去年の年末。もうすぐ足の手術があるという時期でした。
しばらくさんぽができなくなるからと、ちょっとだけ遠くへ行くことにしました。・・・ちょっとだけ、ね。
行きたいところは、山ほど。その中で、この一区切りのさんぽに選んだのはココです。
西武安比奈線。廃線マニアには有名な、かの休止線。
東京からも比較的気軽に行くことができ、フォトジェニックな廃景がひろがるところ。
ネットでも本でも、取り上げられることは多めです。ファンが多いらしく、いろいろな知識が披露されています。しかしわたしは鉄系の知識を、あまり持ち合わせていません。そんなこともあって、安比奈線に”交叉してくる水路たち”にも力点を置いて、書いていこうと思います。
”廃線好き”ふたりに、”貨物線好き”ひとりが、”休止線”をゆく。西武安比奈線三人道中、はじまり、はじまり。
***
それはとても、澄んだ冬空に映える景色たちでした。安比奈線を歩くときって、付け根側(南大塚駅)からか、それとも終点側(安比奈駅)からか、始点は人により異なるようです。バスの時間、昼食の場所と時間、そしておもしろみを考え合わせ、終点側からスタートすることにしました。
冬の朝、南大塚駅に集合。バスに乗って、
泉福寺という停留所で降ります。
・・・使う人とか居るんだろうか、このバス停。
・・・さっそく面白いことになってます・・・w
ここから、入間川目指して歩きすすみます。
この、泉福寺あたりの地名は”泥辺(ドロベ)”といい、”泥=清水が流れるところもしくはその流れの端の意”ということで、この近くにはどうやら湧水点があったかもしれないようです。また、ここらへんの地名を”増形”といいますが、増形の白山神社もちょっとおもしろそうでした。
・・・つまり、我々は知らずにいろんなものを見逃しながら、安比奈線へと行き急いだのでした。
なにもない道を進みます。
すると唐突に。広大な荒地に、新しく道路を作るようでした。
まるで特撮ものの撮影現場のよう。
とても、とても、遠くに来たような気持ちになりました。
やがて、入間川の近くに着きました。入間川を渡る、水道橋が見えます。
・・・そこに、
うおーーー。廃な線路、登場!!
ちょっと、感動。こういうのが見たかった。緑道になど、なっていないもの。数十年、放っておかれたもの。
まずはこれを、安比奈駅のはじっこまで遡ります。
西武安比奈線、とは。大正14年開業、全長3,2kmの路線です。
砂利採取を目的とした貨物線。このレールの上を、陸軍鉄道連隊の蒸気機関車が走っていた、といいます。そう、津田沼の記事のときに触れた、終戦後に軍の演習線を京成に取られてしまった代わりに、西武が譲り受けた資材の一部が、ココを走っていたのです。
関東大震災後の復興を目論んだ砂利採取事業にはじまり、東京オリンピック前には1日7~8往復はしていたという、安比奈線。昭和42年に砂利採取が禁止となり、休止へと至ります(昭和30年という記載も)。なぜ廃止ではないのかというと、ここに西武の車両基地をつくる案があるから、なのだそうです。
”休止”線であるからこそ、たくさんの置きざりにされたものがそこにはあって、歩き甲斐があります。
しかし、進めば進むほど、この路線が時間を取り戻すことなんて、できるのか・・・?という気持ちにもなってきます。
廃・・・。架線柱と枯れ木とのコラボレーションは、圧倒的な存在感。
冬ならではかもしれません。
鬱蒼とした竹林。普段だったらこんなとこ入ろうとも思わないんですが、メンバーにひとり、勇者が居ました。勇者は、こういうところもなんの躊躇もなく入っていくのです・・・!ズボッ!
つられて突入。竹とかが若干刺さって、イテテ、イテテテテテ、ってなりながら、ついていきます。
そしたら、竹藪の中にも線路、ありました!
あまりにもおかしなシチュエーションなので、より一層興奮します。嗚呼、軍手持ってきてて、良かった。
朽ちた柱のようなものもありました。
ほかにも、コンクリのかけらのようなものとか、金属製の何かとか。ただの竹林にはないようなものがいろいろ落ちてました。
いやー、これは、入った甲斐があった。
ちなみに、地元の地図にはここらへんに「珍しい野草あり」とか「マムシに注意」とか書いてあったりしました。ゾゾゾゾゾ。知らぬがホトケ!
ザザザザ、スポッ!という感じで竹林を抜け、
少し進むと、安比奈駅の残骸が出現します。
現役時の写真を見てみると、ここには周辺にうず高く砂利が積まれていて、ひとが居て、賑わっていて・・・あまりに違う風景。
ここで終わり、かとおもいきや、
河原と逆側に細めの線路が延びていて、もう少し追えるようです。限界まで行くことにします。
のわー。なぜか、大量の芋!芋の街川越だからなのか・・・?
その先、線路の下に空洞がある場所がありました。
下に人が潜って点検する場なのかな?
ここらへんは、資料上では線路が4股に分かれています。点検場だったり、待機する場だったりするのでしょうか。もう、地面がぐちゃぐちゃなので歩けず、明確にわかるのはここぐらいでした。
さあ、ではここが最終端ということで、引き返しましょう。
枯れ枝の存在感・・・。
ためいきが出るほど、格好良い風景の連続です。
安比奈駅から入間川の河原まで、砂利採取用のトロッコ線が走っていた、といいます。
河原で採取された砂利は、選別機にかけられて貨車へ詰め込まれる。そして都心へと送られる・・・その線路上に、ドイツ・コッペル社製のE型蒸気機関車が長らく放置されていたらしいのですが、いまは無く。
2方向の架線柱が並びます。左側は点検場にむかうもの。
右側は、砂利採掘にむかうもの。
さて。最初に線路に出会った地点に戻ってきました。
右手に、モトクロスの練習場がありました。そこでは何人かが練習に励んでいて、久しぶりにこの世の人間に会った、という感じがしました。さっきまで、異世界に行っていたかのような心持ち。
なぜか、車止め。
線路をただただ歩きます。道路の盛土によって途切れるようで、
途切れない。
枕木はほとんど消え失せていて、木の根が自然の枕木のようになっていたりします。
やっと、最初の鉄橋が現れます。
池部用水という水路に架かる、池部橋梁。
以前はもっと廃感があったらしいのですが、NHKの朝ドラに使われたため、整備されてしまい非難轟々であるとかなんとか。結構人さんがこの辺でトロッコを見つけていましたが、ありませんでした。
その下には確かに谷がありましたが、枯れていました。地図上では開渠なので、農閑期は止めてあるだけなのでしょうか?いや・・・久しく流れていないような雰囲気だけど。
思わず、谷底に降り少し先まで歩いてみてしまいましたが、残る行程を考え、おとなしく戻ります。
池部用水のほか、前川用水、とも書かれているものもあります。もっと下流側に行くと開渠表示となる地図もあります。
先に進みます。だいぶ線路らしくなりました。
ここはいまも、たまに電車が走っているかのような風情。
枯葉をカサリ、カサリと踏みながら歩く。
映画のセットのよう。冬に来て、良かった。
森のような空間をスポッ!と抜け、また違うエリアに出ます。
ここからが、水路が交叉してくるエリアです。
さっそく2つめ。資料には「横断下水渠」とのみ書かれる、名もなき水路。
枯れているように見えますが、この先にはきれいに補強されたコンクリ護岸があります。
安比奈線は難なく渡ってゆきます。
線路の「上」に架けられた橋も。
また水路。これも無名で、資料には、横断下水渠とか、「あくすい」とか書かれています。
朽ちた枕木がすてき。
次の水路には、水が流れていました。西ノ谷溝渠というようです。
ここまで渡ってきた水路たちは、拡大した地図を見てみると、すべてさきほどの池部用水に落とされていくように見えます。
しばらくすすみます。
そろそろ、おなかがすいてきた。
ちょっと変わった状態の水路がありました。この先にも水路の窪みは続いているのに、なぜかここで水は止まり、淀んでいます。いったいこの後どうしたいというのか。・・・結構人さんが行かれた時も同じ状況で、「暗渠になりそうな雰囲気」と書かれていましたが、この水路は数年間こういう状態であり続けているみたいです。
この水路は長瀞用水、この僅かな橋は長瀞川橋梁、というようです。享保橋という名で書かれる資料もあったので(それは後ろの道路に架かるものかもしれないけれど)、この道路はずいぶん古くからありそう。
長瀞用水はもっともっと北西まで遡ることができ、実はさきほど見てきた名もなき水路群は、この長瀞用水の分水であるように見えます。長瀞用水から落とされ、池部用水につながる水路たち。往時は、たくさんの田んぼを潤していたのでしょう・・・
さて、いったんゴハン。
地図をながめながらこの安比奈線プランを練ってみれば、ここに立ち寄らないわけにはいかない。ちょっと、横に逸れます。
埼玉川越総合地方卸売市場、花いちで昼飯。(自然にここに行ってました・・・結構人さんと店選びが被りやすいww)
市場めしは、本当に好き。ゴハンの前後に、市場を見て回れるのも良い。しかしここ、ずいぶん並ぶのね・・・。何を食べるかさんざん迷った挙句、有頭海老が食べられないわたくしですが、海老フライの定食にしてしまいました。食べられない部分を寄越された、隣の人がいい迷惑。わはは!
ビールも飲んで、エネルギー充填して、さあ再開です。
長瀞川橋梁のところにふたたび戻り(ここに居た飼い犬の、寂しそうな雰囲気が忘れられない)、少し進むと、こんどは少し広めの開渠。広町用水というようです。・・・枯れています。
隣に民家があるわけですが、この、庭にあるイスとテーブルはかなりうらやましかったです。廃線&水路の真ん前!
広町用水は、まもなくさきほどの長瀞用水とあわさり ます。
さらに少し進むと、
おつぎは、ザ・鉄橋!という感じの橋が。葛川橋梁です。
森を抜けたところ以降、交叉してくる水路がだんだんゴージャスになってくる気がします。わたしたちの旅を、じわじわと盛り上げてくれるような、ありがたき演出。
下に流れるのは、なかなかきれいな浅い用水路。葛川というようです。
リバーサイドさんの記事を参照すると、葛川も時期によっては流れが止まるようです。
錆が実にきれい・・・
長い長い。
葛川橋梁は、安比奈線最長の橋。とても立派です。
そしてすぐにもう一本。
こちらのボロッとしたほうは、赤間川橋梁。
真下を赤間川が流れます。赤間川とは、新河岸川の上流部にあたるもの。江戸期からそう呼ばれており、フナ、ライギョ、コイ、ドジョウ、タニシ、ヤツメウナギなどが採れたそうです。
水源は、東陽寺(弁天池があるらしい)あたりと言われていましたが、江戸期に入間川から取水するようになりました。それにより水量が増えた新河岸川は、舟運の発達につながり、川越の発展に寄与したといわれます。
赤間川は赤間川用水路とも呼ばれ、舟運のみならず水田等にも利用されていました。昭和16年から改良工事が始まったのが、戦争により工事内容が変わってしまったりしたそうです。昭和の初めは、とにかく水量を増やすために苦心している様子。戦後も、アメリカ空軍に分水して用水が不足したりしています・・・改修工事はなんと昭和52年まで続き、やっと改善がみられたそうで。
この赤間川も、東京の水路同様、都市排水路化する時代があります。水質の問題の他、洪水の問題もあり、かつては赤間川→伊佐沼→九十川→新河岸川、という流れ方をしていたのを付け替え、赤間川→新河岸川とし、洪水を防いだのだそうです。
なかなか、波乱万丈川生の赤間川。
いまひとつはっきりしませんが、資料によると、この2つの橋のうちどちらかが「捨場橋」という別名を持っている可能性があります。人が渡る橋と考えると、少し位置がずれるかもしれませんが・・・いずれにせよ、この2本の水路が走る低地は、かつて捨て場だったのかもしれません。
そういわれてみると、たしかに畑地があるくらいで荒れ地のような場所で、捨て場感、あるかも・・・。
赤間川に、さきほどの長瀞用水、広町用水、葛川も合わさって、やがて新河岸川となります。わたしは新河岸川というと、河口部分の大きなものしかイメージできませんでしたが、上流部はこういう風景だったのですね。
つまりここで、最初に横切った池部用水、その次のミニ水路群、そして最後の用水や小川がすべて、脳内でつながるわけです。安比奈線に絡む水路はすべて、新河岸川に至るということ。そして荒川へ・・・
さて、水路頻出地帯はこれでおわり。あとは線路を楽しみます。
その先、市街地に入っていきます。また風景が一変。
安比奈線はほぼ菜園だったり、
植物園になってたり。こういうとこ、暗渠に似ています。
ここらへん、フラワーゾーンと呼ぶこともあるようですね。メルヘンw
線路わきに団子屋さんがあったので、調達してきました。素朴ですてき。線路上で歩き食べ。
「どら焼きを走らせる!」の名言が出た場所でもあります。
国道16号を渡り(線路が下に埋まっているのが見えるし、そこだけ中央分離帯が無いですね)、
もうすぐ、ゴール。
南大塚駅が見えてきます。
駅には、犬釘やら、レールの残骸やらがいっぱい積まれていました。再利用のときを待つものたちなのか・・・?
「なんだあれ、宝の山じゃん!!(少し分けてくれ!)」と、廃線好きは興奮してしまいます。
もうちょっと進むと、南大塚手前の踏切のところにも名残がありました。
これにて、安比奈線あるき、終了~。周囲も薄暗くなってきたので、移動します。そうそう、この後、折角だからって川越まで歩いたんでしたw
***
おまけ。
ゴールである南大塚駅は川越駅のとなり。この日、夜に川越の遊郭跡も見ていました。そのころにはもうへろっへろになっていたので、ほとんど執着できませんでしたが・・・何軒か気になったので、
後日、資料を探しに来たときに再訪。
ここは、遊郭時代の建物(大正期)が食事処となっているお店。栄。
牛タンのシチューがおススメのようですが、残念、あたしゃタンは食べられません。
日替わりのランチにしたら、鰻丼が出てきました。期せずして川越で鰻が食べられた。この日は立っているだけでもしんどい真夏日だったので、冷やし茶碗蒸しがうれしかったです。
冬と夏、両極端な季節に来てしまいましたが、付近にはほかにも趣ある建物がたーくさん残っているので、安比奈線をサクッと済ませて川越散策とセットにするのも、アリだと思います。
***
西武安比奈線。わたしが生まれるより前に、この線路の時間は止められてしまいました。
かさり、かさりという枯葉の音以外は何もしないような、しずかなしずかな、眠っている線路。
安比奈線が運んだ砂利は、東京オリンピック前の東京でも使われた。・・・と、いうことは、もしかするとその中には、コンクリートの板となって、都市河川の蓋になったものもあったかもしれない?もしかしたら、暗渠の生まれ故郷のひとつ、かも・・・なんて、あとから想像してみると、一層味わいが深くなっていく気がします。
なにより、あの場所のあの風景を見るだけでも、とてもいい。澄んだ冬空にとても合う、良きさんぽでした。
<参考文献>
イカロスMOOK「実録 鉄道連隊」
入間第二用水土地改良区「第二用水の概況」
「イラストマップ大東みてあるき」
刈部山本「デウスエクスマキな食堂10年夏号別冊 B充アルバム00-廃景・西武安比奈線-」
川越市大東公民館「ふるさとの川めぐり」
「川越の歴史散歩」
NEKOMOOK「写真で見る西武鉄道100年」
リバーフロント整備センター「身近な川について考えよう 不老川流域編」
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