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2021年8月

失われた桃園橋のこと

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桃園川に架かる桃園橋。この立派な橋が撤去された。

桃園川は杉並区と中野区を流れていた川だが、その遺構のありようは、2つの区で異なっている。
大きな特徴を挙げるなら、杉並区にはコンクリート蓋暗渠の支流が多く残り、中野区には立派な石橋が残る(両者、逆は少ない)ということ。中野区に残る立派な石橋は、かうしん橋、宮園橋、そしてこの桃園橋だ。この3橋はそれぞれに秀でた特徴があり、どれも良い。

その3橋のうちの一つ、桃園橋が撤去されることになった。
もともと、桃園橋付近は、周辺の店が建て替えられては後ろに引っ込んでゆくので、道路の拡張があるのだなと理解はしていた。桃園食堂であるとか、中野センターであるとか、実に味わい深い、古き良き建物がこの10年でどんどんなくなった。桃園川脇の食堂三好弥のみが、建て替わっても営業を続けてくれるので救われていた。


したがって、
「桃園橋もいつかなくなってしまうかもしれない。」
これは、何年もの間、頭の中に常にある心配事だった。

けれど一向にそんな気配もないし、桃園橋は御成橋でもある立派な橋(中野区の文献にもやたらと出てくる)なのだから、きっとこのままいけるのかもしれない。と、最近はちょっと安心もするようになっていた。

そんな中での、工事の情報。

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令和3年4月1日から、令和5年8月9日まで、桃園川緑道を一部通行止めする、という立て札。そして、桃園橋撤去の報。

嗚呼、ついにきてしまった。
一旦(なぜか)安心してしまったわたしにとっては、ジェットコースターのように落胆する感覚があった。

 

桃園橋はなんだか立派すぎるので、そういえばこの橋をきちんと見つめたことはまだなかったかもしれない。
どのような橋だったのか、ということを、手持ちの資料から少しだけまとめてみる。

『新編武蔵風土記稿』の中野村桃園図に、桃園川が寄生虫のようにニョロニョロと描かれる。ここに載る橋が桃園橋だ。

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吉宗が桃を植えさせ、行楽地とした中野の桃園は、現在のマルイの裏あたりの丘。中野五差路がその入り口であるという。
桃園は鷹狩りの場所でもあり、吉宗以降の将軍たちが訪れている。桃園橋は、将軍が桃園に鷹狩りに行く時の御成橋であった、というわけだ。
(中野五差路には、今でもなんとなく「境界」感がある。あの感じは江戸から続くものと考えると、少しおもしろい。)

将軍が通る際、桃園橋の橋板は「将軍のための橋板」に取り替えられる(赤絨毯のような感覚だろうか?)。その橋板を保管していた場所が橋場であり、「橋場橋」はもう少し下流にある(たしか、天神川との合流点近く)。
桃園川に架かる橋は数多あるが、桃園橋はとりわけ「重要」で、「有名」な橋だったのだ。

また桃園橋は、吉宗の頃には「石神井橋」と呼ばれていたと書くものもある。桃園川を石神井川だと勘違いした人による呼び方だと思うが、それゆえ「石神井橋」も間違いだろう。
前にも書いたことがあるが、桃園川はその呼ばれ方がある時期まで揺れている。公的な資料においても、だ。

中野町誌によれば、昭和7年頃の橋梁表には、桃園橋は”善福寺分流”に架かる”木橋”として載っている。幅は4.65m。
善福寺分流と呼ぶのは、天保時代に善福寺川から取水した天保新堀用水を桃園川につなげたことを考えると、間違いではない、とわたしは思う。

中野区誌に載る昭和12年12月の橋梁表には、桃園橋は、”桃園川”に架かる”鋼鉄桁橋”とある。令和まであったものと同一だ。

昭和18年の中野区誌には、桃園川は”中野川”として載っている。つまり、桃園川の名称がブレていた頃でも、桃園橋はすでに桃園橋であった。「桃園川に架かる橋」というよりは、「桃園に向かう橋」の意でつけられたということなのか。そもそも、いつ名付けられたのか。これまた、桃園川の名称同様、迷宮入りしそうなテーマである。

 

以下は、昭和8年の火災保険特殊地図に載る桃園橋。橋の様子はわからないが、もうこの頃には川の名前はさておき、「桃園橋」だ。そしてこの3年後、昭和11年に、桃園橋は立派なものに架け替えられる。

 

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撤去が知らされた後、メンズノンノから撮影協力の依頼が舞い込んだ。
宮沢氷魚さんが暗渠好きなので、どこかの暗渠で撮影がしたい、という。当初の依頼内容からわたしは違う暗渠を発想していたのだが、暗渠マニアックス間で検討し、桃園川にして「中央線」と絡め、桃園橋の勇姿も写してもらおう、という計画とした。

 

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桃園橋で談笑する、氷魚さんと高山氏。撮影日は奇跡的に3月末(この日になったのは氷魚さんの都合だったので、わたしはこれ以来、氷魚さんを「持ってる人」だなと思うようになる)。氷魚さんも、撤去の寸前であることを知って驚いていた。


撮影中、「この橋、私と同じ歳なのよ」と言って通り過ぎる女性がいた。その女性は桃園橋を愛おしそうに見ていた。
ここに川が流れ、橋があったことにも気づかない人がいる一方で、愛で続ける人もいる。その女性を引き止めて話したくて仕方がなかったが、撮影中だったので、おとなしくしていた。

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撮影のため、クルーは上流に遡っていく。これでこの姿は最後になるな、と思い、何度も写真に撮った。

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これまで撮った写真と、特に変わらないかもしれない。けれど、何度も撮った。そしてこの位置でしばらく、橋を見つめていた。いつになく去り難かった。

 

 

出来上がったメンズノンノには、まさかの暗渠が。桃園川に桃園橋が。これはもう宝物だと思って、大事にしまってある。

紙面だけではなくて、webにも記事があり、また、動画も残っている。桃園川撤去寸前の、貴重な記録といえる。
宮沢氷魚のタイムレスに会いに行く 第6回

この回のおかげで、宮沢氷魚さんのファンのかたが暗渠に興味を持ってくださるなど、うれしいことも起きた。暗渠はやっぱり、人をつなぐ。

 

 

4月1日以降、計画通りこの区間の桃園川緑道は通行が止められ、橋は覆われた。
しばらくは桃園橋はそこに佇んでいたが、ついにスッパリと斬られ、消えてしまった。

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撮影時に「同じ年だ」と言っていた女性の顔が頭をよぎる。あの女性は、どんな心持ちでこの道を通るのだろう。

 

一方で、この斬り方には、保存しようという意思も感じる(する気がなければ、砕いて終わりなのではないか)。この後、どこかで桃園橋を見ることができるだろうか? 中野区の資料館か、はたまたこの場所に剥製のように戻すのか。

(あえて、問い合わせていないので)その情報はないけれど、わたしはいつかその時がくるのを、待っている。

 

<参考文献>
『中野町誌』昭和8年
『中野区誌』昭和18年
『中野区誌 下巻二』昭和29年
中野区中央図書館「中野の橋あれこれ」H15
中野区立歴史民俗資料館 「地域教材情報 No.8」
中野区立歴史民俗資料館 「地域教材情報 No.39」


 

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