アジヤソウのひとびと
アジヤソウ。
あじや草?鯵や、そう・・・?なんだかふしぎな響きの単語。
・・・アジヤ荘。そんな名の建物が、むかし杉並にあった。
アジヤ荘(昭和21年に建設)は2階建てで、2棟ある。13世帯が住んでいる。
ちかくには、善福寺川から取水された灌漑用水路が流れている。その幅、約1m50cm。
もともと低地だったものだから、雨が降ると床下に水が溜まってしまうことは多かった。
昭和28年のある日。
用水路の一部の排水をおこなっていたマンホールが、工事により埋まってしまう。すなわち、用水路の水量が増えてしまう、という事態が起きる。
雨天時にだけ起きていたアジヤ荘の水びたしは、田圃が水を使用する期間は常時、どんな天気の日にでも起きてしまうようになった。
こりゃタマラン、とアジヤ荘のひとびと。すごい湿気に、不衛生。なんとか手を打たないと、とても暮らしてゆけない。
ところがその灌漑用水路は、農家(S氏)の私有物だった。
S氏にとっては、灌漑用水路の水量が増えたのは、これ幸いといった感じだったそうだ。アジヤ荘チームはS氏に交渉しにいったが、物別れに終わってしまったのだった。
ここからが、壮絶。
アジヤ荘チームは、複数回にわたって、S氏に無断で水路をせき止める。
農家側、巧みにそれをこじ開ける。
アジヤ荘せき止める。
S氏こじ開ける。
・・・。
困ったアジヤ荘のひとびとは、区役所に訴える。
が、私有物なので区役所は手が出せない。
困り果てたアジヤ荘のひとびとは、こんどは警察署に訴える。
で、杉並署が「適切な処置をこうじることになった」のだそうだ。
ここで、新聞記事は終わっている。
その後のものがたりを、わたしは知ることができない。けれど、わたしはどうしてもこの場所のことを、もっと知りたくなってしまった。
・・・当時の善福寺川と、灌漑用水路を描いた図を見てみよう。
「杉並の川と橋」より。和田掘町第二土地整理事業概念図(P69)の一部
和田堀第二土地整理事業とは、昭和16年から始まり、戦争等による中断を経て、昭和35年までに行われたものだ。この図のように、河川の一本化、埋立や暗渠化等の工事が含まれている。
区立方南公園用地、と書かれたあたりが、アジヤ荘の場所であるようだ。たしかに、すぐ横に水路が走っている。これがあの、S氏所有の忌まわしき水路に違いない。
なお、”新水路”と書かれたものが現在の善福寺川の流れだが、当時は善福寺川本流はもっと北にぐねぐねとあった。周辺にこまごまと張り巡らされた用水路は、ここで稲作が行われていたことを示している。いまは佼成会関連の建物がどすんと建っているこの場所に、田圃が拡がっていたということは、言われてみなければなかなか想像がつかない。
・・・アジヤ荘が建っていた場所に行ってみる。
たぶん、ここ。現在は方南公園だ。右手に崖が見える。左にいくと、善福寺川。
休日だったが、とても静かなところだ。
方南町から歩いてくると、跡地に向かうにはこのような坂を下りることになる(右手が跡地)。たしかに低地だ。しかし、前掲の図にあった水路の痕跡はまるでない。
暗渠イコール川跡、とするならば、ここも暗渠ではあるのだが、いささか暗渠感が足りない・・・工事はずいぶんと壮大で、ずいぶんとキレイに終えられてしまったようだ。
そういえば、ここの航空写真はどうだったろう?
昭和22年の航空写真を見てみよう。
gooさんありがとうございます。昭和22年航空写真
写真の上側に、作りかけの善福寺川新水路のようなものが見える。その南に田圃がならぶ。
アジヤ荘は昭和21年ころに建てられたというから、ここに写っているはず・・・写真左下のほうにある、2つの長方形の建物がそれだろうか(しかしこれは台地上のようにも思える)?灌漑用水路の流れも、いまひとつ判別しづらい。
ほぼ同じ位置の、もう少し後の時代を見てみる。
gooさんありがとうございます。昭和38年航空写真
そこにはもうアジヤ荘はなかった。昭和38年時には、すでに方南公園ができていたようだ。田圃もなければ、用水路たちもない。
昭和39年開催の東京オリンピックのために、環七が急ピッチでつくられた頃だ。ちょうどこの場所も環七のすぐ近くであり、そして上述の整理計画の対象にもなっている。記事からすると氾濫が問題化しているのはアジヤ荘だけのようだから、他に建物はなかったのかもしれない・・・事情はよくわからないが、アジヤ荘はどうも、それほど長くは建っていなかった建物のようだ。
アジヤ荘の記事を読んでいると、ああ、それは相当困っただろうなあ、とも思うのだけれど、思うのだけれど・・・そこに想像されるものとは、ほっかむり姿で夜中に水路を堰き止めに行くひとたちとか、「ったくやってらんねーやー!」と言いながら酒をあおるステテコのおじさんとか、「ほんとにSのじいさんったら!あーもう、そこまだ拭いてないんだから歩かないで頂戴!」と怒鳴りながらたすき掛けで掃除をするおばさんとか、溢れた水におもちゃを浮かべて遊ぶ子どもとか・・・なんだかそんな、ちょっとだけ微笑ましさを含んだ風景になってしまうのだ。
そんなことを思いながら、方南公園を後にする。
・・・いったいどういう「適切な処置」がなされたのか、その情報はどこにもない。
アジヤ荘も、いまはない。
張り巡らされた用水路、それもあとかたもない。
ないけれど、この地にはそんなものがたりが、たしかに在った。
なんのことはない、暗渠らしささえもない、この場所に佇んでみるのも、悪くないな、と思う。
***
オマケ。
善福寺川が削った坂をのぼり、台地に上がると、”古き良きパン屋さん”的風貌のお店があった。
丸栄ベーカリー。
ごはんを食べた直後だったけれど、こういう良い顔のパン屋さんには、入らざるを得ない。大好きなコーンマヨネーズのパン(2個入り)を買って、ぱくぱく食べる。まぁるくてかわいらしく、そしてパン生地がしっかり美味しかった。
・・・アジヤ荘のひとたちも、食べていただろうか?
<文献>
・「杉並新聞」第451号(昭和31年7月5日発行)
・杉並区郷土博物館「杉並の川と橋」
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