ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 松戸編
松戸ってどんな街?
・・・じつは、よく知らないんです。
わたしにとっては、親戚宅に行くときの乗換駅なだけでした(しかもちょっとの期間だけ)。降りたことはないものだから、町並みも地形も、なんにも、知らない。
今回は暗渠と軍跡をたどるため、その松戸に降り立ってみました。
こんな地形みたいです(google earthさんありがとうございます)。 だ、大胆だな~!
まずは、川のある方向へ。駅から西へ行けば、川、川、川です。
江戸川と、
坂川(これが一番駅から近い)と、
樋古根川。
この、川たちに挟まれたエリアに、かつて色町があったといわれます。
平潟遊郭。
川との縁抜きには、語れない場所。
平潟遊郭は、上述の坂川と樋小根川の間に在りました。
この位置です(googleさんありがとうございます)。
平潟は、川の”砂州でできた自然堤防の上”にあると描写されます。形は細長いですが、吉原と同じように、町とは切り離された場所。
樋古根川に寄り沿うように、遊郭が在る。この樋古根川を当時地元の人は排水川(排水堀)と呼んでいて、それは江戸川の旧流路でもあり、幅10m足らずの小さな川だった、といいます。たぶん、幅は今も同じくらいでしょう。
・・・では、この地にどのようにして遊郭ができたのか。
ときを遡って、江戸のころ。
近くには、松戸宿。ここ平潟は本河岸といわれ、多くの船が出入りしていました。
男が乗るその船らに、小舟で漕ぎ寄せ、洗濯、掃除などをし、一夜を共にし、朝食の支度をして去る、という女性たちがいたとか。その商売が陸に上がり、1626年、松戸宿平潟河岸には1軒につき2人の”飯盛女”を置くことが許可されることとなりました。不法に女性を増やしては手入れがあったり、周辺の農民が仕事を怠るとか、風紀が乱れるといった批判に遭いながらも、なんだかんだと儲けの多い商売、明治には遊郭になりました。
関東大震災が、ここが栄える契機になったということです。最盛期には100名以上の娼妓を擁し、建物は・・・内藤新宿からやって来た資産家内田氏が建てたのが「三井家(改称前は九十九楼)」。大正12年頃に、吉原に負けないという意気込みで建てられたものです。凝ったつくりで、ガラスにも味があり、店の名の入った煉瓦、窓枠やタイルもすばらしく、銘木をふんだんに使用した豪華絢爛の一軒だったそうです。
「福田家」と「百年」は洋風でカラフルなステンドグラスをちりばめ、緑のペンキで塗られていたそう。廓によって客層が若干違ったようでもありますが、どの廓も枯山水の中庭を持ち、川に面した眺めの良い部屋は、少し広めだったそうです。
また楼主の住処と店は橋でつながっていて、”現実を離れて夢の世界に導く仕掛け”なのだそう。2階の”本部屋”もひとつひとつ反り橋から入るつくり。
戦後、それらは売春宿、ダンスホール、旅館などに変わりました。建物はつぎつぎとなくなってゆき、ついに平成6年、最後に残る三井家も壊されてしまいました。それから廓だったところは学生寮、日大歯学部へと、どんどん時が流れ、どんどん変わってきています。
平成も25年のいま、遊廓の名残は、はたしてまだあるのでしょうか・・・?
坂川から平潟へと歩いて行ってみます。
少し離れた橋を渡ったところに、道標がありました。
当時のもののようです。”左 平潟遊郭”と。
左に歩いてゆくと、たしかに平潟遊郭跡に着きます。東端から入ってゆきましょう。
赤丸が東の大門のあたりです。
大門は、頂上に外灯を乗せた角柱で、三種の石粉を外側にまぶしてあったといいます。大門を幻視しつつ・・・。
右側の白丸は、現在なににもなっていない空き地ですが、少し低くなっています。ここは、ちょうどこの形のまま、当時は田んぼでした。そして田んぼの隣は湿地で葦が生え、田んぼとの間には溝があった、と・・・吉原と同じ!
大門から入り、遊郭のメインストリートを行ったり来たりします。
すると、
古い外灯がありました。
おお、平潟、と書かれた住所表示もありました(現在は松戸市松戸という味気ない住所です)。
ここは、当時「高村タクシー」があった場所。
いまは住宅ばかりのメインストリートですが、表札を見ていると、平潟時代の駄菓子屋さん、洋食屋さんなどと同じ苗字の方が、同じ位置に住まわれています。
この新しめのホテルの名前は「せんだんや」といいます。
この位置には、遊郭時代は「せんだん屋」という木賃宿があったそう(近藤勇も泊まったとか)。
この裏手には釣り好きの福田家が経営する釣り堀もあったとか。
平潟神社には、水神さまが祀られていました。
そして・・・九十九楼(三井家)の名が刻まれています。
来迎寺の前。
明治の頃、お寺の鐘は時を知らせるものでしたが、客に少しでも長く遊ばせようという魂胆により、夜の鐘が数十分も遅れるので、町の人が困ることもあったとか。
来迎寺には娼妓の墓もあるそうです。お寺の前の色んなものが埋め込まれたこの塚には目を奪われます。右にあるものは庚申塚でした。
建物そのものはないものの、一見たんなる住宅街のそこここに、遊郭のカケラは残っていました。
***
川の話に戻ります。
松戸のひとが「川」(あるいは「おおかわ」)というときは、それは江戸川のことなのだそうです。
鮒の雀焼き、鯰の天ぷらに蒲焼きにお味噌汁。江戸川の魚はおいしい、と松戸の本には書いてあります。川の恵み豊かな、穏やかな土地なのか、というと・・・とんでもない、そこには水との長い闘いの歴史がありました。
江戸川のすぐ東を、下総台地の湧水を集めて流れるのが坂川です。この坂川、流山おおたかの森あたりにあった牛飼い池を源とし江戸川に注ぐのですが、水が増えると逆流しがちだったといい、松戸市史にも「坂川は普段は北流する逆川」とあります。
その江戸川は1783年の浅間山の大噴火により、泥が流れ込み川底が高くなってしまいます。坂川の水が、ますます江戸川に流れにくくなります。この排水の悪さは田畑への被害になるため、何度も幕府に願い出(それも容易ではないこと)、坂川の河口は次第に南側へと掘られていきました。
1815年に松戸の赤圦まで。1836年に栗山の南まで。しかし落差の少ない坂川、そこまで延長しても、水害はなくなりません。ここらの川べりの土地は、とくに農家にとっては長らく苦難の地であったといえます。
先ほどの、平潟遊郭を離れて坂川を下ってゆくと、その”赤圦”があります。
あれ、なんだか2股になっているみたい。
2流に挟まれた岬のようなところの上にも、住宅がありました。
ここらへんの水は随分と停滞しています。
たしかに、淀んでいます。
赤圦樋門からゆったりと江戸川に流れていっていました。
ところで、さきほどの水害が絶えなかった松戸の歴史は、ひとつの建造物でがらりと変わります。
1909(明治42)年、樋野口に排水機場ができ、それは大煙突とゴーゴーという蒸気機関の音がシンボルの、当時「東洋一の力がある」といわれた迫力モノで。その蒸気機関が昼夜問わず頼もしく排水をしてくれるようになったことで、やっと水害がなくなったのだそうです。
その後松戸では良質の米・もち米が採れるようになり、それで白玉粉をつくったら評判となり。つまり松戸は白玉粉の誕生の地かつ名産地であるそうなのです。なんと、現在も白玉粉生産日本一の玉三。知らなかった・・・
わたしたちがいま、おいしい白玉だんごを食べられるのは、この樋野口排水機場のおかげ。
って、ここ、実はさきほどの平潟遊郭の裏側、樋古根川の出口なのでした。
さて、赤圦の手前で分岐していた坂川。もう一本の方を追ってみます。
すると、松戸の市街地の方に近づいてきました。春雨橋を渡ると・・・、
あれ、このあたり、川底が見えるくらい綺麗になってる!
いつのまにか「ぼくのゆめ」叶ってるじゃん!
と吃驚すると同時に、
思ってたのと反対方向に流れている・・・!!
江戸川はこの坂川のちょいと向こう側で、正反対の向きに流れているはず・・・。
混乱していると、横には明らかな暗渠が。
松先稲荷神社の参道に橋が渡してあって、これは数十年前には流れていたような雰囲気ですね。
ご近所の方が休憩中だったので、この暗渠が昔小川だったのではないかということと、坂川の流れは反対向きではないかということを尋ねてみました。
すると、ここに水が流れていた覚えはないということ(嫁がれてきたらしい)、そして坂川については「なんで反対向きか、教えてあげようか」と言われたのですが、「江戸川から持ってきてるからなんだよ」という腑に落ちないお答え・・・。「え、矢切(やぎり)のほうからずっとですか?(ひええ、思っていたのと完全に反対向きだ!)」と聞くと、「あら、あなたここらへんの人じゃないでしょう。ここではね、やきり、って言うのよ。」という話に移行して終了。
相手をしてくださりありがとうございました・・・しかし、悶々が残った・・・
後日調べてみると、この松先稲荷脇は、数十年前までは水が滔々と流れていたそうです。
それから、ここの部分の坂川は、以前は反対向き(江戸川と同じ向き)の水が倍量で流れていたそうです。ただし、とても汚かったと。
あまりに汚れた坂川を、きれいにする取り組みが1994年に始まり、もう少し南にある小山揚水機場からややきれいな水を流し、この位置は北流させることとしたのだそうです。
つまり、こういうこと。
さきほど分岐点と思っていたところは、分岐ではなく合流点で、だからとても停滞していたわけです。
***
さて、低地ばかり歩いてきましたが、松戸の魅力は駅近辺の激しい高低差にあり。
いちど、丘の上に上がってみましょう。
冒頭の地形図には、低地に対して舌状に突き出した、いかにも城向きの土地があったと思います。ここは相模台といい、かつて陸軍が陣取っていました。大正8年、日本で唯一の陸軍工兵学校がこの松戸に出来たのです。
坂道を上ります。
訓練の帰り道にほっとするのもつかのま、教官が「学校まで駆け足!」と怒鳴るから、地獄坂、というとかなんとか。
地獄坂の途中に、境界石が残っていました。
坂を上りきると、工兵学校の門が残っています。
歩哨舎までも。
門を入ると、公園がひろがります。舌状台地の上。
・・・実はここ、陸軍の前は、競馬場があったのでした。軍馬改良等の目的で競馬が奨励されたとき、もともとは日本鉄道株式会社が”岩倉具視を祀る神社”を建てる予定にしていたこの土地を、譲り受けて馬場としました。明治39年頃のこと。
八百長などがあって開催しない年もあったそうですが、ここに競馬が定着しなかった主な理由は、もともととてもトラックの状態が悪かったためです。
なにしろこのカタチ(赤丸あたり)。
既定の走行距離にするためには楕円形にすることができず、無理やりイビツな形につくられたトラック。南側に突き出た第二コーナーは”天狗のハナ”と呼ばれ、ここで落馬事故が相次いだとのことです。地形上改善が不可能であるため、競馬場は中山へうつることになりました。
ここで、中山編の競馬場の歴史とつながってゆくのです。
そして競馬場は陸軍工兵学校となりました。習志野の鉄道第二連隊の軍用鉄道の終着点もココです。
工兵学校の、江戸川での架橋演習は有名で、川の上で、煙幕の下に鉄船が並べられ、その上に頑丈な板を敷き戦車や車を渡す・・・松戸の住民はよく見学していたそうです。
工兵学生は学校を卒業すると、工兵としてもとの部隊へ戻っていったということです。
いま、相模台の上には、さきほどの公園のほか、小・中学校、聖徳大学、裁判所、拘置所などがあります。それから、解体を待つ廃団地のすがたもありました。団地の前には”駅前駐輪場”・・・そう、この小高い丘は目の前がすぐ駅なのです。
相模台を降りてみます。
急峻な階段沿いに、2つの境界石が残っていました。
下ってゆくと、最も低いところに放置された感じの茂みがあります。ここは、たぶん軍の給水井てはないかな。
ここを抜けるともう駅前です。松戸は、駅近ナンバーワン軍跡といえます。
***
いよいよ、暗渠の話に移りましょう。
さきほどの、紆余曲折あった坂川に流れ込む1本の川。競馬場や工兵学校の台地の下を流れてくる川。
猫またぎさんが既に紹介されている、神田川です。
「神田川」と記すものが多いですが、資料によっては「向山下川」とも書かれているように思います。付近には以前は、ほかにも(さきほどの松先神社脇の小川も含め)3本の小川があったそうですが、現存は神田川のみ。
この部分の坂川は、前述のように排水のため人工で掘削されたもののはず。けれど昔の絵図にはここに水路が描かれたものもあって、もしかすると神田川の流路を利用して坂川を開削したのでは、と推測している人もいます。
もっと長い川だったかもしれない、神田川。現在の河口から遡ってゆきます。
松戸神社の脇をのぞきこむと、勢いよく水が流れていました。
今も残る湧水を集めて流れるこの川は、坂川の美化に一役買っているといえるでしょう。
まづは開渠。
すぐに、半分蓋をして、上が歩けるようにしてあります。
常磐線と交わるところで、シャーっ!と勢いが増しています。
ここでも神田川の名が。昭和47年に改修されたようですね。
線路を渡るとすぐに暗渠となり、
大正寺の敷地へと幅広暗渠のまま入っていきます。
寺から出てくると少しばかりの開渠、
そしてすぐに蓋をされ、コンクリ蓋の上にアスファルトまで塗られます。
脇からこんな支流も合流。
本流は自治会館の入り口として、人の出入り多めな場所にもなっています。
道路を渡ると、住宅街を貫く広い歩道の下に。
あとは暫く、延々とこの風景です。
ところどころ広い蓋が見え隠れ。
支流が数本、垂直に交わってくるので遡っていくと、
相模台の下から僅かに湧水がありました。
以前はもっとあちこちから出ていたのに、宅地化によってずいぶん希少になった湧水。
湧水のすぐ近くに、もう一本境界石を見つけました。
実はこの位置、松戸拘置所のすぐ下あたりで・・・。拘置所は、以前陸軍の弾薬庫だったそうです。いまははるか丘の上、建物も見えませんでしたが。
弾薬庫下からも、神田川の水は流る。
順調に本流・支流を追ってこられましたが、この交差点でいったん途切れます。
奥にあるのは水戸街道の盛土。
それをすぎると暗渠サインは皆無となり、奥の方に2つの谷戸があるようなのですが・・・。たぶんそのうち1つの谷頭がここ。
もうひとつの谷戸には、この暗渠があるのみ。猫またぎさん同様、上流端は見つからず。
あきらめて野菊野団地に移動し、その奥にある松戸同総合卸売市場へ向かいました。
さて、ゴハン。
市場の食堂、大好きです。
狙っていた「あざみや」に、閉店間際に飛び込み。
ハンバーグがやたらおいしかったです。
もう一度言います、このハンバーグ、やったらおいしかったです。負けたと思いました!
食後は松戸ラドン温泉(kekkojinさんには松戸の情報を幾つもいただきました、ありがとうございます)か迷いましたが、移動の関係で湯楽(ゆら)の里というお風呂屋さんにしました。いやぁ、チバのスーパー銭湯は値段が手ごろだねぇ。ひとっぷろ&ビールで、旅を〆ます。
今回の、全行程・・・といいたいところですが、入りきらなかったので神田川の流路を。
松戸って、どんな街?
西へ行けば、川、川、川。
川の間に、色町。
複雑な坂川。
丘に上れば軍の跡。
そして、坂川に注ぐ神田川の開渠に暗渠。
松戸ってこんな街。
あっというまに、好きになりました。
<参考文献>
「川とひとびとのくらし 坂川と江戸川」
「これが坂川」
「坂川の昔と今」
千野原靖方「松戸風土記」
千葉県歴史教育者協議会編「千葉の戦争遺跡をあるく」
松下邦夫「たのしい松戸の歴史散歩」
「松戸市史 中巻 近世編」
「松戸を歩き誌す」
渡辺幸三郎「昭和の松戸誌」
渡辺幸三郎「平潟遊郭鎮魂曲」松戸史談 第34号
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この記事へのコメントは終了しました。
コメント
おお、松戸に行かれましたか!
この暑いのにw
松先橋の下は、坂川に合流口があるので、ダミーではなくて本当の川だったというのはうなづけますね。
あと、松戸神社のあたりにあった説明板に「この坂川は古記録によれば「逆川」と書かれ、」と書いてありました。まあ、ふだんから逆さに流れていたというよりも、大雨の際に江戸川から逆流することが多かったから、なんでしょうけど。
現状の逆流を示唆している感じで面白いですね。
投稿: 猫またぎ | 2013年8月21日 (水) 10時52分
>猫またぎさん
行ってきましたよ!
たしか最初に行ったのは6月くらいだったと思います。猫またぎさんの記事のまあまあすぐ後だったので、松戸神社前の河口の橋を見て「写真と一緒だ!」(あたりまえなのに)と、観光地気分でした。
でも、遊郭の位置が特定できてなかったので再訪し、そのときはかなり暑い日でしたね・・・胃がやられていたので「アナゴ天ぷらカレー」を断念してナポリタンを食べたのでした。
松先のところ、合流口のサイズからすると、結構たくさん流れていたんじゃないかと思います。いつまで流れていたのやら・・・。
坂川(逆川)の逆流の頻度は結構高かったみたいですね。だからきっと、今の流れの向きでも地元の方はそんなに吃驚しないのかも?? 自分は完全に逆向きだと思いながら歩いていたので、相当うろたえましたけどね~w
投稿: nama | 2013年8月21日 (水) 11時48分
はじめまして。
最近こちらを知ってから、毎回楽しく拝見させて頂いてます。
私は松戸出身なのですが、遊郭があったのは今回初めて知りました。
坂川の畔に友人が住んでいたので、もう20年位昔の事ですが、よくうろちょろしていたのを懐かしく思い出しました。
また機会がありましたら、松戸やその近辺を探索されるのを心待ちにしています。
投稿: かわかみ | 2013年9月11日 (水) 04時12分
>かわかみさま
はじめまして。コメント、どうもありがとうございます。
松戸のご出身ですか!今回初めて松戸を歩き、これだけのコンテンツを駅周辺で楽しめるという、ものすごく散歩し甲斐のある街なんだなと実感しました。
20年くらい昔に坂川近辺を通られていたのですね。その時期だと、平潟遊郭の三井屋の建物は残っていたかもしれませんね~。
千葉編の記事はまだまだ残っています。(東京も挟みつつですが)何回かは船橋方面が続くと思いますが、松戸のお隣も取り上げる予定があります。それから、坂川のある場所をどうしても取材したいので、この記事に後日追記があると思います。いつになるかはわからないのですが、またお読みいただければ幸いです。
投稿: nama | 2013年9月12日 (木) 09時56分
はじめまして。
たまたま昭和記念公園を訪れる機会がありまして、
ふと目にしたあの3本の煙突が気になり、
ググっているうちにこちらに辿り着きました。
そして、私の地元である松戸について、
おそらく1日の取材で書かれた記事から受ける、
その博覧強記ぶりに感動し、コメントした次第です。
恐れ入りました。
ちなみにビールで英気を養われた件のスーパー銭湯、
ハッテン場としても有名らしいですよw
では。また楽しみに拝見いたします。
失礼しました。
投稿: 松戸のS | 2013年11月10日 (日) 23時23分
>松戸のSさま
はじめまして。コメントどうもありがとうございます。また、お褒めいただき恐縮でございます。
松戸が地元でいらっしゃいますか。
松戸のさんぽは、本当にすてきでした。色々なものが凝縮されていて。
記事を書くときには、最初にひととおり歩いて、後日資料収集に行きがてら補足、というふうに2回は足を運ぶことにしています。したがって松戸も2日かかっていますが、でも、奥深くてまだまだ行き足りない感じがしています。
あそこがそうとは、知りませんでした(気づきませんでした)。じつは、折角安価なスパ銭なのにお客さんが少なくて大丈夫かなあ、と思っていたのですが、それなら今後も一定数のお客さんが見込めそうですね。などと安心したり。
またぜひお越しくださいませ。
ご近所の記事も、また書くと思いますので、いろいろお教えいただけますと幸いです。
投稿: nama | 2013年11月12日 (火) 17時25分