ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 中山編
千葉に戻ります。
こんどは船橋西部、「葛飾」と呼ばれるあたりのおはなし。
千葉は「馬」「牧」にとても縁があるようです。
古くは「延喜式」において、下総に五牧を置く、とされています。もっとも今回の舞台、船橋にその牧があった、という確証はないのですが、しかし発掘調査によれば古代~中世の馬骨(の他にも埋葬された馬や馬具も)が船橋市南西部から多数出土しています。
そして江戸時代。幕府の馬牧(中世の牧を利用したらしい)も船橋にありました。牧の間を道が通っていたため、初代広重の絵などにも描かれています。・・・牧場といっても、特に馬の世話をするわけではなく、野放しであったようです。その馬を捕える行事は「野馬捕り」といい、牧にいる馬を「込(土手で囲み木戸を置いた低地 ※)」に追い込んで捕獲するのでした。それは何十人ものヒト VS 何十頭もの馬 の大騒ぎであり、付近に住まう人が弁当を持って見物しに来る行楽でもあったといいます。※込や木戸は地名として残っている。
そして、現代。
船橋で馬、といえば、多くの人がアソコを思い浮かべることでしょう。
そう、中山競馬場(海の方に船橋競馬場もあります。市内に2つも競馬場があるなんてすごい)。
中山競馬場の場所は、なんと前述の馬骨が出たとされる遺跡の近くなのです・・・なんたる因縁。
小さいころ、千葉の親戚宅にくるたび、近くのあちこちに車で遊びに連れていってもらいました。中山近辺を通ることは少なくなく、渋滞してくると運転手である叔父が「あー今日は競馬があるから(混んでるん)だ~」と、いまいましそうに言うのでした。・・・小さかったわたしは、車中で従兄弟たちと遊ぶのに忙しく、あまり気にしていませんでしたが・・・きっと、何度も近くにきていたはず。
その中山競馬場にやって来ましたよ、大人になったわたし。ギャンブルめしと、そして暗渠のために。
中山競馬場の建物は、すべて新しくゴージャス。まるで地方のショッピングモールのようなスナックコーナーがありました。この感じ・・・大人も子どももワクワク!
ただ、客層が圧倒的に違うわけです。おじさん、にいさん、おじいちゃん。みなさん新聞をひろげ、熱心にTVを見ています。こんなにアルコールとおつまみが揃っているのに、あまり酔っている人がいません。真剣勝負なのかな。
そんな、熱心な人たちを熱心に観察しつつ、わたしは名物・鳥千のフライドチキンをまず(それにしてもこのリンク先、後からぐぐったのですが自分が食べたものとおススメ上位が被っていて運命的w)。このフライドチキンはまるで上質なチキンカツ、お肉がしっかりしていてとても好みでした。あ、そのままだと味が薄いので、いろいろ付けたほうが無難です。
なんとなくギャンブル場ではいつも、レモンサワーを飲みます。ふぅ~~~。
競馬場がこんなに綺麗ではない頃。数十年前の体験談を見ていると、そこにも、実においしそうにお酒を呑むひとの姿がありました。
馬券でとられて裏門から出る。
<中略>少し行くとコップ酒を売る酒屋がある。
オケラのために酒の空箱が並べられてある。
きたない空箱に腰をおろしバラ銭をはたいて一杯呑む。
実にうまい。
考えて見ると今日はまだ昼飯を食っていない。
のどかな畑をながめながらコップ酒を呑むのもまた格別の味である。
<中略>後を見ても先を見ても同じ姿の人がぞろぞろ続く。
中にはバクダンをかじりながら歩く人も結構いた。
バクダンとは小形の「生いか」を丸のまま味をつけ「ゲソ」を全部切って中にはさみ太い竹の串にさしてある。
これを立喰いするようになると競馬も一人前である。
しかし味はなかなか上等に出来ている。
(成瀬恒吉「葛飾誌」 p19~20.)
一杯のコップ酒。
素朴なイカの「バクダン」。
それらの染み入るような「うまさ」を想像すると、喉が鳴ります。
いま、中山でバクダンを探してみても、見つけることはできません。でも、「なかなか上等にできている」食べ物がいまもあるから、わたしたちはお酒を呑み、何かをつまむのです。
でも面白いなと思うのは、昭和初期までは競馬場は「紳士の社交場」であり、入口付近では背広や羽織袴の貸衣装屋さんが繁盛していたということ。オケラ街道は「正装した男性で賑わっていた」ということ・・・。
当時のひとは、ラーメンなんて食べたでしょうか?
店構えがレトロで気になった翠松楼。きっとこういうラーメンを出すんだろうなと思った、まさにそういうラーメンが出てきます・・・そして期待通りの味でした。外すことない、安心の味。
帰ろうとしたら、コーヒー屋さんのモカソフトがとても気になって気になって、〆の別腹ってやつでモカソフトを食べました。これがまた、とてもおいしい。コーヒーの香ばしい味のするソフト。
スタンドからは行田が見えます。遠く聳える行田の団地たち。その間には、谷が走っています。
中山の競馬ファンは、常にこの風景を見ているということになります。
さきほど江戸時代で話が途切れていましたが、この地の馬との縁は脈々と、しかし奇妙な偶然と重なって続いてきているように思います。
もともと、競馬場はここではなく松戸にありました。崖上にあった、松戸競馬倶楽部。
軍が用地の接取を持ちかけたこと、足場が悪く危険だったことなどから、移転が計画されます(後日松戸の記事の際に再び触れましょう)。移転先第一候補の矢口との交渉が難航し、第二候補に挙がった地が中山・葛飾です。費用はすべて陸軍が負担し移転、大正9年、「中山競馬倶楽部」が出来ました。
当初は今より少し南側にあったといいます。短いコースに、貧弱なスタンド。馬は農家の厩に預けられ、馬券および入場券の販売所は、なんと、寺の境内。出走馬が少なく、一頭で走ったレースもあったということです(←意味がわかりません)。
その後中山競馬倶楽部は行徳に新競馬場を用意していたものの、関東大震災で津波の被害に遭い、最終的には現在地に移ったということです。
競馬場移転に陸軍が関わった話をさきほどしました。移転後、中山競馬場が軍の施設になった時期があります。
当時、軍馬の資質向上と資源確保のため奨励された競馬。つまり、そもそも軍との関係は深かったわけです。そして昭和19年、競馬場は一時閉鎖され、陸軍軍医学校、航空隊、自耕農場などに使われます。軍医学校では、ガスえそや破傷風の血清ワクチン製造がなされていました。採血の対象は馬、作業をしたのは学徒動員の中学生の男女。その描写はあまりにむごく、恐ろしい体験であったことが想像されます・・・
それでも競馬復活を願う関係者により生き残ったサラブレッドがいて、昭和22年には再び中山で競馬が開催されます。・・・そして、今に至ります。
***
中山競馬場の外側には、こんなものがあります。
馬頭観音群。その数、19。
これがある地は葛飾の古作という農村であり、戦前の農業発展(収穫物の運搬)に馬が非常に大きく貢献した村だといわれます。
古作における馬持ちの割合は高く、また風邪をひくとニンニクを焼いて食べさせるなど、人間のように大切にされたといいます。馬が死ぬと、家によっては馬頭観音塔を建てることもあり、また地区の行事として馬の霊を慰める「葬馬塔(そうまんと)」というものがあるそうです。
この石仏群は、そのように江戸~昭和にこの地でつくられ散在していた馬頭観音を、競馬場造成の際に集めたものではないかと推測されています。
こんなふうに、馬が大切にされてきた土地に、前述のように紆余曲折ありながら競馬場が移ってきたこと、なんとも奇妙な偶然だと思うのです。
そしてこの馬と競馬場との縁は、ゆるやかに水路との縁にもつながっているような気がします。この馬頭観音の集められた場所は、競馬場の外周の不思議なところで、
オレンジ丸のところ、外壁が突然へっこんだ位置にあるのが馬頭観音群(yahooさんありがとうございます)、そしてその先にある水色点線は水路なのです。
この、水路のはじまりの斜めっぷりが向いている方向がまた、馬頭観音群なのです。
競馬場のなんらかの排水を流す水路の出口ではないかと思われますが・・・嗚呼、競馬場の中を自由に歩きたい・・・!
その水路とは現在は支流の暗渠であり、まもなく本流と合流します。
本流の名は、葛飾川。古作の奥から流れ出、二俣へとゆく川。現在はほとんどが暗渠です。・・・そう、さきほど競馬場のスタンドから見えた谷を流れていた川です。
では、ここから暗渠編へ。葛飾川を河口から遡ることにしましょう。
ぐっと海側に移動します。
二俣には二俣川という川があり、開渠でしたがとても濁っていました。そしてそこにはボラの大群が・・・写真右側とか、うっすら見えると思いますが、まさに「夥し」かったです。
二俣川のさきに水門があり、
水門の上流側が暗渠の始まりでした。
葛飾川の最下流といえます。
葛飾川は地面の色違いにより、暗渠感を出してくれています。
神社の脇をカーブしながら通り、
道路を堂々と横断。
総武線までまっすぐ進みます。
総武線の反対側にも、くっきりと存在しています。
どんどん北上、道路の真ん中をカーブします。
この感じ、太刀洗川の下流部と似ています。お隣だし、暗渠化の時期が近いのでしょうか。
向こうに段差がみえます。その向こうは、勝間田公園。この場所から、水に関するエピソードがいろいろと増え始めます。
さて、川跡的にはいいところにさしかかってきましたが、今回はさすがに分量が多いので、前後編に分けたいと思います。
次回は、葛飾川の中~上流部。チバの魅力が満載ですので、どうぞオタノシミニ!
<参考文献>
かつしか歴史と民俗の会実行委員会「葛飾の郷」
千葉県歴史教育者協議会「千葉県の戦争遺跡をあるく 戦跡ガイド&マップ」
成瀬恒吉「葛飾誌」
日本中央競馬会「中山競馬場70年史」
船橋市郷土資料館「馬と船橋」
船橋市郷土資料館「新版 船橋のあゆみ」
「船橋市史 前篇」
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コメント
nama様、こんばんわ。
前編は川だけではなく競馬場に関わる葛飾地域の昔を知ることができ、とても興味深く拝読させて頂きました。
後編の記事、期待を超特大の爆発寸前にして待ってます。
PS.後半記事アップ前に爆発したりして。(笑)
投稿: 谷戸っ子 | 2013年4月15日 (月) 23時34分
>谷戸っ子さん
こんにちは。
不思議なほどに馬と縁のあるところですよね・・・。
後半は暗渠と湧水のはなしばかりになりますが、ああ、でも地元の方からすると「えーなんでここに行かなかったんだ!?」と憤慨する(?)ほどの大きな取りこぼしが2つあります。あとから調べてみると有名な湧水なんですけど・・・そんなわけで色々と抜けていると思いますがお許しください~~。
くるくる表情を変える葛飾川は、とてもすてきでした!おたのしみに~。
投稿: nama | 2013年4月16日 (火) 12時52分