1-9 さんぽ:その他の暗渠

杉並区外の暗渠

香港暗渠さんぽ

暗渠さんぽ、久しぶりの海外編。
 
タイトルのとおり香港の街中の暗渠を追う記事を書こうと思う。が、その前に、マカオと中国珠海市にも触れておきたい。
 
まずは中国、珠海市。
マカオから徒歩で国境を越えられるので、半日ほど行ってみた。地形的には平坦なところから、水路の出処と思しき丘を目指し歩き始める。すると、

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予期していない場所で、このようなコンクリート蓋に出逢った。

うわ!日本と似てる!SUGEEEE!
蓋を見ただけで着火。

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おわ!道路を横断してきて合流してる・・・!!

早くも興奮が最高潮。さまざまな角度から写真を撮り始める。

が、しかし・・・数分後、あることに気付く。

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あれ。

これ、電気・・・。

ザザー・・・と、水が引くようにテンションが下がるのがわかる。(いや別に電線が嫌いなわけじゃないんです。水路ほど情熱が向けられないってだけで。)

他の蓋やいくつかの条件から、電気の蓋であることがほぼ確定した。なんということだろう。
奇しくもこの日は雨。こんな、隙間から水が入りまくるような構造で大丈夫なんだろうか・・・

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ともかく、珠海の街中では、このようなコンクリ蓋をかぶせて、電気が走っている。

この写真なんて、川じゃないのに優雅にカーブまでして・・・

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ちなみに雨水用の側溝の蓋はこういうものだったが、あまり見かけなかった。

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状況が分かってくると慣れたもので、このような景色を見てもハイハイ電気ね・・・と、心が揺るがなくなる。日本だったら、「キャー水路の立体交差!!!」と、大興奮するはずなのだが。

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そんなわけで、マカオの街中(競馬場前)でこのような蓋を見つけたときも、

「ハイハイ電気ですね」

と、かなり軽く流してしまった。そしてこれは、たしかに電気であった。

・・・こういった流れのなかで、香港を訪れた。珠海よりもマカオよりも、高低差が身近にあり、暗渠の出現に期待できる都市だ。

地図を眺め、「ありそう」な場所を見つけた(ちなみに日本国内ではマピオンやらさまざまな地図アプリを見比べるのだが、海外ではグーグル先生一択。そしてこのグーグル先生、暗渠探しの上では、非常に扱いづらい)。

遡っていくと、ここに到達する。おそらく水源だ。

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                     googlemapより

 

小西湖。
九龍塘という駅が最寄。日中に来ることができず、20時頃の到着となった。

大きなショッピングモールを抜け、湖のあたりに来るも、真っ暗で何も見えなかった。ただ、ザァァ・・・という、音だけはする。割と多くの水が、湖を出て谷を下る音だ。

 

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谷が公園(歌和老街公園)になっているようだが、用心のため通るのは止めた。
九龍塘駅前に戻ると、谷底らしき位置に、このような蓋があった。

しかし、これまでの流れからいって、わたしにはこれは電気だとしか思えない。
もう騙されないぞ。まったく紛らわしい場所に・・・ブツクサ言いながら遠目から写真を一応撮って、去った。

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谷は感じるが、暫く谷底らしき部分を辿ることはできない。大きなビルの敷地になっているからだ。
達之路という広い道路を渡ると、公園(桃源街遊楽場)になっている。ここは、流路のはずだ。右手には崖が見える。
この公園の感じは、日本の緑道と似ており、少し暗渠らしいといえる。しかしその先、再び川跡は暫く辿れなくなる。中学校の敷地になっているようだ。その、学校の敷地というのも、また、暗渠らしいことである。

・・・で、水源以来、地形だけをたよりに歩き、もんやりと暗渠らしさは感じつつも、決定的にはっきりとした暗渠サインには出会っていなかったところ、

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それは突然現れる。
渠務省の看板!
 
きょむしょう!!(と、広東語ではもちろん発音しないのだろうが。)
 
河川管理課とか、そういう感じだろうか。「渠」がこんなに公に使われているだなんて、感動的である。
この渠務省の看板の奥には、水防関係の施設があるようだった。地下に潜っていく道路がうっすら見え、どぶの匂いが盛大にした。わたしにとっては、暗渠であることを裏付けてくれる、うれしい匂い。

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水防施設の上は、グラウンドになっていた。これも日本と似ている。グラウンドには入れなかったので、脇の道を下ると、・・・また、あった。そして、この下からも、強いどぶの匂いがした。

もしかしてこれ・・・電気じゃなくて水路なのか?

ただ、この向きはちょっと事態をややこしくする向きで、本来の川筋に向かって斜めになっている。支流暗渠か、はたまた・・・??

いずれにせよ、この下には水が流れているようであった。香港にも、コンクリート蓋暗渠は存在する。

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暗渠蓋のすぐ近くには、さきほどと同じ渠務省の看板があった。なるほどここにある施設は、地下調整池のようだ。しかも、比較的新しい。
ここで、九龍塘駅前で軽く流したあの蓋も・・・と、後悔が押し寄せてくるが、戻るわけにもいかない。
 

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その先、また名を変えて、公園(界限街遊楽場)が続く。
 
この公園には屋外卓球台がどっしりと備わっていた。そして、多くの大人が卓球に興じていた。このとき、21時~22時くらいではなかったか。他のスペースでも、大量の大人が、ベンチに座ってしゃべったり、何かのカードゲームをしたり、遊具(健康器具様の遊具なのだ)で熱心に体を鍛えていたり・・・とにかく、人が多い。
 
そして、夏にこれだけ暗渠に人がたむろしていても、彼らは蚊に刺されない。というか、蚊がいないのだ、暗渠なのに!
これは日本の暗渠との物凄く大きな違いである。この時期に暗渠上の公園でくつろぐなんて、(蚊が)恐ろしすぎてわたしにはできない。

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公園の名がいつのまにかまた変わった。「洗衣街」が横にあるので、こんな名前となっている。洗衣。もちろん、広東語で洗濯、クリーニングの意だ。
 
それにしても児童遊園と名はつくものの、完全に大人の遊び場と化している、というのはおもしろかった。

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その先、太子道西を渡ればそこは、水渠道、という。
 
この川を見つけるとき、最初に手掛かりとなったのが、(google mapではなく)ガイドブック上に見えた僅かな池のようなものと、ひとつだけ変な角度に伸びている空間と、この水渠道という表記のコンボだった。

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水渠道の様子は、こう。

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でも暗渠は、たぶんこちら。道のすぐ脇にこのような空間があった。

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その立ち入り禁止空間の先に、公共の建物があった。
リサイクルごみの収集所、といったもののようだった。公共の施設ということ、それとごみ置き場ということ、それらもまた、日本の暗渠サインに似ている。

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その先は、川跡上がきれいな緑道になっていた。
繁華街のなかにある緑道。その整備されたての感じや、広さや、ひとびととの関係が、渋谷川っぽいなと思わせる一角。

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緑道には、謎の金魚オブジェ。

・・・川に因んでいたらいいなあ。

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延長線上にこんなものがあったので、水門か?と思ったら換気塔だった。

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喚起塔から道路を渡り、ふたたび学校の敷地となって、建物のない一角が斜めに続く。

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旺角道遊楽場上の斜めの区画に出てきて、公園の脇にはまたもごみ収集所だ。

なかなか日本の暗渠サインと重なりが多いので、うれしくなってくる。ただ、足はだいぶお疲れ。おなかもすいてきた。

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道端にあった簡単な食堂に入る。
言葉は通じない。ビールを頼み、あと、適当に餃子っぽいものを指さして頼む。

・・・すると、餃子だと思ったものは海老ワンタンで、期せずして香港名物の海老ワンタン麺が来た。

15年前、わたしはその食い意地ゆえ、「海老ワンタン麺を食べに」この地に来たことがある。むかしは1杯100円で、それをTVで見、とても魅力を感じたのだった。うれしくて、何杯も食べた。
いまの香港では、どのような店でも100円の海老ワンタン麺など出していない。500~700円くらいだろうか。

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さて、暗渠の続き。

今度はわかりにくく、長旺道という幅広の道となる。

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と、その道の最後で、あの蓋が現れた。やはり、どぶの匂いとともに。

そのさき、太い道路を渡るが、夜市にも行きたいので、ここまでで追うのをやめた。

 

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                        google mapより

暗渠のルート(一部)を、水色線で示す。
このように、地図上でもここだけが浮いていて、川っぽいことがわかるだろう。

このさき痕跡は減るが、海へ向かって流れているようだった。

さて、この暗渠の名前はなんというのだろうか?
広東語も出来ないし、香港で文献に当たることはできなかったので、あまりやりたくないけれど、今回はwikiに頼ることとする。

wikiに名前が載っていた。「花墟道明渠」という水路であったらしい。もしくは、旺角花墟道明渠。延長210mという短さと、この名称からして、この水路のほんの一部だけを指す名称のように思う。

あの屋外卓球台が設けられていた公園の隣の道が「花墟道」なので、おそらくあの連続する公園のあたりにかつてあった開渠のことをいうようだ。下水が流れ込むようになり、臭気が問題化したため、2008年までに蓋がけされたようである。

わりと最近のこと・・・!

wikiの写真を拝借する。(出処はこちら。)

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まさに蓋がけの最中の写真。

川全体を通しての名前は、見つけられなかった。小西湖からはじまり、その後姿を見せないこの川は、少しずつ暗渠にされてゆき、残る部分は地名を冠された明渠となっていた、ということだろうか。いくつかのポイントはまだ新しかったことから、2000年以降に着手されたものも少なくなかったのかもしれない・・・

wikiのリンク先「二十年代九龍地図」には、この川がはっきりと載っている。また、支流のようなものも見える。

暗渠蓋の隙間から流れ出る臭気になんとなく日本の1960年代を思った、香港の繁華街にある暗渠。・・・また行く機会があれば、今度は支流も辿ってみたい。

 

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地獄谷、あの日の記憶

「あの日」のことを、明瞭に語れる人は多いだろう。

それから、その場所を通ることで、関連付けて「あの日」を思い出すことも。わたしにとって、そのような場所はいくつかある。

あの日。
わたしは職場にいた。当時の職場は、文京区にあった。

あの時間のことをここで詳細に触れるつもりはないので、大きく省略して書いていく。

職場の敷地で最も広いところに、大勢が集まっていた。緊急放送が流れる。わたしは郷里のことばかり考えていた。放送の声は落ち着いていたが、論理的には矛盾していた。横で後輩が、「この放送が言っていること、論文だったら不採択ですね。」と言ったので、思わず、笑った。彼はきっと、大物になるんじゃないかな・・・なんとなくそんな気がする。

しばらく時間が経ち、歩いて帰ることになった。ざっくり言って同じ方向のひとたち、4人で職場を出る。わたしは暗渠を書き込んだ、紙の地図を持っていた。あまりにも繋がらない電波に、とっくに携帯の電池は切れている。あんなに紙の地図に感謝したことは、後にも先にもない。

九段下で、南へ行く二人と別れた。残る同僚は神奈川の人で、あまり地理がわからないようだったから、兎に角渋谷まで案内することにした。
通りは花火大会のようなありさま。わたしはなんとなく一本裏道を歩きたくなった。そして、以前から気になっていた「あの道」に同僚を誘った。

そこは谷なので、避けたほうがよかったのかもしれないと後にして思う。でもわたしは、崖線の話などに反応してくれるその同僚に、地形や暗渠の話をしながら歩きたかった。不安に直面したくなかったのかもしれない。結果、わたしたちはノンビリと裏道を歩き、気になっていた谷をのぼり、鮫河谷を横切り、そして明治通りで別れた。

あのとき、谷が思っていたよりずっと早く谷の形状でなくなってしまったことは、ずっと心のどこかに引っかかっていた。

わたしが「あの日」を思い出す「あの道」のひとつは、ここである。

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靖国神社付近。2005年からこの近くに仕事で来るようになり、そして、誰に問うでもなく、気になっていた谷だ。

千鳥ヶ淵に向かって、その谷は落ちている。

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千鳥ヶ淵側はこのようになっている。ここにだけぽっかりと団地がある。
(現存するか確認していないが、この写真は2014年のもの。)

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この給水塔も、周辺からすると異色の存在だ。

二松学舎大学の横の道から、目指す谷に入る。

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しかし、あっというまに谷は消えるのである。
たしかこのあたりにはもっと大きな谷があり、そこの下流部であるとばかり思っていたから、どうも辻褄が合わなかった。

その後、3D地形図を自分で見られるようになり、わたしの脳内地形図が間違っていたことが分かる。ここには3つの谷があるようで、二松学舎脇は、その北端のものだった。

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赤丸部分がさきほどの谷(「スーパー地形」より)。川もあったかもしれないが、とくに名付けられた文献をみたことはない。

この、十手みたいな形をした3つの谷は、内堀の形成と深く関係している。
これらの谷にあった川を堰き止めて、千鳥ヶ淵ができたという。江戸城以前は、城の内部を抜ける形で流れていたのではと推測する人もいる。地名として江戸以前から局沢というものがあり、川は局沢川と呼ばれる。この谷は、局沢川の支谷といっていいだろう。

ある日、ふと思いついたことがあった。それを確かめるために、千鳥ヶ淵でボートに乗った。

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ボートで探検したところ、さきほどの局沢支谷の先と思われる位置に、合流口があった。・・・本当にあるとは。
これには、かなりの感動を覚えた。地形は今もなお生きていて、時折、流下した雨水等が、ここから千鳥ヶ淵に注ぐのだろう。その流れは、大昔と同じルートかもしれない。

さて、「大きな谷があったはず」と、わたしに思わせていた別の谷も、確認してみたい。

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もっと深い谷は、すぐ南にあった。

 

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赤丸部分。さきほどの谷とは、比べものにならないほど深い。
そして、千鳥ヶ淵に食われてしまっているので、最下流部がさきほどの谷と異なる位置にある。

まずは、この谷の河口を見にゆこう。

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千鳥ヶ淵に向かう谷筋が見える。冒頭の谷よりも、凹凸としてはだいぶ緩やかだ。

ここの合流口は、ボートに乗らずとも見ることができる。

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フラップゲートがちらり、と見える。この季節は春だが、雑草ですでに隠れ気味なので、冬にゆけばもっとよく見えるかもしれない。

残念ながら、千鳥ヶ淵のボートでは行けない場所だった。

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高速道路に阻まれてしまい、おそらく何者も入れまい。

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その高速道路を含んだお濠と江戸城敷地、後方のオフィスビル群はハイブリッドで、いかにも東京な景色をつくりだしている。

中世以前にはあった流れの名残も、僅かに足元にある。
明治の頃、このへんで近所の子どもたちは釣りをしていたという。主にフナが釣れ、巡査に追い払われながら、遊んだそうだ。

さまざまな時代が交叉する。

・・・さて、局沢川を遡上しよう。

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大妻女子大エリアにやってくる。大妻の体育館は、まるまる谷底にある。すっぽり。
大妻の交差点から南北に延びる坂は、徳川家の厩舎があったため「御厩谷坂(おんまやだにざか)」と呼ばれるのだそうだ。馬が足を洗った池もあったという。
これらと関連して、この谷自体も御厩谷、とも言われることがある。

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主に住宅街だが、ぽつ、ぽつと大妻関連の敷地が続く。
いつのまにか両側の崖が立派になっており、ときどき目に入ってくる。

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その立派な崖には、すてきな階段が。

Jigokukaidan

ここはなんだか好きな階段なのだ。細い家もかっこいい。

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九段小学校のプールの前。やはり谷底に近い位置にプールは設けられている。

ちなみにここの公園にある高架水槽、

Jigokusuisou

色といい錆といい、激しく格好良い。

ここで谷はクランク状になっており、そのまま遡ることはできなくなる。いったん、坂道を上る。

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谷の敷地に学校が相次ぐ。千代田女学園。

この谷は、三番町の谷、とも言われる。大妻に千代田女学園、女子学院も隣にある・・・なんとも女子教育に彩られた谷である。

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テレビ局跡地が広い駐車場になっていて、その少し手前から谷は曖昧になっていた。
途中の崖の険しさにしては、どうもアンバランスな結末、という気がする。

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もう一本、南のものも辿らねばなるまい。
ここは局沢川の本流と言っていい大きさだ。
一番町の谷。それから、地獄谷、樹木谷、黄金谷、小粒谷、などとさまざまな名がある。「麹三渓の記」で三丁目谷、柳川と書かれているものもこれであろう。普段は4~5尺幅の小流であるが、大雨時には洪水となり、床上浸水となることもあったようだ。

河口は1つ前とおなじ。

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ちなみに、河口近辺に、珍しい段差スロープの集合体がある。

歩き出してみると、この谷はほぼまっすぐ、ずっと道路になっている。

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谷底喫茶店。店内にはウーパールーパーがいて、急激に昭和に引き戻される感覚。ナポリタンを食べたが、まだ先に行きたいのでここでは割愛する。

他の局沢支流が住宅とオフィス(含む教育施設)だらけなのに対し、この道は最も飲食店が多く、暗渠めしに困ることはない。

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唐突に甲斐犬が現れた。

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山梨愛にあふれる、Kaijiというレストランだった。

ほか、欧風カレー、フレンチ、創作イタリアン、中華、立ち食い蕎麦など、なんでもござれだ。

「紫の一本」で地獄谷として紹介されるこの地は、「昔この近所にて倒れ死ぬもの、成敗したるものをここに捨つ故、骸骨みちみちたりし故名付く」という、怖く、寂しい場所である。想像することが難しいくらいに、異なる風景である。

Tubonejouryu

あっというまに上流端にきた。
このあたりはおそらく、神楽坂へ移動した善国寺があったため善国寺谷と呼ばれたり、柳川の名のもとになった柳橋が架かっていたあたりではあるまいか。

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奥のあたりで、やんわりと谷は尽きる。
その区割りや雰囲気に、なんとなく川跡の感じはあった。

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明治期の地図でも、3つの谷のうち、ここにだけは流れが描かれていた(「東京時層地図」より)。「三丁目の下水」と言われている。

 

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ただ、この地形はかなり弄られているはずだ。付近では富士見地区(九段南3丁目)に貝塚があり、この谷が古代に水田として利用されたらしいとうことから、谷自体は古くからあっただろう。しかし外濠を作る際に出た土でこの局沢谷を埋め、宅地にしたという記録もある。江戸以前の地形が分かる史料にたどり着けず、もどかしいのだが、ここにはもっと深い谷があったのだろう。しかし、埋めて浅い谷にしても、そこに水の流れは、残らざるを得なかった。

さまざまな時代に、思いも交叉する。都心の暗渠、って感じだよなあ・・・

さて、ゴハン。

局沢谷ではよりどりみどりである。みたび河口に戻り、

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見晴らしの良いレストランにしよう。二松学舎大学の、最上階へ。

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ランチは日替わりのハンバーグや、カレーなどがある。きれいで、なかなかおいしい。時間が遅かったため人がほとんどおらず、所謂大学の学食とはなにもかも異なる雰囲気を堪能した。

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食後にかわいらしいケーキまでついてくる。

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二松学舎ビュー。
最上階のハンバーグは気に入って何度か食べている。地下に学食があり、そちらはまさに食堂で、「これこれ、こういうのでいいんだよ」と、学生に混じりながら味噌ラーメン、ハヤシライスなどを食べた。

もうひとつ局沢谷にある大学といえばここ、大妻女子大学の学食にも潜入する機会があった。

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こちらも地下であったが、名物らしいホットサンドの具のバリエーションがすばらしい。スープセットにして手作りプリンも付けたこと、具の片方がグラタンらしいこと、以外、忘れてしまった・・・食い意地が張っているはずなのだが、数年たつと記憶が薄れるらしいデス・・・

この記事は、前記事同様、「よいまち新聞」配布に絡めて描いたものです。そろそろ次号の配布に切り替わっているかもしれません。そのときは、「よいまち新聞」で検索をかけてみてください。きっと「大手町暗渠ロジー」も、出てくると思います。

<文献>
・「わが町あれこれ」
・「明治百年古老のつどい」
・「千代田区史」

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清水谷、谷底で飲む水

本当のところ、江戸の内側は苦手だ。
それなりに谷があり、暗渠だって存在するというのに、江戸をつくるさいに随分と土地が改変されているから、地形に対する鼻の利きが悪くなる。調べることは大好きだが、私の興味の中心は明治期までであり、読みにくい古い文字を、漁って読む気もあまりしない。特に千代田区なんて、皇居の関係か下水道台帳の秘匿エリアが多いため、気になる吐口を見つけても、台帳を開いて「ああっ(わかんないんだった)!」となるときのムナシサを思うと、いったい自分はどうやって戦えばいいんだ、という気持ちになってくる。
しかし、正体不明ではあっても、そこにあるうつくしい崖や、湧いちゃった水や、気になる地形は辿らざるを得ない。まして都心の谷は、さまざまな所用のついでに寄りやすく、つまり、やっぱり良いものなのだ。
 
上智大学の裏側で出会うこの崖は、なかなか凄い。
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これもよいのであるが、あるとき、そのさらに下の、壁が剝き出しになった駐車場に目が吸い寄せられた。

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こういった「現代の遺跡」には、なぜか心躍る。

遺跡も含め、ここは清水谷、という谷である。
 
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                                                       カシミール3Dより

上智大の裏から赤坂見附に至る、ごく短い谷だ。今回は、清水谷を練り歩くとしよう。
 
上智大の奥にまわり、坂道を下る。
 
Smzkabe2
 
この擁壁は圧巻。
昔はさぞ暗く、怖い道だったのではないかしらん。
 
じっさい、清水谷の一角にはこんもりとした森があり、戦前までは子どもが寄り付けない雰囲気を放っていたという。
もう少し下の清水谷公園は、小泉八雲「むじな」の舞台でもある。商人が女性に、「こんなところにいては危ない」と言いたくなるような、人気のない、さぞ恐ろしい場所だったのだろう。
 
それから、場所が曖昧ではあるのだが、カレー屋のみえるあたり、このあたりに江戸初期、遊郭があった、とも言われている。こんな傾斜地に?まあ、川沿いではある。ここ麹町遊郭をはじめ、3か所の遊郭が吉原にまとめられたのだそうだ。
麹町遊郭は、もとは京都から移転したものといい、吉原に移っても「京町」なる一角を形成し、京都出身ということに誇りを持っていた。大見世があったのも京町。吉原の区画では、もっとも奥に位置するものである。
 
下ってゆけば、視界が開けて冒頭の駐車場のところにくる。いつの間にか、駐車場には入れなくなり、工事らしきものが始まっていた。
なぜか「だし」の自販機がある。
 
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清水谷公園にさしかかる。

「清水谷」の由来は、この谷に柳の井という井戸があり、清冽な水が絶えず湧いていたことからきている。その井戸のイメージが、公園の中に設置されている。
 
Smzido

「八丁目続き、今の麹町谷町と称する地なり。古は67丁目の地はすべて清水谷と称せしか、四ツ谷御堀の揚土をもて78丁目の地を埋めしといへる也」

河内全節「番街誌略」によれば、これでもこの谷は江戸期に埋められている。もう少し、上に続きがあったかのようだ。
 
Smzmap3

東京時層地図((財)地図センター)、「文明開化期(明治9-19年)」を見てみる。冒頭の駐車場の位置に、池がある。そして、谷底に細い細い流れがあって、弁慶堀に注ぐことがわかるだろう。

Smzmap

同じく東京時層地図にて、大正5~昭和2年を見ると、このころには水路はなくなったかのように見える。

 

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ところが、それよりも後のはずの火災保険特殊地図(1953~55年)を見ると、流れは残っている。上流部など、道を逸れて敷地に食い込んでいる。

 

川、というには、細すぎるだろうか。
この清水谷には、明治期にも、昭和に入ってからも、流れが見られた。地形としては江戸時代に弄られているはずだが、それでも残る高低差に、水は絶えず湧かざるを得なかったのだろう。
 

しかしこの谷、じつに短い。
もうそろそろ、河口だ。
 
現在は「東京ガーデンテラス紀尾井町」が建っているが、これもごく最近のこと。
建設中は、赤プリ時代の写真なんかが、工事現場の壁に貼られていた。
 
Smzpool67

そこから拝借。おお・・・赤プリのプール、お濠の上じゃないか。景観を意識してのことかもしれないが、水の流れ的にも正しい位置だ。などと、思う。

 

そのお濠、弁慶堀は水面の残る貴重な場所。
 
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弁慶橋が架かる。

 

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ただしこの弁慶橋、もとは神田藍染川に架かっていた、とどこかの文献で読んだ。

 

弁慶堀には釣り堀があって、ボートに乗ることができて、ここだけ昭和の空気が漂っている。清水谷を流れてきた川の、河口の痕跡が見えないだろうか。雨水の合流口がぽっかりと在ることが、まあまあある。暗渠を歩くときには、できるだけ河口まで見ておきたいものである。
そう思って、ボートに乗りに来た。
 
Simizukakou_2

うーん・・・アレ・・・かな?

 

判然とせぬまま。
まあ、ボートでくまなく探索したので、これで良し、といたしましょう。
 
さて、ごはん。
清水谷の、井戸から湧き出す清水は、道行く人たちののどを潤していたという。
しかしその、のどを潤すものは、水だけではなかった。
 
ビール。
 
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前掲の地図の、行政裁判所と清水谷公園との間に、ビール工場があった、という。
明治期の地図に、工場のようなマークが入っている。大きな池のような描写も、恵比寿にあったビール工場のそれと似ている。
 
そのビール会社は、「櫻田麦酒会社」といった。
横浜で創業された、わが国最初のビール工場の代理店であった会社が、ここ紀尾井町に醸造用水等の理由から工場を移転。明治の、ほんの一時期、こんなところにビール工場があったのだ。
のちのアサヒ・サッポロの前身、大日本麦酒になってゆく会社である。
 
明治10~20年代の国産ビールといえば、この櫻田と、浅田であった、という。
浅田。
それは中野にあり、本ブログでもだいぶ前に桃園川支流の記事で話題にしている。
そして、前掲の地図に、伏見宮邸、という文字も見える。加藤清正の下屋敷が井伊家中屋敷となり、伏見宮邸となって、現在はニューオータニである。そういえば、中野にも伏見宮別邸があった。そして伏見宮別邸の近くには、浅田ビール工場があった。なんだか、ビールに縁のあるおかたで・・・
 
今は工場はないけど、ビールはある。
清水谷の暗渠がちょうど見える位置に、オーバカナルがある。
すばらしいことに、「牛肉のビール煮」もあった。
 
Beer

 

ビール煮、うまうま。
目の前に湧水と水路があり、左上の崖の上にビール工場があった。
とっくのむかしに、それは無い。
でも清水谷の谷底には、いまでも良い水があり、道行く人の喉を潤している。

 
さて、この記事は「よいまち新聞vol.3」に寄稿した、「大手町暗渠ロジー」という記事に合わせて書いたものです。
大手町ホトリア地下にあるよいまち、という飲食店街のラックにて、よいまち新聞配布中ですので、ぜひそちらも読んでみてくださいまし。
 
Yoimati

 

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三軒茶屋を流れるもの

 

三軒茶屋に行くと、「弟を心配する自分」を思い出す。

 

Taisi5

 

年の離れた弟がいる。

年が離れているから、ろくに喧嘩もすることなく、なんとなく仲良くやってきたように思う。

弟には、なんとなく深く悩んでいそうな時期があった。

そのころ彼は、三軒茶屋に住んでいた。

わたしは親の心配なども背負って、ときどき弟に会いにいき、一緒にご飯を食べたり、買い物をしたりしていた。 

 

だから今でも、三軒茶屋は「弟を心配する自分」の空気が残っている街だ。弟はとっくに転居し、もうそこに住んではいない。彼がこの街に居ないことを、なぜかわたしはさみしく思う。そして、たいした用はなくっても、たまに訪れてしまう。

 

田園都市線の改札を出て、246を歩く。茶沢通りを進んで下の谷商店街を歩いてもいいのだが、弟の家に行くときにみつけた、ある暗渠を歩きたいので、246を歩く。

 

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テル子支流と呼ばれている暗渠だ。はじまりの細い路地が、いつの間にか綺麗になってしまっていた。

 

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この細い路地が、たまらなくいい。

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その先少し幅広となって、弧を描く。そこにあるテル子女神像が、この支流の名前の由来。といっても、適当に呼んでいるだけだけれど。

 

この暗渠が合流する先にあるのは、烏山川である。立派な緑道となっている。

 

 

この「三軒茶屋あたりの烏山川」のことを、三好達治が描いている。

 

ある年の5月に、三好は散歩に出かけた。5月は散歩に良い。三好は「とある大通りの、そこからその道の向こうがゆるやかな谷底になって」、川のありそうな場所に出る。家が途切れ、麦畑になる。

 

三軒茶屋の駅近辺に向かおうとする際、烏山川を渡る。

「そうした私は橋板のつぎはぎだらけな木橋の太子堂橋というのの上に立ちどまった。水の音がさらさらと声をたてている。そのせせらぎの起こっているところは、そこからずっと上流の方へかけて見通しになっていて、その両岸からここではまた鮮やかな緑の枝がところどころ危うげに傾きかかっているのが眺められた。」

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なかなか風情ある景色・・・しかし描写はこのようにつづく。

 

「それは一寸洒落ていたが、けれどもその下を流れる水量の乏しい水は真っ黒な汚水で、汚水の臭気は橋の上の私までは届かなかったけれども、夏蜜柑の皮のいっぱい散らかっている間から起こるそのせっかくのせせらぎの声は、やがて私に戦慄を伝えないではおかなかった。」   三好達治「東京雑記」より

 

 

麦畑と鮮やかな緑の並ぶ川沿い。

しかし、川はくろぐろとしている。

 

あのときの弟は、くろぐろとしたものを抱えていたのかもしれないが、それをわたしに直接見せることはなかった。ただなんとなく、感じ取ることはあった。あのとき、わたしはもっと水面を見なければならなかったのだろうか。わたしたちは、好きなゲームやマンガ、最近作った料理の話、弟の家の近くの猫の話、そんな話ばかりしていた。

 

いま、烏山川はまったくそのころの面影をとどめていない。きれいな緑道になっていて、その装飾が想像させようとしているものは、澄んだ水が流れていた頃の烏山川なのである。実際は下水が流れているのだが、きれいに蓋をされ、安全にガードされている。

 

Taisi3

 

 

いま、弟は、わたしよりはるかに頼れる人物になっており、みなにやさしく、しっかりとした社会性をもっている。わたしが心配されることさえある。弟はいつのまにかおそらく、くろぐろとしたものを、乗り越えていたのだった。

 

三軒茶屋に行くとかならず寄る店がある。あの三角地帯の中華饅頭屋、包包。この店も、弟が教えてくれたもので、彼は海老包が好きだったらしい。この日は高菜と角煮入りまんと、なにも入っていない包と、春巻を買った。

Taisi10

 

 

何故わたしは、弟がこの街に居ないことをさみしく思うのだろう。もしかしたら、わたしは弟を心配するという、長子らしいことをしたかっただけなのだろうか。その役目を果たせたのかどうかも、よくわからない。

 

たぶん、わたしにとって三軒茶屋はいつまでも、「弟を心配しに行く街」なのだ。

弟はもうそこにはいないのだけど。

 

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3月イベントのお知らせ

3月後半、いくつか暗渠のイベントをしますので、ぜひいらしてください!
1つめ。 3月20日(日) 昼
西荻ラバーズフェス の古本屋ステージにて、
11:15頃から、
「ロスト・リバー・ハンティング~暗渠道入門」(トーク&ツアー)
少しだけ暗渠の話をして、1時間半ほどのツアーを行います。
ツアーは、フェス会場から始まって2か所の用水路暗渠(六カ村分水)をたどり、その地のむかしに思いを馳せるもの。特別に潜入?する場所もあります。
10~15名ほど、参加費無料。
当日会場で希望者を募りますが、予約者優先、予約されたい方は西荻案内所まで。
2つめ。同じく3月20日(日)夜は、
「観光まちづくりシンポジウム すぎなみ「道草のススメ」 桃園川と飲み屋街散歩」
というトークをします。
午後5時 ~ 午後7時
開催場所:細田工務店リボン館2階(阿佐谷南3丁目35番21号)
内容:杉並区内に迷宮のように広がる桃園川(暗渠)と中央線沿線に今も広がる風情ある個性的な飲み屋街をテーマに、歴史的背景から生み出される個性的な「まち」の形成について各専門家による独自の視点からお話し頂きます。
申込:当日、直接会場へお越しください。
講師:吉村生(暗渠研究家)、髙山英男(暗渠研究家)、小川勝久(マイタウン阿佐谷協議会会長)、森口剛行(阿佐ヶ谷飲み屋さん祭り実行委員長)、松原隆一郎(杉並まちなみ愛好家・東京大学教授)
定員:120名(先着順)費用無料
3つめ。3月21日(祝)は、船橋にて、
「暗渠マニアック!+千葉スリバチ学会 滝口さんと歩く城門川」
というまち歩き。
集合場所:飛ノ台史跡公園博物館(※)の入り口前に午前10時集合。
※東武アーバンパークライン(野田線)「新船橋駅」から徒歩約8分、東葉高速線「東海神駅」から徒歩約12分、京成線「海神駅」から徒歩約15分。
小雨決行(悪天候の場合の中止連絡は千葉スリバチ学会のページで行います)、途中参加、途中抜け可、参加費無料です。
午前の部 集合10:00 @飛ノ台史跡公園博物館
飛ノ台史跡公園博物館の山本さんに公園内、行田海軍無線塔跡地、日本建鐵跡地を説明していただきながら散歩をします。その後、昼食休憩。
午後の部 再集合13:00 @飛ノ台史跡公園博物館前
船橋地名研究会会長の滝口さんによる説明を聞きながら、城門川を水源から下ります。
申し込み不要。午前か午後どちらかだけの参加も可能です。
4つめは、3月22日~29日。
「松庵川展」を、西荻案内所で行います。
こちら、会期中にさまざまに形を変える、いきもののような展示になりそうです。
詳細は追って。
4月5月も予定あり、後日お知らせします!

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滝口さんと歩いた宮本川

お久しぶりの更新は、いつのまにやら大晦日。

2015年は、暗渠を通してさまざまなひとたちと出会い、新たな試みをおこなうこともできた、実に幸せな年でした。暗渠マニアック!発売以降、いよいよ日々の発信が出来なくなってしまいましたが、何かしら「貯めて」はいますので、ごゆるりとお待ちいただければ・・・と思います(すみません)。
2015年最後の記事は、暗渠マニアック!的宮本川ツアーの、後日談とします。
船橋の章は、現地の往復、そして郷土史家による文献を読み漁って書いたものでした。もっともお世話になったのが、滝口昭二さん。実に幅広く地元の歴史をしらべ行動されているかたで、調べたい事項は必ず滝口さんの文献に行き当たり、思いつくルートは必ず滝口さんが既に歩き記しているという、まるでお釈迦さまのような存在だったのでした(笑)。
宮本川ツアーの準備をしているとき、どうしても一目見たい、と思った古地図がありました。その地図をもとめ、お寺や小学校を回っていたら、なんと滝口さんに紹介していただける、という巡りあわせがありました。そして初対面はいきなり、宮本川を滝口さんと一緒に下る、という、ミニイベントに発展したのでした。
滝口さんはたいへん気さくな、そしてわかりやすく魅力的なお話をされるかたで、もちろん知識は豊富、手製の地図も丹念で、探究者として自分のモデルにしたい、と強く思いました。そしてなにより、ご一緒した宮本川では見えていなかったこと、周辺情報、生きた情報、さらなる深堀を経験できたのでした。
過去記事と重複するため、宮本川の詳細は省きます。以下、宮本川記事の補足を兼ね、新発見を羅列したいと思います。
まず、上流端の池についてはあまり変更はありませんが、高根道までの水路は、滝口さんでさえも「はっきりとはわからない」とのことでした。わたしが推している日枝神社下の小溝は、「湧水や雨水排水路があったかもしれないが、本流とは言いがたいかも」という推測でした。高根道に沿った流れ、ということがやはり有力であるようです。
最大のおどろきは、わりと初っ端に起きました。
その高根道を過ぎた場所もわたしにとっては不明瞭で、地元の方がガストの脇を流れていたよ、と仰ったことのみが得ていた情報でした。
滝口さんは、ここに「2流ある」と仰っていました。その片方は、
Miyar2
ここだというのです。
暗渠サインばかり目指してしまう自分としては、これほど「匂わない」場所はありません。ちょうどこの1ブロック隣に、いかにもあやしい細道があるのですが、それは「以前銭湯があり、通路として貸されていた私有地」で、暗渠ではない、ということでした。
かといって、ここだとは。一人で来たら確実にスルーだと思います(してました)。けれども逆さU字溝の隙間から覗き見れば、たしかに空間が残っていました。
しかもなんと、所有者とお知り合いだということで、奥の敷地にまで入れていただけました。
Miyar3
するとそこには、
開渠が。
Miyar4
まさか、こんなに立派な開渠が。ええー??
こんなことが、あるのか。千葉スリバチ会長と、高山氏とともに大興奮して写真を撮りまくりました。
それから、
Miyar1
まいまいずマンホール(もしくはスリバチマンホール)の通りが水路である可能性は薄そうです。既に並行するものが2本あり、ここの道路に水があった記憶があるかたはいませんでした。
この日、奥にあった神社は、きれいに散髪されていました。以前はもう少し広かったのだとか。
Miyar5
ガスト脇の暗渠がでてくるところ。先ほどの開渠との合流部でもある。
ここは以前も暗渠であろうと推測していた場所だったのですが、そこに滝口さんの記憶が合わさると、見え方がまただいぶ変わります。
ここに、たしかに開渠があった。そして、ドブの脇には細道がついていて、そこをよく歩いていたのだそうです。小学生のころの、滝口さんが。(脳内CGでどうぞ。)
おつぎは、わりと好きで毎回撮っていたここ。
Miyar6
ここは水路ではない、と通りがかりの人から言われてしまいました。奥の家(現在は廃屋)への入り口だったと。
たしかに、住宅地図を見ても、ここに水路マークはつねに無いのです。滝口さんも、そうかもしれないと思ったこともあるが、ちがうようだ、といった結論のようでした(はっきりとは否定されないところがお優しいのです~)。
が、小学校脇を進むと、
Miyar7
ここが小学校の排水路なのでは、ということでした。これは見逃していた!
宮本小学校の敷地に入れていただいたさい、小学校の縁のところには、ちいさな側溝がありました。もと水路かどうかは、なかなか判定の難しい雰囲気の側溝でした。
しかし、この排水路暗渠が存在することで、さきほどの家への入り口と言われた小径とここはつながり、となるとさきほどの空間も、傍流であった時代があるのではないか、と思わされるのです。傍流の存在は、小学校の敷地が複雑なくねりを見せている理由にもなるのではないか、と。
などと、往生際が悪いですが、ここはもう少し課題とすることにして。
宮本小の中には、砂山がふた山あり、上に墓地があった時代があった、なんて話をしたと思います。前校長の山本さんに教えていただいた情報でした。
その名残、もうないと思っていたら、いまもありました。
Miyar8
墓地井戸、と呼ばれていた(る?)そうです。
墓地で用いる水を供給していたのだとか。
それから、
Miyar9
小学校の向かいにはほんの少しだけ、墓地の名残がありました。
嗚呼、川沿いだけを歩いていたからどちらも気づかなかった。砂山の上にたっていた墓地群。いまは写真でしか拝むことができませんが、すべてが消えていたわけではなかったのでした。
Miyar10
もう少し下ったところ。文具店脇からザクザクっと入ると、変わった車止めがありました。
この「ザクザク入る」は、なかなか勇気がいるものです。しかし滝口さんは天晴な行動力の持ち主でした。また、お知り合いも多いので、「○○のところの滝口です」「あらぁ、どうも」と怪しまれることもないという。
Miyar11
下流部。
ここも滝口さんはザクザクと分け入っていきます。つられて我らも入ります。
滝口さんの旧地名、小字名、通称名などとにかく千葉の豊富な情報をお持ちです。いったいどうやってそれらを調べ抜いたのか、その術をいつか知りたいと思っていました。なんとなく、この行動力は一因であるような気がしました。
河口までいき、漁業権の話、ホテル市松の話、いろいろうかがって、名残惜しくも解散しました。むかしの街並みがより見えてくるような、たくさんの情報をお土産にいただいて。
さて、ゴハン(これ久しぶりw)。
市川の駅前、「かっぱ」で焼き鳥。
なぜ市川にきたのかというと、「市川真間に砂山の名残あり」と教えていただいたからです。宮本小にあったという2つの大きな砂山は、現在しか知らぬ者にとっては信じがたいものです。少しでも想像する手がかりを得ようと、滝口さんと別れたあと、市川真間に寄りました。・・・そこでの経験のことは、またいつか。
Kappa

かっぱは、市川駅前を見渡したときそこだけ空気がちがっていて、なんとも気になるお店でした。入ってみたら中にかつての市川の鳥瞰図があって、あれこれ復習ができてすごく良かったです。
中も外も、とても風情がいい。
にんにくしょうゆたれで、焼き鳥を数本。ビール。
ぷはー・・・やっぱいいよなあ、バーチー。
そうそう、今回の行程です。
Photo
カシミールスーパー地形セットを触ってみたかっただけです。
宮本川のため、いったい何度東船橋に行ったことだろう・・・
わたしが幼い頃に見ていた東船橋とは、まったく異なる、世界の見え方でした。
Miyar12
おまけ写真。ずうっと時をさかのぼって、於東船橋。いとこと公園で遊んだときのもの。残念ながらこの公園がどれなのか、記憶にありません。土管のある公園、当時はよくある景色でした・・・
それなりに親しみのあったこの地、自分で探ることもとてもたのしかったけれど、滝口さんと歩くことも、ほんとうにたのしかった。滝口さん、山本さん、お世話になり、ありがとうございました。

そして最後に、お知らせがあります。
現在、滝口さん、そして山本さんにご協力いただく暗渠ツアー(+α)の企画が進行中です。
タイトルは、「暗渠マニアック!+千葉スリバチ学会 滝口さんと歩く城門川」。
日程はちょっと先ですが、2016年3月21日、海神あたりを歩きます。
詳細は今後、いくつかのSNSも使いつつお伝えしてゆきたいと思いますので、ご興味おありのかた、どうぞよろしく!
この宮本川ひとつとっても、御礼を言いたいひとは山ほどいます。書ききれないほど本当に、たくさんのかたがたのお世話になった1年でした。
あらためて、どうもありがとうございました。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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暗渠蓋コレクションvol.3

あまり記事が書けないので、気まぐれにかんたんに更新しておきます・・・

                                              ***

No.7
蓋に蓋。

わたしたちはやや昔、汚い川、邪魔な川、危ない川たちに、蓋をした。
蓋をしたその場所は道路や、子どもの遊び場や、駐輪場などになった。

いま、東京では現役の川の真上に高速道路が走っていることもある。
そんな、高速道路の裏を見上げて、「あ・・・蓋」と、思うこともある。
広い意味では、蓋をされていると言ってもいいのではないか、と思ったりもする。

Huta7

ここの谷沢川は、子どもの遊び場と駐輪場となった暗渠、その上を覆う高速道路と、すべてが揃っている。
蓋の上に、さらに蓋。暗渠のエリート、みたいな場所なのかもしれない。
立派に残る橋の欄干も、心なしか誇らしげに見える。

(世田谷区玉川台2丁目)

                        ***

No.8

ゴミ置き場蓋。

川崎あたりではよく見られるゴミ置き場蓋。だけどもここは杉並区、松庵川の中流部。
コンクリ蓋がゴミ用に仕切られるという、ちょっと珍しい光景だ。

Huta8

手前のコンクリ蓋と、奥のコンクリ蓋との会話に、耳を傾けてみよう。

手前「アタシんとこなんて、毎日まいにちゴミが置かれてさあ、クサくてたまったもんじゃないわよ。」
奥「でもアンタ良いじゃないの、そのおかげで時々ニンゲンに掃き掃除してもらえるんだから。アタシたちんとこ見てごらんなさいよ、砂とか埃とか、ほったらかしでボサボサよう。」
手前「そういえばそうねぇ。どっちもどっちだわねぇ、アハハ!」

(杉並区宮前3丁目)

                        ***

No.9

スベリ台蓋。

Huta9


西荻窪にある謎の多い暗渠のひとつ、城山下支流(仮)には、こんな場所がある。
直角に流れ進む暗渠の、あるところはコンクリ蓋だし、あるところはアスファルト蓋なのだけれど、ここだけ、入り混じっているのだ。左側の家の要請でアスファルトを盛ったのが、一部で良いという判断か、節約か。

それがちょうどよい塩梅の傾斜で、わたしはいつも、冬になると実家の庭につくっていた、雪のスベリ台のことを思い出す。
ゆるやかな、ちいさな、わたしだけのスベリ台。
ミニスキーを履いて、気持ち良く滑るのだ。

ここに雪が積もったら、見に来てみよう。


(杉並区西荻北2丁目)

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 船橋市場編

また間が空いてしまいましたが。バーチ編、今回は船橋にもどります。
船橋駅から線路沿いに東へゆくと。

Iti1

海老川が見えてきます。
海老川は堂々たる開渠なので、今回の目的地ではありません。しかし海老川の支流に行きたいので、海老川沿いに遡っていきます。
「市場小」なる表記が見え、おもしろい名前だなあ、などと思っているとこの辺の左岸はそもそも住所が「市場」なのです。おもしろいなあ。

すると、

Iti2

船橋中央卸売市場が見えてきます。

今回は最初に、まずここで朝ゴハンを。

Iti3

この市場、ぜんたいに年季が入っていて、この食堂エリアの店々の佇まいなんて非常に好みです。

ど ・ こ ・ に ・ し ・ よ ・ う ・ か ・ な 。

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いいお顔のお店が何軒もあって迷いましたが・・・、なんとなく、大乃家にしました。
魚系のメニューが充実していそうな雰囲気。で、お刺身の定食にしました。色々ある中から、マグロとホタテを選択。

Iti5

うま!!!これが非常にウマかったんです。
もう前すぎて値段の記憶が・・・700円前後だったんじゃないでしょうか?たしか。
朝ルービー、卯の花、手作りっぽい白菜の漬物。いずれも美味。なにより、ホタテは新鮮ぷりぷり、マグロは何種類か選べたので2種類頼んだ気がするんだけど、これがまたイイやつ。通常はわたしは新鮮じゃないと食べにくいアジもむしろおいしいと感じ(=とても新鮮)・・・兎に角コスパが良かった。

これまで、暗渠さんぽのついでに”市場めし”ってちょくちょくやってきてるんですが、いまのところ、(関東では)船橋市場のめしが最高!です、実は。これはまた来たい・・・近くだったら通うレベルだわ・・・

ふぅ、力説してしまった。思い出したらまた行きたくなってきた。

・・・ゴハンのためだけにこの地に来たわけではありません。
この市場は、海老川沿いにあるだけではなく、今回見たい海老川支流「市場川」の上に建っているものでもあります。

少し、この土地のことを。むかしは一帯を「五日市」といいました。
船橋大神宮のおひざ元、室町時代のいつ頃からか、このへんには5の日に市が開かれたといいます(駅近辺は9のつく日だったので九日市)。「市場」という住所になったのは、昭和40年代のこと。ということは、「市場川」なんていう名前で呼ばれたのも昭和40年代以降なのでしょうか。

むかしは5のつく日だけに立った市。いまはねんじゅう開いている、市場のある場所。

この船橋中央卸売市場の東側は、以前は「城ノ腰」という字名でした。今昔マップon the web にも、

Konjaku

城の腰松、が載っています。左上の水車も気になりますね。
平将門の腰掛の松、という伝承が残っているとか。

また、ちょうどこの場所、中世の城館跡の可能性がある、というのです。市場造成(史料には工場と表記)は昭和14年らしいのですが、それまでは市場の敷地に土塁状の土手があったそうです。
中世の武士の城館!・・・これはすなわち暗渠サインです。
とは思ったものの、この地は年代によって海になったりもするところ。中世の前半、夏見台地の南側には夏見入江が広がっており、標高からいって城ノ腰の西側は水際であったとされますから、この城の濠は川ではなく海、海城であった、ということになります。

Itibainnei

陰影図(google earthさんありがとうございます。赤丸内が市場/城ノ腰)をみてみても、少し高いのがわかる。市場をつくるために盛ったわけでなく、天然で高い、というわけです。むしろ土塁等が削られ、以前より低く均されていることでしょう。

Itukaichi        「写真でみる船橋1 五日市」より

五日市の小字の地図でも、城ノ腰だけ小高いことがわかるような、特殊なかたちをしています。
この城館に誰が住んでいたかも(そもそも城とも確定していない)わかりませんが、松戸の史料に出てくる「船橋の海賊」ではないかとか、峰台城の出城ではないかとか、ロマンいっぱいの想像をしている人もいたりします。

さて、この場所に流れ込んでくる川が見たいんだった。

Iti6

市場から、通りを挟んですぐ、開渠が顔をのぞかせます。これがウワサの、市場川さん。
船橋市のウェブにも、普通河川として載っています。

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振り返ると、市場の壁が見えます。
いま見えている開渠が、市場川の目視できる最下流部ということになります。

Iti8

遡りましょう。

Iti9 

意外にも、微量ではあるけれど、わりと清らかな流れがありました。

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家々の間をハシゴ式開渠が縫っていきます。

しかしこれ、暗渠さんぽになってないぞ。

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小さいバケツ。
ひとびとの生活感とともに。

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僅かに橋。

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植木置場とか。

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やっぱり、さらさら流れてる。

こんな平地で、どこからくるのか?排水なのか湧水なのか?この水路、なにものなのか。

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曲るときもある。

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看板、誰が見るんだろうあの向きで。

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と、唐突にきました。蓋暗渠。
なんだか新しいです。

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横には支流らしきものも。

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囲われ暗渠。なんだか、ピシっとしています。

Iti20

と思ったら、また開渠になりました。

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細い支流もありました。

このすぐ隣のブロックに、市立船橋高校が建っています。市船といえばサッカー。
先日TVで、ペナルティのひとが、市船サッカー部は過酷なランニングのすえ、近所のドブ川の水も飲んだ、などと回想していました。聞いていてまっさきに思い浮かべたのはこの市場川。海老川の水は飲む気にならないけど、市場川の水なら、これなら・・・いや、どお腹こわさないかなあ・・・。

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本流は開渠のまま、しぶとく水を湛えています。

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あ、未舗装暗渠に変わった。

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いいかたちになってきた。

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いよいよ、狭くなってきた。

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以降は明確な暗渠はなくなって、地形的にたぶんここ、というところ。

でもそれまでで、上流端は見失います。

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ぐるぐる歩きます。このあたりかなあ?

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夏見台地の麓の(つまりこの崖の下の)湧水をあつめた流れなのかなあ、などと推測しながら帰ってきました。

ちなみにこのとき、非常にトイレに行きたくて、しかしなかなか近くに無くて苦心しました。わたしには暗渠と食事をセットにしないと気が済まない一方で、お腹を壊しやすいところがあります。ですからトイレの存在は大事。千葉では、トイレ難民になることが少なくないから、慎重に行かねばなりません。ただし、千葉のコンビニのトイレは、個室が広かったり、個室が2つあったり、シャワートイレだったり空気清浄機がついていたりと、快適なものが多い気がしています(都心だとトイレがない/使えないこともありますからね)。これをわたしは、”千葉の余裕”と呼んでいます・・・

Iti29

・・・なんの話だっけ。

そうそう、もうひとつ、帰り道に見つけた謎の空間があったのです。
まっすぐまっすぐ延びる、暗渠様の場所。

近づいてみると、

Iti30

またこれだ。
千葉編を書き始めて何度か遭遇している、陶器片が敷き詰められた空間。最初、「麻雀杯か!?」と思う癖が抜けません。

Iti31

ここは陶器片だけじゃなくって、いろいろと変わってました。

謎穴から飛び出ている何かと、それを守るものたち。

Iti32

落とし穴w
ちょうど、やってきた方向に延びているので、これをたどって家路につきました。

さてさて。
これで終わり、とお思いでしょうか。暗渠率も低かったし、最後の空間も謎のまま。
実は、ここの取材はしてみたものの、どうもパンチに欠けるなあと思っていて、それでお蔵入りにしていました。その後、別な調べものをしていると、少しずつ情報が増えてきました。

城ノ腰のところで触れましたが、大昔この地の海岸線は現在よりもずっと北東にありました。現在開渠で海老川に合流する飯山満川、前原川は合流せずに個々に海に流入していたといいます。そしてそれらの河口には三角州が形成され、城ノ腰付近まで伸びていった。そして城ノ腰が前述のように小高くなった。そして、その後この地は海ではなくなります。田圃のひろがる低地になったのでした。

船橋の郷土史家滝口氏は、このあたりの用水路を抽出した地図を作成しています。それを見ると、現存しない水路が東西にたくさん走っています。田圃を潤していた無数の路です。
船橋の田圃のうち谷津田の多くは台地の麓から湧く水(シバレミズという)を用い、標高の高い方に用水、谷の中央に悪水路がある。今回の舞台になっている場所はその東側に宮本台地があり、宮本斜面には”飯山満川からの引き水が目立つ”と滝口氏は描写します。

ハテ。飯山満川はもっと北東を流れているのではあるまいか。
どうも、飯山満川から引いて来た用水というものが仮定されていて、その用水が宮本斜面に沿って船橋大神宮のほうへと、南北に走っているようです。前掲の城ノ腰松の傍にも水路らしき線がありました。
そこからの分流が、いくつも西流していくというわけで。城の腰のまわりもぐるりと用水路が走っていました。

Zentaimap

ここまで書いてきたことをプロットするとこういった感じ。
オレンジ点線が飯山満川から引いてきた用水路、現在はほぼ道路で、その対になっている悪水路が海老川といえましょう。こうやって陰影図をみていると、いまもいちめんの田圃であるかのように錯覚してしまいます。

最後に見た謎空間(黄色点線部分)は、田圃への用水路だったろうと思います。ただし、前述の用水路ではなくもっと北から引いてきた流れだと思いますが。
田圃がなくなったいま、車道にもならずにあんなふうに残っている、これも暗渠だったのか(似た空間は他にもあります)・・・

Iti29

滝口氏は次のように続けます。
”市立船高の北側から北は市場通り、西は農協のあるあたりまでは傾斜も少ない土地なので比較的早くから水田化し、台地麓の湧水で間に合っていたのではないか。”

この場所は、ほぼ市場川の流域のこと。

用水路たちが無機質な直線であるのに対し、市場川がこんなに曲がりくねっているのは、湧水たちがこの傾斜の緩やかな場所で彷徨った証ではないでしょうか。

市場川、中世のころは城の周囲をとりまく濠としての機能はあったかもしれない。
その後、田園地帯だったころは、夏見台地の湧水を湛えた用水路だったのではないでしょうか。もしかすると、いまも、流れているのは湧水なのかもしれない・・・

この、新たに知った歴史のこと、地形のことを思い浮かべながら、またあの流れる水を見にゆこうと思います。またおいしい朝ごはんを食べて。

寝かせていた千葉もの編、今回は軍事が出ませんでしたが、次回はがっつり触れることになる、はず。気力があれば、そうします(笑)

<文献>
「写真でみる船橋1 五日市」
創立50周年記念船橋市立宮本中学校「わが宮本」
滝口昭二「夏見低地の水田化について」史談会報第25号
長谷川芳夫「船橋地誌 夏見潟を巡って」
「船橋のあゆみ」
「ふるさとの地名~船橋・鎌ヶ谷の地名の由来を探る~」

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 海神編

だいたい、名前からして、かっこいい。

海神、だなんて。
駅名にもある「海神」は、むかしから路線図で見るたびにキュンとしていた地名。あまりにかっこいいので、近年できたものかと思っていたほどでした。

ところが意外に「海神」は古くからある名で、太古の人たちが海の平安と大漁を願い、この名をつけたのだといいます。日本武尊が「海から上がった神を祀るところ」とした、という説もあります。

海神周辺もまた古くから人が居たようではありますが、農地と塩田が多かったそうで。それが大正期に海神駅ができると次第に宅地化されてゆき、なかでも「海神山」と呼ばれる砂丘は、東京湾や富士山の見える風光明媚な高台であったため、軍人あるいは外国の武官・留学生などが多く住んだのだそうです。馬具や馬、サーベルのガチャガチャする音などがよく聞こえ、それゆえ「将軍山」と呼ばれることもあったとか。
そんな海神山は、昭和5年(8年説も有)には「海浜別荘地」として京成電鉄により分譲され始めます。周囲からみると、憧れの土地だったのかもしれません。

・・・さて、暗渠さんぽの舞台は、もちろん高台なんかではありません。その海神山の、麓が今回のメイン。城門川、です。

Jomoninei

新船橋の南、海神の北。このあたりのおはなしです。google earthさんありがとうございます。

城門川の水源は、「飛谷津」にあります。
海神山(右岸)と反対に位置する隣の台地上(左岸)を、飛ノ台といいます。遺跡が有り、縄文時代から人が住んでいたことが明らかになっています。
この飛ノ台はおそらく飛谷津から影響を受けた名ではないかと思われ、「飛谷津」の指す意味は、トビ=ドブ=低湿地、と推測されています。実際、宅地となる前は一面の水田だったそうで、それは昭和23年の米軍撮影航空写真でも確かめられるようです。

それでは飛谷津の最深部までいってみましょう。

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確認できる限りの上流端はココです。(この手前は、地割の感じも違います。)

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蓋に沿って入ってゆくと、この位置で暗渠は太くなり、しかし入れなくなります。
自転車か何かが入れるようにと、手づくりの橋様のものが渡してあるんですがね・・・それを、さらに手づくりのフェンスで食い止めてあるのです。いったい何と何の攻防なのか・・・

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入れないので、仕方なく、交叉してくる道路から城門川を眺めます。
いま、立っているところが盛土で高くなっていて、

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道路を越えると、すんごい渓谷みたいに見えますが、これはおそらくほとんど盛土のせい。

それを証拠に、この一角を抜けると、

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唐突に平坦になります。

矢印のあたりを、奥から城門川が流れてきて、右に曲がっていきます。

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そして矢印の位置を下っていきます。歩道のように見えますが、先を見ると、ところどころ行く手をガードレールにふさがれています。この不自然さがまさに暗渠。非常に歩きにくいw

ここから暫く、城門川は鉄塔地帯の下を流れます。頭上も足元もたのしめる、というわけ。

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おそらく右手の植込み=川跡で、ここで道路を斜め横断します。

ここで、もうひとつの支流が写真左方向から合流してくるようです。そちらに向かうと・・・

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突如、マンションと海神中学校グラウンドとの間におおきな荒れ地が出現します。囲われていて入れませんでしたが、湿地のようにも見えます。

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そこから乾いた川跡が延び、

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畑の間をクランクで縫って、

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そして鉄塔下に在る本流に合わさります。

この支流の方がむしろ、

Hinodaimap

開渠として地図には載っているのでした。googleさんありがとうございます。

さて本流はどうしているかというと、

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ここでは鉄塔の下を通っているようなんですが、・・・ん、洗車場?

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それは地元のタクシー会社の簡素な青空洗車場で、それで、どうも排水は真下の城門川に行くような・・・この大きな鉄板は暗渠蓋のような・・・きっと、少し前はもっとあからさまに開渠にドボドボだったのでは??

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と、興奮もつかのま、普通の歩道になってコンビニの前を素知らぬ顔で通過、

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したものの、わりと速効でそのお化粧は剥がれてしまい、奴さんスッピンは恥ずかしいとばかりに、そそくさと曲がって道路を再横断しようとします。

Pan

ちなみに再横断するあたりにピーターパンがあります。
もやさま船橋でも出てきた(クイニーアマンを自作していた)、船橋の有名パン屋さん。この日もやたらと大勢の人でにぎわっていました。駐車場も広く複数あって・・・大人気のようです。
ちょうどこの日、別な暗渠を辿ってから飛谷津にきて、若干疲れていたところ。何か食べようかな・・・というか、涼を求めて(暑い日でした)、店内に入り、パンを物色しました。でも(暑かったので)結局買わずに、サービスの麦茶だけ飲んで出てきてしまいました・・・ゴメンナサイ。後日、JR船橋駅ナカにある支店で、ちゃんとパン買って帰りましたよ!

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ピーターパン以降は、道路沿いにしばし進みます。
こんな風にマイ橋跡を抱えながら。「公園と道路の間に水路があります」と書かれた文献もあるので、開渠時代はそう遠くないのかもしれない。

奥にチラリと見える公園は、海神蛇沼公園。旧小字で南沼ともいわれる場所です。
蛇沼という沼がかつてここにあったことは、江戸期の史料にも書かれています。

そしてその先、東武野田線の高架を潜った直後から、城門川の流路は複雑になってゆきます。

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これまで、道路に沿っていたものが唐突に曲がります。右側の駐車場のアスファルトと川跡の境界線に、僅かに木の板が挟まっています。

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そして未舗装暗渠となって家の間を抜け、

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追っていくとまた鉄塔が出現。

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砂利道で素朴に続きます。

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そしてふたたび東武野田線の高架に向かいます。

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しかもこんな入り方・・・まさかの左折です。川なのに鋭角なんですけど。

紅鉄板蓋が連なっていますが、紅いじゅうたんに見えてきます。

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曲ったら高架下を数メートル進み(ここは妙にきれいなので近年までは開渠だったと予想)、

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こんな変な溝を拵えた後、また直角に曲がって、

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高架から出ていきます。

この屈曲部について、低地であるのにこんな風に河川が曲がる要因は無いこと、以降しばらく谷地形ができていないことなどが、自然河川らしくないと物議を醸しているようなのでした(後述)。

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赤丸部分が屈曲部。

たしかに、その前後に比べてごにゃごにゃしている箇所です。そしてたしかに高低差が殆どない。それを証拠に、このあたりを辿るときはわたしも何度か気づかずに暗渠を逸れていました(気づかないほど、他の道も暗渠らしかった。後述するようにこれが灌漑用水なのだとしたら、もしかすると間違えたと思った道も用水路だったのかもしれない)。

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その先、アスファルトの道路ではありますが、”ゆるアスファルトやや硬め”みたいな硬度となり、

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こんどは京成本線のガードに突っ込んでいきます。

”京成線のところではレンガ積みトンネルが現役で残っている”、という記述が複数あるんです。だからそれを見られると思っていたのだけれど・・・、名所!と、楽しみにしていたけれど・・・、うぅ、新築の家に阻まれて見ることが出来ませんでした。。。以前、ここには家が建っていなかったということでしょうか。。

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反対側も、レンガトンネルの期待を込めて見に行きましたが、此方も確認できず。恨めしや。

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若干の失意を胸に下ります。右の道路が城門川。

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カラリとした暗渠みちをすすんでゆき、

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こんどは総武本線を越えます。・・・東武線を潜り、東葉高速鉄道の上を越え、再び東武線を潜って、京成線を潜り、JRへ。線路を跨ぐこと5回。

さすがに総武本線はぶっといですね。線路の向こう側、隙間があるのがわかるでしょうか。

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地下道をまわり、そのあたりに向かうと、おっと、祠がありました。

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いえ、正しくはその奥を流れていました。じっとりと。

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と思ったのもつかのま、今度は千葉街道から分岐した道により分断されます。

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回り込むと、似た感じで再開。こっち側は入れるようです。

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すごい入っちゃいけない感ありますけどねw

でもここ、入れてよかったです。下流部のクライマックス、見どころの連続でした。

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洗濯ものと植栽。ええ眺め。

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縦置き。(他所で既に縦置きを見てはいたので慣れつつありましたが、縦置きってチバらしさでもあると思っていますw)

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横から観察できるー。

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・・・で、またしても阻まれる。今度は千葉街道です。

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反対側の出口は法務局の敷地で、入れないので上から眺めます。

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ここから、いろいろ合わさったり別れたり、開渠になったりと複雑な動きを見せますが、

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流末は稲荷澪へ向かう、とされています。ここをこう下って、海に向かう・・・。

                       ***

今回追うことができた城門川の暗渠は、概ねこのような流れ方をしていました。しかし、この川は、もともとは北流して長津川に合流していたのが、南に流路を変えられて稲荷澪に流れるようになった、と推測している人がいます。

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ピンク色の方向がもともとの流れと推測されているものです。

船橋で精力的に活動をされている滝口氏による推測であり、なかなか説得力があります。

縄文海進でこの飛谷津の谷が海に沈んだとき、沿岸流が砂州を形成。それが今この辺りに名残る微高地であり、これにより飛谷津の開口部は北に変わったのではないか。
出口が砂州で塞がれた内側は、低湿地になった。それでも小河川はでき、北流していた。
前掲の航空写真の飛谷津内の水田は、城門川に沿って北に延び、そして、長津川の水田地帯へと連なっている。
さらに、小字も飛谷津から北に向かって「南沼」「北沼」「内田」と配列されている。

具体的には、前述しましたが東武の高架線以降がアヤシイ、ということです。その先が、飛谷津の排水と、南側低地の水田を潤すための人工河川ではないか、と。そしてある時期からは都市排水路となったのではないか、と。

寛政12年ころには、既に城門川は用水路として史料に登場しています。ただ残念ながら、開削に関する記録は見つかっていません。いっぽうで、(流路変更を想定しない)自然河川説を唱える人もいます。論争の決着は、ついてはいないようでした。

                        ***

さて、ゴハン。今回はB食~。

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船橋産B級グルメ、ソースラーメンなり。

ソースラーメンプロジェクトにのっかってみました。そして、レジェンド店大輦でベーシックなものをいただきました。なんとも不思議な響きのラーメンですが、食べてみるとほぼソース焼きそばの味、違和感のない味でした。食べやすかった。ただ、ハムカツは中濃ソースの方が合うな・・・。

プロジェクトに参加している、新しめの店の創作ラーメンたちも、気になっているところです。船橋の知人には別なラーメン屋さんや、喫茶店のナポなども勧めてもらったので・・・コリャもっともっと麺類を食べにゆかねばなりませんね。

                         ***

城門川。そのほとんどが「海神」の中だけを通る川でした。
兎に角いろんな線路・道路を潜りまくる暗渠。
壮大なコの字ウォークの連続。
人工か?自然か?そんなことにも思いを馳せながら、いつもより感覚を研ぎ澄ませて微地形を歩くにも、おススメの一本です。

<文献>
「船橋の地名」 第12巻3号
「西海神小学校創立五十周年記念誌 ひとみ輝く西海の子」
滝口昭二 「本海川」と「城門川」 史談会報第23号
長谷川芳夫 滝口昭二氏の本海川人造説について 史談会報第24号

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 東船橋(宮本川)編

久しぶりの更新は、溜まりに溜まっているチバ編。
この地は、明治以降にしぶしぶ発展してきた杉並と比べるとずっと歴史あるところであるからか、おもしろい史料がたくさん出てきます。

以前、船橋の史料にて「花輪を流れる川があった」という記述を見かけ、旧地名花輪の地図上にひとつだけ開渠(実際は暗渠だろうけど)を見つけ、それで、歩きに行きたいな、と思ったのでした。花輪川というのかぁ、と思いながら歩いたその暗渠は、チバ暗渠のダイナミックさを惜しみなく発揮する、じつに良いものでした。後日、史料をさらに読んでいると、どうもそこを流れるものは宮本川といわれるらしい、と気づき、船橋市の河川情報を見てみれば、花輪川と宮本川、両方書いてあります。・・・まだ、花輪川の特定ができていないけれど、今回は「宮本川」を辿ることにします。

舞台は東船橋、旧五日市村の一部。

Map1_3               google earthさんありがとうございます。

東船橋には叔父が住んでいるから、小さな頃から何度も来ています。
いつも猫を数匹飼っている叔父さん宅。東船橋駅からそう遠くないその家への道のりはとくに起伏はない記憶で、駅前は現在だいぶ店が増えたけど、むかしは何もなくて、なんとなく淡白なエリア、という印象でした。

そのエリアに、暗渠がある・・・今回は叔父の家をスルーして、水源へと向かいます。平坦な地形は駅前だけで、数分歩くと規則的だった地割も変化し、たしかに下り坂があらわれる・・・

Miya1

下っている途中、気になったのはこれ。道祖神社。
この地に悪いものが入ってこないよう、守る神様なのだそうです。立替の時、いろりの下から金のわらじが二足出た、というはなしもあります。

まもなく水源に着きます。

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周辺を歩き回れば、この場所だけまぁるく凹んでいることがよくわかる。

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ここがおそらく、底部分。

道路の感じも不自然。
そして傍らには、神社がありました。

Miya4
厳島神社。地元の人は弁天様と呼んでいたらしいです。
疣(いぼ)神様、とも言われたここの神様は、美人だったが疣があり、皆に笑われていたため、疣がある人を治すことを誓った、といいます。付近のひとは、疣ができたときにお参りにきたり、疣がとれたらさし(?)を奉納しにきたそう。
旧宮本町に弁天様がここ1つしかないのは、浅間神社の木花咲邪比命と美を競ったから、といわれる・・・などなど、こんなちいさな神社に、ずいぶんといろいろな伝承が残っています。それほど、ここには昔から人びとが住み、賑わっていたということなのでしょう。

ここにむかし、池があり、小川が流れ出していました。
まさにここの旧小字名は「池ノ端」。いまでも、アパートの名前や、公園の名前に「池ノ端」は残っています。
池は、幅50m、長さ150m、深さ6~7mの大きさだったといいます。
江戸期に堰き止められてできたのではないか、と考えられています。湧水があったような記述もあります。・・・宮本台区画整理事業のさいに、この池は埋められ、今は湧水の一滴もありませんが。

ここから流れ出した小川は、このような地形を流れ進んでゆきます。

Map2_4

岬には日枝神社があります。
住宅と日枝神社の高台の間を、宮本川は流れていました。

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上流は暗渠に入り込むことができませんが、うろうろしてみると少しだけ。たとえば、駐車場の端っこに気配があります。

この、宮本川の西の台地を峰台といいます。
高い位置に峰台小学校があります。かつて船橋が入江だった時代、現在峰台小のある位置に慈雲寺があり、そこの鐘が江戸川に沈められたことが”鐘ヶ淵”の由来になっているという言い伝えもあるほど、立派なお寺であるようです。大峰山慈雲寺というその名は、峰台という地名のもとにもなっています。里見合戦にて焼失、いまは台地より少し下の位置に移ってきていて・・・友人のはからいで、この慈雲寺にお邪魔する機会があって、そこでお話を聴いたうえ、あつかましくもお子さんの社会科の教科書「わたしたちの船橋」をいただいてきてしまいましたw。ありがとうございます。

さて、宮本川は相変わらず、あまり姿を見せてくれません。

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おそらくここの下を流れているかな、という場所。
ららぽーと御用!

このお店の下流ではいよいよ、宮本川を見失ってしまいました。
谷底を歩くも、どこもただの道路。

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さまよいながら、やっと見つけました。宮本小学校の近くまで来たところ。

宮本小あたりの旧小字は、ずばり「小池」といいます。
かつて宮本小がここに移転してくるとき、「小池校舎」と呼ばれたとか、小学校の北側はむかし、道よりも少し低い土地で池っぽさが漂っていたらしいとか。傍らにある了源寺の地図には、「古池」と書かれた池の印がついているといいます。
ただし宮本小に関する資料を見てみても、ここが池であったとまでは書かれません。が、池を埋め(或いは埋まり)てできた、まとまった土地を小学校用地とすることは少なくはないわけで。

宮本川は、このあたりで池となり、そして「消滅していた」と記述されます。

はて?

これより下流=南側は旧小字名が花輪、すなわち台地を指す地名だというのです。また、小池は、谷が砂州でふさがれてできたものだ、というのです。
川として流れ出ずに「消滅していた」というのはどういうことなのか・・・?

水は、砂州の下へと浸透するかたちで流れ出していたのだ、といいます。

あ、そうか。

ここで思い出すのは、津田沼の庄司ヶ池。あそこは、大正期に排水路をもうけたものの、それまでは目に見える水の出口は無かったのでした。庄司ヶ池も小池同様、水は砂の層を滲むことで排出されていたのか・・・

思いもよらない、池の成り立ちと構造、共通点。偉大なる自然のちから。やはり、バーチはおもしろい。

宮本小学校の前、

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妙に広がった道路を目で追ってゆくと、

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ジャングルのような暗渠が出てきました。ボファァ。
この流れは小学校の校舎の脇をぐるりと囲むように(敷地は川に合わせていびつな形)下ります。暗渠脇にはすぐプール。

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見逃しそうになりましたが、今のもののほんの少し西にも一本、傍流がありました。

すなわち、現在は小池より下流側にも流路が認められ、宮本川は「消滅して」はいない、といえます。
しかも、2流。・・・ここらは、宮本川によって灌漑されていた田圃地帯だったのでしょうか。

そして、この付近で暗渠は存在感を際立たせてきます。
下ってゆけば、めくるめく暗渠ショーのはじまり!

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いきなりですが私的宮本川ハイライトの登場です。クランクしまくって、こうなります。
一段高いアスファルトに、直角曲がりに、立入禁止に、ゴミ捨て場に、なんか立派な朽ちた株!

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傍流のほうは、きれいめのコンクリ蓋がつづきます。

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橋のようなものも。

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おっと行き止まり。
暫く続いた一本道の果てという、この手の行き止まりが一番つらいですね。戻るにしても、アクロバティックに乗り越えるにしても。

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またなかなか入れなくなりますが、追っていくとココから出てきて、

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道路の左側を下り、

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ココで道路を逸れて突然の左折。

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とてもわかりにくいけど、ここを流れる。

どうしてわかるかって?

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ひっそり、護岸が残っているから。でした。

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その先はもっとすごいことになっていて・・・息を呑みます。これは、入れない。

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と、下流に回ると、突然あたらしい未舗装の土地になっていました。
つい最近まではきっとぼっさぼっさに荒ぶる暗渠であったに違いない・・・その頃も見たかったな、と思いつつも、このくるくる変わる表情もカワイイな、と感じます。

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その先はこう、直角に曲がって。

というかこの道は、さきほどの廃墟から「回り込む」ときに、通ってきた道。最初に通ったときは、うっすらとこの左端のスペースに違和感を覚えた程度でした。それが、上流から脳内でつなげていって、ああここも川だったか、となったときは膝を打つどころではない「ああ!なるほど!なるほど!どうりで!」と大きな感動を覚えたりします。

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左折したら、また入れてもらえない。

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カクっと曲って、こんどは建設現場のトイレの下を通り、

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建設現場と道路を挟んだ向かい側に再出現するときには、新しいコンクリ蓋暗渠ちゃんになっていました。

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そこは整然。

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同じ行き止まりでも、こういう止め方はありがたいですね。

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コレ好きだなあ。いろいろな意味で。

しかも、

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ありがとう、ありがとう。

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その先、ここでぷっつり・・・

と思ったら、

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お向かいのここにつながっていました。これも、上流からつなげていかないとまったく気づけない在り方です。

ここから、よくわからない荒れ地に入り、

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いつか、近いうちに住宅地になってしまうのかもしれないような場所。この土地の真ん中を、宮本川は堂々流れていました。

今回はここで追うのを止めました。
この先が京葉道路で回り込むのが面倒、ということと、この下にはあまり素敵なものはないだろうと早合点したことが主な理由ですが・・・千葉街道を横切る小川があった、との記述を見つけ、やっぱり行けばよかったと後から思いましたが。ひとまず記事もここまで。

さて、ゴハン。

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船橋駅付近に、すごい大衆酒場があるんです。

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花生食堂。

セットじゃありません。ガチです。ものすごい風情あります。
大物感ありすぎて、ちょっとためらいもしたけれども、入りたい気持ちの方が勝って、ガラガラガラ・・・こんにちはー。

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まず瓶ビール。それなりに乾いて暑い日だったので、最高でした。
それから、カボチャの煮物。鮭の焼いたの。

ずぅ・・・・っとこの地で、がんばってきたのであろうテーブルに椅子に、それからガスコンロとか窓ガラスとか。何度も感動のため息が出ました。
雰囲気はとてもほのぼのとしていて、お店のおばちゃんと、常連のおっちゃんが2~3人。みなさん、船橋がいかに好きかというトークを繰り広げておりました。

というわけで、今回、軍跡はありませんでしたがご勘弁。
いやぁ、宮本川暗渠と花生食堂は、チバの宝だねぇ・・・

<文献>
・船橋の地名 第10巻1号
・   同   第12巻2号
・   同   第8巻4号
・宮本の歴史をつくる会会報3号
・        同       6号
・船橋市立峰台小学校創立25周年記念誌 みねだい
・写真で見る船橋1 五日市

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