暗渠めし 現代版三味線橋のひと休み
今年最初の暗渠記事はやはり桃園川にしたいので、桃園川沿いの飲み屋さんをご紹介します。
東京「暗渠」散歩では、”本流沿いには珍しく店が見えるので、現代版の三味線橋のひと休みに使ってもいいかもしれない。”とのみ、触れているところ。
その店の名は、
やまと。
三味線橋の上流側右岸にあります。
三味線橋の由来について桃園川緑道では、近くの家で弾く三味線の音が聞こえ、それを合図に歩行者がひと休みした、という説が書かれていますが、ほかに、ここで三味線弾きの座頭が川に落ちて溺れかけた、なんていう説もあります。
数ある桃園川に架かる橋のうち、比較的注目される橋であり、初期(実に恥ずかしい)の桃園川記事でも三味線橋について触れてはいるのですが、このお店についてはスルーしていました(もちろん興味はしんしんだったのですが)。
両隣も飲み屋さんだったはずですが、閉店してしまったようです。
人通りが多いわけでもなく、駅から近いわけでもない場所。店舗が生き残っているのは、ありがたいことなのかもしれません。でも、どんな店なのか、外からは窺えません。・・・うーむ。
勇気を出して、入ります。
夏の、それなりに暑い日でした。もしそんなに美味しくなかったら、ビールと焼鳥くらいにして、すぐ帰ってくればいいさ・・・
中には、常連らしきおばさまがカウンターに2人。
最初の飲み物は躊躇せず、「えっと、瓶ビールください!」。
つきだし・・・豚肉と筍、いんげん、こんにゃくなどが入った煮物。
これが、上品で美しくて、そしておいしい!
これは良い店かも!
この喜び方、そういえば同じく中野にある三輪と似ているのですが、ここ、やまとはこのクオリティを70代のおじさんが一人で繰り出しているところが、さらにスゴイ。
ビールをひと飲みし、ふぅっと店内を眺めると、まず気になるのは金魚の多さ・・・でした。広くはない店内に、水槽が3つくらいドーン。しかも、おのおのでかくて立派。
谷田川沿いの「つくも」にもえらいたくさんの金魚が居ましたね。。
暗渠の畔にあるこのお店で、淡水魚が泳いでいるというのは、ご縁を感じなくもないんですが、こんな立派な和金(?)は川っぽくない気がするんですよねえ。
もっと、ハヤとかさ、・・・やや、奥におられますのはどじょうさんじゃないですか!
桃園川に、どじょうは居たでしょうか。ざっと文献を見てみても、天神川でどじょうを取った、というものくらいしかエピソードは出てきません。けれど、かつて桃園川沿いには田んぼがあったので、きっとあちこちに泳いでいたでしょう。取って食べていた人もきっといたでしょう。と、思うんです。
桃園川の旧流路近くの魚屋さんで、こんな感じにどじょうを売るときがあります。
ぴょるぴょる動くのがかわいらしくて、何度でも眺めてしまいます。どじょうさん、おまえの先祖は、ここを泳いでいたかい?
・・・どじょうといえば、駒形どぜう。
以前、北沢川のザリガニのことに触れたとき、コメント欄にて桃園川のどじょう→どじょうつかみ取り→駒形どぜう、と連想がつながっていったことがあります。丁度駒形どぜうで食べてきた直後で、お店で産地を聞いたところ「ずっと前から湯布院産だ」というお答えだったのでした。数十年前までは東京の川で採れたものを、なんてお答えを期待していたので、意外だったことをよく覚えています(そしてそのように聞いてみたんですが、その店員さんはわからないご様子でした)。
先日、たまたま駒形どぜうの社史を見つけました。
それによると、駒形どぜう(越後屋)の開祖、助七が埼玉からやってきて店を開いたのは、1801年のこと。現在位置から少し隅田川寄りだったそうです。当初は「丼めし屋」であり、初期のメニューは不明(しかしこの「丼めし屋」なる言い回しのなんと美味そうなこと!)。ただし、鯨、味噌、酒を仕入れていたことは記録に残っています。つまり、どぜうがあったかどうかは、わからない。
越後屋は次第に繁盛してゆき、現在の位置に店を移しました。そのころには「どぜう汁」「どぜう鍋」があったといいます。しかも、「葛西、小松川近辺のどぜう」を仕入れていた、とのこと!ヤッタネ地産地消!
なお、このときに「どぜう」暖簾が生まれており、そのエピソードは有名だと思います。しかし「どぜう」と書いてもらうまでのやりとりは、どうやらけっこう揉めていたようなのです。以下、社史より転載すると、
(越後屋初代の助七と、有名な看板書き撞木屋仙吉とのやりとり)
仙吉「鰌を”どぜう”と書くのは誤りだ。正しくは”どじやう”である。誤字を書くのは一生の名折れになる。」
助七「いや、”どじやう”では4文字になって縁起が悪い。芝居の外題など、みな3、5、7の奇数だ。」
仙吉「私はただの看板書きじゃない。正しい文字しか書けない。」
助七「そういうが、私は金を払う客だ。客の言うとおり書くがよろしい。」
貫録で押し切る助七。もし、ここで助七が少しでもひるんでいたら、わたしたちは「どぜう」という言葉には巡り会えなかったかもしれません。
話は飛んで。
戦後、どぜうは極端に入手し難くなります。その理由は複数あり、
1.農薬の普及
2.水路のコンクリート化
3.どぜうが売れなくなり業者が減少→仕入れ値が高価になり小売りが減少
4.工業や自動車などの油によりどぜうが油臭くなった
5.水田の減少
6.農家の人が採らなくなった
等々・・・。
どぜうがないので、越後屋は店を休まざるを得ないことさえあったそうです。その後、養殖や台湾産のルートを探るなど、色々な試みがなされました。5代目のスケッチには、岡山産、三河産、埼玉産、九州産などのどぜうが描かれています。
そして、ある時点から(少なくとも社史の書かれた昭和55年以降)現在に至るまでは、湯布院産(おそらく養殖の)が安定して供給されている、ということなのでしょう。
もうひとつ。
川に棲むどぜうは、梅雨時に産卵のために川上へ移動するのだそうです。梅雨のころに善福寺川で目を凝らしたくなるような情報です。
また、川でも池でも、栄養が多いほどメスが多くなり、少ないほどオスの割合が多くなるのだそうです。つまりオス・メスの比率は環境で変わる、ということ。どぜうの蒲焼は、オスに限る(肉厚なので)そうですから、蒲焼用のどぜうは田んぼにはあんまりいないかもしれないんですね。
駒形のどぜう鍋(正しくはこれはどぜうさき鍋)。ちなみにわたしは、”姿”が苦手なので、柳川のほうが好きなんです。あと、ネギを多めに食べます・・・良いどぜうっ喰いにはなれませんねえ、きっと。
***
閑話休題。
やまとで、焼き鳥も頼んでみました。他にも食べたけれど、迂闊にも忘れてしまいました。家庭的で、丁寧で、おいしい。常連さんもいるけれど、居づらくない。お酒をたのんで、実に良い気分で飲みすすめました。
あ、どじょう料理はたぶん無かったと思います・・・
チビチビ飲んでいると、常連さんが外気を入れようとしたのか、5分ほど扉を開けてました。
うおー自分の席からも桃園川が見える!出血大サービス!・・蚊が入ってこないか、気が気でなかったですがw
いろいろ、大満足してお店を去ります。
帰りは、夜の桃園川を通って帰ることができます。上流にも下流にも、いかようにも。
今回の位置関係です。
橋を挟んで下流側にある、こんにゃく等をつくっているカネナカ食品の佇まいも好きです。
居酒屋やまと、希少な桃園川直結店。その立地のみならず、味良し、雰囲気良し、でございました。桃園川夜歩きの、ひと休みにいかがでしょ?あわてな~い、あわてない。ひとやすみ、ひとやすみ。
<参考文献>
「思い出 桃交会」
「なかのを歩く」
渡辺繁三「社史 駒形どぜう創業180年記念」
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