11月4日に、神楽坂で「猫でめぐる暗渠」というトークイベントを開催します。
そのイベントはもう満席になってしまったので(申し込んでくださったかた、本当にありがとうございます)、きょうはその宣伝ではありません。
「猫でめぐる暗渠」は、去年ひるねこBOOKSさんでやった「猫と暗渠」トークの続編でもあります。ただ、その第一回目にいらしていない方もいらっしゃると思うので、「第一回目のおさらい」(全部ではないですが)をしておこうと思うのです。
さてさて、去年、わたしは「猫と暗渠」で、こんな話をしていました。抜粋その1は、「猫地名と暗渠」です。
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東京近郊の猫地名といえば。
・・・浦安市「猫実(ねこざね)」、一択。
しかも、浦安市は「猫実川」まであるという、すばらしい土地である。
「猫実川」なる、バス停まである。
しかも、バス停「猫実川」は、ほんとうに猫実川の上に立っている、誠実バス停なのだ(左が欄干)。猫実川の暗渠上、と言ってもいい。
ここらへんでもう、猫と暗渠が両方好きな人は、若干心をつかまれるのではないか、と思う(たぶんね)。
・・・「浦安」というと、おそらく多くの人が思い浮かべるのは、ネズミーランドだろう。しかし、ある程度有名な話だが、ネズミーランドは埋立地につくられたものであり、古地図を見ても「無」である。いっぽう猫実は、浦安といえば猫実村と言ってもいいくらい、明治期の地図を見ると人口密集地なのであった。
「東京時層地図」((財)日本地図センター)、明治9~19年より。右下にある村が、猫実村である。
そんな浦安の古きよき街について、暗渠と猫を絡めながら見ていこう。
まずは猫実川から。
猫実川には、開渠部分と暗渠部分がある。開渠は、浦安の駅南口から少し行ったところから、唐突に始まる。
ちなみにこの猫実川、実は地名「猫実」を流れることはなく、ほとんどお隣の「北栄」を流れている。
奇遇なのだが、暗渠好きでもある大地丙太郎さんが監督をされた「浦安鉄筋家族」に、猫実川が出てくる。
(浦安鉄筋家族よりキャプチャ。子どもをスーパーに忘れてきたお母さんが猫実川を飛び越えるシーン。)
こんな感じか。猫実川中流部。
浦安鉄筋家族に出てくる街並みは、少し前の浦安の雰囲気なんだろうな、と思う。
さて、猫実川の暗渠部分を見てみよう。
ここから潜り、駅付近を通過する。上はタイル張りの遊歩道と親水空間になっている。
親水空間で何かをつかまえている少女がいたので、「何が獲れるの?」と聞いてみた。
答えは、「カニ」だった。
たしかに見渡してみると、人がいないときには油断してカニが出てくるようだ。
カニが大好物なので、すぐさま興奮した。猫実川、カニが獲れる暗渠!これはすばらしい。
東西線のガードをこえると親水空間はなくなり、このような緑道が、道路を渡っても少しだけ続く。
そのうちただのアスファルトの道路になって、住宅街に埋もれてしまう。
こちらは、猫実川の支流と言ってもいいであろう暗渠。
東西線高架下を流れている。立派な蓋暗渠だ。東西線が通る前からここにあったので、この水路の上に東西線を作ったのではないか、と思わせる。
高架と分かれてゆくところはとても素敵で、浦安で最も好きな風景のひとつだ。
さて、ここまで紹介してきた猫実川。本流は、実は長いこと存在しておらず、高度経済成長期の地図にさえ載っていない。
街は東西線完成後に急速に発展したのであろう。それより以前は、浦安はとにかくたくさんの用水路が張り巡らされた土地であった。都市化に合わせてそれらの水路を廃し、そのさいにまとめられた1本が猫実川のようである。
東京時層地図ふたたび。今度は、昭和初期の浦安である。
川に寄り添うように、市街地が発達していることが判る。この川は、今でも開渠で残っている「境川」だ。浦安の、母のような川。
人々は川の両岸に家を建て、川の水を飲料や洗い物に使った。漁業を営む人は船を係留し、農業を営む人は耕地の用水路とした。
浦安の生活は、境川とともにあったのだ。境川で洗い物をする光景は日常で、戦前はここで、米をも洗っていたという。
境川から縦横に広がる、一面の田んぼに用水路。用水路で、ザリガニをとる子どもたちの写真もあった。
そういえば知人(高円寺出身)が、東西線が通ってすぐの頃(当時小学生)、よく浦安に釣りをしに行っていた、と話してくれた。浦安駅は降りると一面の田圃と用水路であり、タナゴなどを釣って遊んでいたという。
タナゴを釣るために浦安まで行く必要があるのか、少々疑問でもあるが、そのひとはなんとも楽しそうに、この話をしてくれた。できたての東西線で釣りをしに行く、という行為に、なにやら胸が躍る感じはする。
川だけではなく、「水」はこの土地の産業と深く結びついていた。昭和5年頃、稲からハスへの転作が増加する。昭和32年には、堀江だけで319軒ものハス農家があった。じくじくした湿地が、ハスづくりに適していた、という。
しかし昭和33年以降、地盤沈下により塩分の強い水が入ってくるようになる(葛西のフラフープ工場が原因と書くものもあるが、詳細不明)。ハス農家は漸減するが、それでも、昭和40年代くらいまでは、ハス田が残っていたという。
古い地図には、大きな養魚場も描かれる。「秋山の金魚池」と呼ばれる一万二千坪もの養魚場で、存在していたのは明治19年から昭和50年まで。こちらは付近の海面埋立により水分が蒸発し、塩分の高い水が池に入ってきたため、廃業せざるをえなかったようだ。
その跡地には、現在公共施設がズドンと建っている。
いっぽう昭和24年、浦安駅西側のハス田だらけの土地に、遊郭的空間がつくられている。柳町という。玄関がちょっと立派な、しかし普通の家のような遊郭が9軒あった。当初はハス田の中にある店に、田んぼや堰を越えてお客さんが通ってきたそうだ。現在は名残があるかどうか、きわめて微妙な感じであるが、ともかくその後、東西線とネズミーランドで、浦安市は大いなる発展を遂げてゆくのである。
さて、長くなってしまったが、これは「猫地名」の紹介記事である。
「猫実」の由来とは、どのようなものなのか。郷土史を何篇か読んでみる。そこにあるのは、常に同じ解説であった。すなわち、
鎌倉時代、このあたりは大津波に遭い甚大な被害を受けた。
その後人々は、堅固な堤防を築き、その上に松を植えた。
村人たちは、「今後、どんなに大きな津波が来ても、この松の根を越すようなことはない」という願いを込めた。
松の根を越さない
根越さね
ねこざね
・・・という由来なのだそうだ。
でもたぶん、猫実は猫が好きなのだろう、とわたしは開き直っている。
なぜなら、

こういった屋根付きの猫スペースが少なくとも2つはあった。
キャッツ!
「とまれ」のデザインがネコ科!
などなど、枚挙にいとまがない。
猫実はきっとこころのどこかで、猫を意識しているに違いない。
さて、ごはん。
猫実川暗渠沿いの食べものやさんたちをご紹介。

本流暗渠に面して入口を持っている、スペイン料理屋さん。
千葉で一番の品ぞろえのワイン。千葉でここでしか飲めないビール、など。
しかしながらなぜか、スペイン人の腕利きシェフが辞めたばかり、かつ、新しいシェフが来る直前、というタイミングで訪問してしまった。パエリアは出せないというので、カルボナーラを食べた。
丁寧に作ってあるカルボナーラ。おいしかったですよ、とても。でもパエリアも食べに行きたいところ。
支流暗渠沿いには蕎麦屋もあり。「ちんねん」さん。
飲める蕎麦屋さんでもあり。
せいろ、田舎、変わり(この日は大葉だったかな?)の三種盛り、に、とうもろこしのかき揚げをつけて。おいし!
さきの蓋暗渠の延長上、東西線の高架下も川跡ということになる。
良い感じの店が並んでいるのだが、なかでもこの立ち飲み「づめかん」が実によかった。

「パンの串焼き」というはじめての食べものをいただいた。
おもしろかった。そしてアリだった。他にもいろいろとおもしろい店。
そして「ミー太郎」。
これもまた用水路跡沿いにある。しかも、「ミー太郎」ですよ。
このトーク時はわたしは「気になっている」と言っただけで、フロアにこの店をご存知の方がいて、「昔は看板に猫の絵がついていた」という新情報を得たのでした。
さてさて、暗渠沿い飲み屋「ミー太郎」と猫の関係やいかに?!
この「ミー太郎」潜入情報についても4日に、簡単にレポートしたいと思います。
ではでは、事前学習その1でございました。その2は、間に合えばまた書きたいと思います。
<文献>
・秋山武雄写真集「浦安 青べかの消えた街の時 17歳からの視点」
・「浦安町誌」
・「浦安の歩み」
・「浦安の民俗」
・三谷紀美「浦安・海に抱かれた町」
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