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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 鎌ヶ谷編

「鎌ヶ谷に行きたいけど、佑ちゃんが入団したてだから、混んでるかもなあ。」
そんなことを言っていたのに、ずいぶん経った気がします。気になるけど来られずにいた街、鎌ヶ谷。

チバ編を書くようになってからというもの、千葉の地図をグイグイ眺めるようになりました。その印象は東京のそれとはまた異なっていて、初めて見る駅名、ぶっきらぼうな地名、妙にソソる境界線・・・いろいろなものが目に飛び込んできます。

鎌ヶ谷市も、気になったもののひとつでした。

Kamagayamap1

鎌ヶ谷の地図。yahooさんありがとうございます。

・・・気になりませんか?

Kamagayamap2

とくに、ここが。

船橋市の飛び地が、入り込んでいるんです。しかも、飛び地の囲われ方がまたなんとも。。。

そんなわけで、「気になる」ので(そしてきっとこれには川が絡んでいるだろうから)、現地に行ってみることにしました。

馬込沢駅にて下車。
初めて降りる駅でした。
鎌ヶ谷市自体は、叔母の家から近くって、以前はよく車で通ったり、スーパーに買い物に行ったり、テニスをしに行ったりしていました。けれど、この馬込沢近辺はまるで掠ったことがなく、慣れない風景にずいぶん遠くに来たかのような心持ち。

さっそく、駅から、飛び地の中心へと向かってみます。
するとずいぶん起伏があって、なるほど台地の上が飛び地”船橋市丸山”です。由来は丸い山のようだから、とか、丸い台地だから、とか諸説あるものの、いずれにせよここは”丸山”っぽい地形をしているといえます。

Kmgy2

丸山はほとんど台地で構成されていますが、実は真ん中を谷が貫いているのでした。そこに川があるかもしれないと思い、向かいました。

谷の部分には、道路がありました。写真右側にゴルフセンターがあり、そのあたりから緩やかに谷が始まっているように見えます。そして線路をこえ、左側へと下って行くのです。わたしも一緒に下ります。

さあ、本日のさんぽのはじまり。

Kmgy3

谷には商店街が形成されていました。
やや、古い商店街のようで、仕舞屋なのか朝だからなのかわからないけれど、閉まっている店が多かったです。

すてきな駄菓子屋さんを発見。
古き良き文房具が陳列し、駄菓子が売られ、そして脇にミニ・ゲームコーナーがあります。ゲームは所謂駄菓子屋さん的なもの。
子どもたちがお小遣い片手に走ってきて、ジュースをちゅーちゅーやったり、ブタメンにお湯を入れたりしながら、ゲームに熱中するような。

Kmgy4

わたしも、おもわず駄菓子をあれこれ買いました。

梅味ののしいかを歩き食べながら、丸山の谷を下ります。

Kmgy5

谷底の道沿いに銭湯の残り香がありました。

右側の駐車場に建っていたのかな。

Kmgy6

最初はゆるやかな段差だったのに、進めば進むほど両脇との高低差が激しくなります。
山を見上げるかのよう。

あっちも丸山、でもこっちも丸山。

Kmgy7

ふと。

あれ、地面に何かある。

Kmgy8

な、なんと・・・水が流れてた・・・!

Kmgy9

ここは、いまも流れる暗渠だったようです。地面のわずか30cmほど下を。

谷底道で蛇行しているため、かつては川だったろうなと、だけどその目に見える名残が薄いなと思ってはいたけれど。。。

Kmgy11

丸山を下りきると、地面の下にあった水路はコンクリ蓋暗渠に変わります。

Kmgy12

ずっと船橋市丸山を歩いてきましたが、低いところにきたら、鎌ヶ谷市西道野辺に変わりました。

さっきのコンクリ蓋暗渠がある場所は矢印のところ。

Kmgy14

そのさき、水路は歩道の下となって、

Kmgy15

直進し、まもなく開渠と合流します。

この開渠の名は、二和川。少し下れば、丸山の北側を囲むように流れるもう一本の小川とあわさり、大柏川と名を変えて、真間川に合流するものです。
大柏川は谷地川とも呼ばれる、改修され舟運に使用された水路です。それにより随分と付近の農作物の出荷が改善したといいます。この近くまで、屋形船が来ていたとか。

お。ここで鎌ヶ谷市の看板が登場。

Kmgy16

水路のそばは、ホニャララです。

ホニャララを各自埋めなさい。

ってことでしょうか・・・?

Kamagayamaruyama

今たどってきた暗渠は、陰影図で見るとこういう感じです。google earthさんありがとうございます。
船橋市丸山ばかりを通るものなので、二和川の丸山支流(仮)、とでも名付けましょうか・・・。

この、飛び地”丸山”の歴史が気になるので、紐解いてみることにします。


丸山は、上山、藤原といった近隣の地とともに、江戸は延宝年間に拓かれた新田村でした。この3村は成立事情が似ていること等から、明治22年の町村制施行のとき、集まって法典村となります。
同時期に鎌ヶ谷村が丸山をぐるりと囲むかたちで誕生しているわけですが、丸山新田は鎌ヶ谷村には入ることなく、その後法典村は船橋市となって、いまのような飛び地が残り続けています。

一方、その丸山も含む船橋市の、サンドイッチの具になっているのが鎌ヶ谷市馬込沢と道野辺。道野辺に、昭和に転居してきた方の語りが残っています。
当時、鎌ヶ谷の小・中学校に子どもを通わせるとなると随分と遠かったので、困っている人は少なくなかった。それで昭和43年頃、道野辺で”船橋市への編入”のため動こうとしたところ、農地法の問題に行きあたったといいます。すなわち、不在地主となると行政に法定価格で買い上げられてしまう法律があり、鎌ヶ谷市に農地を持っている人が結構いたので、その地主さんたちの財産が失われるのを避けるべく、編入の話は止めた、というのでした。編入問題は2回ほど持ち上がったけれど、新聞などには一切出なかったそうです。

・・・この、”どの村(市)に所属するか”という話には、たくさんのひとびとや組織の思惑が、ドロドロと蠢いていたような気がしてなりません。
地図をよく見てみると、馬込沢駅だってビミョーです。船橋市と鎌ヶ谷市にまたがっていて、駅前には船橋市馬込西がデーンと広がっている。なのに、駅名は馬込沢(鎌ヶ谷市の方の地名)。駅名を決めるとき、もしくは駅の位置を決めるとき、血は流れなかったのでしょうか・・・。

17世紀、”境界”をめぐる争いは各地で起こっていました。
今回は歩いていませんが、上述の”藤原”をめぐっての境界争論の絵図は残っていて、中沢村(現鎌ヶ谷市)と藤原新田(現船橋市)のバトルぶりは垣間見ることができます。
このときは、境界の立木の伐採をめぐる争いが勃発し、4年がかりで境界が確定し、そのときの境界が、今も残る藤原の飛び地であるということです。

Kamagayamap3

ここのこと。

ちなみに、このとき、藤原=台地上に成立した新田村が、水田となる低地を獲得することが出来たのは珍しい、とも言及されています。
丸山にひきつけて考えれば、台地上の丸山が低地の馬込沢・道野辺を吸収するというのも、考え難いことだったわけですね。パッと地図を見ただけだと、この市境がまどろっこしくなり、近いんだから編入しちゃえばいいのに、なんて考えちゃうのですが。

藤原とは異なり、丸山に関する話題は、文献上は常に淡々としたトーンです。


唯一、

”このとき、江戸時代以来道野辺村と関係が深かった丸山新田が、鎌ヶ谷村ではなく法典村に入ったため、同村の飛び地となった。”
(「自治体鎌ヶ谷の歴史-村から町、町から市へ-」より)

という文章に、恨みのようなモヤッとした感情が込められているような気がするくらい。

関係が深かった、というのは、江戸時代の前期、丸山は道野辺村の運上野(一定の税を納めれば独占的利用を認められた地)だったことを指します。ひらたくいえば、「ワシらのもんだったのに・・・」という気持ちなのではないか、ということです。

ドロドロとしたものが、あったのかどうかわたしには知るすべがありません。わからないけれど、とにかく今回は、その舞台となった2つの市を味わいながら歩いてゆくことにします。

台地上にできた丸山新田。崖下に二和川が流れていても、その恩恵は受けられずその土地を吸収することもできず。この新田村で唯一の自然河川が、丸山支流(仮)であったことでしょう・・・。なんだか、行田の大刀洗川と似ていますね。

さて。
というわけでここからは、市境のことを絡めながら二和川を遡っていきたいと思います。現行の地図には二和川、とありますが、馬込沢用水路と呼ぶ人もいます。

Kmgy17

さきほどの合流点から遡上。

まもなく、だだっ広い調整池が出現します。二和川はその脇をハシゴ式開渠で流れてきます。

Kmgy19

冒頭の地図を見た際、ココが気になった方もいるかもしれません。
鎌ヶ谷市が突然横に突き出る、ココ。

ココにも行ってみましょうか。

Kmgy20

そこは想像どおり、谷戸でした。鎌ヶ谷市部分は谷底で住宅が並んでおり、その両側にそびえる山林部分が船橋市です。

地形的には川がありそうですがほとんど痕跡はなく、奥の方にこんな細い暗渠があっただけでした。

因みにココは「横下」という小字でした。

Kmgy21

横下には、こんなマンホールがありました。

汚水か?雨水か?
”汚”が削ってあるのでした。ほかにも、同じものがいくつも。

この下を流れる水は、下水なんかじゃない、ましてや”汚”水なんかじゃない。どんな見た目をしていたって、それはわたしたちの生活を支えてくれるおんなじ水だろう?、、、と、言って”汚”の文字を削っているかもしれない”哲学的な鎌ヶ谷市の職員ごっこ”をしながら歩きました。

Kmgy22

本流に戻ります。
桜の季節だったので、桜も愛でます。

暗渠の細道を撮っているとき、暗渠者は結構な確率で「いつ職質されるのだろうか」とハラハラしていると思います。しかし、こういう風景を撮っているときは安心です。「桜撮ってます!」と胸を張れますからね・・・。

引き続き、二和川遡上。

Kmgy24

すると、脇にまたコンクリ蓋が出てきました。団地から支流がやってきたようです。

Kmgy25

その先を追っていくと、あげ堀然とした道が現れました。

Kmgy26

あげ堀っぽい道を探索すると、下流は暗渠のまま道になってしまい、上流はこのように開渠です。

団地から出てきているような合流口もありました。

Kmgy29

上流側に行くとふたたび蓋がされますが、見てくださいこの残念な蓋を。ガタガタ。
杉並のコンクリ蓋職人に、正座で怒られるレベルのガタガタぶりです。バーチー・・・w

・・・まぁでも、これもこれで愛らしいんだけど。愛らしくって一杯ここの写真撮っちゃいましたw

Kmgy31

そのさき、ガタガタなまま民家の脇へと入っていき、また突然に開渠となります。

さらに遡っていくと、

Kmgy33

曲って本流に戻っていくハシゴ式開渠。
本流と並走して、そしてコの字を描いて戻ってくるカタチ。やっぱりあげ堀なのか?

Kmgy34_2

と思ったら、もう少し上流まで行く流れもあって、その先で暗渠になって地上の形跡も消えました。

Agebori

こういう流れをしていました。複雑だな。。
ちなみにこの位置では、このあげ堀的なものイコール市境となっていますね。そう思いながら上の何枚かの写真を見てみると、また感慨深し。

ふたたび、本流遡上に戻りましょう。

歩いているところの住所は、丸山を過ぎてからはずっと鎌ヶ谷市(道野辺→馬込沢)です。細く延びるかたちは、そのまま二和川の谷底。かつては水田があったのでしょう、川筋を死守するような土地の残り方です。直前の複雑な水路も、田圃の用水路と思えば納得。

二和川を遡っていると、左手には常に船橋市丸山の丘が見え続けます。丸山と鎌ヶ谷市は常に崖上と崖下で、長い階段のみでつながれ、基本的には分断されているような雰囲気があります。

上は丸山、下は馬込沢。丸山と馬込沢は、どういう関係にあったのでしょうか。交流はあったのでしょうか。
連れと二人で”馬込沢と丸山の住民ごっこ”をしながら進みました(内容は想像にお任せしますw)

さて二和川本流は、

Kmgy37

ちょこまかと支流をあわせながら、

Kmgy38_2

馬込沢駅前へ。

駅前にはもうひとつ支流が流れていて、

Kmgy39_2

それは馬込沢駅のホームからも見えます。

Kmgy40

支流はサミットの下をくぐってきて、本流に合流し、東武野田線をくぐります。

Kmgy41

わたしたちも線路をくぐって、反対側へ。

駅前における、二和川本流のながめ。ここから見下ろしてみると、

Kmgy42

まるで小さな渋谷川!

小渓谷がそこにはありました。

Kmgy43

小渓谷の先は、半コンクリ蓋、半ハシゴ式開渠。

Kmgy44

コンクリ蓋は、自転車駐輪場(右の青いプレハブ)を使用する人の通り道のようです。橋の役割を終えるとまた開渠となって、

Kmgy45

すこし上に、ずいぶん立派な水門がありました。

どうやらこれは、芥止めのようでした。
すぐ下流が駅前なので、ここらへんで大物芥を止めておく必要があるのかもしれません。

偶然かもしれないけれど、この水路の過去の様子を書いたものには、”馬込沢に堰を作り、そこを水源として下流一帯を灌漑”していた、とあります。馬込沢にあった大きな堰・・・もう少し下流だったかもしれないし、もしかしたら、ここにあったかもしれないし。

ともかくかつての二和川は、付近の農業には欠かせない大事な水路でした。鎌ヶ谷市に多くの恵みをもたらしたことでしょう。今は、排水路となり、農地はほとんど住宅になってしまいましたが・・・

Kmgy46

その少し上流には、ありがたいことにまた半分通路があって、何へのアプローチかと思えば、

Kmgy47

新しめのスーパーがありました。

この、スーパーの敷地のところで、水路は2つに分かれます。いや、今は遡っているので、正しく言えばここで2流が合流するのです。
1本は、この真っ直ぐ下りてくる流れ。スーパーの駐車場を暗渠で抜けます。

Kmgy50

こちらは細いので支流でしょう。

本体は細めですが、上に架かるは分厚くて大きな鉄板蓋!
カート置き場になっていたり、ベンチもあったり活用されていますw

Kmgy49

2本めは、直角に曲がってスーパーの建物へとまっしぐら。

ど、ど、どうなるの・・・と思って追っていくと、

Kmgy51

う、売り場の下を暗渠が走っていました!

売り場蓋か・・・さすがバーチー。
みなさん自然体で、グレープフルーツやウーロン茶やじゃがいもを買っていきます。暗渠の上で買い物(我々大興奮)焼き芋もあるでよ。

このスーパーにはお買い得な食材もいろいろとあり、上流まで遡る任務がなかったら買っていたところでした。

Kmgy52_2

なお、売り場を過ぎると開渠に戻ります。
さりげなく横に仮設トイレが設置。

こちらのほうが太い流れなので、本流でしょう。

しかし、なぜにこんなに、スーパーを巻き込みながら二和川は複雑な動きを見せるのか?
実はこの場所のクランク、明治10年の絵図と同じかたちなのです。支流と思しき鉄板蓋の方の流れは、現在はこのやや上流でカラカラの小さな開渠となり消えてしまうのですが、明治期もそのあたりからスッと流れが始まっているのでした。かつては、そこに湧水があったのかもしれません。

昔からの流れを、そのままにして蓋をした、というのがココの実際だと思います。

もう少しだけ、遡りましょう。

Kmgy53

えんとつが見えてきました。

水路そばにつきものの、お風呂屋さんの登場です。ニコニコ湯。どうやら現役のよう。

Kmgy54

どんな銭湯かな~と思って入口に回ると、そこはこんなことになっていました!!

Kmgy55

うわぁ、なんちゅうパラダイス!!
居酒屋が何軒も並ぶ横丁の、最奥にニコニコ湯があります。

銭湯の周辺に飲み屋さんがある景色は、いつもステキだなあと思って眺めますが、このニコニコ湯周辺のパラダイスぶりは今まで見た中で最強。すばらしい。すばらしすぎる・・・嗚呼でも今はまだ午前中。なにひとつ開いていません。

というわけで、お風呂屋さんの開く時間に再訪することにしました。

お風呂の様子は、コチラのブログが詳しいのでお譲りして。
お湯はかなり熱めのうえに、「うめるの禁止」と入店時に言われてしまい、四苦八苦しながら入りました・・・でもこのすべての立地のすばらしさ、銭湯の古ぼけ方、これらが堪能できるんだから我慢できるゼェェ!

と、がんばって入浴した後には、

Kmgy56

横丁の適当な居酒屋に入り、まずはビールをプッハー。

ついでチューハイにうつって、焼鳥、ギンダラの煮つけなんかをちびりちびりと。
濡れたタオルも、いつしか乾く・・・

なんとも良い場所じゃないですか、鎌ヶ谷。

Kmgy57

ちなみに、このニコニコ湯と横丁はこんな場所に建ってます(山河、と書いてあるあたりが横丁)。

見てみてください、市境を。
このニコニコ湯と横丁、すぐ両側が船橋市なんです。

Nikoniko

細い鎌ヶ谷市部分のうちでも、だいぶクビれてるとこ!

Kmgy58

ここだけが鎌ヶ谷市なんです・・・!
なんという場所・・・!
なんかすごく頑張っている感じ・・・!!

今にも崩れ落ちそうな2つの建物の間に立ち、その隙間を辛うじて自らの両腕で支える屈強な男。建物の壁はガラガラと音を立て、男の頭に降りかかる(=船橋市)・・・死を覚悟し、しかしはっきりとした声で男は叫ぶ。「俺になどかまわず、行けェェェ!!」(=鎌ヶ谷市)・・・

という、”ハリウッド映画のサブキャラ(超いいヤツ)ごっこ”をしながら、ニコニコ湯一帯を後にしたのでした・・・

ちゃんちゃん。

今回見た開渠&暗渠を、ざっくりと載せるとこんな感じです。

Kamagayatikei2 

鎌ヶ谷と船橋の市境が織りなす暗渠の旅、いかがでしたでしょうか。

この二和川、これで終わりではありません。次回は続きとなる二和川上流部を、また違う切り口でご紹介したいと思います。まて、次号!

<参考文献>
「絵図と地図で見た鎌ヶ谷の400年」
「鎌ヶ谷市史 上巻」
「鎌ヶ谷市史 資料集17 近・現代 聞き書き」
「鎌ヶ谷の歴史シリーズ」
「自治体 鎌ヶ谷の歴史 -村から町、町から市へ-」
「ふるさとの地名 船橋・鎌ヶ谷の地名の由来を探る」

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コメント

実に面白かったです。鎌ヶ谷在住で、前は新高円寺に住んでましたが、移り住んでからは、不便な市だなと…。何もかも中途半端で、やる気のない市です。下水道の整備は、ワースト10に入賞しているし、飛び地はあるし、わからんです。馬込沢附近は、中山競馬場が近くにあるのが因果ではないですが、昔は馬が一杯いたらしく、馬込みという意味?から、命名された様です。ここまで、熱心に調べている人がいるのに、驚きました。

投稿: 福島ヒロキ | 2014年4月 1日 (火) 20時57分

>福島ヒロキさま

はじめまして。お読みいただきどうもありがとうございます。
桃園川(或いは善福寺川)流域から、二和川流域へとうつられたのですね。たしかに川に流れこむ下水は、鎌ヶ谷の課題だろうと思います・・・が、鎌ヶ谷には地形的な名所があるとわたしは思っています。それは3方向への分水嶺です(2方向ばかりですから、3方向は珍しいと思います)。とても地味な場所にその案内板が設置してあるのですが、
http://www.chibanippo.co.jp/news/local/102521
ここに「雨の三叉路」と書いてあるのが、非常に気に入っています。

仰る通り、千葉にはいにしえの馬の牧が多かったようで、馬との縁が強いみたいですね。船橋の記事になっちゃいますが、馬と絡めた記事も書きましたので、よろしければあわせてご覧になってみてください。
http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2013/04/post-df66.html


投稿: nama | 2014年4月 3日 (木) 12時47分

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