金太郎計測
しかし、どうしても調べたくなってしまったのです。



この今川の水色金太郎は、多くが赤か緑のなか「水色」というだけで(あとから塗られたものでしょうけれど)かなりのレア金太郎だったのですが、「黒枠」という点でもレアという、本当に希少種であることが判明した、というわけです。








うわぁ、顔、めっちゃ違う!!









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まずは御礼から。
2週連続企画だった阿佐ヶ谷暗渠マニアック!(座学&フィールドワーク)、
カルカルでの境界集会、
4月のイベントが無事終了しました。
雨だったり、予定時刻より早く始まったり(笑)、いろいろありましたが、ご参加のみなさまにも、スタッフのかたがたにも、たいへんお世話になりました!どうもありがとうございました。
遡って先月の各種暗渠イベントにお越しくださったみなさまにも、改めて御礼申し上げます。
ひといきついたら、またエンジンをかけなおしたいと思います。
あ、そうそう、そうこうしている間に、東京スリバチ地形入門と東京暗渠散歩に増刷がかかりました。ありがたいことです。
今日は徒然書きになっちゃいますが・・・中央線ガードなすりつけ事件の追記をば。
あの記事を書いた後、中央線高架化の時期等について、情報をくださったかたがいらっしゃいました。おふたりの許可を得て、ここに掲載します。tweetをつなげるため、原文を多少変更しましたがお許しください。
「骨まで大洋ファン」さまからの情報。
交通技術1962年8月号に「中野―三鷹間線路増設工事」開始の記載あり。
昭和36年に高架工事着工とあるため、国鉄と杉並区の争いはスルーではないか。
「昭和32年頃から議論されていたという記載を考えると昭和33年に揉め事になるというのも奇異な感じが」とも。
(→「頃から」あたりが割と微妙なことで、当該エリアでは少し後から話が来たのかもしれません・・・あるいは「32年頃」という記述そのものがずれている可能性。などと、わたしとしては思います。)
「ふろっぐねすと」さまからの情報。
現在の中央線ガード(馬橋架道橋)は、昭和41年、中央線中野~荻窪間が複々線化されたときに完成。青梅街道の天沼陸橋の部分がネックだったので、この高架部分は昭和40年には完成していたのではないか。昭和41年の複々線化に先立って、先に中央線高円寺~阿佐ヶ谷間(前後を含む)の高架化も行われている。
複々線の用地を使って、複線の線路を1本ずつ上に上げていく。こちらは、昭和39年にはでき上がり、それから残った用地で、複々線にした。中央線の桃園川をまたぐ盛土部分は、昭和39年に高架化されて解消し、現在の形になったのは昭和41年。高架複々線の計画はおそらく昭和32年ごろにはできていると思われる。
昭和33年に杉並区と係争があって、同時進行で国鉄側は高架複々線化を計画中、高架化が6年後の昭和39年、そして昭和41年に現在の形、という流れ。杉並区と国鉄の係争は、「もうすぐ高架複々線にしてガードを広げます」という話になったのではないか。
(なるほど!とすっきりする結論!)
おふたりの情報を合わせると、ちょうどこのなすりつけ事件の最中か後に、国鉄が話を出して、いつのまにか騒ぎは収まったのかな、という気がします。骨まで大洋ファンさん、ふろっぐねすとさん、ありがとうございました!
その話題のガードの写真を、オマケで。
その昭和33年の杉並新聞の写真です。
この2年前、常磐線において、ガードの低いところをトラックが荷物を満載して通ったら上がぶつかって、線路をひんまげてしまい、列車が転覆したという事件があったそうで・・・
たしかに、そんなことになったら怖いし、この写真を見ると地元の人が騒ぐのも、さもありなん、という感じがしますね。
・・・ん。常磐線の低いガードっていうのも、もしかするともとは水路用だったりとかしないかしら・・・?(謎は続く・・・)
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