ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 船橋駅前編
先日、1回ぶんだけチラ見せしたバーチー編。千葉暗渠のあまりの濃さを、わたしのアタマが収納しきれなくなってきたので、第2弾として何回ぶんかを放出したいと思います。
その1つめの舞台は、船橋中心部。IKEAで朝ワインを呑み、船橋オートレース場で1パイやって、ほろ酔い気分で船橋港までやってきました。
・・・船橋に漁港があるだなんて。知らなかった。
沿岸のアサリ漁らしいです。アサリ用のカゴがいくつか干してありました。
トタンの作業小屋がならびます。・・・壁の素材が斬新ですね。
あっ、暗渠のコンクリ蓋と同じ素材が使われている!
・・・のどかなのどかな、漁村的風景に既に満ち足りた気分になりつつありますが、目的地はもう少し別なところ。
山谷水門。
ココから始まる、ワンダーな空間です。
水門の北東方向はハシゴ式開渠になっていて、意外にもきれいな水が流れていました。
後日追記:この水の質、そして量は時間帯あるいは日によって異なるようです。再訪時は・・・
こうでした。うーむ。
しかしやがて蓋がされます。
ちょっともったいぶりましたが、来たかったのは反対側、水門の西側です。
以前、結構人さんの本を見ていて、釘付けになった箇所がありました。
それは2009年に出されたもので、結構人さんも更にその10年前に見た風景を忘れられず、ふたたび来られていたのでした。
その風景とは、この運河のほとりに広がっていたものです。
運河、という表現をしましたが、それはもはや運河ではない。
廃運河と、トタンのバラック群。
嗚呼今でも、同じ風景が残っていました。
・・・1999年頃には、もっと人の気配があったようです。対面には”昭和のマーケット型のスーパー”も、あったそうで(東京DEEP案内にはギリギリ載ってますね)。今は廃屋多めですが、現役のお宅もあります。そういった家は避けて、以下に雰囲気を伝えます・・・
家々は既に疎らであり、かつては家があったであろう空き地がぽこぽこと広がります。しかし、河川用地につき、入れません。
廃屋のつくりを見ていると、運河の方向にベランダがあるものが多くて、さながら川床。
川とともにある暮らしが、かつてここにはあったのでしょう。
崩れ落ちているものもあります。
後日追記:もう少し写真を足しておきます。
廃屋になってしまった家と、
運河向こうからの風景。植物だけは育っていました。
川べり、トタンで作られた家々・・・和泉川の某所を連想します。似たような流れでひとびとが住んだのでしょうか。
もっとも上流側には居酒屋っぽいものがありました。
開いていなかった、という理由で入りませんでしたが、これはハードルが高い。いったいどんな店なのか、全然わからない・・・!と、怯えつつ通過。
しかし、後でぐぐってみると、なんとこのお店はオープンして間もないイタリアンであり、イタリアで修業した店主の料理が食べられる(AKBのポスターも貼ってある)ということでした。船橋新聞、とても良い記事です。これは絶対に行きたい!
そしてその記事で知りましたが、いま歩いてきたエリアは立ち退きを待つ、再開発地域なのだそうです。緩やかに、しかし確実に、時は進んでいるようです。
・・・実はいま来た廃運河はかつての「山谷澪」であり、いつの時期までかはまるまる港のようになっていて、
上部はこのような船溜まりでした(yahooさんありがとうございます)。
さてこの山谷澪には、水色点線部のような続きがあります。その流れは現在総暗渠ですが、「本海川」という名を持っています(船橋市の河川の頁は、暗渠の本名も載っていて、とても充実!船橋市GJ!)。
ではこの全長1409m、本海川さんを遡ってゆくとしましょう。
千葉街道を渡ると、海神遊郭跡があります。
時を遡ること江戸時代。船橋宿のうち、このあたりだけが旅籠の営業を許されていたといいます。幕末には30ちかくの旅籠があったそう。そしてその多くが、飯盛女(”留女”と称して宿泊人にはべらせた、べいべい言葉を8百回も言うから俗に”八兵衛”と呼ばれた、などとも)を置く半遊女屋。やがて県から「遊女屋は表通りから移るように」というお達しがあり、昭和3年(大正15年説もあり)、「海神新地」に遊郭が誕生しました(但し、旧地からの移転ではなく他地区からの移入ばかりであったといいます)。
習志野に置かれた軍隊の増強に伴い勢いのついた海神は、終戦前で23軒、戦後赤線地帯となり、昭和32年で72軒あったとされます。習志野学校のあった大久保近辺にもカフェーはありましたが(後日詳述)、そちらに行っていた兵よりも、位の高い人が海神に来ていたようです(半分推測)。
数年前まで、木造の大店が1軒だけ残っていたそうですが、今はなし。
しかし、遊郭の残り香はまだ少しあります。何軒かの飲み屋さんに旅館。
ストリップ劇場もあります。
通ったのは午前中でしたが、10時台からもりもり営業してました。
<後日追記>
ストリップ劇場、若松劇場は2013年9月には解体され、現在はもう在りません。
2013年9月22日に撮影した写真。
入口。ここからだとまだわかりませんが、
中はもう工事が進んでいました。
皮肉にも、あのとき、どういう様子だろうと想像した店内は、廃業後に見る(とも言えないけど)ことができた・・・
ソープランドもあります。
向こうに見える中華屋さんがとても好みですが、常連さんが盛り上がっていたので入れませんでした。
赤線時代の建物分布図と比べましたが、同じ名の店は見つけられませんでした・・・。赤線時代につくられたレポートを見ると、昭和18年と昭和32年を比較すると、客層は30~40歳→20~52歳と若くなっていて、遊ぶ時間帯が遅くなり、泊りがけから泊まらず目的のみへと、来るタイミングは土日から給料日前後等へと、利用状況に変化が見られたそうです。・・・いったい、今はどのような利用のされ方になっているのでしょうか。想像することは難しいです。
後日追記:再訪したら、遊郭跡近くに、なんと馬が居ました。目を丸くして立っていると、向こうから近寄ってきて見つめ合う感じに・・・。遊郭跡近くに「馬肉料理店」があることはありますが、このお馬さんはいったい何のためにここに?謎です。
さ、川に戻りましょうか。右手が海神遊郭跡地の区画。
本海川はこのように流れていきます。
遊廓のブロックを過ぎた途端、本海川は突然暗渠らしさを爆発させます。
くねり、
まがり、
ストライプ蓋で船橋駅に迫ってゆきます。
西向地蔵(海神と本町の境に位置し、かつて刑場であったという話もあるそう)の脇を掠め、
道路を渡っても、
暗渠らしさは維持されますが、ここで一度消えます。
このどこかを通って、船橋駅を越えるもようです。
駅を越えて1ブロックほどいくと、こんどは違ったテイストの蓋が出現しました。偽レンガ蓋、とでもいいましょうか。ゴージャスです。
あ、ちなみに流路上と思しき所に、八街ピーナツというお店があります。
純ピーナツペーストや、落花生最中、落花生汁粉などを買いました。落花生とお茶で、ひとやすみ。
で、本海川は偽レンガ蓋のまま直進し、公園の脇に出ます。天沼弁天池公園。噴水や、球戯場がひろがります。
のっぺり平らな地形なのでわかりづらいですが、どうやらここが水源のようです。
弁天様もいます。
・・・天沼弁天池!?
我が愛する桃園川と、姉妹暗渠じゃありませんか。
しかし天沼弁天池のすぐ北にも、このようにコンクリ蓋暗渠が連なっています。これは、この弁天池が何者であるかをさぐる、手がかりのひとつ。
こちらの天沼弁天池は、杉並の湧水池であるそれとは成り立ちが異なります。
この池は、九日市の池、乳沼など、いくつかの名を持つようです。少し前までは公園全体を覆うほどの大きさであり、更に以前はJR船橋駅も飲み込む、その10倍以上もある大池だったといいます。
もっと遡ると、天沼弁天池公園~船橋駅前を中心とするエリアは、室町時代あたりまではまるまる入り江(夏見入江)であったと考えられています。やがて砂州ができ、入江は潟(夏見潟)となります。そして比較的土砂の堆積量の少ないこのあたりが取り残され、池となりました。
なんとなくの関係図を載せておきます(googleさんありがとうございます)。
本海川さん、くびれ(凹凸)の無い体型は桃園ちゃん以上ですね。
なるほど明治13年の地図には、今よりもずっと大きな「九日市の池」が描かれています。そしてその大きな池は、北を流れる長津川(現在も開渠)から水を取り込み、東側のエリアに配水するという役割を負っていた時代もありました。内水面漁業も行っていたといいます。
その後、昭和5年の耕地整理により、現在の公園の大きさにまで縮小。
戦後は釣り堀にもなっていたものの、昭和41年、更に埋め立てられ、今の大きさになったといいます。
前掲の船橋市のwebでは、本海川は海に直接注ぎ込む独立系として扱われていますが、長津川から水をいただいていた溜池が水源ということができ、その成り立ちといい、藍染川~不忍池~忍川によく似ています。
さて、ゴハン。
海神遊郭跡まで戻りましょう。
遊郭跡のとなりのブロックにあった喫茶店、モナリザ。
い~い予感がしたのですよ。
ミックスサンドとビール。
やはりモナリザは、とても良かったです。
からしマヨネーズで丁寧に作ってあり、具もすべておいしい。なにより、上に鎮座ましますチップスター!(載せてあるだけなわけですが、なにこれこんなの初めて見た!と興奮しながら食べました。)
当然ナポリタンも食べます。ナポリタン的にたいへん良いナポリタンでした。
船橋の市街地を歩いていると、昭和っぽい喫茶店にいくつも遭遇します。・・・なんだか錦糸町に似ている。競馬をする人の多い街だからなのでしょうか?謎です。
今回の行程。
・・・実はこの本海川、”いま”も非常に独特な存在でした。現代も船橋市において、とても大切な機能を持っています。
市街地で火事が起きた場合、山谷水門の下流から海水をポンプで汲み上げ、この本海川に敷設された圧送管を通して天沼弁天池公園までを圧送し、消火活動に使うというのです(これは蓋散歩びとさんから、別な場所のマンホールの用途について教えて頂いた際に得た情報でした。蓋散歩びとさん、教えてくださりありがとうございました)。このルートはまさに、今回辿った暗渠みち・・・!!
今回の道、とてもはっきりとした暗渠の姿をしていたのに、その下に下水道”本海幹線”が存在していないことに、少し違和感がありました(船橋でも、他の暗渠には概ね河川名が冠された幹線が通っているのです)。それは、いざというときに船橋の街を守るための、またひとつの新しいタイプの暗渠であるから。なのですね、たぶん。
本海川上流端からさらに西へ延びていく、偽レンガ蓋暗渠もありました。こんなふうに、かつて漁業に農業に、とても役に立っていた水とその通り道は、いままた手直しされて、ひそかに役に立っている、というわけです。
船橋で偶然に出遭った桃園川の姉妹暗渠は、姉妹とはいいながらも全然違った人生を送っていたのでした。
・・・実は軍事モノの内容が極薄な今回(シリーズ2回目にしてタイトルを無視するという緩さでスイマセン)。次回、次々回はたっぷり軍モノもお届けしたいと思います。
<参考文献>
「海神のなぞ」
刈部山本「デウスエクスマキな食堂 09夏号」
熊倉安雄「船橋遊廓調査レポートー追いつめられた性の歴史ー」
船橋市「船橋のあゆみ」
船橋市下水道部「ふなばしの下水道概要」
綿貫啓一「郷土史の風景」
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コメント
nama様、
千葉の暗渠紹介、楽しく見させて頂いてます。
この運河みたいなものがあるのは知っていましたが、これが川(本海川)だったとは知りませんでした。ましてや国道14号を横切っていたなんて。14号線のあの場所は何度も通ってますが、14号線には川の痕跡なんて皆無ですからね。いや~一つ勉強になりました。ありがとうございます。
それから以前から気になっていた暗渠があるのですが、それがもしかしたら今回の本海川の源流かもしれません。いままで私は長津川の支流の1本と思っていたのですが今回のnama様のレポにより本海川の源流と確信しました。(間違っていたらゴメンナサイ。)
後程、メールにて地図を送りますので、ぜひご覧になってください。
投稿: 谷戸っ子 | 2013年3月20日 (水) 02時08分
>谷戸っ子さん
おはようございます。そうですよね、14号線のところでは川らしさは引っ込んでしまうと思います。でも、国道沿いにあるレトロなガソリンスタンドからじっくり南を眺めると、「あれれれれ」ってなるかと思いますwこの本海川、成り立ちもいまの機能も本当に独特で、歩いていても調べていてもおもしろかったですー。
メールおよび地図も、ありがとうございました。拝見し、お返事をしました。その暗渠については、後日また記事を書くことになるんじゃないかなあと思っています~。
投稿: nama | 2013年3月20日 (水) 07時59分