蒟蒻島で蒟蒻を食べる
タイトルが蒟蒻畑みたいな雰囲気を醸しているかもしれませんが、今回の舞台は、カタい感じのオフィスビルと高層マンションの並ぶまちです。
新川、という地名で思い浮かぶのは、そういえば友人が転居したとこだ、というくらい。
ほんとうにそのくらいでした。
新川といえば酒問屋のまち。と、思い浮かぶ方も多いのかもしれませんが、ぜんぜん知りませんでした(お酒好きなくせにね)。
そして、新川1-1~1-2あたりは、かつて蒟蒻島とも呼ばれていたのだそうです。これも、知りませんでした。それを知り、例によってわたしはこう思うんです・・・「じゃあ今度は、蒟蒻島で蒟蒻を食べたい」。
***
それでは蒟蒻を食べるため、蒟蒻島に向かいましょう。お仕事帰りの、夜さんぽです。
高橋(たかばし)を渡ります。
夜の亀島川に、釣りをしている人がいました。魚なんているのだろうかと水面を見つめたら、灯に照らされてボォッと魚が泳いでいるのが見えました。
新川、というのは現在の地名でもありますが、そのむかし、この地にあった川のことを新川といいます。蒟蒻を食べる前に、新川跡を歩いてみます。
まずは霊岸橋まで・・・。分流地点から歩くためです。新川とは人工の掘割で、亀島川から取水し、隅田川に注ぐものでした。
そしてこの橋名は、いまから向かう新川地区を江戸期に霊岸島(または霊巌島)、と呼んでいたことからきています。霊岸島のかたちと、現役時代の新川をお目にかけましょう。
昭和22年の航空写真です(gooさんありがとうございます)。今もよく見れば、島のようなその風体。
新川のみならず、霊岸島も実は人工物なのでした。
もともとこの場所は、隅田川の河口の砂州であった、といいます。江戸期(家光の時代)に、霊巌上人がその砂州を埋め立て、霊巌寺を創建。「江戸の中島」と呼ばれたその島は、流路変更をされた日本橋川(新堀川)の通り道のために二分され、箱崎と霊岸島となったのだそうです。
現役の砂州(南白亀川の河口)は、こんな感じ。隅田川ですからもっともっとスケールが大きいでしょうけど。・・・これはたしかに何か建てたくなるかもしれません。
埋立当時、まだ新川はありません。霊巌寺には多くの人が訪れ、たいそう賑わっていたといいます。
しかし明暦の振袖火事はこの島をも襲い、霊巌寺は焼失、深川に移転していきました。焼け跡には運河が開削されました。それが新川です。だいたい1660年あたり、河村瑞賢が行ったとされますが、どうもはっきりと記されたものが無いらしく、多くの文献が自信なさげにこのことを書いています。
新川は、長さ約590m、幅11~16m、深さ45~90㎝の掘割であったそうです。
さて今、霊岸橋に立ってふと東に目をやると、
日本橋水門があります。亀島川の付け根。
で、でかい。とくに夜の輝きがすごい。圧倒される・・・。
ちなみに、日本橋水門を反対側(かつ日本橋川の水上からクルーズ中に・・・)から見たことがあります。丸で囲っているのがちらりと見えた霊岸橋です。
左側の敷地が霊岸島。そして前述の「蒟蒻島」とは、霊岸島のなかでもちょうど写真の部分付近なのでした。亀島川の一部を埋め立てたものの、なかなか土地が固まらず、歩くと揺れるためにそう呼ばれたそうです。
蒟蒻は島で豆腐は屋敷なり
なんていう川柳もあったほど。きっと江戸期は余程ゆるふわな土地だったのでしょう。・・・いまはこんなに頑強そうだけど。
そして西側を見れば、亀島川の下流と新川分流地点です。
丸のあたりが分流地点のはず。よく見ればここの石垣の一部の色が、他と異なるらしいのですが・・・夜にきちゃったのでわかりません・・・。
そしてちょうどお向かいにはグレート大衆酒場、ニューカヤバに灯が・・・い、行きたい。でもまだ今日はこれからが長いんだ。がまんがまん。
さて、いよいよ新川跡へ向かいます。
川跡の一部=ただの道を歩き始めると、すぐに太めの道路と交わります。
ここは一ノ橋跡。川幅は上述のように11~16mなので、道も建物も川跡に含まれるはず。そして橋もそのくらいの長さだと思われます。江戸名所図会には、石積み護岸の新川、たくさんの荷を載せた船とともに、一ノ橋がちょこっとだけ描かれています。
新川には、一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋という3つの橋が架けられていました。ここ一ノ橋の北詰に、河村瑞賢の屋敷があったとされます。
まもなく新川大神宮の横を通り過ぎます。 売る前の新酒がお供えされた神社です。
江戸時代以降、この新川の両側には酒問屋が多く並んでいました。灘をはじめとする関西の「下り酒」を扱うものです。
下り酒は、秋~冬がもっとも盛ん。10月になると、関西の酒問屋では飾り立てた船に新酒を詰め込み、特定の日の同じ時刻に出帆。早飛脚により出帆の知らせを受けた江戸の酒問屋は、首を長~くして待つ。今か今かと、沖を見つめながら待つ者さえあったといいます。隅田川の河口からは小舟(はしけ)に積み替え、船頭さんは頭に鉢巻をしめ、太鼓を打ち鳴らしながら入港。酒船レースのようなもので、一番乗りで到着した船=一番船は、さまざまな特権が与えられたそうです。
新酒が入荷すると、酒問屋ではすぐに青い旗を立て、市内の酒店に分配(=配り酒)、酒店では屋敷や町家に配り歩いたとのことです(文化5年まではそういう習わし)。
・・・まさに一大イベント。新酒をいかに皆が楽しみにしていたかが、よく伝わってきます。
それからすぐに現れるここ。今やただのビルですが、かつて見番があったとされる位置・・・そう、霊岸島には花街があったのです。
江戸期には、私娼が集まってきてここに岡場所ができました。深川同様、水上交通の便が良かったためでしょう。いくつかの遊里本に岡場所「蒟蒻島」として載っており、それなりの存在感を示していたようです。
天保の改革により取り締まられて私娼窟としての蒟蒻島は寂れたものの、その後「蒟蒻芸者」という町芸者があらわれたそうです。記録を見ると、おもに新川の左岸側に芸者町がひろがっていました(蒟蒻島は前述のように霊岸島の一部を指す言葉ですが、この蒟蒻芸者町はもっと広いエリアを指します)。この時代は遊里的な雰囲気というよりは、酒問屋などが、「昼間に地方のお客さんなどを接待する」という使われ方であったそうです。
待合や芸妓屋が、酒問屋や倉庫の間にあるような風景。昭和10年前後がピークだったようです。昭和33年には芸妓連絡所がなくなり、残った料亭も姿を消してゆき、大きなビルなどに姿を変えてしまっていまは名残が無いといわれます。
たしかに、だいぶウロウロしましたがなにもない・・・が、なんだかこの黒い塀の建物は気になりました。
唐突ですが、国鉄総裁下山定則氏は、生まれが新川なのだそうです。そして、蒟蒻芸者町時代にあった、待合「成田屋」の経営者は下山氏の幼馴染であり、なんと下山事件前日、下山氏は成田屋に泊まっていたと言われます。まさか最後の晩餐がこの地であったとは・・・。
少し下れば、二の橋。
三原橋みたい、と思いながら通り過ぎます。橋の両側に不自然に在る建物(食べものやさんがあったので、いつか来たいな)。
新川の跡を歩いていると、酒屋系の看板が確かに多いです。加島屋、日本盛、日本酒類販売、金盃・・・。
新川が開削されたことが、この地に酒問屋を集めたことは確かです。しかし、すぐに酒問屋が集中したわけではありません。その利便性ゆえ、米、醤油・・・さまざまな問屋がこの地に引き寄せられました。なかでも当初は材木問屋が多かったようです(後に木場へ移転)。1702年時点では、江戸にある下り酒問屋数の17%しか無く、それから1800年あたりまでに、ほどんどの酒問屋が新川近辺に移住したということです。
大正期、新川の運命はまた大きく変わります。もともと、霊岸島は河口にあるため水深が浅くなりやすく、港としての限界があったといいます。加えて、第一次世界大戦時に船が不足し運賃が高騰していたところに、関東大震災が起きました。物流の主役は、船から鉄道やトラックに変わってゆきました。
さらに、第二次世界大戦で中央区は壊滅的な被害を受けます。新川も廃墟と化しますが、むしろ占領軍により接収されることで港湾運送系が再び活気づいたといいます。しかし、この戦争からの復興のために、新川は姿を消すこととなるのです。水が綺麗で、人が泳いでいたのも関東大震災前までらしいので、この頃の新川は最早必要とはされなかったということか・・・1948~1949年、遂に埋め立てられます。
新川がなくなると、いよいよ酒問屋街としては終焉を迎えることとなります。いま、純粋「下り酒問屋」の流れを汲む酒問屋は、加島屋だけであるといいます。
しかし、酒問屋の気配は今だ残っていて、
倉庫の跡らしき駐車場や、
クレーンまで残っています。
川跡の道は狭めですが、まっすぐ伸びています。てくてく。そういえば酒問屋の名残だけで、運河っぽさはあんまりわからなかったな。
ところが最後の方に来て、やっと暗渠らしくなってきました。
川の幅に沿って、盛り上がった児童公園が出現します。これを見るとわたしも俄然盛り上がります。
それに、この公園に新川の碑があるといわれているのです。
お、ちょうど下水道工事なんてやってて、いかにもこの下に下水幹線があるって感じですね。
と思っていたら、この工事のために碑は撤去中なんだそうで・・・。代わりに石碑の写真がありましたw
なんという間の悪さww
公園のなか。
防災倉庫、公衆トイレが縦に並んでいて、ダブル暗渠サインです。
隅田川がすぐそこです。
取水口の名残がわからなかったので、合流口もとくに無かろう。と思ったけれど、一応確認しにいきましょう。
季節は夏の終わりかけ、屋形船が何艘も走っていました。なんだか、怒った王蟲みたいだな・・・なんて思いながら、階段を下りていきます。
すると、あったよあった!水門が!
水門の前に植栽があって近づけません。が、水門の手前にあるのはガードレールのようなもの(珍しい)!
合流口だってありました。
ポカンと口をあけています。いや、大雨時以外は開かない口だとは思いますが。
戻ってよく見たら、公園側からも水門は確認できました。
新川の名残、ここにあり。
さて、ひとまずゴハン。
蒟蒻を食べねばならないので、新川を下りながら(狭義の蒟蒻島と限定すると大変なので、新川地区でということにしました)、和食屋さんを探していました。ところが・・・食べ物屋さんは数軒あれど、和食屋さんが無い(あっても開いてない/蒟蒻が無さそう)。
いろいろ迷って、分流地点にあった串八珍に行くことにしました(普段はこういうとき、チェーンはなんとなく避けるんですが)。
串八珍は分流地点のまさに上。実はすごい位置にあります。
亀島川が見える席に座りたかったですが、とても混んでいて、座れませんでした。
まずは蒟蒻が入っている確率の高い、煮込みをたのみました。登場した煮込みは予想を超えていて、白っぽいモツの上にニラとバターが乗っかっていました。しかしどんなに探しても、蒟蒻が入っていない!今日はそんなオリジナリティいらないから、蒟蒻をくれよ・・・必死にメニューを見てもほかに蒟蒻が関与していそうな品は一切なく、
春雨だったら、蒟蒻と近いんじゃないか(何かが)。と、妥協することにしました。とりあえずすぐに店を出、帰り道でまた蒟蒻を食べることにしました。
急ぐのには訳があります。霊岸島には、もうひとつの水路があるのです。
それは、越前堀といいます。この何気ない道は、その跡です。
1634年、霊巌寺の南に越前福井の藩主である松平氏が屋敷を拝領しました。霊岸島の4分の1ほどを占める大きな屋敷でした。そのお屋敷の周囲にぐるりと船入堀が掘られ、それを俗に越前堀と呼んだといいます。
開渠の越前堀の記憶のある人がいうには、モクゾウガニやベンケイガニなどがいっぱいいたとか、小さなはしけ船が多く、その中に住む水上生活者もずいぶん居たとか。
名前が堂々と残っています。
この公園名もすてきですが、この公園の脇にあるお店で度肝を抜かれることになります。
その店は無人の自販機コーナーで、もと酒屋さんの店舗だったのではないかと想像されます。つまり、酒ばっかり売ってました。
まずこの古ぼけた白鹿の自販機。「常温です」ってさりげなく手書きしてあるのがイイネ。
白鹿の支社も、新川にあったから・・・まさにこれ地産地消w
そして酒の自販機群の向かいにあるこのツマミ自販機。
なにこの渋すぎるラインナップ・・・柿ピーとかチータラじゃない、見たことない商品ばかりです。
とくに、この「さくら肉スライスしっとりタイプ」がすごい。ノザキってコンビーフ缶以外見たことあります??しかもこれ、美味いの!思わず2個買い。
これはこの公園で宴会せざるを得ませんね。
このときは夏か秋でしたが、桜がいっぱい植わっていてお花見に良さそうでした。
公園内には、発掘された越前堀の護岸用石垣も展示されていました。
江戸城外濠の石垣に匹敵する大きさだといいます。霊岸島の碑なんかもあって、盛りだくさんの公園です。
水路はこの越前堀公園の横を通り(この写真の手前の位置に「どんどん橋」が架かっていたので、落差があったのでしょうか)、
明正小学校の敷地に入っていきます。
敷地途中で直角に折れ、あとは折れ曲りながらも道なりに水路は進みます。
明正小学校はアーチのうつくしい、堂々と建つ復興小学校。窓に貼られた「ありがとう」が示すように、もうすぐ校舎が解体されるようでした。
近くに「馬事畜産会館」がありました。付近には日露戦争までは牧場もあった、といいます。何か関係があるのでしょうか。
その後は越前堀は大味に、大通りの脇を通って隅田川に注ぐのみ。その一部のほとりを、吉良氏を討った後の赤穂浪士が歩いた(新川の一ノ橋も渡ったとされます)という話もあります。しかし小奇麗な道と化していて、越前堀と名のつくお店があるくらいで、とくに形跡はありません。
越前堀は新川よりも早く、明治期の市区改正事業と関東大震災などで埋められています。河口近くだけが残っていましたが(前掲の昭和22年の写真でも確認できます)、それも1964年に埋め立てられ越前堀アパートとなりました。河口部分は長らく倉庫地帯でしたが、現在は高層ビルです。
ここまでの行程です(yahooさんありがとうございます)。
そんなに大きくはない人工島に2つも人工水路があり、それらに隔てられ町はずいぶん細分化していました。そしてそれぞれに、雰囲気が違っていたといわれます。
新川は前述のように酒問屋が主体。いっぽうで越前堀には船具屋や倉庫が多く、また秀和マンションのあたりには東京湾汽船があって、往来がすごかったそうです。汽船の客のための旅館も周辺にあり、発着所が火事のため竹芝に移った後も、旅館だけはこちらに、というお客さんが居たそうです。
***
あとは、気ままに通りたいまちをふらふらして帰ります。
南高橋と星。
ここを通って湊へ抜けます。
湊にて、遺された建物と石川島の対比を味わい、
築地まで歩いて寿司を食べることにしました。
あまり店舗の開いている時間ではなかったので、24時間営業のすしざんまいへ。穴子おいしかった!
最終的には銀座まで歩きました。
ここも、もうすぐなくなっちゃうのだよな・・・。
***
少し前に、霊岸島にあるキリン本社の移転のニュースがあったので、このさんぽのことを思い出していました。
新川の、とっくに失われてしまった運河と酒問屋の風景。
でも、酒問屋街時代の「気配」は、よく見れば今なお少しずつ生きていました。
失われたもの、これから失われるもの、失われていないもの。
日本橋や銀座に挟まれた異空間は、十分に味わい甲斐のあるものでした。
なお、今回紹介した水路の現役時代(埋立中も含む)の写真を、中央区図書館の地域資料で見ることができます(さすがですね。郷土室だよりにも暗渠関係のものがあります)。
・・・え?結局、蒟蒻島で蒟蒻を食べていないんじゃないかって?
いいじゃアありませんか、新川でお酒呑んだ、ってことでひとつ・・・。
<参考文献>
上村敏彦「東京花街・粋な街」
佐藤正之「TOKYO新川ストーリー ウォーターフロントの100年」
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」
菅原健二「図書館でしらべる 地図・地誌編6」 季刊collegio第7号 2006年2月号
高木藤夫・高木文雄・沢和哉共編「酒蔵の町・新川ものがたり」
中央区教育委員会「中央区の昔を語る(六)」
中央区教育委員会「水のまちの記憶」
望月由隆「新川物語 酒問屋の盛衰」
霊巌島之碑建設委員会「霊巌島之碑」
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コメント
うん霊岸島はやはり夜歩く方がいいですね。闇といっしょに水がひたひたと自分の身体に浸み込んでくるようで。
元吉原と人形町の芝居町、そして霊岸島になる中州は江戸の初めには一帯の空間だったんじゃないかと、田中優子さんがどこか書いていたと思いますが、本当にそんな感じがしてきます。
投稿: sumizome_sakura | 2013年3月 6日 (水) 01時46分
>sumizome_sakuraさん
たしかに昼間のオフィス然としたところを歩いたら、だいぶ違うんでしょうね。夜の霊岸島は人もほとんど通らない、しずかな闇の世界でした。あまりに暗くてカメラが作動しない場所もいくつかあって、夜の海のような「ひたひた」、たしかに感じられそうです。
(ただ、石垣の色の違いは、明るい時間でないと確認できないですね。。。)
元吉原と芝居町とこの中洲ですか・・・考えてもみませんでしたが、島のような場所、艶っぽさなど、匂いは近いような気がしてきます。いまは周囲に比べ静かすぎる異空間でしたが、昔はまた違う意味での異空間だったのでしょうね・・・。
投稿: nama | 2013年3月 6日 (水) 08時33分