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2013年8月

ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 鎌ヶ谷編

「鎌ヶ谷に行きたいけど、佑ちゃんが入団したてだから、混んでるかもなあ。」
そんなことを言っていたのに、ずいぶん経った気がします。気になるけど来られずにいた街、鎌ヶ谷。

チバ編を書くようになってからというもの、千葉の地図をグイグイ眺めるようになりました。その印象は東京のそれとはまた異なっていて、初めて見る駅名、ぶっきらぼうな地名、妙にソソる境界線・・・いろいろなものが目に飛び込んできます。

鎌ヶ谷市も、気になったもののひとつでした。

Kamagayamap1

鎌ヶ谷の地図。yahooさんありがとうございます。

・・・気になりませんか?

Kamagayamap2

とくに、ここが。

船橋市の飛び地が、入り込んでいるんです。しかも、飛び地の囲われ方がまたなんとも。。。

そんなわけで、「気になる」ので(そしてきっとこれには川が絡んでいるだろうから)、現地に行ってみることにしました。

馬込沢駅にて下車。
初めて降りる駅でした。
鎌ヶ谷市自体は、叔母の家から近くって、以前はよく車で通ったり、スーパーに買い物に行ったり、テニスをしに行ったりしていました。けれど、この馬込沢近辺はまるで掠ったことがなく、慣れない風景にずいぶん遠くに来たかのような心持ち。

さっそく、駅から、飛び地の中心へと向かってみます。
するとずいぶん起伏があって、なるほど台地の上が飛び地”船橋市丸山”です。由来は丸い山のようだから、とか、丸い台地だから、とか諸説あるものの、いずれにせよここは”丸山”っぽい地形をしているといえます。

Kmgy2

丸山はほとんど台地で構成されていますが、実は真ん中を谷が貫いているのでした。そこに川があるかもしれないと思い、向かいました。

谷の部分には、道路がありました。写真右側にゴルフセンターがあり、そのあたりから緩やかに谷が始まっているように見えます。そして線路をこえ、左側へと下って行くのです。わたしも一緒に下ります。

さあ、本日のさんぽのはじまり。

Kmgy3

谷には商店街が形成されていました。
やや、古い商店街のようで、仕舞屋なのか朝だからなのかわからないけれど、閉まっている店が多かったです。

すてきな駄菓子屋さんを発見。
古き良き文房具が陳列し、駄菓子が売られ、そして脇にミニ・ゲームコーナーがあります。ゲームは所謂駄菓子屋さん的なもの。
子どもたちがお小遣い片手に走ってきて、ジュースをちゅーちゅーやったり、ブタメンにお湯を入れたりしながら、ゲームに熱中するような。

Kmgy4

わたしも、おもわず駄菓子をあれこれ買いました。

梅味ののしいかを歩き食べながら、丸山の谷を下ります。

Kmgy5

谷底の道沿いに銭湯の残り香がありました。

右側の駐車場に建っていたのかな。

Kmgy6

最初はゆるやかな段差だったのに、進めば進むほど両脇との高低差が激しくなります。
山を見上げるかのよう。

あっちも丸山、でもこっちも丸山。

Kmgy7

ふと。

あれ、地面に何かある。

Kmgy8

な、なんと・・・水が流れてた・・・!

Kmgy9

ここは、いまも流れる暗渠だったようです。地面のわずか30cmほど下を。

谷底道で蛇行しているため、かつては川だったろうなと、だけどその目に見える名残が薄いなと思ってはいたけれど。。。

Kmgy11

丸山を下りきると、地面の下にあった水路はコンクリ蓋暗渠に変わります。

Kmgy12

ずっと船橋市丸山を歩いてきましたが、低いところにきたら、鎌ヶ谷市西道野辺に変わりました。

さっきのコンクリ蓋暗渠がある場所は矢印のところ。

Kmgy14

そのさき、水路は歩道の下となって、

Kmgy15

直進し、まもなく開渠と合流します。

この開渠の名は、二和川。少し下れば、丸山の北側を囲むように流れるもう一本の小川とあわさり、大柏川と名を変えて、真間川に合流するものです。
大柏川は谷地川とも呼ばれる、改修され舟運に使用された水路です。それにより随分と付近の農作物の出荷が改善したといいます。この近くまで、屋形船が来ていたとか。

お。ここで鎌ヶ谷市の看板が登場。

Kmgy16

水路のそばは、ホニャララです。

ホニャララを各自埋めなさい。

ってことでしょうか・・・?

Kamagayamaruyama

今たどってきた暗渠は、陰影図で見るとこういう感じです。google earthさんありがとうございます。
船橋市丸山ばかりを通るものなので、二和川の丸山支流(仮)、とでも名付けましょうか・・・。

この、飛び地”丸山”の歴史が気になるので、紐解いてみることにします。


丸山は、上山、藤原といった近隣の地とともに、江戸は延宝年間に拓かれた新田村でした。この3村は成立事情が似ていること等から、明治22年の町村制施行のとき、集まって法典村となります。
同時期に鎌ヶ谷村が丸山をぐるりと囲むかたちで誕生しているわけですが、丸山新田は鎌ヶ谷村には入ることなく、その後法典村は船橋市となって、いまのような飛び地が残り続けています。

一方、その丸山も含む船橋市の、サンドイッチの具になっているのが鎌ヶ谷市馬込沢と道野辺。道野辺に、昭和に転居してきた方の語りが残っています。
当時、鎌ヶ谷の小・中学校に子どもを通わせるとなると随分と遠かったので、困っている人は少なくなかった。それで昭和43年頃、道野辺で”船橋市への編入”のため動こうとしたところ、農地法の問題に行きあたったといいます。すなわち、不在地主となると行政に法定価格で買い上げられてしまう法律があり、鎌ヶ谷市に農地を持っている人が結構いたので、その地主さんたちの財産が失われるのを避けるべく、編入の話は止めた、というのでした。編入問題は2回ほど持ち上がったけれど、新聞などには一切出なかったそうです。

・・・この、”どの村(市)に所属するか”という話には、たくさんのひとびとや組織の思惑が、ドロドロと蠢いていたような気がしてなりません。
地図をよく見てみると、馬込沢駅だってビミョーです。船橋市と鎌ヶ谷市にまたがっていて、駅前には船橋市馬込西がデーンと広がっている。なのに、駅名は馬込沢(鎌ヶ谷市の方の地名)。駅名を決めるとき、もしくは駅の位置を決めるとき、血は流れなかったのでしょうか・・・。

17世紀、”境界”をめぐる争いは各地で起こっていました。
今回は歩いていませんが、上述の”藤原”をめぐっての境界争論の絵図は残っていて、中沢村(現鎌ヶ谷市)と藤原新田(現船橋市)のバトルぶりは垣間見ることができます。
このときは、境界の立木の伐採をめぐる争いが勃発し、4年がかりで境界が確定し、そのときの境界が、今も残る藤原の飛び地であるということです。

Kamagayamap3

ここのこと。

ちなみに、このとき、藤原=台地上に成立した新田村が、水田となる低地を獲得することが出来たのは珍しい、とも言及されています。
丸山にひきつけて考えれば、台地上の丸山が低地の馬込沢・道野辺を吸収するというのも、考え難いことだったわけですね。パッと地図を見ただけだと、この市境がまどろっこしくなり、近いんだから編入しちゃえばいいのに、なんて考えちゃうのですが。

藤原とは異なり、丸山に関する話題は、文献上は常に淡々としたトーンです。


唯一、

”このとき、江戸時代以来道野辺村と関係が深かった丸山新田が、鎌ヶ谷村ではなく法典村に入ったため、同村の飛び地となった。”
(「自治体鎌ヶ谷の歴史-村から町、町から市へ-」より)

という文章に、恨みのようなモヤッとした感情が込められているような気がするくらい。

関係が深かった、というのは、江戸時代の前期、丸山は道野辺村の運上野(一定の税を納めれば独占的利用を認められた地)だったことを指します。ひらたくいえば、「ワシらのもんだったのに・・・」という気持ちなのではないか、ということです。

ドロドロとしたものが、あったのかどうかわたしには知るすべがありません。わからないけれど、とにかく今回は、その舞台となった2つの市を味わいながら歩いてゆくことにします。

台地上にできた丸山新田。崖下に二和川が流れていても、その恩恵は受けられずその土地を吸収することもできず。この新田村で唯一の自然河川が、丸山支流(仮)であったことでしょう・・・。なんだか、行田の大刀洗川と似ていますね。

さて。
というわけでここからは、市境のことを絡めながら二和川を遡っていきたいと思います。現行の地図には二和川、とありますが、馬込沢用水路と呼ぶ人もいます。

Kmgy17

さきほどの合流点から遡上。

まもなく、だだっ広い調整池が出現します。二和川はその脇をハシゴ式開渠で流れてきます。

Kmgy19

冒頭の地図を見た際、ココが気になった方もいるかもしれません。
鎌ヶ谷市が突然横に突き出る、ココ。

ココにも行ってみましょうか。

Kmgy20

そこは想像どおり、谷戸でした。鎌ヶ谷市部分は谷底で住宅が並んでおり、その両側にそびえる山林部分が船橋市です。

地形的には川がありそうですがほとんど痕跡はなく、奥の方にこんな細い暗渠があっただけでした。

因みにココは「横下」という小字でした。

Kmgy21

横下には、こんなマンホールがありました。

汚水か?雨水か?
”汚”が削ってあるのでした。ほかにも、同じものがいくつも。

この下を流れる水は、下水なんかじゃない、ましてや”汚”水なんかじゃない。どんな見た目をしていたって、それはわたしたちの生活を支えてくれるおんなじ水だろう?、、、と、言って”汚”の文字を削っているかもしれない”哲学的な鎌ヶ谷市の職員ごっこ”をしながら歩きました。

Kmgy22

本流に戻ります。
桜の季節だったので、桜も愛でます。

暗渠の細道を撮っているとき、暗渠者は結構な確率で「いつ職質されるのだろうか」とハラハラしていると思います。しかし、こういう風景を撮っているときは安心です。「桜撮ってます!」と胸を張れますからね・・・。

引き続き、二和川遡上。

Kmgy24

すると、脇にまたコンクリ蓋が出てきました。団地から支流がやってきたようです。

Kmgy25

その先を追っていくと、あげ堀然とした道が現れました。

Kmgy26

あげ堀っぽい道を探索すると、下流は暗渠のまま道になってしまい、上流はこのように開渠です。

団地から出てきているような合流口もありました。

Kmgy29

上流側に行くとふたたび蓋がされますが、見てくださいこの残念な蓋を。ガタガタ。
杉並のコンクリ蓋職人に、正座で怒られるレベルのガタガタぶりです。バーチー・・・w

・・・まぁでも、これもこれで愛らしいんだけど。愛らしくって一杯ここの写真撮っちゃいましたw

Kmgy31

そのさき、ガタガタなまま民家の脇へと入っていき、また突然に開渠となります。

さらに遡っていくと、

Kmgy33

曲って本流に戻っていくハシゴ式開渠。
本流と並走して、そしてコの字を描いて戻ってくるカタチ。やっぱりあげ堀なのか?

Kmgy34_2

と思ったら、もう少し上流まで行く流れもあって、その先で暗渠になって地上の形跡も消えました。

Agebori

こういう流れをしていました。複雑だな。。
ちなみにこの位置では、このあげ堀的なものイコール市境となっていますね。そう思いながら上の何枚かの写真を見てみると、また感慨深し。

ふたたび、本流遡上に戻りましょう。

歩いているところの住所は、丸山を過ぎてからはずっと鎌ヶ谷市(道野辺→馬込沢)です。細く延びるかたちは、そのまま二和川の谷底。かつては水田があったのでしょう、川筋を死守するような土地の残り方です。直前の複雑な水路も、田圃の用水路と思えば納得。

二和川を遡っていると、左手には常に船橋市丸山の丘が見え続けます。丸山と鎌ヶ谷市は常に崖上と崖下で、長い階段のみでつながれ、基本的には分断されているような雰囲気があります。

上は丸山、下は馬込沢。丸山と馬込沢は、どういう関係にあったのでしょうか。交流はあったのでしょうか。
連れと二人で”馬込沢と丸山の住民ごっこ”をしながら進みました(内容は想像にお任せしますw)

さて二和川本流は、

Kmgy37

ちょこまかと支流をあわせながら、

Kmgy38_2

馬込沢駅前へ。

駅前にはもうひとつ支流が流れていて、

Kmgy39_2

それは馬込沢駅のホームからも見えます。

Kmgy40

支流はサミットの下をくぐってきて、本流に合流し、東武野田線をくぐります。

Kmgy41

わたしたちも線路をくぐって、反対側へ。

駅前における、二和川本流のながめ。ここから見下ろしてみると、

Kmgy42

まるで小さな渋谷川!

小渓谷がそこにはありました。

Kmgy43

小渓谷の先は、半コンクリ蓋、半ハシゴ式開渠。

Kmgy44

コンクリ蓋は、自転車駐輪場(右の青いプレハブ)を使用する人の通り道のようです。橋の役割を終えるとまた開渠となって、

Kmgy45

すこし上に、ずいぶん立派な水門がありました。

どうやらこれは、芥止めのようでした。
すぐ下流が駅前なので、ここらへんで大物芥を止めておく必要があるのかもしれません。

偶然かもしれないけれど、この水路の過去の様子を書いたものには、”馬込沢に堰を作り、そこを水源として下流一帯を灌漑”していた、とあります。馬込沢にあった大きな堰・・・もう少し下流だったかもしれないし、もしかしたら、ここにあったかもしれないし。

ともかくかつての二和川は、付近の農業には欠かせない大事な水路でした。鎌ヶ谷市に多くの恵みをもたらしたことでしょう。今は、排水路となり、農地はほとんど住宅になってしまいましたが・・・

Kmgy46

その少し上流には、ありがたいことにまた半分通路があって、何へのアプローチかと思えば、

Kmgy47

新しめのスーパーがありました。

この、スーパーの敷地のところで、水路は2つに分かれます。いや、今は遡っているので、正しく言えばここで2流が合流するのです。
1本は、この真っ直ぐ下りてくる流れ。スーパーの駐車場を暗渠で抜けます。

Kmgy50

こちらは細いので支流でしょう。

本体は細めですが、上に架かるは分厚くて大きな鉄板蓋!
カート置き場になっていたり、ベンチもあったり活用されていますw

Kmgy49

2本めは、直角に曲がってスーパーの建物へとまっしぐら。

ど、ど、どうなるの・・・と思って追っていくと、

Kmgy51

う、売り場の下を暗渠が走っていました!

売り場蓋か・・・さすがバーチー。
みなさん自然体で、グレープフルーツやウーロン茶やじゃがいもを買っていきます。暗渠の上で買い物(我々大興奮)焼き芋もあるでよ。

このスーパーにはお買い得な食材もいろいろとあり、上流まで遡る任務がなかったら買っていたところでした。

Kmgy52_2

なお、売り場を過ぎると開渠に戻ります。
さりげなく横に仮設トイレが設置。

こちらのほうが太い流れなので、本流でしょう。

しかし、なぜにこんなに、スーパーを巻き込みながら二和川は複雑な動きを見せるのか?
実はこの場所のクランク、明治10年の絵図と同じかたちなのです。支流と思しき鉄板蓋の方の流れは、現在はこのやや上流でカラカラの小さな開渠となり消えてしまうのですが、明治期もそのあたりからスッと流れが始まっているのでした。かつては、そこに湧水があったのかもしれません。

昔からの流れを、そのままにして蓋をした、というのがココの実際だと思います。

もう少しだけ、遡りましょう。

Kmgy53

えんとつが見えてきました。

水路そばにつきものの、お風呂屋さんの登場です。ニコニコ湯。どうやら現役のよう。

Kmgy54

どんな銭湯かな~と思って入口に回ると、そこはこんなことになっていました!!

Kmgy55

うわぁ、なんちゅうパラダイス!!
居酒屋が何軒も並ぶ横丁の、最奥にニコニコ湯があります。

銭湯の周辺に飲み屋さんがある景色は、いつもステキだなあと思って眺めますが、このニコニコ湯周辺のパラダイスぶりは今まで見た中で最強。すばらしい。すばらしすぎる・・・嗚呼でも今はまだ午前中。なにひとつ開いていません。

というわけで、お風呂屋さんの開く時間に再訪することにしました。

お風呂の様子は、コチラのブログが詳しいのでお譲りして。
お湯はかなり熱めのうえに、「うめるの禁止」と入店時に言われてしまい、四苦八苦しながら入りました・・・でもこのすべての立地のすばらしさ、銭湯の古ぼけ方、これらが堪能できるんだから我慢できるゼェェ!

と、がんばって入浴した後には、

Kmgy56

横丁の適当な居酒屋に入り、まずはビールをプッハー。

ついでチューハイにうつって、焼鳥、ギンダラの煮つけなんかをちびりちびりと。
濡れたタオルも、いつしか乾く・・・

なんとも良い場所じゃないですか、鎌ヶ谷。

Kmgy57

ちなみに、このニコニコ湯と横丁はこんな場所に建ってます(山河、と書いてあるあたりが横丁)。

見てみてください、市境を。
このニコニコ湯と横丁、すぐ両側が船橋市なんです。

Nikoniko

細い鎌ヶ谷市部分のうちでも、だいぶクビれてるとこ!

Kmgy58

ここだけが鎌ヶ谷市なんです・・・!
なんという場所・・・!
なんかすごく頑張っている感じ・・・!!

今にも崩れ落ちそうな2つの建物の間に立ち、その隙間を辛うじて自らの両腕で支える屈強な男。建物の壁はガラガラと音を立て、男の頭に降りかかる(=船橋市)・・・死を覚悟し、しかしはっきりとした声で男は叫ぶ。「俺になどかまわず、行けェェェ!!」(=鎌ヶ谷市)・・・

という、”ハリウッド映画のサブキャラ(超いいヤツ)ごっこ”をしながら、ニコニコ湯一帯を後にしたのでした・・・

ちゃんちゃん。

今回見た開渠&暗渠を、ざっくりと載せるとこんな感じです。

Kamagayatikei2 

鎌ヶ谷と船橋の市境が織りなす暗渠の旅、いかがでしたでしょうか。

この二和川、これで終わりではありません。次回は続きとなる二和川上流部を、また違う切り口でご紹介したいと思います。まて、次号!

<参考文献>
「絵図と地図で見た鎌ヶ谷の400年」
「鎌ヶ谷市史 上巻」
「鎌ヶ谷市史 資料集17 近・現代 聞き書き」
「鎌ヶ谷の歴史シリーズ」
「自治体 鎌ヶ谷の歴史 -村から町、町から市へ-」
「ふるさとの地名 船橋・鎌ヶ谷の地名の由来を探る」

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 松戸編

松戸ってどんな街?

・・・じつは、よく知らないんです。
わたしにとっては、親戚宅に行くときの乗換駅なだけでした(しかもちょっとの期間だけ)。降りたことはないものだから、町並みも地形も、なんにも、知らない。

今回は暗渠と軍跡をたどるため、その松戸に降り立ってみました。

Matudotikei1_2

こんな地形みたいです(google earthさんありがとうございます)。 だ、大胆だな~!

まずは、川のある方向へ。駅から西へ行けば、川、川、川です。

江戸川と、

Matudo1

坂川(これが一番駅から近い)と、

Matudo3

樋古根川。

この、川たちに挟まれたエリアに、かつて色町があったといわれます。

平潟遊郭。

川との縁抜きには、語れない場所。
平潟遊郭は、上述の坂川と樋小根川の間に在りました。

Yukakumap

この位置です(googleさんありがとうございます)。

平潟は、川の”砂州でできた自然堤防の上”にあると描写されます。形は細長いですが、吉原と同じように、町とは切り離された場所。

樋古根川に寄り沿うように、遊郭が在る。この樋古根川を当時地元の人は排水川(排水堀)と呼んでいて、それは江戸川の旧流路でもあり、幅10m足らずの小さな川だった、といいます。たぶん、幅は今も同じくらいでしょう。

・・・では、この地にどのようにして遊郭ができたのか。

ときを遡って、江戸のころ。
近くには、松戸宿。ここ平潟は本河岸といわれ、多くの船が出入りしていました。

男が乗るその船らに、小舟で漕ぎ寄せ、洗濯、掃除などをし、一夜を共にし、朝食の支度をして去る、という女性たちがいたとか。その商売が陸に上がり、1626年、松戸宿平潟河岸には1軒につき2人の”飯盛女”を置くことが許可されることとなりました。不法に女性を増やしては手入れがあったり、周辺の農民が仕事を怠るとか、風紀が乱れるといった批判に遭いながらも、なんだかんだと儲けの多い商売、明治には遊郭になりました。
関東大震災が、ここが栄える契機になったということです。最盛期には100名以上の娼妓を擁し、建物は・・・内藤新宿からやって来た資産家内田氏が建てたのが「三井家(改称前は九十九楼)」。大正12年頃に、吉原に負けないという意気込みで建てられたものです。凝ったつくりで、ガラスにも味があり、店の名の入った煉瓦、窓枠やタイルもすばらしく、銘木をふんだんに使用した豪華絢爛の一軒だったそうです。
「福田家」と「百年」は洋風でカラフルなステンドグラスをちりばめ、緑のペンキで塗られていたそう。廓によって客層が若干違ったようでもありますが、どの廓も枯山水の中庭を持ち、川に面した眺めの良い部屋は、少し広めだったそうです。
また楼主の住処と店は橋でつながっていて、”現実を離れて夢の世界に導く仕掛け”なのだそう。2階の”本部屋”もひとつひとつ反り橋から入るつくり。

戦後、それらは売春宿、ダンスホール、旅館などに変わりました。建物はつぎつぎとなくなってゆき、ついに平成6年、最後に残る三井家も壊されてしまいました。それから廓だったところは学生寮、日大歯学部へと、どんどん時が流れ、どんどん変わってきています。

平成も25年のいま、遊廓の名残は、はたしてまだあるのでしょうか・・・?
坂川から平潟へと歩いて行ってみます。

Matudo4_2

少し離れた橋を渡ったところに、道標がありました。
当時のもののようです。”左 平潟遊郭”と。

左に歩いてゆくと、たしかに平潟遊郭跡に着きます。東端から入ってゆきましょう。

Matudo7

赤丸が東の大門のあたりです。
大門は、頂上に外灯を乗せた角柱で、三種の石粉を外側にまぶしてあったといいます。大門を幻視しつつ・・・。

右側の白丸は、現在なににもなっていない空き地ですが、少し低くなっています。ここは、ちょうどこの形のまま、当時は田んぼでした。そして田んぼの隣は湿地で葦が生え、田んぼとの間には溝があった、と・・・吉原と同じ!

大門から入り、遊郭のメインストリートを行ったり来たりします。
すると、

Matudo8

古い外灯がありました。

Matudo9

おお、平潟、と書かれた住所表示もありました(現在は松戸市松戸という味気ない住所です)。

Matudo10

ここは、当時「高村タクシー」があった場所。

いまは住宅ばかりのメインストリートですが、表札を見ていると、平潟時代の駄菓子屋さん、洋食屋さんなどと同じ苗字の方が、同じ位置に住まわれています。

Matudo11

この新しめのホテルの名前は「せんだんや」といいます。
この位置には、遊郭時代は「せんだん屋」という木賃宿があったそう(近藤勇も泊まったとか)。

この裏手には釣り好きの福田家が経営する釣り堀もあったとか。

Matudo13

平潟神社には、水神さまが祀られていました。
そして・・・九十九楼(三井家)の名が刻まれています。

Matudo14

来迎寺の前。
明治の頃、お寺の鐘は時を知らせるものでしたが、客に少しでも長く遊ばせようという魂胆により、夜の鐘が数十分も遅れるので、町の人が困ることもあったとか。
来迎寺には娼妓の墓もあるそうです。お寺の前の色んなものが埋め込まれたこの塚には目を奪われます。右にあるものは庚申塚でした。

建物そのものはないものの、一見たんなる住宅街のそこここに、遊郭のカケラは残っていました。

                         ***

川の話に戻ります。

松戸のひとが「川」(あるいは「おおかわ」)というときは、それは江戸川のことなのだそうです。
鮒の雀焼き、鯰の天ぷらに蒲焼きにお味噌汁。江戸川の魚はおいしい、と松戸の本には書いてあります。川の恵み豊かな、穏やかな土地なのか、というと・・・とんでもない、そこには水との長い闘いの歴史がありました。

江戸川のすぐ東を、下総台地の湧水を集めて流れるのが坂川です。この坂川、流山おおたかの森あたりにあった牛飼い池を源とし江戸川に注ぐのですが、水が増えると逆流しがちだったといい、松戸市史にも「坂川は普段は北流する逆川」とあります。

その江戸川は1783年の浅間山の大噴火により、泥が流れ込み川底が高くなってしまいます。坂川の水が、ますます江戸川に流れにくくなります。この排水の悪さは田畑への被害になるため、何度も幕府に願い出(それも容易ではないこと)、坂川の河口は次第に南側へと掘られていきました。

1815年に松戸の赤圦まで。1836年に栗山の南まで。しかし落差の少ない坂川、そこまで延長しても、水害はなくなりません。ここらの川べりの土地は、とくに農家にとっては長らく苦難の地であったといえます。

Matudo16

先ほどの、平潟遊郭を離れて坂川を下ってゆくと、その”赤圦”があります。
あれ、なんだか2股になっているみたい。

Matudo17

2流に挟まれた岬のようなところの上にも、住宅がありました。

ここらへんの水は随分と停滞しています。

Matudo18

たしかに、淀んでいます。

Matudo19

赤圦樋門からゆったりと江戸川に流れていっていました。

ところで、さきほどの水害が絶えなかった松戸の歴史は、ひとつの建造物でがらりと変わります。

1909(明治42)年、樋野口に排水機場ができ、それは大煙突とゴーゴーという蒸気機関の音がシンボルの、当時「東洋一の力がある」といわれた迫力モノで。その蒸気機関が昼夜問わず頼もしく排水をしてくれるようになったことで、やっと水害がなくなったのだそうです。

その後松戸では良質の米・もち米が採れるようになり、それで白玉粉をつくったら評判となり。つまり松戸は白玉粉の誕生の地かつ名産地であるそうなのです。なんと、現在も白玉粉生産日本一の玉三。知らなかった・・・

Matudo22

わたしたちがいま、おいしい白玉だんごを食べられるのは、この樋野口排水機場のおかげ。
って、ここ、実はさきほどの平潟遊郭の裏側、樋古根川の出口なのでした。

さて、赤圦の手前で分岐していた坂川。もう一本の方を追ってみます。
すると、松戸の市街地の方に近づいてきました。春雨橋を渡ると・・・、

Matudo20

あれ、このあたり、川底が見えるくらい綺麗になってる!
いつのまにか「ぼくのゆめ」叶ってるじゃん!

と吃驚すると同時に、

思ってたのと反対方向に流れている・・・!!

江戸川はこの坂川のちょいと向こう側で、正反対の向きに流れているはず・・・。

Matudo21

混乱していると、横には明らかな暗渠が。
松先稲荷神社の参道に橋が渡してあって、これは数十年前には流れていたような雰囲気ですね。

ご近所の方が休憩中だったので、この暗渠が昔小川だったのではないかということと、坂川の流れは反対向きではないかということを尋ねてみました。
すると、ここに水が流れていた覚えはないということ(嫁がれてきたらしい)、そして坂川については「なんで反対向きか、教えてあげようか」と言われたのですが、「江戸川から持ってきてるからなんだよ」という腑に落ちないお答え・・・。「え、矢切(やぎり)のほうからずっとですか?(ひええ、思っていたのと完全に反対向きだ!)」と聞くと、「あら、あなたここらへんの人じゃないでしょう。ここではね、やきり、って言うのよ。」という話に移行して終了。
相手をしてくださりありがとうございました・・・しかし、悶々が残った・・・

後日調べてみると、この松先稲荷脇は、数十年前までは水が滔々と流れていたそうです。
それから、ここの部分の坂川は、以前は反対向き(江戸川と同じ向き)の水が倍量で流れていたそうです。ただし、とても汚かったと。

あまりに汚れた坂川を、きれいにする取り組みが1994年に始まり、もう少し南にある小山揚水機場からややきれいな水を流し、この位置は北流させることとしたのだそうです。

Sakagawamap

つまり、こういうこと。
さきほど分岐点と思っていたところは、分岐ではなく合流点で、だからとても停滞していたわけです。

                         ***

さて、低地ばかり歩いてきましたが、松戸の魅力は駅近辺の激しい高低差にあり。
いちど、丘の上に上がってみましょう。

冒頭の地形図には、低地に対して舌状に突き出した、いかにも城向きの土地があったと思います。ここは相模台といい、かつて陸軍が陣取っていました。大正8年、日本で唯一の陸軍工兵学校がこの松戸に出来たのです。

Matudo25

坂道を上ります。
訓練の帰り道にほっとするのもつかのま、教官が「学校まで駆け足!」と怒鳴るから、地獄坂、というとかなんとか。

Matudo26

地獄坂の途中に、境界石が残っていました。

Matudo27

坂を上りきると、工兵学校の門が残っています。

Matudo28

歩哨舎までも。

門を入ると、公園がひろがります。舌状台地の上。

・・・実はここ、陸軍の前は、競馬場があったのでした。軍馬改良等の目的で競馬が奨励されたとき、もともとは日本鉄道株式会社が”岩倉具視を祀る神社”を建てる予定にしていたこの土地を、譲り受けて馬場としました。明治39年頃のこと。
八百長などがあって開催しない年もあったそうですが、ここに競馬が定着しなかった主な理由は、もともととてもトラックの状態が悪かったためです。

Matudotikei2

なにしろこのカタチ(赤丸あたり)。
既定の走行距離にするためには楕円形にすることができず、無理やりイビツな形につくられたトラック。南側に突き出た第二コーナーは”天狗のハナ”と呼ばれ、ここで落馬事故が相次いだとのことです。地形上改善が不可能であるため、競馬場は中山へうつることになりました。
ここで、中山編の競馬場の歴史とつながってゆくのです。

そして競馬場は陸軍工兵学校となりました。習志野の鉄道第二連隊の軍用鉄道の終着点もココです。
工兵学校の、江戸川での架橋演習は有名で、川の上で、煙幕の下に鉄船が並べられ、その上に頑丈な板を敷き戦車や車を渡す・・・松戸の住民はよく見学していたそうです。
工兵学生は学校を卒業すると、工兵としてもとの部隊へ戻っていったということです。

いま、相模台の上には、さきほどの公園のほか、小・中学校、聖徳大学、裁判所、拘置所などがあります。それから、解体を待つ廃団地のすがたもありました。団地の前には”駅前駐輪場”・・・そう、この小高い丘は目の前がすぐ駅なのです。

相模台を降りてみます。

Matudo29

急峻な階段沿いに、2つの境界石が残っていました。

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下ってゆくと、最も低いところに放置された感じの茂みがあります。ここは、たぶん軍の給水井てはないかな。

ここを抜けるともう駅前です。松戸は、駅近ナンバーワン軍跡といえます。

                        ***

いよいよ、暗渠の話に移りましょう。
さきほどの、紆余曲折あった坂川に流れ込む1本の川。競馬場や工兵学校の台地の下を流れてくる川。

猫またぎさんが既に紹介されている、神田川です。

「神田川」と記すものが多いですが、資料によっては「向山下川」とも書かれているように思います。付近には以前は、ほかにも(さきほどの松先神社脇の小川も含め)3本の小川があったそうですが、現存は神田川のみ。

この部分の坂川は、前述のように排水のため人工で掘削されたもののはず。けれど昔の絵図にはここに水路が描かれたものもあって、もしかすると神田川の流路を利用して坂川を開削したのでは、と推測している人もいます。

もっと長い川だったかもしれない、神田川。現在の河口から遡ってゆきます。

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松戸神社の脇をのぞきこむと、勢いよく水が流れていました。
今も残る湧水を集めて流れるこの川は、坂川の美化に一役買っているといえるでしょう。

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まづは開渠。

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すぐに、半分蓋をして、上が歩けるようにしてあります。

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常磐線と交わるところで、シャーっ!と勢いが増しています。

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ここでも神田川の名が。昭和47年に改修されたようですね。

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線路を渡るとすぐに暗渠となり、

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大正寺の敷地へと幅広暗渠のまま入っていきます。

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寺から出てくると少しばかりの開渠、

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そしてすぐに蓋をされ、コンクリ蓋の上にアスファルトまで塗られます。

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脇からこんな支流も合流。

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本流は自治会館の入り口として、人の出入り多めな場所にもなっています。

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道路を渡ると、住宅街を貫く広い歩道の下に。
あとは暫く、延々とこの風景です。

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ところどころ広い蓋が見え隠れ。

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支流が数本、垂直に交わってくるので遡っていくと、

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相模台の下から僅かに湧水がありました。
以前はもっとあちこちから出ていたのに、宅地化によってずいぶん希少になった湧水。

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湧水のすぐ近くに、もう一本境界石を見つけました。

実はこの位置、松戸拘置所のすぐ下あたりで・・・。拘置所は、以前陸軍の弾薬庫だったそうです。いまははるか丘の上、建物も見えませんでしたが。

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弾薬庫下からも、神田川の水は流る。

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順調に本流・支流を追ってこられましたが、この交差点でいったん途切れます。
奥にあるのは水戸街道の盛土。

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それをすぎると暗渠サインは皆無となり、奥の方に2つの谷戸があるようなのですが・・・。たぶんそのうち1つの谷頭がここ。

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もうひとつの谷戸には、この暗渠があるのみ。猫またぎさん同様、上流端は見つからず。

あきらめて野菊野団地に移動し、その奥にある松戸同総合卸売市場へ向かいました。

さて、ゴハン。

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市場の食堂、大好きです。
狙っていた「あざみや」に、閉店間際に飛び込み。

ハンバーグがやたらおいしかったです。
もう一度言います、このハンバーグ、やったらおいしかったです。負けたと思いました!

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食後は松戸ラドン温泉kekkojinさんには松戸の情報を幾つもいただきました、ありがとうございます)か迷いましたが、移動の関係で湯楽(ゆら)の里というお風呂屋さんにしました。いやぁ、チバのスーパー銭湯は値段が手ごろだねぇ。ひとっぷろ&ビールで、旅を〆ます。

今回の、全行程・・・といいたいところですが、入りきらなかったので神田川の流路を。

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松戸って、どんな街?

西へ行けば、川、川、川。
川の間に、色町。
複雑な坂川。
丘に上れば軍の跡。
そして、坂川に注ぐ神田川の開渠に暗渠。

松戸ってこんな街。
あっというまに、好きになりました。

<参考文献>
「川とひとびとのくらし 坂川と江戸川」
「これが坂川」
「坂川の昔と今」
千野原靖方「松戸風土記」
千葉県歴史教育者協議会編「千葉の戦争遺跡をあるく」
松下邦夫「たのしい松戸の歴史散歩」
「松戸市史 中巻 近世編」
「松戸を歩き誌す」
渡辺幸三郎「昭和の松戸誌」
渡辺幸三郎「平潟遊郭鎮魂曲」松戸史談 第34号

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太田のおもいで

群馬県太田市。
今年は空いた時間を見つけては、ここに行っていました。
大切なひと、の、大切なひとのお見舞いのために。

もちろん目的はお見舞いなのだけど、わたしたちはいつでも、どこにいても、暗渠を探してしまうのです。

市内を歩いていると、用水路の暗渠のような細道が何本も並行に走っているのが気になります。

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このように、何らかの用水路暗渠(写真左端、なみなみ流れています)から分流しているもののようです。
こんなふうに暗渠感の強いものもあれば、

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道っぽいものもあります。

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これらの支用水路のもとになっているらしき流れは、太田市の端の方にある小さな山の麓をカーブしていきます。

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その山の上には、高山神社、なる神社がありました。
これは高山神社に向かう階段。・・・きっとむかしは開渠の上に、太鼓橋が架かっていたかもしれません。

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暗渠はちょっと蓋の雰囲気を変えて、高山神社の裏側に回っていくようです。

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分岐して、市内のほうに曲っていくものもあります。

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いつものことですがB級グルメも気になります。
太田のB級グルメは、・・・なんと、焼きそば。具もタレもふつう、何かが乗っているわけでもない、ふつうのソース焼きそば。
いいですね~この媚びない感じ。

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市内にいくつも、焼きそばを出す店があります。
富士重工などがある関係か、むかしから工員の方々に愛された焼きそばなのだそうです。質実剛健。もちろん美味しかった!
このお店はカドヤ食堂といい、様々なメニューのある定食屋さんでしたが、売り物のお総菜パックを3つも「サービスよ」と言って酒のつまみに出してくれる豪儀なお店でした。感謝。

ちなみに、隣の足利にいくと、ジャガイモがゴロゴロ入ったポテト入り焼きそばが名物。こちらにも足を延ばしましたが、「ポテト入り焼きそバーガー」など、太田をさらに上回る炭水化物攻めでした。

太田でわたしたちが遭遇したグルメは、これだけではありません。

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街中をはしる開渠。この下流で分岐させるために2筋になっています。

この開渠を追っていくと、

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川沿いにこんな店があります。

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だるま食堂

・・・ラーメン300円。チャシューメン・・・おお・・・。
山形名物のはずの冷やしラーメンも、ここには昔からあるような風情。
裏側にはカツライスなども載っています。ひっ、ヒレカツ丼が500円!

これは入らざるを得ません。

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中に入ると、地元のおじさんがラーメンをすすったり、ビールを飲んだり。草野球後のひとたちがぞろぞろ入ってきたり。近所の家族連れがきたり。
黒電話が現役で活躍中。
じつによい感じです。
一品料理もあり、目玉焼きがラーメンと同価格の300円でした。ワクワクするなあ。

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ラーメンにするぞ、と心に決めていたのですが、カレーラーメン400円にも惹かれてしまい、結局カレーラーメンにしました。この場合カレーの味も把握できるので一石二鳥なのですが、ただ、「ラーメン」よりも器が立派で・・・ラーメンの小ぶりでかわいらしい器も良かったなあ。

麺は幅広のちぢれ麺で、佐野ラーメンを思い出す味わいでした。

ほかにも色々、みどころがあって、帰りは色んな道を通りながら過ごしていました。

                       ***

太田に来るようになってしばらくしてから、ふとあることを思い出しました。

ある年の、8月。
家族が気に入っている山形のラーメン屋さんに、祖父と祖母を連れて行ったとき。
そのラーメン屋さんのあるあたりがかつて軍の練兵場だったということを、祖父が突然話し始めたのでした。練兵場では上官にしごかれ、たいそうつらかったと、顔をしかめながら。
普段はスーパーポジティブな祖父が、そんな風に話すのは、ほんとうに珍しいことでした。

何度も来ているはずのその店。祖父は、戦争の話を滅多にしない。
8月は、トリガーが多いのかもしれない・・・。

すると、その日は祖母も戦時中の話をしてくれたのでした。
祖母は、太田の軍需工場で働いていたのだそうです。
太田は平らな街で、かつ、少し掘ればすぐ水が湧いてしまうので防空壕を掘ることが出来なかった。だから、空襲が来るとその平地をただただ逃げなければならなくて、とてもとても怖かった・・・と。

祖母が太田の話をしてくれたのは、あとにもさきにもこの1回。
わたしは、この場所でつらそうにしている若い祖父のこと、太田の地を逃げ回る若い祖母のことを想像しました。そしてとても複雑な気持ちで、自分のラーメンと、それから祖母の残した味噌ラーメンを食べたのでした・・・

太田の軍需工場、というのは、おそらく富士重工のことでしょう。
最近は、業績が好調だというので太田市の飲食店とセットでTVに出ていることもしばしば。戦時中は中島飛行機で、軍用機を作っていたはずです。

実際に太田を歩いてみると、そこにあるのはのほほんとした平地でした。今では平穏そのもので・・・ここに、若い頃の祖母が居たのかぁ・・・

                         ***

もう少し、さんぽで体験したことを綴ります。

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太田駅前は再開発の予定があるのか、だだっぴろい空き地になっています。
その片隅に、古い商店街が残されていました。といっても、仕舞屋ばかりなのですが・・・

そこに、連れが発見したワンダー物件がありました。

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これがその、古い商店街なのですが・・・
廃屋かしら、と思って近づいていくと、

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鰻屋さんがありました。
ばりばり現役なご様子。しかも鰻高騰の折、値上げをせずに。

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メニューは、なぜか壁に直接書かれています。
「1ぴき」の調理法がなんなのか気になるところ。

我々が最初の客だったのか、入店するといろいろと声をかけられました。
お茶の間から出てきたような素朴な出で立ちのおばさんから、わりと強めに「たまには鰻の上にしてみては」と、鰻の上を勧められました。この日は太田に来るのが最後の日だったため、ちょっと気を大きくして上を頼んでしまいました。

すると、まず、大将から「飛び散るからこれをかけてね」と、新聞紙を渡されるのです。
新聞紙・・・?え?

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新聞紙をかけながら、大いにビビります。
鰻を食べるのに、いったい何が飛び散るというのか。

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すると、もうもうと焚かれた七輪がやってきます。机の上に、どーんと。

アッツ・・・ッ!

注:夏(7月)です。
注:クーラーはついていません。

これから何が始まるのか、恐怖心最高潮に達す。

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付きだしのようなものが出てきました。

白菜の漬物、ミニトマト、きゅうり、豆腐、そして茹でたそうめんに、醤油をかけたものです(泣)。

ちなみに、お椀は肝吸いではなく、味噌汁です。

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唐突に、捌かれた生の鰻が血みどろでやってきて(あまりの衝撃のため写真は自粛、まだ動いています)、これを七輪で焼くのだ、と。
手前のタレにつけて食べよ、と。
これは”鰻の地獄焼き”なんだから、火力が大事。火力が落ちてきたらこのパックを二人で協力して入れてください、と、燃料のパックを渡され・・・

あまりのことに、二人ともポカーンとしていたら、「言うことわかってる?」と確認されるしまつ。

鰻の上を頼んだのに、何故こんなことになっているのか・・・。上って、お重の中の鰻が少し多い、とかではないのですか。

わたしも連れもきっと同じ思いだったと思うのですが、あまり率直に私語ができる雰囲気ではなかったためモクモクと鰻を焼き、食べ続けました(連れはわたしが苦手とする肝も食べてくれましたが、あまりの衝撃ですべての味がわからなかったそうですw)。燃料パックを、網を持って協同で投入することも忘れませんでした。
わたしは関西風の、蒸さない鰻の方が好きなので、これは味的にはおいしいのではと思いました・・・思いましたが、味以外のいろんな要素がすごすぎて!

地獄焼きは2匹分あったので、もう色んな意味でおなかいっぱいになりました。
そんなタイミングで、

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うな重が登場。

どどーん。
2匹目・・・。もう食えな(ry

帰りがけ、歩道のところに鰻を捌いた跡と、地面に捨てられた鰻の骨を見かけました。あとでネットの評判をみたところ、猫が捌いた鰻を食べるという時期もあったそうで。このあまりのワイルドさに、最近始まった店なのかと思っていたら、なんとお店自体は創業100年以上みたいなのです・・・なんという独自の発展の仕方。

わたしたちはしばらく無口となり、数時間後に、「もう、しばらく鰻は食べなくていいね・・・」「うん・・・」と遠い目で言い合ったのでした・・・。
注:翌日にまるます家でうな丼を美味しい美味しいと食べました。

太田ワンダー、もう一軒続けます。

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市街地にて。銭湯のえんとつにはいつでも敏感です。

あ、銭湯だ、と思って近づいていくと、

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ん?
公衆トイレだったか。

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あれれれ・・・いや、銭湯なのかもしれないです。

でも銭湯の名もついていなければ、いろいろとわかりにくい。

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普通の家に見える・・・。
自分の知っている銭湯とは違いすぎます。

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駐車場から推測すると、高砂ゆ、というお風呂屋さんのようでした。

ここも、太田最後の日に、ぜひ行っておこうということで、営業時間に合わせて遅めに訪れました。

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わあ、300円。
中に入ると、3畳くらいの部屋にフィットネスのマシンが置いてある部屋があって、その隣にアットホームな脱衣所。お風呂は知る限りどんな銭湯よりも狭く、お客さんは全員知り合い同士、という感じでした。共同浴場、という言葉がしっくりきそう。

これはこれで、おもしろい体験でした。太田、ワンダー。

                        ***

わたしたちがお見舞いに行っていたさきのそのひとは、この後いのちが危ないというところまでいってしまいました。ところがその後回復され(奇跡というのは、こういうことなんじゃないかと思いました)、いまは別な場所で治療を続けています。
最初に会ったとき、そのひとはわたしに、たくさんの美味しい食べものをお土産にくださいました。けれど、何もすごいものをくれなくっても、何かをしてくれなくっても、ただ生きていてくれるだけで、いいと思うんです。別に何か面白いことをたくさん話すのでなくても、ただそこに居てくれて、会えるだけで、いいのだから。
その方の回復と、少しでも長生きしてくださることを、祈りながら暮らしています。

                         ***

今回の記事は、シリアスなのか、コミカルなのか、よくわからない入り混じったものであったと思います。でもそれは、わたしたちが太田で体験した実際の気持ちにとても近いものだと思っています。じつにいろんなことを感じ、考えながら、あの街を歩いていました。

転院されたいま、わたしたちが同じ用事で太田に行くことは、もう無いでしょう。
けれど、わたしたちはこれからもそのよくわからない入り混じったような気持ちで、太田のことを思い出すでしょう。いのちの尊さについて考え、感謝しながら。”鰻の上”について、苦笑いしながら・・・。

自然と入り混じるいろんな思いと思い出。これが、太田のおもいでです。

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