ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 行田編
戦時中の地図に描かれる(というか描かれないというか)、軍事施設特有の違和感。
現代の地図においても、軍事施設の名残が違和感として滲む場所はあり、行田はその最たるものだと思います。
・・・陰影図(googleさんありがとうございます)にさえ浮き出てくる、不自然な丸と四角。
丸は、海軍無線電信所の跡。四角は軍需工場の跡です。
そして、それらと一緒に描かれていることにより、自然のものであるはずの河川までも、なんだか妙な気がしてきます。その川とは、味噌maxさんが「電波ゆんゆん宇宙人の行田川(仮)」として既に書かれているものですが、行田となると、やはりそのすぐ南で湧いているこの川も意識せずにはおれません。
***
船橋法典の駅に行くまでの間、既に武蔵野線から行田の丸みは見てとれます。そして駅を降りて歩いていくと、
このように行田の南側のみならず、北側にも谷が現れます。
この、谷に囲まれていることこそが、この地に海軍がやって来た理由となるのです。
この地のかつての名は、行田新田。1674年頃に開かれた新田村でした。
台地上であるのに田んぼっぽい「行田」という名は、開発請負人の出身地である行徳と田尻の合成地名です。周辺各村の開発が行き届かなかった場所を合わせたようなカタチの村で、「散村」形式をとり入植者がバラバラと住んでいました。その数、23戸172人(明治5年時点)。
電信所用の大きな大きな円状の土地を切り取れる台地、という点で、この地は実におあつらえむきでした。海軍により「雷が落ちたと思ってあきらめてくれ」などと言われ、葛飾村の一部と行田新田の畑地が買収されることとなりました。
家も耕地も失うことになったひとびとは困惑し、買収を免れた村民が家を作り、耕地を分けるなどして対応したそうです。しかしそれでも農家としての生活は苦しく、電信所内の空閑地利用を希望する嘆願書が出され、無線塔の敷地内で耕作をしていた人もあるそうです。
3つの河川に抉られ、残った台地は決して豊かな土地ではなかったはず。そこに出来た丸型の施設と、残り続けた農家と畑・・・。施設ができる前の明治期の地図を見ているときでも、等高線の動きの中に、この行田の未来がぽっかりと幻視できるような気さえします。
外周を歩いてみます。
実際に訪れてみると、たしかに丸い。
たしかに丸いんですが、凹凸は無いので、ただのカーブの連続。暗渠的萌えは非常に乏しい地です。
そうそう、前掲の陰影図でも丸い顔のようなあの輪郭の中に、一カ所だけ(右頬のあたり)凹んでいるところがありますね。これは、諏訪神社があるため買収地を少し引っ込めたものです。
円の真ん中の辺りには歩道橋があって、JA(小松菜が名産)があって、行田公園の中に記念碑があります。
日露戦争の経験より無線電信所の必要性を確信した日本海軍は首尾よく用地を得、大正2年に起工式を行います。ところがまもなく第一次世界大戦が勃発し、大正3年、日本はドイツに宣戦布告。このことは、この電信所の計画を大いに乱すこととなります。電信所は海軍がドイツ(シーメンス・シュッケルト社)に注文したものだったからです。・・・ドイツ人技術者たちは、重要書類をすべて焼き帰国してしまいます。鉄塔の基礎のみを残して。
なんの資料もない状態で、日本海軍の技術者たちは電信所を作ったといいます。
苦心の作は、大正4年に完成。その時の名称は「船橋無線電信所」。
その後送信専門となり(受信専門は以前記事にした蟹ヶ谷)、大正12年に「東京海軍無線電信所船橋送信所」と改称。
さらに、昭和12年に「東京海軍通信隊船橋分遺隊」となり、無線塔が新設されます。
直径800mの円周上に(つまり先ほど歩いていた道路のそばに)、60mの埠頭が18基。中央部には三角柱の主塔、高さ200m。36本のアンテナ線が伸び、その姿はあたかも「傘」のようでありました。
以降、空高く聳える鉄塔は船橋のランドマークとなります。校歌にもなり、「鉄塔のある風景」が郷土の自慢のひとつになっていた、といいます。
終戦後は米軍通信所となり、昭和41年に日本側に返還。
大正4年に作られた煉瓦の発電機室等は、健在だったといいます。けれど、多くの機器類は米軍により撤去され、送信所として使える状態ではありませんでした。
昭和46年に解体が決まると、船橋市は国から払い下げを受け、「船橋のオアシス」として開発にかかります。行田団地、行田公園、あとは国の施設や学校が出来ました。なぜあの煉瓦の発電機室を残さなかったのか・・・当時を偲ばせるものは、この記念碑だけなのでした。
行田団地だけではなく、味わい深い団地が何塊かあります。団地の中には、ほのぼのとした「行田商店街」もありました。
お肉屋さんでコロッケを買って、ひとやすみ。各種お弁当も売っており、店先にベンチもありました。
さて、ここから海軍の名残のあるものを探しに行きます。
そのものは、最初の陰影図に載せた「四角」の地との間にあるようです。
ここが「四角」の一角。かつての軍需工場、日本建鉄株式会社。約2万人の労働者が居たといい、雷電や零戦の部品を作ったという証言が残っているそうです。
いまはこのようにマンションや巨大スーパーなどが幅を利かせていますが、日本建鉄船橋製作所も残っています。
この、日本建鉄との間に、海軍の境界石が何本も残っているというのです。
一本目は順調。いくつかの文献にあるように、行田東小学校にありました。おお、思っていたより新しい。
しかしここから先が苦戦しました。なにしろ情報源は「付近の畑の中」とあるだけなんです。ぐーるぐーる、畑や住宅街を歩き回りました。
あまりに無いので、あきらめかけたその時、
うおおおちょっとうつむき加減なヤツぅぅ!!!
1つ見つけられて、かなり満足しました。それで、次の目的地に移動しよう、とほぼ帰る感じで歩いていたら、
出会いは突然に。
人んちの門になっている・・・!
Oops、反対側も!
さらに畑の脇を歩いていたら、
はああああああ・・・!
計5本ゲットいたしました。
無欲になってから見つけられた感じです。
なぜ、あの「円」の外にこんなにあるのかというと。昭和8年に海軍省は送信所南東部の土地を買収し、鉄塔を3本建てたといいます(基礎がまだ埋まっているらしい)。ここはその区画なのでした。
名残、まだまだあるな行田・・・。
今でも、何かを発信している地でもあるようです。
***
ここからは暗渠編。
その暗渠、船橋市の公式名は太刀洗川といいます。なんか赤坂のほうで聞いたことがある名前ですね・・・あちこちにあるんでしょうね、ある種の伝説とともに。大刀洗川と表記されることもあれば、血洗川、洗川などと呼ばれることもあります。
由来は大きく2説。源頼義が太刀を洗ったので太刀洗川、というざっくりとしたもの。
それから、源頼朝の命に従わなかった船橋大神宮の神主が長い争いの末に神輿の前で自害し、その神輿を洗った川なので血洗川、というもの。
「船橋市史」では、この由来を「根も葉も無いことであろう」とバッッッサリw
これを上流から下りたいのですが、その前にお腹が空いてきました。
近くによさげな店が無く、天気も良かったので公園でお弁当をということになりました。
このあたりで展開しているらしきスーパー、マルヤにいきます。
日の丸と海軍の合体にしか見えないんですけど・・・!
巨大なクラゲみたいな船橋高架水槽を横目に、その高架水槽の少し南に谷頭があるようなのも横目に。
上流端、と思えるところまで歩いて行って、近くの公園でさて、ゴハンにします。
海軍に思いをはせながら、蟹めし弁当を食べます。
(相方が隣で食べていた、のり弁のほうが美味しかったような気もします。でも今日は海のものを食わんと!)
お弁当を食べた公園も、谷戸の一部でした(盛ったもよう)。
もう少し奥の方に緩やかな谷頭がありました。そこが水源だったのでしょうか・・・?
見えるのはマンション、畑、新築の家々。よくわかりません。
太刀洗川の、水源について。
いくつかの文献で、水源は「釜谷津(鎌ヶ谷津とも)」であると書かれています。
薄暗い藪の中にある池の、釜のような大穴からもくもくと水が湧く釜谷津。その水が、低いところで停滞し「蛇沼」となる。蛇沼は出口をふさがれていたため停滞していたものが、一端を突破し流れ出たといいます。
残念ながら、この2つの場所は現在跡形もないようで、確かめることができませんでした。
ところで、わたしは水源はもうひとつあると思っています。
前述の無線電信所の電気はすべて自家発電であり、大きな発電機があったといいます(関東大震災時もそのおかげで全国に状況を知らせることができたそう・・・デマまでも広げたそうですが)。
その発電機には冷却用に大量の水が必要で、構内に掘った大きな井戸の水を使用していたそうです。
・・・では、その冷却水の、排水は?
この太刀洗川の流れには、大正4年~昭和41年の間だけは、無線電信所の排水も合わさっていたのではないでしょうか。あの丸い台地から、轟轟と・・・。
公園の下、谷底はマンションに覆われます。その敷地の隣に、突然蓋が現れる。
谷戸を横断するように置かれています。怪しい・・・と思って蓋の上をザクザク歩きます。すると、
うわっ 缶の山・・・
うわっ いろんなものが乗っかった暗渠・・・
畑の敷地なので、侵入はココマデ。谷底がまるまる大きな畑になっており、ここがまた実に興味深い。
この畑の中、至るところにじゅくじゅくと浸み出しがあり、排水路が設けられていました。
左岸側の崖からは特に湧くようで、こんな風に池が出来ていました(木の向こう)。
・・・ここ、なんだかちょっと「蛇沼」の風情があるような気がします。
畑の敷地の下には、これまた谷戸を横断する蓋暗渠があり、ここに畑で湧いたものが注ぎこんできます。
その谷戸横断暗渠は、最も右岸側で縦に伸びる暗渠と繋がっており、それは歩道といっしょくたになって、
流れ落ちていきます。太刀洗川らしいものがやっと目に見えてきました。
左岸から短い支流が一本合流。
そして暫く道路に飲まれ、暗渠蓋はなくなります。
再び現れるのは、
ここ。
旧地名山野と海神の間を流れる、いわば村境の川です。
暗渠らしくなったとたんにボサボサしてきました。
カマキリの卵、ここで久々に見ました。
西海神小学校脇で蓋が再出現しますが、
すぐに折れ、
またボサボサしまくります。
ちなみにこの位置でわたくし、切り株を猿と間違えてたいそうビビっていました。我ながら意味が解りません。
リヤカーと梅と暗渠。
柵の向こうに置かれたビニール・ボール。
写真右、壁の色の違うところで京成線を横切ります。
その先は住宅の合間を縫って、
(この脇に太郎次郎の池跡というのがあるらしいのを見落としましたくぅぅ。)
また道に隠れます。
この川は、葛飾の農家の重要な用水のひとつであったというので、何流かに分かれて田圃を流れていたかもしれません。
千葉街道脇でこのようにくねり、横断します。
ちなみに背後には柵で覆われ鍵のついた妙な井戸がありました。
名残の橋があります。
おそらく、かつての太刀洗川は今示したような流れだったと思われますが、下水道的にはここが分岐点です。
あの「円」の一端から始まる太刀洗幹線は、この位置で西船橋五号幹線(汚水)と、太刀洗放流幹線(雨水放流)とに分かれます。後者が、これから歩く暗渠の下を走ることとなります。
今度は道の真ん中にシフト。
JRに突き当たりますが、
このように横断し、
まだまだ続きます。
ちなみにそこにあるマンホール、本海川同様船橋オリジナルです。
海水取水口。
消防に関連するマンホールなのでした。
船橋市のサイトを見ると、本海川=圧送管利用方式なのに対し、太刀洗川下流部は雨水放流幹線で、”水門開閉により海水を逆流させ、消火活動に利用する”という方法なのだそうです。(教えてくださったマンホールのFさんとNさん、どうもありがとうございました。)
ほら、そこにもありますね。
前述のような利用法なので、水門と水門の間のうち上流側にマンホールが布置されるというわけ。
そろそろ最下流。大ぶりの暗渠になって海の方に下っていきます。端っこがHの字みたいになってます。
ちなみにこの辺には似たような暗渠が沢山ありました。もはやここら辺の暗渠は海水の入り混じる一続きのものであり、どこからが太刀洗川とは言えないのかもしれないな・・・などと思いつつ、
これも正しい流末かどうかは不確定ですが、ひとまず、京葉道路に突き当たって終わります。
付近にはかつて、造船所や船溜まりがあり、多くの船が停泊していたといいます。なかには、東京のゴミや人糞を載せた船(田畑の肥料となる)なども来ていたそうです。
今回の行程(暗渠部分)。
軍施設、そして小ぶりの川が田畑を潤す風景に思いをはせながらのさんぽでした。
この日から暫くの間、街角で石柱をみるたび、「ハッ・・・海軍!?」と思う癖が抜けなくなりましたとさ。
<参考文献>
かつしか歴史と民話の会実行委員会「葛飾の郷」
滝口昭二「行田無線史」第2号、第14号
千葉県歴史教育者協議会編「千葉県の戦争遺跡を歩く 戦跡ガイド&マップ」
成瀬恒吉「葛飾誌」
船橋市「船橋のあゆみ」
船橋市下水道部「ふなばしの下水道概要」
「船橋市史」
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