桃園川支流を歩く その48 リベンジ天神川!
天神川の流路、思っていたのとちょっと違うかもしれない。
・・・そう、思い始めたのは去年の夏のこと。
中野町の古地図で出逢った桃園川の比較的大きな支流”天神川”は、中央線の北側の浅い低地を、2流になってうねうねと流れていました。
たしかに、現在もその場所には2本の道がうねうねと通っています。
だからわたしは、すぐさまその道たちを暗渠だと思ったのです(陸軍中野学校支流と呼ぶ野望を胸に書いた記事、①、②)。が・・・のちのち、その道とは少しズレたところにあきらかな暗渠を見たことをlotus62氏が教えてくれたり、昭和初期の地図を見ると一部違うところに流路があったり。どうも、違うのかもしれない、と。
現地に痕跡はほとんどないものの、古地図に沿って流路をつかみなおしました。さて記事化しようかというとき、データを紛失してしまったので暫くお預けにしていましたが・・・写真を撮りなおし、紆余曲折を経てもういちど、天神川の記事を書きたいと思います。
その間、中野駅前はずいぶんと様変わりしました。
かつての”御囲い”のエリアは、大規模再開発が完了し、中野ジャナイミタイナ”ナカノ”が展開され始めています(再開発後にそこから西の軍用地を旅する記事、電信隊の原さんぽ)。
御囲いが1から5まであるなか、今回の天神川の水源があったとみなされる場所は、二の囲、三の囲、四の囲のどれか(あるいは、どれも)。水の湧きやすい場所といわれますが、御囲いの後は軍用地になったため(詳細については前掲記事参照)、中の状況は長年わかりにくいまま。
ともかく、そこらへんから湧いた水が、
流れ出て、サンモールを横切ります。
わたしが、流路が違うかもしれない、と思ったのはこの少し先です。
スーパー、ライフを過ぎたところから2流になるのですが・・・ということは、古地図ではここに道は無くて水路が2本あればいいわけですが・・・、昭和8年の地図(左が北です)を見ると、うねうねした道が2本、水路も2本。
・・・え。
よく見れば、水路(水色点線)に挟まれた道をわたしは水路と思っていたようで。。
ちょっと混乱して明治44年の地図を見てみれば、どうも、やっぱり自分が思っていたところに水路があるし。んんー?
つまり、こういうことです(yahooさんありがとうございます)。
1と2が暗渠なんだと思っていたら、昭和初期では1と3が流路だった、というわけです。明治期には1と2のようなので、2が先に道となり、3に付け替えられた・・・?
ここはライフの脇、1の道。安定して暗渠の道。
そのほとんどが川跡であり、くねくねしながら歩いていけます。
こっちは2の道。年代によって位置づけが違う道。
この道の写真右側にも川跡があるはずなのですが、道などないうえ、それらしき隙間さえ見つかりません。うっすらと崖が広がっているので、その崖下すぐに流れていたのでしょうけど・・
崖に近づける道を見つけるたびに入り込みます。コの字ウォーク(L氏命名)で。
これがその「3」の川跡らしき風景。崖下ということ以外、その大半が「っぽく」は無いんです・・・
今回は、この実にわかりにくい「3」の流れを追っていきたいと思います。
まだまだ川の痕跡は感じにくいですが、段差を辛うじて追うことはできます。
写真奥にあるのは、織田学園で製菓を学んでいる学生さんたちのケーキを格安で買えるお店、パティスリーオダ。わたしも買いに来たことがあります(営業日がとっても限られているので、何も調べずに来たら閉まってましたけどねw)。
ああ、そうそうそう。このパティスリーのとなり、崖だなあ、って思ったんだったなあ。そのすぐ下かぁ・・・。
もう少し下流の、天神湯付近にいくと流路はちょっと複雑化します。
昭和8年の地図をふたたび参照。
緑の丸が天神湯で、「湯」とだけ書かれています。2本の天神川は水色点線で示します。
現地に行くと、
天神湯の前の通りには染物屋さんがあって、どうやら水色矢印のように(染物屋さんの脇を掠めるかたちで)天神川が流れているようなのです。
染物屋さんの向かいには、
こんなにはっきりとした暗渠がありました。
が、この川跡、実は昭和初期の地図には載っていないもので、
現在の地図にプロットしてみると、昭和8年の地図上の天神川の流れは、まずは北側の水色点線=いま道になっている一本。それから、最も南側にある紺色点線の二本です。
しかし、染物屋さんの場所はこの青丸のところであり、ややズレるのです。現代の地図を見ていると、家々の隙間がとてもあやしいし、家のぎざぎざ具合なんて、心底川跡くさい。
そこで明治の地図を見てみると、どうも明治期の水路が描いているかたちは、真ん中の水色点線に合致する・・・つまり、明治期にもあったし、わりと新しい時期まで残っていたのではないか、と。
なので、わたしは天神川の流路は基本的にはこの水色点線の二本とし、紺色点線は「あったかもしれないが、ごく短い期間のみ」というふうに考えたいと思います。
ちなみに、真ん中の水色点線部の左端は、このように集合住宅の端っこから出てくるように見えました。
さて、天神湯周辺を抜けた天神川は、中央線をくぐる用意をし始めます。
ここは、またちょっと違うことになっていて。わたしのもともとの解釈は流路1、2だったところ、2は明治でも昭和でも水路ではなく、古地図的に正しい流路は1、3でした。
場所ごとに、そして年代ごとにわたしの間違え具合も異なっていて、なんともヤヤコシイ話ですいません。。
3の流れは、こんなふうに崖のすぐ下を走ってゆきます。
建物という着物を剥げば、
このとおり。
いまだけ見ることができる、家が建つ前の景色。
かつては崖からジワジワと湧く水があったのかもしれません。
奥に行き、天神川の名残があるかどうか確かめました。
残念ながら川跡を示す隙間はありません。
この崖下、下水道台帳を見ると、もはや下水道局の敷地ではありません。ダミーの道路「2」に下水管も付け替えられ、こちらは全面私有地になっているようです。
下流側を見ると、こんなふうに塀ができていました。
崖と壁に挟まれたこの空間・・・もし崖上の人が洗濯物を落としても、誰も取れないのでは?などと無駄な心配をしてしまいます。
「3」の流路を確かめたいとき、いつ来ても合法的に入れるのはこの文園西公園。奥に崖が認められます。
文園、は、この地の町内会や公園として名を残しています。桃園、宮園、文園・・・。このマンションは”文園湯”の跡。
文園湯にもコインランドリーはあったようですが、そこに入りきらない人がここに来ていたのでしょうか。斜向かいに、いまもコインランドリーがあります。
ちなみに、この近くに道路の形状だけで天神川の位置を推測できる場所があります。
緑丸で囲んだところ。
こういう、一部分から道路が広くなる空間。左側の場所は天神湯の少し先で、道路が広いところの南側を川が流れていました。
右側の場所はこのコインランドリーのまさに隣で、
流路「1」がここから出てきて、道路の北側を流れていました。
ここに水路があったというわけ。
新しめの家だと、セットバックで凹んでいる場合も多いですけど・・・
ちなみに崖下ばかりに居て姿を見せなかった「3」の流れは、ここで表舞台に出てきます。東京メトロの管理地としてフェンスで囲われており、かつて公有地であったことを思わせます。
この向こう側、以前は駐車場でした。その駐車場の端っこを、「3」の流れを思わせるような暗渠的な地面が這っていたのですが・・・。残念ながら写真を紛失・・・もう撮ることはできない。いつまでも あるとおもうな 駐車場。
さて中央線をくぐります。谷戸ガード。
この天神川、あまり固定の名がついていないようで、谷戸川と呼ぶ向きもあるようですが、わたしは天神川と呼びたいと思っています。最初に出会った文献がそう呼んでいた、ということもありますが、打越天神や天神湯のところを通るということから、また、桃園川と並行し谷戸地区を流れる川が自前の湧水を持っていたようなので、そちらを谷戸川と呼びたいと思っていることから。
ガードを越すと、天神川は左へ道は右へ。
この、違和感空間は健在です。天神川さんはこのように下って行きます。
いつも暗渠みちばかりを通るわたくしですが・・・、ちょっと外れると、新しい出会いが待っていることがあります。この日も、そうでした。
天神川と並行する、城山中央通り商店街を歩いていたら。
ここに、なんだか気になるモノが。
ポッキリ折れてました。天神湯のえんとつもポッキリなので、ダブルポッキリです。
そのうえ、壁に挟まれて保存?されていました。新街灯を見守る、旧街灯といったぐあい。
あとは、以前思っていた流路で流れていく天神川。
今回はこのくらいにして、桃園川銭湯巡礼(天神湯編)のさいに、もう少しお話をつなげたいと思います。
***
さて、ゴハン。
中野駅方向に戻って戻って、前回入れなかったローズガーデンに入ります。
素朴な、町の洋食屋さん。
懐かしメニューがそろっていて、何を食べるか結構迷ってしまうお店なんですが・・・、
この日頼んだのはミートピラフ。
ミートピラフとは。
ピラフ、というかフライパンで炒められた懐かしい感じの洋風チャーハンのうえに、すっきりとしたミートソースが乗った逸品。セットにして、ポテトサラダとミネストローネスープを付けました。
スパゲティミートソースをも食べた気分になれる、ありがたき一皿でございます。
近所にずっとお住まいっぽい雰囲気の方々がつぎつぎやってくる、地元の良店という感じで、とても好きです。
これにて、天神川&ローズガーデンのダブルリベンジを終了します。
知ってるつもりが、まだまだ知らない。何度も見たはずの史料が、まだまだわかっていない。恥ずかしいようなくやしいような、でもとっても嬉しいような気持ちで、何度でも旅をしにいくのです。
<参考文献>
「豊多摩郡中野町全図」明治44年発行
「中野区全域図」昭和8年発行
「桃園郷の今昔」
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コメント
こんばんわ。
nama様のレポから察するに中央線北側の天神川2と3の流路は辺りが田圃から宅地になるにつれ時代ごとに変更させらたようですね。自分も昔、天神湯あたりの流路は1本では無いような気がしてました。nama様のレポでモヤモヤがまた一つ消えました。ありがとうございます。
中野駅北口から城山辺りの流路写真は本当に懐かしいです。小学生の頃は自転車で流路の上をカッ飛んでいましたから。
城山商店街近くの小さなお稲荷様?あたりは昔より綺麗にさっぱりした感じですね。お稲荷様左脇のカーブ流路は、昔はもっと暗渠の雰囲気ありました。小さいマンホールが沢山あり、カーブ外側にあたる壁面(護岸)はコケなどが生え、いかにも川の護岸だったという姿がありました。今もそうなのか?nama様の写真では左側壁の奥の方が少ししか見えなくて、はっきり確認できませんが、奥の左下壁(護岸)は開渠時代からの護岸に見えますね。
開渠の天神川の写真を一度でいいから見てみたいですね~。(笑)
投稿: 谷戸っ子 | 2013年7月12日 (金) 22時21分
>谷戸っ子さん
こんにちは。遅くなってしまいすみません。
天神湯あたりの流路に、子どものころから気づいていらっしゃるとは・・・さすがですねえ。あの斜めにたってるお稲荷さまの周辺は、家が新しくなって綺麗になってました。でも、参道らしき道はちゃんと残ってました。カーブのところの護岸・・・はい、あの場所の下のほうはまだ古かったような・・・気がします(記憶が微妙なんでまた!)。
それから、きっと谷戸っ子さんが気持ちよく自転車で下っていたであろう城山あたりの細道、一軒新しい家が建って、そのぶんセットバックで広くなっちゃった場所がありました。でも、ふるいアパートとかもまだあります。
はい、わたしも開渠の天神川を見てみたいなあと思っています。杉並側の支流は、新聞記事でちょこちょこ見れるのですが、中野区はあまり見つからなくて。でも、こうやってずっと探していれば、いつか出会えるような気もしています。
投稿: nama | 2013年7月18日 (木) 15時55分