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九段の花、いまむかし

地獄谷のことを書いたときに少し触れたが、
九段南~三番町あたりに定期的に行っていた時期があった。
妙にしんとした街並みが、印象に残る。
かつてここに花柳界があったと聞き、嗚呼なるほど、と思っていた。
 
しかし、あまり大きな料亭は見かけない・・・
あるとき平安堂という筆屋さんに置いてあった冊子に、
三番町の「あや九段ビル」がかつて「あや」という料亭で、
福田赳夫なども利用していたということが載っていた。
 
現在は立派なビルである。あそこ、料亭だったのか・・・
しかし周囲をぐるぐると歩いてみても、料亭っぽさを残す建物はあれど、どうもサイズが小さい気がして、かつての街並みをあまりうまく想像できなかった。
 
”大手町暗渠ロジー”を書く際、皇居周りのあちこちの火災保険地図を、ついでに得ておいた。
その地図上の街は実に美しい。よく見ると・・・、嗚呼ここは、こういうサイズの待合の街だったのか!
と、すべて合点がいくのだった。
 
 
さて、九段とは、こういう街である。
現在の九段北4丁目、九段南4丁目あたりは、江戸期には夜鷹が現れていたというし、岡場所も作られたことがあるというから、なんだかもともと、艶っぽさを隠し持つ土地であるようだ。
明治の初めになると、富士見町1丁目から三番町にかけ、花柳界がつくられた。当初は、競馬場(現靖国神社参道)の裏辺りだったという。
 
この、富士見町に花柳界ができた背景が独特である。
九段といえば、靖国神社。
明治維新後、「靖国神社に来た軍人が遊ぶところがないから」(そして、変なところで遊びたくないから)ということで、近所の広沢参議(そのバックに地元の有力者2名)が政府に働きかけ、富士見町花街を作る許可を得た。しかしその後、広沢氏は暗殺され、話は停滞してしまう。
明治20年からは、地元の柴田氏が私設の見番(柴田見番)をつくり、そこから少しずつ店が増える。儲かる、ということで、下宿屋からの転身が少なくなかった(小ぶりな店が多いのはそのためか?)。しかし柴田氏が大正に亡くなる。
 
そのとき、富士見町三業組合を作るという動きになったのだそうだ。
新しい見番ができ、大正期は柴田見番=赤、新見番=白、と、赤白に分かれていたのだそう。(※富士見町は当時、現在の九段南まで広がっていた。)
ピークは昭和初期。芸者4~500人、待合130~140軒という規模となった。客層は変わらず軍人多め。しかしこの頃の「全国花街めぐり」では、「かつては軍人専用花街といった感じだったが、今は他の人も来る」とも、書かれている。
永井荷風がここで、二号さんに「いくよ」という待合をやらせていた、と地元の人が語っている。菊池寛をはじめ小説家も多くやってきていた。ただし彼らは、そこで小説を書いていたのだそうだ。優雅な…。
 
昭和8年前後になると、九段三業会館が建設される。このあたりでは初めてのビルディング。それまではビルなどなく、それこそ、富士山が見えたという。
第二次世界大戦中は、営業停止となっていて、見番の中で無線機の部品作りをしていたそうだ。
 
戦後、再開の許可が下りたのは昭和21年。桜井、若泉、よし桜井、一力などが早かった、という回想がある。
その後賑わいが戻るものの、次第に衰退。バブル期には地上げ等々の影響でオフィスビルになるものが増え、廃業が続く。そしてとうとう、1997年に九段三業会は解散する。

Hukugen

 
文献によれば、2008年時点では、「治乃家」「田むら」のみが営業しているという。この写真は”わが町あれこれ”内のものだが、「ふく源」の看板が見える。ふく源も、2017年現在は営業していないようである。「梅川」、「喜京家」などの料亭も廃業し、ビルになっている、という。
 
いま、ビルの名前としてだけ、残っている料亭の痕跡があるということに、少し心が惹かれた。暗渠における、橋の銘板のようなものだろうか。それでわたしは、現代の地図から料亭の痕跡を見てみたい、と思った。
 

Hatsune

 
これは戦前の火災保険地図。「料」が料亭である。
こんなにも料亭がびっしりと並ぶ街だったのだ。想像以上だった。
縮尺が変わってしまうが、現在のマピオンも見てみる。

Kudan1

「富士家」が、「富士の家ビル」になって残っていることが分かる。
(ちなみにこの富士家の隣がふく源なのであるが、どちらの地図でも確認できない。)
 
お隣の区画もみてみよう。
…この、当時の街並みをとても見てみたくなる。耳を澄ませ、匂いを嗅いでみたくもなる。

Uokyu

 
続けて現在の地図を。
 
 
Kudan2
 
「栄㐂」が、「マンション栄嬉」に、
「喜京」が「喜京屋ビル」になって、残っていることもわかる。
マピオンに載らないだけで、残っているものは他にもきっとあるだろう。
他にも3か所に印をつけているが、これは、現在も料亭風の建物が残っている場所である。
 

Fujinoyu

平安堂は、このときの地図にも登場している。その隣が、あや九段ビル。
「あや」とは、女性の名かと思っていたら、「阿家」であったのか・・・
 

Kudan3

 
「ふじの湯」なる銭湯は、現在サン九段ビルになっている。
花柳界であった時分、このエリアに銭湯は二軒あったのだそうだ。入る人は全部花柳界の人。芸者に内風呂は使わせないのだそうだ。理由ははっきりせず、厚化粧のため・・・などと推測する人もいるが、よくわからない。銭湯の内側、さぞかし賑やかであったろう。男風呂はガラガラ…?

Kagai1

 
再び、現在の九段に赴く。
今もわずかに、それらしき建物はある。
最初にこれはと疑った建物は、たしかこの建物だった。火災保険地図では「一松」がほぼ重なる位置ではあるが、現在位置とズレがあるので、もしかすると戦後新たに経営され始めたものかもしれない。

Kagai2

 
しかしこの建物には、つい2か月前ほどだったろうか、取り壊す旨の張り紙がしてあった。
今はもう、なくなってしまったかもしれないな…
そしてすぐ近くに、もう一軒ある。

Kagai3

こちらは、「若泉」とはっきり書いてある。
もう営業はしていないかもしれない。しかし、若泉とは、前述の戦後すぐに営業を再開したと書かれているうちの一軒。小さいながらも、勢いのある店だったかもしれない。火災保険地図にも載っているものだ。
 
「若泉」の文字を見たとき、わたしはなぜかほっとした。
此処にはたしかに、小ぶりな料亭の並ぶ街があった。夜な夜な、芸者が美しく踊り、歌い、笑い声が響いていただろう。局沢の谷では女学生が学び、その隣の崖の上では、芸者が舞い踊る。此処は、女性たちが踏ん張る街だったのだ。
消えゆく痕跡。生き残る痕跡はほんのわずか。しかしこの上品な静けさを持つ街並みの奥に、目を凝らせばそんなものも見えてくる。
 
<文献>
・「大江戸透絵図」2003年
・「東京花街、粋な街」2008年
・「わが町あれこれ」1981年
 
本記事は、「よいまち新聞 大手町暗渠ロジー」に絡めて書いたものです。
暗渠ではありませんが、失われた何かのこと、街のこと、ということで。
大手町暗渠ロジーは、現在WEBから見ることができます(リンク先にPDFあり。これの第3号です)。この花街跡の地面の下を通った水も、大手町まで流れて行っているかもしれません・・・
 
 

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