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2013年3月

ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 行田編

戦時中の地図に描かれる(というか描かれないというか)、軍事施設特有の違和感。
現代の地図においても、軍事施設の名残が違和感として滲む場所はあり、行田はその最たるものだと思います。

Gyodamap2

・・・陰影図(googleさんありがとうございます)にさえ浮き出てくる、不自然な丸と四角。
丸は、海軍無線電信所の跡。四角は軍需工場の跡です。

そして、それらと一緒に描かれていることにより、自然のものであるはずの河川までも、なんだか妙な気がしてきます。その川とは、味噌maxさんが「電波ゆんゆん宇宙人の行田川(仮)」として既に書かれているものですが、行田となると、やはりそのすぐ南で湧いているこの川も意識せずにはおれません。

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船橋法典の駅に行くまでの間、既に武蔵野線から行田の丸みは見てとれます。そして駅を降りて歩いていくと、

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このように行田の南側のみならず、北側にも谷が現れます。
この、谷に囲まれていることこそが、この地に海軍がやって来た理由となるのです。

この地のかつての名は、行田新田。1674年頃に開かれた新田村でした。
台地上であるのに田んぼっぽい「行田」という名は、開発請負人の出身地である行徳と田尻の合成地名です。周辺各村の開発が行き届かなかった場所を合わせたようなカタチの村で、「散村」形式をとり入植者がバラバラと住んでいました。その数、23戸172人(明治5年時点)。

電信所用の大きな大きな円状の土地を切り取れる台地、という点で、この地は実におあつらえむきでした。海軍により「雷が落ちたと思ってあきらめてくれ」などと言われ、葛飾村の一部と行田新田の畑地が買収されることとなりました。
家も耕地も失うことになったひとびとは困惑し、買収を免れた村民が家を作り、耕地を分けるなどして対応したそうです。しかしそれでも農家としての生活は苦しく、電信所内の空閑地利用を希望する嘆願書が出され、無線塔の敷地内で耕作をしていた人もあるそうです。

3つの河川に抉られ、残った台地は決して豊かな土地ではなかったはず。そこに出来た丸型の施設と、残り続けた農家と畑・・・。施設ができる前の明治期の地図を見ているときでも、等高線の動きの中に、この行田の未来がぽっかりと幻視できるような気さえします。

外周を歩いてみます。

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実際に訪れてみると、たしかに丸い。
たしかに丸いんですが、凹凸は無いので、ただのカーブの連続。暗渠的萌えは非常に乏しい地です。

そうそう、前掲の陰影図でも丸い顔のようなあの輪郭の中に、一カ所だけ(右頬のあたり)凹んでいるところがありますね。これは、諏訪神社があるため買収地を少し引っ込めたものです。

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円の真ん中の辺りには歩道橋があって、JA(小松菜が名産)があって、行田公園の中に記念碑があります。

日露戦争の経験より無線電信所の必要性を確信した日本海軍は首尾よく用地を得、大正2年に起工式を行います。ところがまもなく第一次世界大戦が勃発し、大正3年、日本はドイツに宣戦布告。このことは、この電信所の計画を大いに乱すこととなります。電信所は海軍がドイツ(シーメンス・シュッケルト社)に注文したものだったからです。・・・ドイツ人技術者たちは、重要書類をすべて焼き帰国してしまいます。鉄塔の基礎のみを残して。
なんの資料もない状態で、日本海軍の技術者たちは電信所を作ったといいます。

苦心の作は、大正4年に完成。その時の名称は「船橋無線電信所」。
その後送信専門となり(受信専門は以前記事にした蟹ヶ谷)、大正12年に「東京海軍無線電信所船橋送信所」と改称。
さらに、昭和12年に「東京海軍通信隊船橋分遺隊」となり、無線塔が新設されます。

直径800mの円周上に(つまり先ほど歩いていた道路のそばに)、60mの埠頭が18基。中央部には三角柱の主塔、高さ200m。36本のアンテナ線が伸び、その姿はあたかも「傘」のようでありました。

以降、空高く聳える鉄塔は船橋のランドマークとなります。校歌にもなり、「鉄塔のある風景」が郷土の自慢のひとつになっていた、といいます。

終戦後は米軍通信所となり、昭和41年に日本側に返還。
大正4年に作られた煉瓦の発電機室等は、健在だったといいます。けれど、多くの機器類は米軍により撤去され、送信所として使える状態ではありませんでした。
昭和46年に解体が決まると、船橋市は国から払い下げを受け、「船橋のオアシス」として開発にかかります。行田団地、行田公園、あとは国の施設や学校が出来ました。
なぜあの煉瓦の発電機室を残さなかったのか・・・当時を偲ばせるものは、この記念碑だけなのでした。

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行田団地だけではなく、味わい深い団地が何塊かあります。団地の中には、ほのぼのとした「行田商店街」もありました。

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お肉屋さんでコロッケを買って、ひとやすみ。各種お弁当も売っており、店先にベンチもありました。

さて、ここから海軍の名残のあるものを探しに行きます。

そのものは、最初の陰影図に載せた「四角」の地との間にあるようです。

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ここが「四角」の一角。かつての軍需工場、日本建鉄株式会社。約2万人の労働者が居たといい、雷電や零戦の部品を作ったという証言が残っているそうです。
いまはこのようにマンションや巨大スーパーなどが幅を利かせていますが、日本建鉄船橋製作所も残っています。

この、日本建鉄との間に、海軍の境界石が何本も残っているというのです。

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一本目は順調。いくつかの文献にあるように、行田東小学校にありました。おお、思っていたより新しい。

しかしここから先が苦戦しました。なにしろ情報源は「付近の畑の中」とあるだけなんです。ぐーるぐーる、畑や住宅街を歩き回りました。

あまりに無いので、あきらめかけたその時、

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うおおおちょっとうつむき加減なヤツぅぅ!!!

1つ見つけられて、かなり満足しました。それで、次の目的地に移動しよう、とほぼ帰る感じで歩いていたら、

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出会いは突然に。

人んちの門になっている・・・!

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Oops、反対側も!

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さらに畑の脇を歩いていたら、

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はああああああ・・・!

計5本ゲットいたしました。

無欲になってから見つけられた感じです。
なぜ、あの「円」の外にこんなにあるのかというと。昭和8年に海軍省は送信所南東部の土地を買収し、鉄塔を3本建てたといいます(基礎がまだ埋まっているらしい)。ここはその区画なのでした。

名残、まだまだあるな行田・・・。

Hassin

今でも、何かを発信している地でもあるようです。

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ここからは暗渠編。
その暗渠、船橋市の公式名は太刀洗川といいます。なんか赤坂のほうで聞いたことがある名前ですね・・・あちこちにあるんでしょうね、ある種の伝説とともに。大刀洗川と表記されることもあれば、血洗川、洗川などと呼ばれることもあります。
由来は大きく2説。源頼義が太刀を洗ったので太刀洗川、というざっくりとしたもの。
それから、源頼朝の命に従わなかった船橋大神宮の神主が長い争いの末に神輿の前で自害し、その神輿を洗った川なので血洗川、というもの。
「船橋市史」では、この由来を「根も葉も無いことであろう」とバッッッサリw

これを上流から下りたいのですが、その前にお腹が空いてきました。
近くによさげな店が無く、天気も良かったので公園でお弁当をということになりました。

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このあたりで展開しているらしきスーパー、マルヤにいきます。

日の丸と海軍の合体にしか見えないんですけど・・・!

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巨大なクラゲみたいな船橋高架水槽を横目に、その高架水槽の少し南に谷頭があるようなのも横目に。
上流端、と思えるところまで歩いて行って、近くの公園でさて、ゴハンにします。

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海軍に思いをはせながら、蟹めし弁当を食べます。
(相方が隣で食べていた、のり弁のほうが美味しかったような気もします。でも今日は海のものを食わんと!)

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お弁当を食べた公園も、谷戸の一部でした(盛ったもよう)。

もう少し奥の方に緩やかな谷頭がありました。そこが水源だったのでしょうか・・・?
見えるのはマンション、畑、新築の家々。よくわかりません。

太刀洗川の、水源について。
いくつかの文献で、水源は「釜谷津(鎌ヶ谷津とも)」であると書かれています。
薄暗い藪の中にある池の、釜のような大穴からもくもくと水が湧く釜谷津。その水が、低いところで停滞し「蛇沼」となる。蛇沼は出口をふさがれていたため停滞していたものが、一端を突破し流れ出たといいます。

残念ながら、この2つの場所は現在跡形もないようで、確かめることができませんでした。

ところで、わたしは水源はもうひとつあると思っています。
前述の無線電信所の電気はすべて自家発電であり、大きな発電機があったといいます(関東大震災時もそのおかげで全国に状況を知らせることができたそう・・・デマまでも広げたそうですが)。
その発電機には冷却用に大量の水が必要で、構内に掘った大きな井戸の水を使用していたそうです。
・・・では、その冷却水の、排水は?
この太刀洗川の流れには、大正4年~昭和41年の間だけは、無線電信所の排水も合わさっていたのではないでしょうか。あの丸い台地から、轟轟と・・・。

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公園の下、谷底はマンションに覆われます。その敷地の隣に、突然蓋が現れる。

谷戸を横断するように置かれています。怪しい・・・と思って蓋の上をザクザク歩きます。すると、

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うわっ 缶の山・・・

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うわっ いろんなものが乗っかった暗渠・・・

畑の敷地なので、侵入はココマデ。谷底がまるまる大きな畑になっており、ここがまた実に興味深い。

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この畑の中、至るところにじゅくじゅくと浸み出しがあり、排水路が設けられていました。
左岸側の崖からは特に湧くようで、こんな風に池が出来ていました(木の向こう)。

・・・ここ、なんだかちょっと「蛇沼」の風情があるような気がします。

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畑の敷地の下には、これまた谷戸を横断する蓋暗渠があり、ここに畑で湧いたものが注ぎこんできます。

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その谷戸横断暗渠は、最も右岸側で縦に伸びる暗渠と繋がっており、それは歩道といっしょくたになって、

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流れ落ちていきます。太刀洗川らしいものがやっと目に見えてきました。

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左岸から短い支流が一本合流。

そして暫く道路に飲まれ、暗渠蓋はなくなります。

再び現れるのは、

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ここ。
旧地名山野と海神の間を流れる、いわば村境の川です。

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暗渠らしくなったとたんにボサボサしてきました。
カマキリの卵、ここで久々に見ました。

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西海神小学校脇で蓋が再出現しますが、

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すぐに折れ、

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またボサボサしまくります。
ちなみにこの位置でわたくし、切り株を猿と間違えてたいそうビビっていました。我ながら意味が解りません。

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リヤカーと梅と暗渠。

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柵の向こうに置かれたビニール・ボール。

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写真右、壁の色の違うところで京成線を横切ります。

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その先は住宅の合間を縫って、

(この脇に太郎次郎の池跡というのがあるらしいのを見落としましたくぅぅ。)

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また道に隠れます。
この川は、葛飾の農家の重要な用水のひとつであったというので、何流かに分かれて田圃を流れていたかもしれません。

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千葉街道脇でこのようにくねり、横断します。

ちなみに背後には柵で覆われ鍵のついた妙な井戸がありました。

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名残の橋があります。

おそらく、かつての太刀洗川は今示したような流れだったと思われますが、下水道的にはここが分岐点です。
あの「円」の一端から始まる太刀洗幹線は、この位置で西船橋五号幹線(汚水)と、太刀洗放流幹線(雨水放流)とに分かれます。後者が、これから歩く暗渠の下を走ることとなります。

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今度は道の真ん中にシフト。

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JRに突き当たりますが、

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このように横断し、

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まだまだ続きます。

ちなみにそこにあるマンホール、本海川同様船橋オリジナルです。

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海水取水口。
消防に関連するマンホールなのでした。
船橋市のサイトを見ると、本海川=圧送管利用方式なのに対し、太刀洗川下流部は雨水放流幹線で、”水門開閉により海水を逆流させ、消火活動に利用する”という方法なのだそうです。(教えてくださったマンホールのFさんとNさん、どうもありがとうございました。)

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ほら、そこにもありますね。
前述のような利用法なので、水門と水門の間のうち上流側にマンホールが布置されるというわけ。

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そろそろ最下流。大ぶりの暗渠になって海の方に下っていきます。端っこがHの字みたいになってます。

ちなみにこの辺には似たような暗渠が沢山ありました。もはやここら辺の暗渠は海水の入り混じる一続きのものであり、どこからが太刀洗川とは言えないのかもしれないな・・・などと思いつつ、

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これも正しい流末かどうかは不確定ですが、ひとまず、京葉道路に突き当たって終わります。

付近にはかつて、造船所や船溜まりがあり、多くの船が停泊していたといいます。なかには、東京のゴミや人糞を載せた船(田畑の肥料となる)なども来ていたそうです。

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今回の行程(暗渠部分)。

軍施設、そして小ぶりの川が田畑を潤す風景に思いをはせながらのさんぽでした。

この日から暫くの間、街角で石柱をみるたび、「ハッ・・・海軍!?」と思う癖が抜けなくなりましたとさ。

<参考文献>
かつしか歴史と民話の会実行委員会「葛飾の郷」
滝口昭二「行田無線史」第2号、第14号
千葉県歴史教育者協議会編「千葉県の戦争遺跡を歩く 戦跡ガイド&マップ」
成瀬恒吉「葛飾誌」
船橋市「船橋のあゆみ」
船橋市下水道部「ふなばしの下水道概要」
「船橋市史」

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ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 船橋駅前編

先日、1回ぶんだけチラ見せしたバーチー編。千葉暗渠のあまりの濃さを、わたしのアタマが収納しきれなくなってきたので、第2弾として何回ぶんかを放出したいと思います。

その1つめの舞台は、船橋中心部。IKEAで朝ワインを呑み、船橋オートレース場で1パイやって、ほろ酔い気分で船橋港までやってきました。

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・・・船橋に漁港があるだなんて。知らなかった。

沿岸のアサリ漁らしいです。アサリ用のカゴがいくつか干してありました。

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トタンの作業小屋がならびます。・・・壁の素材が斬新ですね。

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あっ、暗渠のコンクリ蓋と同じ素材が使われている!

・・・のどかなのどかな、漁村的風景に既に満ち足りた気分になりつつありますが、目的地はもう少し別なところ。

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山谷水門。
ココから始まる、ワンダーな空間です。

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水門の北東方向はハシゴ式開渠になっていて、意外にもきれいな水が流れていました。

後日追記:この水の質、そして量は時間帯あるいは日によって異なるようです。再訪時は・・・

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こうでした。うーむ。

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しかしやがて蓋がされます。

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ちょっともったいぶりましたが、来たかったのは反対側、水門の西側です。

以前、結構人さんの本を見ていて、釘付けになった箇所がありました。
それは2009年に出されたもので、結構人さんも更にその10年前に見た風景を忘れられず、ふたたび来られていたのでした。

その風景とは、この運河のほとりに広がっていたものです。

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運河、という表現をしましたが、それはもはや運河ではない。
廃運河と、トタンのバラック群。

嗚呼今でも、同じ風景が残っていました。
・・・1999年頃には、もっと人の気配があったようです。対面には”昭和のマーケット型のスーパー”も、あったそうで(東京DEEP案内にはギリギリ載ってますね)。今は廃屋多めですが、現役のお宅もあります。そういった家は避けて、以下に雰囲気を伝えます・・・

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家々は既に疎らであり、かつては家があったであろう空き地がぽこぽこと広がります。しかし、河川用地につき、入れません。

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廃屋のつくりを見ていると、運河の方向にベランダがあるものが多くて、さながら川床。
川とともにある暮らしが、かつてここにはあったのでしょう。

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崩れ落ちているものもあります。

後日追記:もう少し写真を足しておきます。

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廃屋になってしまった家と、

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運河向こうからの風景。植物だけは育っていました。

川べり、トタンで作られた家々・・・和泉川の某所を連想します。似たような流れでひとびとが住んだのでしょうか。

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もっとも上流側には居酒屋っぽいものがありました。
開いていなかった、という理由で入りませんでしたが、これはハードルが高い。いったいどんな店なのか、全然わからない・・・!と、怯えつつ通過。
しかし、後でぐぐってみると、なんとこのお店はオープンして間もないイタリアンであり、イタリアで修業した店主の料理が食べられる(AKBのポスターも貼ってある)ということでした。船橋新聞、とても良い記事です。これは絶対に行きたい!

そしてその記事で知りましたが、いま歩いてきたエリアは立ち退きを待つ、再開発地域なのだそうです。緩やかに、しかし確実に、時は進んでいるようです。

・・・実はいま来た廃運河はかつての「山谷澪」であり、いつの時期までかはまるまる港のようになっていて、

Sanyamio

上部はこのような船溜まりでした(yahooさんありがとうございます)。

さてこの山谷澪には、水色点線部のような続きがあります。その流れは現在総暗渠ですが、「本海川」という名を持っています船橋市の河川の頁は、暗渠の本名も載っていて、とても充実!船橋市GJ!)。

ではこの全長1409m、本海川さんを遡ってゆくとしましょう。

千葉街道を渡ると、海神遊郭跡があります。

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時を遡ること江戸時代。船橋宿のうち、このあたりだけが旅籠の営業を許されていたといいます。幕末には30ちかくの旅籠があったそう。そしてその多くが、飯盛女(”留女”と称して宿泊人にはべらせた、べいべい言葉を8百回も言うから俗に”八兵衛”と呼ばれた、などとも)を置く半遊女屋。やがて県から「遊女屋は表通りから移るように」というお達しがあり、昭和3年(大正15年説もあり)、「海神新地」に遊郭が誕生しました(但し、旧地からの移転ではなく他地区からの移入ばかりであったといいます)
習志野に置かれた軍隊の増強に伴い勢いのついた海神は、終戦前で23軒、戦後赤線地帯となり、昭和32年で72軒あったとされます。習志野学校のあった大久保近辺にもカフェーはありましたが(後日詳述)、そちらに行っていた兵よりも、位の高い人が海神に来ていたようです(半分推測)。

数年前まで、木造の大店が1軒だけ残っていたそうですが、今はなし。
しかし、遊郭の残り香はまだ少しあります。何軒かの飲み屋さんに旅館。

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ストリップ劇場もあります。
通ったのは午前中でしたが、10時台からもりもり営業してました。

<後日追記>
ストリップ劇場、若松劇場は2013年9月には解体され、現在はもう在りません。

2013年9月22日に撮影した写真。

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入口。ここからだとまだわかりませんが、

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中はもう工事が進んでいました。

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皮肉にも、あのとき、どういう様子だろうと想像した店内は、廃業後に見る(とも言えないけど)ことができた・・・

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ソープランドもあります。
向こうに見える中華屋さんがとても好みですが、常連さんが盛り上がっていたので入れませんでした。

赤線時代の建物分布図と比べましたが、同じ名の店は見つけられませんでした・・・。赤線時代につくられたレポートを見ると、昭和18年と昭和32年を比較すると、客層は30~40歳→20~52歳と若くなっていて、遊ぶ時間帯が遅くなり、泊りがけから泊まらず目的のみへと、来るタイミングは土日から給料日前後等へと、利用状況に変化が見られたそうです。・・・いったい、今はどのような利用のされ方になっているのでしょうか。想像することは難しいです。

Uma

後日追記:再訪したら、遊郭跡近くに、なんと馬が居ました。目を丸くして立っていると、向こうから近寄ってきて見つめ合う感じに・・・。遊郭跡近くに「馬肉料理店」があることはありますが、このお馬さんはいったい何のためにここに?謎です。

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さ、川に戻りましょうか。右手が海神遊郭跡地の区画。
本海川はこのように流れていきます。

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遊廓のブロックを過ぎた途端、本海川は突然暗渠らしさを爆発させます。

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くねり、

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まがり、

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ストライプ蓋で船橋駅に迫ってゆきます。

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西向地蔵(海神と本町の境に位置し、かつて刑場であったという話もあるそう)の脇を掠め、

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道路を渡っても、

Honkai25

暗渠らしさは維持されますが、ここで一度消えます。

Honkai26

このどこかを通って、船橋駅を越えるもようです。

Honkai27

駅を越えて1ブロックほどいくと、こんどは違ったテイストの蓋が出現しました。偽レンガ蓋、とでもいいましょうか。ゴージャスです。

Pinut

あ、ちなみに流路上と思しき所に、八街ピーナツというお店があります。
純ピーナツペーストや、落花生最中、落花生汁粉などを買いました。落花生とお茶で、ひとやすみ。

Honkai28

で、本海川は偽レンガ蓋のまま直進し、公園の脇に出ます。天沼弁天池公園。噴水や、球戯場がひろがります。

のっぺり平らな地形なのでわかりづらいですが、どうやらここが水源のようです。

Honkai29

弁天様もいます。

・・・天沼弁天池!?

我が愛する桃園川と、姉妹暗渠じゃありませんか。

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しかし天沼弁天池のすぐ北にも、このようにコンクリ蓋暗渠が連なっています。これは、この弁天池が何者であるかをさぐる、手がかりのひとつ。

こちらの天沼弁天池は、杉並の湧水池であるそれとは成り立ちが異なります。

この池は、九日市の池、乳沼など、いくつかの名を持つようです。少し前までは公園全体を覆うほどの大きさであり、更に以前はJR船橋駅も飲み込む、その10倍以上もある大池だったといいます。
もっと遡ると、天沼弁天池公園~船橋駅前を中心とするエリアは、室町時代あたりまではまるまる入り江(夏見入江)であったと考えられています。やがて砂州ができ、入江は潟(夏見潟)となります。そして比較的土砂の堆積量の少ないこのあたりが取り残され、池となりました。

Honkaiinei

          なんとなくの関係図を載せておきます(googleさんありがとうございます)。
            本海川さん、くびれ(凹凸)の無い体型は桃園ちゃん以上ですね。

なるほど明治13年の地図には、今よりもずっと大きな「九日市の池」が描かれています。そしてその大きな池は、北を流れる長津川(現在も開渠)から水を取り込み、東側のエリアに配水するという役割を負っていた時代もありました。内水面漁業も行っていたといいます。
その後、昭和5年の耕地整理により、現在の公園の大きさにまで縮小。
戦後は釣り堀にもなっていたものの、昭和41年、更に埋め立てられ、今の大きさになったといいます。

前掲の船橋市のwebでは、本海川は海に直接注ぎ込む独立系として扱われていますが、長津川から水をいただいていた溜池が水源ということができ、その成り立ちといい、藍染川~不忍池~忍川によく似ています。

さて、ゴハン。
海神遊郭跡まで戻りましょう。

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遊郭跡のとなりのブロックにあった喫茶店、モナリザ

い~い予感がしたのですよ。

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ミックスサンドとビール。

やはりモナリザは、とても良かったです。
からしマヨネーズで丁寧に作ってあり、具もすべておいしい。なにより、上に鎮座ましますチップスター!(載せてあるだけなわけですが、なにこれこんなの初めて見た!と興奮しながら食べました。)

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当然ナポリタンも食べます。ナポリタン的にたいへん良いナポリタンでした。

船橋の市街地を歩いていると、昭和っぽい喫茶店にいくつも遭遇します。・・・なんだか錦糸町に似ている。競馬をする人の多い街だからなのでしょうか?謎です。

Honkaimap

今回の行程。

・・・実はこの本海川、”いま”も非常に独特な存在でした。現代も船橋市において、とても大切な機能を持っています。
市街地で火事が起きた場合、山谷水門の下流から海水をポンプで汲み上げ、この本海川に敷設された圧送管を通して天沼弁天池公園までを圧送し、消火活動に使うというのです(これは蓋散歩びとさんから、別な場所のマンホールの用途について教えて頂いた際に得た情報でした。蓋散歩びとさん、教えてくださりありがとうございました)。このルートはまさに、今回辿った暗渠みち・・・!!

今回の道、とてもはっきりとした暗渠の姿をしていたのに、その下に下水道”本海幹線”が存在していないことに、少し違和感がありました(船橋でも、他の暗渠には概ね河川名が冠された幹線が通っているのです)。それは、いざというときに船橋の街を守るための、またひとつの新しいタイプの暗渠であるから。なのですね、たぶん。

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本海川上流端からさらに西へ延びていく、偽レンガ蓋暗渠もありました。こんなふうに、かつて漁業に農業に、とても役に立っていた水とその通り道は、いままた手直しされて、ひそかに役に立っている、というわけです。

船橋で偶然に出遭った桃園川の姉妹暗渠は、姉妹とはいいながらも全然違った人生を送っていたのでした。

・・・実は軍事モノの内容が極薄な今回(シリーズ2回目にしてタイトルを無視するという緩さでスイマセン)。次回、次々回はたっぷり軍モノもお届けしたいと思います。

<参考文献>
「海神のなぞ」
刈部山本「デウスエクスマキな食堂 09夏号」
熊倉安雄「船橋遊廓調査レポートー追いつめられた性の歴史ー」
船橋市「船橋のあゆみ」
船橋市下水道部「ふなばしの下水道概要」
綿貫啓一「郷土史の風景」

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桃園川支流を歩く その47 ”小淀川”を追え!⑤

2010年。ひとつの文献をきっかけにして、迷走し続けた”小淀川”探し。
要領の悪いわたしは、何度も訪問してやっと、下流側になんとかそれらしい隙間を見つけられたのですが(”小淀川”を追え!③)、残念なことに中流部であやしいと思った道は川跡ではなく、池の跡であるというコメントを地元の方からいただきました(”小淀川”を追え!④にて。鍵ノ手さん、その節はありがとうございました)。

いま、小淀川の流路特定はほぼ完了しているのですが、今回はそちらではなく。上述の池=伏見宮別邸にあった大きな池の、跡がたしかに道になっているということを検証してみたいと思います。川跡の道ばかりを歩き続けていると、池跡の道、ってちょっと貴重な気がしてきたりして・・・

まず、一番最初(”小淀川”を追え!①)に流路と間違えていた、小淀東通りを歩きます。

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当時ベタベタと貼られていた、JT跡地を公園に!という”飴と鞭ポスター”が一切なくなっていました。
いつのまにか決着がつき、建物が建ち始めていました。公園にはならないことになってしまったようです。

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包丁研ぎ・・・こんな貼り紙、あったっけなあ?
以前はJTの貼り紙ばかり見ていたから、気づかなかったのかしら。

どんな道でも、通るたびに発見があったりします・・・。

それでは、池跡に接近します。まずは池の写真を見てみましょう。

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昭和22年の航空写真です(gooさんいつもありがとうございます)。

池が見えます。山岡鉄舟宅であった場所は、その後伏見宮別邸となり、その一部が現在は高歩院というお寺になっています。伏見宮別邸(いま中央に見える敷地)には、大きな瓢箪型の池がありました。池の水は澄みきっており、冬になるとカモが飛来したそうです。

昭和22年、伏見宮別邸と池は、まだ残っていたようです。池の西側は暗くて境界がはっきりしませんが、東のヘリは、クネクネとしていることがわかると思います。
邸宅の周囲に壁のようなものが見える気がしますが、地元の方の回想によれば塀は無く、近所の子どもたちはよく敷地内に遊びに行っていたそうです。瓢箪型のうち片方(六角堂のない方)の池では、遊ぶことが許されていたそうで・・・。池に架かる橋でザリガニ釣りなどもしたそうです。
ちなみに小淀川は、水色点線部分を流れていました。

S38ike

そしてそれから16年が経過。昭和38年の航空写真です。池は埋められ、東のヘリは道になっています。北側の複雑なクネクネはまぁるく処理されちゃってますが、南側はほぼそのまま!

このカタチを、よく覚えていてください。

さ、では現代へ。名残の道を歩いてみましょう。

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ここから始まります。

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このかたち、これこれ・・・ふふふ。

このあたり、瓢箪のくびれのように思えるので、もしかしたらこの辺に橋が架かっていたのかもしれません。そこにいたかもしれない、ザリガニ釣りの糸を垂らす子どもたち・・・

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左側が池です。
ブラタモリのようなCGを見せられる技術がわたしにあればよかったですが、そんなわけがありません。各自、どうか自分CGで左側の敷地を池に変えていってください。ガァガァと鳴くカモたち、。澄んだ水面・・・周囲はほとんど田んぼです。

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ほうら、池の畔をあるいているような気持ちで。

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最後のカーブに入ります。

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向こうに高歩院が見えてきました。
左手奥には、ちょっと小高くなっている、小淀山がとてもよく見えたことでしょう。

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振り返って。この中が池です。

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池の中には、この地が小淀であった頃の表札が残っていました。ちょっと、うれしい発見。

ちょっとしか歩いてないけど、さてゴハン。
小淀川沿いに、実は”中野の本格隠れ家的イタリアン”があります。
その名は"La Freccia"。ランチ時に行ってみたら、なんと満席で、並んでしまいました。こんな、どの駅からも不便な立地で・・・これぁ、食わせる予感!

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Cランチ、ボスカイオーロスパゲティ(木こり風)にしました。
ミネストローネと、パンがついています。パンの1つは炭入りみたいで真っ黒。それもまたよし。
パスタもちゃんと美味しかったですが、おススメはピザのクワトロフォルマッジみたいなので、こんどは昼ワインができる状態でまた来てみたいなあ、と思っています。

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で、このお店。後ろをこのように小淀川が流れているのでした。
暗渠めし、でしたねぇ。

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さてさてまた池のところまで戻って。

現代の地図でおさらいをしてみます。
じっと見ていると、”池”が浮かび上がってくるようではありませんか?

・・・ここまで見てきて、ふと、また新たな疑問が浮かんでしまいました。この池は小淀川から取水していたとか、湧水があって小淀川に流れ込んでいたとか(弁天堂があったので、湧水があった可能性は高い気がしています)、地元の人の記憶は何パターンもあります。
いずれにせよ、小淀川との連結点があったはず。では、それはいったいどの場所にあったのか?文献によるばらつきがひどすぎて、実はよくわからないのです。・・・どうやら、小淀川のことは、もうちょっと追わなければならないようです、やれやれ(と、ニヤニヤしながら言う)

というわけで、つかまえた、と思ってもスルリと逃げる小淀川。またいつか、つかまえにゆきたいと思います。

あっ・・・。そういえば”ダヌダヌ麺”を食べるのもすっかり忘れてた・・・!

<参考文献>
「昔をたずねて」
中野区教育委員会「青梅街道周辺地域」

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蒟蒻島で蒟蒻を食べる

タイトルが蒟蒻畑みたいな雰囲気を醸しているかもしれませんが、今回の舞台は、カタい感じのオフィスビルと高層マンションの並ぶまちです。

新川、という地名で思い浮かぶのは、そういえば友人が転居したとこだ、というくらい。
ほんとうにそのくらいでした。
新川といえば酒問屋のまち。と、思い浮かぶ方も多いのかもしれませんが、ぜんぜん知りませんでした(お酒好きなくせにね)。
そして、新川1-1~1-2あたりは、かつて蒟蒻島とも呼ばれていたのだそうです。これも、知りませんでした。それを知り、例によってわたしはこう思うんです・・・「じゃあ今度は、蒟蒻島で蒟蒻を食べたい」。

                       ***

それでは蒟蒻を食べるため、蒟蒻島に向かいましょう。お仕事帰りの、夜さんぽです。

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高橋(たかばし)を渡ります。
夜の亀島川に、釣りをしている人がいました。魚なんているのだろうかと水面を見つめたら、灯に照らされてボォッと魚が泳いでいるのが見えました。

新川、というのは現在の地名でもありますが、そのむかし、この地にあった川のことを新川といいます。蒟蒻を食べる前に、新川跡を歩いてみます。

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まずは霊岸橋まで・・・。分流地点から歩くためです。新川とは人工の掘割で、亀島川から取水し、隅田川に注ぐものでした。

そしてこの橋名は、いまから向かう新川地区を江戸期に霊岸島(または霊巌島)、と呼んでいたことからきています。霊岸島のかたちと、現役時代の新川をお目にかけましょう。

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昭和22年の航空写真です(gooさんありがとうございます)。今もよく見れば、島のようなその風体。  

新川のみならず、霊岸島も実は人工物なのでした。
もともとこの場所は、隅田川の河口の砂州であった、といいます。江戸期(家光の時代)に、霊巌上人がその砂州を埋め立て、霊巌寺を創建。「江戸の中島」と呼ばれたその島は、流路変更をされた日本橋川(新堀川)の通り道のために二分され、箱崎と霊岸島となったのだそうです。

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現役の砂州(南白亀川の河口)は、こんな感じ。隅田川ですからもっともっとスケールが大きいでしょうけど。・・・これはたしかに何か建てたくなるかもしれません。

埋立当時、まだ新川はありません。霊巌寺には多くの人が訪れ、たいそう賑わっていたといいます。
しかし明暦の振袖火事はこの島をも襲い、霊巌寺は焼失、深川に移転していきました。焼け跡には運河が開削されました。それが新川です。だいたい1660年あたり、河村瑞賢が行ったとされますが、どうもはっきりと記されたものが無いらしく、多くの文献が自信なさげにこのことを書いています。
新川は、長さ約590m、幅11~16m、深さ45~90㎝の掘割であったそうです。

さて今、霊岸橋に立ってふと東に目をやると、

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日本橋水門があります。亀島川の付け根。
で、でかい。とくに夜の輝きがすごい。圧倒される・・・。

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ちなみに、日本橋水門を反対側(かつ日本橋川の水上からクルーズ中に・・・)から見たことがあります。丸で囲っているのがちらりと見えた霊岸橋です。

左側の敷地が霊岸島。そして前述の「蒟蒻島」とは、霊岸島のなかでもちょうど写真の部分付近なのでした。亀島川の一部を埋め立てたものの、なかなか土地が固まらず、歩くと揺れるためにそう呼ばれたそうです。

蒟蒻は島で豆腐は屋敷なり

なんていう川柳もあったほど。きっと江戸期は余程ゆるふわな土地だったのでしょう。・・・いまはこんなに頑強そうだけど。

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そして西側を見れば、亀島川の下流と新川分流地点です。
丸のあたりが分流地点のはず。よく見ればここの石垣の一部の色が、他と異なるらしいのですが・・・夜にきちゃったのでわかりません・・・。

そしてちょうどお向かいにはグレート大衆酒場、ニューカヤバに灯が・・・い、行きたい。でもまだ今日はこれからが長いんだ。がまんがまん。

さて、いよいよ新川跡へ向かいます。

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川跡の一部=ただの道を歩き始めると、すぐに太めの道路と交わります。
ここは一ノ橋跡。川幅は上述のように11~16mなので、道も建物も川跡に含まれるはず。そして橋もそのくらいの長さだと思われます。江戸名所図会には、石積み護岸の新川、たくさんの荷を載せた船とともに、一ノ橋がちょこっとだけ描かれています。

新川には、一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋という3つの橋が架けられていました。ここ一ノ橋の北詰に、河村瑞賢の屋敷があったとされます。

まもなく新川大神宮の横を通り過ぎます。 売る前の新酒がお供えされた神社です。
江戸時代以降、この新川の両側には酒問屋が多く並んでいました。灘をはじめとする関西の「下り酒」を扱うものです。
下り酒は、秋~冬がもっとも盛ん。10月になると、関西の酒問屋では飾り立てた船に新酒を詰め込み、特定の日の同じ時刻に出帆。早飛脚により出帆の知らせを受けた江戸の酒問屋は、首を長~くして待つ。今か今かと、沖を見つめながら待つ者さえあったといいます。隅田川の河口からは小舟(はしけ)に積み替え、船頭さんは頭に鉢巻をしめ、太鼓を打ち鳴らしながら入港。酒船レースのようなもので、一番乗りで到着した船=一番船は、さまざまな特権が与えられたそうです。
新酒が入荷すると、酒問屋ではすぐに青い旗を立て、市内の酒店に分配(=配り酒)、酒店では屋敷や町家に配り歩いたとのことです
(文化5年まではそういう習わし)。

・・・まさに一大イベント。新酒をいかに皆が楽しみにしていたかが、よく伝わってきます。

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それからすぐに現れるここ。今やただのビルですが、かつて見番があったとされる位置・・・そう、霊岸島には花街があったのです。

江戸期には、私娼が集まってきてここに岡場所ができました。深川同様、水上交通の便が良かったためでしょう。いくつかの遊里本に岡場所「蒟蒻島」として載っており、それなりの存在感を示していたようです。

天保の改革により取り締まられて私娼窟としての蒟蒻島は寂れたものの、その後「蒟蒻芸者」という町芸者があらわれたそうです。記録を見ると、おもに新川の左岸側に芸者町がひろがっていました(蒟蒻島は前述のように霊岸島の一部を指す言葉ですが、この蒟蒻芸者町はもっと広いエリアを指します)。この時代は遊里的な雰囲気というよりは、酒問屋などが、「昼間に地方のお客さんなどを接待する」という使われ方であったそうです。
待合や芸妓屋が、酒問屋や倉庫の間にあるような風景。昭和10年前後がピークだったようです。昭和33年には芸妓連絡所がなくなり、残った料亭も姿を消してゆき、大きなビルなどに姿を変えてしまっていまは名残が無いといわれます。

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たしかに、だいぶウロウロしましたがなにもない・・・が、なんだかこの黒い塀の建物は気になりました。

唐突ですが、国鉄総裁下山定則氏は、生まれが新川なのだそうです。そして、蒟蒻芸者町時代にあった、待合「成田屋」の経営者は下山氏の幼馴染であり、なんと下山事件前日、下山氏は成田屋に泊まっていたと言われます。まさか最後の晩餐がこの地であったとは・・・。

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少し下れば、二の橋。
三原橋みたい、と思いながら通り過ぎます。橋の両側に不自然に在る建物(食べものやさんがあったので、いつか来たいな)。

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新川の跡を歩いていると、酒屋系の看板が確かに多いです。加島屋、日本盛、日本酒類販売、金盃・・・。

新川が開削されたことが、この地に酒問屋を集めたことは確かです。しかし、すぐに酒問屋が集中したわけではありません。その利便性ゆえ、米、醤油・・・さまざまな問屋がこの地に引き寄せられました。なかでも当初は材木問屋が多かったようです(後に木場へ移転)。1702年時点では、江戸にある下り酒問屋数の17%しか無く、それから1800年あたりまでに、ほどんどの酒問屋が新川近辺に移住したということです。

大正期、新川の運命はまた大きく変わります。もともと、霊岸島は河口にあるため水深が浅くなりやすく、港としての限界があったといいます。加えて、第一次世界大戦時に船が不足し運賃が高騰していたところに、関東大震災が起きました。物流の主役は、船から鉄道やトラックに変わってゆきました。

さらに、第二次世界大戦で中央区は壊滅的な被害を受けます。新川も廃墟と化しますが、むしろ占領軍により接収されることで港湾運送系が再び活気づいたといいます。しかし、この戦争からの復興のために、新川は姿を消すこととなるのです。水が綺麗で、人が泳いでいたのも関東大震災前までらしいので、この頃の新川は最早必要とはされなかったということか・・・1948~1949年、遂に埋め立てられます。

新川がなくなると、いよいよ酒問屋街としては終焉を迎えることとなります。いま、純粋「下り酒問屋」の流れを汲む酒問屋は、加島屋だけであるといいます。

しかし、酒問屋の気配は今だ残っていて、

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倉庫の跡らしき駐車場や、

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クレーンまで残っています。

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川跡の道は狭めですが、まっすぐ伸びています。てくてく。そういえば酒問屋の名残だけで、運河っぽさはあんまりわからなかったな。

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ところが最後の方に来て、やっと暗渠らしくなってきました。
川の幅に沿って、盛り上がった児童公園が出現します。これを見るとわたしも俄然盛り上がります。

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それに、この公園に新川の碑があるといわれているのです。
お、ちょうど下水道工事なんてやってて、いかにもこの下に下水幹線があるって感じですね。

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と思っていたら、この工事のために碑は撤去中なんだそうで・・・。代わりに石碑の写真がありましたw
なんという間の悪さww

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公園のなか。
防災倉庫、公衆トイレが縦に並んでいて、ダブル暗渠サインです。

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隅田川がすぐそこです。
取水口の名残がわからなかったので、合流口もとくに無かろう。と思ったけれど、一応確認しにいきましょう。

季節は夏の終わりかけ、屋形船が何艘も走っていました。なんだか、怒った王蟲みたいだな・・・なんて思いながら、階段を下りていきます。

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すると、あったよあった!水門が!

水門の前に植栽があって近づけません。が、水門の手前にあるのはガードレールのようなもの(珍しい)!

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合流口だってありました。
ポカンと口をあけています。いや、大雨時以外は開かない口だとは思いますが。

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戻ってよく見たら、公園側からも水門は確認できました。
新川の名残、ここにあり。

さて、ひとまずゴハン。
蒟蒻を食べねばならないので、新川を下りながら(狭義の蒟蒻島と限定すると大変なので、新川地区でということにしました)、和食屋さんを探していました。ところが・・・食べ物屋さんは数軒あれど、和食屋さんが無い(あっても開いてない/蒟蒻が無さそう)。
いろいろ迷って、分流地点にあった串八珍に行くことにしました(普段はこういうとき、チェーンはなんとなく避けるんですが)。

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串八珍は分流地点のまさに上。実はすごい位置にあります。
亀島川が見える席に座りたかったですが、とても混んでいて、座れませんでした。

まずは蒟蒻が入っている確率の高い、煮込みをたのみました。登場した煮込みは予想を超えていて、白っぽいモツの上にニラとバターが乗っかっていました。しかしどんなに探しても、蒟蒻が入っていない!今日はそんなオリジナリティいらないから、蒟蒻をくれよ・・・必死にメニューを見てもほかに蒟蒻が関与していそうな品は一切なく、

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春雨だったら、蒟蒻と近いんじゃないか(何かが)。と、妥協することにしました。とりあえずすぐに店を出、帰り道でまた蒟蒻を食べることにしました。

急ぐのには訳があります。霊岸島には、もうひとつの水路があるのです。

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それは、越前堀といいます。この何気ない道は、その跡です。

1634年、霊巌寺の南に越前福井の藩主である松平氏が屋敷を拝領しました。霊岸島の4分の1ほどを占める大きな屋敷でした。そのお屋敷の周囲にぐるりと船入堀が掘られ、それを俗に越前堀と呼んだといいます。

開渠の越前堀の記憶のある人がいうには、モクゾウガニやベンケイガニなどがいっぱいいたとか、小さなはしけ船が多く、その中に住む水上生活者もずいぶん居たとか。

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名前が堂々と残っています。
この公園名もすてきですが、この公園の脇にあるお店で度肝を抜かれることになります。
その店は無人の自販機コーナーで、もと酒屋さんの店舗だったのではないかと想像されます。つまり、酒ばっかり売ってました。

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まずこの古ぼけた白鹿の自販機。「常温です」ってさりげなく手書きしてあるのがイイネ。

白鹿の支社も、新川にあったから・・・まさにこれ地産地消w

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そして酒の自販機群の向かいにあるこのツマミ自販機。
なにこの渋すぎるラインナップ・・・柿ピーとかチータラじゃない、見たことない商品ばかりです。

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とくに、この「さくら肉スライスしっとりタイプ」がすごい。ノザキってコンビーフ缶以外見たことあります??しかもこれ、美味いの!思わず2個買い。
これはこの公園で宴会せざるを得ませんね。

このときは夏か秋でしたが、桜がいっぱい植わっていてお花見に良さそうでした。

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公園内には、発掘された越前堀の護岸用石垣も展示されていました。
江戸城外濠の石垣に匹敵する大きさだといいます。霊岸島の碑なんかもあって、盛りだくさんの公園です。

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水路はこの越前堀公園の横を通り(この写真の手前の位置に「どんどん橋」が架かっていたので、落差があったのでしょうか)、

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明正小学校の敷地に入っていきます。

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敷地途中で直角に折れ、あとは折れ曲りながらも道なりに水路は進みます。
明正小学校はアーチのうつくしい、堂々と建つ復興小学校。窓に貼られた「ありがとう」が示すように、もうすぐ校舎が解体されるようでした。

近くに「馬事畜産会館」がありました。付近には日露戦争までは牧場もあった、といいます。何か関係があるのでしょうか。

その後は越前堀は大味に、大通りの脇を通って隅田川に注ぐのみ。その一部のほとりを、吉良氏を討った後の赤穂浪士が歩いた(新川の一ノ橋も渡ったとされます)という話もあります。しかし小奇麗な道と化していて、越前堀と名のつくお店があるくらいで、とくに形跡はありません。

越前堀は新川よりも早く、明治期の市区改正事業と関東大震災などで埋められています。河口近くだけが残っていましたが(前掲の昭和22年の写真でも確認できます)、それも1964年に埋め立てられ越前堀アパートとなりました。河口部分は長らく倉庫地帯でしたが、現在は高層ビルです。

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ここまでの行程です(yahooさんありがとうございます)。
そんなに大きくはない人工島に2つも人工水路があり、それらに隔てられ町はずいぶん細分化していました。そしてそれぞれに、雰囲気が違っていたといわれます。
新川は前述のように酒問屋が主体。いっぽうで越前堀には船具屋や倉庫が多く、また秀和マンションのあたりには東京湾汽船があって、往来がすごかったそうです。汽船の客のための旅館も周辺にあり、発着所が火事のため竹芝に移った後も、旅館だけはこちらに、というお客さんが居たそうです。

                         ***

あとは、気ままに通りたいまちをふらふらして帰ります。

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南高橋と星。

ここを通って湊へ抜けます。

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湊にて、遺された建物と石川島の対比を味わい、

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築地まで歩いて寿司を食べることにしました。
あまり店舗の開いている時間ではなかったので、24時間営業のすしざんまいへ。穴子おいしかった!

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最終的には銀座まで歩きました。
ここも、もうすぐなくなっちゃうのだよな・・・。

                        ***

少し前に、霊岸島にあるキリン本社の移転のニュースがあったので、このさんぽのことを思い出していました。
新川の、とっくに失われてしまった運河と酒問屋の風景。
でも、酒問屋街時代の「気配」は、よく見れば今なお少しずつ生きていました。
失われたもの、これから失われるもの、失われていないもの。
日本橋や銀座に挟まれた異空間は、十分に味わい甲斐のあるものでした。

なお、今回紹介した水路の現役時代(埋立中も含む)の写真を、中央区図書館の地域資料で見ることができます(さすがですね。郷土室だよりにも暗渠関係のものがあります)。

・・・え?結局、蒟蒻島で蒟蒻を食べていないんじゃないかって?
いいじゃアありませんか、新川でお酒呑んだ、ってことでひとつ・・・。

<参考文献>
上村敏彦「東京花街・粋な街」
佐藤正之「TOKYO新川ストーリー ウォーターフロントの100年」
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」
菅原健二「図書館でしらべる 地図・地誌編6」 季刊collegio第7号 2006年2月号
高木藤夫・高木文雄・沢和哉共編「酒蔵の町・新川ものがたり」
中央区教育委員会「中央区の昔を語る(六)」
中央区教育委員会「水のまちの記憶」
望月由隆「新川物語 酒問屋の盛衰」
霊巌島之碑建設委員会「霊巌島之碑」

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