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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 船橋市場編

また間が空いてしまいましたが。バーチ編、今回は船橋にもどります。
船橋駅から線路沿いに東へゆくと。

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海老川が見えてきます。
海老川は堂々たる開渠なので、今回の目的地ではありません。しかし海老川の支流に行きたいので、海老川沿いに遡っていきます。
「市場小」なる表記が見え、おもしろい名前だなあ、などと思っているとこの辺の左岸はそもそも住所が「市場」なのです。おもしろいなあ。

すると、

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船橋中央卸売市場が見えてきます。

今回は最初に、まずここで朝ゴハンを。

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この市場、ぜんたいに年季が入っていて、この食堂エリアの店々の佇まいなんて非常に好みです。

ど ・ こ ・ に ・ し ・ よ ・ う ・ か ・ な 。

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いいお顔のお店が何軒もあって迷いましたが・・・、なんとなく、大乃家にしました。
魚系のメニューが充実していそうな雰囲気。で、お刺身の定食にしました。色々ある中から、マグロとホタテを選択。

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うま!!!これが非常にウマかったんです。
もう前すぎて値段の記憶が・・・700円前後だったんじゃないでしょうか?たしか。
朝ルービー、卯の花、手作りっぽい白菜の漬物。いずれも美味。なにより、ホタテは新鮮ぷりぷり、マグロは何種類か選べたので2種類頼んだ気がするんだけど、これがまたイイやつ。通常はわたしは新鮮じゃないと食べにくいアジもむしろおいしいと感じ(=とても新鮮)・・・兎に角コスパが良かった。

これまで、暗渠さんぽのついでに”市場めし”ってちょくちょくやってきてるんですが、いまのところ、(関東では)船橋市場のめしが最高!です、実は。これはまた来たい・・・近くだったら通うレベルだわ・・・

ふぅ、力説してしまった。思い出したらまた行きたくなってきた。

・・・ゴハンのためだけにこの地に来たわけではありません。
この市場は、海老川沿いにあるだけではなく、今回見たい海老川支流「市場川」の上に建っているものでもあります。

少し、この土地のことを。むかしは一帯を「五日市」といいました。
船橋大神宮のおひざ元、室町時代のいつ頃からか、このへんには5の日に市が開かれたといいます(駅近辺は9のつく日だったので九日市)。「市場」という住所になったのは、昭和40年代のこと。ということは、「市場川」なんていう名前で呼ばれたのも昭和40年代以降なのでしょうか。

むかしは5のつく日だけに立った市。いまはねんじゅう開いている、市場のある場所。

この船橋中央卸売市場の東側は、以前は「城ノ腰」という字名でした。今昔マップon the web にも、

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城の腰松、が載っています。左上の水車も気になりますね。
平将門の腰掛の松、という伝承が残っているとか。

また、ちょうどこの場所、中世の城館跡の可能性がある、というのです。市場造成(史料には工場と表記)は昭和14年らしいのですが、それまでは市場の敷地に土塁状の土手があったそうです。
中世の武士の城館!・・・これはすなわち暗渠サインです。
とは思ったものの、この地は年代によって海になったりもするところ。中世の前半、夏見台地の南側には夏見入江が広がっており、標高からいって城ノ腰の西側は水際であったとされますから、この城の濠は川ではなく海、海城であった、ということになります。

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陰影図(google earthさんありがとうございます。赤丸内が市場/城ノ腰)をみてみても、少し高いのがわかる。市場をつくるために盛ったわけでなく、天然で高い、というわけです。むしろ土塁等が削られ、以前より低く均されていることでしょう。

Itukaichi        「写真でみる船橋1 五日市」より

五日市の小字の地図でも、城ノ腰だけ小高いことがわかるような、特殊なかたちをしています。
この城館に誰が住んでいたかも(そもそも城とも確定していない)わかりませんが、松戸の史料に出てくる「船橋の海賊」ではないかとか、峰台城の出城ではないかとか、ロマンいっぱいの想像をしている人もいたりします。

さて、この場所に流れ込んでくる川が見たいんだった。

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市場から、通りを挟んですぐ、開渠が顔をのぞかせます。これがウワサの、市場川さん。
船橋市のウェブにも、普通河川として載っています。

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振り返ると、市場の壁が見えます。
いま見えている開渠が、市場川の目視できる最下流部ということになります。

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遡りましょう。

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意外にも、微量ではあるけれど、わりと清らかな流れがありました。

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家々の間をハシゴ式開渠が縫っていきます。

しかしこれ、暗渠さんぽになってないぞ。

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小さいバケツ。
ひとびとの生活感とともに。

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僅かに橋。

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植木置場とか。

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やっぱり、さらさら流れてる。

こんな平地で、どこからくるのか?排水なのか湧水なのか?この水路、なにものなのか。

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曲るときもある。

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看板、誰が見るんだろうあの向きで。

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と、唐突にきました。蓋暗渠。
なんだか新しいです。

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横には支流らしきものも。

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囲われ暗渠。なんだか、ピシっとしています。

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と思ったら、また開渠になりました。

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細い支流もありました。

このすぐ隣のブロックに、市立船橋高校が建っています。市船といえばサッカー。
先日TVで、ペナルティのひとが、市船サッカー部は過酷なランニングのすえ、近所のドブ川の水も飲んだ、などと回想していました。聞いていてまっさきに思い浮かべたのはこの市場川。海老川の水は飲む気にならないけど、市場川の水なら、これなら・・・いや、どお腹こわさないかなあ・・・。

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本流は開渠のまま、しぶとく水を湛えています。

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あ、未舗装暗渠に変わった。

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いいかたちになってきた。

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いよいよ、狭くなってきた。

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以降は明確な暗渠はなくなって、地形的にたぶんここ、というところ。

でもそれまでで、上流端は見失います。

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ぐるぐる歩きます。このあたりかなあ?

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夏見台地の麓の(つまりこの崖の下の)湧水をあつめた流れなのかなあ、などと推測しながら帰ってきました。

ちなみにこのとき、非常にトイレに行きたくて、しかしなかなか近くに無くて苦心しました。わたしには暗渠と食事をセットにしないと気が済まない一方で、お腹を壊しやすいところがあります。ですからトイレの存在は大事。千葉では、トイレ難民になることが少なくないから、慎重に行かねばなりません。ただし、千葉のコンビニのトイレは、個室が広かったり、個室が2つあったり、シャワートイレだったり空気清浄機がついていたりと、快適なものが多い気がしています(都心だとトイレがない/使えないこともありますからね)。これをわたしは、”千葉の余裕”と呼んでいます・・・

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・・・なんの話だっけ。

そうそう、もうひとつ、帰り道に見つけた謎の空間があったのです。
まっすぐまっすぐ延びる、暗渠様の場所。

近づいてみると、

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またこれだ。
千葉編を書き始めて何度か遭遇している、陶器片が敷き詰められた空間。最初、「麻雀杯か!?」と思う癖が抜けません。

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ここは陶器片だけじゃなくって、いろいろと変わってました。

謎穴から飛び出ている何かと、それを守るものたち。

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落とし穴w
ちょうど、やってきた方向に延びているので、これをたどって家路につきました。

さてさて。
これで終わり、とお思いでしょうか。暗渠率も低かったし、最後の空間も謎のまま。
実は、ここの取材はしてみたものの、どうもパンチに欠けるなあと思っていて、それでお蔵入りにしていました。その後、別な調べものをしていると、少しずつ情報が増えてきました。

城ノ腰のところで触れましたが、大昔この地の海岸線は現在よりもずっと北東にありました。現在開渠で海老川に合流する飯山満川、前原川は合流せずに個々に海に流入していたといいます。そしてそれらの河口には三角州が形成され、城ノ腰付近まで伸びていった。そして城ノ腰が前述のように小高くなった。そして、その後この地は海ではなくなります。田圃のひろがる低地になったのでした。

船橋の郷土史家滝口氏は、このあたりの用水路を抽出した地図を作成しています。それを見ると、現存しない水路が東西にたくさん走っています。田圃を潤していた無数の路です。
船橋の田圃のうち谷津田の多くは台地の麓から湧く水(シバレミズという)を用い、標高の高い方に用水、谷の中央に悪水路がある。今回の舞台になっている場所はその東側に宮本台地があり、宮本斜面には”飯山満川からの引き水が目立つ”と滝口氏は描写します。

ハテ。飯山満川はもっと北東を流れているのではあるまいか。
どうも、飯山満川から引いて来た用水というものが仮定されていて、その用水が宮本斜面に沿って船橋大神宮のほうへと、南北に走っているようです。前掲の城ノ腰松の傍にも水路らしき線がありました。
そこからの分流が、いくつも西流していくというわけで。城の腰のまわりもぐるりと用水路が走っていました。

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ここまで書いてきたことをプロットするとこういった感じ。
オレンジ点線が飯山満川から引いてきた用水路、現在はほぼ道路で、その対になっている悪水路が海老川といえましょう。こうやって陰影図をみていると、いまもいちめんの田圃であるかのように錯覚してしまいます。

最後に見た謎空間(黄色点線部分)は、田圃への用水路だったろうと思います。ただし、前述の用水路ではなくもっと北から引いてきた流れだと思いますが。
田圃がなくなったいま、車道にもならずにあんなふうに残っている、これも暗渠だったのか(似た空間は他にもあります)・・・

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滝口氏は次のように続けます。
”市立船高の北側から北は市場通り、西は農協のあるあたりまでは傾斜も少ない土地なので比較的早くから水田化し、台地麓の湧水で間に合っていたのではないか。”

この場所は、ほぼ市場川の流域のこと。

用水路たちが無機質な直線であるのに対し、市場川がこんなに曲がりくねっているのは、湧水たちがこの傾斜の緩やかな場所で彷徨った証ではないでしょうか。

市場川、中世のころは城の周囲をとりまく濠としての機能はあったかもしれない。
その後、田園地帯だったころは、夏見台地の湧水を湛えた用水路だったのではないでしょうか。もしかすると、いまも、流れているのは湧水なのかもしれない・・・

この、新たに知った歴史のこと、地形のことを思い浮かべながら、またあの流れる水を見にゆこうと思います。またおいしい朝ごはんを食べて。

寝かせていた千葉もの編、今回は軍事が出ませんでしたが、次回はがっつり触れることになる、はず。気力があれば、そうします(笑)

<文献>
「写真でみる船橋1 五日市」
創立50周年記念船橋市立宮本中学校「わが宮本」
滝口昭二「夏見低地の水田化について」史談会報第25号
長谷川芳夫「船橋地誌 夏見潟を巡って」
「船橋のあゆみ」
「ふるさとの地名~船橋・鎌ヶ谷の地名の由来を探る~」

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