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シカク■スリバチのなぞ

スリバチとは、逆円錐形をあらわすことばであるはずだ。だから、「四角スリバチ」なんて、ことば自体がすでに矛盾を孕んでいるかもしれない。

でも、世の中ってものはおもしろくって、四角いスリバチだって、あるところにはある。最初にそれを知ることになったのは文京区、東京大学の本郷キャンパスと浅野キャンパスに挟まれた、この地でのこと。

Sikaku1            Googleさんありがとうございます。文京区の、向ヶ岡といわれるところ

なぜ東大のキャンパスがこのように分断されているのか?よく見れば、気になる地割り。そんな問いをもって、この地のことを調べる人もいる。
時代を遡ってみると、さらにこの場所のシカクさが浮き出てくるかのようだ。

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              東京時層地図よりキャプチャ。明治9~19年頃の向ヶ岡

古地図には大きな池が描いてあるから、両脇の崖から水が滴っていたのかもしれない。あるいは、もう少し上流の、谷頭から来る水を溜めていたのかもしれない。とはいえ、こんな地形は自然にできるものではない。ここは、もとからあった谷戸を利用し、成形された場所だったのだ・・・なんのために?

明治期、このシカクい土地には射的場があった。射的といっても、こんにち我々が想像するようなお祭りのそれではない。警視庁のもので、西南戦争に派遣された関係者が狙撃演習を行ったという。その後、東京共同射的会社となり、一般人にも向けられた練習場となった。
江戸期のここは水戸藩駒込邸の敷地であり、その頃から池が谷戸の下方に認められる。明治に入り、そのスリバチの四方に土手を作り、さらなる谷地形をつくり、弾を防ぐ壁としたのだそうだ。

谷地形があるということは、そこには川が流れていたということ。ただしこの、射的場の川は無名川で、名を定めている文献は見当たらない。そういうとき、筆者は勝手に名づけることも多いけれど、この川については付け忘れてしまった。なので、みなさんどうぞお好きな名前で、心の中で呼んでください。
明治期の古地図を見ると、道路脇に水路が描いてあるものがある。そして、東京大学構内にある三四郎池から流れ出す小川が、この無名川に合流していた。実はいまも、東京大学の池之端門近辺には橋状のものや、石垣に埋まりつつある合流口があって、水路の名残を感じることができる。付近は地形を改変され続けたこともあり、流末がはっきりしないが、いにしえは石神井川の支流、近世以降は不忍池に注いだと考えられる

現在この地を歩いてみると、ほぼ、ただのシカクい住宅地だ。・・・いや、シカクさはわかりにくいかもしれない。一応、チーズドッグみたいな擁壁の崖を認めることは出来るものの、住宅に遮られて視界が悪い。

Sikaku3

              現代の向ヶ岡の内部。 住所は、文京区弥生二丁目だ

上述のようにわざわざ谷を掘って成形したものの、その後埋めて宅地化したのだという。とある考古学者によれば、この土地を掘れば、池跡が出てくる可能性が高いのだそうだ・・・いまを生きる私は、地面の下の池を想像して歩くのみ。それだって、楽しいけれど。

もう少しだけ、スリバチ感の残っているシカク地帯もある。港区青山。ここには、いまも谷が残っているように見える。

こちらも射的場だが、こんどは陸軍のものである。長方形の敷地で、全面と左右に土手があり、凹地の各所に門があったというつくり。そのまんまだが、俗に「鉄砲山」といわれていた。射的場の下には蛇ヶ池(じゃがいけ、もしくはへびがいけ)があり、葦が生え、魚がたくさんいたという。
なんと斉藤茂吉が「赤光」にて、ここの湧水のことを詠んでいた。

「射的場に 細みづ湧きて流れければ 童ふたりが水のべに来し」

同じく「赤光」には、子どもが土を掘って弾丸を見つけ、喜んでいるという描写もある。青山、といえばシャレオツタウン、いま描写したような風景を想像する人は、あまりいるまい。

青山霊園の少し南に、そのスリバチはある。買い物をするような店もなく、はっきりいってここに行く用事などない。しかし、シカク見たさに、行ってみる。そうか、ここか・・・

Sikaku4                   青山に密かに在る、細長い谷地形

そこは妙に余白を感じる、運輸会社などの敷地になっていた・・・侵入することはできない、深い谷を見下ろす。
そう思って歩いて帰ってきたら、それは大きな間違いだった。実際の射的場跡は、2倍以上も広かった。

Sikaku5           東京時層地図よりキャプチャ。左は文明開化期、右はバブル期。
                  前掲の写真は、緑点線内を写しただけだった。

明治期の蛇ヶ池は、まるで真夏の夜に青山霊園から抜け出てきたヒトダマみたいに、陸軍用地に食い込んでいる。
・・・どうやらここは、もっともっと広いシカクスリバチがあったのが、盛り土されてしまったようだ。

こちらの川には名がある。その名を笄(こうがい)川という。渋谷川の支流であり、天現寺橋のところが河口にあたる。笄川は青山霊園を中心として北に向かって咲くリンドウの花のようなかたちをしていて、この蛇ヶ池はいわば花弁のような位置にあって、その水源のひとつだった。かつては、蛇ヶ池の脇を小川が流れ、その下にひろがる笄田圃を潤していた。

江戸期の絵図を見るとここは青山家の下屋敷の敷地であり、空白が多く地形がよくわからない。しかしその時から蛇ヶ池はあったようだ。すなわち谷があったのであり、向ヶ岡同様、ここのシカクももとの谷戸を利用したものだ。
明治以降の地図を時代順に並べて見ると、だんだんと埋められ住宅になっていくさまがよくわかる。しかしよく見ると、今の区割にも名残がある。バブル期の住宅地のかたちは、射的場とほぼ同じなのだ(そして、いまもそうだ)。

Sikaku6              東京時層地図よりキャプチャ。現代の段彩陰影図。
                  オレンジ点線内が射的場のナガシカク部分。

1つ前の写真と比較してみてほしい。ナガシカクの左下にはいまも窪地として残っており、そこに青山葬儀場がすっぽりとおさまっている。
かつてはもっとスケールの大きかったシカクスリバチは、お弁当箱の脇についた箸入れみたいな、細い一部分だけ残して埋められてしまったのだった…。さきほどの向ヶ岡との共通点の、なんと多いことか。  

軍の射撃場といえば、戸山も有名だ。戸山公園や早稲田大学理工学部のある一帯である。ここに陸軍射撃場が置かれたのは、江戸期の鉄砲隊が由来する(鉄砲百人組の大縄地を転用)という。あのあたりの場所に縁のある人は、思い浮かべてみてもスリバチらしさなど感じないのではないだろうか。しかし、戸山公園もまた、川の流れる緩やかな谷であった。

ここに流れていたのは、馬尿川もしくは秣(まぐさ)川。神田川の支流だ。水源については確実な文献は見当たらないが、大久保の韓国料理店街の脇から谷戸が始まる。下流に行けば少し前までは湧水があったというし、味わい深い擁壁の残る、人気のある暗渠だ。この、ノンビリとした名は、馬の餌である秣が流域に置かれていたからとかいう、本当にノンビリした理由でつけられたようだ。流域、というか射撃場と同じ場所に競馬場があった時代もある、馬に縁のある地のようだ。  

“戸山ヶ原”と言われていたこの地は、陸軍用地ではあったものの一般人も出入り自由だった。旗が上がると子どもたちが弾を拾いにいったりしたというし、「トンボ釣り」「カブトムシ捕り」というなんとも長閑な遊びにここで興じていたともいう。青山然り、陸軍用地にはこのように子どもが戯れるエピソードがよくついてくる。

明治期、戸山には「三角山」という実弾の着弾地があったが、弾が山を越えて中野やら落合まで行ってしまい、住民が危険にさらされたというので、昭和3年に蒲鉾型の7本×300mの鉄筋コンクリート製の射撃場になった。

Sikaku7          東京時層地図よりキャプチャ。左は昭和戦前期、右は現代の段彩陰影図。
            

いずれのスリバチも、陰影図ではある程度シカク感がわかるが、実際に訪れるとそれほどはっきりとはわからない。もっと、いまもしっかりと見られるシカクスリバチは、存在しないのか?

…最もはっきりしているものは、大田区にある。

Sikaku8            東京時層地図よりキャプチャ。大森駅西側の段彩陰影図。

くっきりと存在するシカク。そこから延びる谷は複雑な地形をかたちづくっている。

 この谷にかつてあった川は、池尻堀という。いくつもの水源が存在していたようで、流末は六郷用水に注ぐものだ。池尻堀の谷はダイナミックに入り組んでいるばかりか、美しいフラクタル状になっていて、陰影図を見ているとどうにもうっとりしてしまう。暗渠者に人気が高いのもうなずける。  

Sikaku9          東京時層地図よりキャプチャ。1つ前の陰影図と同じ場所の、昭和戦前期。

ここ大森のシカクスリバチもまた射撃用のものであり、前出の向ヶ岡の射的会社が明治22年に移転してきたものだった。
ところが何を思ったか、隣にテニスコートが建設される。テニスクラブのwebには「西洋列強の文化の中で育まれたスポーツマンシップも会得しよう」という理由だったと書いてある。そしてなぜだか、慶應義塾大学庭球部の要請によりテニスコートを増やし、慶大庭球部と一般のテニスクラブが一緒になって「大森庭球倶楽部」が開設された、というのだ…大正12年のことだ。

Sikaku10          入新井町誌より。射撃場とテニスコートが隣り合わせ、というクールさ加減  

いまもテニスコートは健在で、大森駅の東口から一山越えると、大森テニスクラブが現われる。

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ここが谷頭だ。テニスクラブ入口から下を眺めると、そこにはすばらしいナガシカクが拡がっている。

Sikaku12

射撃場跡の石碑もある。陸軍の射撃場は広いものであったが、警視庁系はコンパクトであり、今もシカクさ加減がよく味わえる。ちなみに、深大寺にも射撃場跡があるが、こちらはもっともっと深く、今もしっかりとした谷である(今度は深すぎて写真におさまらない)。さぞ上等な、天然の防御壁となっていただろう。

そういえば、色町も、よく目にするシカクのひとつ。中沢(2005)いうところの「湿った面」である色町は、スリバチ等級でいうと低くなるかもしれないが、その多くは低湿地につくられている。そして、とくに吉原や洲崎などの遊郭は、きれいな長方形をしている。吉原に関しては、低湿地のなかに、ぽっかりと浮いた島のようにつくられている…。

Sikaku13          東京時層地図よりキャプチャ。左はバブル期、右は現在の段彩陰影図

銃と、性。これらは、人の生と死というつながりをもつものだ。生と死とは、目を背けることができないものだ。綺麗な上澄みではない、どろどろとした情緒がうずまくものだ。そういったものが、谷底という低地に溜まっているということは、なんら不思議ではないのかもしれない。

「谷に集まるのはムーミンだけではない」。このようなある特殊なヒトやモノ、そしてさまざまな生き死にのものがたりが、スリバチの底には横たわっている。  

                        ***

なぜ、この記事をボツにしたのかというと。
原稿をある程度書き進めた段階で、マトグロッソの一連のスリバチ記事を最初から通して読み直してみた。なんとなく、このネタが書かれていないわけはないよな、と少しざわつくような心持ちでいたからだ。
案の定、エピソード6には射撃場の話が・・・。ちゃんと読もうよ、自分。・・・いや、記憶が蘇ってきたら、たしかにそれをちゃんと読んでいたし、御殿山の箇所に反応して「わたしは軍事萌えもあるから、暗渠者だけどここも萌えるよ!」などと、ぶつぶつ言ったことも思い出した・・・ちゃんと覚えてようよ、自分。 
わくわくしながらスタートした本記事は、残念ながらお蔵入り。でも、お蔵入りはもったいないので、特に新しい視点もないけれど、ブログには載せておこう、と思うに至ったのである。

                        ***

オマケ。 
陸軍用地は戦後それぞれ、かたちを変えて歴史をつないでいる。では、向ヶ岡から大森に移った民間の射的会社は、その後どうなったのであろうか。横浜のほうに移ったという情報があるものの、文献上詳細は分からなかった。横浜の古地図を見てみると、大正期に全国射撃大会が行われたという場所が馬場にある。当時このあたりは人家も少なく、深い谷戸がある射撃の適地であったという。その深い谷戸は、入江川の流域にあった。

Sikaku14            横浜時層地図(昭和戦前期)よりキャプチャ。東寺尾~馬場のあたり

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台形のような、シカクのような。実際に現地に行ってみると、そこにはコンパクトな、しかしインパクトのある台形を住宅が埋めつくしていた。みごとな「ガケンチク」に、横浜らしさを感じる。

地図の年代を遡って見ていくと、近隣の別の場所に射撃場が現れる。地元の資料を見ると、もとはもっと東にあった射撃場が、上記の地に移転してきて、昭和15年まで存続したということである。
その、移転前の場所とは、明治のある時期までは成願寺という3ツ池のある寺の敷地だった。その池の向こうに射撃場があり、一年中銃声が聞こえてきた、という記録が残っている。

Sikaku16                 横浜時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ

こちらはより広い。ナガシカク、というよりは、もう少し滑らかなかたちかもしれない。ほとんど地形を弄らなかった、ということかもしれない。
池を囲むように別荘が建ち、製氷池で氷の作られるしずかな(たぶん、銃声以外は)場所だったという。ここに、明治36年に、總持寺移転が決定する。

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                 横浜時層地図(戦後転換期)よりキャプチャ

大きなお寺は、なんとなくむかしからそこにあったような気がしてしまう。しかし、もと射撃場であった寺、というのも存在するわけだ。
今はこのような風景だ。

  Sikaku18

總持寺。いまの大駐車場のあたりに、明治21年からしばらくのあいだ、射撃場があった。射撃場が移転し、その場所は龍王池という池となったが、それも埋立てられ、いまはこのように駐車場になっている。 

Sikaku19

・・・じつは、この場所はわたしが最初にスリバチ学会のフィールドワーク(下末吉の回)にお邪魔したときに、最初に立ち寄って、集合写真を撮った場所なのだった。
なんという一致。スリバチ学会からいただいた原稿のお話、最初に思いついていそいそと書きはじめたストーリーは、まわりまわって、最後にまたスリバチ学会にもどってきたのであった・・・これもまた、スリバチがつなぐ縁なのかもしれない。

Sikaku20

年末に行った総持寺には、屋台の準備がなされていた。射的場跡地に、現代の射的屋がある風景・・・おあとがよろしいようで。

<参考文献>
「入新井町誌」
斉藤美枝「鶴見總持寺物語」
「新宿区町名誌」
「新宿区立戸塚第三小学校周辺の歴史」
中沢新一「アースダイバー」
中嶋昭「鶴見ところどころ」
原祐一「向ヶ岡弥生町の研究―向ヶ岡弥生町の歴史と東京大学浅野地区の発掘調査の結果― 徳川斉昭と水戸藩駒込邸」東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9
港区教育委員会「増補港区近代沿革図集 赤坂・青山」
港区三田図書館「明治の港区」
「わがまち大久保」

<関連記事(本ブログ内)>
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