西荻窪ひみつ暗渠 城山下支流(仮)の謎を解く
やや間の空いた、西荻窪シリーズ。まぁどれも間が空いてますけども。
今回は、以前謎を残したまま終えてしまった、善福寺川城山下支流(仮)をもう少し追求しようと思います。西荻窪には松庵川というエース級がいるけれど、松庵君ともども全体に情報がすくなくって、謎が多くって。だからこそ、おもしろくって。
この「謎の多さ」は、無駄のない区画や、過去のそれとは異なる地形や水路の形状、そして住民が少なかったことによる情報の無さからきているような気がします。そして、前者ふたつは、西荻独特の区画整理事業に由来するものであるようです。
その事業の立役者は、若くして井荻村村長となった内田秀五郎氏でした。
内田氏らの誘致により、畑と雑木林ばかりであったこの地に、大正11年に西荻窪駅が開業します。内田氏は、道路ひとつ整備するだけでも、各方面の負担の調整にとても苦労したという経験を通し、全村で耕地整理を行って道路を整備すれば、負担も公平だろうという考えに至ります。その後関東大震災が起き、移住者が増えだす時期でもあり。大正14年に井荻村土地区画整理組合がつくられ、翌年から工事開始。西荻の土地は、整然としていったのでした。
東京時層地図から、ビフォーアフターを読み取ることができます。
この地域の工事は、昭和2年に本格化したといいます。そのとき、住民のひとりは「武蔵野だったこの地に」、道が「容赦なく横切り」、「忽ちにして碁盤の目を刻んだ」と憎々しげに描写しています・・・長閑な風景が失われることを惜しむひとは、この時代にも居たのでした。
ともあれ昭和の初めには、西荻窪の街並みは直線が多くなっていたのでした。対象となった土地の総面積は888ha。村独自で行ったものとしてはとても大規模な、珍しい事業であったといいます。善福寺川もこのときに改修され、何本もあった流れは幅5mに統一、周辺の田んぼは次第に埋められてゆきました。
善福寺川のみならず、他の水路の工事も進められました。上荻窪原の水路、という、まっすぐな雨水排水溝様のものが、実績のひとつとして載っていました。おそらくlotus氏が行っていたここの、3本のうちのどれかのことだろうと思います。
昭和15年の写真には、埋められる寸前のまっすぐな土管が写っています。その写真では片岸が少し高くなっていて、木々が鬱蒼としているので、城山っぽい雰囲気でもあります。城山下支流(仮)については、「区画整理の際に七ツ井戸(後述)がすべて埋められた」と、書かれてもいます。他は直接的な記述はないけれど、松庵川も、第二松庵川も・・・細い流れほど、地図にはビフォーもアフターもきっと載ることなく、粛粛と変えられていったことでしょう。
***
さて城山下支流(仮)のおはなし。・・・結論からいうと、この城山下支流(仮)のことは、やっぱりすべてはわかりませんでした。けれど、善福寺川のあげ堀の一種で、主な用途はおそらく水車堀であったという考えには至っています。
その根拠となっているのは、
森泰樹「杉並風土記」より、
江戸期に、水車を動かすために落差をつけようと、善福寺川から引いた水路を城山の下を北から南に一直線にトンネルを掘って流した
西荻図書館前の案内板より、
川から引かれた水路が城山の下を通っていた/七ツ井戸と呼ばれた井戸(※)は、城山の南側に一列に7つ並んで掘られていた/城山=現在の西荻北二丁目19・33番一帯
※七ツ井戸・・・所謂飲料水確保の井戸というより、深い位置を水路が流れているため、その掃除用マンホールではないかといわれる。暗い森の中にあったため地元の人たちが恐れていて、説明的な記述が殆ど残っていない。
等の記述があって、この内容に従えば、城山というのは、
(yahooさんありがとうございます。)この緑点線内のエリアだった、ということになります。そして、城山下支流(仮)の現存暗渠をプロットしたものが水色点線。なるほど微高地である城山に、少しかかるような不思議な位置を流れています。
そしてそして、七ツ井戸は”城山の南”という位置に、”北~南(地図上は縦)”という並びで在った、とされます。つまりこの赤丸内に七ツ井戸が、七つ並んで在っただろう、と推測できます。
その縦の流路を以前の記事の写真で示してみると、
ここ(確かに両岸との高低差がひときわある)や、
名所!と思っているここも、七ツ井戸跡地の候補になりえるのでした。
ふぅむ・・・この場所がむかしは不気味な雰囲気で、井戸が七つも並んでいたなんて。
下水道台帳をみてみると、現在、城山下支流(仮)下には実は下水管はほとんど通っていないことがわかります。いずれも狭い裏道なので、車道の下に付け替えられているようでした。しかし、この、七ツ井戸候補地の、南北に走る暗渠道だけは、下に今でも下水管が残っているのでした・・・(ここで何か想像をはたらかせたいところなのですが、これまた謎のまま・・・)
ではこれが水車用のあげ堀だとして、取水口は何処にあたるのでしょう?
この問いが、なかなか解けない難問なのでした。
あげ堀の取水口、それは堰のやや上流にあるはずです。善福寺川の西荻地区における堰は、4つあったとされます。旧地名(含通称地名)、関根、団子山、中田、本村に1つずつ、計4つ。このどれかです。
もっともそれらしいと思えるのは、「団子山」、現西荻北5丁目にあたるといわれ、関根橋の上流側に位置するもの。そもそも、関根橋という名称も、「関根」は後ろに控える(荻窪)八幡神社の神宮をつとめる小俣家の屋号が関根、という説明がなされるいっぽう、「堰があったから」という記述も見たことがあります。シンプルに、関根橋付近に堰があったと考えてもいいと思うわけです。
その、関根橋から善福寺川をみたところ。
残念ながら、付近には暗渠の出入口のような穴はありません。
カモさんたち。
善福寺川、つい先日も溢れてしまいましたが、ふだんはこんなに穏やかなんですよねぇ。このすぐ下流にある関根プール跡地は、調整池になるため鋭意工事中であるようで(付近の善福寺川沿いに住んでいる方談)、もう少し安心できるようになるまで、あと少し、かな。
(東京時層地図の段彩陰影図より)この関根橋よりやや上流から取水していたとすると、あげ堀が通せるような、低めの場所があるといいんですが。・・・ここら辺?
上記の位置、いまはこういう車道になっています。うーん・・・そうであるような、ないような。
苦し紛れに、あげ堀があったであろう取水口から南、そして東へと歩いてみますが、うーん・・・。ここも、そうであるような、ないような。
前述の、区画整理事業のさい、このあげ堀前半部分はきれいさっぱりと失われたのだろう、と思っています。なぜならこの付近は、西荻窪駅から青梅街道に向かう道路沿いという重要な場所。おそらくはこの辺りの地面の高低差は均され、適当に盛土をされ、水路は道路化する以前に消滅させられたのではないかと思います。したがって、暗渠様の道は残ってはいないのではないか、と・・・。
車止めがあるといえばある道だったけど。あまり水路の跡、という気はしないのでした。
そのさき、もう少し東に進んでいけば、現存する城山下支流(仮)の上流端と出会えます。
が、はじまりより少し手前からも、空間がひらけています。この部分も水路だったのでしょうか。
で、ここからが見える暗渠のはじまり。
東京時層地図にて、その位置を示します。赤いピンの辺りが、現存する上流端。北にある高台が城山です。なんとなく、城山の左から、まあるく水路が城山の下を流れゆく感じ。
ここから先は、以前の記事と被ります。急ぎ足でみていくとしましょう。
異なる季節に来ましたら、また異なる景色が見えました。
苔むす暗渠。
ひみつ基地のような場所。
このマンホールを椅子にして一杯やりたい。
まっすぐまっすぐ。
あれっ、階段だけ新しくなってる。
最後の直線。
そして善福寺川に、注ぐのでした。
さて、ゴハン。
今回は関根橋を渡って少し上ったところにある、「洋食のみかさ」です。
1969年から在るという、どっしりとした洋食屋さん。
そこで洋食の王様みたいなメニューと出会いました。その名も「スペシャルナポリタン」。
え、奥に見える付け合わせは何か、って?
ハンバーグとクリームコロッケ、でした!ウオォー!!
ナポの上にはがっつりとチーズ。ハンバーグのソースをときどきスパゲティに絡めて味を変えてもたのしい。近所のひとたちが次々入ってくる、色んな年齢層の方に愛されているような名店でした。
それにしてもこれは良い一皿だなぁ・・・。オトナのコドモ心を疼かせる感じ。
さて、満たされたところで、まとめ。
そういえばまだ水車の詳細に行き当っていません。この高台城山を、わざわざ深掘りしてまで通した水車堀、というのは、いったい誰のどういった資金でできたものなのでしょう。
この位置の善福寺川は蛇行ぶりを見ても、高低差の無いゆるやかな流れであったのかもしれませんが、それにしても新設水路にしては長く、難工事だったのではないかと思うのです。しかも、その水車もマボロシかというくらいに地図上には出てきません。江戸にできたはずの水車、明治より前になくなったのでしょうか・・・このモヤモヤを解くため、苦手な「江戸」にも手を出さないといけないかな、と思います。
上記の謎に少しでも迫るため、通称地名「城山」の由来に立ち返ってみましょう。
城山はこの地方の領主で、荻窪八幡神社を祀っていた武将の城址である、という説があります。
もしもこの話が本当ならば、この城山は中世の城のようなイメージで、館の周辺に水路が巡らせてあったかもしれない。ちょうど善福寺川が屈曲する地点なので、北、東、西には既に天然濠がある。しかし、南だけが無い・・・
ところが実は、「城山」の東に「出山」という旧地名があり、出山には葦の群生した沼や、氷を採った氷り場があったといわれます。たんに善福寺川と直結した湿地だったかもしれませんが、善福寺川支流といえるような、かすかな小川があったかもしれない、などと思ったりもします。
このようにして情報の断片を拙いながらもつなぎあわせていくと、
城山に中世の武将の館があり、その南(正確には南東)を囲う水路として、城山下支流(仮)が存在していたかもしれない。江戸に入って水車を設置するとき、城山下支流(仮)の流路を活用し、付け替えて掘り下げたり、水流を増やすため善福寺川から取水するなどして、城山下支流(仮)の新流路ができた。昭和2年の区画整理時に、上流部分は埋められ消失、中流以下は直線に改修され、もともと湿地様だったその地の湧水の排水用、あるいは雨水排水路として残され、今に至る。
城山下支流(仮)の誕生から現在までの歴史とその全容を、こんなふうに推測することができます。あくまで情報が少ないなかでの推測、きっと間違いやただの願望が何割かを占めていると思いますが。
それでもまだスッキリしない。水車の詳細、それから取水口の正確な位置・・・やっぱり、謎が残ってしまいましたね。
西荻窪、ほんとに奥ゆかしい街だなあ、と思います。まだまだ追わねばなりません。でもきょうは、ここまで!
<文献>
梅田芳明「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」
森泰樹「杉並風土記」
「杉並の通称地名」
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コメント
僕は新型コロナウィルスの緊急事態宣言による自粛続きで近くの神田川と善福寺川の支流、暗渠化した井草川と桃園川と玉川上水、蓋をされた支流の散歩をしました。杉並区内はどうして河川が暗渠化されたのかとても不思議です。昔は流路を見ることが出来たんだが、排水が川に流れ込んだのが原因で暗渠となったのです。もし、僕が昔に生まれていたら河川の暗渠はなかったかもしれません。東京の多摩地域の用水路は暗渠化され、流路を見ることが出来なのです。排水やごみを川や用水路に捨てたら罰せられ、警察に通報されます。
投稿: タクロウ | 2020年8月 8日 (土) 22時07分