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2014年8月

桃園川銭湯巡礼 その6 高砂湯と復活三好弥

忘れたころにやってくる、桃園川沿いの銭湯でひとっぷろ&一杯の”桃園川銭湯巡礼シリーズ”。前回はいつだったかな、と見てみたら2013年5月でしたアハハ。

ずいぶんノンビリとしたテンポになっちゃってます。「その6」なので、まだ本流6軒目なわけです。そうこうしているうち、都内の銭湯廃業のニュースは相変わらずちらほら来るし。ほんとうは毎日どこかしら入りに行きたいくらいだけど、そうもいかないし。。

さて今回は、中野区部2軒目。
で、お風呂に入る前に、乙女湯跡地を見にいきます。

Ato

中野五差路のやや南、中野通沿いには湯屋が何軒か在ったようで。
そのうち比較的桃園川に近い低地にあるものは、前回の桃園湯(廃業)と、ここにあった乙女湯でした。なぜか、どちらも可愛らしい名前ですね。

乙女湯は、昭和7年の地図で確認したもの。どうも戦前まであった銭湯のようです。わりと早くになくなっているのですねえ・・・

さてそれでは現役銭湯、高砂湯に入りに行きます。

Takasago

実はこのブログで紹介するのは2回目だと思うんですが。高砂湯さま。えいはちさんの強い推薦により、1回目は行ったのでした。

Takasago2

強い推薦理由は、露天風呂!でした。
高砂湯はこの、煙突を見ながら、露天風呂に浸かれるというステキ銭湯なのでした。

駅からも遠くないし、桃園川が近いし。何度行ってもよいです。

Takasago3

ゆうぐれ。
いつまでも在ってほしいなぁ・・・

ひとっぷろ浴びた後は中野駅近くに繰り出してもいいけれど、折角なので暗渠沿いのお店を紹介したいです。

それは、紆余曲折の中野三好弥。
三好弥、あちこちにある洋食屋さん(サンプルを見るとボリューム多めの傾向にありそうな)ですけれど、中野のそれは、

Miyoshiya

桃園橋の隣にありました。
ザ・定食屋さんの佇まいで、とてもすてきでした。

Miyoshiya2

でもずぅっとそこにあったから、これからもずぅっとそこにあり続ける気がしていたのですね。

なので、まぁそのうち来るだろう、なんて、悠長にかまえてたんですヨ。
そしたら、、

Miyoshiya

ある日突然、すわ!なくなるか!?という状態になってしまい。

隣の桃園橋とともに、不安、心配、喪失感でいっぱいだったのが前回の記事でした。

それが、

Miyosi5

いつのまにか、復活していたのです。なんかだちょっとだけ、シャレオツになってw
桃園橋も残ってて。

Miyosi1

相変わらず桃園川の隣にあって。

あまりにうれしかったので、もう逃すまいと、今回はここでゴハンにします。

Miyosi2

桃園川を見ながら、プハー!(にやりにやり)。

それから、メニューを穴が開くほど眺めて、下した決断はコレ。

Miyosi3

カスタムトルコライス。

カスタムトルコライスはちょっとお高くて1350円でした。
なにがどうカスタムかっていうと、「とんかつ」「ハンバーグ」「チキンソテー」の中からメインを一つ選び、「デミ」「カレー」「トマト」の中からひとつメインのソースを選ぶ。
それとピラフ、ナポリタン、サラダの組み合わせ。

これは夢なんじゃないでしょうか!

ハンバーグ、それとカレーのソースを選びました。ハンバーグカレーと、ピラフとナポが味わえるという寸法。

夢みたいです!!

なんて、わたしはわたしで興奮していたのですが、その脇でおやじさんとその娘さんがずっと喧嘩をしていました。どうも相方の注文の受け取り方が、おやじさんと娘さんで違っていたようで、「あたしはこう言ったわよ(怒)」「聞いてないよ(怒)」という応酬を何サイクルも続けていたのでした・・・喧嘩は喧嘩、なのだけれど、それがなんだか可笑しくて。ほんわかした気持ちで、トルコライスを食べました。

Miyosi4

それと、店内に蚊がいました。・・・手で抹殺しましたが。
さすが川べり。と思った瞬間。

中野の三好弥さんは、こんなふうに、見た目は変わったけれどきっと中身は変わってない。昭和のメニューに、昭和の心意気。桃園川を常に見られる席もあることだし、とっても好きになりました。

Sentou6map

さてさて、乙女湯と高砂湯、三好弥と桃園川の位置関係です。yahooさんありがとうございます。前回の桃園湯跡も、地図内だったので一応。

Otomemap

それから。

なんとなく東京時層地図を見ていたら、昭和戦前期の地図に、このふたつの銭湯が描かれていることに気づきました。

これは、ひとつ前の地図と同じ位置を切り取っています。高砂湯と、乙女湯の煙突が、ほら、ここに。地図上ではあるけれど、乙女湯の煙突からもくもくと煙が出ているではないですか・・・
桃園川もまだ開渠で。きっとこのふたつの銭湯の排湯を、ざぶざぶ流していたのでしょうね。

Gosaro

中野五差路といえば、中野センター(DEEP案内にリンク)が少し前までありました。それがあたり前の風景、と思えていたのはいつまでか。嗚呼、なくなる、なくなる、と思ったら瞬く間になくなり、そしてこんなビルが建ちました。
そんなふうに、なくなって、もう甦らないものもある。たぶん、そういうものはとても多い。

いっぽうで、中野三好弥は、建替えての復活・・・西荻窪キャロットや、四ツ谷政吉そばは、店主が変わっての復活。なくなるものもあれば、ごくまれに、甦るものもあったりなんかして。なくなったことを嘆くばかりではなく、何度でも行ってみると、こういううれしい再会もあるのかもしれません。ごくまれに、だけど。

そんなわけで桃園川銭湯巡礼、本流の現役銭湯は残り1軒となりました。急いで、いかにゃ。

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西荻窪ひみつ暗渠 城山下支流(仮)の謎を解く

やや間の空いた、西荻窪シリーズ。まぁどれも間が空いてますけども。

今回は、以前謎を残したまま終えてしまった、善福寺川城山下支流(仮)をもう少し追求しようと思います。西荻窪には松庵川というエース級がいるけれど、松庵君ともども全体に情報がすくなくって、謎が多くって。だからこそ、おもしろくって。

この「謎の多さ」は、無駄のない区画や、過去のそれとは異なる地形や水路の形状、そして住民が少なかったことによる情報の無さからきているような気がします。そして、前者ふたつは、西荻独特の区画整理事業に由来するものであるようです。

その事業の立役者は、若くして井荻村村長となった内田秀五郎氏でした。
内田氏らの誘致により、畑と雑木林ばかりであったこの地に、大正11年に西荻窪駅が開業します。内田氏は、道路ひとつ整備するだけでも、各方面の負担の調整にとても苦労したという経験を通し、全村で耕地整理を行って道路を整備すれば、負担も公平だろうという考えに至ります。その後関東大震災が起き、移住者が増えだす時期でもあり。大正14年に井荻村土地区画整理組合がつくられ、翌年から工事開始。西荻の土地は、整然としていったのでした。

Nisiogihensen

東京時層地図から、ビフォーアフターを読み取ることができます。
この地域の工事は、昭和2年に本格化したといいます。そのとき、住民のひとりは「武蔵野だったこの地に」、道が「容赦なく横切り」、「忽ちにして碁盤の目を刻んだ」と憎々しげに描写しています・・・長閑な風景が失われることを惜しむひとは、この時代にも居たのでした。

ともあれ昭和の初めには、西荻窪の街並みは直線が多くなっていたのでした。対象となった土地の総面積は888ha。村独自で行ったものとしてはとても大規模な、珍しい事業であったといいます。善福寺川もこのときに改修され、何本もあった流れは幅5mに統一、周辺の田んぼは次第に埋められてゆきました。

善福寺川のみならず、他の水路の工事も進められました。上荻窪原の水路、という、まっすぐな雨水排水溝様のものが、実績のひとつとして載っていました。おそらくlotus氏が行っていたここの、3本のうちのどれかのことだろうと思います。
昭和15年の写真には、埋められる寸前のまっすぐな土管が写っています。その写真では片岸が少し高くなっていて、木々が鬱蒼としているので、城山っぽい雰囲気でもあります。城山下支流(仮)については、「区画整理の際に七ツ井戸(後述)がすべて埋められた」と、書かれてもいます。他は直接的な記述はないけれど、松庵川も、第二松庵川も・・・細い流れほど、地図にはビフォーもアフターもきっと載ることなく、粛粛と変えられていったことでしょう。

                   ***

さて城山下支流(仮)のおはなし。・・・結論からいうと、この城山下支流(仮)のことは、やっぱりすべてはわかりませんでした。けれど、善福寺川のあげ堀の一種で、主な用途はおそらく水車堀であったという考えには至っています。

その根拠となっているのは、

森泰樹「杉並風土記」より、
江戸期に、水車を動かすために落差をつけようと、善福寺川から引いた水路を城山の下を北から南に一直線にトンネルを掘って流した

西荻図書館前の案内板より、
川から引かれた水路が城山の下を通っていた/七ツ井戸と呼ばれた井戸(※)は、城山の南側に一列に7つ並んで掘られていた/城山=現在の西荻北二丁目19・33番一帯

※七ツ井戸・・・所謂飲料水確保の井戸というより、深い位置を水路が流れているため、その掃除用マンホールではないかといわれる。暗い森の中にあったため地元の人たちが恐れていて、説明的な記述が殆ど残っていない。

等の記述があって、この内容に従えば、城山というのは、

Siroyamap

(yahooさんありがとうございます。)この緑点線内のエリアだった、ということになります。そして、城山下支流(仮)の現存暗渠をプロットしたものが水色点線。なるほど微高地である城山に、少しかかるような不思議な位置を流れています。

そしてそして、七ツ井戸は”城山の南”という位置に、”北~南(地図上は縦)”という並びで在った、とされます。つまりこの赤丸内に七ツ井戸が、七つ並んで在っただろう、と推測できます。

その縦の流路を以前の記事の写真で示してみると、

Nanatu0

ここ(確かに両岸との高低差がひときわある)や、

Nanatu1

名所!と思っているここも、七ツ井戸跡地の候補になりえるのでした。
ふぅむ・・・この場所がむかしは不気味な雰囲気で、井戸が七つも並んでいたなんて。

下水道台帳をみてみると、現在、城山下支流(仮)下には実は下水管はほとんど通っていないことがわかります。いずれも狭い裏道なので、車道の下に付け替えられているようでした。しかし、この、七ツ井戸候補地の、南北に走る暗渠道だけは、下に今でも下水管が残っているのでした・・・(ここで何か想像をはたらかせたいところなのですが、これまた謎のまま・・・)

ではこれが水車用のあげ堀だとして、取水口は何処にあたるのでしょう?
この問いが、なかなか解けない難問なのでした。

あげ堀の取水口、それは堰のやや上流にあるはずです。善福寺川の西荻地区における堰は、4つあったとされます。旧地名(含通称地名)、関根、団子山、中田、本村に1つずつ、計4つ。このどれかです。
もっともそれらしいと思えるのは、「団子山」、現西荻北5丁目にあたるといわれ、関根橋の上流側に位置するもの。そもそも、関根橋という名称も、「関根」は後ろに控える(荻窪)八幡神社の神宮をつとめる小俣家の屋号が関根、という説明がなされるいっぽう、「堰があったから」という記述も見たことがあります。シンプルに、関根橋付近に堰があったと考えてもいいと思うわけです。

Nazo1

その、関根橋から善福寺川をみたところ。

残念ながら、付近には暗渠の出入口のような穴はありません。

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カモさんたち。
善福寺川、つい先日も溢れてしまいましたが、ふだんはこんなに穏やかなんですよねぇ。このすぐ下流にある関根プール跡地は、調整池になるため鋭意工事中であるようで(付近の善福寺川沿いに住んでいる方談)、もう少し安心できるようになるまで、あと少し、かな。

Nazo3

(東京時層地図の段彩陰影図より)この関根橋よりやや上流から取水していたとすると、あげ堀が通せるような、低めの場所があるといいんですが。・・・ここら辺?

Nazo4

上記の位置、いまはこういう車道になっています。うーん・・・そうであるような、ないような。

Nazo6

苦し紛れに、あげ堀があったであろう取水口から南、そして東へと歩いてみますが、うーん・・・。ここも、そうであるような、ないような。

前述の、区画整理事業のさい、このあげ堀前半部分はきれいさっぱりと失われたのだろう、と思っています。なぜならこの付近は、西荻窪駅から青梅街道に向かう道路沿いという重要な場所。おそらくはこの辺りの地面の高低差は均され、適当に盛土をされ、水路は道路化する以前に消滅させられたのではないかと思います。したがって、暗渠様の道は残ってはいないのではないか、と・・・。

Nazo8

車止めがあるといえばある道だったけど。あまり水路の跡、という気はしないのでした。

Nazo9

そのさき、もう少し東に進んでいけば、現存する城山下支流(仮)の上流端と出会えます。

が、はじまりより少し手前からも、空間がひらけています。この部分も水路だったのでしょうか。

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で、ここからが見える暗渠のはじまり。

Nazo11

東京時層地図にて、その位置を示します。赤いピンの辺りが、現存する上流端。北にある高台が城山です。なんとなく、城山の左から、まあるく水路が城山の下を流れゆく感じ。

ここから先は、以前の記事と被ります。急ぎ足でみていくとしましょう。

Nazo12

異なる季節に来ましたら、また異なる景色が見えました。

苔むす暗渠。

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ひみつ基地のような場所。

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このマンホールを椅子にして一杯やりたい。

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まっすぐまっすぐ。

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あれっ、階段だけ新しくなってる。

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最後の直線。

Nazo18

そして善福寺川に、注ぐのでした。

さて、ゴハン。
今回は関根橋を渡って少し上ったところにある、「洋食のみかさ」です。
1969年から在るという、どっしりとした洋食屋さん。

Mikasa1

そこで洋食の王様みたいなメニューと出会いました。その名も「スペシャルナポリタン」。
え、奥に見える付け合わせは何か、って?

Mikasa2

ハンバーグとクリームコロッケ、でした!ウオォー!!
ナポの上にはがっつりとチーズ。ハンバーグのソースをときどきスパゲティに絡めて味を変えてもたのしい。近所のひとたちが次々入ってくる、色んな年齢層の方に愛されているような名店でした。

それにしてもこれは良い一皿だなぁ・・・。オトナのコドモ心を疼かせる感じ。

さて、満たされたところで、まとめ。

そういえばまだ水車の詳細に行き当っていません。この高台城山を、わざわざ深掘りしてまで通した水車堀、というのは、いったい誰のどういった資金でできたものなのでしょう。
この位置の善福寺川は蛇行ぶりを見ても、高低差の無いゆるやかな流れであったのかもしれませんが、それにしても新設水路にしては長く、難工事だったのではないかと思うのです。しかも、その水車もマボロシかというくらいに地図上には出てきません。江戸にできたはずの水車、明治より前になくなったのでしょうか・・・このモヤモヤを解くため、苦手な「江戸」にも手を出さないといけないかな、と思います。

上記の謎に少しでも迫るため、通称地名「城山」の由来に立ち返ってみましょう。
城山はこの地方の領主で、荻窪八幡神社を祀っていた武将の城址である、という説があります。
もしもこの話が本当ならば、この城山は中世の城のようなイメージで、館の周辺に水路が巡らせてあったかもしれない。ちょうど善福寺川が屈曲する地点なので、北、東、西には既に天然濠がある。しかし、南だけが無い・・・

ところが実は、「城山」の東に「出山」という旧地名があり、出山には葦の群生した沼や、氷を採った氷り場があったといわれます。たんに善福寺川と直結した湿地だったかもしれませんが、善福寺川支流といえるような、かすかな小川があったかもしれない、などと思ったりもします。

このようにして情報の断片を拙いながらもつなぎあわせていくと、

城山に中世の武将の館があり、その南(正確には南東)を囲う水路として、城山下支流(仮)が存在していたかもしれない。江戸に入って水車を設置するとき、城山下支流(仮)の流路を活用し、付け替えて掘り下げたり、水流を増やすため善福寺川から取水するなどして、城山下支流(仮)の新流路ができた。昭和2年の区画整理時に、上流部分は埋められ消失、中流以下は直線に改修され、もともと湿地様だったその地の湧水の排水用、あるいは雨水排水路として残され、今に至る。

城山下支流(仮)の誕生から現在までの歴史とその全容を、こんなふうに推測することができます。あくまで情報が少ないなかでの推測、きっと間違いやただの願望が何割かを占めていると思いますが。

それでもまだスッキリしない。水車の詳細、それから取水口の正確な位置・・・やっぱり、謎が残ってしまいましたね。

西荻窪、ほんとに奥ゆかしい街だなあ、と思います。まだまだ追わねばなりません。でもきょうは、ここまで!

<文献>
梅田芳明「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」
森泰樹「杉並風土記」
「杉並の通称地名」

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桃園昨景 01

新シリーズ、「桃園昨景」というものをはじめてみようと思います。

暗渠のほとりには、古いものが遺されがちであると言いました。
けれど、その古いものたちは、古いからこそ、いつまでも残っているわけでもないのです。

先週まで、いや、つい昨日までそこにあったのに、失われた建物、失われた風景。暗渠を歩いていると、そういうものにときどき出会います。「嗚呼、せめてもっとちゃんと撮っておけばよかった」、そうつぶやくこともしばしば。

・・・ここでは、桃園川のほとりでひっそりと失われてしまったものたちを、不定期に、少しずつ載せてゆきたいと思います。

                         ***

1回目は、馬橋稲荷神社支流(仮)沿いの、ある建物を。これはつい数日前の記録なので、速報でもあります。

Saku01

馬橋稲荷神社支流(仮)とわたしとのお付き合いは、まさにこの空間から始まりました。

のほほんと歩いていたら、この空間が視界を掠めて。交差点なのに一角だけ妙に土地が余っていて、ちょっと違和感があるな、と、覗いてみたら秘密めいた路地があって、吸い込まれてみたら、

Saku011

そこには神々しいコンクリ蓋暗渠があったのでした。

あのときの興奮は、いまでもよく覚えています。あの入口の、誰かの家に入っていくような不安感を伴う、狭くてカクカクとした路地がなければ、きっとあれほどには興奮しなかったし、この支流の発見はもっと遅くになっていたかもしれません(注:既に発見されている方々はいらっしゃる支流でした、が、その情報をまだ持っていなかったのでした。初心者時代のわたし)。

最初に撮ったときの写真も見つけたので載せてみましょう。

Inari5

これこれ。あのときのわたし、ここを出たり入ったりして、だいぶキョドってたんじゃないかしら。

このいびつな形こそ川跡がもたらしたものであろうし、ここから入った後の空間のひらけ方は最高にすてきだった・・・

その場所を、先日通ったら。

Saku012

入口を覆う家が、なくなっていました。

Saku013

家がまだあった頃の、反対側からの写真。赤丸のところの建物です。

あまり、この家の写真は残っていないのです。馬橋稲荷支流(仮)の写真は何度も撮りに来たけれど、たいていは神社脇のコンクリ蓋や、埋もれかけの階段などばかりで。
そういえばこの入口の空間だって名所であるはずなのに。あまり、この家が無くなったらどうしよう、とは思っていなかったのかもしれない。なんとなく、この家はずっとあるような気がしてしまっていたのかもしれない。。

Saku014

だから、これは、想像していなかった風景でした。

ここには新たな建物が建つのでしょう。きっと、セットバックでもともとの路地は広げられ、今度は馬橋稲荷支流(仮)は奥に隠れず、ここから見える状態になるでしょう。

考えてしまうと、ちょっとせつない。けれど仕方がないこと。だからせめて、記録に遺します。というかそれしかできないからなんだけど、またいつでも思い出せるように。

桃園昨景、なんだかせつないシリーズになってしまいそうな気もします。

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ガーブ川を辿れた、と思ったら

今回は沖縄の暗渠のことを。
といっても昨年辿った、ガーブ川です。またも出張でではあるけれど、再度那覇に行く機会を得たので、ここぞとばかりにガーブ川へ行ってまいりました。特に資料はないので、辿ったということの速報的記録ですが、おつきあいくださいまし。

辿った、と書きましたがそれは誤りで、前回は途中から間違えて支流を追っていたのでした。

Gabumap2_2

                           前回の記事から拝借。yahooさんありがとうございます。

なので、今回は赤丸のところと、それから未訪の河口部分を辿ってガーブ川をコンプしたい、というわけです。

赤丸のところから開渠が始まるけれど、あやしげな等高線はもっと東までつづいているようです。なので、ひとまず付近でもっとも高そうなところに登り、そこから下りていくと、

Gap1

なんとなく谷頭っぽい感じの場所が見えてきます。やっぱり思ったよりずいぶん奥から始まっている様子。

この道を進むと、

Gap2

予想もしない急崖。

こんなに下りちゃって、いいの?

Gap3

何やら、管。

底に下りてみると、そこには、

Gap4

思わず「横浜か!」と、つぶやいてしまうような風景が広がっていました(実際つぶやきました、小声でね)。

だってこれは、横浜とか川崎とかにたくさんある谷頭の風景じゃないか。わりとウロウロしたけれど、沖縄でこういう住宅地はまだ見たことがなかったのだもの。

Gap5

ココにもあるのねえ、こういう崖。

Map1

地図を見ると、いかにも谷戸、とわかります。

Gap6

ところがその住宅地は同じ調子で続くのではなくって、これまた唐突にこんな階段が出現。

で、、、

Gap7 

公園が広がっていました。

Gap9

スリバチ公園が!

Gap8

脇から続く、このアプローチも意味深。

Gap10

そのむかし、ここは池だったでしょうか。
すくなくとも、滔々と水は湧いていたのではないでしょうか。

ひとり、感動し立ち尽くしながら、さきほどの住宅地の谷頭とここと、瓢箪のような2つの水場を想像していました。

この公園の輪郭が描く曲線と傾斜に、水の流れを感じながら、さてわたしも下っていくとします。

Gap11

公園の出口。
でもここから、少しの間川跡らしき空間は家の間に隠れます。

次に出逢うのは、回り込んだ先の、この空き地。

Gap12

・・・実に衝撃的。衝撃的すぎる再会でした・・・

Gap122

だってこんなに曲がりくねっているんですよ。

Gap13

と思ったらまたすぐ、道路に埋もれて暫くわからなくなりますが。

Gap14

しばらく暗渠を見失いながらあるきます。・・・トカシキ食堂、かなり良い!!
(現役のようです。食べに来たいなあ。)

Gap15

トカシキ食堂を過ぎると、唐突に開渠が顔を出します。冒頭の地図の、開渠のはじまりがこれ。

Gap16

暗渠の出口にあったものは、キレイな水でした。あの崖やスリバチで湧いたものでしょうか。水たちはこの地面の下を流れてきていたのでした。

Gap17

それより下流は、前回の記事で追っているので割愛。いやぁしかし・・・良いものを見た。

そうそう、前回、国際通りよりも下流部も追っていなかったのでした。幅広の道路になっていたのでイイや、と思っての省略でしたが、今回は折角なので河口まで行くとしましょう。

Gapkaryu1

日曜日だったので、国際通りが歩行者天国になっていました。けれど、暑すぎるからか、あまり闊歩する人はおらず・・・

その通りの上で、子どもたちがシャボン玉遊びに興じていました。ちょうど、ガーブ川の上をシャボン玉が流れてゆき・・・なんだかとっても良い光景で、暑さを忘れてしばし佇みました。

Gapkaryu2

下ってみると、道端には川を模したような空間があります。

Gapkaryu3

中はこんなことになっていましたw

Gapkaryu4

あとは、幅広の道路からこのように左折して駐輪場になって、暗渠はおわり。

Gapkaryu5

開渠となって、久茂地川に向かっていきます。

Kumoji

久茂地川には階段があり、下りることを阻まれていなかったので、試しに最下段まで行ってみました(泥で滑るので注意)。すると、大量のフナムシのほかに、蠢くものたちが・・・逃げられちゃいましたが、ムツゴロウ様の魚がいっぱい居たようでした。それから、カニも、ボラも。

さて、一応本流は辿り終えましたが、前回も気になっていた学校脇から延びる支流、というのがあります。そちらも行っておくとしましょう。

 

Gapsiryu1

と、言いたかったのですが、上流端はたぶんこの先です。疲労と時間切れにより、先っちょまでいけませんでした・・・まぁ、いつもの自分なら無理やり行っていたのかもしれませんが、なんというか沖縄時間的になっていて。

Gapsiryu2

この支流は、道路を渡ったところから突如開渠になります。

Gapsiryu3

そして曲りながら家の間を抜けてきたと思ったら、

Gapsiryu4

いびつな暗渠に変わってわたしの心を鷲掴み。

Gapsiryu5

そこ、そこの隙間。

Gapsiryu6

さらにその下流は、上に旅館が載った旅館蓋。

Gapsiryu7

開渠に変化。
横のトタンがたまらない。

Gapsiryu8

橋跡。「新」だけが読めます。

Gapsiryu9

そしてチラチラ隙間をのぞかせながら、ほぼ暗渠でガーブ川本流へと合流していくのでした。

Hikawa
だいたいこんな感じです。樋川支流と仮名を付けておきましょう。
ふぅー、ガーブ川は支流もすごい!

さて、ゴハン(翌日だけど)。
仕事をすませ、残り時間を逆算しながら過ごし方を考えます・・・沖縄料理って結構近所でも食べられてしまうので、ここでしか食べられないような何かが良いな・・・
というわけで、ハンバーガーショップJEFに行くことにしました。

すると、行く途中の道の傍らにて。

Jef1

うわあぁぁあああぁああ。

Jef2

うひょぉぉ・・・

Jef3

うわ、木製ハシゴ式開渠?(ただし枯れてる)

Jef4

なんだこれ??

Jef5

そしてコンクリ柵のハシゴ式開渠となって下っていくようでした。

もう、ものすごい変なテンションになってしまいました。でも、ゴハンも食べたい。でも、これも辿りたい。うー、とりあえずゴハンを大急ぎで食べよう。

Jef

これこれ。JEFのぬーやるバーガー(ポークランチョンミートとゴーヤを卵でとじたものが具)、それからゴーヤリング。
いろいろと素朴で良かったです。

で、この店舗に向かう段になってやっと、気づいたのです。さっきの暗渠もガーブ川に流れ込む支流だということに!

この店舗は、ガーブ川本流の水上につくられた商店街が目と鼻の先。なので、さっさと食べて、支流の付け根に向かいます。

Siryu1

河口はたぶんここらへん。暗渠サインは乏しい。

Siryu2

ところが店の裏側にきたら、クッキリと。

Siryu3

横断んんん。

Siryu4

その先がすごかった。

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蓋上のカオス。

Siryu6

開渠がはさまる。

Siryu7

な、南国蓋。

Siryu8

何蓋なんだ・・・

Siryu9

ひー・・・

Siryu10

ここまで、一歩につき一枚撮ってるかんじです。

Siryu11

ふぅむ・・・良いなあココ。

Siryu12

そして暫く家々の間に埋もれ、遡れなくなって、再び出会えるのがさきほどのココでした。

Siryu14

まだ続きます。行けるところまで遡ってみましょう。

Siryu15

あっ早速隠れちゃった。
ここから上流もしばらく辿れなくなります。

Siryu16

なかなか、暗渠が見られる場所に入っていけません。やっと入れたと思ったらこんな感じで。ココ、崖下だったので上流端かもなあ、と思っています。

これ以上は時間がないこと、それから暑すぎたことにより、断念しました。断念と言っても、「まぁ、いいかぁ」というようなおおらかな気持ちで去れる、というのが、前日と共通する感覚でした。

Siryu17

よくわからない点もあったけれど、ガーブ川支流はあの低地のどこかを流れていたことでしょう。また縁があれば、きっと辿りに来ることができるでしょう・・・

Makisi

この支流は牧志で合流してくるので、牧志支流(仮)としておきます。

さて。ガーブ川。本流を辿りきれたと思ったら、今度は2つの優良な支流が出現し、その2つとも、上流端の詰めがなされないまま終わってしまいました。けれど詰められなくても、まぁそれはそれで、と終わりに出来る感覚を残しつつ。

また、来れるかな沖縄。来たら、また更なる良い暗渠に出逢えるかもしれないな・・・なかなか終わりきらない、沖縄の旅でした。

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暗渠クッキングその1 谷戸カレー

まずは、御礼。
2週連続で暗渠の絡むイベントに出させていただきました。スリバチナイト2にご参加くださったみなさまとUstで見てくださったみなさま、また、てくてく大学にご参加くださったみなさま、そして、スタッフおよび関係者のみなさま、どうもありがとうございました。
自分が何をしてきたのか、今後どうしたいのかということが確認でき、また、いろいろな方から良い刺激を得られる。そんな、収穫の多い2週間だったと思います。深く感謝いたします。

                        ***

さて、本編。
今回は暗渠を歩きません。暗渠クッキングです。
軍事クッキングは2回やりましたね。そのとき、暗渠系レシピも2つほど思いついてはいたのですが如何せん手間で。でも最近、お手軽な暗渠クッキングを思いついたので、実行した次第です。

それは、谷戸カレー。というもの。

世の中には「ダムカレー」なんてものがありますが、だったら「谷戸カレー」があったっていいじゃないか。
ふとそう思ったわけです。そうしたらあとは簡単。カレーをつくればいい。

以下、レシピです。

Yato1

カレーをつくります。

カレーはいつも適当です。このときはキーマカレーっぽいものにしました。ルーの他、ガラムマサラをたっぷり、他にも適当なスパイスをどさどさ入れました。
※これは、朝に前日拵えたカレーを温めなおしているところ。

Yato2

ごはんを盛ります。

この後の行程を考えると、インディカじゃないほうが良いでしょうね。わたしはもっぱらつや姫です。

Yato3

そうしたら、ごはんを台地にしてゆきます。

お店で出すわけじゃないので、手で成形してゆきました。ここで、なだらかな谷戸にするか、それとも高低差のスゴイ切り立ったものにするか、食する人の好みで変えていっていいと思います。
今回は、深大寺の青渭神社の下にある谷戸のような、くっきりしたものをイメージしています。

地層や、地域の特徴をあらわしたいときは混ぜご飯や雑穀米にするなど、台地のアレンジはいろいろできるでしょう。

Yato4

谷戸のかたちが出来たら、植樹していきます。

ブロッコリーとフリルレタスを使いました。この日はてくてく大学のある朝で、あまり時間的余裕がなかったため、とにかくボコボコと木を植えました。しかし、本当は時間をかけて、標高による植生の違いなどを示せたら良かったなあと思っています。
カイワレを一本一本植えたり、青海苔で雑草をあらわすなど、さまざまなパターンを試してみたいものです。湧水の上に神社の鳥居を置いたり、住宅で埋めるパターンもあるかもしれませんね。

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木を植え終わったら、カレーを谷間に流し込みます。

これで、谷戸カレーは完成。
わたしは、駒場の空川水源、一二郎池のようなイメージで、谷頭から湧きそして溜まる池、と思いながらカレーを配置したのですが、見る人によってはこのカレーも地面の層であるように見えているようです。

これが地面だとすると、流れ出す湧水を粉チーズや細く割いたチーズで表現していけば良かったか。うーん、そうすれば良かったかも。

ともあれ、

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鶴見川水源地帯に広がるリアル谷戸。

ほうら、目の前のカレーが、これに見えてきたでしょう?

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ちなみに、今回キーマカレー風にしたのには理由がありました。

「キーマにして、個体が小さい方がBODが低い、って感じがすると思ったのね。それで少しでも山からきれいな水が流れてるようにしたくて。」

と言ってみると、相方の顔にわかに掻き曇り、

「いや、BODはそういうことじゃないと思う。個体の大きさではなくて、分解にかかる酸素の量だから・・・」

キーマにする意味は無かったようです!

気を取り直し、さて実食。

のまえに、

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2皿ある場合には、谷戸どうしをこうやってくっつけてみましょう。

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尾根。

などと、少し遊べます。

さてやっと実食。

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「ここの谷戸はただいま造成中。」

うまいこと言われました。

モグモグ。ふつーにおいしかったです。ごちそうさまでした。

谷戸カレー。形状、地面、植物等々アレンジ自由自在。これはたのしみが広がった気がします。我が家はしばらく、カレーのときは谷戸カレー。と、なりそうです。

ちなみに過去記事で近いものとしては、

軍事クッキング 掩体壕オムライス

軍事クッキング 高射砲跡焼き

こんなのもつくってます(特に、掩体壕オムライスは記事を書くために茂原まで行っているので、未読の方は是非)。お試しあれ~。

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