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神田川黄金事件

杉並新聞からまたひとつ、掘り出したことを書きたくなりました。
川と、昭和のひとびとの間に起きる「事件」はじつにわたしを惹きつけるものばかりで、興味が尽きることがありません。
そんなわけでこれからは、杉並新聞「昭和の事件」シリーズ、というのもたまにやっていこうかと思っています(カテゴリ化しようかな)。語り口調は最初のものに合わせて、ふだんとちょっと変えて。

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今回みなさまをいざなうのは、昭和31年の世界。
やはり、川のほとりの、ちいさな世界に。

珍妙な事件が神田川沿いで起きていた。

舞台は、だいたいここらへん。杉並は浜田山あたりである。

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現在は、閑静な住宅街に挟まれた道路。開発されて間もないPークシティ浜田山の裏、ほかにも真新しい感じの公園や建物が目につく。

当時はこの道路の位置に、神田川から取水された小川(新聞の表記では「区用水」)が流れていた。

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付近にはまだ田圃があったため、小川はその用水路としてはたらいていた。
左手に見えるのは、神田川が削った崖線。その麓を小川がさらさらとはしる。

崖線の景観を利用した邸宅がこの地にもかつてあり、現在は跡地を活用して柏の宮公園などになっている。いまよりもずっと、緑と水に満たされたエリアであった。

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              東京時層地図よりキャプチャ。昭和30年前後の付近。

この地図を見ると、神田川が流れ、そのやや北に用水路が流れている。用水路のすぐ北には三井不動産運動場があり、ここは三井グランドとも呼ばれていた。
また、三井グランドの隣には、中央に橋の架かる瓢箪型の池も認められる。この池は、まさに崖線の下に位置している。

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うれしいことに、その池跡は現存していた。釣堀になっていたこともあるそうだ。

訪問時は枯れていたが、説明板を見ると、時期によっては水を入れているように思わせる。かつては、崖線から湧く水でまかなわれていたのだろう。

閑静な。うつくしい自然。水と緑。そんな清潔感を伴う印象の地である。

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さて、この地に起きた事件の話に移ろう。

昭和30年6月頃から、たびたび、この用水路に変化が起きた。
杉並新聞の記述をそのまま拾えば、ある人物のせいで、

”用水はたちまち2000mにわたり黄金色の流れと化した”

と書かれている。黄金列車とか、東京女子大から善福寺川に黄金が流れ込んだとか、この頃書かれたものを見ると概ね黄金という表現がなされているが、

Nausika                       ©スタジオジブリ

なじみの薄いわたしはまずこういうものを思い浮かべてしまうが、そういうことではないのだ。

屎尿ですよ糞尿ですよウンコなんですよ。
水路に大量の屎尿が流され、汚水が流れ込んだ養魚場の鯉が死ぬという事件が起きていたのだった。しかも、数百匹という単位である。
養魚場にとっても迷惑な話だが、いま見たような清潔暗渠が延々と糞尿まみれになっている、というのは実におそろしい光景だ。当時、民家がよほど少ないエリアだったとはいえ・・・。

ともかく最も困惑したのは、その水路の流れ込んでくる養魚場経営者であった。
下高井戸に住む、A藤さんという人物だ。たびたび屎尿が流れこんでは商品が死んでしまうので、A藤のおやじさんは見張りをして犯人をとっつかまえることにした。

とはいえ働きながらのA藤さんひとりでは、そうなかなか見張りばかりもできない。やがてA藤家の子どもも動員されて、見張りは続けられた。
そもそも、投げ込まれる位置だってわからない。どうもタイミングが悪く、糞尿は数回にわたり流され続けてしまう。

あるときなど、子どもが待ちくたびれて居眠りをしているときに、やられてしまった。その時は「親子げんかをしたくらいだ。」と、新聞記事には書いてある。なにしろ、A藤家にとっては死活問題である。父親は子どもを、烈火のごとく叱ったに違いない。子どもだって、こんな役目をしたくはないこと、頑張ったけど限界が来て眠ってしまったこと、きっと泣きわめきながら必死に対抗したに違いない。

・・・A藤家は、じつによく頑張った。

ついに、犯人が見つかったのだ。

犯人はそれほど意外な人物ではなく、清掃事業所の従業員であった。
屎尿を載せたトラックを、「神田三崎町の処理場」に運んでいくのが、彼の行くべき正規のルートだった、という。

神田三崎町・・・

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おそらく、ここのことだろう。
写真は神田川クルーズをした際に、川側から撮ったもの。現在は「三崎町中継所」、文京区・千代田区・台東区の不燃ごみを積み替え、船に乗せて運ぶ場所だ。ドワァー!と落下するごみに目を奪われる、神田川の名所のひとつである。
昭和6年からあるというここは、当時も健在。そして、当時は杉並の屎尿もここに集まってきていたということになる。

それでは、犯人の足跡を追ってみよう。スタートはここだ。

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国学院久我山高校。

当時の表記では「久我山高校」だ。ここで犯人は定期的に、業務である屎尿の汲み上げを行う。
記事内では、その量「糞尿200樽分40石」となっている。表現が古すぎてよくわからないが、まあ、多そうだなあ、とは思える量だ。

犯人はこれを、神田三崎町まで運ぶのが面倒になってしまったそうなのだ。
まあたしかに、久我山からあそこ(水道橋付近)までというのは遠いような気はする。そもそも神田川の上流下流の関係にあるのだから、「このまま最初から船で流せたらよいのに」と、わたしだったら思うかもしれない(彼もそういう思いで川に流したのかどうかは、知らない)。

まあともかく、犯人はある程度は久我山高校の屎尿を運ぶ努力をしている。久我山高校を出、

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玉川上水の脇の道と、久我山駅に向かう道が交叉するところ(ちなみにこの更地はかつて銭湯があった場所)。

犯人はここを左折したか、あるいは直進したか。

そう、久我山高校からもっとも近い水路といえば、玉川上水でなのある。当時は上水道として現役のはず、さすがに上水に汚物を捨てるほどの悪人ではなかったということか。

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久我山の駅まで歩いてみる。さきほど「犯人の足跡を追ってみよう」と言ったばかりだが、判然としない「足跡」よりも、暗渠を歩き始めたくなったので、路線変更をして暗渠をゆこう。

ここは、件の用水路の取水地点。いかにもあげ堀な風景が広がっている。

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            東京時層地図からキャプチャ。富士見ヶ丘駅近辺。

事件の舞台になった用水路は、富士見ヶ丘駅前において、神田川から分岐する。

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そして神田川に沿って、井の頭線の周囲を蛇行しながら流れ下る。
ここは歩道になっているが、広めの歩道と車止めに暗渠らしさがのこっている。

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井の頭線を渡るところ、よく見れば暗渠の幅だけ柵がある。

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井の頭線から見える、ゴルフ学校の脇も流れている。

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ここから、景色が好みの感じになってくる。

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いい裏道感。

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ここで広い道路と合流、まだまだ用水路は下る。

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さてと、最初に掲げた事件現場付近に戻ってきた。三井グランド跡地裏だ。

このあたりで、犯人は積荷を下ろす。まったく、あの距離の短い井の頭線の駅3つぶんほどで、犯人は「運ぶのもうイヤ!」になってしまったというわけだ。
神田三崎町までの往復を考えると、なかなかの時間を犯人は浮かせられたことになる。その時間をどうつぶしたか、なんてことも、おもわず妄想してしまう。

ちょうど某野菜屋さんのトラックが止まっている。このトラックを黄金トラックに置き換えて、想像してみてほしい。犯人はここで、高校生の糞尿200樽分を、傍らを流れる用水路に「投げ込んだ」。

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                     東京時層地図からキャプチャ(以下同)。

投げ込まれたそれは水の流れに身を任せ、

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ここに到達する。
黄色の丸で囲った部分を見てほしい。用水路は、この四角い池=養魚場を流末としていることがわかる。つまり、捨てられた屎尿は、全力でここに流れ込んできてしまうのだ。

記述によれば約265貫の鯉が死亡した、のだそうだ。
貫・・・またしても聞きなれない単位が出てきたが、1貫 =  3.75kg である。なんだか大量の鯉が死んでしまったことがわかる。

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養魚場跡の現在はこう。マンションになっている。

何度も何度も鯉が死んだ、悲運の養魚場。その後いつまで存在していたかというと、

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バブル期もまだそこにあった。

そう、子どもまで動員して見張りをおこない、犯人確保までこぎつけるほどの根性の持ち主であったA藤さんは、わりと最近までこの地で稼業を続けていたというわけ。

ふと思いついて、1970年代のゼンリン住宅地図を開いてみた。すると、やはりまだそこには養魚場然とした区画があり、しっかりと「A藤養魚場」と書かれていた。池も5つに増えており、A藤氏のやり手具合を再び感じてしまう。両サイドに駐車場も持ち・・・今ではもう養魚場の名残はないが、A藤氏の子孫はもしかしたら今でも、何かを上手に経営して、この地に暮らしているのではないか。

<後日追記>
この記事の掲載直後に、リバーサイドさんからこの養魚場に関する情報をいただきました。

Turi

とのこと。リバーサイドさん、どうもありがとうございました。

ところで、この近辺で養魚場、というと、どうしてもこっちを思い浮かべてしまう。

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永福町と明大前の間、明治大学の斜向かいあたりにあった、これである。古地図を眺めていると、嫌でも気になる大きな大きな養魚池だ。

記事には屎尿は「2000m流れた」と書いてあった。じつは、上述の下高井戸のA養魚場は、三井グランド裏からはわずか500mほど。そしてこっちの養魚場は約2000mの距離。
つまり杉並新聞の記者もその事件を聞いてまっさきに永福町のこちらを思い浮かべたのではあるまいか。

念のためこちらの養魚池の現在も載せておこう。

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神田川沿い、大きな池を埋めた区画に、今は家が並んでいる。
ここの住所は永福町であり記事内のA藤さん宅の住所からは不自然に遠いこと、前掲の地図からわかるように、件の用水路はこの養魚池までは至らないこと。なにより、ゼンリン情報との一致からも、事件の養魚場がここである可能性は著しく低いと思われる。

すなわち、わたしの結論では、その事件の舞台はここではない。なんだろう、誰にどう報告したらいいのかよくわからないが、平成も26年に入ったところで、昭和31年の新聞記事の間違いを見つけてしまったわけだ。
注:厳密にいえば、元記事内では現場を「三井グランド裏」と特定はしていない。三井グランド裏を流れる小川、という表記にすぎない。しかし、件の用水路と、車道が交わる場所は古地図で数えてみると僅か8か所ほど。うちほとんどが、駅前や民家の前であったり、人通りが比較的ありそうだった。わたしが本記事で想定している場所は用水路沿いに狭い道が延びる民家の無い場所であり、もっとも犯行に使われた可能性が高いと思われたため、そこと断定したかたちで書かせていただいた。

・・・そんなことは、いいんだけど。

じつはこの黄金事件の記事が、わたしは杉並新聞のなかでもかなり好きなのだ。
記事のストックを見、この「親子げんかをしたくらいだ」のくだりを読むたび、どんな気分の時でもおもわず声をたてて笑ってしまう。泣きじゃくる坊主頭の少年を思い浮かべては、わずか数キロで糞尿を運ぶのをやめてしまう、とぼけた犯人を思い浮かべては、そのなんともいえない、事件のうしろの平和さのようなものに、こころが緩んでしまうのだ。

すべて勝手な推測で書かれたA藤家のこと。実際はぜんぜん、違うかもしれない。
でももしかしたら今でも、おじいちゃんの思い出話として、A藤家で酒の肴になっているかもしれない。
ただの道路の、地面の下に、もしかしたらこんなできごとがあったかもしれない。杉並の昭和は、わたしたちのすぐそこにある。

<参考文献>
杉並新聞第407号(昭和31年1月19日発行)

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コメント

僕は天気のいい日に神田川の支流跡を歩きました。川から分かれてる支流は暗渠化され、残念ながら見ることは出来ません。生活排水を支流又は分流に流し込んだのが原因で蓋をされ、支流又は分流は全く見ることが出来ないのです。歩くたびにマンホールから流れる水の音が聞こえます。小沢川、桃園川は暗渠となってるので見ることが出来ないのです。

投稿: タクロウ | 2020年5月 9日 (土) 12時58分

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