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清水谷、谷底で飲む水

本当のところ、江戸の内側は苦手だ。
それなりに谷があり、暗渠だって存在するというのに、江戸をつくるさいに随分と土地が改変されているから、地形に対する鼻の利きが悪くなる。調べることは大好きだが、私の興味の中心は明治期までであり、読みにくい古い文字を、漁って読む気もあまりしない。特に千代田区なんて、皇居の関係か下水道台帳の秘匿エリアが多いため、気になる吐口を見つけても、台帳を開いて「ああっ(わかんないんだった)!」となるときのムナシサを思うと、いったい自分はどうやって戦えばいいんだ、という気持ちになってくる。
しかし、正体不明ではあっても、そこにあるうつくしい崖や、湧いちゃった水や、気になる地形は辿らざるを得ない。まして都心の谷は、さまざまな所用のついでに寄りやすく、つまり、やっぱり良いものなのだ。
 
上智大学の裏側で出会うこの崖は、なかなか凄い。
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これもよいのであるが、あるとき、そのさらに下の、壁が剝き出しになった駐車場に目が吸い寄せられた。

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こういった「現代の遺跡」には、なぜか心躍る。

遺跡も含め、ここは清水谷、という谷である。
 
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                                                       カシミール3Dより

上智大の裏から赤坂見附に至る、ごく短い谷だ。今回は、清水谷を練り歩くとしよう。
 
上智大の奥にまわり、坂道を下る。
 
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この擁壁は圧巻。
昔はさぞ暗く、怖い道だったのではないかしらん。
 
じっさい、清水谷の一角にはこんもりとした森があり、戦前までは子どもが寄り付けない雰囲気を放っていたという。
もう少し下の清水谷公園は、小泉八雲「むじな」の舞台でもある。商人が女性に、「こんなところにいては危ない」と言いたくなるような、人気のない、さぞ恐ろしい場所だったのだろう。
 
それから、場所が曖昧ではあるのだが、カレー屋のみえるあたり、このあたりに江戸初期、遊郭があった、とも言われている。こんな傾斜地に?まあ、川沿いではある。ここ麹町遊郭をはじめ、3か所の遊郭が吉原にまとめられたのだそうだ。
麹町遊郭は、もとは京都から移転したものといい、吉原に移っても「京町」なる一角を形成し、京都出身ということに誇りを持っていた。大見世があったのも京町。吉原の区画では、もっとも奥に位置するものである。
 
下ってゆけば、視界が開けて冒頭の駐車場のところにくる。いつの間にか、駐車場には入れなくなり、工事らしきものが始まっていた。
なぜか「だし」の自販機がある。
 
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清水谷公園にさしかかる。

「清水谷」の由来は、この谷に柳の井という井戸があり、清冽な水が絶えず湧いていたことからきている。その井戸のイメージが、公園の中に設置されている。
 
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「八丁目続き、今の麹町谷町と称する地なり。古は67丁目の地はすべて清水谷と称せしか、四ツ谷御堀の揚土をもて78丁目の地を埋めしといへる也」

河内全節「番街誌略」によれば、これでもこの谷は江戸期に埋められている。もう少し、上に続きがあったかのようだ。
 
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東京時層地図((財)地図センター)、「文明開化期(明治9-19年)」を見てみる。冒頭の駐車場の位置に、池がある。そして、谷底に細い細い流れがあって、弁慶堀に注ぐことがわかるだろう。

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同じく東京時層地図にて、大正5~昭和2年を見ると、このころには水路はなくなったかのように見える。

 

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ところが、それよりも後のはずの火災保険特殊地図(1953~55年)を見ると、流れは残っている。上流部など、道を逸れて敷地に食い込んでいる。

 

川、というには、細すぎるだろうか。
この清水谷には、明治期にも、昭和に入ってからも、流れが見られた。地形としては江戸時代に弄られているはずだが、それでも残る高低差に、水は絶えず湧かざるを得なかったのだろう。
 

しかしこの谷、じつに短い。
もうそろそろ、河口だ。
 
現在は「東京ガーデンテラス紀尾井町」が建っているが、これもごく最近のこと。
建設中は、赤プリ時代の写真なんかが、工事現場の壁に貼られていた。
 
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そこから拝借。おお・・・赤プリのプール、お濠の上じゃないか。景観を意識してのことかもしれないが、水の流れ的にも正しい位置だ。などと、思う。

 

そのお濠、弁慶堀は水面の残る貴重な場所。
 
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弁慶橋が架かる。

 

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ただしこの弁慶橋、もとは神田藍染川に架かっていた、とどこかの文献で読んだ。

 

弁慶堀には釣り堀があって、ボートに乗ることができて、ここだけ昭和の空気が漂っている。清水谷を流れてきた川の、河口の痕跡が見えないだろうか。雨水の合流口がぽっかりと在ることが、まあまあある。暗渠を歩くときには、できるだけ河口まで見ておきたいものである。
そう思って、ボートに乗りに来た。
 
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うーん・・・アレ・・・かな?

 

判然とせぬまま。
まあ、ボートでくまなく探索したので、これで良し、といたしましょう。
 
さて、ごはん。
清水谷の、井戸から湧き出す清水は、道行く人たちののどを潤していたという。
しかしその、のどを潤すものは、水だけではなかった。
 
ビール。
 
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前掲の地図の、行政裁判所と清水谷公園との間に、ビール工場があった、という。
明治期の地図に、工場のようなマークが入っている。大きな池のような描写も、恵比寿にあったビール工場のそれと似ている。
 
そのビール会社は、「櫻田麦酒会社」といった。
横浜で創業された、わが国最初のビール工場の代理店であった会社が、ここ紀尾井町に醸造用水等の理由から工場を移転。明治の、ほんの一時期、こんなところにビール工場があったのだ。
のちのアサヒ・サッポロの前身、大日本麦酒になってゆく会社である。
 
明治10~20年代の国産ビールといえば、この櫻田と、浅田であった、という。
浅田。
それは中野にあり、本ブログでもだいぶ前に桃園川支流の記事で話題にしている。
そして、前掲の地図に、伏見宮邸、という文字も見える。加藤清正の下屋敷が井伊家中屋敷となり、伏見宮邸となって、現在はニューオータニである。そういえば、中野にも伏見宮別邸があった。そして伏見宮別邸の近くには、浅田ビール工場があった。なんだか、ビールに縁のあるおかたで・・・
 
今は工場はないけど、ビールはある。
清水谷の暗渠がちょうど見える位置に、オーバカナルがある。
すばらしいことに、「牛肉のビール煮」もあった。
 
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ビール煮、うまうま。
目の前に湧水と水路があり、左上の崖の上にビール工場があった。
とっくのむかしに、それは無い。
でも清水谷の谷底には、いまでも良い水があり、道行く人の喉を潤している。

 
さて、この記事は「よいまち新聞vol.3」に寄稿した、「大手町暗渠ロジー」という記事に合わせて書いたものです。
大手町ホトリア地下にあるよいまち、という飲食店街のラックにて、よいまち新聞配布中ですので、ぜひそちらも読んでみてくださいまし。
 
Yoimati

 

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