3-8 特集:地産地消

地名やそこに昔あったものを

狸蕎麦でたぬきそばをたぐる

蕎麦窪で蕎麦をたぐる」という記事を覚えていらっしゃるでしょうか。

江戸のころの地名”蕎麦窪”に行き、ここらへんで蕎麦が採れたんだね、なんて思いながら蕎麦をたぐってきましたら、”蕎麦”窪ではなく”(青梅街道の)傍”窪だった、という悲しき結末の記事を。
・・・案外、当て字であることもある、食べ物地名。

今回はなかばリベンジ的意味合いで、蕎麦窪記事の最後で触れた、ココに行きたいと思います。

もうひとつ、蕎麦がらみで今やりたいと思っていることは、古川沿いの”狸蕎麦”という旧地名の場所(狸橋付近)で、たぬきそばを食べること。

これですよ、やっとこさ。江戸地名”狸蕎麦”に、”たぬきそば”を食しにまいろうではありませんか。

・・・それにしても、”狸蕎麦”なんていう地名、ほんとにアリ?

Tanukisoba             「今昔地図」の「江戸」よりキャプチャ。天現寺橋近辺。

アリなんです。しっかりと狸蕎麦って書いてありますね。どのあたりのことかというと、

Tanukisobanow                   「今昔地図」の「現代」よりキャプチャ

現在はこんなです。港区白金。地名的には、広尾とか恵比寿とか元麻布とかに囲まれて。とうてい、狸さんとは無縁そうな場所。

最初に狸蕎麦という地名を知ったのは、「港区近代沿革図集」をぱらぱらとめくっていたときのことでした。

子どもを背負い、手ぬぐいをかむったおかみさんに、そばを売った代金が、翌朝見ると木の葉だった。誰いうとなく狸そばと呼び、評判だった。そばやの屋号が里俗地名となったものか。

こんなことが書かれていて。
麻布七不思議のひとつともいわれており、「七不思議」も、このへんてこな地名のつけられ方も、じつにわたしの気を惹くものでした。

しかし、麻布区史にある「七不思議」の項をみてみると、麻布七不思議なるものはあるけれど、書物により異なり、合計すると二十五~六不思議にはなるのだ、ということでして。狸蕎麦についても安定的に登場するわけではなく、しかも、文献により場所が異なっているのです。
山口義三「東都新繁昌記」では「古川の狸蕎麦」。
平山鑑三郎「東京風俗志」では「狸穴の狸蕎麦」といったぐあいに。

・・・はてさて。

まずは、狸穴の狸蕎麦に関する記述を見てみましょう。まみあな。まみは、魔魅なんて書くこともありますね。狸穴も、あやしくて好きな土地。
なんでも、狸穴下に蕎麦屋があったそうです。その名を”作兵衛そば”といい、色の黒い純粋なる生そばを提供し、好評であったけれども、いつしか廃業。大奥を荒らした狸穴の古狸が侍に討ち取られ、その霊を作兵衛さんが屋敷内に奉納したから、その名になったとか、とか。

一方、古川の狸蕎麦は、古川に架かる狸橋の近くにありました。というかむしろ逆で、狸橋が、近くにあった狸蕎麦屋にちなんで名づけられた、とされています。こちらのほうに、代金が木の葉云々の話がくっついてきます。
もうひとつ、狸塚があったとするものもあり、前述の狸穴の古狸がこのあたりに葬られたのではないか、と推測する人もいます。たしかに、狸塚は広尾にあったとする記述もあり、江戸期のここらへんは”廣尾原”。そう、前掲の古地図の地名”狸蕎麦”はちょうど廣尾原と隣接していて、この古川の狸蕎麦のことを指しているようです。

つまり、後者が地名としての狸蕎麦(蕎麦屋もあるが)。前者は蕎麦屋の屋号のみ、ということ?

・・・しかし、この2つの古狸伝説の地、地図にプロットしてみると、案外とおい。

Nikasho                 「今昔地図」の「現代」に、2箇所をプロット

なぜ狸穴の狸を、こんなにこっちまで埋葬しに来るのか・・・本当に、同一の古狸の塚なのか?と詰め寄られてしまえば、オドオドしてしまうだろうけれど、ともかく、港区もこの「古川」のあたりに狸塚があった、と言っています。そばを売った代金が木の葉になっていた、なんて伝承もおもしろいけれど、これは後付け、、、ぽいな。

それにしても。蕎麦屋さんが及ぼした、地名、橋名、そして七不思議伝説への影響。おもしろい。若干うさんくさいところもあれど、おもしろいから、これはこれでイイんです。

さて、2つの蕎麦屋さんが出てきましたが、わたしが行きたいと言っていたのは、古川の狸蕎麦。近くに行ってみましょう。

Tanukihasi               狸塚があって、狸蕎麦。狸蕎麦があって、狸橋

存在感のある、天現寺橋より一本下流に。ひっそりとちいさく狸橋はありました。
そして狸橋の由来の書かれた石碑もありました。狸蕎麦屋の話と、狸塚のことが触れられています。

よりによって、強風の日にわたしは狸橋に来てしまいました。ここで風に煽られ、持っていた赤い折りたたみ傘がべっこり裏返り、おじゃんになってしまいました。雨に濡れ濡れ、散策。

この狸橋のたもと(南西といわれます)の蕎麦屋さんは明治期まであり、福沢諭吉がよく食べに来ていたそうです(ただし、この蕎麦屋さんが江戸の狸蕎麦と同一かは不明)。
そしてこの蕎麦屋さん、水車経営権も持っていた、といいます。古地図を見てみると、たしかに、ここには水車がありました。

Bunmei             東京時層地図(文明開化期)よりキャプチャ。「水車」と手書き

周囲にはまだ田圃や畑がいちめんにあって、古川やその支流が田圃を潤していて、ぎったんばったんと水車が廻る・・・この地図からはそんな時代の白金が読み取れます。福沢諭吉は、その長閑な風景をとても気に入り、水車の権利ごと土地を買い取りました。明治12年のこと。

そして別荘を建て(広尾別邸)、この”狸蕎麦水車”は米搗き水車として利益を生み出し、慶應の経費の足しになっていたそうなのです。

Mowari           東京時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ。水車マークはまだある

ちなみに狸蕎麦水車を廻していた水流は、三田用水白金(または白金村)分水。メダカ、タナゴ、エビなどが泳ぐ、つめたく清冽な流れであった、という回想が残っています。その後、狸蕎麦水車は米ではなく、薬種細末を搗くようになります。・・・現在、北里があることと関係するでしょうか。

Goryuko

たしかに、狸橋から下流側を見ると、白金分水暗渠の合流口がぽっかりと在りました。

地図でこのへんをながめていると、明治~昭和初期まで、広尾別邸内に立派な池があることも、気になります。        

Showasho         東京時層地図(昭和初期)よりキャプチャ。宅地が増えるも、池と湿地は残る

この池は湧水池であったそうで、諭吉の四男がのちに、池に船をうかべて遊んだ、などと語っています。ずいぶん、水の豊かな場所だったんだろうなあ。

広尾別邸はいま、慶應の幼稚舎となっています(昭和初期の地図にすでに登場していますね)

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               東京時層地図(バブル期)よりキャプチャ

いまの地図を見てみると、古川の上も首都高で覆われてしまい、僅かに姿を現す古川(それもなんだか道路のように見えてしまう)以外、むかしの自然物はなにも残っていないように見えます。

Yochisha

江戸期の地図で示された”狸蕎麦”は、現在殆ど幼稚舎の敷地に飲み込まれているようで、当然敷地内には入れないため、歩道橋からながめます。

右手の木々のむこう、幼稚舎の建物がそびえていました。福沢諭吉が気に入った風景のうち、いまも残っているのはおそらく、古川だけでしょう。その古川さえ、現在はまったく異なる姿であるでしょう。それでも、想像します。明治のころ、ここにはどんなにすてきな自然が広がっていたか。

そして、この木立の奥に、むかしむかし、”狸蕎麦”があった・・・

                        ***

さて、おそば。
きょうは、絶対に狸蕎麦。

固い意思のもとに、白金のまちを歩きます。
福沢諭吉とおなじ狸蕎麦屋で食べることは、もちろんかなわない。せめて最も近いところを、と選んで、やってまいりました。
白金商店街(ここは古くてよい商店街ですね)には、何店舗か蕎麦屋さんがあります。更科川志満という、とても渋いお店もwebに載っていたのですが、見つからず。現役店でも、必ずしも”たぬき”があるとは限らないので、入念にチェックです。

選ばれたのは、手打ちそば佶更

オサレ系。存在感ある木のカウンター。
少量の肴をつまみつつ呑んで、〆にもりそば、的な店と言えましょう。時間をランチからずらしたので、他の客は一組。60代と思しき夫婦(たぶん常連)が、ゆったりとお食事をたのしんでいました。

ふだんは、たぬきそばって殆ど頼まないのだけど・・・きょうは、躊躇なく。

さーて、そばがやってきた!

Tanuki

お上品~。そして、女性的な味わい。古狸さん、メスだったのかもしれない、なんて思えてきます。

この佶更、じつは前述の白金分水が掠っているような位置でした。

Bunmei_2

                   時層地図(文明開化期)、再掲

さきほどから載せている、時層地図たちの現在位置を示す青い点は、じつはお蕎麦屋さんのものだったのでした。
たぬきそばもよかったけれど、すぐそこにエビが舞っていたかも、なんて思いながら、桜エビのかき揚げでいっぺえ、なんてのもオツかもしれません。

これでやっと、蕎麦屋さん由来の土地で、そばを食べたぞ。蕎麦が採れてはいないけど。

ところで今回、地産地消にこだわるあまり、結果的に暗渠があまり関係なかったことに、お気づきでしょうか。それに、わたしは今回、すべての”狸蕎麦”関連の土地をめぐったわけでもないことに。

・・・さてさて次は、狸穴の蕎麦屋さんを探さないと。

<参考文献等>
・「麻布區史」
・「近代沿革図集」
・Deep Azabu(web)
・三田評論2010年11月号(web)
・港区公式HP(web)
(割愛しますが、白金分水については梶山さん、庵魚堂さん、HONDAさん、lotus62さんなどが書かれており、護岸工事前の古い合流口をしのぶことができます。)

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桃園川支流を歩く その49 生民軒牧場支流(仮)と区有牛のはなし

中野の宮園通り(今は大久保通りと呼ばれます)付近に、かつて”生民軒原科牧場”という牧場がありました。

この牧場の名前を初めて見たのは、豊島区の資料の中。
主として豊島区の牧場について触れられているその資料の中に、中野のココが登場したわけは、牛舎に網戸が付き、一頭ずつシャワーを浴びることができる設備のある”模範的牧場”として、当時有名だったためであるようです。

その、優良牧場生民軒は、大正8年~昭和初期に存在していたといわれます。そのころ、中野には8つの牧場がありましたが、やはりココが最先端だったようでした(ちなみに杉並は中野より牧場がぐっと少ないんです・・・ 参照記事)。

宮園牧場、としてその存在を意識してはいたけれど、なぜかその位置を1ブロック東のように勘違いしていて(それは、そういう適当な地図を先に見ちゃったからだけど)、桃園川のすぐ脇なんだ、と暫く思っていた生民軒。
ところが実はもうちょっと離れていて、しかもなんとそこに開渠があったというのです。味噌maxさんからそのことを教えていただいたときのあの興奮は、いまもようく覚えております。

その、ちいさな開渠がコレ。

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そもそも、中野区でこういう感じは割と珍しいかも。

写真が小さいのは携帯だからです。何度も見に行った割に、携帯でしか撮ってなかったようです。

Hrsn2


まぎれもなく開渠。雨水溝として、たまには機能するのでしょうか。
入り込めない仕様ですが、申し訳程度に蓋が架けられていたりして。
写真の左側がわずかに崖。崖下です。

場所はどこらへんかというと、

Seiminima

薄い水色点線のところです。gooさんありがとうございます。関係ないけど、ケミカルコーポが気になる。

桃園川からは確かに少し離れているけれど、流域は間違いなく桃園川のものです。もしかすると、河川改修前は本流があった場所かもしれない、なんて、夢が膨らむ位置です。
そして緑丸の場所に、当時の牧場主の方の家が(推測ですが、名字が同じなので。当時のままかもしれないような、立派なお宅です)あるのです。ということは、牧場はそのあたりなのでしょう。
もうこれは、生民軒牧場支流(仮)と呼ぶしかない。

一応、昭和38年の写真も見てみます。

Seimin38


写真からは、あの細い細い水路なんて見えませんが、今あるんだからこの当時もきっとあったでしょうね。時期的に、牧場自体はもうなくなっているはずなので、それらしき場所には建物ばっかりです。

仕方がないから、頭の中で想像、想像。
生民軒原科牧場の歴史のお話を、すこし。

千駄ヶ谷の生民軒で修業したあるじが、大正8年に中野で開いた牧場。
昭和4年の写真なら、なかの写真資料館で見ることができます。牛がいっぱい!

生民軒・・・そういえばその名を、以前空川について調べたときに、ぱらぱらと目を通した資料でも見ていました。国木田独歩が住んでいた家の近くに牧場があって、よく牛乳を飲んでいたという話が出てきます。
その牧場こそが、生民軒だったのでした。

中野に開いた生民軒牧場は、戦後、鍋横のほうに移ったようです。そこに嫁いで来た(その方は桃園川脇の時代から居た)という方の語りを目にしました。その方いわく、夫の実家は牛乳屋を開いてからは50年ほど経っているとのこと。多い時で1500軒をまわり、配達の人も10人くらいは居たといいます。

だいたい、現代に暮らしていると、中野の駅近くに牧場があったなんて想像できないと思います。しかしほんの数十年遡れば、中野区は区をあげて乳牛の飼育を奨励していた時期だってあるのでした。

東京都において、酪農の発展が奨励され、”都有牛の貸し付け”があった時代がありました。昭和26年、中野区でも優良乳牛を貸し付けるようになります。都有牛ならぬ、区有牛です。・・・なんだかまったくピンと来ませんが。

”貸し付け”なわけですが、牝牛を産んだらその牛はいただけるというシステムでした。
昭和26年、千葉から4頭の子牛がやってきます。区にしてみれば、待望の区有牛第一弾です。その子牛たちと人との記念写真が、区報に載っていました。1頭につき一人。正装してかしこまり、なんともほほえましい感じで。
昭和28年には、その区有牛が牝牛を産んだため、区報には”★区★有★牛★お★手★柄★”という、浮かれた見出しが載っていました。★マークとか、使うんですねw

中野区で「モォー」「モォー」という声が聞こえていたのは、いつ頃までか。その後、牛の話は、ぱったり見かけなくなります。

・・・話を生民軒原科牧場に戻しましょう。いや、生民軒牧場支流(仮)に。

あるとき、その生民軒牧場支流(仮)の開渠の姿が、変わり果てていることに気づきました。

Usi1

開渠が、暗渠になったというわけです。
でもわたしが感じたのは、喪失感。なぜか、残念な気持ち。

そりゃ暗渠は大好きですが、貴重な開渠は開渠のままであってほしいし、暗渠化するにしてももっとズコーってなる感じのにしてほしいんですよね、川崎とかみたいに。

嗚呼それにしても、何故わたしはこの開渠をちゃんとしたカメラで撮っておかなかったんだろ。はぁ・・・。いまさらですが、他の部分も、あわせて掲載しようと思います。

Usi2

さきほどのスペースから下流側にまわるとこう。
やはり崖下です。

Usi3

たまたまずっと空き地の場所があって、ここだけ入り込めるのでした。
上記のように、暗渠になっちゃった後も、この位置の崖下はなんとなーく隙間が空いたままでした。

でも、この写真を撮ったときからも、既に半年以上が経過しているのです。その間、中野五差路の再開発はどんどん進んでいるので、いまどうなっているか、知りたいような知りたくないような。

Usi4

ここで、おわり。この隙間にも、以前はもっとちゃんとした開渠があったのでしょう。
僅か1ブロックにだけ残る、川跡でした。この前後もきっとあったはず。

                         ***

さて、ゴハン。
牧場支流に来たんだから、地産地消。牛肉系でいきます(というの、ワンパターンでスミマセンw)。
生民軒からいちばん近い焼肉屋さんといえば、ソウルハウス

Seoul1

なんとなぁぁぁぁく、入りがたいと長らく思っていましたが、改めて検索してみるとなかなか好評価のもよう。コスパが良いという、ランチに行ってみることにしました。

Seoul2

ビビンパを注文。
冷奴や味噌汁のような、意外に日本風の小皿付。それにしても、韓国料理はこういうふうにいくつも小皿が来てくれるので、ほんとに幸せな気持ちになります。石焼ビビンパは味が熱で飛んじゃう気がするので、ビビンパのほうが好き。
ビビンパふくめてぜんぶ、家庭的なあたたかさのある、おいしいランチでした。たしか600円前後、コスパも良かったです(前過ぎて記憶が消失)。夜も来てみたいなぁ。

・・・あ、牛肉食べるの忘れてる・・・

さてさて短い記事でしたが、暗渠に絡めて牧場へ行き、牛乳飲んだり焼肉食べたり・・・というの、これで5~6回は書いている気がします。牧場カテゴリ、つくろうかしら。
それから、長編記事については再び千葉や、埼玉に離れるようなものが並ぶかもしれませんが、今回の川跡も絡むかもしれない”桃園川の改修前流路をたどる編”、というものに、そろそろ着手したいなあと思っています。

<参考文献>
豊島区教育委員会「ミルク色の残像」
中野区報31号、34号、75号
「中野の農業いまむかし」
「見たい聞きたいのこしたい なべよこ観察隊」

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蒟蒻島で蒟蒻を食べる

タイトルが蒟蒻畑みたいな雰囲気を醸しているかもしれませんが、今回の舞台は、カタい感じのオフィスビルと高層マンションの並ぶまちです。

新川、という地名で思い浮かぶのは、そういえば友人が転居したとこだ、というくらい。
ほんとうにそのくらいでした。
新川といえば酒問屋のまち。と、思い浮かぶ方も多いのかもしれませんが、ぜんぜん知りませんでした(お酒好きなくせにね)。
そして、新川1-1~1-2あたりは、かつて蒟蒻島とも呼ばれていたのだそうです。これも、知りませんでした。それを知り、例によってわたしはこう思うんです・・・「じゃあ今度は、蒟蒻島で蒟蒻を食べたい」。

                       ***

それでは蒟蒻を食べるため、蒟蒻島に向かいましょう。お仕事帰りの、夜さんぽです。

Sin1

高橋(たかばし)を渡ります。
夜の亀島川に、釣りをしている人がいました。魚なんているのだろうかと水面を見つめたら、灯に照らされてボォッと魚が泳いでいるのが見えました。

新川、というのは現在の地名でもありますが、そのむかし、この地にあった川のことを新川といいます。蒟蒻を食べる前に、新川跡を歩いてみます。

Sin2

まずは霊岸橋まで・・・。分流地点から歩くためです。新川とは人工の掘割で、亀島川から取水し、隅田川に注ぐものでした。

そしてこの橋名は、いまから向かう新川地区を江戸期に霊岸島(または霊巌島)、と呼んでいたことからきています。霊岸島のかたちと、現役時代の新川をお目にかけましょう。

Sinkawas22

昭和22年の航空写真です(gooさんありがとうございます)。今もよく見れば、島のようなその風体。  

新川のみならず、霊岸島も実は人工物なのでした。
もともとこの場所は、隅田川の河口の砂州であった、といいます。江戸期(家光の時代)に、霊巌上人がその砂州を埋め立て、霊巌寺を創建。「江戸の中島」と呼ばれたその島は、流路変更をされた日本橋川(新堀川)の通り道のために二分され、箱崎と霊岸島となったのだそうです。

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現役の砂州(南白亀川の河口)は、こんな感じ。隅田川ですからもっともっとスケールが大きいでしょうけど。・・・これはたしかに何か建てたくなるかもしれません。

埋立当時、まだ新川はありません。霊巌寺には多くの人が訪れ、たいそう賑わっていたといいます。
しかし明暦の振袖火事はこの島をも襲い、霊巌寺は焼失、深川に移転していきました。焼け跡には運河が開削されました。それが新川です。だいたい1660年あたり、河村瑞賢が行ったとされますが、どうもはっきりと記されたものが無いらしく、多くの文献が自信なさげにこのことを書いています。
新川は、長さ約590m、幅11~16m、深さ45~90㎝の掘割であったそうです。

さて今、霊岸橋に立ってふと東に目をやると、

Sin3

日本橋水門があります。亀島川の付け根。
で、でかい。とくに夜の輝きがすごい。圧倒される・・・。

Nsuimon

ちなみに、日本橋水門を反対側(かつ日本橋川の水上からクルーズ中に・・・)から見たことがあります。丸で囲っているのがちらりと見えた霊岸橋です。

左側の敷地が霊岸島。そして前述の「蒟蒻島」とは、霊岸島のなかでもちょうど写真の部分付近なのでした。亀島川の一部を埋め立てたものの、なかなか土地が固まらず、歩くと揺れるためにそう呼ばれたそうです。

蒟蒻は島で豆腐は屋敷なり

なんていう川柳もあったほど。きっと江戸期は余程ゆるふわな土地だったのでしょう。・・・いまはこんなに頑強そうだけど。

Sin4

そして西側を見れば、亀島川の下流と新川分流地点です。
丸のあたりが分流地点のはず。よく見ればここの石垣の一部の色が、他と異なるらしいのですが・・・夜にきちゃったのでわかりません・・・。

そしてちょうどお向かいにはグレート大衆酒場、ニューカヤバに灯が・・・い、行きたい。でもまだ今日はこれからが長いんだ。がまんがまん。

さて、いよいよ新川跡へ向かいます。

Sin7

川跡の一部=ただの道を歩き始めると、すぐに太めの道路と交わります。
ここは一ノ橋跡。川幅は上述のように11~16mなので、道も建物も川跡に含まれるはず。そして橋もそのくらいの長さだと思われます。江戸名所図会には、石積み護岸の新川、たくさんの荷を載せた船とともに、一ノ橋がちょこっとだけ描かれています。

新川には、一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋という3つの橋が架けられていました。ここ一ノ橋の北詰に、河村瑞賢の屋敷があったとされます。

まもなく新川大神宮の横を通り過ぎます。 売る前の新酒がお供えされた神社です。
江戸時代以降、この新川の両側には酒問屋が多く並んでいました。灘をはじめとする関西の「下り酒」を扱うものです。
下り酒は、秋~冬がもっとも盛ん。10月になると、関西の酒問屋では飾り立てた船に新酒を詰め込み、特定の日の同じ時刻に出帆。早飛脚により出帆の知らせを受けた江戸の酒問屋は、首を長~くして待つ。今か今かと、沖を見つめながら待つ者さえあったといいます。隅田川の河口からは小舟(はしけ)に積み替え、船頭さんは頭に鉢巻をしめ、太鼓を打ち鳴らしながら入港。酒船レースのようなもので、一番乗りで到着した船=一番船は、さまざまな特権が与えられたそうです。
新酒が入荷すると、酒問屋ではすぐに青い旗を立て、市内の酒店に分配(=配り酒)、酒店では屋敷や町家に配り歩いたとのことです
(文化5年まではそういう習わし)。

・・・まさに一大イベント。新酒をいかに皆が楽しみにしていたかが、よく伝わってきます。

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それからすぐに現れるここ。今やただのビルですが、かつて見番があったとされる位置・・・そう、霊岸島には花街があったのです。

江戸期には、私娼が集まってきてここに岡場所ができました。深川同様、水上交通の便が良かったためでしょう。いくつかの遊里本に岡場所「蒟蒻島」として載っており、それなりの存在感を示していたようです。

天保の改革により取り締まられて私娼窟としての蒟蒻島は寂れたものの、その後「蒟蒻芸者」という町芸者があらわれたそうです。記録を見ると、おもに新川の左岸側に芸者町がひろがっていました(蒟蒻島は前述のように霊岸島の一部を指す言葉ですが、この蒟蒻芸者町はもっと広いエリアを指します)。この時代は遊里的な雰囲気というよりは、酒問屋などが、「昼間に地方のお客さんなどを接待する」という使われ方であったそうです。
待合や芸妓屋が、酒問屋や倉庫の間にあるような風景。昭和10年前後がピークだったようです。昭和33年には芸妓連絡所がなくなり、残った料亭も姿を消してゆき、大きなビルなどに姿を変えてしまっていまは名残が無いといわれます。

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たしかに、だいぶウロウロしましたがなにもない・・・が、なんだかこの黒い塀の建物は気になりました。

唐突ですが、国鉄総裁下山定則氏は、生まれが新川なのだそうです。そして、蒟蒻芸者町時代にあった、待合「成田屋」の経営者は下山氏の幼馴染であり、なんと下山事件前日、下山氏は成田屋に泊まっていたと言われます。まさか最後の晩餐がこの地であったとは・・・。

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少し下れば、二の橋。
三原橋みたい、と思いながら通り過ぎます。橋の両側に不自然に在る建物(食べものやさんがあったので、いつか来たいな)。

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新川の跡を歩いていると、酒屋系の看板が確かに多いです。加島屋、日本盛、日本酒類販売、金盃・・・。

新川が開削されたことが、この地に酒問屋を集めたことは確かです。しかし、すぐに酒問屋が集中したわけではありません。その利便性ゆえ、米、醤油・・・さまざまな問屋がこの地に引き寄せられました。なかでも当初は材木問屋が多かったようです(後に木場へ移転)。1702年時点では、江戸にある下り酒問屋数の17%しか無く、それから1800年あたりまでに、ほどんどの酒問屋が新川近辺に移住したということです。

大正期、新川の運命はまた大きく変わります。もともと、霊岸島は河口にあるため水深が浅くなりやすく、港としての限界があったといいます。加えて、第一次世界大戦時に船が不足し運賃が高騰していたところに、関東大震災が起きました。物流の主役は、船から鉄道やトラックに変わってゆきました。

さらに、第二次世界大戦で中央区は壊滅的な被害を受けます。新川も廃墟と化しますが、むしろ占領軍により接収されることで港湾運送系が再び活気づいたといいます。しかし、この戦争からの復興のために、新川は姿を消すこととなるのです。水が綺麗で、人が泳いでいたのも関東大震災前までらしいので、この頃の新川は最早必要とはされなかったということか・・・1948~1949年、遂に埋め立てられます。

新川がなくなると、いよいよ酒問屋街としては終焉を迎えることとなります。いま、純粋「下り酒問屋」の流れを汲む酒問屋は、加島屋だけであるといいます。

しかし、酒問屋の気配は今だ残っていて、

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倉庫の跡らしき駐車場や、

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クレーンまで残っています。

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川跡の道は狭めですが、まっすぐ伸びています。てくてく。そういえば酒問屋の名残だけで、運河っぽさはあんまりわからなかったな。

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ところが最後の方に来て、やっと暗渠らしくなってきました。
川の幅に沿って、盛り上がった児童公園が出現します。これを見るとわたしも俄然盛り上がります。

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それに、この公園に新川の碑があるといわれているのです。
お、ちょうど下水道工事なんてやってて、いかにもこの下に下水幹線があるって感じですね。

Sin20

と思っていたら、この工事のために碑は撤去中なんだそうで・・・。代わりに石碑の写真がありましたw
なんという間の悪さww

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公園のなか。
防災倉庫、公衆トイレが縦に並んでいて、ダブル暗渠サインです。

Sin22

隅田川がすぐそこです。
取水口の名残がわからなかったので、合流口もとくに無かろう。と思ったけれど、一応確認しにいきましょう。

季節は夏の終わりかけ、屋形船が何艘も走っていました。なんだか、怒った王蟲みたいだな・・・なんて思いながら、階段を下りていきます。

Sin23

すると、あったよあった!水門が!

水門の前に植栽があって近づけません。が、水門の手前にあるのはガードレールのようなもの(珍しい)!

Sin24

合流口だってありました。
ポカンと口をあけています。いや、大雨時以外は開かない口だとは思いますが。

Sin25

戻ってよく見たら、公園側からも水門は確認できました。
新川の名残、ここにあり。

さて、ひとまずゴハン。
蒟蒻を食べねばならないので、新川を下りながら(狭義の蒟蒻島と限定すると大変なので、新川地区でということにしました)、和食屋さんを探していました。ところが・・・食べ物屋さんは数軒あれど、和食屋さんが無い(あっても開いてない/蒟蒻が無さそう)。
いろいろ迷って、分流地点にあった串八珍に行くことにしました(普段はこういうとき、チェーンはなんとなく避けるんですが)。

Kusi

串八珍は分流地点のまさに上。実はすごい位置にあります。
亀島川が見える席に座りたかったですが、とても混んでいて、座れませんでした。

まずは蒟蒻が入っている確率の高い、煮込みをたのみました。登場した煮込みは予想を超えていて、白っぽいモツの上にニラとバターが乗っかっていました。しかしどんなに探しても、蒟蒻が入っていない!今日はそんなオリジナリティいらないから、蒟蒻をくれよ・・・必死にメニューを見てもほかに蒟蒻が関与していそうな品は一切なく、

Kusi3

春雨だったら、蒟蒻と近いんじゃないか(何かが)。と、妥協することにしました。とりあえずすぐに店を出、帰り道でまた蒟蒻を食べることにしました。

急ぐのには訳があります。霊岸島には、もうひとつの水路があるのです。

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それは、越前堀といいます。この何気ない道は、その跡です。

1634年、霊巌寺の南に越前福井の藩主である松平氏が屋敷を拝領しました。霊岸島の4分の1ほどを占める大きな屋敷でした。そのお屋敷の周囲にぐるりと船入堀が掘られ、それを俗に越前堀と呼んだといいます。

開渠の越前堀の記憶のある人がいうには、モクゾウガニやベンケイガニなどがいっぱいいたとか、小さなはしけ船が多く、その中に住む水上生活者もずいぶん居たとか。

Sin27

名前が堂々と残っています。
この公園名もすてきですが、この公園の脇にあるお店で度肝を抜かれることになります。
その店は無人の自販機コーナーで、もと酒屋さんの店舗だったのではないかと想像されます。つまり、酒ばっかり売ってました。

Sin28

まずこの古ぼけた白鹿の自販機。「常温です」ってさりげなく手書きしてあるのがイイネ。

白鹿の支社も、新川にあったから・・・まさにこれ地産地消w

Sin29

そして酒の自販機群の向かいにあるこのツマミ自販機。
なにこの渋すぎるラインナップ・・・柿ピーとかチータラじゃない、見たことない商品ばかりです。

Sin30

とくに、この「さくら肉スライスしっとりタイプ」がすごい。ノザキってコンビーフ缶以外見たことあります??しかもこれ、美味いの!思わず2個買い。
これはこの公園で宴会せざるを得ませんね。

このときは夏か秋でしたが、桜がいっぱい植わっていてお花見に良さそうでした。

Sin33 

公園内には、発掘された越前堀の護岸用石垣も展示されていました。
江戸城外濠の石垣に匹敵する大きさだといいます。霊岸島の碑なんかもあって、盛りだくさんの公園です。

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水路はこの越前堀公園の横を通り(この写真の手前の位置に「どんどん橋」が架かっていたので、落差があったのでしょうか)、

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明正小学校の敷地に入っていきます。

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敷地途中で直角に折れ、あとは折れ曲りながらも道なりに水路は進みます。
明正小学校はアーチのうつくしい、堂々と建つ復興小学校。窓に貼られた「ありがとう」が示すように、もうすぐ校舎が解体されるようでした。

近くに「馬事畜産会館」がありました。付近には日露戦争までは牧場もあった、といいます。何か関係があるのでしょうか。

その後は越前堀は大味に、大通りの脇を通って隅田川に注ぐのみ。その一部のほとりを、吉良氏を討った後の赤穂浪士が歩いた(新川の一ノ橋も渡ったとされます)という話もあります。しかし小奇麗な道と化していて、越前堀と名のつくお店があるくらいで、とくに形跡はありません。

越前堀は新川よりも早く、明治期の市区改正事業と関東大震災などで埋められています。河口近くだけが残っていましたが(前掲の昭和22年の写真でも確認できます)、それも1964年に埋め立てられ越前堀アパートとなりました。河口部分は長らく倉庫地帯でしたが、現在は高層ビルです。

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ここまでの行程です(yahooさんありがとうございます)。
そんなに大きくはない人工島に2つも人工水路があり、それらに隔てられ町はずいぶん細分化していました。そしてそれぞれに、雰囲気が違っていたといわれます。
新川は前述のように酒問屋が主体。いっぽうで越前堀には船具屋や倉庫が多く、また秀和マンションのあたりには東京湾汽船があって、往来がすごかったそうです。汽船の客のための旅館も周辺にあり、発着所が火事のため竹芝に移った後も、旅館だけはこちらに、というお客さんが居たそうです。

                         ***

あとは、気ままに通りたいまちをふらふらして帰ります。

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南高橋と星。

ここを通って湊へ抜けます。

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湊にて、遺された建物と石川島の対比を味わい、

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築地まで歩いて寿司を食べることにしました。
あまり店舗の開いている時間ではなかったので、24時間営業のすしざんまいへ。穴子おいしかった!

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最終的には銀座まで歩きました。
ここも、もうすぐなくなっちゃうのだよな・・・。

                        ***

少し前に、霊岸島にあるキリン本社の移転のニュースがあったので、このさんぽのことを思い出していました。
新川の、とっくに失われてしまった運河と酒問屋の風景。
でも、酒問屋街時代の「気配」は、よく見れば今なお少しずつ生きていました。
失われたもの、これから失われるもの、失われていないもの。
日本橋や銀座に挟まれた異空間は、十分に味わい甲斐のあるものでした。

なお、今回紹介した水路の現役時代(埋立中も含む)の写真を、中央区図書館の地域資料で見ることができます(さすがですね。郷土室だよりにも暗渠関係のものがあります)。

・・・え?結局、蒟蒻島で蒟蒻を食べていないんじゃないかって?
いいじゃアありませんか、新川でお酒呑んだ、ってことでひとつ・・・。

<参考文献>
上村敏彦「東京花街・粋な街」
佐藤正之「TOKYO新川ストーリー ウォーターフロントの100年」
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」
菅原健二「図書館でしらべる 地図・地誌編6」 季刊collegio第7号 2006年2月号
高木藤夫・高木文雄・沢和哉共編「酒蔵の町・新川ものがたり」
中央区教育委員会「中央区の昔を語る(六)」
中央区教育委員会「水のまちの記憶」
望月由隆「新川物語 酒問屋の盛衰」
霊巌島之碑建設委員会「霊巌島之碑」

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蕎麦窪で蕎麦をたぐる

新蕎麦の季節ですねぇ。

蕎麦といえば、馬橋村の絵図に”蕎麦窪”と書かれた場所があります。窪という名が示すように、蕎麦窪には水路=天保新堀用水が流れていました。
天保新堀用水は、馬橋村にもともとあった自然流が、天保10年の飢饉で枯れてしまったため、善福寺川から取水した人工水路とつなげたもの。その、もともとあった水路の記述にも、「そば窪から二派に分かれて東流」というものがみられます。

絵図から現在の場所を推測することは難しかろうと思いつつ、蕎麦窪に行ってみたいと思います。

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天保新堀用水を、青梅街道の北から下っていきます。

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阿佐ヶ谷にしはら公園。
おそらく蕎麦窪はここらへんのことかな、と思っています。

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公園よりも下流で、天保新堀用水は二流に分かれるようでしたので・・・。
その話は、過去(桃園川支流を歩く その37馬橋川たち②)にも触れています。このあたりは「たかっつる」という通称の水田地帯だったので、田圃のために水路が用・排水の2流あったのかもしれません。

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暗渠としてはっきりと残ったのはこちらの、金太郎のいる流路のみ。この先は桃園川合流地点へと北上していきます。

さて。この蕎麦窪という場所の存在を知って、真っ先にわたしが思ったことは、

「ここで蕎麦を食べたい。」

コレ。

コンビニなどの蕎麦を買ってきて公園で食べるか、蕎麦焼酎のお湯割りをここで飲んでお茶を濁すか・・・。あれこれ考えた末、「新蕎麦の季節に、最寄りの蕎麦屋で食べよう。」という最も安全な結論にたどりつきました。

蕎麦窪上に蕎麦屋さんがあれば理想的だったのですが、そうもうまくはいかない。最寄、と思われるものは2軒あったのですが、こちらの店に行くことにしました。

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豊年屋
青梅街道沿い、南阿佐ヶ谷駅のすぐ近くです。
ここは天保新堀用水沿いでもないし、窪地でもないけれど、青梅街道のそばなんで。。

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ちょっと疲れていたので、とろろそばを頼みました。
町の蕎麦屋さん的な味でしたが、天ぷらをつけなかったというのに結構な満足感でした。(わたしは蕎麦推しの県に生まれておきながら、長年「天ぷらをつけないと麺類は食べられない(単調すぎて)」という微妙なひとだったのです。。)
丼ものの種類も豊富で、それぞれに蕎麦のセットがあったので、よく食べる客層なんでしょうか。

後ろに座った男性たちは、酒とそのつまみを次々頼んでいました・・・わたしはその後仕事があったので頼めず・・・くぅぅ、良いなあ。定食屋さんや酒場のにおいもする蕎麦屋さんでした。

ってことで、蕎麦窪のそばで食べたぞ、新蕎麦!
位置関係は以下のとおりです。

Sobakubo

・・・じつはこの話には悲しいオチがありまして。
どうやら蕎麦窪の名の由来は、”青梅街道のそば(傍)の窪地であるから”のようなのです。しばらくの間、”蕎麦が採れたので蕎麦窪”なのだと思っていたのですが、そのような説はまだ見かけていません。
さぞ芋が採れたのかと思った芋窪は”いの窪”からきているというし、蟹ヶ谷は沢蟹がいた以外の説のほうが説得的だったりします。食べ物地名に行くと、すぐさま「ここで○○が採れたんだね!」と思う癖を、そろそろ脱しなければいけません。。

もうひとつ、蕎麦がらみで今やりたいと思っていることは、古川沿いの”狸蕎麦”という旧地名の場所(狸橋付近)で、たぬきそばを食べること。
蕎麦を売ったときの代金を翌朝見ると木の葉だった、などという伝承からついた地名のようで、江戸期の地図には”狸蕎麦”という地名が書かれています。古川に架かる狸橋の名の由来ともなっています。・・・と、HONDAさんが以前書かれていることを今知りましたw。麻布七不思議のひとつとされ、こんなふうにまとめて下さっているサイトもあります。狸そば水車、なんてのもあったのですねぇ~~。

つまり、狸蕎麦はちゃんと”蕎麦”から来ている地名なわけです。福沢諭吉が蕎麦を食べに来ていた、などと、蕎麦屋さんもあった模様。今はどうなっているのでしょうか?

・・・さて、狸橋近くの蕎麦屋さんを探さないと。

※「地産地消」カテゴリを新設しました。

<参考文献>
森泰樹「杉並風土記 中巻」
「武蔵国多摩郡 馬橋村史」
「増補 港区近代沿革図集」

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カニの谷の鉄塔

安田成美の歌声でどうぞ。

・・・カニの谷に行ってきました。

蟹ヶ谷に行きたい。と、思っていました。だってあそこは、軍事ものと谷の場所。なにより、わたしは蟹が大好きなんです。一番好きなのは、毛ガニ。つぎは、ワタリガニとズワイガニが互角の戦い。山形の鮎茶屋で、鮎の塩焼きを食べつつ、サワガニの味噌汁をすするのも非常においしいです。

ちょうど、横浜時層地図も出た時分。蟹ヶ谷もぎりぎり載っていて、まるでカニパンのように入り組んだ谷戸たちに、気分はいやでも盛り上がる。そんな場所です。

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これがカニの谷です。google earthさんありがとうございます。
猫またぎさんも、つい最近記事にされています(蟹ヶ谷をたどる)。わたしとは反対向きにたどってらっしゃるようですね。

それにしても何故”蟹ヶ谷”なのでしょうか。
神の祭祀を行う場を意味する”神庭(かにわ)”、急崖の地につけられることのある地名”カニ”、沢蟹がいたから、など、諸説あるようです。川崎に住んでいるある方は、実際に家の隣に水が湧き、沢蟹がいると仰っていたので、地名の由来であったかは不明としても、沢蟹がいる(た)可能性も低くない場所ではあります。

さて、現地へ。まずは最も標高の高いところまで行ってみます。
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バス停で降り、トコトコ歩いていると、あらまあ懐かしや。

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マンホール多発地帯。

などなど、あいかわらず川崎はたのしい。

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ふう、来ました。
蟹ヶ谷槍ヶ崎住宅や明石穂団地などがあり、バスターミナルがあります。2005年まで四方嶺住宅という団地もあったようですが、現在はそれらしき場所はだだっぴろい原っぱになっています。

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最も高いと思われる場所には、お店屋さんがありました。けれどシャッターが閉まっています・・・。
今でもたくさんの人がここには住んでいるはずなのに、なぜか買い物できる場所が団地付近にはありません。

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”商店街”はありました。
が、今や”商店”は小さめのデイリーヤマザキがあるのみでした。・・・。

さあ、本日のさんぽはここから。まずは、蟹ヶ谷にあるはずの谷川を探します。さきほどの陰影図の、谷の南端を目指します。

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早速、すごい眺め・・・!

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だいぶ下ったところに専念寺というお寺の入り口があります。
地形図を見ると、この奥に、メインの谷頭があるようなのです。

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お寺の駐車場には既に、待ちきれない水たちがジワジワ湧いていました。

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入ると、池がありましたが、湧水池のようには見えませんでした。
しかし、その上にあたるところには墓地があって・・・このように、みごとな墓地谷頭になっていました。
目黒の高福院の墓地(渋谷川支流の上流端であり、同じく墓地谷頭)を思い出しました。それを、更に凝縮したような場所でした。

ここで湧いた水が、おそらく以前は池になっていて、そして左右の崖からの水も集めた川が、

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ここから始まります。専念寺の門のところから。

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流れは門を出、コンクリ蓋暗渠となります(ガードレールの向こう)。

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矢上川をめざしてさらさらと北上します。
矢上川蟹ヶ谷支流(仮)とでも呼びましょうか・・・。

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左右から更に支流がやってきます。
両側は急峻な崖ですから、「そりゃ、来るよね」などとブツブツつぶやきながら歩きます。

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ときどき、のぞき穴もあります。
中には、勢いよく湧水が流れています。

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左岸にちょっと変わったマンションがあって、その脇からも、支流がにゅっと。

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うわはは!なんだ、これ?(すべり台?w)

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歩道の下を流れてゆきます。

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下流は暗渠らしい道になっています。

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この後いったん建物に遮られますが、

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矢上川に到着します。
あれ、水が出てこないぞ・・・?と思ったら、ここにはポンプ所があって、これはおそらくポンプ所の雨水放流口。

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お隣では蟹ヶ谷支流(仮)のきれいな水が合流していました。

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ちょっと上流にはコンクリ蓋暗渠と防火水槽様のものがありました。このへん、小さな谷戸が多いので、こういうのがいっぱいありそうです。

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暗渠のとなりには、畑があり葱が育っていました。
右手には幼稚園があって、夏祭りの準備中。子どもが遊びまわっていました。

・・・さて、軍事ものの話に移ります。
蟹ヶ谷には、かつて海軍の東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊がありました。といっても、今下ってきた谷底にあったのではなく、左岸の丘の上と、もうひとつ西の谷に隊は居ました。

昭和5年、蟹ヶ谷に旧日本海軍の通信基地橋村短波受信所がおかれ、昭和12年にに東京通信隊・蟹ヶ谷分遣隊と改称。その役割は短波受信専門の通信基地であり、世界の情報を傍受していました。
丘の上には22棟の建物と、無線通信用の鉄塔6基があり、多くの電柱とアンテナ線を張り巡らしていたといいます。

既述のように蟹ヶ谷は傍受専門であり、送信専門は船橋分遣隊と戸塚分遣隊です。ここで、谷戸ラブさんの最新記事とも不思議とコラボしますw。

そしてその遺構ですが・・・、6基の鉄塔は次第に撤去され、今は航空管制用として1基だけ残っている、と言われるので、それを見に行きます。まさに、最初に降り立った、あの団地の中に。

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いったん下り終えた谷を、こんどは北側から上ります。
継手多発地帯。

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丘の上に戻ってきました。
さきほどの、槍ヶ崎住宅の東には、公務員蟹ヶ谷住宅と、国税局蟹ヶ谷宿舎がどーん、どーん、と建っているのですが、国税局の団地は立ち退き後のようでした。

ここで鉄塔を探し回ったのですが、無い、無い・・・。
情報が殆ど得られていませんでしたが、どうやら、2010年頃に最後の一本も撤去されてしまったようです。

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なんとなく、ここ、でしょうか・・・。
地図を見ると東京航空局とか書いてあるし、戦時中にあったものの名残を感じていた(地図上では)んですが、2012年現在、着々とそれらは姿を消しているようでした。

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団地の端っこはまるで展望台のようでした。矢上川沿いに広がる低地を一望できる丘の上、いかにも通信向きの地。

残念ながら今回は見られなかった鉄塔ですが、航空写真では在りし日の姿を見ることができます。

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さらば、蟹ヶ谷の鉄塔。(わたしは会うことも出来なかったけど。)

もうひとつ。蟹ヶ谷分遣隊は、この地に地下施設もつくっていました。
さきほどの谷の1つ西、”城法谷(じょうほうや)”というところに、です。通信関連の部隊との繋がりをイメージさせられる名ですが、由来についてはよくわかりません。

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この、城法谷にあった地下施設の模型を、平和館でみることができます(手前の水路は二ヶ領用水)。

この日は平和館に寄り、イメージを膨らませたうえで、ここに来ています。しかし、ただでさえアップダウンの激しい川崎で若干疲れ、かつ、鉄塔が見つからず、意気消沈気味でした。そんなところに、この看板が飛び込んできました。

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名残があった・・・!
整備された比較的新しそうな公園でした。しかも、地下に雨水貯留施設が埋め込まれている、興味深い場所です。
気を取り直して、地下壕を探しにゆきます。

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今度は、蟹ヶ谷のように谷底にちゃんとした道がない(畑や企業の用地のみ)ので、いったん谷を下りきり、そして遡ることにします。すると、早速暗渠です。

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遡ると、開渠になり、

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ふたたび暗渠になります。
のどかなのどかな、畑の脇を流れる小川です。

・・・いや、むしろ農家の方の私道ぽくて、無目的に歩くにはハードルが高い道だったんですけど。おそらくここは、久末谷戸ともいうようなのですが、自分としては矢上川城法谷支流(仮)と呼びたいです。

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城法谷支流(仮)のコンクリ蓋暗渠は、クネクネ続いたかと思うと、その先クッと直角に折れ、

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唐突に人工池が現れます。妙に黒いんですが・・・生き物の気配は、とてもありました。蟹っ!?と思ったら、ザリガニでした。

ここでも湧きそうな地形ですが、さらに上の方から湧水が注ぎこんでいます。その上は、渓流のような蓋暗渠で、さきほどの城法谷公園の方につながっていっていました。

そして、この池の隣には、

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地下壕の入口がありました。

今も山林と竹藪と畑といった風景が主なこの谷戸ですが、戦時中もそのような風景だったようで、その中に軍は昭和18年に2つの耐強受信所(地下壕)をつくりました。地下壕の中には電信室があり、多くの通信機材が置かれていたそうです。傍受した内容は、東京通信隊本部や日吉の連合艦隊司令部にも伝えていたといわれます。

地下壕は厚さ40センチメートルのコンクリートでアーチ状に作られ、3か所の出入口がありました。これはその1つで、現在唯一外から見ることのできるもののようです。

地下壕入口のすぐ脇に、こういったことが書かれた説明板が立っていました。そしてそのまん前を、コンクリ蓋暗渠が走っています。
説明板、コンクリ蓋、人工池の位置関係はというと、

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こうなっています。つまり、池のすぐ向こうが地下壕入口なのです。なんという三位一体・・・。

城法谷は、清水も湧いている緑豊かな谷戸だった、と、戦時中の記録にはあります。隣の蟹ヶ谷がそれなりに開発されているのに対し、ここはその雰囲気が今も残っています。

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けれど、畑の緑、山の緑の脇に、にょっきりと現代の人工物も同居していて。 地下には過去の人工物が眠っていて。いろいろなものが在る谷戸です。

さて、概ね見たいものは見たので、帰ります。

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蟹ヶ谷から下ったところに、たつみという中華屋さんがあります。ここにはなんと”カツカレーラーメン”をはじめとする、ワンダーな世界が広がっているようなのですが、涙を飲んでスルー。
だって、わたしは今日は蟹を食べたいんだもの!・・・と、憲兵隊分遣隊が置かれていた、溝の口に移動します。

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滅多に頼むことのない、カニサラダ。
え?そりゃ蟹じゃないって・・・?うぇへへ。

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そして大好きなカニ汁。こんにちは蟹さん。

と、蟹を口にして満足げに帰路に着いたのでした。季節はずれの、蟹づくしさんぽ。毛ガニも食べたかったなぁ。

<参考文献>
「平和ウォーキングマップ川崎」平和マップづくり実行委員会

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紅葉川をねちねちと歩く その2 弁天支流(仮)

東京時層地図が欲しい・・・ipod touchを買ってしまおうか・・・。うつろな眼で腹をくくりかけた矢先、職場の忘年会その1がありました。今年はなんとビンゴの賞品に、ipod touchがあるじゃありませんか!キタコレ。こちとら着任以来一度も当たっていない(毎年三分の一は当たってる)運溜め中の身なので、今年それが当るっていうシナリオに違いない!・・・とか、盛り上がっていたら、本当に初めてビンゴが当たりました。ipod touchは一つ前の人がかっさらっていきましたがね・・・そんな流れによって、むしろ買いづらくなってしまいました。

なわけで、あいかわらず書き込みだらけのマイ地図(友達からは「受験生の辞書のようだ」と言われましたw)を持って、四苦八苦しながら妄想暗渠さんぽをしています。冬になりかけてるので、そろそろ紅葉川編に戻ろうと思います。

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まず、前回の補足。
牧場跡出来杉君エリアの前には、こんなモニュメントがあり、「かつてここは”まきば”でした。」と書かれた案内板がありました。暗くってちゃんと読んでませんけど;;

うわー、ここのお店のひとたち、きっと牧場跡だったこと知ってるよ!知っててステーキとか牛丼とか提供してるよ!・・・って、興奮。

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それから、お向かいにはメグミルクがかつてあったそうです。今は本塩町に移動していますが、あくまで紅葉川沿いなんですね、なぜか。
・・・メグミルクと牧場の関係は、わかりません。わかりませんけど、なんかうれしい。

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・・・じつは前回の記事のすぐ後に、”ステーキハウス鉄板牧場”へ、食べに行ってましたw

おすすめらしき、牧場ハンバーグを注文。牧場ってついてるので注文。すると、ものすごいアツアツの状態できて、こんな風な紙のカバーがかけられて、頃合いになるまで待たされます。

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その待っている間、他の席からウマそうな匂いがただよってくるので、ハラ減りにはキツイ・・・。
さて、紙をどけて、実食です。うーん、なかなかうまし!思っていたよりも美味しかったです、ハンバーグ。

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ふー、牧場跡で牧場ハンバーグを食べたぞえ!!さらに調子に乗って、この3軒の前で、牛乳を飲まずにはいられませんでした。

さらにさらに、ここのビルのオーナーが牧場と関係ないかな、と、調べようとしましたが、まだそこはわかりません。

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そしてこのとき初めて気づいたんですが、なんとお向かいには、ハンバーガー屋さんがありました!
むおー、なんてこった・・・肉、肉、牛乳、牛乳、肉じゃないかー!!!

このエリアの牧場色、すごすぎますw

さて、川跡の話に戻りましょう。前回は、富久町の水源について書きましたが、あの清滝不動尊からの流れに東からあわさる、もうひとつの流れがあるのです。

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その水源らしき場所は、ここらへん。明治の地図だと大きな池で、地図によっては流れが書いてあったりもします。

この写真の、手前部分が少し高く、向こう側が若干低くなっています。そして、玄関と駐車場が低く作ってある家々もあります。そういったつくりの民家があるところは、湿地帯だったかも、と、スリバチの方から教えてもらいました。

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池は大きなサイズのものが2つあったようで、その範囲はわかりにくいです。適当に歩いていると、クリーニング屋さんがありました。

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そして池から出た流れが、この工事中(高校の跡みたいです)の場所を横切り、清滝の流れへと合わさっていました。

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手掛かりが乏しいエリアです・・・。この道路だけ妙に広いですね。写真奥の方に池が広がり、手前の方に流れてきている、と妄想します。

歩いているときは知りませんでしたが、この場所、かつては市谷監獄があったそうです。池のあたり~工事現場は跡地のようです。”地域誌 この町の昔のくらし”によれば、市谷監獄→空地(野菜畑)→住宅(&高校)と変わってきているとのこと。つまり、池らしさは早い時分に失われていたのかもしれません・・・

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さてさて、ここまでは前置きみたいなもので、ここからが今回の本編です。

紅葉川支流をさぐろうとウロウロしていたら、偶然に暗渠サイン続出のみちを見つけてしまいました。ので、今回はその川っぽいみちを遡ります。
河口部分へとあるいていたら、違和感エリアがありました。妙に余っている、三角の緑地。右側が靖国通りです。

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緑地は置いといて、目的のみちは、わかりやすいことに”市谷台町”と”富久町”の町境です。
河口部分は、このビルの隙間です。・・・といっても、これについては川があったと記している文献は見つかりませんでした。つまり、今回は純粋なる妄想暗渠さんぽです。

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いきなり階段がありました。この時点で、ちょっと川跡感が失せます。・・・滝?・・・でも大丈夫、上流に行けば大丈夫だから!

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階段をのぼると、こんなふうな、ただの住宅街のみち、です。でも、右側が若干崖になっていますね。ちょっと期待がもてます。

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その通りにはクリーニング屋さんもありました。ちょっと安心します。

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こんなふうに、ぐにゅ~~~っと曲がったりします。曲がり角の防災資材置き場ってのも、感じ出てます。

ちなみに、奥の工事中のところは、前述の富久町のもうひとつの流れが通ってるところです。

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そのさき、碁盤の目のような住宅街の脇を通過するんですが、そこにも小さな崖がありました。

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おっとまたクリーニング屋さんです。しかも今度は、高級クリーニング。むかしからやっていそうな風情。

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そして唐突に商店街が始まるのでした。

まずは、この”フローラ”という洋食屋さんが、この看板だけですごく素敵な気がしてしまいます。が、残念ながらやってらっしゃらないかも。

その向かいに、お豆腐屋さんがありました。

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そして、一番の暗渠サインだと思ったのが、この弁天湯です。・・・それに乗じて、この支流には、”弁天支流(仮)”と名付けたいと思います。弁天とは、おそらく近くにある抜弁天のことではないでしょうか。

この弁天湯、すごい充実していて、サウナ、オスマン浴、露天、つぼ湯・・・等、10種類ものお風呂が楽しめるみたいです。オスマン浴ってなんだ!?・・・ともかく楽しそう。いつか入ってみたいです。

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うーん、あったらいいなぁ、弁天支流(仮)・・・。銭湯向かいには地味に氷室もありました。

・・・これも、後から知ったのですが、先の市谷監獄の話にからみ、この通りは”市谷監獄裏通り”と呼ばれていたようです。あまり人が通らなかったのかもしれず、昭和初期の回想の絵では、この通りには商店は登場しません。かといって水路が無かったともいえないわけで、水路、あって欲しいんだけどなあ・・・。

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ほか、同じ通りには蒟蒻系の食品工場もあり、クリーニング屋さんがもうひとつあり、とにかくこの狭いエリアに水を大量に使う施設が密集しているのです。ん~、あやしすぎる!!

加えて、鰻屋さんも一軒。鰻屋さんが微妙だとしても、ここはずっと町境のみち、なのです。総合すると、川であった可能性が高い気がします。

ちなみに、昭和10~18年頃には、”藤井テント”や、さらなるクリーニング屋さんもあったようです。

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通りはこの法善寺にぶつかって終わります。法善寺、専福寺、などとお寺が何軒か並んでいるので、どこかに水源があった可能性もあるでしょう。

法善寺の前の通りは、”まねき通り”というレトロな商店街で、ほんわかしたすごくいい感じ!空襲で一度焼けてしまったけれど、復興して公募によりついた名だそうです。

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実はさきほどの弁天湯は、むかしは”あけぼの湯”といい(やや遠いけど曙橋からでしょうか)、弁天湯は別な位置にあったようです(”地域誌 この町の昔のくらし”より)。
弁天湯は、”まねき通り”にあったそうで、このコインランドリーなんてあやしいけれど、銭湯跡っぽさはあまりありませんでした。移転したいきさつは知りませんが、”弁天”の名を残していることから、この地域にとってのこの名称の重要性を想像してしまいます・・・と、弁天支流(仮)の命名をさらに正当化w

Benten15 新しい道路を渡ると、抜弁天がありました。ここにはキレイな池があり、名前からいって湧水池があったよううなところです。いまのところ湧水があったと書いているものは見つかりませんが、ここは生類憐みの令の頃、犬小屋があった場所でもあるとのこと。中野のお囲いだって、複数の湧水で犬の飲み水をまかなっていたわけで・・・。

ここはこの辺ではもっとも高い場所、とは書かれていました。新しい道路のせいで、地形的に弁天支流(仮)と分断されていますが、もしかするとむかしは・・・。ここが水源だったら、”弁天支流(仮)”の名がよりふさわしくなるなぁ、などと、妄想拡がるのでした。

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今回の行程を、黄色で示しました。時間がないので、すんごいやる気ない感じの地図ですw

紅葉川支流、まだまだ半分にも行きません。なかなか、奥が深いです。

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桃園川支流を歩く その24島田軒牧場支流(仮)と、牧場のはなし

最近、牧場跡が気になってます。
高円寺や中野に意外に牧場があったからでしょうか。川沿いに牧場をいくつも見つけたからでしょうか。単純に牧場が好きっていうこともあります。

Simada1 今回は、牧場の近くを流れていた、桃園川の下流のほうにある支流をご紹介します。スタートは、中野坂上。

これも古地図から発見した支流ですが、その水源について、いまのところ図書館で探しても手掛かりが得られていません。古地図では青梅街道から始まっています。知るかぎり、高円寺以東で青梅街道からスタートするように見える水路は4つ。Simada2

六カ村分水、すなわち千川上水からの分流は、中野坂上まで延長されたということがあるのでしょうか。聞いたこともない話ですが、これから調べていこうと思います。

さて、暗渠サインのとぼしい入り口でしたが、すすんでゆくと、みごとなカーブ。右手には団地。前方には、団地側の土地がじわじわと崖状になっていゆくのが見えます。

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おお~。クリーニング屋さんです。しかも、なんだかこの交差点、すごくいびつです。

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クリーニング屋さんの先、こんどは道の左側に崖ができてきて、道路側が高くなってしまいます。ここを川が流れているというのはやや不自然。おそらく、流路はこの道の左の崖下に移っているのでしょう(古地図でも、道と重ならないかたちで描かれています)。

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この地点で、流れはとつぜん、直角以上の曲がりを見せます。そしていまあるいてきた道から、流路へと降りていく階段があります。

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下ってから、振り向いた図。
うーん、劇的。この車止めのある坂を、水が落ちてくるようすを想像すると、、、けっこうな景勝地ではないでしょうか。きらきらとまぶしくはねる、水しぶきが見えるようではないですか。
そして流れは写真の右方向にググーと曲がります。

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曲がった先は、またも崖下。

この左側の緑地は、”塔ノ山公園”です。崖地につくられた、傾斜のある公園。”塔”とは、宝仙寺の三重の塔を指します。

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塔ノ山公園を過ぎると・・・すごい崖が見えてきます。

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ここは横浜か川崎か?ってなくらいです。ここまで切り立った崖が、青梅街道と大久保通りの間にあるなんて・・・正直知りませんでした。

流れはこの崖下をちょっとすすみ、プイッと右に折れます。

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右に折れたら、あとは桃園川へと一直線。この道を下っていくのです。

この支流の河口近くはもう、用水路が網の目状に張り巡らされていて、どこが桃園川との合流点、というのが見えにくいです。とりあえずいまある道を進んでいくと、塔ノ下橋に出ました。

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塔ノ下橋には、桃園川幹線水位状況を知らせてくれる、電光掲示板がたっていました。
うぅ・・・これ、今まで気づきませんでした。わたしのボンクラーーー!

さて、河口まで支流を辿りましたが、肝心の牧場をまだ紹介していませんね。牧場は流路のワンブロック隣で、

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現在、宝仙学園があるところに、かつて”島田軒牧場”がありました。この写真の白い壁の中です。けっこう傾斜のある土地みたいです。

牧場に因んで、牛乳を飲みます。ゴクゴク。
牛乳屋さんがあったらいいのにな、と探しまわりましたが見つからなかったので、コンビニ産のもの。暑くって、ほんとはソフトクリームでも良かったんですが(むしろソフトクリームが良かった)、この支流を見つけた瞬間から「わたしはあすこで牛乳を飲む!」と決めていたので、初志貫徹ってわけです。

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そんなわけで、この支流をわたしは”島田軒牧場支流(仮)”と呼びたいと思います。

またyahooから勝手に取ってきた地図に、流路を黄色で示しました。島田軒牧場支流(仮)の描くカーブの内側に、島田軒牧場があった(”宝仙学園高”の位置)、という位置関係です。

さて、中山清太郎著「地理的に見た桃三をめぐる社会」では、”牧場は河川の傍らにあった”と、中野・杉並の牧場事情をみて書いています。かなりダイレクトに牧場も暗渠サインになりうると言っているわけですが・・・、この根拠となる牧場は4つ。桃園川沿いの宮園牧場(宮園橋の近く。以降3つは杉並ですが、これは中野区)、小沢川沿いの高円寺牧場(現・高南中の敷地で、小沢川の真隣)、善福寺川沿いの堀ノ内牧場(ゲルンジー牧場とも言われ、リバーサイドさんが跡地に行かれています。柏木で営まれていた”ゲルンジー農園”で修業をした方が杉並に移ってきたのではとわたしは推測しています)、和泉町牧場(くわしくは知りませんが神田川沿い)。これらは昭和20年代に残っていた”交通機関からなるべく離れていて、都市化されにくい川の流域”という条件を満たしていたものたちなのだそうです。

もう少し時代を遡ってみます。以前行われた牧場の企画展「ミルク色の残像」では、都内に牧場が多かった大正8年の時点で、杉並には0、和田堀ノ内で1(併せて現・杉並は1)です。国木田独歩が牧場の近くに住んでいたように、渋谷あたりにも結構あったようですが、そういった都心の牧場たちが田舎へ移動してきて、杉並の牧場はこの後少し増えます。それでも僅かなもので、杉並区発行の「杉並区農業のあゆみ」では、昭和10~15年で3戸、昭和48年で1戸と記しています。まあ、昭和48年まであったのは凄い気もするけれどもw
最大で3戸のようですが、これが前述の3牧場であると考えると、少なくとも杉並区においては、牧場=川沿い、という図式が成立することになります。

いっぽう中野は大正8年時点で8戸、これはまあまあ多い方です(ちなみに大島町26、西巣鴨町26、代々幡町25が上位)。
わかる範囲で川との関係をみると、前出の川島牧場も、この島田軒牧場も、比較的川の近くにあります。牧成社牧場は上高田支流(仮)沿いにありました。
残念ながら川が近くに見つかりませんが、島田軒牧場から山手通りを挟んだ向こう側にも矢島牧場があります。もしかすると、杉並ほどには川と結びつかないかもしれません。ちなみに、展示の冊子には”牧場経営では水を多く使う”ことが書かれており、これも川と牧場の関係を示唆しますが、必ずしも川ではなくても、井戸から豊富に水が出れば、井戸でまかなっていた牧場もあったようです。・・・いずれにせよ、中野はなかなかの牧場地帯ではありませんか。それと、日本ホルスタイン会館(←ず~っと気になってます!)が新中野にあることが、関係あるかは知りませんが。

ともかく、多くの水を必要とすること、都市化しにくい場所であること、あたりの要因で、牧場は準暗渠サインになりそうです。牧場を組み込んだ暗渠さんぽ、またいずれ何処かで、できるかもしれません。

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