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2013年2月

あの娘が走った桃園川

今回は、ちょっと趣が異なります。

先日、庵魚堂さんからいただいた「動く桃園川が見られる」という情報(庵魚堂さんありがとうございました)。
それまで全然知らなかった「妹」という名の映画でしたが、即ポチしてしまいました。さっそく見てみると、かなり興奮の映像で・・・ストーリーというより、そこにある風景に、むかしの街並みに大興奮。今回の記事では、そこに出てきた桃園川まわりの風景を主に伝えていきたいと思います(日活のHDリマスター版より画像を拝借)。

いざゆかん、1974年の桃園川へ!

それは、映画のかなり最初の方に登場します。

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林隆三の運転する車が、ある朝、この通りをぐんぐん走ります。

・・・どこだか、わかります?

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それは、ここです。
高円寺南にある、エトアール通り。

いま西友がある場所にかつてあった映画館の名を冠した、エトアール通り。
桃園川が開渠だったとき、氾濫すると水がここまでやってきた、エトアール通り。

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お気づきでしょうか、とんかつ「田むら」は、その頃からあるのです。
偶然にも、以前エトアール・ヨコギール支流のときにご紹介したのが田むらでした(絶賛している記事がコチラw)。

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このエトアール通りを、林隆三は荷台に秋吉久美子を乗せながら走ります。秋吉久美子って、物心ついたときにはバラエティとかに出ている「なんか気の強そうな女性」という認識しかなかったのですが、若い頃はなんだかコニタンみたい(外見が)にカワイイ!!(コニタンはわたしにとってものすごい褒め言葉です。)

ここで見えている「田中カメラ」に、新聞屋さん(毎日新聞販売所)。1988年発行のゼンリン住宅地図には載っているんですが、今はありません。

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エトアール通りのお店はずいぶん、入れ替わるか住宅になっているか、という感じで・・・。何度も映像を止めては凝視してみたのですが、どうも現存しているお店はほとんど無いみたいでした。
ただ、見上げれば看板建築だけは残っています。

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早稲田からやって来た林隆三の車は、たぶんこの、桃園川極狭支流(仮)も通過しているはずです。
映像上はよくわからないけれど。

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秋吉久美子は、エトアール通り上に居た犬に声をかけます。こんなふうに谷間をチラチラ見せながら。そしてここで車は左折・・・

この交差点、ちょっと地面がもっこりしていますよね。ってことは、

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ここってことです。
写真右方向から桃園川支流が合流してくるので、その橋跡が地面にいまも残る交差点。

向こうがわに随分お店が見えましたが、いまは殆どありません。逆に右手前は当時「車庫」だったのが、現在レストランになっています。

支流に沿って左折した林隆三。その後どうするのかというと、

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なんと桃園川緑道沿いに車を止め、天保新堀用水のほうへ歩いていきます。

実は、エトアール通りが出てきた時点でわたくし、アイドルが登場したときに絶叫するファンのようなテンションになってしまい、ここらへんはもうキャー!キャー!!ギャー!!!ってなってます(当然対象は風景ね、片手には地図)。

このビババウスというアパート、前掲のゼンリン地図には載っていました。が、今は一軒家&マンションになっていました。家は新しめだったので、もしかすると数年前までビバハウスはあったかも、しれない。。。

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ビバハウスそのものはなかったけれど、周辺には映画と似たような構造のアパート群を見ることができます。

そしてしばらくこのへんをウロウロした林隆三は、

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不機嫌そうに、天保新堀用水を歩いて帰ってくるのです・・・・!

うおぉぉぉぉおおお!!!

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現在の風景。

いろいろ、違う。
でも、いろいろ、一緒です。

さて・・・後出ししようと思ってもったいぶってきましたが、桃園川そのものの画像もいきましょう。

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カラフルな欄干(というより車止めかな)の残る橋跡。

り、リヤカー・・・。鉄塔の形ぃぃ・・・

最初画像をチラ見したときには、こんなにカラフルな桃園川は中野区に違いない、と思っていたんですが、

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実は、ここでした。

高円寺南3丁目。東橋。奥に、天保新堀用水の暗渠が見える場所。

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上流方向を見てみると、こんな感じ。桃園川は車道よりも少し下がってます。

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今は、段差はありません。
だいぶ様子が違うのは、後に杉並区がここを緑道として整備したことによります。前掲のゼンリン地図ではここはまだ「公園」扱いでした(整備後に「桃園川緑道」表記になります)。
桃園川が暗渠化されるまさにそのとき、近辺では子どもの遊び場不足が叫ばれていて、この「暗渠上の公園」の登場はかなり歓迎されました。遊び場のことは過去にも書いてきましたが、また別記事で改めて触れたいと思います。
なるほど子どもらしい色彩の空間(次の画像は更にそんな感じ)。いまは、色合いからしても、大人たちの散歩の場所になっているというわけです。

さて、ここに車を止めた彼ら。
橋上でひと悶着あってから、

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子どもたちが遊ぶなか、秋吉久美子が、走る、走る、走る!
林隆三、追いかける、追いかける!
子どもたち、ポカーン。

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秋吉久美子、遊具に隠れる!
林隆三、手を伸ばして捕まえるゥゥ・・・秋吉、噛みつく!林、負けずに秋吉を引きずり出すゥ・・・

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の、舞台だった場所がここです。

なんとまあ静かな。橋の袂のマンションだけが一緒です。

左手に材木店ぽいものが見えていたと思いますが、

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そこは現在も材木店であり(正しくは当時は「(有)野中材木店」、現在は「(株)ノナックス」)、 材木は内側に置いてありました。

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桃園川ラストショットはこれです。
この女性が立っている位置が、

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だいたいココです。

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・・・ええ、残っているんですよ、この欄干のようなものが。

それってスゴイことだと思うんです。杉並区部の桃園川本流は、とても落ち着いたトーンに統一するかたちで整備されたはずです。以前のカラフルな遊具が残るのは中野区のみ(支流も入れれば天保新堀用水にもありますが。それらも現在減少中)だし、こんなものが杉並区側に残っていることは、珍しいんじゃないでしょうか。

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それを証拠に、お向かいはこのように撤去されています。
水色のペンキ痕だけをわずかに残して。

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比較してみると、半分に切られて残された、という状態です。
・・・ここが映画のロケ地であったから、という理由で残されているのでしょうか?地元の方が懐かしんで、踏ん張ったんでしょうか。はたまた、区の善意でしょうか。・・・それとも、単に撤去忘れなのか。

いずれにせよ、良いものを見させていただきました。おそらく蓋がけ後の最初の姿である桃園川。子どもたちが遊具で遊ぶ風景。そして、その名残にまでつながるというお土産付き。

           

                        ***

エトアール通りに戻り、折角なので「妹」に映っていたお店でゴハンにしよう、と思いました。ところが、冒頭の画像にあるように、田むらのあたりからしか映っていないのです。そして、目視できるお店で、今残っているものがないのです・・・。
田むらの隣に信濃という蕎麦屋がありそこそこ古いのですが、ここも映画のときには違う店名でした。

仕方がないので、エトアール通り上に当時も「あったであろう」店に行くことに。となると、田むらよりも東側にあるお店も候補になるので、あまから亭、いろは寿司、富士川食堂なんかも射程内に入ってきます。

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選んだのは、天ぷら天米でした。創業50年強らしいので、確実にその頃からあったお店です。店内、入ってみるとたしかにそういう雰囲気。
天丼中心のメニューは二千円前後と思いきや、お得な丼がいくつかあって、

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これは海老天、魚天、ホタテ天、ししとう天が入って800円。ホタテとかぷりっぷりで美味しかったです。コスパ良い!タレがちょっと辛めの濃い目で、ビールも欲しくなりましたよ・・・満足満足。同じ日、北口にある「天すけ」は長蛇の列だったのにここはガラガラで、もっと応援したくなりました。米粒と一緒にむかしの風景をかみしめるのにも、良いお店だと思います。

映像には出てこなかったけれど、秋吉久美子を乗せた車は、きっとこの店の前も通ったでしょう・・・。

映画に出てくる桃園川暗渠。そんなの、見たことが無い。と思っていましたが、流域は杉並中野、支流も含めれば結構な広さ。もしかすると、何処かでひっそり、映っていることもあるのかもしれませんね。

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藍染川根津神社支流(仮)と「あの砲台」

谷田川・藍染川もようやく下流までやってきました。

今回の舞台は、つつじで有名な根津神社。
根津神社で湧いた水も、藍染川に流れ込んでいたといわれます。

たいそう立派な神社ですが、ここに建立されたのは宝永3(1706)年。その前は湿地で凹凸が激しい土地。沼を埋め、材木を組むところから始める大工事であったそうです。

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根津神社の斜面はかなり急峻で、どこでも水が湧きそうです。一応流れはあるとされ、この乙女稲荷付近で湧いた水が、

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北西の池にまず集められ、

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そして側溝をつたって隣の池へ流れ込み、

(それにしても、マリモのように群生するつつじのかわいらしいこと。戦時中はこのつつじ山に防空壕があったのだそうです。)

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続いて橋を渡って、この南東の池へ流れ込む、とされます。
そしてこの写真左方向に流れていってから、直角に曲がり、藍染川方向に落ちてゆく。・・・大正期、それから昭和初期の地図にはそのような流路が描かれていました。

勿論湧水点は複数あり、それぞれの池に直接注ぎ込むものも多かったようです。昭和30年頃までは湧水で池の水をまかなえていたけれど、現在は減少、水を循環させています。

根津、といえば、根津遊廓。
根津神社の周辺にひろがる根津遊廓もまた(吉原等と同様という意味でもまた)、湿地に造られました。前述の神社造営のさい(急ピッチの大工事だったので人員も多)、大工、左官、鳶などの方々のための居酒屋が出来、そこに女性を入れたことが始まりです。何度も取締りを受けたものの、新吉原に次ぐほどの発展ぶりであったそうです。
そして紆余曲折・・・根津神社の神主らが嘆願し、明治2年に遊廓の許可が下ります。根津交差点のところに藍染橋が架かり、渡れば惣門、今の不忍通りの両側に遊女屋が並んでいました。桜が植えられ、ぼんぼりが灯され。当時の写真を見ると、意外にもどこぞのリゾートかと思うような洋風建築もぽつりぽつり。今の根津交差点~根津神社にはそんな世界が広がっていました。

しかし東京大学の3学部が本郷に移ると、根津遊廓に入り浸り学業を投げ出す学生がでてきた・・・ということで、キャンパスを移すか遊廓をつぶすか、とまでに問題視され、結果、遊廓が追い出されます。すごい話です。囚人を使い2年もかけて海を埋め立て、造成された土地が洲崎。明治21年6月30日、その洲崎に向かって遊廓関係者は一斉に引っ越していきました。たくさんの馬車が、たくさんの土煙をあげて。その後の洲崎については、以前の記事のとおりです。
しかし昭和の初め頃まで、根津に私娼は残っていたといわれます、路地の奥や、おせんべい屋さんの2階・・・(という、噂)。

このように根津神社と根津遊廓の縁はとても深く、前述の乙女稲荷には遊女の悲話も伝わるそうです。
また根津神社の池水の出口とされる位置、すなわち根津神社のすぐ隣には、当時根津一番といわれた妓楼、大八幡楼がありました。坪内逍遥と、芸妓であった夫人センの出会った場所でもあります。明治期に撮られた大八幡楼の写真を見ると、旅館と見紛うような大きな池のある庭園がそこにあります。
この池は、根津神社の湧水を取り入れたもの。そう考えるととてもしっくりし、そのさき、まっすぐ藍染川に落とされてゆくのも効率的です。江戸名所図会「根津権現」においても、3つめの池の先が、この位置に流れ込んでくるように見えます(方角に自信が無いのだけど)

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つまり、このような流れです。

大八幡楼跡は、遊廓引越し後はそのまま温泉旅館(紫明館)となったそうです。その後増改築をして真泉病院(婦人科を含む)となり、つぎにたばこ工場(女工さんが働く)となり、日本医科大の看護師の寮となり・・・と、女性がらみの歴史が続いているそうで。

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さて、今は?・・・日本医科大学の敷地ではありますが、基礎医学の大学院棟となっています。なんだか、遊廓の名残が一気に薄くなったような気がしてしまい・・・。

ちなみに、根津神社の境内にはわずかに軍事ものがあります。

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水飲み場に見えて、これ砲台。

日露戦争の戦利品として、軍医の森鴎外が砲弾(台座付)を奉納しました。台座がその後の戦災でも焼け残り、そしていま、水飲み場として再利用されているのです。水飲み場にする必要性がいまいちわからず、それが味わいとなっている逸品。

さてさて。さきほどの流路で確定か、としばらく思っていたところに、突如違う情報が入ってきたのでした。

話は、本駒込方向に飛びます。向丘の、海蔵寺へ。

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海蔵寺には富士塚のようなものがあります。

身禄行者、というのは、富士信仰の中興の祖として知られる、庶民の苦しみを救おうと、富士山で断食入定した人であるそうです。ここはその墓と言われ、富士山をかたどった溶岩の山上に(富士塚の上に)墓碑があるかたちになっています。

富士塚と思って見に行くとちょっと違う印象ですが、ある意味では、富士塚中の富士塚なのかもしれません。

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あら、中野からわざわざ?

これらは海蔵寺の表側の話で、目的地は裏側。「裏庭に湧水の跡がある」といわれます。

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その場所にたどり着くことはできませんが、たぶん、この内側。相当量の湧水があったのではないか、と推測されています。

この位置を起点として、

Kaizoji

このような、わずかな谷戸が広がっているのでした(googleさんありがとうございます)。

ここを、歩いて行ってみましょう。

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凹み方がほんとうに微々たるものでわかりにくいですが、T字路のところが少しだけ低いです。そこから手前と奥へと、じわぁんと高くなっていくような感じ。

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すぐに郁文館という学校の敷地に入ります。
谷戸がまるまる入っていく感じです。学校の敷地、これもありがちですね。

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この谷戸で唯一といってよい、違和感のはっきりと出る場所。段差(護岸だったらいいんだけどな)。
左手前が郁文館の校舎です。

残念ながら川跡は道としては残っておらず、前掲の陰影図の谷部分がごっそり建物になっている、という感じ。周り込みながら谷を下ります。

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お、暗渠猫。

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と思ったら騙されました。

夏目漱石の家の跡のようです。

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谷は大通りの少しだけ手前で左折します。
たぶん、ここが曲る場所。右手の建物の下が少しだけ高くなっています。

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その曲った先は日本医科大学の校舎でした。ふたたび、谷にすっぽりと大きな建物が建つかたちです。

ちょうど工事中で、今なら地下まで見えちゃいます。

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日本医科大の下は、ちょうど根津神社の裏門になっているのでした。裏門を出たところには、かつて浜田湯という銭湯があり、男湯に大きなプールがあったそうです。

・・・さあ、ここで、さきほどまでの話と繋がります。
地図によっては、根津神社の池水が3つめの池までいったのち、踵を返してこの通りまで一直線にやってくる場合があります。それは江戸期、1696年のものを1843年に再版した絵図なんですが。大八幡楼が出来る前は、そう流していたのでしょうか?しかし名所図会と矛盾するかもしれず、謎。

ともあれ、この根津裏門坂をまっすぐにその水路は下ってゆき、藍染川に注ぎます。

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延長上にあったマンホールが、たまたま工事中であいてました。

・・・しかし一方で、海蔵寺からの流れは、明治期の地図では根津裏門坂には沿っておらず、坂よりも少しだけ北側に描かれています。といっても江戸期の絵図と単純に比べることも出来ず・・・。さてこの海蔵寺からの流れは、根津神社の流れを合わせたのでしょうか、それとも否か。

Kaizomap

謎が残ります。とくに判然としない部分を緑色で描きました。

ちなみに、明治期の海蔵寺からの流れの下流部分にほぼ沿う位置に、kekkojinさんのお店「結構人ミルクホール」があります。

Kekkojin

フォークが汚れているのは、撮るのを忘れて食べそうになったからであります。左端にフォークを突き立てた跡が・・・いえこのお店は至れり尽くせりというか、珈琲はすごく丁度良い温度で出てくるし、ガトーショコラもチーズケーキも丁寧に美味なのです。ちなみにデウスエクスマキな食堂と本ブログは、とてもツボが近いと思っています。あちらが麺類・戦跡・建物寄りで、こちらが暗渠寄りというくらいの違いで。藍染川さんぽの際には、ひそかに何度も立ち寄らせていただきました。ごちそうさまでした。

・・・話は、これだけでは終わりません。
根津神社支流にはもうひとつの可能性があります。

水源は、今度は東大構内。
原さんの研究によれば、弥生キャンパスの野球場東端部には江戸時代、池があったというのです。しかも、池のある場所は「谷」地形だったといいます。

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根津神社から野球場を見上げてみれば。
江戸期の地形の名残が薄く、写真奥に谷があったようなのですが、眺めてみても歩いてみてもよくわかりません。でもその谷戸は、絵図上のかたち、そして等高線ともにこちらを向いているように見えます。

もし、この新坂のところまでその池の水が流れてきていたとすると、

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流路には、染物店。
そしてこの向かい側あたりで根津神社の湧水と合流してくれれば、

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銭湯跡(3年ほど前までこの駐車場の位置に山の湯がありました。良い風情だったけれど残念ながら廃業。因みにこの位置には前述の根津遊郭時代は山茶屋があったそうです。)とコインランドリー、

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クリーニング店の前をつぎつぎ通り、川跡としてとても合点がいくのです。

Yakyumap

だとすると、こんな感じ。

・・・三つ巴。どれも根拠があるので、選べなくなってしまいました・・・。いったい根津神社の湧水は、いかなる場所を通って藍染川に注いでいたのか。

付近は水の湧きやすい土地。ところどころでモクモクと水が湧いていたといいますから、きっといま紹介した3つの水路は、それぞれ実際に在ったとはいえるでしょう。根津神社の湧水がどの時期、どの水路に注いでいたか、は特定できないとしても。

わたしのこんな苦悩などおかまいなしに、藍染川はきっとなみなみ流れていくでしょう。ときには溢れてしまうほど、豊かな水を湛えていた藍染川。根津あたりの橋の名前は、本当に風流でした。見返橋に手取り橋、花見橋、紅葉橋、雪見橋、曙橋に黄昏橋・・・。

                        ***

さて、ゴハン。
根津近辺には、趣があり美味な「麺」やさんが充実しています。うどんの釜竹根の津、蕎麦の夢境庵鷹匠、・・・

本日は、鷹匠で一杯。

Takajo

はんぺんそば。

はんぺんの存在感の、すごいこと。
三つ葉と紅葉の、うつくしいこと。

Takajo2

カエルグッズがそこここに隠れている店でもあります。店員にカエラーが居ると思います。

Chojiya

そして、お隣が丁子屋。
目の前を流れていた藍染川で染物をしていたということで有名なこのお店、今は藍染ではなく染め直しと洗い張りをしているとのこと。明治のままの店構えも、店内もすてきでした。が、とうとう、改築されてしまいます。三土さんの情報によれば、2月18日(昨日だ・・・)から解体が始まるとのこと。

                         ***

根津には古いものが残されていると思いきや、確実に少しずつ失われています。上海楼をはじめとするいくつかの妓楼跡も、近年取り壊されてしまい、見ることはかないません。洲崎同様、色町の香りが消し去られた街になってきています。
しかし、この根津神社支流(仮)を追いかけてみたときの、わたしのこの心の惑わされようといったら!根津神社支流(仮)、まるで根津に最後に遺された、手練手管の遊女のようではありませんか。

ふわふわと惑わされながらうっとりとした心持ちで、谷田川・藍染川編はひとまず一区切りとしたいと思います。

シリーズ一覧
谷田川巣鴨支流(仮)と「あの橋」
谷田川暗渠の裏表と古河庭園支流(仮)
谷田川木戸孝允邸支流(仮)と「あの欄干」
谷田川与楽寺支流(仮)と「あのラーメン」
藍染川蛍沢支流(仮)と「あの大使館」
藍染川桜酒マラソン
もうひとつの藍染川の、ものがたり

(古石神井谷的に姉妹暗渠↓)
三四郎池支流(仮)の流れる先は
サッカー通りはスリバチ通り?

動坂あたりの田圃と畑の関係のこと、金魚問屋バンズイのその後、どこにも触れられていない千駄木の大池のこと・・・もう少し掘り下げて書きたいものたちも幾つかありますが、それはまた、いつか、ね。

<参考文献>
石田良介「谷根千百景」
上村敏彦「花街・色街・艶な街 色街編」
川副秀樹「東京消えた山発掘散歩」
JCIIフォトサロン「古写真に見る明治の東京-牛込区・小石川区・本郷区編-」
清水龍光「水」
原祐一「教育学部総合研究棟地点・インテリジェント・モデリング・ラボラトリー地点の成果 第一節 『向陵彌生町舊水戸邸繪面図』の解読と描かれた施設の検討」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書10
文京ふるさと歴史館「江戸・明治の風景と人びと」
森まゆみ「不思議の町 根津」
「谷中・根津・千駄木 其の六十六」
「谷根千同窓会」

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藍染川蛍沢支流(仮)と「あの大使館」

ちょっと間が空いてしまいましたが、谷田川・藍染川の再開でございます。

今回は、藍染川の蛍沢支流(仮)について。
千駄木あたりでは、藍染川はよみせ通りを流れていた、とされますが、その一本裏にも蛍沢という湿地帯があったといわれます。そこからの細流を追っていこうと思うんですが、話はもう少しだけヤヤコシイ。・・・千駄木で降りて、いちど日暮里方面に歩いていきます。

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夕やけだんだんあたり。

猫がうじゃうじゃ居た空き地に建物が建って、猫たちはどこにいったんだろうなと思っていたら、この日は4匹ほど階段脇で寝ていました。もっともっと居た猫たち、自分なりの新たな寝場所を見つけられたのでしょうか?

猫のまちとして紹介されやすいこの場所ですが、この写真の三角地帯にあるのは犬屋さん。むかしの写真では谷中ケンネル、と大きく書かれています。この三角の先っちょまでお店があったら、くもじいに紹介されたかも?w

今回の蛍沢支流(仮)、この階段の下にある谷中銀座のあたりから始まる、という説もあるのですが、どうももっと上流があるように思っています。
それは、以前藍染川桜酒マラソンをしたときに、大佐が教えてくれた道。(荒川区と台東区の)区界であること、道の隣に小さな崖が続くこと、そのまま蛍沢に注ぐこと・・・川跡とみなせる材料は複数あります。しかし、始点が特定できず、根拠となる資料がほぼ無いという弱点もあるので、本には(迷いましたが)流路は載せませんでした。今回は注意深く、その道から歩いていくことにしましょう。

谷中銀座からもっと北へ歩いていきます。

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支流より東側(日暮里側)を歩いていると、突然、こんなのが出てきて「うぉぉ!!!」っとなります。

遡ると、何軒かの玄関にこのタイプの道が枝分かれしており、残念ながら敷石のようでした。

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同じ路地にて。こんなマンホール注意の促し方、初めて見ましたよ。

スリスリ猫もいたし、なかなか楽しい、西日暮里三丁目の路地。

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さてさて、蛍沢支流(仮)の上流にあたると思われる道は、写真奥の方向です。こんなふうに少し段差がついて、少しだけ崖下にあります。

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こんなふうにクネクネもしています。

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・・・こんなふうに、両側よりも凹んでいます。

資料が乏しい、とさきほど書きましたが、実はこのあたりで、”崖から流れ出す清水を使ってビールを作ろうとした”人がいたというのです。
工場まで建てたものの、生産には至らなかったそうですが。この写真からは、少し左側の位置。ビールが作れなかったのは残念ですが、すでにここで、湧水の小川があったかもしれない、と考えることができる話です。

その、ビールを作ろうとした人は近藤利兵衛だといいます。近藤利兵衛とは、神谷バーの神谷傳兵衛と組んで、ハチブドー酒や電気ブランを広めたお人。・・・しかし神谷=製造、近藤=販売、と言われるので、近藤がここでビールを作ろうとしたというのが、本当かどうかまだちょっとモヤモヤ。谷中の工場に関する直接的な資料もまだ見つけられていません。

神谷バーに、電気ブラン。あれは良いものですね。心がちょっとだけ浅草に飛びかけましたが、谷中に戻して戻して。

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さて谷中銀座と交わります。
区界はここから左に折れ、日暮里駅へと向かいますが、暗渠らしき道はこちらへ続きます。

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地域誌谷中・根津・千駄木では、実はこの道の途中くらいから(この写真のまさに目の前あたりから)川跡表記が始まります。宗林寺(後述)の庭先が水源とされるためです。

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少し進んだところ。左手が宗林寺の裏口です。

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宗林寺表門にはこのように「ほたる沢」と書かれた石碑があって、湿地帯であったことを知らせてくれます。

この低湿地で育った蛍は、夏になるとたくさんたくさん夜空を舞ったそうです。これが藍染川の別称、「蛍川」の由来でもあるのでしょう。

蚊が多いので、蚊帳を吊って寝ると、その周りを蛍が飛んだりもしたのだそうです・・・。いまはもう見られない、むかしの夏の風景ですね。

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ただし流路とされるのはコチラの道、裏側であり、こんなふうにカクン!と曲がり、

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クランクに次ぐクランクです。

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このように道としては続くのですが、どうも流れはこの1つ前の写真で道を外れ、おそらくこの少しだけ左手を流れていたようです。

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その先は「初音湯のところを通り」という記述もあるのですが、初音湯は最早在りませんでした。たぶん、このあたりに在ったはず。
近デジで大正初期の地図を見ると、初音湯の位置に「草津温泉」と書いてあっておもしろかったです。

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少し行くと暗渠サインと見紛うような公園があります。防災倉庫(=暗渠サイン度高い)まで好い位置にあるので、最初わたしは1のように流れているのだと思っていました。しかしどうやら蛍沢支流(仮)はもう少し上を流れているようだということがわかり、じゃあ道幅が不自然(=暗渠サイン度高い)なことになっている2が流路だろう、と思い込みました。・・・ところが、古地図を見る限り、流れは3であるようなんです(道ナシ)。

なんとまあ、暗渠者を惑わせる支流なんだろう!

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その後もしばらく家に飲まれて出会えず、やっとここで。
写真手前にまたも不自然な路地があり、そこも怪しいと思っていたのですが、古地図でいえばコチラ側ではなく、矢印のあたりを通るようです。ここでは、防災倉庫=川跡、です。

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でも、倉庫の下流は家の中にまた入るので追いかけられず、

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迂回していると、あらまあソックリ双子ちゃん。

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最後、穴子で有名な乃池寿司店脇の駐車場の裏で、やっと顔を出します。
ここも斜めの区画でじゅうぶん怪しく、

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こんなふうに怪しいまんま、ここでよみせ通り=藍染川本流と合流します。
大島蕎麦店の裏。ここが蛍沢支流(仮)の河口ってことですね。

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昭和22年の航空写真(gooさんありがとうございます)も、見てみましょう。藍染川本流はすでに暗渠化されていますが、この蛍沢支流(仮)をむしろ、目で追うことができます。

この合流点のすぐ下流側にあるのが琵琶橋と、以前ご紹介した砺波。砺波のある角は、以前はスズランというカフェであり玉突き場であったそうです。砺波の前の道は狭く、じゅくじゅくしていてあまり通る気がしなかったとのこと・・・そしてへび道へ・・・。

以上、上流部と下流部はとくに、大佐にいろいろと教えて頂きました。ありがとうございました!

さて、ゴハン。

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乃池の寿司と迷いましたが、ここにしました。
その名も、「大使館」。藍染川マラソンのときも、一同の心をつかんだニクイやつ。

看板には「中華・喫茶」と、「coffee」って書いてあります。「カツライス」が光ります。・・・そもそも大使館ってww

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で、看板を別な角度から見ると「えっ」ってなります。ここは「スナック」でもあるらしい。
しかもコーヒーとか喫茶を謳う割にそういうメニューが書かれてないし・・・「らーめん」のフォントだけなんかすごいし。。まさか本当の中国大使館なのか・・・。

一体ここは、何屋なのか。
そんなふうにグイグイつかまれるわけです。

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昼過ぎの微妙な時間帯、誰もお客さんが入っていなかったけれど、思い切って一人でいってまいりましたよ!

メニュー。中華と懐かし洋食系ラインナップ。わたし(蟹好き)としては、かにピラフ、かにチャーハン、かにサラダ、かにスープ、かに玉・・・とあちこちに蟹が入っているので、思わず頼んでしまったのがかにチャーハン。(注:別に蟹推しの店ではない。)

昼ビーとともにいただきました。みっ・・・ミカンがデザートにつきました(嬉涙)。

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カニは、カニ缶とカニカマのダブル。ダブルできましたよ奥さん。
適度にパラリ、ふんわり、味付けよしの、最後のひと口までおいしいチャーハンでございました。・・・良い店じゃないかー!

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前も言いましたが、どうも谷田川・藍染川沿いでは濃い店に出会います。
ここも、気になってんですよね・・・JRムードの料理店、せとうち。入口に鉄グッズがざくざく置いてあって、すごくアレなので、逆にたいして鉄分の濃くないわたしなんかが入店できるのか・・・と思ってまだ入れていません。

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今回の行程です(yahooさんありがとうございます。上流部分は略。支流は谷中・根津・千駄木を参考にプロット)。実は大使館、蛍沢支流(仮)がすぐ後ろを流れていました。

江戸期の地図には蛍沢支流(仮)は載っていませんが、おそらくこの支流が境界になって田畑と寺社・住宅地とが分かれていました。現在は田畑がなくなってしまったので、水路跡がわかりにくくなってしまった、というわけです。明治、大正の地図を見ると、実はもうちょっと小さな水路が出入りする箇所もあるのですが、今はわかりづらいので省略。
このように、辿れる痕跡がほぼなく、難しい暗渠でした。しかし、そもそもここは湿地帯。もとは地面からジュクジュクと染み出た水が、何流にもなって適当に流れていた場所なのかもしれません。そう考えると、正確な流路を突き止めようとすること自体、無理があるのかもしれません。
だから、なぁんとなく、ここら辺が蛍沢。という言い方でもいいのかもしれません・・・。

藍染川川下り、そろそろ河口です。次回もまた、謎の多い支流に迫ります。

<参考文献>
石田良介「谷根千百景」
江戸東京重ね地図(CD-ROM)
近代デジタルライブラリー東京市及接続郡部地籍地図下卷(web)
「谷中・根津・千駄木 其の三」
「谷中・根津・千駄木 其の四」

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