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2016年5月

金太郎計測

今回は、「わかるひとにしかわからない度」が、非常に高い記事の予感。
しかし、どうしても調べたくなってしまったのです。
そのきっかけは、「阿佐ヶ谷暗渠マニアック!」の講演準備中、最近見返していなかった資料たちに久しぶりに目を通したときに現れたコレ。うっとりするような若々しい金太郎(注)がいたのでした。
Kintaroumukasimini
                     (”高円寺 村から町へ”より)

注:車止めは暗渠サインのひとつですが、かならず暗渠上にある、遊歩道と書かれた”杉並区オリジナルの車止め”というものが存在します。描かれたイラストが、熊&またがりまさかりをかついだ金太郎なので、諸々省略して「金太郎」と呼んでいます。

古くなり、どんどん姿を消してゆく金太郎。おそらく30年ほど前の写真で見ると、今見るよりもずっと真新しいので、見入ってしまいました。そして、ふと、あることに気が付きました。
・・・パネル部分の外枠って黒かったっけ?
Kitakinhiki
 
よく見る金太郎は、こんなふうに、最も外側は白いはずなんです。黒枠の金太郎なんて、いたかな・・・

手持ちの写真を調べてみると、いたいた!一体だけ、いました。
Imakin0
 
六ケ村分水、今川支流(仮)上にある金太郎。
これは黒枠だし、最初の写真と同一のパネルのようです(設置場所は違います)

この今川の水色金太郎は、多くが赤か緑のなか「水色」というだけで(あとから塗られたものでしょうけれど)かなりのレア金太郎だったのですが、「黒枠」という点でもレアという、本当に希少種であることが判明した、というわけです。

さて、この白枠と黒枠、どうしてこのような違いが出たのでしょうか。
 
・車止め自体のサイズが違うため、トリミングして使われている
・使用年代か何かの違いにより、異なる業者が製造している
仮説はふたとおり挙げることができましょう。
まずは、1つめの仮説を検証するため、計測しに行ってきました。
Imakin0_2
 
今川の黒枠金太郎。横は内径45センチ、外径55センチ。縦は内径60センチ、外径70センチ。
次、白枠の金太郎。

Ozakin
 
小沢川支流上流端にいる金太郎。この真新しい緑色も、珍しいですね。
測ってみると、横は内径45センチ、外径55センチ。縦は内径60センチ、外径70センチ。おお、黒枠さんと同じサイズでした。
 
念のため、もうひとつ別な暗渠で測ってみましょう。
Kitakinhiki_2
 
桃園川北側流路(仮)の金太郎。
横内径45センチ、外径55センチ。縦内径60センチ、外径70センチ。うん、どうも、統一された規格があるようです。

ちなみに、この金太郎は顔が剥がれてしまっているので、もっと状態の良いはずの、上流部分のものを見に行きました。
Kitaima
 
と思ったら、いつの間にかなくなっていました。ああああああ・・・・・

Kitamukasi
阿佐ヶ谷は松山通りに面するところ。少し前までは、こんな風に鎮座していたのですが。
はぁ、残念。やっぱりどんどん失われていっていますね。

ところで、
Imakinkakudai
 
よく見るともう少しだけ、違いを感じませんか?

Ozakin0
・・・ほら。

並べてみると、
Hikaku1

うわぁ、顔、めっちゃ違う!!

ほかにも、細かいところが微妙に微妙に違っていて、

Hikaku2
もうこれは、違う人が描いたものといってよいでしょうね。
そして、違う業者さんに委託したと考えていいのではないでしょうか。
さきほど2つ掲げた仮説のうち、
・使用年代か何かの違いにより、異なる業者が製造している
こちらは残され、次なる検証をする必要が出てきました。検証材料としてなんの資料に当たればいいかは見えているのですが、結構時間がかかりそうなので、第一の検証はひとまずここまで。

白枠とか黒枠とかいうのもちょっとややこしいので、
「細眉金太郎」→杉並区に置いて現在ほとんどのシェアを占める白枠のほう
「太眉金太郎」→現在非常にレアになっている、黒枠のほう
と、眉で呼び分けたいと思います。
で、あちこちにある金太郎、ほんとに細眉でしょうか?・・・確認してみましょう。
Kitakinhiki_3
 
さきほどの、桃園川北側流路(仮)の剥がれちゃったやつ。
この金太郎だってよく見ると、
Kitakintarou
おおー、眉だったら片方だけ残ってるよ!!ヤッタ!
でもって、細眉金太郎でした!YEAH!

Igusahiru
井草川にある、後ろ向き君はどうでしょうか。
Igusakintarou
ああ、やっぱり細眉だ。
先日の展示用につくった金太郎顔ハメパネルはどうかな~?
Kaohame
 
おお。意識してなかったけど多数派だった。細眉金太郎だ。
ではでは、昨年作った、金太郎焼きゴテは・・・?

Yakiin
ああっ、なんと、眉が無い!前髪の切れ込み具合は太眉金太郎っぽく見えるけれど、これは珍種の眉無し金太郎だ・・・!

Kintaroupan
この眉無し金太郎、オズプラスのパン特集号にもちゃっかり載せていただきました。
はからずも、太眉くんと細眉くんがケンカしないですむ結果に。

Kintaroumukasimini
まあ、そんなこんなで、もう見尽くしたと思った対象にも、まだまだ秘められた奥深さがあるということを実感したのでした。
さあ、設置年度の検証等、つぎの作業もたのしそう。ですが、それはまた少し先の機会といたします。

この1年の間にも、少しずつ減っている金太郎。次歩くときは、眉毛の太さを確認したりなど、してみてはいかがでしょうか。
 

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勝手に暗渠強化月間の御礼と、ガード事件追記

まずは御礼から。

2週連続企画だった阿佐ヶ谷暗渠マニアック!(座学&フィールドワーク)、
カルカルでの境界集会、
4月のイベントが無事終了しました。
雨だったり、予定時刻より早く始まったり(笑)、いろいろありましたが、ご参加のみなさまにも、スタッフのかたがたにも、たいへんお世話になりました!どうもありがとうございました。
遡って先月の各種暗渠イベントにお越しくださったみなさまにも、改めて御礼申し上げます。
ひといきついたら、またエンジンをかけなおしたいと思います。

あ、そうそう、そうこうしている間に、東京スリバチ地形入門と東京暗渠散歩に増刷がかかりました。ありがたいことです。

今日は徒然書きになっちゃいますが・・・中央線ガードなすりつけ事件の追記をば。
あの記事を書いた後、中央線高架化の時期等について、情報をくださったかたがいらっしゃいました。おふたりの許可を得て、ここに掲載します。tweetをつなげるため、原文を多少変更しましたがお許しください。

「骨まで大洋ファン」さまからの情報。

交通技術1962年8月号に「中野―三鷹間線路増設工事」開始の記載あり。
昭和36年に高架工事着工とあるため、国鉄と杉並区の争いはスルーではないか。
「昭和32年頃から議論されていたという記載を考えると昭和33年に揉め事になるというのも奇異な感じが」とも。


(→「頃から」あたりが割と微妙なことで、当該エリアでは少し後から話が来たのかもしれません・・・あるいは「32年頃」という記述そのものがずれている可能性。などと、わたしとしては思います。)

「ふろっぐねすと」さまからの情報。

現在の中央線ガード(馬橋架道橋)は、昭和41年、中央線中野~荻窪間が複々線化されたときに完成。青梅街道の天沼陸橋の部分がネックだったので、この高架部分は昭和40年には完成していたのではないか。昭和41年の複々線化に先立って、先に中央線高円寺~阿佐ヶ谷間(前後を含む)の高架化も行われている。
複々線の用地を使って、複線の線路を1本ずつ上に上げていく。こちらは、昭和39年にはでき上がり、それから残った用地で、複々線にした。中央線の桃園川をまたぐ盛土部分は、昭和39年に高架化されて解消し、現在の形になったのは昭和41年。高架複々線の計画はおそらく昭和32年ごろにはできていると思われる。
昭和33年に杉並区と係争があって、同時進行で国鉄側は高架複々線化を計画中、高架化が6年後の昭和39年、そして昭和41年に現在の形、という流れ。杉並区と国鉄の係争は、「もうすぐ高架複々線にしてガードを広げます」という話になったのではないか。

(なるほど!とすっきりする結論!)

おふたりの情報を合わせると、ちょうどこのなすりつけ事件の最中か後に、国鉄が話を出して、いつのまにか騒ぎは収まったのかな、という気がします。骨まで大洋ファンさん、ふろっぐねすとさん、ありがとうございました!

その話題のガードの写真を、オマケで。

Gado
その昭和33年の杉並新聞の写真です。
この2年前、常磐線において、ガードの低いところをトラックが荷物を満載して通ったら上がぶつかって、線路をひんまげてしまい、列車が転覆したという事件があったそうで・・・

たしかに、そんなことになったら怖いし、この写真を見ると地元の人が騒ぐのも、さもありなん、という感じがしますね。

・・・ん。常磐線の低いガードっていうのも、もしかするともとは水路用だったりとかしないかしら・・・?(謎は続く・・・)

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