« 2017年7月 | トップページ | 2017年10月 »

2017年8月

九段の花、いまむかし

地獄谷のことを書いたときに少し触れたが、
九段南~三番町あたりに定期的に行っていた時期があった。
妙にしんとした街並みが、印象に残る。
かつてここに花柳界があったと聞き、嗚呼なるほど、と思っていた。
 
しかし、あまり大きな料亭は見かけない・・・
あるとき平安堂という筆屋さんに置いてあった冊子に、
三番町の「あや九段ビル」がかつて「あや」という料亭で、
福田赳夫なども利用していたということが載っていた。
 
現在は立派なビルである。あそこ、料亭だったのか・・・
しかし周囲をぐるぐると歩いてみても、料亭っぽさを残す建物はあれど、どうもサイズが小さい気がして、かつての街並みをあまりうまく想像できなかった。
 
”大手町暗渠ロジー”を書く際、皇居周りのあちこちの火災保険地図を、ついでに得ておいた。
その地図上の街は実に美しい。よく見ると・・・、嗚呼ここは、こういうサイズの待合の街だったのか!
と、すべて合点がいくのだった。
 
 
さて、九段とは、こういう街である。
現在の九段北4丁目、九段南4丁目あたりは、江戸期には夜鷹が現れていたというし、岡場所も作られたことがあるというから、なんだかもともと、艶っぽさを隠し持つ土地であるようだ。
明治の初めになると、富士見町1丁目から三番町にかけ、花柳界がつくられた。当初は、競馬場(現靖国神社参道)の裏辺りだったという。
 
この、富士見町に花柳界ができた背景が独特である。
九段といえば、靖国神社。
明治維新後、「靖国神社に来た軍人が遊ぶところがないから」(そして、変なところで遊びたくないから)ということで、近所の広沢参議(そのバックに地元の有力者2名)が政府に働きかけ、富士見町花街を作る許可を得た。しかしその後、広沢氏は暗殺され、話は停滞してしまう。
明治20年からは、地元の柴田氏が私設の見番(柴田見番)をつくり、そこから少しずつ店が増える。儲かる、ということで、下宿屋からの転身が少なくなかった(小ぶりな店が多いのはそのためか?)。しかし柴田氏が大正に亡くなる。
 
そのとき、富士見町三業組合を作るという動きになったのだそうだ。
新しい見番ができ、大正期は柴田見番=赤、新見番=白、と、赤白に分かれていたのだそう。(※富士見町は当時、現在の九段南まで広がっていた。)
ピークは昭和初期。芸者4~500人、待合130~140軒という規模となった。客層は変わらず軍人多め。しかしこの頃の「全国花街めぐり」では、「かつては軍人専用花街といった感じだったが、今は他の人も来る」とも、書かれている。
永井荷風がここで、二号さんに「いくよ」という待合をやらせていた、と地元の人が語っている。菊池寛をはじめ小説家も多くやってきていた。ただし彼らは、そこで小説を書いていたのだそうだ。優雅な…。
 
昭和8年前後になると、九段三業会館が建設される。このあたりでは初めてのビルディング。それまではビルなどなく、それこそ、富士山が見えたという。
第二次世界大戦中は、営業停止となっていて、見番の中で無線機の部品作りをしていたそうだ。
 
戦後、再開の許可が下りたのは昭和21年。桜井、若泉、よし桜井、一力などが早かった、という回想がある。
その後賑わいが戻るものの、次第に衰退。バブル期には地上げ等々の影響でオフィスビルになるものが増え、廃業が続く。そしてとうとう、1997年に九段三業会は解散する。

Hukugen

 
文献によれば、2008年時点では、「治乃家」「田むら」のみが営業しているという。この写真は”わが町あれこれ”内のものだが、「ふく源」の看板が見える。ふく源も、2017年現在は営業していないようである。「梅川」、「喜京家」などの料亭も廃業し、ビルになっている、という。
 
いま、ビルの名前としてだけ、残っている料亭の痕跡があるということに、少し心が惹かれた。暗渠における、橋の銘板のようなものだろうか。それでわたしは、現代の地図から料亭の痕跡を見てみたい、と思った。
 

Hatsune

 
これは戦前の火災保険地図。「料」が料亭である。
こんなにも料亭がびっしりと並ぶ街だったのだ。想像以上だった。
縮尺が変わってしまうが、現在のマピオンも見てみる。

Kudan1

「富士家」が、「富士の家ビル」になって残っていることが分かる。
(ちなみにこの富士家の隣がふく源なのであるが、どちらの地図でも確認できない。)
 
お隣の区画もみてみよう。
…この、当時の街並みをとても見てみたくなる。耳を澄ませ、匂いを嗅いでみたくもなる。

Uokyu

 
続けて現在の地図を。
 
 
Kudan2
 
「栄㐂」が、「マンション栄嬉」に、
「喜京」が「喜京屋ビル」になって、残っていることもわかる。
マピオンに載らないだけで、残っているものは他にもきっとあるだろう。
他にも3か所に印をつけているが、これは、現在も料亭風の建物が残っている場所である。
 

Fujinoyu

平安堂は、このときの地図にも登場している。その隣が、あや九段ビル。
「あや」とは、女性の名かと思っていたら、「阿家」であったのか・・・
 

Kudan3

 
「ふじの湯」なる銭湯は、現在サン九段ビルになっている。
花柳界であった時分、このエリアに銭湯は二軒あったのだそうだ。入る人は全部花柳界の人。芸者に内風呂は使わせないのだそうだ。理由ははっきりせず、厚化粧のため・・・などと推測する人もいるが、よくわからない。銭湯の内側、さぞかし賑やかであったろう。男風呂はガラガラ…?

Kagai1

 
再び、現在の九段に赴く。
今もわずかに、それらしき建物はある。
最初にこれはと疑った建物は、たしかこの建物だった。火災保険地図では「一松」がほぼ重なる位置ではあるが、現在位置とズレがあるので、もしかすると戦後新たに経営され始めたものかもしれない。

Kagai2

 
しかしこの建物には、つい2か月前ほどだったろうか、取り壊す旨の張り紙がしてあった。
今はもう、なくなってしまったかもしれないな…
そしてすぐ近くに、もう一軒ある。

Kagai3

こちらは、「若泉」とはっきり書いてある。
もう営業はしていないかもしれない。しかし、若泉とは、前述の戦後すぐに営業を再開したと書かれているうちの一軒。小さいながらも、勢いのある店だったかもしれない。火災保険地図にも載っているものだ。
 
「若泉」の文字を見たとき、わたしはなぜかほっとした。
此処にはたしかに、小ぶりな料亭の並ぶ街があった。夜な夜な、芸者が美しく踊り、歌い、笑い声が響いていただろう。局沢の谷では女学生が学び、その隣の崖の上では、芸者が舞い踊る。此処は、女性たちが踏ん張る街だったのだ。
消えゆく痕跡。生き残る痕跡はほんのわずか。しかしこの上品な静けさを持つ街並みの奥に、目を凝らせばそんなものも見えてくる。
 
<文献>
・「大江戸透絵図」2003年
・「東京花街、粋な街」2008年
・「わが町あれこれ」1981年
 
本記事は、「よいまち新聞 大手町暗渠ロジー」に絡めて書いたものです。
暗渠ではありませんが、失われた何かのこと、街のこと、ということで。
大手町暗渠ロジーは、現在WEBから見ることができます(リンク先にPDFあり。これの第3号です)。この花街跡の地面の下を通った水も、大手町まで流れて行っているかもしれません・・・
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

香港暗渠さんぽ

暗渠さんぽ、久しぶりの海外編。
 
タイトルのとおり香港の街中の暗渠を追う記事を書こうと思う。が、その前に、マカオと中国珠海市にも触れておきたい。
 
まずは中国、珠海市。
マカオから徒歩で国境を越えられるので、半日ほど行ってみた。地形的には平坦なところから、水路の出処と思しき丘を目指し歩き始める。すると、

Makau1

予期していない場所で、このようなコンクリート蓋に出逢った。

うわ!日本と似てる!SUGEEEE!
蓋を見ただけで着火。

Makau2

おわ!道路を横断してきて合流してる・・・!!

早くも興奮が最高潮。さまざまな角度から写真を撮り始める。

が、しかし・・・数分後、あることに気付く。

Makau3

あれ。

これ、電気・・・。

ザザー・・・と、水が引くようにテンションが下がるのがわかる。(いや別に電線が嫌いなわけじゃないんです。水路ほど情熱が向けられないってだけで。)

他の蓋やいくつかの条件から、電気の蓋であることがほぼ確定した。なんということだろう。
奇しくもこの日は雨。こんな、隙間から水が入りまくるような構造で大丈夫なんだろうか・・・

Makau4

ともかく、珠海の街中では、このようなコンクリ蓋をかぶせて、電気が走っている。

この写真なんて、川じゃないのに優雅にカーブまでして・・・

Makau5

ちなみに雨水用の側溝の蓋はこういうものだったが、あまり見かけなかった。

Makau6

状況が分かってくると慣れたもので、このような景色を見てもハイハイ電気ね・・・と、心が揺るがなくなる。日本だったら、「キャー水路の立体交差!!!」と、大興奮するはずなのだが。

Makau7

そんなわけで、マカオの街中(競馬場前)でこのような蓋を見つけたときも、

「ハイハイ電気ですね」

と、かなり軽く流してしまった。そしてこれは、たしかに電気であった。

・・・こういった流れのなかで、香港を訪れた。珠海よりもマカオよりも、高低差が身近にあり、暗渠の出現に期待できる都市だ。

地図を眺め、「ありそう」な場所を見つけた(ちなみに日本国内ではマピオンやらさまざまな地図アプリを見比べるのだが、海外ではグーグル先生一択。そしてこのグーグル先生、暗渠探しの上では、非常に扱いづらい)。

遡っていくと、ここに到達する。おそらく水源だ。

Hong1

                     googlemapより

 

小西湖。
九龍塘という駅が最寄。日中に来ることができず、20時頃の到着となった。

大きなショッピングモールを抜け、湖のあたりに来るも、真っ暗で何も見えなかった。ただ、ザァァ・・・という、音だけはする。割と多くの水が、湖を出て谷を下る音だ。

 

Hong2

谷が公園(歌和老街公園)になっているようだが、用心のため通るのは止めた。
九龍塘駅前に戻ると、谷底らしき位置に、このような蓋があった。

しかし、これまでの流れからいって、わたしにはこれは電気だとしか思えない。
もう騙されないぞ。まったく紛らわしい場所に・・・ブツクサ言いながら遠目から写真を一応撮って、去った。

Hong3

谷は感じるが、暫く谷底らしき部分を辿ることはできない。大きなビルの敷地になっているからだ。
達之路という広い道路を渡ると、公園(桃源街遊楽場)になっている。ここは、流路のはずだ。右手には崖が見える。
この公園の感じは、日本の緑道と似ており、少し暗渠らしいといえる。しかしその先、再び川跡は暫く辿れなくなる。中学校の敷地になっているようだ。その、学校の敷地というのも、また、暗渠らしいことである。

・・・で、水源以来、地形だけをたよりに歩き、もんやりと暗渠らしさは感じつつも、決定的にはっきりとした暗渠サインには出会っていなかったところ、

Hong4

それは突然現れる。
渠務省の看板!
 
きょむしょう!!(と、広東語ではもちろん発音しないのだろうが。)
 
河川管理課とか、そういう感じだろうか。「渠」がこんなに公に使われているだなんて、感動的である。
この渠務省の看板の奥には、水防関係の施設があるようだった。地下に潜っていく道路がうっすら見え、どぶの匂いが盛大にした。わたしにとっては、暗渠であることを裏付けてくれる、うれしい匂い。

Hong5

水防施設の上は、グラウンドになっていた。これも日本と似ている。グラウンドには入れなかったので、脇の道を下ると、・・・また、あった。そして、この下からも、強いどぶの匂いがした。

もしかしてこれ・・・電気じゃなくて水路なのか?

ただ、この向きはちょっと事態をややこしくする向きで、本来の川筋に向かって斜めになっている。支流暗渠か、はたまた・・・??

いずれにせよ、この下には水が流れているようであった。香港にも、コンクリート蓋暗渠は存在する。

Hong6

 
暗渠蓋のすぐ近くには、さきほどと同じ渠務省の看板があった。なるほどここにある施設は、地下調整池のようだ。しかも、比較的新しい。
ここで、九龍塘駅前で軽く流したあの蓋も・・・と、後悔が押し寄せてくるが、戻るわけにもいかない。
 

Hong7

その先、また名を変えて、公園(界限街遊楽場)が続く。
 
この公園には屋外卓球台がどっしりと備わっていた。そして、多くの大人が卓球に興じていた。このとき、21時~22時くらいではなかったか。他のスペースでも、大量の大人が、ベンチに座ってしゃべったり、何かのカードゲームをしたり、遊具(健康器具様の遊具なのだ)で熱心に体を鍛えていたり・・・とにかく、人が多い。
 
そして、夏にこれだけ暗渠に人がたむろしていても、彼らは蚊に刺されない。というか、蚊がいないのだ、暗渠なのに!
これは日本の暗渠との物凄く大きな違いである。この時期に暗渠上の公園でくつろぐなんて、(蚊が)恐ろしすぎてわたしにはできない。

Hong8

公園の名がいつのまにかまた変わった。「洗衣街」が横にあるので、こんな名前となっている。洗衣。もちろん、広東語で洗濯、クリーニングの意だ。
 
それにしても児童遊園と名はつくものの、完全に大人の遊び場と化している、というのはおもしろかった。

Hong9

その先、太子道西を渡ればそこは、水渠道、という。
 
この川を見つけるとき、最初に手掛かりとなったのが、(google mapではなく)ガイドブック上に見えた僅かな池のようなものと、ひとつだけ変な角度に伸びている空間と、この水渠道という表記のコンボだった。

Hong10

水渠道の様子は、こう。

Hong11

でも暗渠は、たぶんこちら。道のすぐ脇にこのような空間があった。

Hong12

その立ち入り禁止空間の先に、公共の建物があった。
リサイクルごみの収集所、といったもののようだった。公共の施設ということ、それとごみ置き場ということ、それらもまた、日本の暗渠サインに似ている。

Hong13

その先は、川跡上がきれいな緑道になっていた。
繁華街のなかにある緑道。その整備されたての感じや、広さや、ひとびととの関係が、渋谷川っぽいなと思わせる一角。

Hong14

緑道には、謎の金魚オブジェ。

・・・川に因んでいたらいいなあ。

Hong15

延長線上にこんなものがあったので、水門か?と思ったら換気塔だった。

Hong16

喚起塔から道路を渡り、ふたたび学校の敷地となって、建物のない一角が斜めに続く。

Hong17

旺角道遊楽場上の斜めの区画に出てきて、公園の脇にはまたもごみ収集所だ。

なかなか日本の暗渠サインと重なりが多いので、うれしくなってくる。ただ、足はだいぶお疲れ。おなかもすいてきた。

Hong18

道端にあった簡単な食堂に入る。
言葉は通じない。ビールを頼み、あと、適当に餃子っぽいものを指さして頼む。

・・・すると、餃子だと思ったものは海老ワンタンで、期せずして香港名物の海老ワンタン麺が来た。

15年前、わたしはその食い意地ゆえ、「海老ワンタン麺を食べに」この地に来たことがある。むかしは1杯100円で、それをTVで見、とても魅力を感じたのだった。うれしくて、何杯も食べた。
いまの香港では、どのような店でも100円の海老ワンタン麺など出していない。500~700円くらいだろうか。

Hong19

さて、暗渠の続き。

今度はわかりにくく、長旺道という幅広の道となる。

Hong20

と、その道の最後で、あの蓋が現れた。やはり、どぶの匂いとともに。

そのさき、太い道路を渡るが、夜市にも行きたいので、ここまでで追うのをやめた。

 

Hong22

                        google mapより

暗渠のルート(一部)を、水色線で示す。
このように、地図上でもここだけが浮いていて、川っぽいことがわかるだろう。

このさき痕跡は減るが、海へ向かって流れているようだった。

さて、この暗渠の名前はなんというのだろうか?
広東語も出来ないし、香港で文献に当たることはできなかったので、あまりやりたくないけれど、今回はwikiに頼ることとする。

wikiに名前が載っていた。「花墟道明渠」という水路であったらしい。もしくは、旺角花墟道明渠。延長210mという短さと、この名称からして、この水路のほんの一部だけを指す名称のように思う。

あの屋外卓球台が設けられていた公園の隣の道が「花墟道」なので、おそらくあの連続する公園のあたりにかつてあった開渠のことをいうようだ。下水が流れ込むようになり、臭気が問題化したため、2008年までに蓋がけされたようである。

わりと最近のこと・・・!

wikiの写真を拝借する。(出処はこちら。)

Hong21

まさに蓋がけの最中の写真。

川全体を通しての名前は、見つけられなかった。小西湖からはじまり、その後姿を見せないこの川は、少しずつ暗渠にされてゆき、残る部分は地名を冠された明渠となっていた、ということだろうか。いくつかのポイントはまだ新しかったことから、2000年以降に着手されたものも少なくなかったのかもしれない・・・

wikiのリンク先「二十年代九龍地図」には、この川がはっきりと載っている。また、支流のようなものも見える。

暗渠蓋の隙間から流れ出る臭気になんとなく日本の1960年代を思った、香港の繁華街にある暗渠。・・・また行く機会があれば、今度は支流も辿ってみたい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地獄谷、あの日の記憶

「あの日」のことを、明瞭に語れる人は多いだろう。

それから、その場所を通ることで、関連付けて「あの日」を思い出すことも。わたしにとって、そのような場所はいくつかある。

あの日。
わたしは職場にいた。当時の職場は、文京区にあった。

あの時間のことをここで詳細に触れるつもりはないので、大きく省略して書いていく。

職場の敷地で最も広いところに、大勢が集まっていた。緊急放送が流れる。わたしは郷里のことばかり考えていた。放送の声は落ち着いていたが、論理的には矛盾していた。横で後輩が、「この放送が言っていること、論文だったら不採択ですね。」と言ったので、思わず、笑った。彼はきっと、大物になるんじゃないかな・・・なんとなくそんな気がする。

しばらく時間が経ち、歩いて帰ることになった。ざっくり言って同じ方向のひとたち、4人で職場を出る。わたしは暗渠を書き込んだ、紙の地図を持っていた。あまりにも繋がらない電波に、とっくに携帯の電池は切れている。あんなに紙の地図に感謝したことは、後にも先にもない。

九段下で、南へ行く二人と別れた。残る同僚は神奈川の人で、あまり地理がわからないようだったから、兎に角渋谷まで案内することにした。
通りは花火大会のようなありさま。わたしはなんとなく一本裏道を歩きたくなった。そして、以前から気になっていた「あの道」に同僚を誘った。

そこは谷なので、避けたほうがよかったのかもしれないと後にして思う。でもわたしは、崖線の話などに反応してくれるその同僚に、地形や暗渠の話をしながら歩きたかった。不安に直面したくなかったのかもしれない。結果、わたしたちはノンビリと裏道を歩き、気になっていた谷をのぼり、鮫河谷を横切り、そして明治通りで別れた。

あのとき、谷が思っていたよりずっと早く谷の形状でなくなってしまったことは、ずっと心のどこかに引っかかっていた。

わたしが「あの日」を思い出す「あの道」のひとつは、ここである。

Tidori3

靖国神社付近。2005年からこの近くに仕事で来るようになり、そして、誰に問うでもなく、気になっていた谷だ。

千鳥ヶ淵に向かって、その谷は落ちている。

Tidori4

千鳥ヶ淵側はこのようになっている。ここにだけぽっかりと団地がある。
(現存するか確認していないが、この写真は2014年のもの。)

Tidori5

この給水塔も、周辺からすると異色の存在だ。

二松学舎大学の横の道から、目指す谷に入る。

Tidori6

しかし、あっというまに谷は消えるのである。
たしかこのあたりにはもっと大きな谷があり、そこの下流部であるとばかり思っていたから、どうも辻褄が合わなかった。

その後、3D地形図を自分で見られるようになり、わたしの脳内地形図が間違っていたことが分かる。ここには3つの谷があるようで、二松学舎脇は、その北端のものだった。

Jigokumapkita_2


赤丸部分がさきほどの谷(「スーパー地形」より)。川もあったかもしれないが、とくに名付けられた文献をみたことはない。

この、十手みたいな形をした3つの谷は、内堀の形成と深く関係している。
これらの谷にあった川を堰き止めて、千鳥ヶ淵ができたという。江戸城以前は、城の内部を抜ける形で流れていたのではと推測する人もいる。地名として江戸以前から局沢というものがあり、川は局沢川と呼ばれる。この谷は、局沢川の支谷といっていいだろう。

ある日、ふと思いついたことがあった。それを確かめるために、千鳥ヶ淵でボートに乗った。

Jigokukakou_2


ボートで探検したところ、さきほどの局沢支谷の先と思われる位置に、合流口があった。・・・本当にあるとは。
これには、かなりの感動を覚えた。地形は今もなお生きていて、時折、流下した雨水等が、ここから千鳥ヶ淵に注ぐのだろう。その流れは、大昔と同じルートかもしれない。

さて、「大きな谷があったはず」と、わたしに思わせていた別の谷も、確認してみたい。

Tidori9

もっと深い谷は、すぐ南にあった。

 

Jigokumapchuou

赤丸部分。さきほどの谷とは、比べものにならないほど深い。
そして、千鳥ヶ淵に食われてしまっているので、最下流部がさきほどの谷と異なる位置にある。

まずは、この谷の河口を見にゆこう。

Tidori10

 

千鳥ヶ淵に向かう谷筋が見える。冒頭の谷よりも、凹凸としてはだいぶ緩やかだ。

ここの合流口は、ボートに乗らずとも見ることができる。

Tubonekakou

フラップゲートがちらり、と見える。この季節は春だが、雑草ですでに隠れ気味なので、冬にゆけばもっとよく見えるかもしれない。

残念ながら、千鳥ヶ淵のボートでは行けない場所だった。

Itidorigahuti

高速道路に阻まれてしまい、おそらく何者も入れまい。

Tubonekakou2

その高速道路を含んだお濠と江戸城敷地、後方のオフィスビル群はハイブリッドで、いかにも東京な景色をつくりだしている。

中世以前にはあった流れの名残も、僅かに足元にある。
明治の頃、このへんで近所の子どもたちは釣りをしていたという。主にフナが釣れ、巡査に追い払われながら、遊んだそうだ。

さまざまな時代が交叉する。

・・・さて、局沢川を遡上しよう。

Tidori11

大妻女子大エリアにやってくる。大妻の体育館は、まるまる谷底にある。すっぽり。
大妻の交差点から南北に延びる坂は、徳川家の厩舎があったため「御厩谷坂(おんまやだにざか)」と呼ばれるのだそうだ。馬が足を洗った池もあったという。
これらと関連して、この谷自体も御厩谷、とも言われることがある。

Tidori12

主に住宅街だが、ぽつ、ぽつと大妻関連の敷地が続く。
いつのまにか両側の崖が立派になっており、ときどき目に入ってくる。

Tidori13

その立派な崖には、すてきな階段が。

Jigokukaidan

ここはなんだか好きな階段なのだ。細い家もかっこいい。

Tidori14

九段小学校のプールの前。やはり谷底に近い位置にプールは設けられている。

ちなみにここの公園にある高架水槽、

Jigokusuisou

色といい錆といい、激しく格好良い。

ここで谷はクランク状になっており、そのまま遡ることはできなくなる。いったん、坂道を上る。

Tidori15

谷の敷地に学校が相次ぐ。千代田女学園。

この谷は、三番町の谷、とも言われる。大妻に千代田女学園、女子学院も隣にある・・・なんとも女子教育に彩られた谷である。

Tidori17

テレビ局跡地が広い駐車場になっていて、その少し手前から谷は曖昧になっていた。
途中の崖の険しさにしては、どうもアンバランスな結末、という気がする。

Jigokumapminami

もう一本、南のものも辿らねばなるまい。
ここは局沢川の本流と言っていい大きさだ。
一番町の谷。それから、地獄谷、樹木谷、黄金谷、小粒谷、などとさまざまな名がある。「麹三渓の記」で三丁目谷、柳川と書かれているものもこれであろう。普段は4~5尺幅の小流であるが、大雨時には洪水となり、床上浸水となることもあったようだ。

河口は1つ前とおなじ。

Dansa

ちなみに、河口近辺に、珍しい段差スロープの集合体がある。

歩き出してみると、この谷はほぼまっすぐ、ずっと道路になっている。

Tuboneitibankan

谷底喫茶店。店内にはウーパールーパーがいて、急激に昭和に引き戻される感覚。ナポリタンを食べたが、まだ先に行きたいのでここでは割愛する。

他の局沢支流が住宅とオフィス(含む教育施設)だらけなのに対し、この道は最も飲食店が多く、暗渠めしに困ることはない。

Kaiken

唐突に甲斐犬が現れた。

Kaiken2

山梨愛にあふれる、Kaijiというレストランだった。

ほか、欧風カレー、フレンチ、創作イタリアン、中華、立ち食い蕎麦など、なんでもござれだ。

「紫の一本」で地獄谷として紹介されるこの地は、「昔この近所にて倒れ死ぬもの、成敗したるものをここに捨つ故、骸骨みちみちたりし故名付く」という、怖く、寂しい場所である。想像することが難しいくらいに、異なる風景である。

Tubonejouryu

あっというまに上流端にきた。
このあたりはおそらく、神楽坂へ移動した善国寺があったため善国寺谷と呼ばれたり、柳川の名のもとになった柳橋が架かっていたあたりではあるまいか。

Tubonekokutou

奥のあたりで、やんわりと谷は尽きる。
その区割りや雰囲気に、なんとなく川跡の感じはあった。

Jisou

明治期の地図でも、3つの谷のうち、ここにだけは流れが描かれていた(「東京時層地図」より)。「三丁目の下水」と言われている。

 

Jigokumap_2

ただ、この地形はかなり弄られているはずだ。付近では富士見地区(九段南3丁目)に貝塚があり、この谷が古代に水田として利用されたらしいとうことから、谷自体は古くからあっただろう。しかし外濠を作る際に出た土でこの局沢谷を埋め、宅地にしたという記録もある。江戸以前の地形が分かる史料にたどり着けず、もどかしいのだが、ここにはもっと深い谷があったのだろう。しかし、埋めて浅い谷にしても、そこに水の流れは、残らざるを得なかった。

さまざまな時代に、思いも交叉する。都心の暗渠、って感じだよなあ・・・

さて、ゴハン。

局沢谷ではよりどりみどりである。みたび河口に戻り、

Nishou1

見晴らしの良いレストランにしよう。二松学舎大学の、最上階へ。

Nishou2

ランチは日替わりのハンバーグや、カレーなどがある。きれいで、なかなかおいしい。時間が遅かったため人がほとんどおらず、所謂大学の学食とはなにもかも異なる雰囲気を堪能した。

Nishou3

食後にかわいらしいケーキまでついてくる。

Nishou4

二松学舎ビュー。
最上階のハンバーグは気に入って何度か食べている。地下に学食があり、そちらはまさに食堂で、「これこれ、こういうのでいいんだよ」と、学生に混じりながら味噌ラーメン、ハヤシライスなどを食べた。

もうひとつ局沢谷にある大学といえばここ、大妻女子大学の学食にも潜入する機会があった。

Otuma

こちらも地下であったが、名物らしいホットサンドの具のバリエーションがすばらしい。スープセットにして手作りプリンも付けたこと、具の片方がグラタンらしいこと、以外、忘れてしまった・・・食い意地が張っているはずなのだが、数年たつと記憶が薄れるらしいデス・・・

この記事は、前記事同様、「よいまち新聞」配布に絡めて描いたものです。そろそろ次号の配布に切り替わっているかもしれません。そのときは、「よいまち新聞」で検索をかけてみてください。きっと「大手町暗渠ロジー」も、出てくると思います。

<文献>
・「わが町あれこれ」
・「明治百年古老のつどい」
・「千代田区史」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2017年7月 | トップページ | 2017年10月 »