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藍染川根津神社支流(仮)と「あの砲台」

谷田川・藍染川もようやく下流までやってきました。

今回の舞台は、つつじで有名な根津神社。
根津神社で湧いた水も、藍染川に流れ込んでいたといわれます。

たいそう立派な神社ですが、ここに建立されたのは宝永3(1706)年。その前は湿地で凹凸が激しい土地。沼を埋め、材木を組むところから始める大工事であったそうです。

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根津神社の斜面はかなり急峻で、どこでも水が湧きそうです。一応流れはあるとされ、この乙女稲荷付近で湧いた水が、

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北西の池にまず集められ、

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そして側溝をつたって隣の池へ流れ込み、

(それにしても、マリモのように群生するつつじのかわいらしいこと。戦時中はこのつつじ山に防空壕があったのだそうです。)

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続いて橋を渡って、この南東の池へ流れ込む、とされます。
そしてこの写真左方向に流れていってから、直角に曲がり、藍染川方向に落ちてゆく。・・・大正期、それから昭和初期の地図にはそのような流路が描かれていました。

勿論湧水点は複数あり、それぞれの池に直接注ぎ込むものも多かったようです。昭和30年頃までは湧水で池の水をまかなえていたけれど、現在は減少、水を循環させています。

根津、といえば、根津遊廓。
根津神社の周辺にひろがる根津遊廓もまた(吉原等と同様という意味でもまた)、湿地に造られました。前述の神社造営のさい(急ピッチの大工事だったので人員も多)、大工、左官、鳶などの方々のための居酒屋が出来、そこに女性を入れたことが始まりです。何度も取締りを受けたものの、新吉原に次ぐほどの発展ぶりであったそうです。
そして紆余曲折・・・根津神社の神主らが嘆願し、明治2年に遊廓の許可が下ります。根津交差点のところに藍染橋が架かり、渡れば惣門、今の不忍通りの両側に遊女屋が並んでいました。桜が植えられ、ぼんぼりが灯され。当時の写真を見ると、意外にもどこぞのリゾートかと思うような洋風建築もぽつりぽつり。今の根津交差点~根津神社にはそんな世界が広がっていました。

しかし東京大学の3学部が本郷に移ると、根津遊廓に入り浸り学業を投げ出す学生がでてきた・・・ということで、キャンパスを移すか遊廓をつぶすか、とまでに問題視され、結果、遊廓が追い出されます。すごい話です。囚人を使い2年もかけて海を埋め立て、造成された土地が洲崎。明治21年6月30日、その洲崎に向かって遊廓関係者は一斉に引っ越していきました。たくさんの馬車が、たくさんの土煙をあげて。その後の洲崎については、以前の記事のとおりです。
しかし昭和の初め頃まで、根津に私娼は残っていたといわれます、路地の奥や、おせんべい屋さんの2階・・・(という、噂)。

このように根津神社と根津遊廓の縁はとても深く、前述の乙女稲荷には遊女の悲話も伝わるそうです。
また根津神社の池水の出口とされる位置、すなわち根津神社のすぐ隣には、当時根津一番といわれた妓楼、大八幡楼がありました。坪内逍遥と、芸妓であった夫人センの出会った場所でもあります。明治期に撮られた大八幡楼の写真を見ると、旅館と見紛うような大きな池のある庭園がそこにあります。
この池は、根津神社の湧水を取り入れたもの。そう考えるととてもしっくりし、そのさき、まっすぐ藍染川に落とされてゆくのも効率的です。江戸名所図会「根津権現」においても、3つめの池の先が、この位置に流れ込んでくるように見えます(方角に自信が無いのだけど)

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つまり、このような流れです。

大八幡楼跡は、遊廓引越し後はそのまま温泉旅館(紫明館)となったそうです。その後増改築をして真泉病院(婦人科を含む)となり、つぎにたばこ工場(女工さんが働く)となり、日本医科大の看護師の寮となり・・・と、女性がらみの歴史が続いているそうで。

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さて、今は?・・・日本医科大学の敷地ではありますが、基礎医学の大学院棟となっています。なんだか、遊廓の名残が一気に薄くなったような気がしてしまい・・・。

ちなみに、根津神社の境内にはわずかに軍事ものがあります。

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水飲み場に見えて、これ砲台。

日露戦争の戦利品として、軍医の森鴎外が砲弾(台座付)を奉納しました。台座がその後の戦災でも焼け残り、そしていま、水飲み場として再利用されているのです。水飲み場にする必要性がいまいちわからず、それが味わいとなっている逸品。

さてさて。さきほどの流路で確定か、としばらく思っていたところに、突如違う情報が入ってきたのでした。

話は、本駒込方向に飛びます。向丘の、海蔵寺へ。

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海蔵寺には富士塚のようなものがあります。

身禄行者、というのは、富士信仰の中興の祖として知られる、庶民の苦しみを救おうと、富士山で断食入定した人であるそうです。ここはその墓と言われ、富士山をかたどった溶岩の山上に(富士塚の上に)墓碑があるかたちになっています。

富士塚と思って見に行くとちょっと違う印象ですが、ある意味では、富士塚中の富士塚なのかもしれません。

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あら、中野からわざわざ?

これらは海蔵寺の表側の話で、目的地は裏側。「裏庭に湧水の跡がある」といわれます。

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その場所にたどり着くことはできませんが、たぶん、この内側。相当量の湧水があったのではないか、と推測されています。

この位置を起点として、

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このような、わずかな谷戸が広がっているのでした(googleさんありがとうございます)。

ここを、歩いて行ってみましょう。

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凹み方がほんとうに微々たるものでわかりにくいですが、T字路のところが少しだけ低いです。そこから手前と奥へと、じわぁんと高くなっていくような感じ。

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すぐに郁文館という学校の敷地に入ります。
谷戸がまるまる入っていく感じです。学校の敷地、これもありがちですね。

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この谷戸で唯一といってよい、違和感のはっきりと出る場所。段差(護岸だったらいいんだけどな)。
左手前が郁文館の校舎です。

残念ながら川跡は道としては残っておらず、前掲の陰影図の谷部分がごっそり建物になっている、という感じ。周り込みながら谷を下ります。

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お、暗渠猫。

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と思ったら騙されました。

夏目漱石の家の跡のようです。

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谷は大通りの少しだけ手前で左折します。
たぶん、ここが曲る場所。右手の建物の下が少しだけ高くなっています。

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その曲った先は日本医科大学の校舎でした。ふたたび、谷にすっぽりと大きな建物が建つかたちです。

ちょうど工事中で、今なら地下まで見えちゃいます。

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日本医科大の下は、ちょうど根津神社の裏門になっているのでした。裏門を出たところには、かつて浜田湯という銭湯があり、男湯に大きなプールがあったそうです。

・・・さあ、ここで、さきほどまでの話と繋がります。
地図によっては、根津神社の池水が3つめの池までいったのち、踵を返してこの通りまで一直線にやってくる場合があります。それは江戸期、1696年のものを1843年に再版した絵図なんですが。大八幡楼が出来る前は、そう流していたのでしょうか?しかし名所図会と矛盾するかもしれず、謎。

ともあれ、この根津裏門坂をまっすぐにその水路は下ってゆき、藍染川に注ぎます。

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延長上にあったマンホールが、たまたま工事中であいてました。

・・・しかし一方で、海蔵寺からの流れは、明治期の地図では根津裏門坂には沿っておらず、坂よりも少しだけ北側に描かれています。といっても江戸期の絵図と単純に比べることも出来ず・・・。さてこの海蔵寺からの流れは、根津神社の流れを合わせたのでしょうか、それとも否か。

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謎が残ります。とくに判然としない部分を緑色で描きました。

ちなみに、明治期の海蔵寺からの流れの下流部分にほぼ沿う位置に、kekkojinさんのお店「結構人ミルクホール」があります。

Kekkojin

フォークが汚れているのは、撮るのを忘れて食べそうになったからであります。左端にフォークを突き立てた跡が・・・いえこのお店は至れり尽くせりというか、珈琲はすごく丁度良い温度で出てくるし、ガトーショコラもチーズケーキも丁寧に美味なのです。ちなみにデウスエクスマキな食堂と本ブログは、とてもツボが近いと思っています。あちらが麺類・戦跡・建物寄りで、こちらが暗渠寄りというくらいの違いで。藍染川さんぽの際には、ひそかに何度も立ち寄らせていただきました。ごちそうさまでした。

・・・話は、これだけでは終わりません。
根津神社支流にはもうひとつの可能性があります。

水源は、今度は東大構内。
原さんの研究によれば、弥生キャンパスの野球場東端部には江戸時代、池があったというのです。しかも、池のある場所は「谷」地形だったといいます。

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根津神社から野球場を見上げてみれば。
江戸期の地形の名残が薄く、写真奥に谷があったようなのですが、眺めてみても歩いてみてもよくわかりません。でもその谷戸は、絵図上のかたち、そして等高線ともにこちらを向いているように見えます。

もし、この新坂のところまでその池の水が流れてきていたとすると、

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流路には、染物店。
そしてこの向かい側あたりで根津神社の湧水と合流してくれれば、

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銭湯跡(3年ほど前までこの駐車場の位置に山の湯がありました。良い風情だったけれど残念ながら廃業。因みにこの位置には前述の根津遊郭時代は山茶屋があったそうです。)とコインランドリー、

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クリーニング店の前をつぎつぎ通り、川跡としてとても合点がいくのです。

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だとすると、こんな感じ。

・・・三つ巴。どれも根拠があるので、選べなくなってしまいました・・・。いったい根津神社の湧水は、いかなる場所を通って藍染川に注いでいたのか。

付近は水の湧きやすい土地。ところどころでモクモクと水が湧いていたといいますから、きっといま紹介した3つの水路は、それぞれ実際に在ったとはいえるでしょう。根津神社の湧水がどの時期、どの水路に注いでいたか、は特定できないとしても。

わたしのこんな苦悩などおかまいなしに、藍染川はきっとなみなみ流れていくでしょう。ときには溢れてしまうほど、豊かな水を湛えていた藍染川。根津あたりの橋の名前は、本当に風流でした。見返橋に手取り橋、花見橋、紅葉橋、雪見橋、曙橋に黄昏橋・・・。

                        ***

さて、ゴハン。
根津近辺には、趣があり美味な「麺」やさんが充実しています。うどんの釜竹根の津、蕎麦の夢境庵鷹匠、・・・

本日は、鷹匠で一杯。

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はんぺんそば。

はんぺんの存在感の、すごいこと。
三つ葉と紅葉の、うつくしいこと。

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カエルグッズがそこここに隠れている店でもあります。店員にカエラーが居ると思います。

Chojiya

そして、お隣が丁子屋。
目の前を流れていた藍染川で染物をしていたということで有名なこのお店、今は藍染ではなく染め直しと洗い張りをしているとのこと。明治のままの店構えも、店内もすてきでした。が、とうとう、改築されてしまいます。三土さんの情報によれば、2月18日(昨日だ・・・)から解体が始まるとのこと。

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根津には古いものが残されていると思いきや、確実に少しずつ失われています。上海楼をはじめとするいくつかの妓楼跡も、近年取り壊されてしまい、見ることはかないません。洲崎同様、色町の香りが消し去られた街になってきています。
しかし、この根津神社支流(仮)を追いかけてみたときの、わたしのこの心の惑わされようといったら!根津神社支流(仮)、まるで根津に最後に遺された、手練手管の遊女のようではありませんか。

ふわふわと惑わされながらうっとりとした心持ちで、谷田川・藍染川編はひとまず一区切りとしたいと思います。

シリーズ一覧
谷田川巣鴨支流(仮)と「あの橋」
谷田川暗渠の裏表と古河庭園支流(仮)
谷田川木戸孝允邸支流(仮)と「あの欄干」
谷田川与楽寺支流(仮)と「あのラーメン」
藍染川蛍沢支流(仮)と「あの大使館」
藍染川桜酒マラソン
もうひとつの藍染川の、ものがたり

(古石神井谷的に姉妹暗渠↓)
三四郎池支流(仮)の流れる先は
サッカー通りはスリバチ通り?

動坂あたりの田圃と畑の関係のこと、金魚問屋バンズイのその後、どこにも触れられていない千駄木の大池のこと・・・もう少し掘り下げて書きたいものたちも幾つかありますが、それはまた、いつか、ね。

<参考文献>
石田良介「谷根千百景」
上村敏彦「花街・色街・艶な街 色街編」
川副秀樹「東京消えた山発掘散歩」
JCIIフォトサロン「古写真に見る明治の東京-牛込区・小石川区・本郷区編-」
清水龍光「水」
原祐一「教育学部総合研究棟地点・インテリジェント・モデリング・ラボラトリー地点の成果 第一節 『向陵彌生町舊水戸邸繪面図』の解読と描かれた施設の検討」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書10
文京ふるさと歴史館「江戸・明治の風景と人びと」
森まゆみ「不思議の町 根津」
「谷中・根津・千駄木 其の六十六」
「谷根千同窓会」

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コメント

前回、今回と興奮して拝読しています。

水の流れるコース?ルート?に関するnamaさんの追い方が素晴らしくて。
年末に文京ふるさと館の近代医学関連の特別展に行った際に求めた冊子に根津の温泉旅館~「都下の仙境 神泉亭」の資料がいくつか載っていて気になっていた矢先でした。

郁文館そばの段差道もとても懐かしいです。抜け道や細道も昔はあった記憶もあります~

団子坂上の通りから見た時に南側が(日本医大方面)浅く凹んでいるな~と思っていたのですが、お寺からの谷戸だったのですね。全然知りませんでした。namaさんの記事で教えて頂いた事を意識しながら、この界隈にすぐにでも飛んで行きたい衝動に駆られました。ありがとうございます。

投稿: 谷戸ラブ | 2013年2月20日 (水) 08時51分

根津神社の池と身禄行者の塚がつながるだなんて。目からウロコでした。なかなかコメント書けずにいますが、最近の記事は検証、構成、文体、そして読後感、どれをとってもレベルが高く、読んでいて楽しいです。

投稿: HONDA | 2013年2月20日 (水) 22時21分

>谷戸ラブさん

ありがとうございます!医学の展示、スルーしてしまったんですが、なにやら素敵な冊子のような・・・。たしかに紫明館は神泉楼とも言われていたようで、神泉亭もきっとここのことを指しているのでしょうね。
あの段差道、地元の方でもなかなか通らないような位置にありましたが、さすが探索されてますねー!w日本医大方面のあの微凹みを感知されているのも、さすがすぎますww 自分はこの谷戸をつきとめるまで、資料がありながらもずいぶん時間がかかってしまいました。海蔵寺の裏に湧水跡、というのは実はHONDAさんに教えて頂いた「水」という本に記載されてます。しかし最初単純に「東向きの谷戸で、今はもう無い(か、著者の勘違い)」と理解してしまっていて・・・陰影図の見落としに気づいたときには「はうあ!!」ってなりましたw是非また探索されてみてください。そして何か新情報を見つけられたら是非教えてください!w

>HONDAさん

谷戸ラブさんへの返信に書いたように、あの本のおかげなのです。教えて頂きありがとうございました。
いやいやいやいや、数年分の活力源になりそうなお褒めの言葉、ありがとうございました。(お忙しそうですが、ご自愛くださいね。こちらもちょっと余裕が無くて、他の方のブログを読んだりコメント書いたりできてないです。。)しかし藍染川シリーズで構成に凝ることができたのは、藍染川(谷田川)自身の魅力(解消し難い謎も含め)に拠るところが大きいと思っています。藍染川ファンが多いのも納得、という感じで。HONDAさんたちにはまだまだ及びませんが、精進していきたいと思いまーす!

投稿: nama | 2013年2月22日 (金) 09時41分

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