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2014年1月

シカク■スリバチのなぞ

スリバチとは、逆円錐形をあらわすことばであるはずだ。だから、「四角スリバチ」なんて、ことば自体がすでに矛盾を孕んでいるかもしれない。

でも、世の中ってものはおもしろくって、四角いスリバチだって、あるところにはある。最初にそれを知ることになったのは文京区、東京大学の本郷キャンパスと浅野キャンパスに挟まれた、この地でのこと。

Sikaku1            Googleさんありがとうございます。文京区の、向ヶ岡といわれるところ

なぜ東大のキャンパスがこのように分断されているのか?よく見れば、気になる地割り。そんな問いをもって、この地のことを調べる人もいる。
時代を遡ってみると、さらにこの場所のシカクさが浮き出てくるかのようだ。

Sikaku2

              東京時層地図よりキャプチャ。明治9~19年頃の向ヶ岡

古地図には大きな池が描いてあるから、両脇の崖から水が滴っていたのかもしれない。あるいは、もう少し上流の、谷頭から来る水を溜めていたのかもしれない。とはいえ、こんな地形は自然にできるものではない。ここは、もとからあった谷戸を利用し、成形された場所だったのだ・・・なんのために?

明治期、このシカクい土地には射的場があった。射的といっても、こんにち我々が想像するようなお祭りのそれではない。警視庁のもので、西南戦争に派遣された関係者が狙撃演習を行ったという。その後、東京共同射的会社となり、一般人にも向けられた練習場となった。
江戸期のここは水戸藩駒込邸の敷地であり、その頃から池が谷戸の下方に認められる。明治に入り、そのスリバチの四方に土手を作り、さらなる谷地形をつくり、弾を防ぐ壁としたのだそうだ。

谷地形があるということは、そこには川が流れていたということ。ただしこの、射的場の川は無名川で、名を定めている文献は見当たらない。そういうとき、筆者は勝手に名づけることも多いけれど、この川については付け忘れてしまった。なので、みなさんどうぞお好きな名前で、心の中で呼んでください。
明治期の古地図を見ると、道路脇に水路が描いてあるものがある。そして、東京大学構内にある三四郎池から流れ出す小川が、この無名川に合流していた。実はいまも、東京大学の池之端門近辺には橋状のものや、石垣に埋まりつつある合流口があって、水路の名残を感じることができる。付近は地形を改変され続けたこともあり、流末がはっきりしないが、いにしえは石神井川の支流、近世以降は不忍池に注いだと考えられる

現在この地を歩いてみると、ほぼ、ただのシカクい住宅地だ。・・・いや、シカクさはわかりにくいかもしれない。一応、チーズドッグみたいな擁壁の崖を認めることは出来るものの、住宅に遮られて視界が悪い。

Sikaku3

              現代の向ヶ岡の内部。 住所は、文京区弥生二丁目だ

上述のようにわざわざ谷を掘って成形したものの、その後埋めて宅地化したのだという。とある考古学者によれば、この土地を掘れば、池跡が出てくる可能性が高いのだそうだ・・・いまを生きる私は、地面の下の池を想像して歩くのみ。それだって、楽しいけれど。

もう少しだけ、スリバチ感の残っているシカク地帯もある。港区青山。ここには、いまも谷が残っているように見える。

こちらも射的場だが、こんどは陸軍のものである。長方形の敷地で、全面と左右に土手があり、凹地の各所に門があったというつくり。そのまんまだが、俗に「鉄砲山」といわれていた。射的場の下には蛇ヶ池(じゃがいけ、もしくはへびがいけ)があり、葦が生え、魚がたくさんいたという。
なんと斉藤茂吉が「赤光」にて、ここの湧水のことを詠んでいた。

「射的場に 細みづ湧きて流れければ 童ふたりが水のべに来し」

同じく「赤光」には、子どもが土を掘って弾丸を見つけ、喜んでいるという描写もある。青山、といえばシャレオツタウン、いま描写したような風景を想像する人は、あまりいるまい。

青山霊園の少し南に、そのスリバチはある。買い物をするような店もなく、はっきりいってここに行く用事などない。しかし、シカク見たさに、行ってみる。そうか、ここか・・・

Sikaku4                   青山に密かに在る、細長い谷地形

そこは妙に余白を感じる、運輸会社などの敷地になっていた・・・侵入することはできない、深い谷を見下ろす。
そう思って歩いて帰ってきたら、それは大きな間違いだった。実際の射的場跡は、2倍以上も広かった。

Sikaku5           東京時層地図よりキャプチャ。左は文明開化期、右はバブル期。
                  前掲の写真は、緑点線内を写しただけだった。

明治期の蛇ヶ池は、まるで真夏の夜に青山霊園から抜け出てきたヒトダマみたいに、陸軍用地に食い込んでいる。
・・・どうやらここは、もっともっと広いシカクスリバチがあったのが、盛り土されてしまったようだ。

こちらの川には名がある。その名を笄(こうがい)川という。渋谷川の支流であり、天現寺橋のところが河口にあたる。笄川は青山霊園を中心として北に向かって咲くリンドウの花のようなかたちをしていて、この蛇ヶ池はいわば花弁のような位置にあって、その水源のひとつだった。かつては、蛇ヶ池の脇を小川が流れ、その下にひろがる笄田圃を潤していた。

江戸期の絵図を見るとここは青山家の下屋敷の敷地であり、空白が多く地形がよくわからない。しかしその時から蛇ヶ池はあったようだ。すなわち谷があったのであり、向ヶ岡同様、ここのシカクももとの谷戸を利用したものだ。
明治以降の地図を時代順に並べて見ると、だんだんと埋められ住宅になっていくさまがよくわかる。しかしよく見ると、今の区割にも名残がある。バブル期の住宅地のかたちは、射的場とほぼ同じなのだ(そして、いまもそうだ)。

Sikaku6              東京時層地図よりキャプチャ。現代の段彩陰影図。
                  オレンジ点線内が射的場のナガシカク部分。

1つ前の写真と比較してみてほしい。ナガシカクの左下にはいまも窪地として残っており、そこに青山葬儀場がすっぽりとおさまっている。
かつてはもっとスケールの大きかったシカクスリバチは、お弁当箱の脇についた箸入れみたいな、細い一部分だけ残して埋められてしまったのだった…。さきほどの向ヶ岡との共通点の、なんと多いことか。  

軍の射撃場といえば、戸山も有名だ。戸山公園や早稲田大学理工学部のある一帯である。ここに陸軍射撃場が置かれたのは、江戸期の鉄砲隊が由来する(鉄砲百人組の大縄地を転用)という。あのあたりの場所に縁のある人は、思い浮かべてみてもスリバチらしさなど感じないのではないだろうか。しかし、戸山公園もまた、川の流れる緩やかな谷であった。

ここに流れていたのは、馬尿川もしくは秣(まぐさ)川。神田川の支流だ。水源については確実な文献は見当たらないが、大久保の韓国料理店街の脇から谷戸が始まる。下流に行けば少し前までは湧水があったというし、味わい深い擁壁の残る、人気のある暗渠だ。この、ノンビリとした名は、馬の餌である秣が流域に置かれていたからとかいう、本当にノンビリした理由でつけられたようだ。流域、というか射撃場と同じ場所に競馬場があった時代もある、馬に縁のある地のようだ。  

“戸山ヶ原”と言われていたこの地は、陸軍用地ではあったものの一般人も出入り自由だった。旗が上がると子どもたちが弾を拾いにいったりしたというし、「トンボ釣り」「カブトムシ捕り」というなんとも長閑な遊びにここで興じていたともいう。青山然り、陸軍用地にはこのように子どもが戯れるエピソードがよくついてくる。

明治期、戸山には「三角山」という実弾の着弾地があったが、弾が山を越えて中野やら落合まで行ってしまい、住民が危険にさらされたというので、昭和3年に蒲鉾型の7本×300mの鉄筋コンクリート製の射撃場になった。

Sikaku7          東京時層地図よりキャプチャ。左は昭和戦前期、右は現代の段彩陰影図。
            

いずれのスリバチも、陰影図ではある程度シカク感がわかるが、実際に訪れるとそれほどはっきりとはわからない。もっと、いまもしっかりと見られるシカクスリバチは、存在しないのか?

…最もはっきりしているものは、大田区にある。

Sikaku8            東京時層地図よりキャプチャ。大森駅西側の段彩陰影図。

くっきりと存在するシカク。そこから延びる谷は複雑な地形をかたちづくっている。

 この谷にかつてあった川は、池尻堀という。いくつもの水源が存在していたようで、流末は六郷用水に注ぐものだ。池尻堀の谷はダイナミックに入り組んでいるばかりか、美しいフラクタル状になっていて、陰影図を見ているとどうにもうっとりしてしまう。暗渠者に人気が高いのもうなずける。  

Sikaku9          東京時層地図よりキャプチャ。1つ前の陰影図と同じ場所の、昭和戦前期。

ここ大森のシカクスリバチもまた射撃用のものであり、前出の向ヶ岡の射的会社が明治22年に移転してきたものだった。
ところが何を思ったか、隣にテニスコートが建設される。テニスクラブのwebには「西洋列強の文化の中で育まれたスポーツマンシップも会得しよう」という理由だったと書いてある。そしてなぜだか、慶應義塾大学庭球部の要請によりテニスコートを増やし、慶大庭球部と一般のテニスクラブが一緒になって「大森庭球倶楽部」が開設された、というのだ…大正12年のことだ。

Sikaku10          入新井町誌より。射撃場とテニスコートが隣り合わせ、というクールさ加減  

いまもテニスコートは健在で、大森駅の東口から一山越えると、大森テニスクラブが現われる。

Sikaku11

ここが谷頭だ。テニスクラブ入口から下を眺めると、そこにはすばらしいナガシカクが拡がっている。

Sikaku12

射撃場跡の石碑もある。陸軍の射撃場は広いものであったが、警視庁系はコンパクトであり、今もシカクさ加減がよく味わえる。ちなみに、深大寺にも射撃場跡があるが、こちらはもっともっと深く、今もしっかりとした谷である(今度は深すぎて写真におさまらない)。さぞ上等な、天然の防御壁となっていただろう。

そういえば、色町も、よく目にするシカクのひとつ。中沢(2005)いうところの「湿った面」である色町は、スリバチ等級でいうと低くなるかもしれないが、その多くは低湿地につくられている。そして、とくに吉原や洲崎などの遊郭は、きれいな長方形をしている。吉原に関しては、低湿地のなかに、ぽっかりと浮いた島のようにつくられている…。

Sikaku13          東京時層地図よりキャプチャ。左はバブル期、右は現在の段彩陰影図

銃と、性。これらは、人の生と死というつながりをもつものだ。生と死とは、目を背けることができないものだ。綺麗な上澄みではない、どろどろとした情緒がうずまくものだ。そういったものが、谷底という低地に溜まっているということは、なんら不思議ではないのかもしれない。

「谷に集まるのはムーミンだけではない」。このようなある特殊なヒトやモノ、そしてさまざまな生き死にのものがたりが、スリバチの底には横たわっている。  

                        ***

なぜ、この記事をボツにしたのかというと。
原稿をある程度書き進めた段階で、マトグロッソの一連のスリバチ記事を最初から通して読み直してみた。なんとなく、このネタが書かれていないわけはないよな、と少しざわつくような心持ちでいたからだ。
案の定、エピソード6には射撃場の話が・・・。ちゃんと読もうよ、自分。・・・いや、記憶が蘇ってきたら、たしかにそれをちゃんと読んでいたし、御殿山の箇所に反応して「わたしは軍事萌えもあるから、暗渠者だけどここも萌えるよ!」などと、ぶつぶつ言ったことも思い出した・・・ちゃんと覚えてようよ、自分。 
わくわくしながらスタートした本記事は、残念ながらお蔵入り。でも、お蔵入りはもったいないので、特に新しい視点もないけれど、ブログには載せておこう、と思うに至ったのである。

                        ***

オマケ。 
陸軍用地は戦後それぞれ、かたちを変えて歴史をつないでいる。では、向ヶ岡から大森に移った民間の射的会社は、その後どうなったのであろうか。横浜のほうに移ったという情報があるものの、文献上詳細は分からなかった。横浜の古地図を見てみると、大正期に全国射撃大会が行われたという場所が馬場にある。当時このあたりは人家も少なく、深い谷戸がある射撃の適地であったという。その深い谷戸は、入江川の流域にあった。

Sikaku14            横浜時層地図(昭和戦前期)よりキャプチャ。東寺尾~馬場のあたり

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台形のような、シカクのような。実際に現地に行ってみると、そこにはコンパクトな、しかしインパクトのある台形を住宅が埋めつくしていた。みごとな「ガケンチク」に、横浜らしさを感じる。

地図の年代を遡って見ていくと、近隣の別の場所に射撃場が現れる。地元の資料を見ると、もとはもっと東にあった射撃場が、上記の地に移転してきて、昭和15年まで存続したということである。
その、移転前の場所とは、明治のある時期までは成願寺という3ツ池のある寺の敷地だった。その池の向こうに射撃場があり、一年中銃声が聞こえてきた、という記録が残っている。

Sikaku16                 横浜時層地図(明治の終わり)よりキャプチャ

こちらはより広い。ナガシカク、というよりは、もう少し滑らかなかたちかもしれない。ほとんど地形を弄らなかった、ということかもしれない。
池を囲むように別荘が建ち、製氷池で氷の作られるしずかな(たぶん、銃声以外は)場所だったという。ここに、明治36年に、總持寺移転が決定する。

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                 横浜時層地図(戦後転換期)よりキャプチャ

大きなお寺は、なんとなくむかしからそこにあったような気がしてしまう。しかし、もと射撃場であった寺、というのも存在するわけだ。
今はこのような風景だ。

  Sikaku18

總持寺。いまの大駐車場のあたりに、明治21年からしばらくのあいだ、射撃場があった。射撃場が移転し、その場所は龍王池という池となったが、それも埋立てられ、いまはこのように駐車場になっている。 

Sikaku19

・・・じつは、この場所はわたしが最初にスリバチ学会のフィールドワーク(下末吉の回)にお邪魔したときに、最初に立ち寄って、集合写真を撮った場所なのだった。
なんという一致。スリバチ学会からいただいた原稿のお話、最初に思いついていそいそと書きはじめたストーリーは、まわりまわって、最後にまたスリバチ学会にもどってきたのであった・・・これもまた、スリバチがつなぐ縁なのかもしれない。

Sikaku20

年末に行った総持寺には、屋台の準備がなされていた。射的場跡地に、現代の射的屋がある風景・・・おあとがよろしいようで。

<参考文献>
「入新井町誌」
斉藤美枝「鶴見總持寺物語」
「新宿区町名誌」
「新宿区立戸塚第三小学校周辺の歴史」
中沢新一「アースダイバー」
中嶋昭「鶴見ところどころ」
原祐一「向ヶ岡弥生町の研究―向ヶ岡弥生町の歴史と東京大学浅野地区の発掘調査の結果― 徳川斉昭と水戸藩駒込邸」東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9
港区教育委員会「増補港区近代沿革図集 赤坂・青山」
港区三田図書館「明治の港区」
「わがまち大久保」

<関連記事(本ブログ内)>
夜の馬尿川
三四郎池支流(仮)の流れる先は
ゲゲゲの湧水(前編)
洲パラダイス崎

<関連記事(他サイト)>
大森テニスクラブ
あるく渋谷川入門 笄川東側
暗渠ハンター 山王崖下の池尻堀?
etc...

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マトグロッソに掲載していただきました

今回は、お知らせです。

皆川スリバチ会長が連載をもっておられる、web文芸誌マトグロッソ
その「スリバチに誘われて」に、拙文を載せていただきました。

コチラです↓

浅いスリバチに、紡がれるものがたり-暗渠に垣間見る”昭和”-

お読みいただければ、幸いです。

機会をくださった皆川会長、マトグロッソの編集さん、お世話になり、どうもありがとうございました!!

Asagaya

                 はい、予想どおりココのことを書いてます。          

ちょうど、1つまえの寄稿が高山氏で、暗渠のことを大変わかりやすく解説してくださったので、わたしはもうかなり好き勝手に書いています。暗渠の解説はナシ、好きな川のほんの一部分だけ取り上げて・・・これ、阿佐ヶ谷に住んでいるひとくらいしか、盛り上がれない内容なんじゃないか?なんてことをチラチラ思いつつ。
でも、きっと多くの暗渠に、こういう”ものがたり”はくっついています。そして、こんな風に暗渠を味わうこともできる・・・そんなことも言いたくて、書きました。

でも、じつは、この話をいただいたとき最初に書き始めた文章は、まったく異なるテーマでした。杉並はほとんど掠らず、何箇所か取材に行き、数か月前からまとめたかったことなのもあって、それはそれは意気揚々と・・・、しかし、とある事情でその文章はボツにしました。けれど、もったいないので、数日後に本ブログに掲載したいと思います。
はてさて、ボツになった、その理由とは・・・?次号につづく!

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紅葉川をねちねちと歩く 追加編 温泉山のこと

前回のつづき。鳥茶屋別亭で、ふわとろ親子丼を食べたところからです。

鳥茶屋別亭の佇む階段・・・とは、東京の階段DB上では熱海湯階段、と呼ばれる、味わい深い階段です。

Onsen1

見上げたところ。

階段を下ってゆくと、

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銭湯が見えてきます。

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階段を下り切れば、銭湯の入り口。熱海湯です。クラシックですてき。

この熱海湯にからめて、気になっていたことがあります。・・・それは以前、紅葉川でもっとも河口部にある支流である、熱海湯支流(仮)編の記事で触れたこと。すなわち、神楽坂界隈にあったらしき”温泉山”の正体について、です。

以前の記事ではいろいろと勝手に推測を展開しています。今回は若干重複もするものの、その後に明らかになったことを書いていきたいと思います。

                         ***

”温泉山”。
それは、神楽坂のどこかの崖の上にあった大衆浴場。いや、浴場があった丘のことを、温泉山と呼んでいたようでした。
そのことに言及した文献は、僅かに一件。いったいどれくらい浸透していた名前なのか、どのくらいの期間、あった施設なのか・・・わからないことは、多いまま。

場所のヒントも少なく、「今のマサ美容室のあたりにあった」という表現のみでした。
そしてそのマサ美容室を地図でしらべたところ、マーサ美容室なるものが、さきほどの熱海湯階段を上りきった、この通りにあることまではわかりました。

Onsen4

通りの名は、見番横丁。
神楽坂の組合の、見番が置かれている通りです。

Onsen5

見番のすてきな建物。を、とおりすぎると、

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すぐにマーサ美容室が見えてきます。

Onsen7

マーサ美容室の少し手前から振り返ると、崖下に熱海湯の煙突が見えます。

・・・「熱海湯」、なんですよね。
銭湯の名にはいろんなパターンがありますが、これは温泉地からもらった名前のようで。前述の”温泉山”エピソードとがっちり握手するのです。
場所を少し崖下に移したか何かで、熱海湯は温泉山の名残の一部なのかな、と。

この、わたしがたった1件の文献からこじつけた温泉山についての考えは、それなりに納得のいく考察になっていたと思います。

しかし、それは間違いでした。

間違いであるということに気づけたのは、地元の方のお話からでした。
神楽坂に長く住む、地元の人が参加するあつまりに参加させていただいたときのこと(ヤマサキさん、その節はありがとうございました)。毘沙門天にかつてあった池だとか、あれこれ神楽坂の”むかしの水関係”の話を聞かせていただくなかで、情報の少ない温泉山のことについて、尋ねないわけにはいきませんでした。

その方(因みに、皆川会長に激似)は温泉山そのもののことはご存じなかったので、まずは、と思ってマーサ美容室の場所を確認することからはじめたところ、

「マーサは、むかしはあそこじゃなかったよ」

という、想定していなかったお答えが。

おぉ・・・熱海湯仮説が、ガラガラと音を立てて崩れる・・・!

では、移転前のマーサ(≒温泉山)の場所とは?
何処ですか?ときいたところ、

Onsen8

ここがマーサ跡なのだ、ということでした。
神楽坂を飯田橋から上り始めてまもなく出現する、ロイホの場所でした。
どうやら、ここにあったのが、さきほどの見番横丁のあの場所へと移ったようなのです。つまりはここが、温泉山。

この場所の、温泉”山”感とは、、、

Onsen9_2

やや下方から撮れば、存分に感じることができます。
なるほど丘の上にあります。かつてはもっと地面がいびつで、ロイホより下には崖があったのでしょうか・・・では、温泉山についての描写を、原文のままふたたびご紹介いたしましょう。

                          ***

今の「マサ美容院」あたりですが、明治も終わり頃まで崖がありまして、温泉山なんて呼んでおりました。
今の銭湯とでもいいますか、大衆浴場がありまして前側にはちょっとした休みどころもあり、何となく温泉気分になれそうなつくりで、夏の夕方などは浴衣を貸してくれまして「ええご案内!!」なんて景気のいい声をかけられたものです。

おもて通りには「温泉」って書いた大きな幕が下がっていました。
階段を上って風呂に行くんですが、この辺の人はたいがいここへはいりに来ました。
私もよく参りましたが、風呂からあがると自由に休ませてはくれましたが、今のヘルスセンターの様にそこの舞台の上で余興を見せるなんてことはありませんでした。
棟続きで小さな貸席の様なことはやっていましたが、あとはぶどう棚の様なものが設けてありまして春秋の靖国神社のお祭りのときは近所の人達がそこに上って花火見物をやっていました。
まことに呑気な時代でございました。

                          ***

想像、想像。ロイホの向こうに、もっともっと素朴な建物を、温泉と書かれた幕を、浴衣で涼む人々を。
「ええご案内!!」という、威勢の良い掛け声を。

文献だけでは、やっぱり足らないこともある。地元の方のおかげで、またひとつ紅葉川流域の謎が解けました。(ありがとうございました。)

で。熱海湯がこの話と無関係かどうかは、まだわからないような気はしています(しつこいw)。
だって温泉山からここに移ってきたかもしれないので・・・やはり、熱海湯に入ってインタビュー、はしておかないと、満足しないのかもしれません。
というわけで、温泉山の謎は、もう少しだけ解けないまま。いつになるかはわからないけれど、またいつか、全貌が明らかになるその日まで。

<文献>
新宿区立図書館「神楽坂界隈の変遷」

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牛込川は二度死なぬ

「あの暗渠はいつ無くなってしまうのだろう。」

と、しばらくの間気になっていた川があります。

牛込川。
紅葉川の前哨戦として取り上げたことが本ブログでは初出です。牛込のあたりから湧き、神楽坂を横断して、神田川にそそぐもの。上流は痕跡が乏しいけれど(でもきれいなV字谷)、中~下流にとてもすてきな小径がある。

神楽坂に詳しいヤマサキさんに、まさにその”すてきな小径”のあたりにもうすぐ道路ができるはず、ということを教えてもらって以降、いつなくなってしまうのかと心配になり、神楽坂・飯田橋近辺で呑んだ時にはかならず立ち寄って確認していました。何度も何度も。
・・・でも、何度歩いてもさほど変化がなかったので、まだこれは暫く大丈夫かなと思っていました。

しかし、似たような道路計画のある紅葉川支流では、またたくまに工事が進んでいて。これはもう、牛込川も危ないだろうなあ、と。

久しぶりに確かめに行きました。すると、

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ああ、このフェンス・・・全然ちがう風景になっちゃってる。

Usir2

みごとに建物がなくなり、道路用に空間がぶち抜かれています。

これはもう、牛込川は無いかなあ・・・

Usir3

つくど公園はただの更地になっていました。
恒常的な公園ではなく、杉並で言うところの「遊び場」だったのでしょうね。

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しかし、牛込川跡はまだ残っていました!
その、新しくできる道路の横に、ちょこん、と。

正直、あきらめていたのですが。

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青空に映える川跡・・・隣にあった建物がなくなり、草原のように見えることにより、以前より河川敷っぽい雰囲気をまとっているような気さえします。

新設道路のすぐ隣で、かろうじて残っている細い暗渠みち。そういえば、池袋の谷端川境井田支流でも似たような光景を見ました。

暗渠ってああみえて、なかなか、したたか。

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あの橋のようなところも。

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あの古いマンホールも。

残ってほしかったものは、なんとか残っていて。

しかし、食事つきの寮(だっけ?ヤマサキさんに教えてもらったもの。古びたクリーム色の、とても風情のある建物だった)はなくなっていました。すなわち、この右手の更地です。

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ここから下流は同じ風景が連なります。

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もうひとつの古いマンホール。
この下水管が通っているおかげで、この道はまだ守られているということなのでしょうか。

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あれ、この石段はこんなに突き出ていたんだっけ?

(そうか、夜にばかり通るので、よく見えていなかったのだ。)

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”一列だけ駐輪場”も健在。

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ここでは発掘調査をしているようです。
牛込川流路のすぐ脇でもあります。なにか芳しい結果が、出てくるといいんですが。

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そうそう、放射道路、というのでした。
ちょうど1枚目の写真のところからはじまり、神田川のところにぶち当たって終わるんですね。

Usir14

ともかく、牛込川とは”交差”はしないようでした。

この、下流部の、橋が架かっていたところも健在でした。

さて今回の確認で、牛込川は辛うじて残っていたわけですが、この後、道路が完全に整備されたとき、下水管が付け替えられなどしたら・・・
あるいは、キレイな道路の脇で見苦しい、などと、お化粧されでもしたら・・・

牛込川は、二度死んでしまうのか。

あたらしい道路に、呑まれてしまうのか、否か。

中世の城、牛込城の濠の機能も有していた、立派な牛込川。谷端川境井田支流とともに、牛込川の今後は見守りたい気がしています。

・・・さて、ゴハン。
神楽坂でのゴハン、よく迷います。きょうは、おなかにやさしいものを食べたいなっと。

Usir15

親子丼にしました。
ふわとろ。
鶏肉も食べやすし。ライチ寒天のデザートつき。

Usir16

親子丼は鳥茶屋「別亭」で食べられる品です。
別亭は、こんなふうに神楽坂から横に逸れ、狭い階段を下って行ったところにあります。その階段の名は・・・そしてそこに絡めて書きたい小ネタが1つだけ。

この記事、もう少しだけ、続きます。

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塩釜、おもいで、暗渠

 

2013年夏。1週間のうちに宮城に2回行く、という珍しいときがありました。

1回目はたしか月曜日。日帰りだったので、仙台駅周辺で情報収集だけして。
2回目はその週末。泊まりだったので、朝は海の幸・・・と決めていました。

宮城、とくに仙台近辺は、ちいさなころからよく訪れていた思い出の場所。
そのひとつに、「家族全員で日曜の朝5時に出発して大量の魚介類を買い込む」というイベントのため、定期的に行っていた場所があります。

塩釜の魚市場。

父と祖父が大きなクーラーボックスをかかえて、ひとしきり魚を買い込んだ後は、近くのお店でご飯を食べて、帰って来るのでした。いつも適当に入るので贔屓の店があるわけでもなし、どの店で何を食べたとか、ビックリするほど覚えていません。

だから今回も、適当に入ります。塩釜の市場で朝ご飯、それだけでじゅうぶん。

場内に入るとすぐ、定食屋さんがありました。塩竈市場食堂。

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ためらわず入り、海鮮の丼を食べました。

何点盛、と選べるので、中途半端に4点盛。マグロとホタテはきっとうまかろうと思って。あと、大好きなカニは癖で。それから、あぶらぼうず、というはじめてのお刺身。しじみの味噌汁。朝ルービー。

もちろん、おいしい。おいしい・・・。至福の味。

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市場の中も、見て回ります。
塩釜はもちろん津波の被害を受けた地ではありますが、その地形ゆえ魚市場は浸水のみで破壊はされなかったということです。周囲も含め、以前の建物たちはまだ残っていました。

なつかしいな・・・ここにくるときは、いつもとてもワクワクしていました。5時なんていう早起きも平気なくらい、非日常感でいっぱいで、とっても特別な遠足にきたような。わたしがいま、しょっちゅう暗渠さんぽに市場めしを組み合わせていること、市場が好きなことって、もしかすると塩釜がルーツなのかもしれない・・・

けれどわたしはやたらと好き嫌いが多く、とくに生魚はだいぶ食べられません(ありすぎて書くのが面倒くさい)。鮮烈な磯の味!なんて、もっとも苦手とするところ。

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ところが、ここで出会ったこれは、わたしにとって大きな衝撃でした。
うに!

うには、おいしいと言われるような、濃厚なものほど苦手です・・・モワァっとしていて。
けれど、このうには、新鮮なままで、ミョウバンにつけていないから、全然味が違うよ、とお店の方に強くすすめられ・・・恐怖におののきながら、ひとくち。
うお!本当に全然いやな味がしない!
なんか甘い・・・!これなら、全然我慢しないで食べられる!
と、えらく感動したのでした。

そうそう、休日は丼セットなるものがあって、白飯と味噌汁等が300円で買えて、場内のお店で好きに魚介を買ってのっけて、マイ海鮮丼にして食べられるそうな。うーん、今度は、それ食べたいな。

さて、港から、今度は山の方向に歩きます。
あれだけ塩釜に行ったのに塩竈神社の記憶がないこと(家族揃って食い意地だけなのかw)、神社の近くに酒蔵があること、などから、塩竈神社に寄ることにしました。

そして、その帰り、神社の脇にある谷地形を歩きながら、地図に記載されている開渠もちょっと見てみようと思い、近づくと、

Sio5

そこにあったのは暗渠でした!

なんとまあ、千葉っぽい出で立ちの暗渠さんなんでしょう。これはソソる。
「ついでに見とく」だけだったけど、暗渠だった以上、これは、遡るしかない。

Sio6

とはいえ時間の都合もあるので、追えた範囲での最上流部はここ。ちょうど、開渠になった箇所でした。山のほうで湧いているもよう。

そのすぐ下流側は、

Sio7_2

フェイク小川と橋のある、思わせぶりな空間。

Sio8

その下、水が一応流れています。これはこれで表通りをフェイク川として下っていくようです。

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しかし、本命はこっち。

さきほどの開渠は数十メートル途切れたのち、表通りと並行する裏道沿いにて、このようなハシゴ式暗渠となります。これを、下っていきたいと思います。

 

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まずは祠がありまして・・・この祠の向こうに崩れそうな崖がありますが、それと、

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これに挟まれた谷地形。

これ、塩竈神社の参道のひとつです。
上から見ても、下から見ても、「絶対上り(下り)たくない・・・!」と思うような傾斜と段数。一歩踏み外したら確実に死・・・しかし、おひとり、上ってゆくおばさまがいました!心の中で拍手喝采。

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この塩竈神社の急崖の下には濁った池があって、湧水らしきものも注いでいました。「そりゃ湧くって」などと、ぶつぶつ言います(急崖を見るとだいたい言います)。

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塩竈神社のすぐ下には、阿部勘酒造。於茂多加(おもたか)男山というお酒等をつくっているところ。夏だし、見学はできないかもしれないけれど、ぜひともお味見など・・・と期待して行ったら、閉まっていました。どーん。

もう少し下流には浦霞の佐浦酒蔵もあります。どちらも立派な建物でした。
酒蔵を二軒も擁するこの谷。なんて贅沢な暗渠なんでしょう。

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しかし阿部勘は表通りだったので、裏に戻ります。
この暗渠はマイ橋が多いですね。

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そして右岸の壁からは、ダクダクと湧水が・・・全体がテラテラ濡れております。
水郷、田名を思い出します。

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それが道路に浸みだし、水たまりになっていました。
かつては、そのままこの川に合わさり、海に流されていたことでしょう。しかし今となっては、流れ込める川はそこにはなくて、こうやって道路で右往左往し、ひからびてゆくだけ・・・

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この暗渠、基本的にはコンクリ護岸と砂利蓋、マイ橋で構成されているのですが、よくみると砂利の上に生えている植物の表情が、少しずつ変わるのです。

ここはえんじ色ベース。荒野っぽい感じで。

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ここではえんじに少し緑が侵食してきます。メルヘンな感じで。

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もっと緑が荒れ狂い始めます。

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ここでは橋が多すぎて地面が見えにくいです。

橋にもいろいろ味わいがあって、

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トマソン橋。

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物干し橋。

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なんと、橋が池化。

(おそらく前出の湧水が慢性的に流れ込んできている。)

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これは、橋じゃないけど・・・、うおお・・・暗渠がそのままテラスに・・・!!

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ヤクルト飲んだんだねそうなんだね!

(双子の三つ編みの少女が仲良く並んでいるイメージ。なんとなく。)

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下流に行くにしたがい、ものが増えていく・・・

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どんどんどんどんふえていく・・・

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右岸には、水神さまが祀られているようでした。

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そして、唐突に開渠に。

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最初に見た時よりだいぶ汚いな・・・2箇所から水が出てきています(赤丸部分)が、これは、下流側の方が汚水のもよう。

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でもすぐにあっさり暗渠にもどり、道路を横断します。

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あとはわかりにくくなります。この下あたりを通っているのかな・・・?

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橋跡がありました。

ここにきてやっと、この川の名前がわかりました。祓川、というのだそうです。いにしえは入り江であり、その名残の水路なのだそうです。
立派な塩竈神社の足元を流れるのに、ふさわしい名前(神事につかう馬を洗ったからとか)。

別名は新町川。下流を新河岸川と呼ぶことも。しかしここは、祓川と呼んでいきたい気分です。

この橋は、「おだいの橋」というそうで、脇にあった案内板によれば、歩断橋・御代ノ橋ともいい、祓川に鎌倉時代に架けられたもの。すかしの橋で橋板の間から水面が見え、牛馬の通行は禁じられていたとのこと。

最上流部で出会った橋、そこから流れ出すフェイク川、いずれも、祓川関連のものであったというわけです。しかし、鎌倉時代に、すかしの橋・・・祓川とはなんと優美な川だったのでしょう。

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しばらく息をひそめていた祓川が再度おもてに出てくるのは、かなり海が近づいてから。
ここに出口が見えますが、これはおそらく塩竈神社の反対側の谷を流れてくるもののようで、

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今追ってきたのはこっちかなあ、と思います・・・が、角度がだいぶあるので、思っていたより流れは南側にずれた位置にあったのかもしれない。

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まあ、時間もないので深く考えずにいきます。2流は合流して、海へ向かいます。

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ゴール地点。
手前左手にちょっとした岩場があったので降りてみると、そこにはヤドカリがいっぱいいました。しばしヤドカリと戯れ。

眺めた海は青く、おだやかでした。
鎌倉時代以前からの、この地を行きかう人々。津波、復興、いまの人々。
月に一度だけ山形から魚を買いにくる、食いしんぼうの家族。
祓川は塩釜の地をしずしずと流れながら、たくさんのことを見てきたのだろうな・・・。

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いつのまにか2014年。あけましておめでとうございます。

多忙等につき、しばらくお休みしてしまいました。ほんとうはたくさん調べものをして書くのが好きですが、その時間が取れないと、記事さえ書けなくなってしまいます。
今回は、調べものナシのリハビリ編。今年は、調べたり、あまり調べなかったり、そのとき出来る範囲のことを、やっていこうと思います。

本年も、暗渠さんぽをどうぞよろしくお願いいたします。

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