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2013年1月

ダイナミック・チバの暗渠と軍跡 津田沼編

藍染川記事があと2本残っていますが<略>、ここのところ攻めている千葉方面の暗渠があまりにステキでステキで、我慢できなくなってきたので・・・、1本だけ放出したいと思います。

千葉の海辺に近い暗渠たちは、独特の背景を持つものが少なくありません。そしてその名残を唐突に、思いもよらぬかたちで見せつけられる。そんなダイナミックさがあるようです。また、古地図には常に(ときには空白地帯として)軍施設の見える軍郷でもある・・・。

なぜ千葉を攻めだしたかといえば、先日祖父の自伝を読んでいて、曽祖父が「千葉の鉄道連隊に居た」という話を目にしたためです。中野の鉄道隊の記事を熱心に書いたことが、腑に落ちた瞬間でした。それなら、移転後の千葉も見に行きたい、と思いました。
また、複数の親戚が住んでいることもあって、年に何回か「東京に遊びに行くよ」と連れられてやってきた場所は、大抵千葉だったのでした・・・つまりわたしにとって長いこと、千葉こそが「東京」であり、懐かしい場所がいっぱいあるのです。

                       

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今回取り上げる場所は、津田沼です。
そんな名前の沼があったのではありません。「津田沼」という地名の登場は、明治22年。5村が合併したさいの、主要3村(谷津、久々田、鷺沼)の合成地名です。

津田沼といえば、鉄道隊。
鉄道兵は、占領地への鉄道敷設(兵や弾薬、食料を前線に送る)のため、各戦場に出動したほか、関東大震災での鉄道復旧にも尽力しています。また、演習を兼ねて敷設された線路が今も使われていたりします(詳しいことは軍や鉄の専門サイトに譲りましょう)。

明治28年、日清戦争における臨時鉄道隊として始まった鉄道隊は、翌年牛込に鉄道大隊として常設され、明治30年に中野に移転、やがて千葉に移りました。津田沼には千葉から第三大隊が転営し、また材料廠もおかれ、鉄道敷設演習の拠点となりました。大正7年、編制替により津田沼は鉄道第二連隊となりました。

なぜ、千葉にやってきたのか・・・当時、軍の経済効果は大きいため、各地で誘致合戦があったといいます。軍施設が既に多くあったことと、東京に近いから、などの理由が推測されています。

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曽祖父が居たのは第一連隊(千葉)なのか、第二連隊(津田沼)なのかは不明ですが、ともかく両方行ってみることにしよう。まず、JR津田沼駅前に降り立ちます。

まさにこの南口駅前に鉄道連隊の兵舎がありました。戦後は、第一中学校や仲よし幼稚園などの教育施設となり、その後公園や文化ホールに姿を変え、今に至ります。目の前の建物がある場所がそうです。

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千葉工業大学もそう。この門は、鉄道連隊第三大隊(改組後鉄道第二連隊)の兵舎の表門として使用されていたものです。
戦時中の写真を見てみると、門がこのまんま!もちろん、内部はだいぶ違いますが。ついでにいうと、中野の鉄道隊の門(甲武鉄道沿いにあったそう)ともそっくり!

戦後、国鉄が鉄道教習所津田沼分校としてこの場所を使っていました。千葉工業大学はそのとき、新制のための用地を探していたそうで、津田沼町庁舎の候補にも挙がっていたこの土地を素早く取得し、建物を改造して使用しました。借用の校舎で落着けなかった千葉工大のひとたちはようやく得られた広い敷地に大喜びし、学生は炎天下自発的に運動場の草むしりやローラーかけをしていたといいます。
千葉工大は、旧陸軍習志野学校の地も取得しているので、後の記事にも登場することになるでしょう・・・。

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こちらは駅の北側。
北側には材料廠がおかれました。古地図の材料廠の中には、引込線がぐ~るぐる見えます。戦後、転車台や車庫があったところ(この写真ではもっと奥の位置)は旧国鉄技術研究所となり、現在はマンションや商業ビルに。倉庫や工場の跡地は千葉工業高校となり、現在はイトーヨーカドー等になっています。

周辺を走る機関車には鐘が取り付けられていて、「カーン、カーン」と鳴る音が家からもよく聞こえ、地元の人は音が聞こえると見に行ったものだそうです。
この辺の公園にK2形機関車があるという記述を見ましたが、省略。

今はそれほど賑わっている印象のない駅前ですが、戦時中は出征や帰還のたびに、送迎の人の波でじつに賑やかであった、といいます。

このように、鉄道連隊があったことで有名な場所ですが、

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こんなラーメン屋さんが駅前にww

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いや~、狙ってますよね、これは。そりゃ思わず入りますよ。
つけ麺推しのようではありますが、SLラーメンを頼んでみました。

おお、なんか野菜がやたらと入っています、あんかけです。左側の刻み玉ねぎが独特。

Sl3

猫舌のわたしにとって、あんかけラーメンは冷めにくいので手ごわいんですが、この黄色い中太麺は好みのタイプでございます。なかなか美味しゅうございました。盛りも良く、おなかが満たされました。食べログ見たら、みなさん「タンメン」食べてますね・・・

さて、腹ごなしに、谷に向かって歩き始めましょうか。

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鉄道連隊跡地にもっとも近い谷をセレクトしてみました。途中、最近lotus62さんが鉄道島とか鉄道岬とか言っている感じの場所を過ぎます。

この先が下り坂になっています。

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もっとも低い地点に到達。奥に車両基地が見えますが、だいぶ高いですね。

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その、最も低い位置に何かあるといいなぁ~、と思いながら進んでいくと、

ありました!
まあまあ太めのコンクリ蓋暗渠。護岸のようなものにもコンクリ蓋が使われています。ところどころにトタンの息継ぎ地点みたいなものがありますが、これはなんなのだろう。

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もう少し上流がありそうなので、線路の向こう側まで確認しに行ってみます。

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というわけで反対側。線路沿いに排水路っぽいべた塗り蓋暗渠があったけどたぶん関係なし。同じく坂を下っていきます。

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最も低い地点から続く、こんなふうな怪しい道を通っていくと、

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あれあれ、上り坂になってしまう。料金の看板が出てきて、ラブホの玄関に出てしまいました。なんと今来た道はラブホへのアプローチのようです。

引き返して、

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一番低いのは多分ココです。
もう、地面の模様が違和感ありまくりw

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反対を向いて。地形図的にはたぶん右側の道の少し行ったあたりが上流端です。すぐそこの駐車場っぽいものがすごい気になりますw

でも、こちら側にはたいして水路の痕跡もないので、線路の向こうに戻りましょう。

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さきほどの暗渠はこのように下ってきて、

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よいしょっと道を渡り、

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ここで消滅します。

向こう側には大きな建物が建つようです。水路の延長線上が凹んでいるのが気になります。しかし、何も見えません。

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大幅コの字ウォークにて、次に水路と出会えそうな場所へ。ほんとうはこの写真の左側を川が流れていたはずなんですが・・・。ぜんぜん残っちゃいない・・・
駅の南口後方からずっとだだっぴろい空き地が広がるばかり。大規模造成中みたいです。なんというか・・・デカいんですね、千葉って。いろいろ。。

でも、その先、

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習志野第一中学校の敷地の真ん中に崖があり、ここでなんとなく水路の続きが感じられます。ほうほう・・・ん? ここで、中学校の片隅に立てられた案内板に目が留まります。

それによれば、このあたりには、大正時代まで「庄司ヶ池」という池があったそうなのです。周辺の雨水などが流れ込んでできた池。この中学校も池の底。

名の由来は諸説あるようで、庄司(荘園管理者)の領地だったとか、近くに庄司上東野和泉守の邸があったからなどと言われます。かつての小字にもなっています。
池の辺りは入会地だったこともあり、長い間本格的な開墾はされず、江戸幕府が大砲の射撃場を置いたこともあるそうです。

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案内板にあった明治期の地図。大きな池ですなぁ。なんでも、9万㎡あったといわれます。しかし、この池は1900年代前半に姿を消します。

池は南の高台に遮られていたため、大雨になるとたびたび溢れ、周辺の畑に大きな被害を与えるので付近の農民は非常に困っていたそうです。そのため、大正3年に池水を海に流す排水工事が行われました。
といっても、高台の谷津5丁目辺りは砂質なので掘割式の排水溝をつくることはできず、「鉄筋コンクリート管」を使用・・・当時としては難工事であったはずです。

でもそんな過去を感じにくいほど、造成がお盛んなこの近辺。去年建てられた案内板らしいので、面影がまったく無くなるかわりに・・・?なんて思ったり。習志野市のwebにも消えた池として載っています。

排水の済んだ庄司ヶ池跡は、耕地や津田沼電車区の車庫になった、といわれます。あ、電車区!さっき通りましたが・・・あんなにあっちまで池だったのですね。となると、最初に出会ったコンクリ蓋暗渠も池跡ということ。それから、あれは電車区の排水路も兼ねていたのかもしれません。
うん、とにかく、今回追う暗渠は「庄司ヶ池排水路」という名があるようです。

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中学校の前も絶賛造成中でした。

池の周辺3か所に、「上の弁天」「中の弁天」「下の弁天」が祀られていたそうです。中学校の前には、ほんの数年前まで森があり、「中の弁天(与兵衛弁天とも)」がありました。中の弁天の所有主が、かつて弁天様を家の中に移転したら、「元の場所に戻りたい」と夢に出てきたというエピソードがあります。・・・いま、戻すべき場所はこんなことになっていますが、弁天様は大丈夫なのでしょうか。

上の弁天は所有者が自宅に移転し、下の弁天は今もあるらしいのですが、この日は見つけられず。

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不思議なのがこの中学校、崖上がグラウンド、崖下が校舎なんですよねぇ。逆なんじゃないのか・・・?
また、中学校の表庭には庄司ヶ池排水路のマンホールがあるらしいですが、見られませんでした。

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中学校の建物を眺めつつ、低い部分を追ってくると、だいたいこのあたりに水路は抜けるはず。

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で、続きがありました!こんどは畑の中に。ようやっと、水路らしいかたちで。
喜んで畑の間を走っていきます。

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ゆる~んと曲る、人工排水路。

畑の間の道と思いきや、マンホールもついてる。

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畑の一部みたいに見えるときもあるけど、

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突然囲われ出す。

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もう少し下流側。もっと囲われてる。

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で、ここでこう止まる(今立っているところが最下流部)。

・・・止まるんです、唐突に。暗渠はここで途切れ、追えなくなります。

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左手に庄司ヶ池公園、という公園があります。隣に団地。

前述の”池は南の高台に遮られていた”の、高台が堤みたいに立ちはだかるのです、たしかに。

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赤い点線が堤状になっています。
これはすごい一級スリバチですね。

多くの文献では天然の溜池(一級スリバチ)のような描かれ方をしている庄司ヶ池ですが、縄文海進時の想定海岸線の図を見ると、「庄司ヶ池谷」として海まで途切れず谷が続いているのです。・・・するとこの堤は、人工のもの?でも、もしそうなのだとしたら、何のために(溜池をつくるため?でも、排水路を残さないなんてことがある)?しかし、自然にこんな地形ができるとも思えない・・・。地形図を見ても、谷はずいぶん不自然な途切れ方をしています。

・・・謎の残る話です。

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庄司ヶ池排水路暗渠が消えた先、こういう高台の住宅街となります。

明治初期、長雨のために庄司ヶ池の水が溢れ、なんとこの高台を乗り越えて海岸まで流れ出たことがあったそうです。その時にすっかり削られてしまった場所があり、そこを”流れっち”と呼んだそうなのですが、現在はどこも同じような地形、同じような住宅地で、どこが流れっちなのかわかりませんでした。地元の方も、どれだけ知っていることか・・・

ともかく、高台すぎて、さきほどの水路はどうみても遥か地下。うろうろしても痕跡も何もなく・・・まあ、仕方がないか。

次の目的地として考えていたのは谷津遊園跡地で、ちょうどこの場所からまっすぐ海に向かった位置なので、気持ちを谷津遊園に切り替えることにしました。

谷津遊園。
明治~大正にかけては、塩田とスッポンの養殖池のみが広がる海岸の地。それらが大正6年の大津波で流されてしまい、その跡地を京成電気軌道が買収。大正14年にできたのが谷津遊園です
(戦時中は遊の字を取って谷津園)。遊具、植物園、ラジウム温泉、馬場、海水プール、坂東妻三郎プロダクション関東撮影所、潮干狩り、バラ園、モノレール、・・・一時期あった「谷津球場」は読売巨人軍の発祥の地でもあると言われます。
全盛期は、戦前と昭和30~40年代前半。埋立により海岸ではなくなった昭和50年代より集客数は減少し、それでも黒字経営ではあったものの、京成がディズニーランドをつくることになったため、昭和57年に閉園となりました。

跡地は、住宅地と公園になっています。

・・・谷津遊園、と聞くと懐かしいと感じる人はどのくらいいらっしゃるのでしょう。わたしは、とても懐かしく感じる一人です。冒頭の「東京に遊びに行くよ」の中には、ごく幼い頃、谷津遊園も入っていたものですから。
記憶の中ではディズニーランドと同時に在るのですが、どうやら丁度この2つの遊園地が入れ替わるとき、わたしは両方で遊んでいたようです。といっても谷津遊園の鮮明な記憶は、遊覧ヘリコプター、のみ。バラバラバラバラ・・・という轟音におびえ、初めて乗ったヘリコプター。海が見えたなあ。

折角なので、後日帰省した際に、谷津遊園の写真があれば追記しようと思います。

<後日追記>
実家のアルバムに数枚、谷津遊園の写真を見つけました。

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これが全景。
ヘリコプターに乗っているとき、父が撮ったようです。

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記憶の中では祖母とヘリコプターに乗ったような気がしていたけれど、写真に残っていたものは、父と一緒でした。ヘリコプターに乗っているときのわたしの顔は、ちょっと緊張しているように見えるけど、ものすごいビビりなのに泣いてはいないから、きっと楽しんでいたんだろうと思います。

S57yatu3

園内にいた、放し飼いのクジャク。
オリから逃げたのだと思って、オリに帰さなくちゃ!と追いかけていたそうです。幼いころのわたし。

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池に浮かぶ、電動のゴムボートのようなものもありました。

アルバムに書かれた母のコメントには、「谷津遊園はあと数か月の命だそうです」とありました。ということは、昭和57年の写真なのだろうと思います。おばといとこも写っているけれど、いとこはまだ小さかったから、谷津遊園の記憶さえ無いのかもしれない。

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そしてたしかに、昭和58年からはディズニーランドに行くようになります。
どうして谷津遊園に行かなくなって、ディズニーランドに来るようになったのか、、なんて、知らないんだろうな、この頃のわたし。

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谷津遊園のとなりに、昭和45年に出来たといわれる谷津遊園ハイツ。
健在でした。
現役時代を見ていないと思うので、そういう懐かしさはないのだけど、谷津遊園という名前を見るだけで、ちょっと胸熱。

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海に向かって歩きます。付近にはいろんな団地が建っていて、ここは千葉大学の宿舎のようです。
・・・って、ふと右側に違和感が・・・

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え。

なんと、暗渠が!

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突然出現したコンクリ蓋暗渠が、まっすぐに伸びていました。

直感的に、「これは、庄司ヶ池排水路の流末だ!」と、思いました。
下水道の資料には、ここは谷津放流幹線と記されています。上流方向は谷津幹線で、前述の排水路よりやや北を通っているように見えます。が、どこかで、あの排水路と合流しているのではないか・・・流域が異なるとは思えないし、真っ直ぐ真っ直ぐこっちに来たんだもの。なので、現時点ではここは庄司ヶ池排水路の続き、ということにしておきたいと思います。

Shoji42

もう出会えないとあきらめていた、排水路の続き。この下を通ってきてたんだねぇ。

排水路は団地の横を抜け、

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ここで終わります。

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流れる先は、谷津干潟でした(もちろん今は下水など流さず、大雨時のみ機能する下水管でしょう)。

今は冬。冬の干潟は、夜散歩がおススメなんだそうです。干潟の潮は、冬は夜によく引くので、鳥たちが賑やかに餌をついばみに来るのだそうです。

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谷津遊園の跡地には、谷津バラ園だけが残っています。
あんなに賑わっていた谷津遊園が、いまはこれだけ。従業員の多くは、ディズニーランドに移籍した、といいます。公園で、子どもたちがぱらぱらと遊んでいました。夜は、鳥たちで賑やかなのかもしれないけれど。

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冬の夕方は冷えるのも早い。そろそろ、帰りましょう。
駅に向かう道、模様が軌道の跡っぽい・・・?1927年からわずか7年だけ、谷津遊園に向かうためだけの、わずか1.2㎞の京成「谷津支線」があったそうです。そんなことも考えながら、谷津駅を過ぎ、京成津田沼駅まで歩きます。

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京成津田沼駅から新津田沼駅までの、新京成線のS字のカーブを味わうために・・・。この曲線は、軍の演習線の再利用とされますが、この線形は何度もいろんな事情で変更されてきたみたいです。
また、戦後、線路を利用する際に京成のほか西武も名乗りをあげ、なんとか京成が勝ち取ったという状況があるようです。西武はこの線路を諦める代わりに、軍から資材が貰えることとなりました。それが、あの安比奈線を機関車や貨車として走っていたという・・・!ここで安比奈線とつながるなんて・・・!

不必要にカーブが連続し、きゅきゅきゅきゅきゅ・・・と擦れる音ばかり鳴らす新京成線に揺られ。その無駄が多い感じ、軍からの歴史、西武とのつながり・・・などなど、味わい深い乗りものです。

そして京成線と別れ、居眠りをしまくりながら、杉並に帰ってまいりました。

Tibakou

ちなみに、冒頭で触れた鉄道連隊跡地である千葉工大の学食がこれ。工大ランチB。飯が・・・多いです・・・。唐揚げ(カリッとしておいしい)が3つ、シューマイ(思ったより大きいしおいしい)2つ。食べきれるか心配になったのでゴマ塩をかけましたが、9割以上男子学生という中、上昇気流に乗って無事完食。で、これで300円なんです!すごいな。
なんと別キャンパスでは、同じ日に300円で「トルコライス」を提供していました。なんという素晴らしい学食なんだ・・・!!他のメニューもなかなかすてき。近くにあればいいのに。

それにしても、なんだか、津田沼に来るたびにお腹いっぱいになっている気がしますw

Shojimap

さて、さて。長くなってしまいましたが、今回の行程です(yahooさんありがとうございます)。庄司ヶ池の天然or人工説、排水路地下部分の正確な位置、など、謎の残る旅ではありますが。

それにしても、庄司ヶ池排水路の流末部分、昭和50年代は開渠だったでしょうか、暗渠だったでしょうか。わたしはあの、すぐそばで遊んでいたんだよなあ。個人的には、思いがけないところで自分とつながる、遠い津田沼での旅でした。
千葉の暗渠たち、しばらくしたらまた、書いていきたいと思います。

<参考文献>
秋山好古と習志野刊行会「秋山好古と習志野」
イカロスMOOK「実録鉄道連隊」
「千葉工業大学50年史」
習志野市企画調整室広報課「わたしたちの郷土習志野」
習志野市教育委員会「新版 習志野-その今と昔」
「習志野市史 別編 民俗」
「ならしの風土記」
船橋市「船橋のあゆみ」
船橋市下水道部「ふなばしの下水道概要」
三田歴史研究会「語り継ぐふる里」
洋泉社MOOK「僕たちの大好きな遊園地」
「谷津干潟だより 12・1月」
「谷津わくわく散歩」

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桃園川支流を歩く その46 馬橋弁天池からの流れ

藍染川記事があと2本残っていますが、現地検証が不足しているため一旦桃園川に戻ります。

・・・「桃園川支流を歩く」を久しぶりに書けることに、我ながら興奮気味だったりします。今回は、丸の内線新高円寺駅周辺の人くらいしか喜ばないような、つまりJR高円寺駅周辺の人でさえ、ポカンとするような支流のこと。

正確にいえば、桃園川の孫支流かもしれません。
桃園川の最大支流、天保新堀用水に注ぎこむようなカタチの流れだからです。

そして、とても短い!始めに断っときますが、今回、すっごい短いです。

                         ***

ある日、別な目的で住宅街を歩いていたところ、犬を散歩するおばさんが向こうに見えました。するとまもなく、犬が用を足し始めました。
・・・なんてことのない、光景。
わたしはボウッとしながら、「犬はさぁ~、トイレトイレ!とか慌てることがないんだろうな~。いいよなぁ・・・。」などと思い、何気なくその方向を見ていました・・・

・・・ら?
ん、なんかあの場所、変だ。

犬とおばさんに既にロックオンしてしまったので、尿を見に行く不審者だと思われないように、一度通り過ぎてそのブロックを一周してから、その場所を覗いてみました。

Mbenten1

なんと。

開渠!  ・・・これは、快挙!!

桃園川流域、とくにここらへんでは、開渠はとても珍しいのです。

Mbenten3

この奥(始点は民家の中なので見えない)からきて、

Mbenten4

ここを通り(右側の家の塀の曲り方、すごく不自然ですよね)、

Mbenten5

このマンホールの辺りで天保新堀用水に合流するようです。

Mbenten6

この写真の奥の地点がさきほどの合流点。

で、今立っている斜め後ろくらいに、弁天湯があるというわけ。

たったこれだけなんだけれど。現地で発見したときは、とても嬉しかったです。で、嬉しかったけれど、ただの側溝の名残かもしれない、とも思っていました。

家に帰り、ゼンリン住宅地図を見ながら地番を確認。
そこで、背筋がぶるっとします。この地番は、かつて弁天池があった、と言われる場所でした(過去記事)。

馬橋弁天池、もしくは、南弁天池(ここでは地名を取って、馬橋弁天池を採用)。
高円寺南3-12-5(or6)あたりに、かつて10坪ほどの池があったそうです。
池の西岸には檜の大木があり、その下から冷たい水がこんこんと湧き出、枯れることがなかったそうです。池の水は、雨乞いにも使われたといいます。
戦後、池は埋められ、弁財天の石碑は馬橋稲荷神社の水神社社前に遷されました。

 

付近には池らしい地形が見つけられないでいたので、今は何の名残もないものだと思っていました・・・。

けれど、これが多分そう。

Mbenten3

この開渠は、馬橋弁天池の排水路、あるいは、馬橋弁天池そのものの名残かもしれません。池自体が無くなっても、水が湧く場所なのでこの開渠が残ったのかもしれません。

Mbenten2

たしかに、よく見れば背後にはこのように緩やかに崖があります。

冒頭で天保新堀用水の支流、という表現をしましたが、この流れは天保新堀用水が掘削される以前から存在した、自然河川”弁天川”(※1)の支流であると言った方が良いかもしれません。また、この弁天川の流域に他に弁天を名乗る池は無いことを考えると(※2)、もしかすると、この池が弁天川の名の由来かもしれません。

※1 名称は要検証。当ブログでは石橋湧水路、石橋流水路とも書いてきました。
※2 始点を成宗弁天池と考えている文献も有るため、これも断言できない。要検証。

Mbentenmap_2

今回みたものは、こんな風に流れていたと思われます(gooさんありがとうございます)。

・・・関連する情報を、もうひとつ。それはこの場所から2ブロックほど隣のお話し。

Mturi3

近年建ったマンションの前に、謎の噴水?があります。K師匠いわく、これが馬橋弁天池をイメージしたモニュメントなんだそうです(と、師匠は地元の方から聞いたらしい)。

Mturi4

たしかに、玄関でもないこの場所に在ることがなんだか不思議だし、なぜか、だいぶ後方から水を循環させています。誰にも見えないようなあの位置から始める必要性はなんなのか・・・なんだか、思わせぶりですw

Mturi1

そのマンションのお向かいにあるのが、高円寺保健センター(旧・東保健所)。
ここもまた、天保新堀用水(このへんでは2~3流に分かれていた)の流路沿いであり、

Higasihoken

昭和38年の航空写真をみてみると(gooさんありがとうございます)、ちょうどこの保健センターの脇にハシゴ式開渠のようなものがあります(kazuyank(なかざわ)さま、教えてくださりありがとうございました)。

このハシゴ式開渠らしきもの、眺め続けていると「もしかしたら植え込みなのかも・・・」と自信が無くなってくるのですが、大丈夫。天保新堀用水の傍流は、東保健所(現・保健センター)の裏を通っていた、と記している文献がちゃあんとありました。

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その、ハシゴ式で水路が通っていた場所は、いまはこんな感じです。
この土地の余り方、自転車置き場・・・。暗渠サインですねぇ。

そしてこの水路、さきほどの馬橋弁天池から、ちょうど水が下ってきた位置にあるのでした。

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つまり、こんなふうに推測することも出来るのです。天保新堀用水の傍流は、「馬橋弁天池に接し」て流れていたともいわれます。馬橋弁天池から下流は、緑点線のように流れていた時期があるのでしょう。上流部分は、住宅地の中でいまひとつわかりません。

前掲の地図とは違う方向です。傍流が先に埋め立てられたため、水路が付け替えられたのかもしれません。

それから、それから。
この高円寺保健センターの付近には、かつて釣堀があったそうなんです。
水路の氾濫時には、コイやフナが流れ出た、という・・・。場所は特定できていませんが、実はここらへん、池だらけ・・・!用水路も何本もあるし・・・水だらけの土地だったのですね。

さて、ゴハン。

Nanatu1

近くにお気に入りの喫茶店があります。
たぶん、有名店。七つ森。宮沢賢治好きのわたしの心を鷲掴みにして離さない喫茶店。

雰囲気も独特で大好きですが、お料理もまた独特。これは、オムライス。なんですが、どう嗅いでもキンピラの匂いしかしませんw 

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食後にはいちごのババロアとアイスコーヒー。
「ババロア」って最近あんまり見ない気がします。

菓子は定番のほか日替わりのものがあるのですが、この日は無かったけれど「抹茶ババロア」はいかにもババロア!という形と、お皿ででてきて非常に好きでした。
それから、「ゴルゴンゾーラのチーズケーキ」。これが赤ワインと実に合う逸品で、一度しか出会いませんでしたが日々の肴にしたいので定番化を強く望みます。

Nanatu3

菓子メニューはこんなふうに手作りで張り替えられます。このかわいさ・・・丁寧に描かれ、貼られ、刺しゅうされ・・・。ぜんたいにそのような、心のこもった素敵なお店。
学生のとき、ときどきここに勉強しに来たりしていました。あまり集中はできなかったけれど。

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さて。今回の行程。

Mabasimap

主要部分については、だいぶ理解が進んできた桃園川。これからはちまちまと、こんなふうにちいさなパーツをはめ込む作業を時折続けていきたいと思います。

嗚呼、犬に感謝。です。

<参考文献>
「高円寺、村から街へ」
森泰樹「杉並風土記 中巻」

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「ごみ水路水族館」と、桃園川水族館

すてきな絵本と出会いました。

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ごみ水路水族館。
絵本でもあるけど、写真集でもあるかもしれない。

水路や川跡のことを探していて、たまたま引っかかったのでした。題名からしてそそられていましたが、ページをめくってみたら・・・

まず出てくるのが水路!しかも、あんまりきれいじゃない水路(むしろゴミだらけの汚い水路)。しかしそこに、実にいろいろの生物がいることにびっくりします。それは、まさにゴミ水路の水族館なのでした。

でも、話は「こ~んなに生き物がいるんですよ」だけでは終わらない。

著者は、この水路を物理的にも歴史的にも遡ってゆきます。舞台は九州なのだけど、東京周辺で起きてきたことと、似たようなことが起きていました。このゴミ水路は蓋をされなかったというだけで、これはまさに、東京の暗渠の歴史。・・・そして、水路に棲む外来生物について説明しながら、今のこと、これからのことにも、著者は思いを巡らせます。

最初に著者が出会った水路は、多くの人が「ドブ川」と呼ぶものではないかと思います。
その「ドブ川」を見ると思わず辿りたくなる人が、わたしの周囲にも何人もいるわけですが(湧水の小川もいいけれど、放置されたドブ川にも胸キュン)、この著者はなにかちょっと近いものがある方なのかもしれません。文章も、好きな感じだし。

それにしても、こういうアプローチでドブ川を取り上げ、みている人が、いるのだなあ。

                       ***

ドブ川、といえば。
たまたま、”「どぶ」考”という論考にも最近出会いました。

なぜ、わたしたちはああいった水路を「どぶ」と呼ぶようになったのか。それを、使用例や地名から探っているものです。

どぶは、「濁った(※1)」、「すべて(※2)」、「下水溝(※3)」といった意味で用いられてきた、ということ。地名では「土腐」「土浮」「道場」などがあり、かつて低湿地であった場所が多い、ということ。

※1 ただし大阪の「丼池(どぶいけ)」の由来はどぶろくのように濁っていたから、とも、池がドンブリ型であったから、ともいわれる。
※2 アンコウのどぶ汁は、アンコウのすべてを入れるから、という説のほか、汁が濁りどぶろくのように見えるから、という説もある。
※3 下水溝を指す方言は、ドブが変化したと考えられるドボス、ドブス、ドスボ、ドブチ、ドブソ、ドボソ、などがある。いっぽう、セセナギ、セシナゲ、ショショナギ、ショショナゲといった言葉もあり、これらは「せせなぎ(不浄水)」からきていると思われる。以上、石川県の方言より。

ということが、まとめられていました(というか、明快にまとまってはいないのでもやもや)。河川の呼び名然り、由来を探るのって難しい・・・。
なんとなく共通認識で「ああいうものは、ドブ、と言う」ということが、我々に根付いてきたのは、いったいどういう経緯だったのか・・・もう少し知りたい気もしますが、今回は迷宮入りとします。

さらなる「ドブ」考を推し進めたいひとは、俊六さんのドブ川雑記帳(いろんな角度で「ドブ」を見ておられます)をぜひご覧ください。

                      

                         ***

さて、「ごみ水路水族館」には、たくさんの種類の生物がいました。そのなかには、東京でも地元の方のお話に出てくるけど、「そんなに大きなの、本当にいたんかな?」と思っていたような魚もいて。

蓋をされる前の桃園川のことを、やっぱり思い浮かべるのです。
桃園川には、どのくらい生物がいたんだったっけ?手持ちの資料から、探ってみました。・・・残念ながら、写真には撮れないんだけれど。

メダカ、タナゴは比較的よく出てきます。
それから、フナ、キンギョ、コイ、ハヤ、カエル、タニシ。
クチボソ、ドジョウ、ウナギ、なんてのも。
それから、ホタル。

桃園川緑道を歩いていると、これらの生き物と出会えます。これらの生き物が泳いでいたすがたを、そしてそれをつかまえて遊ぶ子どもたち、愛でて和む大人たちを、想像して歩くこともあります。

                         ***

「ごみ水路水族館」の著者は、ほかにも水と地球の研究ノートというテーマで、

「町の中の泉」

「とける岩の洞くつ」

「木が生える沼」

「消えない水たまり」

などを書かれています。
「町の中の泉」、思わずポチりました。それから、「消えない水たまり」も、次に狙っています・・・。

別著者となりますが、去年いただいた、「たまがわ」も、すてきな絵本でした。

【送料無料】たまがわ [ 村松昭 ]

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価格:1,470円(税込、送料別)

川や水路を出発点に、いろいろなことを考える絵本。

自分のために、子どものために、あるいは甥や姪のために、もしかしたらこれから生まれてくる子どものためにも、持っていてもいい絵本ではないかな、と思います。

<参考文献>
「天沼杉五物がたり」
「思い出 桃交会」
武田晋一「ごみ水路水族館」
福田寛允 「どぶ」考-その語源と由来を探る- 月刊下水道35(12), 56-61.
桃井二小「おぎくぼいまむかし」
「桃三」
「桃三 五十年の歩み」
森泰樹「杉並風土記 中巻」
矢嶋又次「荻窪の今昔と商店街之変遷」

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暗渠めし 現代版三味線橋のひと休み

今年最初の暗渠記事はやはり桃園川にしたいので、桃園川沿いの飲み屋さんをご紹介します。

東京「暗渠」散歩では、”本流沿いには珍しく店が見えるので、現代版の三味線橋のひと休みに使ってもいいかもしれない。”とのみ、触れているところ。

その店の名は、

Yamato1

やまと
三味線橋の上流側右岸にあります。
三味線橋の由来について桃園川緑道では、近くの家で弾く三味線の音が聞こえ、それを合図に歩行者がひと休みした、という説が書かれていますが、ほかに、ここで三味線弾きの座頭が川に落ちて溺れかけた、なんていう説もあります。

数ある桃園川に架かる橋のうち、比較的注目される橋であり、初期(実に恥ずかしい)の桃園川記事でも三味線橋について触れてはいるのですが、このお店についてはスルーしていました(もちろん興味はしんしんだったのですが)。

Yamato2

両隣も飲み屋さんだったはずですが、閉店してしまったようです。

人通りが多いわけでもなく、駅から近いわけでもない場所。店舗が生き残っているのは、ありがたいことなのかもしれません。でも、どんな店なのか、外からは窺えません。・・・うーむ。
勇気を出して、入ります。
夏の、それなりに暑い日でした。もしそんなに美味しくなかったら、ビールと焼鳥くらいにして、すぐ帰ってくればいいさ・・・

Yamato3

中には、常連らしきおばさまがカウンターに2人。

最初の飲み物は躊躇せず、「えっと、瓶ビールください!」。
つきだし・・・豚肉と筍、いんげん、こんにゃくなどが入った煮物。
これが、上品で美しくて、そしておいしい!
これは良い店かも!

この喜び方、そういえば同じく中野にある三輪と似ているのですが、ここ、やまとはこのクオリティを70代のおじさんが一人で繰り出しているところが、さらにスゴイ。

ビールをひと飲みし、ふぅっと店内を眺めると、まず気になるのは金魚の多さ・・・でした。広くはない店内に、水槽が3つくらいドーン。しかも、おのおのでかくて立派。
谷田川沿いの「つくも」にもえらいたくさんの金魚が居ましたね。。

Yamato4

暗渠の畔にあるこのお店で、淡水魚が泳いでいるというのは、ご縁を感じなくもないんですが、こんな立派な和金(?)は川っぽくない気がするんですよねえ。

もっと、ハヤとかさ、・・・やや、奥におられますのはどじょうさんじゃないですか!

桃園川に、どじょうは居たでしょうか。ざっと文献を見てみても、天神川でどじょうを取った、というものくらいしかエピソードは出てきません。けれど、かつて桃園川沿いには田んぼがあったので、きっとあちこちに泳いでいたでしょう。取って食べていた人もきっといたでしょう。と、思うんです。

Dozeu

桃園川の旧流路近くの魚屋さんで、こんな感じにどじょうを売るときがあります。
ぴょるぴょる動くのがかわいらしくて、何度でも眺めてしまいます。どじょうさん、おまえの先祖は、ここを泳いでいたかい?

・・・どじょうといえば、駒形どぜう

以前、北沢川のザリガニのことに触れたとき、コメント欄にて桃園川のどじょう→どじょうつかみ取り→駒形どぜう、と連想がつながっていったことがあります。丁度駒形どぜうで食べてきた直後で、お店で産地を聞いたところ「ずっと前から湯布院産だ」というお答えだったのでした。数十年前までは東京の川で採れたものを、なんてお答えを期待していたので、意外だったことをよく覚えています(そしてそのように聞いてみたんですが、その店員さんはわからないご様子でした)。

先日、たまたま駒形どぜうの社史を見つけました。
それによると、駒形どぜう(越後屋)の開祖、助七が埼玉からやってきて店を開いたのは、1801年のこと。現在位置から少し隅田川寄りだったそうです。当初は「丼めし屋」であり、初期のメニューは不明(しかしこの「丼めし屋」なる言い回しのなんと美味そうなこと!)。ただし、鯨、味噌、酒を仕入れていたことは記録に残っています。つまり、どぜうがあったかどうかは、わからない。

越後屋は次第に繁盛してゆき、現在の位置に店を移しました。そのころには「どぜう汁」「どぜう鍋」があったといいます。しかも、「葛西、小松川近辺のどぜう」を仕入れていた、とのこと!ヤッタネ地産地消!

なお、このときに「どぜう」暖簾が生まれており、そのエピソードは有名だと思います。しかし「どぜう」と書いてもらうまでのやりとりは、どうやらけっこう揉めていたようなのです。以下、社史より転載すると、

(越後屋初代の助七と、有名な看板書き撞木屋仙吉とのやりとり)
仙吉「鰌を”どぜう”と書くのは誤りだ。正しくは”どじやう”である。誤字を書くのは一生の名折れになる。」
助七「いや、”どじやう”では4文字になって縁起が悪い。芝居の外題など、みな3、5、7の奇数だ。」
仙吉「私はただの看板書きじゃない。正しい文字しか書けない。」
助七「そういうが、私は金を払う客だ。客の言うとおり書くがよろしい。」

貫録で押し切る助七。もし、ここで助七が少しでもひるんでいたら、わたしたちは「どぜう」という言葉には巡り会えなかったかもしれません。

話は飛んで。
戦後、どぜうは極端に入手し難くなります。その理由は複数あり、
1.農薬の普及
2.水路のコンクリート化
3.どぜうが売れなくなり業者が減少→仕入れ値が高価になり小売りが減少
4.工業や自動車などの油によりどぜうが油臭くなった
5.水田の減少
6.農家の人が採らなくなった
等々・・・。
どぜうがないので、越後屋は店を休まざるを得ないことさえあったそうです。その後、養殖や台湾産のルートを探るなど、色々な試みがなされました。5代目のスケッチには、岡山産、三河産、埼玉産、九州産などのどぜうが描かれています。

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そして、ある時点から(少なくとも社史の書かれた昭和55年以降)現在に至るまでは、湯布院産(おそらく養殖の)が安定して供給されている、ということなのでしょう。

もうひとつ。
川に棲むどぜうは、梅雨時に産卵のために川上へ移動するのだそうです。梅雨のころに善福寺川で目を凝らしたくなるような情報です。
また、川でも池でも、栄養が多いほどメスが多くなり、少ないほどオスの割合が多くなるのだそうです。つまりオス・メスの比率は環境で変わる、ということ。どぜうの蒲焼は、オスに限る(肉厚なので)そうですから、蒲焼用のどぜうは田んぼにはあんまりいないかもしれないんですね。

Maru

駒形のどぜう鍋(正しくはこれはどぜうさき鍋)。ちなみにわたしは、”姿”が苦手なので、柳川のほうが好きなんです。あと、ネギを多めに食べます・・・良いどぜうっ喰いにはなれませんねえ、きっと。

                         ***

閑話休題。

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やまとで、焼き鳥も頼んでみました。他にも食べたけれど、迂闊にも忘れてしまいました。家庭的で、丁寧で、おいしい。常連さんもいるけれど、居づらくない。お酒をたのんで、実に良い気分で飲みすすめました。

あ、どじょう料理はたぶん無かったと思います・・・

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チビチビ飲んでいると、常連さんが外気を入れようとしたのか、5分ほど扉を開けてました。

うおー自分の席からも桃園川が見える!出血大サービス!・・蚊が入ってこないか、気が気でなかったですがw

いろいろ、大満足してお店を去ります。

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帰りは、夜の桃園川を通って帰ることができます。上流にも下流にも、いかようにも。

Yamatomap

今回の位置関係です。
橋を挟んで下流側にある、こんにゃく等をつくっているカネナカ食品の佇まいも好きです。

居酒屋やまと、希少な桃園川直結店。その立地のみならず、味良し、雰囲気良し、でございました。桃園川夜歩きの、ひと休みにいかがでしょ?あわてな~い、あわてない。ひとやすみ、ひとやすみ。

<参考文献>
「思い出 桃交会」
「なかのを歩く」
渡辺繁三「社史 駒形どぜう創業180年記念」

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新年のごあいさつ

2012年も暗渠さんぽをお読みいただき、ありがとうございました。

いまや暗渠さんぽは、自分の暮らしの大切な一部です。おもしろい、たのしい、という感じが伝わっていくときが多いのかもしれませんが、暗渠を歩くときは常にワクワクしているというわけでもなくて、

Amanuma

かつて苦しい思いをしたことがある場所を、弔うような気持ちで歩くとき。

Sasi14

亡くなった方のことを思い出して立ち止まり、また歩き出すようなとき。

Yaba15

あたらしい風景に出会いながら、こころが鎮まっていくようなとき。

Saizome10

ルーツをさぐりながら、自分の足場をかためるようなとき。

いろんなときがあります。
そうしよう、と思うときもあれば、たまたまそうなるときもあります。

今年は、どんな暗渠と出会うでしょうか。あるいは、暗渠の畔にあるものがたり達と。

2013年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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