったです。下流部のクライマックス、見どころの連続でした。

Jou43

洗濯ものと植栽。ええ眺め。

Jou44   

縦置き。(他所で既に縦置きを見てはいたので慣れつつありましたが、縦置きってチバらしさでもあると思っていますw)

Jou45

横から観察できるー。

Jou46

・・・で、またしても阻まれる。今度は千葉街道です。

Jou47

反対側の出口は法務局の敷地で、入れないので上から眺めます。

Jou48 

ここから、いろいろ合わさったり別れたり、開渠になったりと複雑な動きを見せますが、

Jou50

流末は稲荷澪へ向かう、とされています。ここをこう下って、海に向かう・・・。

                       ***

今回追うことができた城門川の暗渠は、概ねこのような流れ方をしていました。しかし、この川は、もともとは北流して長津川に合流していたのが、南に流路を変えられて稲荷澪に流れるようになった、と推測している人がいます。

Jomoninei2

ピンク色の方向がもともとの流れと推測されているものです。

船橋で精力的に活動をされている滝口氏による推測であり、なかなか説得力があります。

縄文海進でこの飛谷津の谷が海に沈んだとき、沿岸流が砂州を形成。それが今この辺りに名残る微高地であり、これにより飛谷津の開口部は北に変わったのではないか。
出口が砂州で塞がれた内側は、低湿地になった。それでも小河川はでき、北流していた。
前掲の航空写真の飛谷津内の水田は、城門川に沿って北に延び、そして、長津川の水田地帯へと連なっている。
さらに、小字も飛谷津から北に向かって「南沼」「北沼」「内田」と配列されている。

具体的には、前述しましたが東武の高架線以降がアヤシイ、ということです。その先が、飛谷津の排水と、南側低地の水田を潤すための人工河川ではないか、と。そしてある時期からは都市排水路となったのではないか、と。

寛政12年ころには、既に城門川は用水路として史料に登場しています。ただ残念ながら、開削に関する記録は見つかっていません。いっぽうで、(流路変更を想定しない)自然河川説を唱える人もいます。論争の決着は、ついてはいないようでした。

                        ***

さて、ゴハン。今回はB食~。

Sramen

船橋産B級グルメ、ソースラーメンなり。

ソースラーメンプロジェクトにのっかってみました。そして、レジェンド店大輦でベーシックなものをいただきました。なんとも不思議な響きのラーメンですが、食べてみるとほぼソース焼きそばの味、違和感のない味でした。食べやすかった。ただ、ハムカツは中濃ソースの方が合うな・・・。

プロジェクトに参加している、新しめの店の創作ラーメンたちも、気になっているところです。船橋の知人には別なラーメン屋さんや、喫茶店のナポなども勧めてもらったので・・・コリャもっともっと麺類を食べにゆかねばなりませんね。

                         ***

城門川。そのほとんどが「海神」の中だけを通る川でした。
兎に角いろんな線路・道路を潜りまくる暗渠。
壮大なコの字ウォークの連続。
人工か?自然か?そんなことにも思いを馳せながら、いつもより感覚を研ぎ澄ませて微地形を歩くにも、おススメの一本です。

<文献>
「船橋の地名」 第12巻3号
「西海神小学校創立五十周年記念誌 ひとみ輝く西海の子」
滝口昭二 「本海川」と「城門川」 史談会報第23号
長谷川芳夫 滝口昭二氏の本海川人造説について 史談会報第24号

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 東船橋(宮本川)編

久しぶりの更新は、溜まりに溜まっているチバ編。
この地は、明治以降にしぶしぶ発展してきた杉並と比べるとずっと歴史あるところであるからか、おもしろい史料がたくさん出てきます。

以前、船橋の史料にて「花輪を流れる川があった」という記述を見かけ、旧地名花輪の地図上にひとつだけ開渠(実際は暗渠だろうけど)を見つけ、それで、歩きに行きたいな、と思ったのでした。花輪川というのかぁ、と思いながら歩いたその暗渠は、チバ暗渠のダイナミックさを惜しみなく発揮する、じつに良いものでした。後日、史料をさらに読んでいると、どうもそこを流れるものは宮本川といわれるらしい、と気づき、船橋市の河川情報を見てみれば、花輪川と宮本川、両方書いてあります。・・・まだ、花輪川の特定ができていないけれど、今回は「宮本川」を辿ることにします。

舞台は東船橋、旧五日市村の一部。

Map1_3               google earthさんありがとうございます。

東船橋には叔父が住んでいるから、小さな頃から何度も来ています。
いつも猫を数匹飼っている叔父さん宅。東船橋駅からそう遠くないその家への道のりはとくに起伏はない記憶で、駅前は現在だいぶ店が増えたけど、むかしは何もなくて、なんとなく淡白なエリア、という印象でした。

そのエリアに、暗渠がある・・・今回は叔父の家をスルーして、水源へと向かいます。平坦な地形は駅前だけで、数分歩くと規則的だった地割も変化し、たしかに下り坂があらわれる・・・

Miya1

下っている途中、気になったのはこれ。道祖神社。
この地に悪いものが入ってこないよう、守る神様なのだそうです。立替の時、いろりの下から金のわらじが二足出た、というはなしもあります。

まもなく水源に着きます。

Miya2

周辺を歩き回れば、この場所だけまぁるく凹んでいることがよくわかる。

Miya3

ここがおそらく、底部分。

道路の感じも不自然。
そして傍らには、神社がありました。

Miya4
厳島神社。地元の人は弁天様と呼んでいたらしいです。
疣(いぼ)神様、とも言われたここの神様は、美人だったが疣があり、皆に笑われていたため、疣がある人を治すことを誓った、といいます。付近のひとは、疣ができたときにお参りにきたり、疣がとれたらさし(?)を奉納しにきたそう。
旧宮本町に弁天様がここ1つしかないのは、浅間神社の木花咲邪比命と美を競ったから、といわれる・・・などなど、こんなちいさな神社に、ずいぶんといろいろな伝承が残っています。それほど、ここには昔から人びとが住み、賑わっていたということなのでしょう。

ここにむかし、池があり、小川が流れ出していました。
まさにここの旧小字名は「池ノ端」。いまでも、アパートの名前や、公園の名前に「池ノ端」は残っています。
池は、幅50m、長さ150m、深さ6~7mの大きさだったといいます。
江戸期に堰き止められてできたのではないか、と考えられています。湧水があったような記述もあります。・・・宮本台区画整理事業のさいに、この池は埋められ、今は湧水の一滴もありませんが。

ここから流れ出した小川は、このような地形を流れ進んでゆきます。

Map2_4

岬には日枝神社があります。
住宅と日枝神社の高台の間を、宮本川は流れていました。

Miya5

上流は暗渠に入り込むことができませんが、うろうろしてみると少しだけ。たとえば、駐車場の端っこに気配があります。

この、宮本川の西の台地を峰台といいます。
高い位置に峰台小学校があります。かつて船橋が入江だった時代、現在峰台小のある位置に慈雲寺があり、そこの鐘が江戸川に沈められたことが”鐘ヶ淵”の由来になっているという言い伝えもあるほど、立派なお寺であるようです。大峰山慈雲寺というその名は、峰台という地名のもとにもなっています。里見合戦にて焼失、いまは台地より少し下の位置に移ってきていて・・・友人のはからいで、この慈雲寺にお邪魔する機会があって、そこでお話を聴いたうえ、あつかましくもお子さんの社会科の教科書「わたしたちの船橋」をいただいてきてしまいましたw。ありがとうございます。

さて、宮本川は相変わらず、あまり姿を見せてくれません。

Miya6

おそらくここの下を流れているかな、という場所。
ららぽーと御用!

このお店の下流ではいよいよ、宮本川を見失ってしまいました。
谷底を歩くも、どこもただの道路。

Miya7

さまよいながら、やっと見つけました。宮本小学校の近くまで来たところ。

宮本小あたりの旧小字は、ずばり「小池」といいます。
かつて宮本小がここに移転してくるとき、「小池校舎」と呼ばれたとか、小学校の北側はむかし、道よりも少し低い土地で池っぽさが漂っていたらしいとか。傍らにある了源寺の地図には、「古池」と書かれた池の印がついているといいます。
ただし宮本小に関する資料を見てみても、ここが池であったとまでは書かれません。が、池を埋め(或いは埋まり)てできた、まとまった土地を小学校用地とすることは少なくはないわけで。

宮本川は、このあたりで池となり、そして「消滅していた」と記述されます。

はて?

これより下流=南側は旧小字名が花輪、すなわち台地を指す地名だというのです。また、小池は、谷が砂州でふさがれてできたものだ、というのです。
川として流れ出ずに「消滅していた」というのはどういうことなのか・・・?

水は、砂州の下へと浸透するかたちで流れ出していたのだ、といいます。

あ、そうか。

ここで思い出すのは、津田沼の庄司ヶ池。あそこは、大正期に排水路をもうけたものの、それまでは目に見える水の出口は無かったのでした。庄司ヶ池も小池同様、水は砂の層を滲むことで排出されていたのか・・・

思いもよらない、池の成り立ちと構造、共通点。偉大なる自然のちから。やはり、バーチはおもしろい。

宮本小学校の前、

Miya8

妙に広がった道路を目で追ってゆくと、

Miya9

ジャングルのような暗渠が出てきました。ボファァ。
この流れは小学校の校舎の脇をぐるりと囲むように(敷地は川に合わせていびつな形)下ります。暗渠脇にはすぐプール。

Miya10

見逃しそうになりましたが、今のもののほんの少し西にも一本、傍流がありました。

すなわち、現在は小池より下流側にも流路が認められ、宮本川は「消滅して」はいない、といえます。
しかも、2流。・・・ここらは、宮本川によって灌漑されていた田圃地帯だったのでしょうか。

そして、この付近で暗渠は存在感を際立たせてきます。
下ってゆけば、めくるめく暗渠ショーのはじまり!

Miya11

いきなりですが私的宮本川ハイライトの登場です。クランクしまくって、こうなります。
一段高いアスファルトに、直角曲がりに、立入禁止に、ゴミ捨て場に、なんか立派な朽ちた株!

Miya12

傍流のほうは、きれいめのコンクリ蓋がつづきます。

Miya13

橋のようなものも。

Miya14

おっと行き止まり。
暫く続いた一本道の果てという、この手の行き止まりが一番つらいですね。戻るにしても、アクロバティックに乗り越えるにしても。

Miya15

またなかなか入れなくなりますが、追っていくとココから出てきて、

Miya16

道路の左側を下り、

Miya17

ココで道路を逸れて突然の左折。

Miya18

とてもわかりにくいけど、ここを流れる。

どうしてわかるかって?

Miya19

ひっそり、護岸が残っているから。でした。

Miya20

その先はもっとすごいことになっていて・・・息を呑みます。これは、入れない。

Miya21 

と、下流に回ると、突然あたらしい未舗装の土地になっていました。
つい最近まではきっとぼっさぼっさに荒ぶる暗渠であったに違いない・・・その頃も見たかったな、と思いつつも、このくるくる変わる表情もカワイイな、と感じます。

Miya22

その先はこう、直角に曲がって。

というかこの道は、さきほどの廃墟から「回り込む」ときに、通ってきた道。最初に通ったときは、うっすらとこの左端のスペースに違和感を覚えた程度でした。それが、上流から脳内でつなげていって、ああここも川だったか、となったときは膝を打つどころではない「ああ!なるほど!なるほど!どうりで!」と大きな感動を覚えたりします。

Miya23

左折したら、また入れてもらえない。

Miya24

カクっと曲って、こんどは建設現場のトイレの下を通り、

Miya25

建設現場と道路を挟んだ向かい側に再出現するときには、新しいコンクリ蓋暗渠ちゃんになっていました。

Miya26

そこは整然。

Miya27

同じ行き止まりでも、こういう止め方はありがたいですね。

Miya28

コレ好きだなあ。いろいろな意味で。

しかも、

Miya29

ありがとう、ありがとう。

Miya30

その先、ここでぷっつり・・・

と思ったら、

Miya31

お向かいのここにつながっていました。これも、上流からつなげていかないとまったく気づけない在り方です。

ここから、よくわからない荒れ地に入り、

Miya32

いつか、近いうちに住宅地になってしまうのかもしれないような場所。この土地の真ん中を、宮本川は堂々流れていました。

今回はここで追うのを止めました。
この先が京葉道路で回り込むのが面倒、ということと、この下にはあまり素敵なものはないだろうと早合点したことが主な理由ですが・・・千葉街道を横切る小川があった、との記述を見つけ、やっぱり行けばよかったと後から思いましたが。ひとまず記事もここまで。

さて、ゴハン。

Miya33

船橋駅付近に、すごい大衆酒場があるんです。

Miya34

花生食堂。

セットじゃありません。ガチです。ものすごい風情あります。
大物感ありすぎて、ちょっとためらいもしたけれども、入りたい気持ちの方が勝って、ガラガラガラ・・・こんにちはー。

Miya35

まず瓶ビール。それなりに乾いて暑い日だったので、最高でした。
それから、カボチャの煮物。鮭の焼いたの。

ずぅ・・・・っとこの地で、がんばってきたのであろうテーブルに椅子に、それからガスコンロとか窓ガラスとか。何度も感動のため息が出ました。
雰囲気はとてもほのぼのとしていて、お店のおばちゃんと、常連のおっちゃんが2~3人。みなさん、船橋がいかに好きかというトークを繰り広げておりました。

というわけで、今回、軍跡はありませんでしたがご勘弁。
いやぁ、宮本川暗渠と花生食堂は、チバの宝だねぇ・・・

<文献>
・船橋の地名 第10巻1号
・   同   第12巻2号
・   同   第8巻4号
・宮本の歴史をつくる会会報3号
・        同       6号
・船橋市立峰台小学校創立25周年記念誌 みねだい
・写真で見る船橋1 五日市

| | コメント (4) | トラックバック (0)

狸蕎麦でたぬきそばをたぐる

蕎麦窪で蕎麦をたぐる」という記事を覚えていらっしゃるでしょうか。

江戸のころの地名”蕎麦窪”に行き、ここらへんで蕎麦が採れたんだね、なんて思いながら蕎麦をたぐってきましたら、”蕎麦”窪ではなく”(青梅街道の)傍”窪だった、という悲しき結末の記事を。
・・・案外、当て字であることもある、食べ物地名。

今回はなかばリベンジ的意味合いで、蕎麦窪記事の最後で触れた、ココに行きたいと思います。

もうひとつ、蕎麦がらみで今やりたいと思っていることは、古川沿いの”狸蕎麦”という旧地名の場所(狸橋付近)で、たぬきそばを食べること。

これですよ、やっとこさ。江戸地名”狸蕎麦”に、”たぬきそば”を食しにまいろうではありませんか。

・・・それにしても、”狸蕎麦”なんていう地名、ほんとにアリ?

Tanukisoba             「今昔地図」の「江戸」よりキャプチャ。天現寺橋近辺。

アリなんです。しっかりと狸蕎麦って書いてありますね。どのあたりのことかというと、

Tanukisobanow                   「今昔地図」の「現代」よりキャプチャ

現在はこんなです。港区白金。地名的には、広尾とか恵比寿とか元麻布とかに囲まれて。とうてい、狸さんとは無縁そうな場所。

最初に狸蕎麦という地名を知ったのは、「港区近代沿革図集」をぱらぱらとめくっていたときのことでした。

子どもを背負い、手ぬぐいをかむったおかみさんに、そばを売った代金が、翌朝見ると木の葉だった。誰いうとなく狸そばと呼び、評判だった。そばやの屋号が里俗地名となったものか。

こんなことが書かれていて。
麻布七不思議のひとつともいわれており、「七不思議」も、このへんてこな地名のつけられ方も、じつにわたしの気を惹くものでした。

しかし、麻布区史にある「七不思議」の項をみてみると、麻布七不思議なるものはあるけれど、書物により異なり、合計すると二十五~六不思議にはなるのだ、ということでして。狸蕎麦についても安定的に登場するわけではなく、しかも、文献により場所が異なっているのです。
山口義三「東都新繁昌記」では「古川の狸蕎麦」。
平山鑑三郎「東京風俗志」では「狸穴の狸蕎麦」といったぐあいに。

・・・はてさて。

まずは、狸穴の狸蕎麦に関する記述を見てみましょう。まみあな。まみは、魔魅なんて書くこともありますね。狸穴も、あやしくて好きな土地。
なんでも、狸穴下に蕎麦屋があったそうです。その名を”作兵衛そば”といい、色の黒い純粋なる生そばを提供し、好評であったけれども、いつしか廃業。大奥を荒らした狸穴の古狸が侍に討ち取られ、その霊を作兵衛さんが屋敷内に奉納したから、その名になったとか、とか。

一方、古川の狸蕎麦は、古川に架かる狸橋の近くにありました。というかむしろ逆で、狸橋が、近くにあった狸蕎麦屋にちなんで名づけられた、とされています。こちらのほうに、代金が木の葉云々の話がくっついてきます。
もうひとつ、狸塚があったとするものもあり、前述の狸穴の古狸がこのあたりに葬られたのではないか、と推測する人もいます。たしかに、狸塚は広尾にあったとする記述もあり、江戸期のここらへんは”廣尾原”。そう、前掲の古地図の地名”狸蕎麦”はちょうど廣尾原と隣接していて、この古川の狸蕎麦のことを指しているようです。

つまり、後者が地名としての狸蕎麦(蕎麦屋もあるが)。前者は蕎麦屋の屋号のみ、ということ?

・・・しかし、この2つの古狸伝説の地、地図にプロットしてみると、案外とおい。

Nikasho                 「今昔地図」の「現代」に、2箇所をプロット

なぜ狸穴の狸を、こんなにこっちまで埋葬しに来るのか・・・本当に、同一の古狸の塚なのか?と詰め寄られてしまえば、オドオドしてしまうだろうけれど、ともかく、港区もこの「古川」のあたりに狸塚があった、と言っています。そばを売った代金が木の葉になっていた、なんて伝承もおもしろいけれど、これは後付け、、、ぽいな。

それにしても。蕎麦屋さんが及ぼした、地名、橋名、そして七不思議伝説への影響。おもしろい。若干うさんくさいところもあれど、おもしろいから、これはこれでイイんです。

さて、2つの蕎麦屋さんが出てきましたが、わたしが行きたいと言っていたのは、古川の狸蕎麦。近くに行ってみましょう。

Tanukihasi               狸塚があって、狸蕎麦。狸蕎麦があって、狸橋

存在感のある、天現寺橋より一本下流に。ひっそりとちいさく狸橋はありました。
そして狸橋の由来の書かれた石碑もありました。狸蕎麦屋の話と、狸塚のことが触れられています。

よりによって、強風の日にわたしは狸橋に来てしまいました。ここで風に煽られ、持っていた赤い折りたたみ傘がべっこり裏返り、おじゃんになってしまいました。雨に濡れ濡れ、散策。

この狸橋のたもと(南西といわれます)の蕎麦屋さんは明治期まであり、福沢諭吉がよく食べに来ていたそうです(ただし、この蕎麦屋さんが江戸の狸蕎麦と同一かは不明)。
そしてこの蕎麦屋さん、水車経営権も持っていた、といいます。古地図を見てみると、たしかに、ここには水車がありました。

Bunmei             東京時層地図(文明開化期)よりキャプチャ。「水車」と手書き

周囲にはまだ田圃や畑がいちめんにあって、古川やその支流が田圃を潤していて、ぎったんばったんと水車が廻る・・・この地図からはそんな時代の白金が読み取れます。福沢諭吉は、その長閑な風景をとても気に入り、水車の権利ごと土地を買い取りました。明治12年のこと。

そして別荘を建て(広尾別邸)、この”狸蕎麦水車”は米搗き水車として利益を生み出し、慶應の経費の足しになっていたそうなのです。

Mowari           東京時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ。水車マークはまだある

ちなみに狸蕎麦水車を廻していた水流は、三田用水白金(または白金村)分水。メダカ、タナゴ、エビなどが泳ぐ、つめたく清冽な流れであった、という回想が残っています。その後、狸蕎麦水車は米ではなく、薬種細末を搗くようになります。・・・現在、北里があることと関係するでしょうか。

Goryuko

たしかに、狸橋から下流側を見ると、白金分水暗渠の合流口がぽっかりと在りました。

地図でこのへんをながめていると、明治~昭和初期まで、広尾別邸内に立派な池があることも、気になります。        

Showasho         東京時層地図(昭和初期)よりキャプチャ。宅地が増えるも、池と湿地は残る

この池は湧水池であったそうで、諭吉の四男がのちに、池に船をうかべて遊んだ、などと語っています。ずいぶん、水の豊かな場所だったんだろうなあ。

広尾別邸はいま、慶應の幼稚舎となっています(昭和初期の地図にすでに登場していますね)

Youchishas

               東京時層地図(バブル期)よりキャプチャ

いまの地図を見てみると、古川の上も首都高で覆われてしまい、僅かに姿を現す古川(それもなんだか道路のように見えてしまう)以外、むかしの自然物はなにも残っていないように見えます。

Yochisha

江戸期の地図で示された”狸蕎麦”は、現在殆ど幼稚舎の敷地に飲み込まれているようで、当然敷地内には入れないため、歩道橋からながめます。

右手の木々のむこう、幼稚舎の建物がそびえていました。福沢諭吉が気に入った風景のうち、いまも残っているのはおそらく、古川だけでしょう。その古川さえ、現在はまったく異なる姿であるでしょう。それでも、想像します。明治のころ、ここにはどんなにすてきな自然が広がっていたか。

そして、この木立の奥に、むかしむかし、”狸蕎麦”があった・・・

                        ***

さて、おそば。
きょうは、絶対に狸蕎麦。

固い意思のもとに、白金のまちを歩きます。
福沢諭吉とおなじ狸蕎麦屋で食べることは、もちろんかなわない。せめて最も近いところを、と選んで、やってまいりました。
白金商店街(ここは古くてよい商店街ですね)には、何店舗か蕎麦屋さんがあります。更科川志満という、とても渋いお店もwebに載っていたのですが、見つからず。現役店でも、必ずしも”たぬき”があるとは限らないので、入念にチェックです。

選ばれたのは、手打ちそば佶更

オサレ系。存在感ある木のカウンター。
少量の肴をつまみつつ呑んで、〆にもりそば、的な店と言えましょう。時間をランチからずらしたので、他の客は一組。60代と思しき夫婦(たぶん常連)が、ゆったりとお食事をたのしんでいました。

ふだんは、たぬきそばって殆ど頼まないのだけど・・・きょうは、躊躇なく。

さーて、そばがやってきた!

Tanuki

お上品~。そして、女性的な味わい。古狸さん、メスだったのかもしれない、なんて思えてきます。

この佶更、じつは前述の白金分水が掠っているような位置でした。

Bunmei_2

                   時層地図(文明開化期)、再掲

さきほどから載せている、時層地図たちの現在位置を示す青い点は、じつはお蕎麦屋さんのものだったのでした。
たぬきそばもよかったけれど、すぐそこにエビが舞っていたかも、なんて思いながら、桜エビのかき揚げでいっぺえ、なんてのもオツかもしれません。

これでやっと、蕎麦屋さん由来の土地で、そばを食べたぞ。蕎麦が採れてはいないけど。

ところで今回、地産地消にこだわるあまり、結果的に暗渠があまり関係なかったことに、お気づきでしょうか。それに、わたしは今回、すべての”狸蕎麦”関連の土地をめぐったわけでもないことに。

・・・さてさて次は、狸穴の蕎麦屋さんを探さないと。

<参考文献等>
・「麻布區史」
・「近代沿革図集」
・Deep Azabu(web)
・三田評論2010年11月号(web)
・港区公式HP(web)
(割愛しますが、白金分水については梶山さん、庵魚堂さん、HONDAさん、lotus62さんなどが書かれており、護岸工事前の古い合流口をしのぶことができます。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シカク■スリバチのなぞ

スリバチとは、逆円錐形をあらわすことばであるはずだ。だから、「四角スリバチ」なんて、ことば自体がすでに矛盾を孕んでいるかもしれない。

でも、世の中ってものはおもしろくって、四角いスリバチだって、あるところにはある。最初にそれを知ることになったのは文京区、東京大学の本郷キャンパスと浅野キャンパスに挟まれた、この地でのこと。

Sikaku1            Googleさんありがとうございます。文京区の、向ヶ岡といわれるところ

なぜ東大のキャンパスがこのように分断されているのか?よく見れば、気になる地割り。そんな問いをもって、この地のことを調べる人もいる。
時代を遡ってみると、さらにこの場所のシカクさが浮き出てくるかのようだ。

Sikaku2

              東京時層地図よりキャプチャ。明治9~19年頃の向ヶ岡

古地図には大きな池が描いてあるから、両脇の崖から水が滴っていたのかもしれない。あるいは、もう少し上流の、谷頭から来る水を溜めていたのかもしれない。とはいえ、こんな地形は自然にできるものではない。ここは、もとからあった谷戸を利用し、成形された場所だったのだ・・・なんのために?

明治期、このシカクい土地には射的場があった。射的といっても、こんにち我々が想像するようなお祭りのそれではない。警視庁のもので、西南戦争に派遣された関係者が狙撃演習を行ったという。その後、東京共同射的会社となり、一般人にも向けられた練習場となった。
江戸期のここは水戸藩駒込邸の敷地であり、その頃から池が谷戸の下方に認められる。明治に入り、そのスリバチの四方に土手を作り、さらなる谷地形をつくり、弾を防ぐ壁としたのだそうだ。

谷地形があるということは、そこには川が流れていたということ。ただしこの、射的場の川は無名川で、名を定めている文献は見当たらない。そういうとき、筆者は勝手に名づけることも多いけれど、この川については付け忘れてしまった。なので、みなさんどうぞお好きな名前で、心の中で呼んでください。
明治期の古地図を見ると、道路脇に水路が描いてあるものがある。そして、東京大学構内にある三四郎池から流れ出す小川が、この無名川に合流していた。実はいまも、東京大学の池之端門近辺には橋状のものや、石垣に埋まりつつある合流口があって、水路の名残を感じることができる。付近は地形を改変され続けたこともあり、流末がはっきりしないが、いにしえは石神井川の支流、近世以降は不忍池に注いだと考えられる

現在この地を歩いてみると、ほぼ、ただのシカクい住宅地だ。・・・いや、シカクさはわかりにくいかもしれない。一応、チーズドッグみたいな擁壁の崖を認めることは出来るものの、住宅に遮られて視界が悪い。

Sikaku3

              現代の向ヶ岡の内部。 住所は、文京区弥生二丁目だ

上述のようにわざわざ谷を掘って成形したものの、その後埋めて宅地化したのだという。とある考古学者によれば、この土地を掘れば、池跡が出てくる可能性が高いのだそうだ・・・いまを生きる私は、地面の下の池を想像して歩くのみ。それだって、楽しいけれど。

もう少しだけ、スリバチ感の残っているシカク地帯もある。港区青山。ここには、いまも谷が残っているように見える。

こちらも射的場だが、こんどは陸軍のものである。長方形の敷地で、全面と左右に土手があり、凹地の各所に門があったというつくり。そのまんまだが、俗に「鉄砲山」といわれていた。射的場の下には蛇ヶ池(じゃがいけ、もしくはへびがいけ)があり、葦が生え、魚がたくさんいたという。
なんと斉藤茂吉が「赤光」にて、ここの湧水のことを詠んでいた。

「射的場に 細みづ湧きて流れければ 童ふたりが水のべに来し」

同じく「赤光」には、子どもが土を掘って弾丸を見つけ、喜んでいるという描写もある。青山、といえばシャレオツタウン、いま描写したような風景を想像する人は、あまりいるまい。

青山霊園の少し南に、そのスリバチはある。買い物をするような店もなく、はっきりいってここに行く用事などない。しかし、シカク見たさに、行ってみる。そうか、ここか・・・

Sikaku4                   青山に密かに在る、細長い谷地形

そこは妙に余白を感じる、運輸会社などの敷地になっていた・・・侵入することはできない、深い谷を見下ろす。
そう思って歩いて帰ってきたら、それは大きな間違いだった。実際の射的場跡は、2倍以上も広かった。

Sikaku5           東京時層地図よりキャプチャ。左は文明開化期、右はバブル期。
                  前掲の写真は、緑点線内を写しただけだった。

明治期の蛇ヶ池は、まるで真夏の夜に青山霊園から抜け出てきたヒトダマみたいに、陸軍用地に食い込んでいる。
・・・どうやらここは、もっともっと広いシカクスリバチがあったのが、盛り土されてしまったようだ。

こちらの川には名がある。その名を笄(こうがい)川という。渋谷川の支流であり、天現寺橋のところが河口にあたる。笄川は青山霊園を中心として北に向かって咲くリンドウの花のようなかたちをしていて、この蛇ヶ池はいわば花弁のような位置にあって、その水源のひとつだった。かつては、蛇ヶ池の脇を小川が流れ、その下にひろがる笄田圃を潤していた。

江戸期の絵図を見るとここは青山家の下屋敷の敷地であり、空白が多く地形がよくわからない。しかしその時から蛇ヶ池はあったようだ。すなわち谷があったのであり、向ヶ岡同様、ここのシカクももとの谷戸を利用したものだ。
明治以降の地図を時代順に並べて見ると、だんだんと埋められ住宅になっていくさまがよくわかる。しかしよく見ると、今の区割にも名残がある。バブル期の住宅地のかたちは、射的場とほぼ同じなのだ(そして、いまもそうだ)。

Sikaku6              東京時層地図よりキャプチャ。現代の段彩陰影図。
                  オレンジ点線内が射的場のナガシカク部分。

1つ前の写真と比較してみてほしい。ナガシカクの左下にはいまも窪地として残っており、そこに青山葬儀場がすっぽりとおさまっている。
かつてはもっとスケールの大きかったシカクスリバチは、お弁当箱の脇についた箸入れみたいな、細い一部分だけ残して埋められてしまったのだった…。さきほどの向ヶ岡との共通点の、なんと多いことか。  

軍の射撃場といえば、戸山も有名だ。戸山公園や早稲田大学理工学部のある一帯である。ここに陸軍射撃場が置かれたのは、江戸期の鉄砲隊が由来する(鉄砲百人組の大縄地を転用)という。あのあたりの場所に縁のある人は、思い浮かべてみてもスリバチらしさなど感じないのではないだろうか。しかし、戸山公園もまた、川の流れる緩やかな谷であった。

ここに流れていたのは、馬尿川もしくは秣(まぐさ)川。神田川の支流だ。水源については確実な文献は見当たらないが、大久保の韓国料理店街の脇から谷戸が始まる。下流に行けば少し前までは湧水があったというし、味わい深い擁壁の残る、人気のある暗渠だ。この、ノンビリとした名は、馬の餌である秣が流域に置かれていたからとかいう、本当にノンビリした理由でつけられたようだ。流域、というか射撃場と同じ場所に競馬場があった時代もある、馬に縁のある地のようだ。  

“戸山ヶ原”と言われていたこの地は、陸軍用地ではあったものの一般人も出入り自由だった。旗が上がると子どもたちが弾を拾いにいったりしたというし、「トンボ釣り」「カブトムシ捕り」というなんとも長閑な遊びにここで興じていたともいう。青山然り、陸軍用地にはこのように子どもが戯れるエピソードがよくついてくる。

明治期、戸山には「三角山」という実弾の着弾地があったが、弾が山を越えて中野やら落合まで行ってしまい、住民が危険にさらされたというので、昭和3年に蒲鉾型の7本×300mの鉄筋コンクリート製の射撃場になった。

Sikaku7          東京時層地図よりキャプチャ。左は昭和戦前期、右は現代の段彩陰影図。
            

いずれのスリバチも、陰影図ではある程度シカク感がわかるが、実際に訪れるとそれほどはっきりとはわからない。もっと、いまもしっかりと見られるシカクスリバチは、存在しないのか?

…最もはっきりしているものは、大田区にある。

Sikaku8            東京時層地図よりキャプチャ。大森駅西側の段彩陰影図。

くっきりと存在するシカク。そこから延びる谷は複雑な地形をかたちづくっている。

 この谷にかつてあった川は、池尻堀という。いくつもの水源が存在していたようで、流末は六郷用水に注ぐものだ。池尻堀の谷はダイナミックに入り組んでいるばかりか、美しいフラクタル状になっていて、陰影図を見ているとどうにもうっとりしてしまう。暗渠者に人気が高いのもうなずける。  

Sikaku9          東京時層地図よりキャプチャ。1つ前の陰影図と同じ場所の、昭和戦前期。

ここ大森のシカクスリバチもまた射撃用のものであり、前出の向ヶ岡の射的会社が明治22年に移転してきたものだった。
ところが何を思ったか、隣にテニスコートが建設される。テニスクラブのwebには「西洋列強の文化の中で育まれたスポーツマンシップも会得しよう」という理由だったと書いてある。そしてなぜだか、慶應義塾大学庭球部の要請によりテニスコートを増やし、慶大庭球部と一般のテニスクラブが一緒になって「大森庭球倶楽部」が開設された、というのだ…大正12年のことだ。

Sikaku10          入新井町誌より。射撃場とテニスコートが隣り合わせ、というクールさ加減  

いまもテニスコートは健在で、大森駅の東口から一山越えると、大森テニスクラブが現われる。

Sikaku11

ここが谷頭だ。テニスクラブ入口から下を眺めると、そこにはすばらしいナガシカクが拡がっている。

Sikaku12

射撃場跡の石碑もある。陸軍の射撃場は広いものであったが、警視庁系はコンパクトであり、今もシカクさ加減がよく味わえる。ちなみに、深大寺にも射撃場跡があるが、こちらはもっともっと深く、今もしっかりとした谷である(今度は深すぎて写真におさまらない)。さぞ上等な、天然の防御壁となっていただろう。

そういえば、色町も、よく目にするシカクのひとつ。中沢(2005)いうところの「湿った面」である色町は、スリバチ等級でいうと低くなるかもしれないが、その多くは低湿地につくられている。そして、とくに吉原や洲崎などの遊郭は、きれいな長方形をしている。吉原に関しては、低湿地のなかに、ぽっかりと浮いた島のようにつくられている…。

Sikaku13          東京時層地図よりキャプチャ。左はバブル期、右は現在の段彩陰影図

銃と、性。これらは、人の生と死というつながりをもつものだ。生と死とは、目を背けることができないものだ。綺麗な上澄みではない、どろどろとした情緒がうずまくものだ。そういったものが、谷底という低地に溜まっているということは、なんら不思議ではないのかもしれない。

「谷に集まるのはムーミンだけではない」。このようなある特殊なヒトやモノ、そしてさまざまな生き死にのものがたりが、スリバチの底には横たわっている。  

                        ***

なぜ、この記事をボツにしたのかというと。
原稿をある程度書き進めた段階で、マトグロッソの一連のスリバチ記事を最初から通して読み直してみた。なんとなく、このネタが書かれていないわけはないよな、と少しざわつくような心持ちでいたからだ。
案の定、エピソード6には射撃場の話が・・・。ちゃんと読もうよ、自分。・・・いや、記憶が蘇ってきたら、たしかにそれをちゃんと読んでいたし、御殿山の箇所に反応して「わたしは軍事萌えもあるから、暗渠者だけどここも萌えるよ!」などと、ぶつぶつ言ったことも思い出した・・・ちゃんと覚えてようよ、自分。 
わくわくしながらスタートした本記事は、残念ながらお蔵入り。でも、お蔵入りはもったいないので、特に新しい視点もないけれど、ブログには載せておこう、と思うに至ったのである。

                        ***

オマケ。 
陸軍用地は戦後それぞれ、かたちを変えて歴史をつないでいる。では、向ヶ岡から大森に移った民間の射的会社は、その後どうなったのであろうか。横浜のほうに移ったという情報があるものの、文献上詳細は分からなかった。横浜の古地図を見てみると、大正期に全国射撃大会が行われたという場所が馬場にある。当時このあたりは人家も少なく、深い谷戸がある射撃の適地であったという。その深い谷戸は、入江川の流域にあった。

Sikaku14            横浜時層地図(昭和戦前期)よりキャプチャ。東寺尾~馬場のあたり

Sikaku15

台形のような、シカクのような。実際に現地に行ってみると、そこにはコンパクトな、しかしインパクトのある台形を住宅が埋めつくしていた。みごとな「ガケンチク」に、横浜らしさを感じる。

地図の年代を遡って見ていくと、近隣の別の場所に射撃場が現れる。地元の資料を見ると、もとはもっと東にあった射撃場が、上記の地に移転してきて、昭和15年まで存続したということである。
その、移転前の場所とは、明治のある時期までは成願寺という3ツ池のある寺の敷地だった。その池の向こうに射撃場があり、一年中銃声が聞こえてきた、という記録が残っている。

Sikaku16                 横浜時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ

こちらはより広い。ナガシカク、というよりは、もう少し滑らかなかたちかもしれない。ほとんど地形を弄らなかった、ということかもしれない。
池を囲むように別荘が建ち、製氷池で氷の作られるしずかな(たぶん、銃声以外は)場所だったという。ここに、明治36年に、總持寺移転が決定する。

Sikaku17

                 横浜時層地図(戦後転換期)よりキャプチャ

大きなお寺は、なんとなくむかしからそこにあったような気がしてしまう。しかし、もと射撃場であった寺、というのも存在するわけだ。
今はこのような風景だ。

  Sikaku18

總持寺。いまの大駐車場のあたりに、明治21年からしばらくのあいだ、射撃場があった。射撃場が移転し、その場所は龍王池という池となったが、それも埋立てられ、いまはこのように駐車場になっている。 

Sikaku19

・・・じつは、この場所はわたしが最初にスリバチ学会のフィールドワーク(下末吉の回)にお邪魔したときに、最初に立ち寄って、集合写真を撮った場所なのだった。
なんという一致。スリバチ学会からいただいた原稿のお話、最初に思いついていそいそと書きはじめたストーリーは、まわりまわって、最後にまたスリバチ学会にもどってきたのであった・・・これもまた、スリバチがつなぐ縁なのかもしれない。

Sikaku20

年末に行った総持寺には、屋台の準備がなされていた。射的場跡地に、現代の射的屋がある風景・・・おあとがよろしいようで。

<参考文献>
「入新井町誌」
斉藤美枝「鶴見總持寺物語」
「新宿区町名誌」
「新宿区立戸塚第三小学校周辺の歴史」
中沢新一「アースダイバー」
中嶋昭「鶴見ところどころ」
原祐一「向ヶ岡弥生町の研究―向ヶ岡弥生町の歴史と東京大学浅野地区の発掘調査の結果― 徳川斉昭と水戸藩駒込邸」東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9
港区教育委員会「増補港区近代沿革図集 赤坂・青山」
港区三田図書館「明治の港区」
「わがまち大久保」

<関連記事(本ブログ内)>
夜の馬尿川
三四郎池支流(仮)の流れる先は
ゲゲゲの湧水(前編)
洲パラダイス崎

<関連記事(他サイト)>
大森テニスクラブ
あるく渋谷川入門 笄川東側
暗渠ハンター 山王崖下の池尻堀?
etc...

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 続・鎌ヶ谷編

千葉は鎌ヶ谷編のつづき。前回は、船橋市の飛び地から延びる支流をからめ、鎌ヶ谷と船橋の市境を見ながら二和川という川を遡ってきました。
今回は、おなじ二和川を逆向きにして、上流から攻めてみることにします。

思いっきり位置が変わって・・・降りる駅は、滝不動。これまた今まで掠ったことのない、聞いたこともない駅でした。

駅からすぐ近くに牧場があります。このへんにはポツポツと牧場があり、何か売っているところもあればいないところもあり。佐久間牧場には、アイスクリーム工房が併設されているというので足を延ばしてみました。

Kmgy60

牧場のソフトクリームー。
屋外には個性あふれる椅子が並べられていて、牛舎や鳥小屋を眺めながらペロペロできます。畑がひろがる先に浅い窪みのようなものが見えますが、これは今日は辿らない流域のものなので、見つめるだけ。

ほかに、ジェラート(ミルク味とイチゴ味)、牛乳も試しました。朝っぱらからこういう食べ方をするってのは、さんぽ直前はよくないですねw 店のない地帯を歩くので、本当はお腹を壊しちゃいけないんですが・・・。お腹に一抹の不安を抱えながら、さんぽ、しゅっぱーつ。

のどかなのどかな、いなかみち。開渠で描かれた二和川の、尽きる位置に行きます。

上流部は前回のような市境ではなく、

Hutawajouryuu_2


ばっちり船橋市にあります。yahooさんありがとうございます。

赤丸のあたりに行ってみると・・・、

Kmgy62

開渠の二和川が尽きる箇所のさきには、コンクリ蓋暗渠がありました!
さてこれが何処まで延びてゆくのか・・・

Kmgy63

植木鉢蓋が民家の脇に並びます。

すると、

Kmgy64

別れは唐突に。

ここでボツッ!と途切れてしまうのでした。え??え???
まったくの平らな土地、窪みもない、公園もない、神社もない。つまり水源サインがない。

え????となりながら、周囲を探しましたが、この延長線上に畑が広がっていて、そこが微妙に低いかなというくらいでした。

・・・湧水池から出る流れではなかったのかもしれません。

Kmgy65

で、さきほどのコンクリ蓋暗渠は、三咲本通り商店街の反対側からいきなり開渠となります。

覗いてみたら、あまりきれいではない水がそれなりに流れていました。あんな、ボツッ!と始まる水路で、水が流れているなんて考え難い。。雨水にしては晴れているし、常に一定量流れ続けているように見えるけれど。

頭の中にたくさんの疑問符をのこしながら、二和川を下り始めます。

Kmgy66

いったい、この水はどこからきたんだろう・・・

近づいてみます。

Kmgy67

きちゃない・・・

Kmgy68

それにくらべて、両岸の景色は実にサワヤカ。

Kmgy69

畑の真ん中を流れていくときもあります。

丁寧に整えられた畝の、すがすがしい真っ直ぐさ。

Kmgy70

畑、車道、農道、住宅地、そして鉄塔と、のどかなところを歩き続けます。

ふと道端にこんなものが。

・・・烏山川のテルコを思い出しました。思い出しますよねそりゃ。改めてテル子のことを検索してみると、あの後ネット上ではテル子の謎を解いた方などもいらっしゃるようで、本人に会ったという記事まであります。というより開渠時代の烏山川の話が聞けているのがうらやまー。

一方、この船橋の女神はなんなのか・・・。また謎のまま放っておき、先に進むとしますw

Kmgy71

のどかでいいんだけれど、やや単調な風景。
それも船橋市域で終了します。もうすぐ、鎌ヶ谷市との境目がやってくるのです。

船橋部分の最後を、振り返ってみるとこういう感じ。
ほんわか~。

Kmgy72

で、そのさき、ここに市境があります(冒頭の地図の、左側にも載っています)。

そこには鎌ヶ谷市の水路の立札が建っていて、以下は鎌ヶ谷市域の二和川。その風景とは・・・、

Kmgy74

おうふ!
船橋市域の最後の風景と全然違います!!すぐ隣なのに!

ハシゴ式開渠じゃなくなったし、めっちゃ住宅の隙間になってるし、なにより、排水管がめっちゃ突き出ている。つーか、いきなり汚い・・・。

しばらく鎌ヶ谷市を歩きます。

Kmgy75

排水管、こんなふうに詰まってるのもあるけど、

Kmgy76

基本的にはほとんど現役のようです。

ほら、すぐそこで汚水がアブクを立てて流れ込んでいる・・・

実は、鎌ヶ谷市域での二和川が汚いことは、前回の遡上のときに既に感じていました。家庭から排水が流れ込んでいる様子も、上流に来るにつれて頻繁に見られていました。
だから、さっきの市境で「鎌ヶ谷市部、汚い気がする」のは、実は嗚呼やっぱりな、という反応でもあったのです。

・・・鎌ヶ谷市における水路と排水の話を少し、はさみましょう。

鎌ヶ谷市内4水系のうち、この二和川属する「真間川水系」は住宅が多いのに下水道の未整備なエリアもあるようで、BOD(生物化学的酸素要求量)が比較的高い・・・というか、市内で最も水質が悪い、といわれています。
水路への生活排水の流入割合はこの15年ほどの間に約半減はしたものの、いまだ3割ほどは流れ込んでいる状況のようです。そうか、生活排水、まだ結構流入しているのですね・・・

後日追記:ここらへんの排水の流入状況は、ドブ川雑記帳(大石俊六さん)のこの記事の下部にある図が近いと思います。

奇しくもlotus62氏が水質調査みたいなことを始めているので、それに乗っかってみようとしたら・・・あらら、指標が違うので比べられない・・・lotus氏が挙げているのは亜硝酸、COD、アンモニウム、リン酸、でしたが、こちら鎌ヶ谷市の報告書にあるのは、BOD、SS(浮遊物質量)、DO(溶存酸素量)、大腸菌指数、などでした。しかも、二和川より下流である大柏川のデータしかなく。大柏川では、BODが基準を上回っていたのが、平成21年にやっと下回ったということです。二和川にはもっと濃縮された汚水が流れている印象なので、おそらくもっと汚れている数値となっていることでしょう。

昭和57年に出された鎌ヶ谷市史においては、水路が「悪臭漂う悪用水路と化している」ことが述べられています。昭和55年時点での鎌ヶ谷市の下水道普及率は0パーセント、千葉県内でも遅れていることも言及されていました。整備と浄化は課題である、と・・・
平成23年に出された資料でも、「未だに家庭排水等の多くが河川、水路へ流入し、水質汚濁や悪臭等の発生を招いている」とあります。今もなお、二和川の浄化は大きな課題として残り続けているといえます。

未来に向けて、さまざまな水質改善のプランがあるようで・・・10年後に二和川をまた歩いたとき、キレイになっていたりしたら、良いなあ。

そんなわけで、歩いているときは、”生活排水が開渠に流れ込むさま”を何度も見ながら、信じられないと珍しいとが入り混じるような気持ちになったり、むかしの東京都内の河川のことを思ったり、していました。

さて、二和川下りに戻りますか。

Kmgy77

しばらくゆくと、水路工事中の看板があり、

Kmgy78

レア感のある”臨時暗渠”も見ることができました。

Kmgy781

もう少し下流では、コンクリ蓋が再登場して歩けたり、
調整池があったり、

Kmgy79

住宅街の中を開渠と暗渠が交互にカクカクしながら下って行ったり、

Kmgy80

住宅の中でもところどころ畑が残っていて、またのどかな気持ちになったりしました。

・・・たえず排水が流れ込んでいて、汚さはあるのですが。

Kmgy81

ふしぎな場所もありました。
なぜ、こんなに集合させるのか。木下街道のすぐ脇で、大きな車道の隣に突如出現する違和感、石の古さと真新しいコンクリートの不釣り合い、このかたちの違和感、なんだかすごく気になりました。
そしてすぐ後ろを、クランク状に二和川が流れていました。

千葉に来るようになって、こんな風に”集合”させるものにしばしば出逢います。松戸でも2つほど、似たようなものを見ました。

・・・この謎も解けぬまま、今回最大の目的地の話にうつります。
それは、

Kmgy83

この、ばかでかい橋脚のこと。

陸軍の鉄道第二連隊が残した、鎌ヶ谷最大の遺構。どん、どん、どん、どんと計4つ。

少しばかりむかし、ここには、陸軍の演習線が走っていたのでした。
津田沼~松戸を結ぶ、演習線路松戸線。そう、
津田沼記事で書いた鉄道第二連隊の基地からはじまり、そして、松戸記事で書いた、相模台に達する路線です。
約34km、1926年から5年ほどかけて敷設されたこの路線には、軽便機関車が走ったようです。敷設、といいましたが、ここは演習線、車両を脱線させては戻す、撤去してまたつくる、といった訓練が繰り返し行われていました。

最初は、木製の橋が架けられました。”鎌ヶ谷架橋作業”という古い絵葉書が何枚も残っていて、この場所が演習線の中でも見ごたえのある場所だったことをうかがわせます。
橋についても撤収、架け替えが何度も繰り返されたので、橋梁の構造は必ずしも一定ではなかった、といいます。今残るコンクリの橋脚は、昭和16年につくられたもの。

Kmgy84

公園の中に佇むそれは、なにしろ威風堂々。

子どもがボール遊びをしに来ていました。
サッカーボールを蹴る幼女とおばあちゃん、野球の捕球練習をする二人組の男の子。テニスラケットを持った女の子たちも待っていて・・・、そうか、あの橋脚のあらゆる側面についていた丸い跡はボールの跡で、それは地元の子どもたちとこの軍事遺構が調和している証なんだろうな。

昭和44年頃、これを邪魔だと思った行政が撤去を試みたけれど、あまりに強固なつくりだったため断念した、という話が残っています。そのおかげで、子どもたちがボール遊びをしに来られるという・・・
ぼうっと子どもたちを眺めながら、ベンチに座ってお弁当を食べました。

軍と住民との交流は、当時もあったのだそうです。
演習線上にはところどころに駅舎があり、鎌ヶ谷にもあって、訓練日と演習日以外は住民にも開放していたそうです。レールを走っていたトロッコ車両は、軍が使わないときには付近の農家も使用できたから、サツマイモなどを乗せて押して運んでいったということです。
・・・そこに描かれてはいませんが、他の地でのエピソードによくみられるように、きっと、子どもたちもトロッコで遊んでいたのではないでしょうか。いまもむかしも、子どもたちがここで遊ぶ・・・

Kmgy85

橋が架けられた、ということは、ここは谷であったわけです。しかも、今回のメイン、二和川の谷です。暗渠好きにはありがたいことに、この公園内を二和川は”暗渠で”流れていました。

写真に見える、道のようなものがコンクリ蓋暗渠です。その下を、二和川のやや汚れた水が、滔々と流れているというわけ。暗渠と軍跡のコラボレーション!

ただし、むかしは少し違う流れ方だったようです。

鉄道第二連隊に在籍していた方の語りに、次のようなものがあります。
「最初は下は川かと思いましたが、水は流れていなかったです。確か窪地でした。そういう地層のところへ、訓練を兼ねて橋を架けたんじゃないかと思います。木橋でしたね。」

水の流れは見えなかった・・・つまり、ここは以前は川というよりは湿地だったのではないでしょうか。目をつむって想像します。湿地に木の橋、キビキビと働く兵士たち・・・

Kmgy86

公園のすぐ下流も暗渠になっていて、住宅街への近道なのか、途切れることなく人が通っていました。人気暗渠だねぇ。

Kmgy88

傍らには、こんなすてきな原っぱもありました。

春のあたたかな時期だったので、数十分間、横になってごろごろしていました。草を摘むひと、遊ぶ少女たち、「ごはんだよー」と呼びに来るお母さん。

Kmgy89

その先、再度開渠となり、あとは、前回の記事の位置につながります。
馬込十字路を過ぎたあたりから、急に「鎌ヶ谷市」は狭くなって、船橋市をぎりぎりのところで遠ざけながら、二和川は下ってゆくのでした。

                         ***

ところで、

Kamagayamapkanasugi

ここが一体どうなっているのか、も、気になって仕方がありません。

このカブトムシの足みたいな場所の、足の付け根はこうなってました。

Kmgy892

二和川に注ぐ支流暗渠。
開渠のドブだった時代がそう遠くはないような風貌です。

Kmgy90

カブトムシの足をつま先方向に追ってみると、市境は道になっていてこんな感じ。

断定はできないものの、左側が川跡のように見えます。この位置かどうかはわからないとしても、川はあったんじゃないかと思える、ゆるい谷状の道でした。

Kmgy91

その、谷がどこまで続くかが関心事なわけですが・・・、ここがおそらくは上流端でした。
窪地にサッカー用のグラウンドがあり、その隣の敷地もなんだか余っています。つまり、湿地や沼でもあったような雰囲気です。そしてそれより先は、家の敷地だったので入れなかったけれど、グラウンド=沼が始まり、と思うとしっくりくるのでした。

Kamagayatikeikanasugi
陰影図で見ると、こうです。google earthさんありがとうございます。

赤丸のあたりがグラウンド。右に谷が続くようには見えますが・・・歩くことはできなかったし、ひとまず、二和川支流の始点は赤丸のあたり、としたいと思います。
カブトムシの足の先っちょと第一関節の上がどうなっているかというと、関節の上はどうも調整池もしくは池があるようです。どちらもくっきりとした谷になっていて、金杉川、という別な川の水源にあたる模様。

金杉川は海老川の支流であり、それはまたいつか、船橋を歩くときに触れることになるかもしれません。でも、どうもこのカブトムシ足の部分は河川争奪っぽくも見えるし、、また謎が残ってしまいました。

ま、いくつか残しちゃったものもあるけれど、とりあえず、ゴハン。

Kmgy92

馬込沢駅前にて。
ぎょうざが食べたいな、と思いました。
ぎょうざんぽう・・・、自慢の餃子がありそうな雰囲気です。

しかし、入ってみると居酒屋の和食系メニューのみで、餃子が無い。
おそるおそる聞いてみると、うちは餃子屋ではない、とのことで・・・ぎょうざんぽうは閉店し、居抜きで別店になったようです。よく見れば、入り口のドアに別なお店の名が書いてあります。いやーでも、ぎょうざんぽうの看板は上にも横にも掲げてあって、どう見てもそっちが勝ってるww

で、そこからが鎌ヶ谷のいいところ。
店主とその奥さまらしき方がガチで接客してくださるんですが、我々の餃子欲を感じ取ってくださって、本来メニューには無い、餃子を出してくださったんです・・・!

なんでも、おふたりが自分たちで食べようと思って、お取り寄せしていたおいしい中華屋さんの餃子だとか。しかも残り一食ぶんだとか・・・

Kmgy93

うわーん、ありがたすぎる(涙)!!
しかもこの餃子、すごくおいしかったー!ある意味、幻の餃子。おじさま、おばさま、本当にありがとうございました。

餃子パクパク、ビールぐびー。このお店の方もそうだけど、ニコニコ湯の方、前回の飲み屋さんの方、それから書かなかったけれど、暗渠沿いで出逢った何人かの方・・・鎌ヶ谷の旅は、ずいぶんとそこで会った”人”の印象が強い気がします。

                         ***

おまけ。

鎌ヶ谷の橋脚跡、行くのに最適な季節は、

Kmgy94

なんといっても桜の季節です。

谷へと降りていくときに見える桜。

Kmgy95

橋脚の隙間を埋めるように咲く桜。

Kmgy96

そして、暗渠と橋脚と桜。手前の道のようなものがコンクリ蓋暗渠です。

おまけ2。
鎌ヶ谷大仏駅に帰ろうとした日、公園から北西に歩いてみました。

Kmgy97

すると、道端に陸軍境界石が出現します。

Kmgy98

もうちょっと進むとよれよれっとした2本目が登場。
この日は3本見つけました。

そして、鎌ヶ谷大仏駅にいくまっすぐな道”グリーン通り”を歩いていくと、

Kmgy99

なんだかすごく気になるスペースが出現するのです。

両側を道に挟まれた、細~いスペース。上水の暗渠にときどきこういうものがあったり、あるいは、どちらかの道が暗渠だったりします。なんだろう、堀でもあったのかな?いや、それはないよね・・・

Kmgy100

その狭いスペースは残り続け、花壇になりました。
違和感のあるものはまず水路にからめてしまう自分ですが、後から調べてみると、このスペースこそが演習線の線路跡なのでした。さきほどの公園~陸軍境界石~このグリーン通りへと、続いていたのです。

橋脚の話のときに触れたこの演習線路松戸線は、現在の新京成電鉄の母体となっています。しかし、何か所か回り道をカットされたところがあって、鎌ヶ谷周辺はまさに悲しきカット部分、あるいは楽しき廃線跡部分なのでした。

Kmgy101

グリーン通り沿いにある、湯乃市というスーパー銭湯に寄って、ひとっぷろ。チバのスーパー銭湯、だいたい6~700円で入れてしまうので、寄り癖がついてしまいました。

もちろん上がったらルービーでプハー。

さてさて、さいごに、今回の行程。

Kmgymaplast

二和川のほか、演習線の位置も示します。
実は、市境カオス地帯のあの川が、有名な橋脚を遺すこの川とイコールだということ、今回まで知りませんでした。二和川のポテンシャル・・・!
幾重にも見どころを持つ、二和川とその周辺。川筋をたどる旅、市境沿いに進む旅、廃線跡に切り替えて両方味わう旅・・・いろんな”謎解きさんぽ”ができる地だと思います。

<参考文献>
イカロスMOOK「実録 鉄道連隊」
「鎌ヶ谷市史 上巻」
「鎌ヶ谷市史 資料集17 近・現代 聞き書き」
「鎌ヶ谷市生活排水対策推進計画 鎌ヶ谷市一般廃棄物(生活排水)処理基本計画(平成23年度)」
「戦争の記録と記憶 in 鎌ヶ谷」
高木宏之「写真に見る鉄道連隊」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧