ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 津田沼編
藍染川記事があと2本残っていますが<略>、ここのところ攻めている千葉方面の暗渠があまりにステキでステキで、我慢できなくなってきたので・・・、1本だけ放出したいと思います。
千葉の海辺に近い暗渠たちは、独特の背景を持つものが少なくありません。そしてその名残を唐突に、思いもよらぬかたちで見せつけられる。そんなダイナミックさがあるようです。また、古地図には常に(ときには空白地帯として)軍施設の見える軍郷でもある・・・。
なぜ千葉を攻めだしたかといえば、先日祖父の自伝を読んでいて、曽祖父が「千葉の鉄道連隊に居た」という話を目にしたためです。中野の鉄道隊の記事を熱心に書いたことが、腑に落ちた瞬間でした。それなら、移転後の千葉も見に行きたい、と思いました。
また、複数の親戚が住んでいることもあって、年に何回か「東京に遊びに行くよ」と連れられてやってきた場所は、大抵千葉だったのでした・・・つまりわたしにとって長いこと、千葉こそが「東京」であり、懐かしい場所がいっぱいあるのです。
***
今回取り上げる場所は、津田沼です。
そんな名前の沼があったのではありません。「津田沼」という地名の登場は、明治22年。5村が合併したさいの、主要3村(谷津、久々田、鷺沼)の合成地名です。
津田沼といえば、鉄道隊。
鉄道兵は、占領地への鉄道敷設(兵や弾薬、食料を前線に送る)のため、各戦場に出動したほか、関東大震災での鉄道復旧にも尽力しています。また、演習を兼ねて敷設された線路が今も使われていたりします(詳しいことは軍や鉄の専門サイトに譲りましょう)。
明治28年、日清戦争における臨時鉄道隊として始まった鉄道隊は、翌年牛込に鉄道大隊として常設され、明治30年に中野に移転、やがて千葉に移りました。津田沼には千葉から第三大隊が転営し、また材料廠もおかれ、鉄道敷設演習の拠点となりました。大正7年、編制替により津田沼は鉄道第二連隊となりました。
なぜ、千葉にやってきたのか・・・当時、軍の経済効果は大きいため、各地で誘致合戦があったといいます。軍施設が既に多くあったことと、東京に近いから、などの理由が推測されています。
曽祖父が居たのは第一連隊(千葉)なのか、第二連隊(津田沼)なのかは不明ですが、ともかく両方行ってみることにしよう。まず、JR津田沼駅前に降り立ちます。
まさにこの南口駅前に鉄道連隊の兵舎がありました。戦後は、第一中学校や仲よし幼稚園などの教育施設となり、その後公園や文化ホールに姿を変え、今に至ります。目の前の建物がある場所がそうです。
千葉工業大学もそう。この門は、鉄道連隊第三大隊(改組後鉄道第二連隊)の兵舎の表門として使用されていたものです。
戦時中の写真を見てみると、門がこのまんま!もちろん、内部はだいぶ違いますが。ついでにいうと、中野の鉄道隊の門(甲武鉄道沿いにあったそう)ともそっくり!
戦後、国鉄が鉄道教習所津田沼分校としてこの場所を使っていました。千葉工業大学はそのとき、新制のための用地を探していたそうで、津田沼町庁舎の候補にも挙がっていたこの土地を素早く取得し、建物を改造して使用しました。借用の校舎で落着けなかった千葉工大のひとたちはようやく得られた広い敷地に大喜びし、学生は炎天下自発的に運動場の草むしりやローラーかけをしていたといいます。
千葉工大は、旧陸軍習志野学校の地も取得しているので、後の記事にも登場することになるでしょう・・・。
こちらは駅の北側。
北側には材料廠がおかれました。古地図の材料廠の中には、引込線がぐ~るぐる見えます。戦後、転車台や車庫があったところ(この写真ではもっと奥の位置)は旧国鉄技術研究所となり、現在はマンションや商業ビルに。倉庫や工場の跡地は千葉工業高校となり、現在はイトーヨーカドー等になっています。
周辺を走る機関車には鐘が取り付けられていて、「カーン、カーン」と鳴る音が家からもよく聞こえ、地元の人は音が聞こえると見に行ったものだそうです。
この辺の公園にK2形機関車があるという記述を見ましたが、省略。
今はそれほど賑わっている印象のない駅前ですが、戦時中は出征や帰還のたびに、送迎の人の波でじつに賑やかであった、といいます。
このように、鉄道連隊があったことで有名な場所ですが、
こんなラーメン屋さんが駅前にww
いや~、狙ってますよね、これは。そりゃ思わず入りますよ。
つけ麺推しのようではありますが、SLラーメンを頼んでみました。
おお、なんか野菜がやたらと入っています、あんかけです。左側の刻み玉ねぎが独特。
猫舌のわたしにとって、あんかけラーメンは冷めにくいので手ごわいんですが、この黄色い中太麺は好みのタイプでございます。なかなか美味しゅうございました。盛りも良く、おなかが満たされました。食べログ見たら、みなさん「タンメン」食べてますね・・・
さて、腹ごなしに、谷に向かって歩き始めましょうか。
鉄道連隊跡地にもっとも近い谷をセレクトしてみました。途中、最近lotus62さんが鉄道島とか鉄道岬とか言っている感じの場所を過ぎます。
この先が下り坂になっています。
もっとも低い地点に到達。奥に車両基地が見えますが、だいぶ高いですね。
その、最も低い位置に何かあるといいなぁ~、と思いながら進んでいくと、
ありました!
まあまあ太めのコンクリ蓋暗渠。護岸のようなものにもコンクリ蓋が使われています。ところどころにトタンの息継ぎ地点みたいなものがありますが、これはなんなのだろう。
もう少し上流がありそうなので、線路の向こう側まで確認しに行ってみます。
というわけで反対側。線路沿いに排水路っぽいべた塗り蓋暗渠があったけどたぶん関係なし。同じく坂を下っていきます。
最も低い地点から続く、こんなふうな怪しい道を通っていくと、
あれあれ、上り坂になってしまう。料金の看板が出てきて、ラブホの玄関に出てしまいました。なんと今来た道はラブホへのアプローチのようです。
引き返して、
一番低いのは多分ココです。
もう、地面の模様が違和感ありまくりw
反対を向いて。地形図的にはたぶん右側の道の少し行ったあたりが上流端です。すぐそこの駐車場っぽいものがすごい気になりますw
でも、こちら側にはたいして水路の痕跡もないので、線路の向こうに戻りましょう。
さきほどの暗渠はこのように下ってきて、
よいしょっと道を渡り、
ここで消滅します。
向こう側には大きな建物が建つようです。水路の延長線上が凹んでいるのが気になります。しかし、何も見えません。
大幅コの字ウォークにて、次に水路と出会えそうな場所へ。ほんとうはこの写真の左側を川が流れていたはずなんですが・・・。ぜんぜん残っちゃいない・・・
駅の南口後方からずっとだだっぴろい空き地が広がるばかり。大規模造成中みたいです。なんというか・・・デカいんですね、千葉って。いろいろ。。
でも、その先、
習志野第一中学校の敷地の真ん中に崖があり、ここでなんとなく水路の続きが感じられます。ほうほう・・・ん? ここで、中学校の片隅に立てられた案内板に目が留まります。
それによれば、このあたりには、大正時代まで「庄司ヶ池」という池があったそうなのです。周辺の雨水などが流れ込んでできた池。この中学校も池の底。
名の由来は諸説あるようで、庄司(荘園管理者)の領地だったとか、近くに庄司上東野和泉守の邸があったからなどと言われます。かつての小字にもなっています。
池の辺りは入会地だったこともあり、長い間本格的な開墾はされず、江戸幕府が大砲の射撃場を置いたこともあるそうです。
案内板にあった明治期の地図。大きな池ですなぁ。なんでも、9万㎡あったといわれます。しかし、この池は1900年代前半に姿を消します。
池は南の高台に遮られていたため、大雨になるとたびたび溢れ、周辺の畑に大きな被害を与えるので付近の農民は非常に困っていたそうです。そのため、大正3年に池水を海に流す排水工事が行われました。
といっても、高台の谷津5丁目辺りは砂質なので掘割式の排水溝をつくることはできず、「鉄筋コンクリート管」を使用・・・当時としては難工事であったはずです。
でもそんな過去を感じにくいほど、造成がお盛んなこの近辺。去年建てられた案内板らしいので、面影がまったく無くなるかわりに・・・?なんて思ったり。習志野市のwebにも消えた池として載っています。
排水の済んだ庄司ヶ池跡は、耕地や津田沼電車区の車庫になった、といわれます。あ、電車区!さっき通りましたが・・・あんなにあっちまで池だったのですね。となると、最初に出会ったコンクリ蓋暗渠も池跡ということ。それから、あれは電車区の排水路も兼ねていたのかもしれません。
うん、とにかく、今回追う暗渠は「庄司ヶ池排水路」という名があるようです。
中学校の前も絶賛造成中でした。
池の周辺3か所に、「上の弁天」「中の弁天」「下の弁天」が祀られていたそうです。中学校の前には、ほんの数年前まで森があり、「中の弁天(与兵衛弁天とも)」がありました。中の弁天の所有主が、かつて弁天様を家の中に移転したら、「元の場所に戻りたい」と夢に出てきたというエピソードがあります。・・・いま、戻すべき場所はこんなことになっていますが、弁天様は大丈夫なのでしょうか。
上の弁天は所有者が自宅に移転し、下の弁天は今もあるらしいのですが、この日は見つけられず。
不思議なのがこの中学校、崖上がグラウンド、崖下が校舎なんですよねぇ。逆なんじゃないのか・・・?
また、中学校の表庭には庄司ヶ池排水路のマンホールがあるらしいですが、見られませんでした。
中学校の建物を眺めつつ、低い部分を追ってくると、だいたいこのあたりに水路は抜けるはず。
で、続きがありました!こんどは畑の中に。ようやっと、水路らしいかたちで。
喜んで畑の間を走っていきます。
ゆる~んと曲る、人工排水路。
畑の間の道と思いきや、マンホールもついてる。
畑の一部みたいに見えるときもあるけど、
突然囲われ出す。
もう少し下流側。もっと囲われてる。
で、ここでこう止まる(今立っているところが最下流部)。
・・・止まるんです、唐突に。暗渠はここで途切れ、追えなくなります。
左手に庄司ヶ池公園、という公園があります。隣に団地。
前述の”池は南の高台に遮られていた”の、高台が堤みたいに立ちはだかるのです、たしかに。
赤い点線が堤状になっています。
これはすごい一級スリバチですね。
多くの文献では天然の溜池(一級スリバチ)のような描かれ方をしている庄司ヶ池ですが、縄文海進時の想定海岸線の図を見ると、「庄司ヶ池谷」として海まで途切れず谷が続いているのです。・・・するとこの堤は、人工のもの?でも、もしそうなのだとしたら、何のために(溜池をつくるため?でも、排水路を残さないなんてことがある)?しかし、自然にこんな地形ができるとも思えない・・・。地形図を見ても、谷はずいぶん不自然な途切れ方をしています。
・・・謎の残る話です。
庄司ヶ池排水路暗渠が消えた先、こういう高台の住宅街となります。
明治初期、長雨のために庄司ヶ池の水が溢れ、なんとこの高台を乗り越えて海岸まで流れ出たことがあったそうです。その時にすっかり削られてしまった場所があり、そこを”流れっち”と呼んだそうなのですが、現在はどこも同じような地形、同じような住宅地で、どこが流れっちなのかわかりませんでした。地元の方も、どれだけ知っていることか・・・
ともかく、高台すぎて、さきほどの水路はどうみても遥か地下。うろうろしても痕跡も何もなく・・・まあ、仕方がないか。
次の目的地として考えていたのは谷津遊園跡地で、ちょうどこの場所からまっすぐ海に向かった位置なので、気持ちを谷津遊園に切り替えることにしました。
谷津遊園。
明治~大正にかけては、塩田とスッポンの養殖池のみが広がる海岸の地。それらが大正6年の大津波で流されてしまい、その跡地を京成電気軌道が買収。大正14年にできたのが谷津遊園です(戦時中は遊の字を取って谷津園)。遊具、植物園、ラジウム温泉、馬場、海水プール、坂東妻三郎プロダクション関東撮影所、潮干狩り、バラ園、モノレール、・・・一時期あった「谷津球場」は読売巨人軍の発祥の地でもあると言われます。
全盛期は、戦前と昭和30~40年代前半。埋立により海岸ではなくなった昭和50年代より集客数は減少し、それでも黒字経営ではあったものの、京成がディズニーランドをつくることになったため、昭和57年に閉園となりました。
跡地は、住宅地と公園になっています。
・・・谷津遊園、と聞くと懐かしいと感じる人はどのくらいいらっしゃるのでしょう。わたしは、とても懐かしく感じる一人です。冒頭の「東京に遊びに行くよ」の中には、ごく幼い頃、谷津遊園も入っていたものですから。
記憶の中ではディズニーランドと同時に在るのですが、どうやら丁度この2つの遊園地が入れ替わるとき、わたしは両方で遊んでいたようです。といっても谷津遊園の鮮明な記憶は、遊覧ヘリコプター、のみ。バラバラバラバラ・・・という轟音におびえ、初めて乗ったヘリコプター。海が見えたなあ。
折角なので、後日帰省した際に、谷津遊園の写真があれば追記しようと思います。
<後日追記>
実家のアルバムに数枚、谷津遊園の写真を見つけました。
これが全景。
ヘリコプターに乗っているとき、父が撮ったようです。
記憶の中では祖母とヘリコプターに乗ったような気がしていたけれど、写真に残っていたものは、父と一緒でした。ヘリコプターに乗っているときのわたしの顔は、ちょっと緊張しているように見えるけど、ものすごいビビりなのに泣いてはいないから、きっと楽しんでいたんだろうと思います。
園内にいた、放し飼いのクジャク。
オリから逃げたのだと思って、オリに帰さなくちゃ!と追いかけていたそうです。幼いころのわたし。
池に浮かぶ、電動のゴムボートのようなものもありました。
アルバムに書かれた母のコメントには、「谷津遊園はあと数か月の命だそうです」とありました。ということは、昭和57年の写真なのだろうと思います。おばといとこも写っているけれど、いとこはまだ小さかったから、谷津遊園の記憶さえ無いのかもしれない。
そしてたしかに、昭和58年からはディズニーランドに行くようになります。
どうして谷津遊園に行かなくなって、ディズニーランドに来るようになったのか、、なんて、知らないんだろうな、この頃のわたし。
谷津遊園のとなりに、昭和45年に出来たといわれる谷津遊園ハイツ。
健在でした。
現役時代を見ていないと思うので、そういう懐かしさはないのだけど、谷津遊園という名前を見るだけで、ちょっと胸熱。
海に向かって歩きます。付近にはいろんな団地が建っていて、ここは千葉大学の宿舎のようです。
・・・って、ふと右側に違和感が・・・
え。
なんと、暗渠が!
突然出現したコンクリ蓋暗渠が、まっすぐに伸びていました。
直感的に、「これは、庄司ヶ池排水路の流末だ!」と、思いました。
下水道の資料には、ここは谷津放流幹線と記されています。上流方向は谷津幹線で、前述の排水路よりやや北を通っているように見えます。が、どこかで、あの排水路と合流しているのではないか・・・流域が異なるとは思えないし、真っ直ぐ真っ直ぐこっちに来たんだもの。なので、現時点ではここは庄司ヶ池排水路の続き、ということにしておきたいと思います。
もう出会えないとあきらめていた、排水路の続き。この下を通ってきてたんだねぇ。
排水路は団地の横を抜け、
ここで終わります。
流れる先は、谷津干潟でした(もちろん今は下水など流さず、大雨時のみ機能する下水管でしょう)。
今は冬。冬の干潟は、夜散歩がおススメなんだそうです。干潟の潮は、冬は夜によく引くので、鳥たちが賑やかに餌をついばみに来るのだそうです。
谷津遊園の跡地には、谷津バラ園だけが残っています。
あんなに賑わっていた谷津遊園が、いまはこれだけ。従業員の多くは、ディズニーランドに移籍した、といいます。公園で、子どもたちがぱらぱらと遊んでいました。夜は、鳥たちで賑やかなのかもしれないけれど。
冬の夕方は冷えるのも早い。そろそろ、帰りましょう。
駅に向かう道、模様が軌道の跡っぽい・・・?1927年からわずか7年だけ、谷津遊園に向かうためだけの、わずか1.2㎞の京成「谷津支線」があったそうです。そんなことも考えながら、谷津駅を過ぎ、京成津田沼駅まで歩きます。
京成津田沼駅から新津田沼駅までの、新京成線のS字のカーブを味わうために・・・。この曲線は、軍の演習線の再利用とされますが、この線形は何度もいろんな事情で変更されてきたみたいです。
また、戦後、線路を利用する際に京成のほか西武も名乗りをあげ、なんとか京成が勝ち取ったという状況があるようです。西武はこの線路を諦める代わりに、軍から資材が貰えることとなりました。それが、あの安比奈線を機関車や貨車として走っていたという・・・!ここで安比奈線とつながるなんて・・・!
不必要にカーブが連続し、きゅきゅきゅきゅきゅ・・・と擦れる音ばかり鳴らす新京成線に揺られ。その無駄が多い感じ、軍からの歴史、西武とのつながり・・・などなど、味わい深い乗りものです。
そして京成線と別れ、居眠りをしまくりながら、杉並に帰ってまいりました。
ちなみに、冒頭で触れた鉄道連隊跡地である千葉工大の学食がこれ。工大ランチB。飯が・・・多いです・・・。唐揚げ(カリッとしておいしい)が3つ、シューマイ(思ったより大きいしおいしい)2つ。食べきれるか心配になったのでゴマ塩をかけましたが、9割以上男子学生という中、上昇気流に乗って無事完食。で、これで300円なんです!すごいな。
なんと別キャンパスでは、同じ日に300円で「トルコライス」を提供していました。なんという素晴らしい学食なんだ・・・!!他のメニューもなかなかすてき。近くにあればいいのに。
それにしても、なんだか、津田沼に来るたびにお腹いっぱいになっている気がしますw
さて、さて。長くなってしまいましたが、今回の行程です(yahooさんありがとうございます)。庄司ヶ池の天然or人工説、排水路地下部分の正確な位置、など、謎の残る旅ではありますが。
それにしても、庄司ヶ池排水路の流末部分、昭和50年代は開渠だったでしょうか、暗渠だったでしょうか。わたしはあの、すぐそばで遊んでいたんだよなあ。個人的には、思いがけないところで自分とつながる、遠い津田沼での旅でした。
千葉の暗渠たち、しばらくしたらまた、書いていきたいと思います。
<参考文献>
秋山好古と習志野刊行会「秋山好古と習志野」
イカロスMOOK「実録鉄道連隊」
「千葉工業大学50年史」
習志野市企画調整室広報課「わたしたちの郷土習志野」
習志野市教育委員会「新版 習志野-その今と昔」
「習志野市史 別編 民俗」
「ならしの風土記」
船橋市「船橋のあゆみ」
船橋市下水道部「ふなばしの下水道概要」
三田歴史研究会「語り継ぐふる里」
洋泉社MOOK「僕たちの大好きな遊園地」
「谷津干潟だより 12・1月」
「谷津わくわく散歩」
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