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2014年3月

狸蕎麦でたぬきそばをたぐる

蕎麦窪で蕎麦をたぐる」という記事を覚えていらっしゃるでしょうか。

江戸のころの地名”蕎麦窪”に行き、ここらへんで蕎麦が採れたんだね、なんて思いながら蕎麦をたぐってきましたら、”蕎麦”窪ではなく”(青梅街道の)傍”窪だった、という悲しき結末の記事を。
・・・案外、当て字であることもある、食べ物地名。

今回はなかばリベンジ的意味合いで、蕎麦窪記事の最後で触れた、ココに行きたいと思います。

もうひとつ、蕎麦がらみで今やりたいと思っていることは、古川沿いの”狸蕎麦”という旧地名の場所(狸橋付近)で、たぬきそばを食べること。

これですよ、やっとこさ。江戸地名”狸蕎麦”に、”たぬきそば”を食しにまいろうではありませんか。

・・・それにしても、”狸蕎麦”なんていう地名、ほんとにアリ?

Tanukisoba             「今昔地図」の「江戸」よりキャプチャ。天現寺橋近辺。

アリなんです。しっかりと狸蕎麦って書いてありますね。どのあたりのことかというと、

Tanukisobanow                   「今昔地図」の「現代」よりキャプチャ

現在はこんなです。港区白金。地名的には、広尾とか恵比寿とか元麻布とかに囲まれて。とうてい、狸さんとは無縁そうな場所。

最初に狸蕎麦という地名を知ったのは、「港区近代沿革図集」をぱらぱらとめくっていたときのことでした。

子どもを背負い、手ぬぐいをかむったおかみさんに、そばを売った代金が、翌朝見ると木の葉だった。誰いうとなく狸そばと呼び、評判だった。そばやの屋号が里俗地名となったものか。

こんなことが書かれていて。
麻布七不思議のひとつともいわれており、「七不思議」も、このへんてこな地名のつけられ方も、じつにわたしの気を惹くものでした。

しかし、麻布区史にある「七不思議」の項をみてみると、麻布七不思議なるものはあるけれど、書物により異なり、合計すると二十五~六不思議にはなるのだ、ということでして。狸蕎麦についても安定的に登場するわけではなく、しかも、文献により場所が異なっているのです。
山口義三「東都新繁昌記」では「古川の狸蕎麦」。
平山鑑三郎「東京風俗志」では「狸穴の狸蕎麦」といったぐあいに。

・・・はてさて。

まずは、狸穴の狸蕎麦に関する記述を見てみましょう。まみあな。まみは、魔魅なんて書くこともありますね。狸穴も、あやしくて好きな土地。
なんでも、狸穴下に蕎麦屋があったそうです。その名を”作兵衛そば”といい、色の黒い純粋なる生そばを提供し、好評であったけれども、いつしか廃業。大奥を荒らした狸穴の古狸が侍に討ち取られ、その霊を作兵衛さんが屋敷内に奉納したから、その名になったとか、とか。

一方、古川の狸蕎麦は、古川に架かる狸橋の近くにありました。というかむしろ逆で、狸橋が、近くにあった狸蕎麦屋にちなんで名づけられた、とされています。こちらのほうに、代金が木の葉云々の話がくっついてきます。
もうひとつ、狸塚があったとするものもあり、前述の狸穴の古狸がこのあたりに葬られたのではないか、と推測する人もいます。たしかに、狸塚は広尾にあったとする記述もあり、江戸期のここらへんは”廣尾原”。そう、前掲の古地図の地名”狸蕎麦”はちょうど廣尾原と隣接していて、この古川の狸蕎麦のことを指しているようです。

つまり、後者が地名としての狸蕎麦(蕎麦屋もあるが)。前者は蕎麦屋の屋号のみ、ということ?

・・・しかし、この2つの古狸伝説の地、地図にプロットしてみると、案外とおい。

Nikasho                 「今昔地図」の「現代」に、2箇所をプロット

なぜ狸穴の狸を、こんなにこっちまで埋葬しに来るのか・・・本当に、同一の古狸の塚なのか?と詰め寄られてしまえば、オドオドしてしまうだろうけれど、ともかく、港区もこの「古川」のあたりに狸塚があった、と言っています。そばを売った代金が木の葉になっていた、なんて伝承もおもしろいけれど、これは後付け、、、ぽいな。

それにしても。蕎麦屋さんが及ぼした、地名、橋名、そして七不思議伝説への影響。おもしろい。若干うさんくさいところもあれど、おもしろいから、これはこれでイイんです。

さて、2つの蕎麦屋さんが出てきましたが、わたしが行きたいと言っていたのは、古川の狸蕎麦。近くに行ってみましょう。

Tanukihasi               狸塚があって、狸蕎麦。狸蕎麦があって、狸橋

存在感のある、天現寺橋より一本下流に。ひっそりとちいさく狸橋はありました。
そして狸橋の由来の書かれた石碑もありました。狸蕎麦屋の話と、狸塚のことが触れられています。

よりによって、強風の日にわたしは狸橋に来てしまいました。ここで風に煽られ、持っていた赤い折りたたみ傘がべっこり裏返り、おじゃんになってしまいました。雨に濡れ濡れ、散策。

この狸橋のたもと(南西といわれます)の蕎麦屋さんは明治期まであり、福沢諭吉がよく食べに来ていたそうです(ただし、この蕎麦屋さんが江戸の狸蕎麦と同一かは不明)。
そしてこの蕎麦屋さん、水車経営権も持っていた、といいます。古地図を見てみると、たしかに、ここには水車がありました。

Bunmei             東京時層地図(文明開化期)よりキャプチャ。「水車」と手書き

周囲にはまだ田圃や畑がいちめんにあって、古川やその支流が田圃を潤していて、ぎったんばったんと水車が廻る・・・この地図からはそんな時代の白金が読み取れます。福沢諭吉は、その長閑な風景をとても気に入り、水車の権利ごと土地を買い取りました。明治12年のこと。

そして別荘を建て(広尾別邸)、この”狸蕎麦水車”は米搗き水車として利益を生み出し、慶應の経費の足しになっていたそうなのです。

Mowari           東京時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ。水車マークはまだある

ちなみに狸蕎麦水車を廻していた水流は、三田用水白金(または白金村)分水。メダカ、タナゴ、エビなどが泳ぐ、つめたく清冽な流れであった、という回想が残っています。その後、狸蕎麦水車は米ではなく、薬種細末を搗くようになります。・・・現在、北里があることと関係するでしょうか。

Goryuko

たしかに、狸橋から下流側を見ると、白金分水暗渠の合流口がぽっかりと在りました。

地図でこのへんをながめていると、明治~昭和初期まで、広尾別邸内に立派な池があることも、気になります。        

Showasho         東京時層地図(昭和初期)よりキャプチャ。宅地が増えるも、池と湿地は残る

この池は湧水池であったそうで、諭吉の四男がのちに、池に船をうかべて遊んだ、などと語っています。ずいぶん、水の豊かな場所だったんだろうなあ。

広尾別邸はいま、慶應の幼稚舎となっています(昭和初期の地図にすでに登場していますね)

Youchishas

               東京時層地図(バブル期)よりキャプチャ

いまの地図を見てみると、古川の上も首都高で覆われてしまい、僅かに姿を現す古川(それもなんだか道路のように見えてしまう)以外、むかしの自然物はなにも残っていないように見えます。

Yochisha

江戸期の地図で示された”狸蕎麦”は、現在殆ど幼稚舎の敷地に飲み込まれているようで、当然敷地内には入れないため、歩道橋からながめます。

右手の木々のむこう、幼稚舎の建物がそびえていました。福沢諭吉が気に入った風景のうち、いまも残っているのはおそらく、古川だけでしょう。その古川さえ、現在はまったく異なる姿であるでしょう。それでも、想像します。明治のころ、ここにはどんなにすてきな自然が広がっていたか。

そして、この木立の奥に、むかしむかし、”狸蕎麦”があった・・・

                        ***

さて、おそば。
きょうは、絶対に狸蕎麦。

固い意思のもとに、白金のまちを歩きます。
福沢諭吉とおなじ狸蕎麦屋で食べることは、もちろんかなわない。せめて最も近いところを、と選んで、やってまいりました。
白金商店街(ここは古くてよい商店街ですね)には、何店舗か蕎麦屋さんがあります。更科川志満という、とても渋いお店もwebに載っていたのですが、見つからず。現役店でも、必ずしも”たぬき”があるとは限らないので、入念にチェックです。

選ばれたのは、手打ちそば佶更

オサレ系。存在感ある木のカウンター。
少量の肴をつまみつつ呑んで、〆にもりそば、的な店と言えましょう。時間をランチからずらしたので、他の客は一組。60代と思しき夫婦(たぶん常連)が、ゆったりとお食事をたのしんでいました。

ふだんは、たぬきそばって殆ど頼まないのだけど・・・きょうは、躊躇なく。

さーて、そばがやってきた!

Tanuki

お上品~。そして、女性的な味わい。古狸さん、メスだったのかもしれない、なんて思えてきます。

この佶更、じつは前述の白金分水が掠っているような位置でした。

Bunmei_2

                   時層地図(文明開化期)、再掲

さきほどから載せている、時層地図たちの現在位置を示す青い点は、じつはお蕎麦屋さんのものだったのでした。
たぬきそばもよかったけれど、すぐそこにエビが舞っていたかも、なんて思いながら、桜エビのかき揚げでいっぺえ、なんてのもオツかもしれません。

これでやっと、蕎麦屋さん由来の土地で、そばを食べたぞ。蕎麦が採れてはいないけど。

ところで今回、地産地消にこだわるあまり、結果的に暗渠があまり関係なかったことに、お気づきでしょうか。それに、わたしは今回、すべての”狸蕎麦”関連の土地をめぐったわけでもないことに。

・・・さてさて次は、狸穴の蕎麦屋さんを探さないと。

<参考文献等>
・「麻布區史」
・「近代沿革図集」
・Deep Azabu(web)
・三田評論2010年11月号(web)
・港区公式HP(web)
(割愛しますが、白金分水については梶山さん、庵魚堂さん、HONDAさん、lotus62さんなどが書かれており、護岸工事前の古い合流口をしのぶことができます。)

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神田川黄金事件

杉並新聞からまたひとつ、掘り出したことを書きたくなりました。
川と、昭和のひとびとの間に起きる「事件」はじつにわたしを惹きつけるものばかりで、興味が尽きることがありません。
そんなわけでこれからは、杉並新聞「昭和の事件」シリーズ、というのもたまにやっていこうかと思っています(カテゴリ化しようかな)。語り口調は最初のものに合わせて、ふだんとちょっと変えて。

                        ***

今回みなさまをいざなうのは、昭和31年の世界。
やはり、川のほとりの、ちいさな世界に。

珍妙な事件が神田川沿いで起きていた。

舞台は、だいたいここらへん。杉並は浜田山あたりである。

Ogn1

現在は、閑静な住宅街に挟まれた道路。開発されて間もないPークシティ浜田山の裏、ほかにも真新しい感じの公園や建物が目につく。

当時はこの道路の位置に、神田川から取水された小川(新聞の表記では「区用水」)が流れていた。

Ogn2

付近にはまだ田圃があったため、小川はその用水路としてはたらいていた。
左手に見えるのは、神田川が削った崖線。その麓を小川がさらさらとはしる。

崖線の景観を利用した邸宅がこの地にもかつてあり、現在は跡地を活用して柏の宮公園などになっている。いまよりもずっと、緑と水に満たされたエリアであった。

Mitsuiura

              東京時層地図よりキャプチャ。昭和30年前後の付近。

この地図を見ると、神田川が流れ、そのやや北に用水路が流れている。用水路のすぐ北には三井不動産運動場があり、ここは三井グランドとも呼ばれていた。
また、三井グランドの隣には、中央に橋の架かる瓢箪型の池も認められる。この池は、まさに崖線の下に位置している。

Ogn3_2

うれしいことに、その池跡は現存していた。釣堀になっていたこともあるそうだ。

訪問時は枯れていたが、説明板を見ると、時期によっては水を入れているように思わせる。かつては、崖線から湧く水でまかなわれていたのだろう。

閑静な。うつくしい自然。水と緑。そんな清潔感を伴う印象の地である。

                        ***

さて、この地に起きた事件の話に移ろう。

昭和30年6月頃から、たびたび、この用水路に変化が起きた。
杉並新聞の記述をそのまま拾えば、ある人物のせいで、

”用水はたちまち2000mにわたり黄金色の流れと化した”

と書かれている。黄金列車とか、東京女子大から善福寺川に黄金が流れ込んだとか、この頃書かれたものを見ると概ね黄金という表現がなされているが、

Nausika                       ©スタジオジブリ

なじみの薄いわたしはまずこういうものを思い浮かべてしまうが、そういうことではないのだ。

屎尿ですよ糞尿ですよウンコなんですよ。
水路に大量の屎尿が流され、汚水が流れ込んだ養魚場の鯉が死ぬという事件が起きていたのだった。しかも、数百匹という単位である。
養魚場にとっても迷惑な話だが、いま見たような清潔暗渠が延々と糞尿まみれになっている、というのは実におそろしい光景だ。当時、民家がよほど少ないエリアだったとはいえ・・・。

ともかく最も困惑したのは、その水路の流れ込んでくる養魚場経営者であった。
下高井戸に住む、A藤さんという人物だ。たびたび屎尿が流れこんでは商品が死んでしまうので、A藤のおやじさんは見張りをして犯人をとっつかまえることにした。

とはいえ働きながらのA藤さんひとりでは、そうなかなか見張りばかりもできない。やがてA藤家の子どもも動員されて、見張りは続けられた。
そもそも、投げ込まれる位置だってわからない。どうもタイミングが悪く、糞尿は数回にわたり流され続けてしまう。

あるときなど、子どもが待ちくたびれて居眠りをしているときに、やられてしまった。その時は「親子げんかをしたくらいだ。」と、新聞記事には書いてある。なにしろ、A藤家にとっては死活問題である。父親は子どもを、烈火のごとく叱ったに違いない。子どもだって、こんな役目をしたくはないこと、頑張ったけど限界が来て眠ってしまったこと、きっと泣きわめきながら必死に対抗したに違いない。

・・・A藤家は、じつによく頑張った。

ついに、犯人が見つかったのだ。

犯人はそれほど意外な人物ではなく、清掃事業所の従業員であった。
屎尿を載せたトラックを、「神田三崎町の処理場」に運んでいくのが、彼の行くべき正規のルートだった、という。

神田三崎町・・・

Chukeijo

おそらく、ここのことだろう。
写真は神田川クルーズをした際に、川側から撮ったもの。現在は「三崎町中継所」、文京区・千代田区・台東区の不燃ごみを積み替え、船に乗せて運ぶ場所だ。ドワァー!と落下するごみに目を奪われる、神田川の名所のひとつである。
昭和6年からあるというここは、当時も健在。そして、当時は杉並の屎尿もここに集まってきていたということになる。

それでは、犯人の足跡を追ってみよう。スタートはここだ。

Ogn4

国学院久我山高校。

当時の表記では「久我山高校」だ。ここで犯人は定期的に、業務である屎尿の汲み上げを行う。
記事内では、その量「糞尿200樽分40石」となっている。表現が古すぎてよくわからないが、まあ、多そうだなあ、とは思える量だ。

犯人はこれを、神田三崎町まで運ぶのが面倒になってしまったそうなのだ。
まあたしかに、久我山からあそこ(水道橋付近)までというのは遠いような気はする。そもそも神田川の上流下流の関係にあるのだから、「このまま最初から船で流せたらよいのに」と、わたしだったら思うかもしれない(彼もそういう思いで川に流したのかどうかは、知らない)。

まあともかく、犯人はある程度は久我山高校の屎尿を運ぶ努力をしている。久我山高校を出、

Ogn5

玉川上水の脇の道と、久我山駅に向かう道が交叉するところ(ちなみにこの更地はかつて銭湯があった場所)。

犯人はここを左折したか、あるいは直進したか。

そう、久我山高校からもっとも近い水路といえば、玉川上水でなのある。当時は上水道として現役のはず、さすがに上水に汚物を捨てるほどの悪人ではなかったということか。

Ogn6_2

久我山の駅まで歩いてみる。さきほど「犯人の足跡を追ってみよう」と言ったばかりだが、判然としない「足跡」よりも、暗渠を歩き始めたくなったので、路線変更をして暗渠をゆこう。

ここは、件の用水路の取水地点。いかにもあげ堀な風景が広がっている。

Agebori_2

            東京時層地図からキャプチャ。富士見ヶ丘駅近辺。

事件の舞台になった用水路は、富士見ヶ丘駅前において、神田川から分岐する。

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そして神田川に沿って、井の頭線の周囲を蛇行しながら流れ下る。
ここは歩道になっているが、広めの歩道と車止めに暗渠らしさがのこっている。

Ogn8

井の頭線を渡るところ、よく見れば暗渠の幅だけ柵がある。

Ogn9

井の頭線から見える、ゴルフ学校の脇も流れている。

Ogn10

ここから、景色が好みの感じになってくる。

Ogn11

いい裏道感。

Ogn12

ここで広い道路と合流、まだまだ用水路は下る。

Ogn13

さてと、最初に掲げた事件現場付近に戻ってきた。三井グランド跡地裏だ。

このあたりで、犯人は積荷を下ろす。まったく、あの距離の短い井の頭線の駅3つぶんほどで、犯人は「運ぶのもうイヤ!」になってしまったというわけだ。
神田三崎町までの往復を考えると、なかなかの時間を犯人は浮かせられたことになる。その時間をどうつぶしたか、なんてことも、おもわず妄想してしまう。

ちょうど某野菜屋さんのトラックが止まっている。このトラックを黄金トラックに置き換えて、想像してみてほしい。犯人はここで、高校生の糞尿200樽分を、傍らを流れる用水路に「投げ込んだ」。

Mitsuiura_2

                     東京時層地図からキャプチャ(以下同)。

投げ込まれたそれは水の流れに身を任せ、

Ike1

ここに到達する。
黄色の丸で囲った部分を見てほしい。用水路は、この四角い池=養魚場を流末としていることがわかる。つまり、捨てられた屎尿は、全力でここに流れ込んできてしまうのだ。

記述によれば約265貫の鯉が死亡した、のだそうだ。
貫・・・またしても聞きなれない単位が出てきたが、1貫 =  3.75kg である。なんだか大量の鯉が死んでしまったことがわかる。

Ogn14

養魚場跡の現在はこう。マンションになっている。

何度も何度も鯉が死んだ、悲運の養魚場。その後いつまで存在していたかというと、

Ike2

バブル期もまだそこにあった。

そう、子どもまで動員して見張りをおこない、犯人確保までこぎつけるほどの根性の持ち主であったA藤さんは、わりと最近までこの地で稼業を続けていたというわけ。

ふと思いついて、1970年代のゼンリン住宅地図を開いてみた。すると、やはりまだそこには養魚場然とした区画があり、しっかりと「A藤養魚場」と書かれていた。池も5つに増えており、A藤氏のやり手具合を再び感じてしまう。両サイドに駐車場も持ち・・・今ではもう養魚場の名残はないが、A藤氏の子孫はもしかしたら今でも、何かを上手に経営して、この地に暮らしているのではないか。

<後日追記>
この記事の掲載直後に、リバーサイドさんからこの養魚場に関する情報をいただきました。

Turi

とのこと。リバーサイドさん、どうもありがとうございました。

ところで、この近辺で養魚場、というと、どうしてもこっちを思い浮かべてしまう。

Ike3_2

永福町と明大前の間、明治大学の斜向かいあたりにあった、これである。古地図を眺めていると、嫌でも気になる大きな大きな養魚池だ。

記事には屎尿は「2000m流れた」と書いてあった。じつは、上述の下高井戸のA養魚場は、三井グランド裏からはわずか500mほど。そしてこっちの養魚場は約2000mの距離。
つまり杉並新聞の記者もその事件を聞いてまっさきに永福町のこちらを思い浮かべたのではあるまいか。

念のためこちらの養魚池の現在も載せておこう。

Yogyojouato

神田川沿い、大きな池を埋めた区画に、今は家が並んでいる。
ここの住所は永福町であり記事内のA藤さん宅の住所からは不自然に遠いこと、前掲の地図からわかるように、件の用水路はこの養魚池までは至らないこと。なにより、ゼンリン情報との一致からも、事件の養魚場がここである可能性は著しく低いと思われる。

すなわち、わたしの結論では、その事件の舞台はここではない。なんだろう、誰にどう報告したらいいのかよくわからないが、平成も26年に入ったところで、昭和31年の新聞記事の間違いを見つけてしまったわけだ。
注:厳密にいえば、元記事内では現場を「三井グランド裏」と特定はしていない。三井グランド裏を流れる小川、という表記にすぎない。しかし、件の用水路と、車道が交わる場所は古地図で数えてみると僅か8か所ほど。うちほとんどが、駅前や民家の前であったり、人通りが比較的ありそうだった。わたしが本記事で想定している場所は用水路沿いに狭い道が延びる民家の無い場所であり、もっとも犯行に使われた可能性が高いと思われたため、そこと断定したかたちで書かせていただいた。

・・・そんなことは、いいんだけど。

じつはこの黄金事件の記事が、わたしは杉並新聞のなかでもかなり好きなのだ。
記事のストックを見、この「親子げんかをしたくらいだ」のくだりを読むたび、どんな気分の時でもおもわず声をたてて笑ってしまう。泣きじゃくる坊主頭の少年を思い浮かべては、わずか数キロで糞尿を運ぶのをやめてしまう、とぼけた犯人を思い浮かべては、そのなんともいえない、事件のうしろの平和さのようなものに、こころが緩んでしまうのだ。

すべて勝手な推測で書かれたA藤家のこと。実際はぜんぜん、違うかもしれない。
でももしかしたら今でも、おじいちゃんの思い出話として、A藤家で酒の肴になっているかもしれない。
ただの道路の、地面の下に、もしかしたらこんなできごとがあったかもしれない。杉並の昭和は、わたしたちのすぐそこにある。

<参考文献>
杉並新聞第407号(昭和31年1月19日発行)

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