中央線ガードなすりつけ事件
今回は、東京人中央線特集号でボツになった、小ネタをひとつ。
中央線と桃園川を絡めた記事を書いたのですが、その中にどうにも組み込めなかった、暗渠が巻き起こした騒動のお話があるのです。お得意、杉並新聞からの情報です。
ではさっそく、昭和33年の阿佐ヶ谷~高円寺に飛んでみましょう。
***
杉並学院高校(旧菊華高校)の周辺には、そのむかし、ぐるりと水路が走っていた。
東京時層地図「高度成長前夜」からキャプチャ
菊華高校のすぐ南を川が流れている。これは桃園川本流で、現在は緑道になっているところ。
ほかに水路は描かれていないものの、青丸の位置にも流れてくる傍流が、ある時期まではあった。いまは、北側支流や北側流路などと呼ばれる、非常に素敵なカーブ蓋を持つ暗渠のことである。
東京時層地図「明治のおわり」よりキャプチャ
明治の地図を見ると、もう少しわかるかもしれない。桃園川が田圃のための用水路として現役だったころだ。この田圃マークの中を、3~4本の水路がうねうねと走っていた。そこに学校ができ、水路の名残が南北にあったというわけだ。
また、菊華高校の脇の桃園川本流には、雨乞いのための場所があった。
ここが、雨乞いをした場所と言われているところ。これも、もしかするとこの地に水が集まってくるからなのかもしれない。
現在はただの緑道で、そういえば桃園川の手描き水路マップが石碑になり置いてあるところ。むかしもいまも、人が足を止めたくなる場所、なのかもしれない。
さきほどの地図で青印がついていたところは、今は何の変哲もない中央線の高架下である。しかし、数十年前は盛土の上に線路があって、ところどころガードで抜けていた。そのガードが、昭和33年、ちょっとした事件を生んでしまう。
このガードが矮小であることが、そもそもの発端。
幅3m弱、高さ2.5mしかなく、トラックがぶつかってしまう危険がある、という。
困るのは地元の人たち。改善の必要がある。しかし、誰が、どこのお金で・・・?
杉並区と国鉄との、言い争いが始まる。
国鉄の言い分としては、
「このガードはもともと阿佐ヶ谷周辺の湧水処理のためにつくられた。それを暗渠化したものなので、サイズは水路用の規定2.5m(道の場合4m)にしてある。それが勝手に道路にしてしまったのに文句を言われても・・・」
というもの。
区役所の言い分としては、
「大正時代からここは道だから公道なのに・・・」
ということで、話が進まない。
近所の人は戦々恐々だというのである。昭和33年というと、
青印のところが事件の舞台である。たしかに道だ。
そうか、この頃はすでに高校北を流れる傍流は暗渠化されていた、ということか。「阿佐ヶ谷近辺の湧水処理」というと阿佐ヶ谷弁天池を思い浮かべるが、阿佐ヶ谷弁天池は本流の近くであり、本流に流せば済む。阿佐ヶ谷弁天池以外で湧いた水も、このようにガードを拵えるほどに大量だった、ということなのだろうか。
すっかり大きなガードになっている。あのあと、どちらかが折れて工事が行われることはあっただろうか。そのまま、現在のような高架化の工事に至ったのだろうか(後者のような気がするが)。
ここを、むかしはこんな争いがあったのか・・・と思いながら通り過ぎるのも、またおもしろい。
そういや、ガードに水路っぽい名前はついていないものか?うろうろしてみたが、ガードの名前は見当たらなかった。
ガードというか、全体に高架だから、わざわざ道路と交差する場所に名前など付けないのだろうか。
上流に移動し、桃園川本流の上に立つ。
ここにも、ガード名を書いたプレートはなかった。
しかし、馬橋架道橋というプレートはあった。これは、さらに上流。
駅近く、もともとの道路が交差してくるところである。
富士ランチ(本blog登場二回目)。
ハンバーグカレー、680円也。
期待どおり、懐かしいような、うちのカレーという味がした。まろやかで優しく、ほっとする味。
ところがそれだけじゃないんです。中に忍び込ませたハンバーグは、店主が目の前で丁寧に成形しじっくり焼いたもの。一口ぶんスプーンで切ろうとすると、肉汁がちろちろと溢れ出る。その肉汁をカレーにまぜて、そしてハンバーグのかけらと白米とともに、お口にダイブ。
・・・至福。
富士ランチ、本当に阿佐ヶ谷の宝です。
阿佐ヶ谷は、そんな昭和やら、水路をめぐったエピソードやらが、ところどころに隠れた街。それにしても・・・結局、あの争いはどう展開したのかな。やっぱり気になってきたので、もうちょっと調べてみたいと思います。
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