桃園川で起きた、うつくしい偶然
ある日、桃園川を歩いていたら。
緑道の真上に、夕陽がうかんでいたのです。
まっすぐ流れる桃園川に、まっすぐ落ちていく太陽。
・・・ポチャン。
あっというまのできごとは、きっと桃園川からの贈りもの。
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ある日、桃園川を歩いていたら。
緑道の真上に、夕陽がうかんでいたのです。
まっすぐ流れる桃園川に、まっすぐ落ちていく太陽。
・・・ポチャン。
あっというまのできごとは、きっと桃園川からの贈りもの。
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中野の宮園通り(今は大久保通りと呼ばれます)付近に、かつて”生民軒原科牧場”という牧場がありました。
この牧場の名前を初めて見たのは、豊島区の資料の中。
主として豊島区の牧場について触れられているその資料の中に、中野のココが登場したわけは、牛舎に網戸が付き、一頭ずつシャワーを浴びることができる設備のある”模範的牧場”として、当時有名だったためであるようです。
その、優良牧場生民軒は、大正8年~昭和初期に存在していたといわれます。そのころ、中野には8つの牧場がありましたが、やはりココが最先端だったようでした(ちなみに杉並は中野より牧場がぐっと少ないんです・・・ 参照記事)。
宮園牧場、としてその存在を意識してはいたけれど、なぜかその位置を1ブロック東のように勘違いしていて(それは、そういう適当な地図を先に見ちゃったからだけど)、桃園川のすぐ脇なんだ、と暫く思っていた生民軒。
ところが実はもうちょっと離れていて、しかもなんとそこに開渠があったというのです。味噌maxさんからそのことを教えていただいたときのあの興奮は、いまもようく覚えております。
その、ちいさな開渠がコレ。
そもそも、中野区でこういう感じは割と珍しいかも。
写真が小さいのは携帯だからです。何度も見に行った割に、携帯でしか撮ってなかったようです。
まぎれもなく開渠。雨水溝として、たまには機能するのでしょうか。
入り込めない仕様ですが、申し訳程度に蓋が架けられていたりして。
写真の左側がわずかに崖。崖下です。
場所はどこらへんかというと、
薄い水色点線のところです。gooさんありがとうございます。関係ないけど、ケミカルコーポが気になる。
桃園川からは確かに少し離れているけれど、流域は間違いなく桃園川のものです。もしかすると、河川改修前は本流があった場所かもしれない、なんて、夢が膨らむ位置です。
そして緑丸の場所に、当時の牧場主の方の家が(推測ですが、名字が同じなので。当時のままかもしれないような、立派なお宅です)あるのです。ということは、牧場はそのあたりなのでしょう。
もうこれは、生民軒牧場支流(仮)と呼ぶしかない。
一応、昭和38年の写真も見てみます。
写真からは、あの細い細い水路なんて見えませんが、今あるんだからこの当時もきっとあったでしょうね。時期的に、牧場自体はもうなくなっているはずなので、それらしき場所には建物ばっかりです。
仕方がないから、頭の中で想像、想像。
生民軒原科牧場の歴史のお話を、すこし。
千駄ヶ谷の生民軒で修業したあるじが、大正8年に中野で開いた牧場。
昭和4年の写真なら、なかの写真資料館で見ることができます。牛がいっぱい!
生民軒・・・そういえばその名を、以前空川について調べたときに、ぱらぱらと目を通した資料でも見ていました。国木田独歩が住んでいた家の近くに牧場があって、よく牛乳を飲んでいたという話が出てきます。
その牧場こそが、生民軒だったのでした。
中野に開いた生民軒牧場は、戦後、鍋横のほうに移ったようです。そこに嫁いで来た(その方は桃園川脇の時代から居た)という方の語りを目にしました。その方いわく、夫の実家は牛乳屋を開いてからは50年ほど経っているとのこと。多い時で1500軒をまわり、配達の人も10人くらいは居たといいます。
だいたい、現代に暮らしていると、中野の駅近くに牧場があったなんて想像できないと思います。しかしほんの数十年遡れば、中野区は区をあげて乳牛の飼育を奨励していた時期だってあるのでした。
東京都において、酪農の発展が奨励され、”都有牛の貸し付け”があった時代がありました。昭和26年、中野区でも優良乳牛を貸し付けるようになります。都有牛ならぬ、区有牛です。・・・なんだかまったくピンと来ませんが。
”貸し付け”なわけですが、牝牛を産んだらその牛はいただけるというシステムでした。
昭和26年、千葉から4頭の子牛がやってきます。区にしてみれば、待望の区有牛第一弾です。その子牛たちと人との記念写真が、区報に載っていました。1頭につき一人。正装してかしこまり、なんともほほえましい感じで。
昭和28年には、その区有牛が牝牛を産んだため、区報には”★区★有★牛★お★手★柄★”という、浮かれた見出しが載っていました。★マークとか、使うんですねw
中野区で「モォー」「モォー」という声が聞こえていたのは、いつ頃までか。その後、牛の話は、ぱったり見かけなくなります。
・・・話を生民軒原科牧場に戻しましょう。いや、生民軒牧場支流(仮)に。
あるとき、その生民軒牧場支流(仮)の開渠の姿が、変わり果てていることに気づきました。
開渠が、暗渠になったというわけです。
でもわたしが感じたのは、喪失感。なぜか、残念な気持ち。
そりゃ暗渠は大好きですが、貴重な開渠は開渠のままであってほしいし、暗渠化するにしてももっとズコーってなる感じのにしてほしいんですよね、川崎とかみたいに。
嗚呼それにしても、何故わたしはこの開渠をちゃんとしたカメラで撮っておかなかったんだろ。はぁ・・・。いまさらですが、他の部分も、あわせて掲載しようと思います。
さきほどのスペースから下流側にまわるとこう。
やはり崖下です。
たまたまずっと空き地の場所があって、ここだけ入り込めるのでした。
上記のように、暗渠になっちゃった後も、この位置の崖下はなんとなーく隙間が空いたままでした。
でも、この写真を撮ったときからも、既に半年以上が経過しているのです。その間、中野五差路の再開発はどんどん進んでいるので、いまどうなっているか、知りたいような知りたくないような。
ここで、おわり。この隙間にも、以前はもっとちゃんとした開渠があったのでしょう。
僅か1ブロックにだけ残る、川跡でした。この前後もきっとあったはず。
***
さて、ゴハン。
牧場支流に来たんだから、地産地消。牛肉系でいきます(というの、ワンパターンでスミマセンw)。
生民軒からいちばん近い焼肉屋さんといえば、ソウルハウス。
なんとなぁぁぁぁく、入りがたいと長らく思っていましたが、改めて検索してみるとなかなか好評価のもよう。コスパが良いという、ランチに行ってみることにしました。
ビビンパを注文。
冷奴や味噌汁のような、意外に日本風の小皿付。それにしても、韓国料理はこういうふうにいくつも小皿が来てくれるので、ほんとに幸せな気持ちになります。石焼ビビンパは味が熱で飛んじゃう気がするので、ビビンパのほうが好き。
ビビンパふくめてぜんぶ、家庭的なあたたかさのある、おいしいランチでした。たしか600円前後、コスパも良かったです(前過ぎて記憶が消失)。夜も来てみたいなぁ。
・・・あ、牛肉食べるの忘れてる・・・
さてさて短い記事でしたが、暗渠に絡めて牧場へ行き、牛乳飲んだり焼肉食べたり・・・というの、これで5~6回は書いている気がします。牧場カテゴリ、つくろうかしら。
それから、長編記事については再び千葉や、埼玉に離れるようなものが並ぶかもしれませんが、今回の川跡も絡むかもしれない”桃園川の改修前流路をたどる編”、というものに、そろそろ着手したいなあと思っています。
<参考文献>
豊島区教育委員会「ミルク色の残像」
中野区報31号、34号、75号
「中野の農業いまむかし」
「見たい聞きたいのこしたい なべよこ観察隊」
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