だいたい、名前からして、かっこいい。
海神、だなんて。
駅名にもある「海神」は、むかしから路線図で見るたびにキュンとしていた地名。あまりにかっこいいので、近年できたものかと思っていたほどでした。
ところが意外に「海神」は古くからある名で、太古の人たちが海の平安と大漁を願い、この名をつけたのだといいます。日本武尊が「海から上がった神を祀るところ」とした、という説もあります。
海神周辺もまた古くから人が居たようではありますが、農地と塩田が多かったそうで。それが大正期に海神駅ができると次第に宅地化されてゆき、なかでも「海神山」と呼ばれる砂丘は、東京湾や富士山の見える風光明媚な高台であったため、軍人あるいは外国の武官・留学生などが多く住んだのだそうです。馬具や馬、サーベルのガチャガチャする音などがよく聞こえ、それゆえ「将軍山」と呼ばれることもあったとか。
そんな海神山は、昭和5年(8年説も有)には「海浜別荘地」として京成電鉄により分譲され始めます。周囲からみると、憧れの土地だったのかもしれません。
・・・さて、暗渠さんぽの舞台は、もちろん高台なんかではありません。その海神山の、麓が今回のメイン。城門川、です。
新船橋の南、海神の北。このあたりのおはなしです。google earthさんありがとうございます。
城門川の水源は、「飛谷津」にあります。
海神山(右岸)と反対に位置する隣の台地上(左岸)を、飛ノ台といいます。遺跡が有り、縄文時代から人が住んでいたことが明らかになっています。
この飛ノ台はおそらく飛谷津から影響を受けた名ではないかと思われ、「飛谷津」の指す意味は、トビ=ドブ=低湿地、と推測されています。実際、宅地となる前は一面の水田だったそうで、それは昭和23年の米軍撮影航空写真でも確かめられるようです。
それでは飛谷津の最深部までいってみましょう。
確認できる限りの上流端はココです。(この手前は、地割の感じも違います。)
蓋に沿って入ってゆくと、この位置で暗渠は太くなり、しかし入れなくなります。
自転車か何かが入れるようにと、手づくりの橋様のものが渡してあるんですがね・・・それを、さらに手づくりのフェンスで食い止めてあるのです。いったい何と何の攻防なのか・・・
入れないので、仕方なく、交叉してくる道路から城門川を眺めます。
いま、立っているところが盛土で高くなっていて、
道路を越えると、すんごい渓谷みたいに見えますが、これはおそらくほとんど盛土のせい。
それを証拠に、この一角を抜けると、
唐突に平坦になります。
矢印のあたりを、奥から城門川が流れてきて、右に曲がっていきます。
そして矢印の位置を下っていきます。歩道のように見えますが、先を見ると、ところどころ行く手をガードレールにふさがれています。この不自然さがまさに暗渠。非常に歩きにくいw
ここから暫く、城門川は鉄塔地帯の下を流れます。頭上も足元もたのしめる、というわけ。
おそらく右手の植込み=川跡で、ここで道路を斜め横断します。
ここで、もうひとつの支流が写真左方向から合流してくるようです。そちらに向かうと・・・
突如、マンションと海神中学校グラウンドとの間におおきな荒れ地が出現します。囲われていて入れませんでしたが、湿地のようにも見えます。
そこから乾いた川跡が延び、
畑の間をクランクで縫って、
そして鉄塔下に在る本流に合わさります。
この支流の方がむしろ、
開渠として地図には載っているのでした。googleさんありがとうございます。
さて本流はどうしているかというと、
ここでは鉄塔の下を通っているようなんですが、・・・ん、洗車場?
それは地元のタクシー会社の簡素な青空洗車場で、それで、どうも排水は真下の城門川に行くような・・・この大きな鉄板は暗渠蓋のような・・・きっと、少し前はもっとあからさまに開渠にドボドボだったのでは??
と、興奮もつかのま、普通の歩道になってコンビニの前を素知らぬ顔で通過、
したものの、わりと速効でそのお化粧は剥がれてしまい、奴さんスッピンは恥ずかしいとばかりに、そそくさと曲がって道路を再横断しようとします。
ちなみに再横断するあたりにピーターパンがあります。
もやさま船橋でも出てきた(クイニーアマンを自作していた)、船橋の有名パン屋さん。この日もやたらと大勢の人でにぎわっていました。駐車場も広く複数あって・・・大人気のようです。
ちょうどこの日、別な暗渠を辿ってから飛谷津にきて、若干疲れていたところ。何か食べようかな・・・というか、涼を求めて(暑い日でした)、店内に入り、パンを物色しました。でも(暑かったので)結局買わずに、サービスの麦茶だけ飲んで出てきてしまいました・・・ゴメンナサイ。後日、JR船橋駅ナカにある支店で、ちゃんとパン買って帰りましたよ!
ピーターパン以降は、道路沿いにしばし進みます。
こんな風にマイ橋跡を抱えながら。「公園と道路の間に水路があります」と書かれた文献もあるので、開渠時代はそう遠くないのかもしれない。
奥にチラリと見える公園は、海神蛇沼公園。旧小字で南沼ともいわれる場所です。
蛇沼という沼がかつてここにあったことは、江戸期の史料にも書かれています。
そしてその先、東武野田線の高架を潜った直後から、城門川の流路は複雑になってゆきます。

これまで、道路に沿っていたものが唐突に曲がります。右側の駐車場のアスファルトと川跡の境界線に、僅かに木の板が挟まっています。
そして未舗装暗渠となって家の間を抜け、
追っていくとまた鉄塔が出現。
砂利道で素朴に続きます。
そしてふたたび東武野田線の高架に向かいます。
しかもこんな入り方・・・まさかの左折です。川なのに鋭角なんですけど。
紅鉄板蓋が連なっていますが、紅いじゅうたんに見えてきます。
曲ったら高架下を数メートル進み(ここは妙にきれいなので近年までは開渠だったと予想)、
こんな変な溝を拵えた後、また直角に曲がって、
高架から出ていきます。
この屈曲部について、低地であるのにこんな風に河川が曲がる要因は無いこと、以降しばらく谷地形ができていないことなどが、自然河川らしくないと物議を醸しているようなのでした(後述)。
赤丸部分が屈曲部。
たしかに、その前後に比べてごにゃごにゃしている箇所です。そしてたしかに高低差が殆どない。それを証拠に、このあたりを辿るときはわたしも何度か気づかずに暗渠を逸れていました(気づかないほど、他の道も暗渠らしかった。後述するようにこれが灌漑用水なのだとしたら、もしかすると間違えたと思った道も用水路だったのかもしれない)。
その先、アスファルトの道路ではありますが、”ゆるアスファルトやや硬め”みたいな硬度となり、
こんどは京成本線のガードに突っ込んでいきます。
”京成線のところではレンガ積みトンネルが現役で残っている”、という記述が複数あるんです。だからそれを見られると思っていたのだけれど・・・、名所!と、楽しみにしていたけれど・・・、うぅ、新築の家に阻まれて見ることが出来ませんでした。。。以前、ここには家が建っていなかったということでしょうか。。
反対側も、レンガトンネルの期待を込めて見に行きましたが、此方も確認できず。恨めしや。
若干の失意を胸に下ります。右の道路が城門川。
カラリとした暗渠みちをすすんでゆき、

こんどは総武本線を越えます。・・・東武線を潜り、東葉高速鉄道の上を越え、再び東武線を潜って、京成線を潜り、JRへ。線路を跨ぐこと5回。
さすがに総武本線はぶっといですね。線路の向こう側、隙間があるのがわかるでしょうか。
地下道をまわり、そのあたりに向かうと、おっと、祠がありました。
いえ、正しくはその奥を流れていました。じっとりと。
と思ったのもつかのま、今度は千葉街道から分岐した道により分断されます。
回り込むと、似た感じで再開。こっち側は入れるようです。

すごい入っちゃいけない感ありますけどねw
でもここ、入れてよかったです。下流部のクライマックス、見どころの連続でした。

洗濯ものと植栽。ええ眺め。
縦置き。(他所で既に縦置きを見てはいたので慣れつつありましたが、縦置きってチバらしさでもあると思っていますw)
横から観察できるー。
・・・で、またしても阻まれる。今度は千葉街道です。

反対側の出口は法務局の敷地で、入れないので上から眺めます。
ここから、いろいろ合わさったり別れたり、開渠になったりと複雑な動きを見せますが、

流末は稲荷澪へ向かう、とされています。ここをこう下って、海に向かう・・・。
***
今回追うことができた城門川の暗渠は、概ねこのような流れ方をしていました。しかし、この川は、もともとは北流して長津川に合流していたのが、南に流路を変えられて稲荷澪に流れるようになった、と推測している人がいます。
ピンク色の方向がもともとの流れと推測されているものです。
船橋で精力的に活動をされている滝口氏による推測であり、なかなか説得力があります。
縄文海進でこの飛谷津の谷が海に沈んだとき、沿岸流が砂州を形成。それが今この辺りに名残る微高地であり、これにより飛谷津の開口部は北に変わったのではないか。
出口が砂州で塞がれた内側は、低湿地になった。それでも小河川はでき、北流していた。
前掲の航空写真の飛谷津内の水田は、城門川に沿って北に延び、そして、長津川の水田地帯へと連なっている。
さらに、小字も飛谷津から北に向かって「南沼」「北沼」「内田」と配列されている。
具体的には、前述しましたが東武の高架線以降がアヤシイ、ということです。その先が、飛谷津の排水と、南側低地の水田を潤すための人工河川ではないか、と。そしてある時期からは都市排水路となったのではないか、と。
寛政12年ころには、既に城門川は用水路として史料に登場しています。ただ残念ながら、開削に関する記録は見つかっていません。いっぽうで、(流路変更を想定しない)自然河川説を唱える人もいます。論争の決着は、ついてはいないようでした。
***
さて、ゴハン。今回はB食~。
船橋産B級グルメ、ソースラーメンなり。
ソースラーメンプロジェクトにのっかってみました。そして、レジェンド店大輦でベーシックなものをいただきました。なんとも不思議な響きのラーメンですが、食べてみるとほぼソース焼きそばの味、違和感のない味でした。食べやすかった。ただ、ハムカツは中濃ソースの方が合うな・・・。
プロジェクトに参加している、新しめの店の創作ラーメンたちも、気になっているところです。船橋の知人には別なラーメン屋さんや、喫茶店のナポなども勧めてもらったので・・・コリャもっともっと麺類を食べにゆかねばなりませんね。
***
城門川。そのほとんどが「海神」の中だけを通る川でした。
兎に角いろんな線路・道路を潜りまくる暗渠。
壮大なコの字ウォークの連続。
人工か?自然か?そんなことにも思いを馳せながら、いつもより感覚を研ぎ澄ませて微地形を歩くにも、おススメの一本です。
<文献>
「船橋の地名」 第12巻3号
「西海神小学校創立五十周年記念誌 ひとみ輝く西海の子」
滝口昭二 「本海川」と「城門川」 史談会報第23号
長谷川芳夫 滝口昭二氏の本海川人造説について 史談会報第24号
最近のコメント