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地獄谷、あの日の記憶

「あの日」のことを、明瞭に語れる人は多いだろう。

それから、その場所を通ることで、関連付けて「あの日」を思い出すことも。わたしにとって、そのような場所はいくつかある。

あの日。
わたしは職場にいた。当時の職場は、文京区にあった。

あの時間のことをここで詳細に触れるつもりはないので、大きく省略して書いていく。

職場の敷地で最も広いところに、大勢が集まっていた。緊急放送が流れる。わたしは郷里のことばかり考えていた。放送の声は落ち着いていたが、論理的には矛盾していた。横で後輩が、「この放送が言っていること、論文だったら不採択ですね。」と言ったので、思わず、笑った。彼はきっと、大物になるんじゃないかな・・・なんとなくそんな気がする。

しばらく時間が経ち、歩いて帰ることになった。ざっくり言って同じ方向のひとたち、4人で職場を出る。わたしは暗渠を書き込んだ、紙の地図を持っていた。あまりにも繋がらない電波に、とっくに携帯の電池は切れている。あんなに紙の地図に感謝したことは、後にも先にもない。

九段下で、南へ行く二人と別れた。残る同僚は神奈川の人で、あまり地理がわからないようだったから、兎に角渋谷まで案内することにした。
通りは花火大会のようなありさま。わたしはなんとなく一本裏道を歩きたくなった。そして、以前から気になっていた「あの道」に同僚を誘った。

そこは谷なので、避けたほうがよかったのかもしれないと後にして思う。でもわたしは、崖線の話などに反応してくれるその同僚に、地形や暗渠の話をしながら歩きたかった。不安に直面したくなかったのかもしれない。結果、わたしたちはノンビリと裏道を歩き、気になっていた谷をのぼり、鮫河谷を横切り、そして明治通りで別れた。

あのとき、谷が思っていたよりずっと早く谷の形状でなくなってしまったことは、ずっと心のどこかに引っかかっていた。

わたしが「あの日」を思い出す「あの道」のひとつは、ここである。

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靖国神社付近。2005年からこの近くに仕事で来るようになり、そして、誰に問うでもなく、気になっていた谷だ。

千鳥ヶ淵に向かって、その谷は落ちている。

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千鳥ヶ淵側はこのようになっている。ここにだけぽっかりと団地がある。
(現存するか確認していないが、この写真は2014年のもの。)

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この給水塔も、周辺からすると異色の存在だ。

二松学舎大学の横の道から、目指す谷に入る。

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しかし、あっというまに谷は消えるのである。
たしかこのあたりにはもっと大きな谷があり、そこの下流部であるとばかり思っていたから、どうも辻褄が合わなかった。

その後、3D地形図を自分で見られるようになり、わたしの脳内地形図が間違っていたことが分かる。ここには3つの谷があるようで、二松学舎脇は、その北端のものだった。

Jigokumapkita_2


赤丸部分がさきほどの谷(「スーパー地形」より)。川もあったかもしれないが、とくに名付けられた文献をみたことはない。

この、十手みたいな形をした3つの谷は、内堀の形成と深く関係している。
これらの谷にあった川を堰き止めて、千鳥ヶ淵ができたという。江戸城以前は、城の内部を抜ける形で流れていたのではと推測する人もいる。地名として江戸以前から局沢というものがあり、川は局沢川と呼ばれる。この谷は、局沢川の支谷といっていいだろう。

ある日、ふと思いついたことがあった。それを確かめるために、千鳥ヶ淵でボートに乗った。

Jigokukakou_2


ボートで探検したところ、さきほどの局沢支谷の先と思われる位置に、合流口があった。・・・本当にあるとは。
これには、かなりの感動を覚えた。地形は今もなお生きていて、時折、流下した雨水等が、ここから千鳥ヶ淵に注ぐのだろう。その流れは、大昔と同じルートかもしれない。

さて、「大きな谷があったはず」と、わたしに思わせていた別の谷も、確認してみたい。

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もっと深い谷は、すぐ南にあった。

 

Jigokumapchuou

赤丸部分。さきほどの谷とは、比べものにならないほど深い。
そして、千鳥ヶ淵に食われてしまっているので、最下流部がさきほどの谷と異なる位置にある。

まずは、この谷の河口を見にゆこう。

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千鳥ヶ淵に向かう谷筋が見える。冒頭の谷よりも、凹凸としてはだいぶ緩やかだ。

ここの合流口は、ボートに乗らずとも見ることができる。

Tubonekakou

フラップゲートがちらり、と見える。この季節は春だが、雑草ですでに隠れ気味なので、冬にゆけばもっとよく見えるかもしれない。

残念ながら、千鳥ヶ淵のボートでは行けない場所だった。

Itidorigahuti

高速道路に阻まれてしまい、おそらく何者も入れまい。

Tubonekakou2

その高速道路を含んだお濠と江戸城敷地、後方のオフィスビル群はハイブリッドで、いかにも東京な景色をつくりだしている。

中世以前にはあった流れの名残も、僅かに足元にある。
明治の頃、このへんで近所の子どもたちは釣りをしていたという。主にフナが釣れ、巡査に追い払われながら、遊んだそうだ。

さまざまな時代が交叉する。

・・・さて、局沢川を遡上しよう。

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大妻女子大エリアにやってくる。大妻の体育館は、まるまる谷底にある。すっぽり。
大妻の交差点から南北に延びる坂は、徳川家の厩舎があったため「御厩谷坂(おんまやだにざか)」と呼ばれるのだそうだ。馬が足を洗った池もあったという。
これらと関連して、この谷自体も御厩谷、とも言われることがある。

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主に住宅街だが、ぽつ、ぽつと大妻関連の敷地が続く。
いつのまにか両側の崖が立派になっており、ときどき目に入ってくる。

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その立派な崖には、すてきな階段が。

Jigokukaidan

ここはなんだか好きな階段なのだ。細い家もかっこいい。

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九段小学校のプールの前。やはり谷底に近い位置にプールは設けられている。

ちなみにここの公園にある高架水槽、

Jigokusuisou

色といい錆といい、激しく格好良い。

ここで谷はクランク状になっており、そのまま遡ることはできなくなる。いったん、坂道を上る。

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谷の敷地に学校が相次ぐ。千代田女学園。

この谷は、三番町の谷、とも言われる。大妻に千代田女学園、女子学院も隣にある・・・なんとも女子教育に彩られた谷である。

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テレビ局跡地が広い駐車場になっていて、その少し手前から谷は曖昧になっていた。
途中の崖の険しさにしては、どうもアンバランスな結末、という気がする。

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もう一本、南のものも辿らねばなるまい。
ここは局沢川の本流と言っていい大きさだ。
一番町の谷。それから、地獄谷、樹木谷、黄金谷、小粒谷、などとさまざまな名がある。「麹三渓の記」で三丁目谷、柳川と書かれているものもこれであろう。普段は4~5尺幅の小流であるが、大雨時には洪水となり、床上浸水となることもあったようだ。

河口は1つ前とおなじ。

Dansa

ちなみに、河口近辺に、珍しい段差スロープの集合体がある。

歩き出してみると、この谷はほぼまっすぐ、ずっと道路になっている。

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谷底喫茶店。店内にはウーパールーパーがいて、急激に昭和に引き戻される感覚。ナポリタンを食べたが、まだ先に行きたいのでここでは割愛する。

他の局沢支流が住宅とオフィス(含む教育施設)だらけなのに対し、この道は最も飲食店が多く、暗渠めしに困ることはない。

Kaiken

唐突に甲斐犬が現れた。

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山梨愛にあふれる、Kaijiというレストランだった。

ほか、欧風カレー、フレンチ、創作イタリアン、中華、立ち食い蕎麦など、なんでもござれだ。

「紫の一本」で地獄谷として紹介されるこの地は、「昔この近所にて倒れ死ぬもの、成敗したるものをここに捨つ故、骸骨みちみちたりし故名付く」という、怖く、寂しい場所である。想像することが難しいくらいに、異なる風景である。

Tubonejouryu

あっというまに上流端にきた。
このあたりはおそらく、神楽坂へ移動した善国寺があったため善国寺谷と呼ばれたり、柳川の名のもとになった柳橋が架かっていたあたりではあるまいか。

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奥のあたりで、やんわりと谷は尽きる。
その区割りや雰囲気に、なんとなく川跡の感じはあった。

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明治期の地図でも、3つの谷のうち、ここにだけは流れが描かれていた(「東京時層地図」より)。「三丁目の下水」と言われている。

 

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ただ、この地形はかなり弄られているはずだ。付近では富士見地区(九段南3丁目)に貝塚があり、この谷が古代に水田として利用されたらしいとうことから、谷自体は古くからあっただろう。しかし外濠を作る際に出た土でこの局沢谷を埋め、宅地にしたという記録もある。江戸以前の地形が分かる史料にたどり着けず、もどかしいのだが、ここにはもっと深い谷があったのだろう。しかし、埋めて浅い谷にしても、そこに水の流れは、残らざるを得なかった。

さまざまな時代に、思いも交叉する。都心の暗渠、って感じだよなあ・・・

さて、ゴハン。

局沢谷ではよりどりみどりである。みたび河口に戻り、

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見晴らしの良いレストランにしよう。二松学舎大学の、最上階へ。

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ランチは日替わりのハンバーグや、カレーなどがある。きれいで、なかなかおいしい。時間が遅かったため人がほとんどおらず、所謂大学の学食とはなにもかも異なる雰囲気を堪能した。

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食後にかわいらしいケーキまでついてくる。

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二松学舎ビュー。
最上階のハンバーグは気に入って何度か食べている。地下に学食があり、そちらはまさに食堂で、「これこれ、こういうのでいいんだよ」と、学生に混じりながら味噌ラーメン、ハヤシライスなどを食べた。

もうひとつ局沢谷にある大学といえばここ、大妻女子大学の学食にも潜入する機会があった。

Otuma

こちらも地下であったが、名物らしいホットサンドの具のバリエーションがすばらしい。スープセットにして手作りプリンも付けたこと、具の片方がグラタンらしいこと、以外、忘れてしまった・・・食い意地が張っているはずなのだが、数年たつと記憶が薄れるらしいデス・・・

この記事は、前記事同様、「よいまち新聞」配布に絡めて描いたものです。そろそろ次号の配布に切り替わっているかもしれません。そのときは、「よいまち新聞」で検索をかけてみてください。きっと「大手町暗渠ロジー」も、出てくると思います。

<文献>
・「わが町あれこれ」
・「明治百年古老のつどい」
・「千代田区史」

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コメント

土地条件図でも、局沢川の三つの支谷のうち、南側の二つは土を盛っているとされてますね。一番北のは元の地形からあまり変わっていないとすれば、南の二つの谷は本来はもっと深く刻まれていて、北の谷と比べてもその深さが印象的だったのでは。

後藤宏樹さんの「江戸城をめぐる土木技術」(『江戸の開府と土木技術』吉川弘文館)の想定図によると、半蔵門の北側の堀(谷)の底が標高10m、局沢川の痕と考えられている乾濠の底が3~5mぐらいなので、南の二つの谷の標高は、本来は千鳥ヶ淵付近で10mぐらいでしょうか。
現在の標高は20mぐらいなので、さらにその10m下が本来の谷底だとすれば、周囲の台地との高低差は15m。ちょっと数値が大きすぎる気もしますが、もしこれだけ抉れていれば、谷底はひどく深く昏くて、死体やら何らかの捨て場にはもってこいで、まさに「地獄谷」だったと思います。

『紫の一本』の幽霊譚にも「下水の落つる橋の所にて」とあるので、17世紀ごろはまだはっきり谷川だったのでは。だんだんに埋めていったのではないでしょうか。

あの怪談、「武辺」だと強がっていた陶々斎と遺佚の腰砕けな逃げっぷりが愉しくて好きです(^^。

投稿: sumizome_sakura | 2017年8月 4日 (金) 04時17分

>sumizome_sakuraさん

こんにちは。コメントありがとうございます。
土地条件図!見忘れていました。北の支谷もあっさりしすぎてるので、盛っててもよいかなと思いましたが、あれはもともとなのですね・・・
また、後藤氏の本は未読です(流石、きっと何かご存じだろうと思っていましたw)。想定図、見たいと思います。かりに現在の10mも谷底が下だとするならば、崖ももっと恐ろしいことになっていますね。谷頭はほんとうはどんな形だったのでしょう・・・。清水谷や局沢の真ん中の谷などは、埋めても埋めきれない、暗い風情が今も残っているのが、なんだかよいですね。
紫の一本、実は必要時に必要箇所(土地の)を参照するだけで、人物のキャラがわかるような読み方をしていません。地獄谷の描写は確かに怖そうですが、そんな感じなのですね・・・wちゃんと読んでみようと思います。

投稿: nama | 2017年8月16日 (水) 10時05分

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