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2013年4月

軍事クッキング② 掩体壕オムライス

お久しぶりの軍事クッキングです。
前回は「高射砲跡焼き」でしたね。よい子のみんな、作ってみたかな~?

間が空きましたが今回は2回目。テーマは、「掩体壕」ですよ!
・・・掩体壕ってなぁに?というよい子のために、掩体壕のお話もしましょうね。

   --------まずは、掩体壕の説明をば-------

太平洋戦争末期。本土決戦に備えて戦闘機を生産するペース(目標1万機)が間に合わず、とにかく今ある戦闘機を温存しようと、空襲から戦闘機を守る「掩体壕」「分散秘匿地域」「誘導路」が軍用飛行場周辺に作られることになりました。

秘匿地域とは、林や森の中に飛行機を隠すもの。
掩体壕とは、有蓋あるいは無蓋の、飛行機を守る構造物。その形状は多様で、有蓋のものでも半円型、オワン型、カマボコ型などあるようです。

たとえば、陸軍調布飛行場の掩体壕工事は昭和19年6月から9月にかけて(の説が有力)なされたそうです。
急ピッチの工事。竹や網で覆っただけの無蓋タイプが多数あること、形状や材質の統一感の無さ・・・資源の乏しさをものがたるものは、多いです。さらに、ベニヤで作った偽飛行機を置くといった苦肉の策まであったようです。

このように「隠す」ためにさまざまな工夫がなされた掩体壕でしたが、実は米軍からは丸見えでした。翌年の米軍地図にはあっさり描かれてしまい、実際のところは秘匿地域のほうが飛行機を守る効果はあったといわれます。

・・・この掩体壕、最初に目にしたのは、調布飛行場そばにあるものでした。旧陸軍調布飛行場にあった、有蓋掩体壕です。

Entai5_2

調布飛行場には飛行第244戦隊がおり、皇居直衛がその任務でした。最新の三式戦闘機「飛燕」を多く置いていたといい、掩体壕のだまし絵にも飛燕が描かれています。
ここで無理やりこの飛燕と我らが杉並を関連付けるとすれば。皇居が攻撃されないようにB29を向かえ撃つデッドラインは、無風の場合はJR中野駅上空、偏西風が吹く場合は大宮八幡宮の上空だったのだそうです。

Entai7_2

調布飛行場の水路(排水路がV字に掘られ、野川に流していた)、引込線(imakenpressさんの充実レポート)など自分にとって脱線要因も豊富な地ですが、ひとまずは掩体壕の紹介のみにして。

白糸台にも、調布飛行場絡みのものが残っています。

Sira1

調査によれば「飛燕」とほぼ同じ規格で作られているとのこと。排水設備、砂利敷き、誘導路、タイヤの痕跡なども見つかっています。

いまはこんなに整備されていますが、10年ほど前は倉庫として使われていて、上部には雨漏り防止の白い塗料が塗られていました。どうせなら昔の状態も見てみたかったけれど・・・。

Sira2

戦後の写真ならありました。

こんなふうに、調布飛行場の掩体壕は綺麗にして保存する方向のようです。この地には約30基のコンクリート製掩体壕がつくられたといわれます。再現地図を見ると飛行場や道路からまるでエノキダケのようににょきにょきと生えているように見えます。それがいまや、現存僅か4基。

いっぽう、千葉の茂原にはもっと異なる感じで掩体壕が残されている、とききます。しかも関東圏では最多というので、一度は見に行きたいと思っていました。

茂原に海軍航空基地が作られたのは昭和16年。アメリカ軍の本土上陸に備えた拠点として、飛行船の飛行場からの方向転換でした。昭和18年には、掩体壕の建設が始まったと推定されています。終戦時17基、うち11基が現存します。

さぁて。新茂原駅で下車し、海軍壕や軍事トロッコ跡などをぶらつき、駅に近いものから探し始めました。

Mbr1

1基め発見。
民家の敷地内にありました。いい感じに風雨をしのげる駐車場になっています。

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2基めも比較的容易に見つかりました。

前には畑が広がっていて、その作業小屋になっているようでした。

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内部はこんな風に、雑然としていますが。人が出入りしているような感じがあります。

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子どもに向けてでしょうか、このような大人に向けてでしょうか。「きけん のぼるな!!」・・・あ、入るのはイイのかな・・・

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おしりも拝見。

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サイドもじっくり。
調布(陸軍)のものは地面を掘り下げるため、もっと背が低い印象を受けます。

ちなみに、この手前には集合住宅。毎日これをながめて暮らす人もいるのですね。

その後、次の場所にあるはずのものをぐるぐる探しましたが、どうしても見つかりませんでした。ネット上でも「1基だけ見つけられなかった」という人を見かけるので、相当わかりづらい場所にあるのかもしれません。本当はすべて見つけたかったですが、まだまだ先があるので、あきらめて次へ。

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3基め。

上部にぼうぼう植物が生えています。
実は、コンクリート製の有蓋掩体壕の上には、偽装のために土が盛ったり、植物を植えたりしていました。なので、この植物も戦時中からあったものかもしれません。

ささやかな工夫であった、この「偽装土」。土に含まれる水分のために、コンクリートのひび割れが生じるといった皮肉な結果を生んでもいます。

Mbr8_2

天井を見ると、実にいびつ。

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4基めの後ろには道路があり、車がびゅんびゅん走っています。

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4基めは、3基めのすぐそばに。

車が走り、新しい家々に人が暮らす風景。水田を耕す風景。その中に残る、巨大な軍の残骸。異様な存在感です。

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5基めはちょっと見つけづらかったです。
が、木々の間にチラと見えるコンクリートに非常に敏感になってきました。

Mbr12

内部にはムシロが残っていました。鉄筋も見えています。

6基めは家の庭先に鎮座していて近づけず、

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7基めはなんと会社の工場?になってました。
内部には電気も引かれています。今回もっとも異色の存在です。

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8基めは、今回最大級の大きさ。
案内板がついており、観光用といった感じでした。

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9基め。

8基めから数メートル進むと見えてくるんですが・・・これはwww
なんか小さくてかわいいww ってかどっかにこういうキャラクターいないっけw

Mbr17

10基め。
なんということでしょう、車がとめてあるばかりか、テーブルとイスが置いてありました。
なんとたのしそうな掩体壕・・・あそこでランチしたり、酒飲んだり、七輪でサンマ焼いたりできたらなぁ・・・うぅ・・・。

・・・。

茂原の掩体壕群は、その地の人々の生活感や、整備されきったものには無い戦争のにおいが、ぷんぷんと漂うものでした。今回は紹介しませんが、都内にも家と一体化したものがあるといいます。なぜ、こんなにもフツ―にひとびとに使われているのか?

終戦後、土地は民間所有となったものの、掩体壕は国有財産のままだったため、残されるケースが多かった、ということらしいです。物資が無い頃に家や小屋として利用できる構造物でもありました。・・・その残された掩体壕のある家を訪れては、「これは大蔵省の持ち物だから貸借料を払え」という、いわば”掩体壕詐欺”も発生していたといいます。

                        ***

クッキングにうつります。

クッキングの行程は、オムライスの作り方と同時に、掩体壕の作り方の説明も兼ねていきたいと思います。

前回の記事を見てお気づきの方もいらっしゃることでしょう。そう、わたしは手先がたいへん不器用なんです!料理は大好きなので楽しみながらやってるのですが、この手先の不器用さは何年たってもまったく変わりません。そんなわけで、「実物にそっくりな繊細タッチの掩体壕オムライス」はけっして想像しないで読むよう、なにとぞよろしくおねがいします。

      ----------オムライスの作り方---------

<材料>
ごはん、長ネギ、牛蒡と蓮根のキンピラ(お総菜の残りでよし)、じゃこ、ゴマ、ごま油、合挽肉、玉ねぎ、卵、塩コショウ、韓国のり、だしじょうゆ、酒・・・量は、適当です。

<作り方>

まずは飛行機を作ります。

Omu1

合挽肉、みじん切りの玉ねぎ、卵、塩コショウをボウルに入れ、じゅうぶんに混ざるまで手でこねます。nama流は、玉ねぎは炒めずシャリシャリをたのしみます。ちょっと味をつけたければ、ソースを少々入れてもいいでしょう。

それを、飛行機の胴体、翼×2、尾翼に成形し、フライパンで焼きます。

焼きあがったら、お皿の上でくっつけて飛行機にします。

つぎに、掩体壕をつくっていきましょう。

掩体壕は鉄鋼コンクリート打設法”Z工法”でつくられていました。
調布のものと茂原のいくつかに使用されたZ5工法とは、工作物の形状の土饅頭をつくり、それを型枠としてコンクリートを打設、後に土を掘りだす、というもの。
茂原の残りに使われたZ6工法とは、型枠に鉄鋼コンクリートを打設する、というもの。

Omu2

というわけで、Z5工法を採用して土饅頭をつくっていきましょう。

十穀米のごはん、水菜、長ネギ、牛蒡と蓮根のキンピラ、じゃこ、ゴマ、を、ごま油で炒めます。塩コショウで味付け。
今回は日本軍であること、掩体壕の雰囲気を出したいことから和風にしているので、お好みで顆粒のだしのもとや、醤油をハラリとかけてもいいでしょう。
キンピラやじゃこは枯れたススキ、水菜や長ネギは緑色の雑草、十穀米やゴマは石ころを表現しています。

この和風炒飯を、さきほどの飛行機ハンバーグの上にのせ、そして飛行機のかたちに沿って成形していきます。

この和風炒飯は、土饅頭であると同時に、(どうせ後からこのご飯を取っ払って空洞にするわけにはいかないので)現在の掩体壕の醸し出す土・砂利・打ち捨てられ感を演出する重要なパーツです。美味しく味付けしてください。

今回は、「茂原の2基め」の形にしてみました。

Z6工法が混じってしまいますが、ここでムシロを貼り付けたいと思います(ふんいき)。

Omu3

韓国のりをちぎり、土饅頭の上に貼り付けていきます。

茂原のZ6工法は木枠を用いており、コンクリートを流す面にはムシロが使われていました。さきほどのムシロはそれが張り付いたままになっていた、というわけです。

Omu4

掩体壕の入り口。前方から見ると、飛行機がちょっとはみ出すくらいがいいと思います。

ではさいごに、コンクリートをかぶせていきましょう。

Omu5_2

卵、だしじょうゆ、酒を混ぜ、卵焼き器で厚めに焼き上げます。

厚めの方が、より飛行機を守れると思います。なお、卵液にタラコ、つくだ煮などを混ぜると、より雑なコンクリートの感じが出て、より物資不足の掩体壕らしくなるでしょう。
更なるコンクリート感を出していきたい人は、卵の白身で作るという手もあるかもしれません。

そしたら成形します。茂原の2基目のように、弧を描きつつおしりはキュッとしめて・・・

ここまで出来たら、本来は前述のように中の土を掻き出すのですが、無理なので炒飯は入れたままにしますw

Omu6

おしりのところをカットします。
こちらは、入口ではないわけですが、作業をやりやすくするために開けているといわれます。カットした蓋は、もちろんおいしくいただきました。

ここで、玉子の焼き色が濃い方が、「掩体壕の上に盛られた土」感が出るでしょう。また、草木が植えられたりもしたことを考えると、さらに上に青のりをふりかけたり、パセリを突き刺したりしてもいいかもしれませんね。

さて、これで掩体壕オムライスは出来上がりです。
焼酎などとあわせ、あたたかいうちに召し上がってください。

                         ***

実は3年くらい前に、調布の掩体壕の写真及び資料は用意してありました。しかし、この掩体壕オムライスをつくるにあたって、どうしても茂原は見ておかないといけないだろう。そう思って、先日茂原に行ってきた次第であります。そう、オムライスのために、茂原に。

次に思いついたのは「手榴弾メロンパン」だったのですが、手榴弾をかたどったグッズは持っているけれど、高射砲や掩体壕のように軍事遺構として何処かに実物が残る、というたぐいのものではない・・・ふぅむ、ボツかなあ。もしも軍事遺構クッキングを思いつかれた方いましたら、教えてください。どうぞよろしくお願いします。

                       

「杉並の暗渠」をさぐるはずのこのブログ、いつのまにか「千葉の軍事もの」のことばかり書いていることにお気づきでしょうか・・・。しまいには今日は暗渠のかけらも無かったですね。
でも大丈夫、そろそろ戻ります。
千葉の暗渠のお話は、まだまだ続編がありますが、しばらく間を置いてからの再開としたいと思います。

<参考文献>
竹内正浩「軍事遺産を歩く」
千葉県歴史教育者協議会「千葉県の戦争遺跡を歩く 戦跡ガイド&マップ」
古橋研一「調布飛行場にも掩体壕があった」

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 続・中山編

2つ前の記事、「中山編」の続きです。

葛飾川を遡上します。
この地にのどかな田園風景が広がるころ、葛飾川は流域にとって重要な農業用水でした。地元では、「ナガズ」「ながづ川」という呼称もあります。・・・ちょうど東隣の谷には「長津川」があるので、この「ナガズ」の由来は気になるところ。

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勝間田公園(の前を走る国道)の手前にこのように段差があります。

おそらくこのあたりがかつては池の水が落ちるところで、富さんが営む「富さん」という茶屋がありました。
目の前は街道。風光明媚な景勝の地で、旅人がくず餅、でんがく、名物の「つきぬきだんご」などを食べ、お茶をすする場所であったそうです。池を眺め、詩が作られ歌が詠まれ・・・
しかし明治27年に総武鉄道が通ると、ひとびとは汽車をつかうようになり、街道には荷馬車や人力車が多くなり、「富さん」で休む人はいなくなってしまいます。そして茶屋は姿を消し、荷馬車の立場となってしまったそうです。

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「富さん」から見えた池も、今では勝間田公園です。勝間田の池という溜池だったところ(名は万葉集から取ったそう。本郷溜、下り所の池、とも)で、昔から有名な池だったといいます。古地図にもデカデカ載っています。この公園全体が池、と思うだけでもデカいのですが、むかしはもっとで、道路の中央分離帯の松並木のところまで池が広がっていたといいます。

冬は氷の上で遊び、春は釣り、夏は水遊び・・・子どもたちが遊ぶ池。昭和10年に国道の拡張により一部が埋立てられますが、昭和30年には中の島が作られるなど整備されます。しかし生活排水が流れ込んで次第に汚れ、以前谷戸っ子さんが下さったコメントによると、昭和40年前後は「汚いな~!」と思うほどであったとのこと。
農業用水としての役目ももはやなくなったのでしょう、その後は全て埋められました。いまは、公園の奥のほうにフェイク池(枯れていましたが。湧水もあったらしく、埋立後もここらへんから湧いていたそうです・・・)があるくらいです。

池の畔には、葛飾神社。しかしこの神社は大正5年に遷されたものであり、旧社地には今も立派めの湧水があるようです。その湧水は葛飾川の流路から見ると西にはずれており、今回は気づかず・・・残念です。

米作の地であるため、国道沿いにはこのような溜池が多く存在していたそうです。

・・・この「溜池」には更に上流の葛飾川の水が流入してきます。その痕跡を探そうと、北に向かって歩きます。すると、

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公園の入口のひとつに、橋跡がありました。

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道路をはさみ、もう片側の橋跡も残っています。そのさき、心もとない感じの蓋のされ方ですが、水路の痕跡もありありと残っています。

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直角に曲がり、未舗装暗渠に変化。

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のっぺりコンクリ蓋に進化。

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おおっと家の敷地に入っていきます。こんもりとした木々の庭がある、大きな家のようでした。

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敷地の反対側へまわります。
水路が出てきたところ・・・ああ、なんて堂々とひとんちの庭を通っているのだ・・・暗渠の蓋は、うすい抹茶色の、ちいさな砂利のようなものでした。

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家を出ると、すぐに橋跡。そして京成の線路をくぐります。

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線路を出てきたところ。

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「この先バイク進入禁止 船橋市河川管理課」って書いてあります。

河川管理課!

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葛飾小学校の前に来ると、T字になって周囲を囲っているように見えます。

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小学校の脇にて、支流が合流。
この支流の源は住宅地に飲まれ、追えませんでした。

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その先は、小学校の通学路だからなのかわかりませんが、自転車を阻むためのコレがくどいくらいに現れます。1つ1つの距離が近くて、歩行者にとってもちょっとアレなんですけど・・・

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で、もうちょっと遡ると舗装が悪くなります。イイネ~。

ここで地図上では左岸側に池マークが出てくるので、どうせ調整池だろうとそちらへいくと、

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なにやら水を湛えた池がありました。
「きけんなので池にはいるな」の文字の配置にセンスを感じます。

なんとここ、ゲェロの池(ゲェロ溜、とも)、という湧水池でした。
ゲェロとはカエルのことで、暗くなるとウシガエルが鳴いていたことが由来です。というか、今もカエルは確実に住んでいそうです。
かつてはここで野菜を洗うこともあり、また、川エビ、フナ、ウナギも採れたそうです。夜になればホタルが舞って。・・・ここもJRの西船橋ができた昭和30年代から、溜池の役割が終わったとのことです。今も水が湧いていますが、中にいるのはコイばかり。畔では近所のおじいさんが池を眺めながらのんびりお話をしていました。

案内板によれば、ここらへんには他にも湧水池が点在し、葛飾湧水群と言われているのだそうです。し、知らなかった・・・

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ゲェロの池から流れ出す、川跡もありました。

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それは葛飾川の本流と並走するかたちで崖下をすすみ、

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雑な感じで葛飾中学校(葛飾小のとなり)のグラウンドへ入っていきます。そしてグラウンドに沿って直角に曲がり、本流と合わさります。
ここ、歩いてみようと思ったらぐちゃぐちゃの湿地でした。葛飾川沿い、結構湧いてるな・・・

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本流暗渠に戻ります。舗装が悪くなった場所から・・・ん、なんか地面がヘン・・・

これ、麻雀杯(参考)??

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いえいえ陶器のかけらでした。

我ながら、こういう質感のものを見るたびに「麻雀杯!?」と思ってしまうおかしな思考回路になってきています。しかしコレ、船橋の他の場所でも遭遇することになるんです。船橋暗渠の名物のひとつになるだろうか・・・

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陶器のすぐ横、右岸にはこんな風景。
突然、池が現れます。

この地域ではかつて、池の大半が稲作と関連していました。小さな池は種もみを発芽させる「タナヤ」に使われたといいます。この池について言及する文献はないのですが、おそらくはこれも「タナヤ」に使われた湧水池ではないか、と思います。

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少し進むと、暗渠自身も水まみれでした。
どうやら脇からじゅくじゅくと湧いているようです。湧水が暗渠蓋の上にある風景。

ふと見ると横の駐車場も水びたしでした。

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地面や横の湧水に気を取られていると・・・、

あ、橋だ。橋が前にある。
どうしよう、くぐろうか、やめようか・・・でも遠回りだし、くぐらなきゃ。

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いいオトナですが、子ども心でくぐります。

見上げると、ほんものの子どもが数人、暗渠上で遊んでいました。

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N「ごめーん、 ちょっと通らせてね~」
子「あのねぇ、ここねぇ、秘密基地なんだよ!」
N「へぇ、秘密基地!いいじゃん!」

いいなあ、橋の下にある秘密基地って。雨でも遊べるしねぇ。へへ・・・写真撮っちゃお。

子「あ、写真撮るよ。(ピース!)」
ピース!

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まもなく古作橋。

脇の駐車場は古作橋駐車場といい、競馬をやっているときにはいっぱい車が止まり、やっていないときにはカラッカラです。

Katu39

古作橋を渡ると、梅林でした。

右岸側には地形図では支谷が認められますが、川跡は見つけられず。
そのやや上流にて、前回書いた中山競馬場支流(仮)をあわせます。

Katu45

本流上、四方固めをされたマンホールが何度も出てきます。

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流路脇に公園があり、折渡の弁天さまが祀られていました。この地が昔海だったとき、ここが入江の一番奥であり、船が折り返し渡るというのが名の由来だそうです。

下流側にも海だったときに毘沙門丸という宝船が沈んだという言い伝えのある場所があります。ちょっと、海だったなんて想像しづらいですが・・・ここを船が往来していたのか・・・

Katu47

本流はしばらく、ハシゴ式開渠風暗渠です。
中に管渠が埋まっているということなのか、土色の砂利が被せてあります。地図上ではここらへんはすべて開渠で、開渠扱いしたくなるのもわかる気がする・・・

Katu48

武蔵野線の高架をくぐると、暗渠の感じがちょっと変わります。
プリンみたいでもあるけど、こういう和菓子もあった気がする。中に餡子が入ってるやつ。

Katu50

フェンスが消え、また姿が変わります。

水門が突き出ていました。これはすごい・・・地元のヒト、ベンチだと思ってるんじゃないだろうか・・・。

Katu51

この先に上流端があります。
盛土のさきに谷頭があります。盛土は実は、行田に行くときに通った道です。

Katu53

水門から分岐する先にも行ってみましょう。

そこには、深い開渠がありました。

Katu54

こうぐるーっと続いて、

Katu55

途切れて、

Katu56

湧水池があったらしい、木の生えていない窪地につながっていました。
豊水期には水が溜まっていたりするのでしょうか・・・?ちなみにこのときも僅かに湧いているようで、写真奥の流入口には水が溜まっていました。

葛飾川の水源は、古作の奥、薄暗い藪の中にある「ヨシ溜」であるといいます。おそらくこれがヨシ溜ではないか、と思います。かつては、何か所も湧水口があり川魚も多くいて、蛇やイモリもいたそうです。
いまじゃ公園の端っこにすぎませんが、昼間でも薄暗く人気はあまりなく、神秘的な感じは僅かにします。何十年も前には、ここからふつふつと湧いた水が、滔々と流れ出す風景があったのか・・・。

水源はきっともっとアチコチにあったと想像させる、湧水の多い葛飾川沿いでしたが、ひとまずこのもっとも水源らしい場所まできたので、これで探索を終わりとします。積み残しは、あるけどね。

Katusikamap

今回の行程、陰影図で示します(google earthさんありがとうございます)。

競馬場から見えた谷は、こんなカタチをしていました。色々な蓋、あちこちの湧水、秘密基地。なかなか味のある一本でございました。

                         ***

さて、あとは下って帰るのみ。

Katu57

途中で見つけたお風呂屋さんに寄ります。

その名も、湯~トピア。ん、なんか荻窪で聞いたことある名前だな・・・w
サブタイトルは「スペシャルリーズナブル」。たしかに、雰囲気はスパのようなのに、銭湯料金です。なんか、カラオケ室もついてますw
リンク先にあるように浴場は洋風なのですが、露天は和風。外に出るとまず、滝と鳥居、池がデーン。はっきりいってこの池、露天風呂と区別がつきません!少なくともわたしは暗がりで「どっちに入ったらいいんだ・・・」と迷い、池に入りそうになり危なっ!!ってなりました。。少し目の悪い人、少し酔ってる人など、絶対年に何人かは間違って池の方に入っちゃってると思います。

Katu58

でも、お風呂は広いし清潔、種類もいろいろで、良かったです。
何度も露天に出入りして・・・風呂あがりにロビーで一杯。ぷはぁ。

Katu59

なんと、湯~トピアの前にも支流がありました。

これはもう湯~トピア支流(仮)と名付けたい勢いですが、実は葛羅(かつら)の井という立派な湧水がこの近くにあったらしい(これも取りこぼし。残念)ので、そこからの流れかもしれません。

まぁまぁ、今回はこれで堪能したので、行きにみつけていた京成沿いのいい感じの飲み屋さんでフィニッシュ。
さて、酒。

Katu60

京成西船(もとは葛飾駅で、改称は昭和62年・・・結構最近なのですね~)駅前の立ち飲み屋さん、山形屋

このビジュアル、たまりません!

さっそく瓶ビール。モツ煮に、やきとり。ぐびぐび~。もぐもぐ。

・・・あるものをメニューに見つけます。

Katu61

ソーセージ。

いや、行田でスーパーに寄ったとき、相方が「ソーセージの種類と量が多すぎる」ことにえらく吃驚していたのでした。たしかに、なんか多いんですw そこで「船橋はソーセージの街」と思っていたところに、それほどメニューの多くない店の壁にドーンと「ソーセージ」。・・・これは頼まないわけにいかないでしょう。・・・で、ソーセージはなんとおでん鍋の中から登場しましたw おでん味のソーセージ、いい感じに美味しかったですよw

Katu62

すぐ後ろにびゅんびゅん電車の通る風景。
お隣もハシゴし、チューハイで酔い酔い、帰宅しました。

実は、この時点では中山競馬場のオケラ街道の位置を勘違いしていて、飲み屋さんの名残がないな~と残念に思っていたのです。もちろんいまオケラ街道が様変わりしている可能性だって大いにあるけれど、このことは大きなリベンジ要因です。あ、湧水池もだけど。
ほんとうのオケラ街道を通りに、チューハイを飲みに、またまたここらへんに来なきゃいけませんね。

<参考文献>
かつしか歴史と民話の会実行委員会「葛飾の郷」
成瀬恒吉「葛飾誌」
綿貫啓一「郷土史の風景」

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桃園川暗渠てくてく企画のおしらせ

今回は告知の記事です。

突然ですが、「東京てくてく」さんで、暗渠あるきのガイドをさせていただくことになりました。
第1回目は5月6日、阿佐ヶ谷で行います。
タイトルは、”桃園川の素顔を探せ!阿佐ヶ谷暗渠ラビリンス地帯を歩きまくる120分間! ~ 住宅地に残る異空間、暗渠の見つけ方、おしえます ~ ”です。いまのところ、僅かですが空きがあるようなので、もしご興味のある方は(有料なので申し訳ありませんが)ご検討いただければと思います。追記:おかげさまで定員に達したため締め切りました。ありがとうございました。

お話をいただいたとき、やはり最初は桃園川にしたいと思いました。そこで、桃園川の中でも、最もたのしめる場所の1つと思っているところを選びました。
それが阿佐ヶ谷であり、実は本ブログでは今回取り上げる場所について、きちんとまとめてはいません(書いたことはありますが)。いつか「阿佐ヶ谷ラビリンス解明」というタイトルでまとめようと思っていたものを、引っ込めてツアーにした、というかたちです。

阿佐ヶ谷地区は、桃園川本流の遊歩道が途切れるところで、かつ、支流のコンクリ蓋暗渠が多数残る場所です。それは迷路と宝探しがゴッチャになったような、暗渠カオスであり、暗渠中級者(ってなんでしょうね?w)以上でもたのしむことができると思います。また、その”迷路感”を最大限に味わえるようなコース編成にしてあります。

いっぽう、暗渠のことをよく知らないという方のため、桃園川の解説、暗渠の見つけ方(現地に即してポイントを10つほど)、を盛り込みながら、丁寧に歩きたいと考えています。

そんなわけで、第1回目の裏テーマは「迷路」です。
桃園川の暗渠カオスに、延々つづくコンクリ蓋に、迷い、そして酔いましょう!

東京てくてくさんの告知ページはコチラ。写真もコチラで見られます。

なお、第2回目はまた異なるテーマのものを企画中です。今回予定が合わない、場所がいまいち、などの理由で敬遠された方は、第2回目以降もご検討くだされば幸いです。
以上、よろしくお願いいたします。

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 中山編

千葉に戻ります。
こんどは船橋西部、「葛飾」と呼ばれるあたりのおはなし。

千葉は「馬」「牧」にとても縁があるようです。
古くは「延喜式」において、下総に五牧を置く、とされています。もっとも今回の舞台、船橋にその牧があった、という確証はないのですが、しかし発掘調査によれば古代~中世の馬骨(の他にも埋葬された馬や馬具も)が船橋市南西部から多数出土しています。

そして江戸時代。幕府の馬牧(中世の牧を利用したらしい)も船橋にありました。牧の間を道が通っていたため、初代広重の絵などにも描かれています。・・・牧場といっても、特に馬の世話をするわけではなく、野放しであったようです。その馬を捕える行事は「野馬捕り」といい、牧にいる馬を「込(土手で囲み木戸を置いた低地 ※)」に追い込んで捕獲するのでした。それは何十人ものヒト VS 何十頭もの馬 の大騒ぎであり、付近に住まう人が弁当を持って見物しに来る行楽でもあったといいます。※込や木戸は地名として残っている。

そして、現代。
船橋で馬、といえば、多くの人がアソコを思い浮かべることでしょう。

そう、中山競馬場(海の方に船橋競馬場もあります。市内に2つも競馬場があるなんてすごい)。
中山競馬場の場所は、なんと前述の馬骨が出たとされる遺跡の近くなのです・・・なんたる因縁。

小さいころ、千葉の親戚宅にくるたび、近くのあちこちに車で遊びに連れていってもらいました。中山近辺を通ることは少なくなく、渋滞してくると運転手である叔父が「あー今日は競馬があるから(混んでるん)だ~」と、いまいましそうに言うのでした。・・・小さかったわたしは、車中で従兄弟たちと遊ぶのに忙しく、あまり気にしていませんでしたが・・・きっと、何度も近くにきていたはず。

その中山競馬場にやって来ましたよ、大人になったわたし。ギャンブルめしと、そして暗渠のために。

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中山競馬場の建物は、すべて新しくゴージャス。まるで地方のショッピングモールのようなスナックコーナーがありました。この感じ・・・大人も子どももワクワク!

ただ、客層が圧倒的に違うわけです。おじさん、にいさん、おじいちゃん。みなさん新聞をひろげ、熱心にTVを見ています。こんなにアルコールとおつまみが揃っているのに、あまり酔っている人がいません。真剣勝負なのかな。

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そんな、熱心な人たちを熱心に観察しつつ、わたしは名物・鳥千のフライドチキンをまず(それにしてもこのリンク先、後からぐぐったのですが自分が食べたものとおススメ上位が被っていて運命的w)。このフライドチキンはまるで上質なチキンカツ、お肉がしっかりしていてとても好みでした。あ、そのままだと味が薄いので、いろいろ付けたほうが無難です。
なんとなくギャンブル場ではいつも、レモンサワーを飲みます。ふぅ~~~。

競馬場がこんなに綺麗ではない頃。数十年前の体験談を見ていると、そこにも、実においしそうにお酒を呑むひとの姿がありました。

馬券でとられて裏門から出る。
<中略>少し行くとコップ酒を売る酒屋がある。
オケラのために酒の空箱が並べられてある。
きたない空箱に腰をおろしバラ銭をはたいて一杯呑む。

実にうまい。

考えて見ると今日はまだ昼飯を食っていない。
のどかな畑をながめながらコップ酒を呑むのもまた格別の味である。

<中略>後を見ても先を見ても同じ姿の人がぞろぞろ続く。
中にはバクダンをかじりながら歩く人も結構いた。
バクダンとは小形の「生いか」を丸のまま味をつけ「ゲソ」を全部切って中にはさみ太い竹の串にさしてある。
これを立喰いするようになると競馬も一人前である。
しかし味はなかなか上等に出来ている。
(成瀬恒吉「葛飾誌」 p19~20.)

一杯のコップ酒。
素朴なイカの「バクダン」。
それらの染み入るような「うまさ」を想像すると、喉が鳴ります。

いま、中山でバクダンを探してみても、見つけることはできません。でも、「なかなか上等にできている」食べ物がいまもあるから、わたしたちはお酒を呑み、何かをつまむのです。

でも面白いなと思うのは、昭和初期までは競馬場は「紳士の社交場」であり、入口付近では背広や羽織袴の貸衣装屋さんが繁盛していたということ。オケラ街道は「正装した男性で賑わっていた」ということ・・・。

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当時のひとは、ラーメンなんて食べたでしょうか?
店構えがレトロで気になった翠松楼。きっとこういうラーメンを出すんだろうなと思った、まさにそういうラーメンが出てきます・・・そして期待通りの味でした。外すことない、安心の味。

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帰ろうとしたら、コーヒー屋さんのモカソフトがとても気になって気になって、〆の別腹ってやつでモカソフトを食べました。これがまた、とてもおいしい。コーヒーの香ばしい味のするソフト。

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スタンドからは行田が見えます。遠く聳える行田の団地たち。その間には、谷が走っています。
中山の競馬ファンは、常にこの風景を見ているということになります。

さきほど江戸時代で話が途切れていましたが、この地の馬との縁は脈々と、しかし奇妙な偶然と重なって続いてきているように思います。

もともと、競馬場はここではなく松戸にありました。崖上にあった、松戸競馬倶楽部。
軍が用地の接取を持ちかけたこと、足場が悪く危険だったことなどから、移転が計画されます
(後日松戸の記事の際に再び触れましょう)。移転先第一候補の矢口との交渉が難航し、第二候補に挙がった地が中山・葛飾です。費用はすべて陸軍が負担し移転、大正9年、「中山競馬倶楽部」が出来ました。
当初は今より少し南側にあったといいます。短いコースに、貧弱なスタンド。馬は農家の厩に預けられ、馬券および入場券の販売所は、なんと、寺の境内。出走馬が少なく、一頭で走ったレースもあったということです
(←意味がわかりません)。

その後中山競馬倶楽部は行徳に新競馬場を用意していたものの、関東大震災で津波の被害に遭い、最終的には現在地に移ったということです。

競馬場移転に陸軍が関わった話をさきほどしました。移転後、中山競馬場が軍の施設になった時期があります。
当時、軍馬の資質向上と資源確保のため奨励された競馬。つまり、そもそも軍との関係は深かったわけです。そして昭和19年、競馬場は一時閉鎖され、陸軍軍医学校、航空隊、自耕農場などに使われます。軍医学校では、ガスえそや破傷風の血清ワクチン製造がなされていました。採血の対象は馬、作業をしたのは学徒動員の中学生の男女。その描写はあまりにむごく、恐ろしい体験であったことが想像されます・・・
それでも競馬復活を願う関係者により生き残ったサラブレッドがいて、昭和22年には再び中山で競馬が開催されます。・・・そして、今に至ります。

                         ***

中山競馬場の外側には、こんなものがあります。

Katu41

馬頭観音群。その数、19。

これがある地は葛飾の古作という農村であり、戦前の農業発展(収穫物の運搬)に馬が非常に大きく貢献した村だといわれます。
古作における馬持ちの割合は高く、また風邪をひくとニンニクを焼いて食べさせるなど、人間のように大切にされたといいます。馬が死ぬと、家によっては馬頭観音塔を建てることもあり、また地区の行事として馬の霊を慰める「葬馬塔(そうまんと)」というものがあるそうです。

この石仏群は、そのように江戸~昭和にこの地でつくられ散在していた馬頭観音を、競馬場造成の際に集めたものではないかと推測されています。

こんなふうに、馬が大切にされてきた土地に、前述のように紆余曲折ありながら競馬場が移ってきたこと、なんとも奇妙な偶然だと思うのです。

そしてこの馬と競馬場との縁は、ゆるやかに水路との縁にもつながっているような気がします。この馬頭観音の集められた場所は、競馬場の外周の不思議なところで、

Bato

オレンジ丸のところ、外壁が突然へっこんだ位置にあるのが馬頭観音群(yahooさんありがとうございます)、そしてその先にある水色点線は水路なのです。

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この、水路のはじまりの斜めっぷりが向いている方向がまた、馬頭観音群なのです。
競馬場のなんらかの排水を流す水路の出口ではないかと思われますが・・・嗚呼、競馬場の中を自由に歩きたい・・・!

Katu43

その水路とは現在は支流の暗渠であり、まもなく本流と合流します。
本流の名は、葛飾川。古作の奥から流れ出、二俣へとゆく川。現在はほとんどが暗渠です。・・・そう、さきほど競馬場のスタンドから見えた谷を流れていた川です。

では、ここから暗渠編へ。葛飾川を河口から遡ることにしましょう。

Katu

ぐっと海側に移動します。

二俣には二俣川という川があり、開渠でしたがとても濁っていました。そしてそこにはボラの大群が・・・写真右側とか、うっすら見えると思いますが、まさに「夥し」かったです。

Katu2

二俣川のさきに水門があり、

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水門の上流側が暗渠の始まりでした。
葛飾川の最下流といえます。

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葛飾川は地面の色違いにより、暗渠感を出してくれています。

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神社の脇をカーブしながら通り、

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道路を堂々と横断。

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総武線までまっすぐ進みます。

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総武線の反対側にも、くっきりと存在しています。

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どんどん北上、道路の真ん中をカーブします。
この感じ、太刀洗川の下流部と似ています。お隣だし、暗渠化の時期が近いのでしょうか。

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向こうに段差がみえます。その向こうは、勝間田公園。この場所から、水に関するエピソードがいろいろと増え始めます。

さて、川跡的にはいいところにさしかかってきましたが、今回はさすがに分量が多いので、前後編に分けたいと思います。
次回は、葛飾川の中~上流部。チバの魅力が満載ですので、どうぞオタノシミニ!

<参考文献>
かつしか歴史と民俗の会実行委員会「葛飾の郷」
千葉県歴史教育者協議会「千葉県の戦争遺跡をあるく 戦跡ガイド&マップ」
成瀬恒吉「葛飾誌」
日本中央競馬会「中山競馬場70年史」
船橋市郷土資料館「馬と船橋」
船橋市郷土資料館「新版 船橋のあゆみ」
「船橋市史 前篇」

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地下に眠りし人工河川、環七地下調節池のおはなし

先日の豪雨のさい調節池が活躍したニュースに、なんだか頼もしいような誇らしいような気持ちになったひとも多いはず。

豪雨からわたしたちを守ってくれる、分水路に調節池。あの日は、首都圏外郭放水路(見学したときの記事)も働いていたのではないでしょうか。

ニュースでも触れられていた神田川。神田川水系には、調節池が9つ(完成済)あります。そのうち、最大といえる環七の地下調節池に見学に行ったばかりであり、タイミングもよいので記事にすることにします。

                         ***

ツアーは、神田川クルーズをしてから方南町まで移動して見学という面白い行程でした。わたしは一応パンクチュアル(1分前とか)だったのに、既に全員が集合しており初っ端からなんだかダメな遅刻野郎みたいな目で見られる(注:気のせい)という、不思議な見学会でありました。

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カワセミに乗って、

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分水路を見たりするわけです。
分水路については、過去記事(暗渠のウルトラマンをゆく)にて水道橋分水路内に入ったレポートをしているので、今回は省略。
ちなみにこのとき、ガイドさんが「ネットを見ていると、分水路に入ったことを自慢げに書いている人がいるが、ガスなどが溜まっているかもしれないので危険な行為です。でも、自慢している人がいるんですよ。」と批判的に仰ってました・・・うう、勝手に入ったわけじゃないんですけど・・・

で、調節池の部へ。

調節池、は、開渠を歩いていると時折目にします。実は調節池には種類があり、自然流下を利用する「掘込み式」(善福寺川の和田堀にある3つなど)と、排水ポンプの付いた「地下式」(妙正寺川の落合や上高田にあるものなど)、そして今回見に行く「地下トンネル式」があります。

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「神田川・環状七号線地下調節池善福寺川取水施設」。環七地下調節池は、取水施設、調節池トンネル、管理棟から構成されるもので、つまりこの取水施設も調節池の一部にあたります。ここが今回の会場。

いま居るのは善福寺川の取水施設ですが、同様のものが神田川、妙正寺川の脇にもあります。

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調節池の説明は、模型を使ってなされました。模型っていつ見てもうきうき。

オレンジ丸は取水施設が善福寺川に接している箇所の護岸部分であり、このように穴があり、そこから水を取り入れます。

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そこには越流堰があり、上下に動くゲートがついています。洪水のおそれが出てきたとき、このゲートはまず閉まり、水が入らないようにします。なぜかというと、ピーク時に合わせて水を流入させるため(ダラダラ入れてしまうとピーク時の水が十分に取水できなくなる恐れがある)です。

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その裏側、取り込んだ水が流れていく先はこうなっています。

ドロップシャフト(流入孔)で立坑の下のほう(減勢池)へ落とされます。ドロップシャフト、というのは回転させながら水を落とすもので、騒音や振動を防ぐ仕組みになっています。このドロップシャフトを水が落ちていく映像を外郭放水路で見ましたが、なめらかでうつくしく(まるで円筒分水のように)、ご飯何杯でもいけるほど好きな感じでした。

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もう少し引いてみると、こう。
立坑に落ちた水は矢印のように連絡管渠内を流れてゆき、

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環七の地下に行きます。
この、黒っぽい管こそが神田川・環状七号線地下調節池の調節池トンネルです。

ここに水が貯留され、後ほど排水ポンプで放流渠から放流されます。

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管理棟には神田川の数か所を観察できるモニターがありました。ここで、注意深く水位の上昇を見るのでしょう。
モニターの横には、中央監視操作盤がありました。きっと先日も、ここに職員さんが駆けつけ、詰めていたことでしょう・・・

さて、いよいよ地下に降りていきます。

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立坑内の階段を降ります。
これがめちゃめちゃ深い。特に上りがむちゃくちゃつらい、今までの地下見学系で最高の部類です。見学者は50人くらいだったでしょうか、明らかに最若手だったので、ポーカーフェイスで上り下りしましたが・・・。

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降りきって、まず見えるのはドロップシャフトの出口。

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ついで、連結管渠の中を歩いていきます。

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壁には「マルヒ」とか「マルウ」とか書いてあって気になります。
「ヒ」はヒビワレのヒで、点検の跡なのだそうです。

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ここが連結管渠と調節池トンネルの接続箇所。いよいよ環七の下です。
いま通った連結管渠も大きいと感じましたが、こちらは半端ない広さ・・・

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果てしなく広がる闇・・・

向こうの端には妙正寺川、後ろの端には神田川。計4500mの長さです。

内径は12.5m、そしてこの上(土被)は34~43m。なにもかもが大きい。

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下に溜まっているのは雨水ではなく、消防用の水なのだそうです(冬場のみ溜めている)。

この調節池ができたことによって、浸水被害は激減することとなりました。年に2回ほどの稼働のようですが、これまでの記録(見学時点)によれば、平成21年の台風18号のときが最も流入量が多く、調節池の94%まできたそうです。
先日はどのくらいであったのか・・・まではわかりませんが、

調節池を管理する東京都第三建設事務所、工事第二課の尾上靖課長は「モニターを見ながら川の水を適切に排出することができた。ピークに達してから順調に川の水位が低下し、効果があったと思う」と話しています。

ニュースを読むと調節池とあの管理棟が頑張っていたことが想像されるのです。

ちなみに、この調節池トンネルは年に1度掃除をされ(魚が救出されることもあるそう)、その直後のキレイなときに見学会(2月)をしてくれます。

                        ***

さて、ゴハン。

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方南町に来ているわけですから、食事はやっぱりアノ蕎麦屋さんでしょう。ちかてつそば。方南町の駅を出てすぐのところ。

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それは、衝撃の「ぬるい」があるお店。
えいはちさんが行かれた時には「ぬるい」がもっと変な感じで独立してたんですけどね。

単に「ぬるい」蕎麦があることが珍しい、だけではありません。わたくし極度の猫舌でありまして、何でも冷まさないと食べられません。世の中の食べ物がすべて「ぬるい」になってくれたら、どんなにありがたいことか。そんな風に思って生きてきたので、この蕎麦屋さんの「ぬる」はわたしにとって待望の「ぬる」なのです。

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コロッケとちくわ天をのっけました。ぬるそば、ズルズル~。
・・・ストレスフリー!ぬる最高!

しばらく食べ進めると、目の前に「むきエビ天、4つで50円」がどーんと盛ってあることに気が付きました。えーなにそのあまり聞いたことのない天ぷら!むきエビ天にすればよかった―!としばし後悔していたのですが、ケビンさんによると、むきえび天は人気第3位みたいですね。でも、また食べにいこっと。

のんびり流れる善福寺川を横目に、帰途につきました。

                          ***

実は話はもっと大きくて、地下河川構想、という壮大な構想とこの調節池は関わっていました。
環七の地下を白子川から東京湾までを結び、10河川(含下水道幹線)の洪水を流入させ東京湾に導く約30kmの地下河川、「環七地下河川」という構想があるのだそうです。

その構想のうち一部を先行的に整備したものが、この地下調節池なのでした。大部分が杉並区で、中野区が少々。ただし、この位置の調節池が機能した時点で水害がほとんど減ったため、計画は一応ここでストップしているとのことでした。
環七を走っていて意識することなんてほとんどなかったけれど、通るたびに地下に感謝したくなるようなお話です。

ふだんは、地下深くに眠っている人口の空洞。ふだんは、しずかなしずかな空間。ひとびとを水害から守るために、それはある。これもまたひとつの、暗渠のすがたです。

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音無川洋酒マラソン

”春らしい記事”第二弾は、夜桜もの。音無川洋酒マラソンであります。

久しぶりなので、一応「暗渠酒マラソン」の主旨もご紹介。
埋立てられた掘割沿いを歩きながら、飲み屋を飲み歩く。遺構が少ないが飲み屋は建っている、下町系暗渠に対する新しい味わい方の提案。と、いうのがもともとでしたが、下町系から外れる場合もあります。

そして細かいルールとして、
・川沿いを逸れずに歩きながら、適当な飲み屋を何軒かはしごする。
・メイン走者は掲げた種類の酒を1杯は必ず飲むこととし、伴走者はそれに限らない。
・つまみは自由。

と決めています。「川から外れない」「飲む酒を変えない」という縛られ感がタマラナイ・・・はず(=元祖のホッピーマラソンから受け継ぐ精神)!

竜閑川焼酎マラソン、忍川ビールマラソン、浜町川日本酒マラソン。とやってきて、花見を兼ねた藍染川桜酒マラソン、のみちけを利用した谷田川のみちけマラソン、と特別枠もやりましたが、まぁ主要なお酒はもう飲んじゃった感があります。
次はワインかマッコリか・・・。
で、ある日音無川を歩いていて、「これはワインだな」と思い、しかしワイン縛りにすると制限がきついので、ウィスキーも可とし「洋酒マラソン」とした次第。桜並木もあることだし・・・。

Otonasimap

こんな感じの配布物をこしらえて(google earthさんありがとうございます)。
まあ、隅田川との合流口までなんて行けるわけないわな、三ノ輪に行けたら上出来だな、などと思いながら王子駅に集合。この日のメンバー、U氏、M氏、O氏、T氏、M氏、L氏、自分の7人。いやぁ何がすごいって、年度末の金曜日だってのに、全員19時前に王子に来れてるっていうwww

さ、行く前にいちおう音無川の説明もざっくりと。
石神井川が”王子の大堰”で水を分け、飛鳥山の麓を回って中里、田端、日暮里を通り、山谷堀から隅田川に注いだもの。付近にとっては重要な農業用水であり、大事な仕事「水番」や水争い、雨乞い等の話も残っています。下郷用水、王子川、などの別称もありますが、地元の人は「せき」や「音無川」などと呼んでいたもよう。石神井川の別称にも音無川、王子川があるので、やや混乱するけれど・・・

清流に魚の泳ぐ風景が見られたのもいつ頃までか。明治16年の日本鉄道敷設工事の際に上流が埋立られ、残る流れも昭和9~10年頃には暗渠化されたようです。

音無川、実は最初しばらくは洋酒が飲める店なんぞありません。1回目の給水地点は上中里のセブンイレブン、そこまで飲まず食わずってことで。

Otonasi1

じゃ、しゅっぱーつ!王子の大堰を幻視したつもりで、飛鳥山の麓へ。

残った2軒の飲み屋に灯りがともる、さくら新道の前を通りますよっと。お~、飛鳥山の桜まつりで、良い感じにぼんぼりがつるされてますね~。桜も咲いとる!

おっとここで早くもU氏が持参したハイボールをプシッ!イイネェ、フライングww 何本飲むつもりなんだか、既に2本目まで手に持ってます。あっ、そういえばメインランナー決めるの忘れちゃったよ・・・ま、いっか。

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線路のすぐ脇なもんで、貨物が走るたび、「おーキター!」「貨物かっけー!」気を取られっぱなしです。今宵は鉄分との戦いになりそうな・・・

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大きなカエルにも出くわし、歓喜してします。実は飛鳥山のこっち側、謎の池と排水口らしきものがあるんです。こんな位置に池をつくる意味はなさそうで、もともとあったのではないか、と睨んでいるんですが・・・

で、ここらへんで、音無川は線路を横断して東に向かいます。

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昭和22年の飛鳥山あたり(gooさんありがとうございます)。線路を横断していく音無川(たぶん)が見えます。謎の池の水も合わせていたらイイナア。

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いちど坂を上り、隠れスポットみたいな歩道橋を降りてきて、音無川の近くまで行きます。

ちょっと見にくいかもしれませんが、写真左手は低くなっていて、用水である音無川は高い方のこの道路を、踏切を渡ってすすみます。

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上中里あたりにあった謎の穴(水路跡ではとの推測)。

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何軒ものタクシー会社。
廃団地。
等々、我々の沸くポイントを経て、

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やっとこさ桜スポットにやってまいりましたヨ!

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予定通りセブンイレブンで酒とつまみを調達。・・・おっといきなり”適量のワイン”とか売ってませんよ。しようがねーや、シードルにするか。持ってきたグラスにトトト・・と注いで。おつまみは、さけるチーズのガーリック味を、ワイルドに「さかないで」食べましょうかね。

いやぁ、いきなりウィスキーのボトルをラッパ飲みしようとする人が2人いるんだけど大丈夫かいね・・・。

みなさん思い思いの飲み物を手に、 かんぱーい!

Otonasi9

ここで、7人縦並びになって飲みました。
桜のじゅうたんみたいでイイねぇ!
実はここ、両側が車両基地でしてね。鉄分濃いめのO氏がいろいろ教えてくださいました。

ちなみにこのすぐ後ろに老人ホーム(&中里貝塚の碑)があるんですが、

Otonasikaidukaima_2

(飲んでた場所が オレンジ丸のところ)(gooさんありがとうございます)

ほぼ同じ位置の昭和22年航空写真だと・・・、

Otonasikaiduka22

こんな場所だったのかー!丸い、丸いよ!

ほか、近くには引込線の踏切とか、鉄道神社とか、もと○○○マンションとか。

Isu

こんなすてきなカップルシートもありますよw 鉄分含有者のT氏が巻尺で測りだすなど・・・

あ、夜に撮った写真はボケボケのが多かったので、たまに昼撮ったやつを混ぜます;

そして誰もが”暗渠”マラソンであることを忘れ始めたころ、

Otonasi11

川跡感が非常に高い場所が出現するのであります! 
数十メートル続く、放置スペース。

このさきに、個人的に”観客席”と読んでいる場所があります。

Kankyakuseki

枕木でできた席のようなものから、貨物の線路、それから幾つかの路線を見ることができるんです。その下をこういうふうに音無川が流れています。

そこへ行って、

Otonasi12

今度はハイボールで、かんぱーい!

ちょうど貨物車が止まってました(この運転手さんは手を振っても気づいてくれませんでしたねぇ)。ここでもO氏の解説付き。どうもありがとうございます。

で、また線路密集地帯を上ったり下ったりしながら、西日暮里の駅前へと向かいます。

Elle

次の給水地点は、このオレンジ丸のところ。スペイン料理”エル・フエゴ”。水色矢印が音無川流路なので、もろ流路沿いです。
しかも、暗渠を目の前にのぞむテラス席ありー!・・・実は今回のマラソン、このエル・フエゴありきの側面がございまして・・・そもそも、最初にわたしが「あ、この席でワイン飲みたいわぁ」と思ったのが始まりだったのであります。

Otonasi13

念願のテラス席でお食事!

待望のワインでございます。いやぁ~、やっぱ赤ワインはうまいねぇ。うまいわぁ。チーズ盛り合わせのガーリック風味のチーズもおいしかったし、チキンのガーリック焼もやたらおいしいこと!

いろんなものがクルクル回る、いいお店でございました。

で、酔っ払ってきて、踏切で電車に全力で手を振ったりしてね・・・まだまだ進みますよ・・・

Shogunbasi

やっと音無川の橋が出てきました。将軍橋。でも、ここではふざけてる写真しかなかったので昼の写真・・・

日暮里、鶯谷と進みます。

Hiruotonasi

根岸からは己のテリトリー、T氏の喋りが冴えました。”みのわ”の由来とかね。ありがとうございました。

しかしこのへん、全然写真撮れてないな~。三ノ輪ラムネ跡地も暗すぎて・・・。

コンビニでもういちどハイボールと唐揚げで給水したのち、

Otonasi14

三ノ輪橋まで来ちゃいました。
将軍橋と並ぶ、数少ない音無川の遺構。なんと隅田川までもう少しのところまで来ちゃいました。よくもまあ酔っ払いながらも歩いたね!

でも・・・なんとなく夜の吉原へと足が向いていきます。
ちょろっとカフェ―建築を見たりして、そして次に選んだお店とは、

Otonasi15

ソープランド街にある、らーめんランド

なにげなくノリで入ったこの店、

Ramenland


なんと明治期の地図ではちゃんとおはぐろどぶ(青点線)の脇にありますwww

しかもここ、ちゃんとおいしかったのでした(チェーンらしいんだけども、なんか雰囲気が独特・・・)。ラーメン、地獄ラーメン、梅しそチャーハン、たらこチャーハン、ルース―丼・・・執拗に写真を撮ってみましたが、ビジュアル的にはコレかな。

Otonasi16

エビチャーハン。エビの数おかしいwwそしてウマいww

そんなこんなで夜も更け、終電も去っていったのでありました・・・。

音無川洋酒マラソン、おはぐろどぶにてゴォール! おつかれさまでありんした。ランナーのみなさん、ご参加ありがとうございましたー。

                        ***

実はわたくし、もうひとつの藍染川の記事を書いたあたりから、荒川区にハマり始めていました。しかし、かの藍染川はやや特殊なので別として、荒川区内の水路はそのほとんどがこの音無川の分流のようなのです。
つまり、荒川区の母といえる、ほんとは偉大な音無川。酔っぱらって歩いちゃって、スミマセン!
そんなこんなで、荒川区の続編もいずれ書いていきたいですが、もっと煮詰めないと書けなさそうなので、しばらく先になりそうです・・・。

・・・暗渠酒マラソン。ランナーの方が「そんなマラソンなど無い」みたいに言われてしまうことがあるそうですが、このようにちゃんと実在いたします。次はマッコリか、初心にかえってホッピーか・・・

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マセ口川ピクニック

肌寒かったり、雨ふりだったり。そんな日が続きますが、春らしい記事をふたつ、書こうと思います。ひとつめは、暗渠と開渠のピクニックのおはなし。

行先は、調布にあるマセ口(ませぐち)川。
これが正式名ですが、最初に「ませろ」と読んでしまったため、またそのほうが呼びやすいため、わたしは普段は「ませろがわ」と呼んでいます。だから現地でも声に出して「ませろがわ」、と連呼するわけですが、それが聞こえてしまった地元の方がもどかしく思っているかどうかは、知りません。

以前、秋にマセ口川の水源を見に来たことがありました(ゲゲゲの湧水前編)。また別件で調布を歩いていたときにマセ口川の脇をたまたま通り、「春にピクニックに来たらよさそう!」と、思っていたのでした。

そして、待ちに待った春がやってきました。

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マセ口川の水源は、都立農業高校神代農場の敷地内。普段は入ることができません。
その、水源のある谷戸はかつてまるまる池で、池の谷とも呼ばれていました。いまでも湧水が豊富で、おそろしく澄んだ水を使い、ワサビ、ニジマス、ヤマメなどが育てられています。

ここは農場のすぐ下流側で、ここなら普段から一般人が出入りできます。

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農場内を流れる澄んだ水を思い出しながら、フェンスに近づいていくと・・・なんと、湧水がはみ出ているではありませんか。

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きれい・・・。

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そしてはみ出ていた湧水は、農場の田んぼを通ってくる流れとここで合わさり、一度地下の管渠におとされ、地面の下にくぐるようです。

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でも、その落とされたすぐ先にも浅い凹みがあって、あちこちからじゅくじゅく、じゅくじゅくと水が湧いていました。

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みごとな湿地。自然のままの姿です。
ここも”神代農場南側斜面”という、調布の湧水点のひとつとして挙げられています。

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この、はみ出し湧水と、じゅくじゅく湿地がいっぺんに見られる場所に、自分たちだけが立っている。すてきなお庭に居るような・・・。まだ朝でしたが、あまりの気持ちの昂りに、おもわず、乾杯。(まだ咲いていませんでしたが、ここには桜の木まであるのです!)

この場所、豊水期に行かれたえいはちさんが記事にしていますが、やはり春とは水の量が違いますね(しかし暗渠写真の撮り方がものすごく被っていて、おもしろかったです)。

Masero8

じゅくじゅく湿地のおわりには、橋のようなものがありました。
橋?の先で中央自動車道をくぐり、

Masero9

出たところにまた、橋のようなものがありました。

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その先は野草園です。
野草もすごいけど、ホタルもすごい。らしい。

Masero11

野草園の池の中には孵りたてのおたまじゃくしがわんさか。
ホタルもすごいけど、アマガエルもすごい。っぽい。もう少し先の季節にも、来たいなあ・・・

で、ここで、野草園を流れる水路の、はじまりの場所(一応谷頭ぽい)から勢いよく水が出ているのを見、「あの水は、出すぎだよね・・・きっと湧水じゃないよね」みたいなことを思わずぼそりと言ったら、背後にいらした野草園の方が、敷地の外に湧水があると教えてくださいました。

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その湧水はこんな感じで、高速道路の脇からひっそりと流れ出ていました。まあまあの水量。

Masero13

もうひとつ、付近に”深大寺自然広場カタクリ群生地下”という湧水点があるらしいのですが・・・それは地面から滲出してまた浸透するものらしいんですが・・・どうやら現在枯れている模様。辛うじて、高速の下に一部じゅくじゅくしているところがありました。

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池の谷の湧水、野草園のポンプアップらしき水、それからじわ~っと湧いている周辺の水を集めたマセ口川は、野草園の端っこでふたたび地下へもぐります。

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暗渠になって、

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田畑の横を通っています。
分水口があって、 農業用水として活躍していることがわかります。付近では、以前はこのように湧水が田んぼを潤す風景が多々あったそうですが、現在はこのマセ口川だけが、水田に利用される湧水の川です。

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立派な橋で道路を渡ります。

去年、モヤさま調布の回のとき、ちょうどこの場所を3人が歩いていて、「マセロ川!!」とTVに向かって叫んだのでした。

Masero19

マセ口川の暗渠はけっこう眉目秀麗。
幅広の蓋でゆっくりと曲ります。

突然ですが、ここで支流に話を振ります。

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かに山。
かに山は、マセ口川のすぐ横にある山です。野草園付近のマセ口川に、サワガニがたくさんいたことが、名前の由来らしく。
このかに山、マセ口川のある谷から見ると山っぽいんですが、反対側から見ると平らな窪地で、地元の人は”テエラッコミ”と呼ぶこともあるそうです。そして、ここを深大寺用水の分流が下ってくるそうなのです。

深大寺用水がマセ口川へ分流する区間を書いたHONDAさんの記事、
かに山からマセ口川合流点まで追ったimakenpressさんの記事、
いずれも秀逸なので併せてご覧ください。

このへん、複数分流があるといわれますが、わたしはかに山以降を追ってみます。上の写真は、深大寺用水分流とかに山での湧水(”カニ山キャンプ場南側崖線”湧水点)が合わさるところだとimakenさんが推測していた場所、であるとわたしが推測した場所ですw
この場所ではH16年時点では豊富に湧水がみられたそうですが、H19年では枯れており、いまもこんな感じです。

かつては水がグイグイ流れていたであろう場所、から、

Masero21

マセ口川のつくった谷の低地へとすすみ、ここから、

Masero22

家々の間を縫って、

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暗渠となったり開渠となったりしながら、ここにて合流。マセ口川かに山支流(仮)、とでも呼びましょうか。

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本流に戻ります。
ここは、マセロ川のもっともイケメン部分。

Masero25

おみごとなカーブ!

入る先は、柏野小学校のグラウンド。
この小学校、東はこのマセ口川のカーブ暗渠が入ってくるし、西隣は逆川(深大寺で湧いた水が流れてくるもの。北の川、とも)のコンクリ蓋暗渠がめっちゃ走ってるし、すごいんです。

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マセ口川は小学校の南で道路を渡り、すぐに暗い地下から出てきます。

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以前きたときには、ここで大人も子どももごった返し、ザリガニ釣りに興じていたのでした。
夏~秋あたりだったからか、水草が青々としていてきれいで、見惚れたものです。

このときは冬をやっと過ぎたあたりなので、残念ながら水草はくすみ、生物の気配はありませんでした。

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こういう小さな橋で、数か月後には子どもがつり糸を垂らしてキャッキャするのでしょう。

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それにしても、すぐそこで湧いた水はすばらしい。きらきらと美しい。

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おおっ!

以前lotus62さんが暗渠の何に萌えるか、というのを飲み会で聞きまわっていたことがあるのですが、そのとき「カーブ」も挙がっていたと思います
暗渠であれ開渠であれ、辿っていてカーブがあると「おおっ!」と声を上げる確率、高くないでしょうか?

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さんぽ中の犬が川に入り、じゃぶじゃぶ遊んでいたり。

と、のどかな景色続きだったのに、いきなりちょっと都会に出てきました。

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ここらへんは、都会の残念区間。ゴミが多く水も濁っていました。

いまはこんなですが、かつてはここらへんも水田があり、マセ口川に沿う細い田んぼ→「細田」という字になったといいます。

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マセ口川の最後の橋は、へっひり橋、といいます。
かつては土橋であり、”いちばん尻の橋”だから、だそう・・・

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最後、湧水たちは穴に吸い込まれて、

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じゃー!!

っと、野川に注ぎます。

つまり、この場所が今回のゴール地点。

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ふーい、この場所も最高!
水が見える位置での乾杯、その2。こんどはロゼのスパークリングです。

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そのまま川べりに陣取って、ランチといたしました。

生ハムとクレソンのバケットサンド、ガーリックチキンとアスパラのバケットサンド。
ミモレットとカマンベール。

合流口をながめたり、水を触ったり、野川や鳥を見たりしながら、ゆっくりと飲みました。橋を渡る老夫婦から、「あらぁ、良いことしてるわねぇ~」って声をかけてもらったり。・・・少し、眠くなったり。

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ずっと、マセ口川の音を聞きながら・・・

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今回の行程です。開渠は青点線、暗渠は水色点線にしています。現在も生きている湧水点は青丸、枯れた湧水点は水色丸。
マセ口川。別名は佐須用水、池の谷用水、など。小字に”マセ口”というものもあったそうですが、その由来は不明とされます。
謎に満ちた名前の、全長1.2kmのきれいな開渠に暗渠。残念ながら次第に水量が減少してきている、とはいいますが、流末の轟きはまだまだ心強いです。

きっともうすぐ、あたたかな日々。いちど、こんなピクニックでも、どうですか?

<参考文献>
調布市環境部環境政策課「調布市湧水調査 調査報告書H20年版」
調布市教育委員会「調布の古道・坂道・水路・橋」
NPO法人多摩川センター「市民がしらべた!歩いて触れて再発見!調布の自然」

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