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2012年12月

もうひとつの藍染川の、ものがたり

かつて東京都内には、藍染川と呼ばれる川が何本かあったといわれます。
ひとつは、神田の紺屋町あたりを通るもの(痕跡が少なすぎるのため当ブログでは紹介していません)
それから、浅草のほうにもあるようですが、これは未訪。
そして、いま下ってきている、谷田川の下流部としての藍染川。いずれも現在は暗渠です。

・・・しかし、実はもう一本、あるのです。荒川区内だけで「藍染川」と呼ばれている川が。
その川のことを、以前一度だけ書いたことがあります。藍染川排水路、として。当時は大まかにしか知らなくて、三河島の汚水処理施設を見学したついで、という書き方でした。

荒川区で資料を漁っていて、この水路に秘められた区民の想いに初めて触れることとなりました。荒川区外と、区内で、こんなにも違うものなのか・・・。
呼び名もそんな違いのひとつ。自分にとってのこの水路の初出は川の地図辞典でした。そこには「谷田川排水路」として記載されています。ほか、「藍染排水路」と載っている古地図もありました。
地元の方々は、よくあるパターンですが「大どぶ」「どぶ川」などと呼んでいたようです(後日追記:「大下水」とも)。が、名を記すときには、荒川区内で出された資料ではこの水路の名称はいつでも「藍染川」です。そう、排水路だなんて、まず付きません・・・。
今回の記事は、そんな歴史や想いを込めて、荒川区視点で書き進めたいと思います。つまり、本記事では「藍染川」と呼んでいこうと思います。

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もうひとつの藍染川は、こんなかたちをしています。人工河川らしく、ほぼまっすぐ。

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水色点線部分の付け根で谷田川(・藍染川ですが、本記事では混乱を避けるべく、もとの自然河川=谷田川、谷田川の排水路=藍染川とします)から分岐し、水色部分は暗渠で道灌山下をくぐり、青色点線部分は当初は開渠でした。

この水路のはじまりについて。
大正2年に、「下水設定事業」というちょっと珍しい名称の工事が提案されます。北区・文京区・台東区を流れる谷田川が、流量に比して川幅が狭く、また構造が悪く(工事の主体の違いにより、土管が上流は太いのに下流は細いとかなんとか)、氾濫が多かったためです。

染井駒込西ヶ原田端上野台本郷台等左右一帯ノ高台ヨリ急転直下シテ本川ニ集中スル多量ノ雨水ヲ排除スルコト能ワズ・・・
谷中や根津あたりの頻繁な水害の描写はたしかに深刻で、ちょっとひどい夕立だと床下浸水という話やら、炊き出しのおむすびをタライに入れて水の中を押した話やら、部分改修工事はしたものの町の財政では賄いきれないという話やら。

だとしても、それがなぜこんな位置に、こんな形で排水路を設けることになったのか。もともとの谷田川の流路をなんとかすることはできなかったのか?
・・・すでに都市化の進んでいた谷田川下流部の拡幅には土地買収が必至で、河口までの長距離を管渠築造するとしても、いずれにせよ高額かつ困難となるので、当時田んぼばかりであった三河島方面に大排水路を設けることがもっとも合理的という結論だったようです。

そして決定されたこの排水路の設定工事は、大正4年に着工、大正7年に完成。

・・・ここまでの事業計画の話は荒川区以外のお話。荒川区史における藍染川事業の表現は、じつに苦々しいものでした。
台東区方面の溢水のための困惑を救うため、わざわざ区内に下水を設定して荒川に導くという事業で、これが現況においてはむしろ区民にマイナスの作用をしている。
いってみれば三河島村民を犠牲にして東京市民のためをはかったものであったといい得るのである。
(新修荒川区史 昭和30年発行)

こんなにも厭な顔をされた、藍染川とはなんだったのか。
現在は暗渠としての顔しか拝めませんが、分岐点から歩いて行ってみることとしましょう。

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分水装置が置かれたのは、このあたり。
その交差点のところを、谷田川本流が右から左へと流れていました。サンクスのあたりで手前方向に直角に分水していたと思われます。

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ゆるい登り坂を歩いてゆけば、西日暮里の駅前。高~い道灌山の下を、トンネルが通っているらしいです。
後日追記:つまりこの下は、もとから暗渠であったということ。大正4~7年の間に作られたこの暗渠部分は、幅2730㎝の、レンガ積みであったようです。その、内部の写真がたまたま2013年の下水道カレンダーに載っていました。

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・・・ほぅっとため息が出ます。
白汚零さんの写真集「地下水道」にも、藍染川幹線のいちめんのレンガが、モノクロで登場します。使い古されたレンガは丸みを帯び、ところどころ沈んだり隆起したりしていて、まるでうごめく蟲(クダムシ)たちのよう・・・。

JRの線路を越えたところからが、開渠となっていました。以前歩いたときには、疲れて端折っていた場所。

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ここです・・・ん・・・?
なんか、開渠の始点に違和感が・・・

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これは藍染川の始まりの遺構!?

おまけに蓋がけされた部分も色が違っていてはっきりとわかります。
上に乗っかっているのは、さくら水産です。明らかに藍染川よりも後からできておきながら、藍染川の遺構を中庭みたいに使っています・・・!さくら水産の中は、いったいどうなっているのでしょうか。

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あまりに気になってしまったので。改めて、さくら水産が開いているときにやってきました。

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この店舗じゃないですが、さくら水産と言えば学生のときワンコインランチを食べました。あと、友人が酔っ払いすぎて出禁になったとかならないとか・・・。

そんなわけで久しぶりのさくら水産でした。さくら酎ハイを飲み、魚の刺身や唐揚げやタタキなどを食べました。飲み切れないボトルワインを持ち帰ってよいのも、ありがたい。

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さきほどの写真の内側は、ここです。
座敷席へ向かう廊下であり、かつ、トイレと厨房でした。なるほどね!上から真下に、下水道にドボン!というなんとも効率的なつくり。
いや~~、スッキリw

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さ、ふたたび歩き始めましょう。

以前はこの川で染物を洗う光景が見られた、という記述がありました。最初、これは根津の藍染川と混同しているのじゃないか、と思ったのですが、実際にこの場所で染物を洗っていたという人がいました。大正8年に西日暮里に引っ越し、染物業をされていたようです。
この場所で染物を洗っていると、(道灌山下の暗渠部分から)落ちてくる水の音が大きくゴーゴーと響いてきたのだそうです。

やがて文京区などに水洗トイレができ、汚水が流れるようになったので川で洗えなくなり、前述の方は昭和48年に足立区に移られたそうです。

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設置された当初の藍染川は、「大どぶ」などと呼ばれはしたものの、まだまだ流れはきれいなもので、子どもたちは中に入ってタニシやドジョウを採って遊んでいたとのこと。中洲に草がたくさん生えていたので、飛び込んでも怪我をしなかったとか。
長くはない期間かもしれませんが、この藍染川で仕事をしたひと、遊んだひとが居たのです。

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京成のガード下までは、蓋がけ部分の色が違います。

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京成のガードをくぐり、その前に日暮里舎人ライナーのガードもくぐり、そして貨物線の線路をまたぎ・・・西日暮里駅前の線路の交錯具合はなかなかすごいですね。

後日追記:根津の藍染川というと、通称「バンズイ」という金魚屋さんの話がよく出てきます。こちらの藍染川にも、「大谷金魚」という金魚屋さんがありました。場所は、この写真からすると右斜め後ろあたり。
藍染川ができるより前、明治30年代からそこにあったそうです
(もとは湿地だったらしい)。明治終期の地図では、たしかにここにカクカクとした池が描かれています。大正初期にはもう少し緩やかなかたちになり、昭和7年の地図では池は消え、冠氏の別荘になっています。
大谷氏の話によれば、その池は養魚場であり、震災後に人家が増えたため、養魚場だけ足立区に移したのだそうです。残された瓦葺きの金魚問屋も昭和56年になくなり、ビルにかたちをかえました。
古地図でしか認識していなかった「カクカクとした池」にはそんな歴史があったのだと初めて知りました。現在はその場所は・・・地下鉄の変電所となり、白い箱のような建物が、のっそりと建っています。

この先はずっと、京成線の線路と並走します。

古地図を見ると、周辺をちょこまかと用水路が流れています。藍染川よりももっとむかしからそこに在った、この地の田んぼを潤してきた水路。

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それはおそらく石神井用水の分流で、たとえばそのうち1つは、ここで懸樋となって藍染川の上を通るようです。

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懸樋感ゼロでしたけどね・・・。用水はくねりながら遠ざかります。
こんなふうに幾つか、用水と交差するポイントがあります(大正期の地図では5ヶ所ほど)。藍染川設置のさい、石神井用水の水路を使用したと推測している文献がありますが、古地図と照らし合わせる限り、それは違いそうです。

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この暗渠の道は単調ですが、京成の高架裏を見ながら歩くのも面白いです。
ミドリ、ピンク、ブルー・・・いろんな色と柄。1つ1つ違います。

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かつてガード下にあったお店の名残も見かけます。

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ストリートビューでは、ガード下物件が1つだけ残っていました(googleさんありがとうございます)。
きっと、藍染川が開渠だった時からあった店。

むかしは、このガード下に店舗がずらりと並び、その前を藍染川が通り、その両脇には道路があったようです。その道路は、「焼き場道」と呼ばれていました。最初は日暮里火葬場へ行く道、その後は町屋火葬場へ行く道・・・方向が逆でも、焼き場へ行く道ではあった、というわけで。

藍染川が暗渠化されてからは、道は「暗渠通り」という通称に変わります。
いま、藍染川通りと藍染川西通りという名になっていますが、これは荒川区によれば、藍染川通りは平成14年に、藍染川西通りは平成16年に、地元の要望で名付けられたもの。
わりと最近なんですね。そして、地元の方々が今でも「ここは藍染川」と思っていることが伝わってくるようです。

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藍染川には、大きな橋が3つ架かっていました。

ひとつめの橋は子の神橋。新三河島駅前の明治通り沿いです。
大正15年に架橋された古株の鉄筋コンクリート製だったのが、明治通り拡幅とともに廃橋となりました。冬になると、トラックで雪を運んできては、ここでシャベルで掬って藍染川に流す、という光景が見られたそうです。

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この位置にあったのは、花の木橋。尾竹橋通りに架かるものです。

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現役時代の写真を見ると(gooさんありがとうございます)、と~っても広く、斜めに架かる立派な橋でした。
花の木橋の袂にあった飲み屋のおじさんが、川を流れてくるボールを拾っては近所の子にくれた、なんていう微笑ましい話も残ります。

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その花の木橋の親柱が、なぜかここに、ぽつんと立っていたのですが・・・もうなくなっていました。親柱のあった真後ろの建物がなくなり駐車場になって・・・そのときに失われてしまったのでしょうか。いやはや。

荒川区が出している資料にも最後の遺構と書いてあった、花の木橋親柱。何処かに移されていたらいいのだけど・・・今は行方が分からないまま。文末に以前の写真を載せておきます。

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ところで、暗渠感のない道ではありますが、この、地面を”乗っけた”感がすごいんです。
縁石はむしろ蓋がけ部分のアスファルトより低くなっているから、なんのためにあるのかわからないし。

暗渠化工事は鉄の棒の間にコンクリートを流し込むというもので、地元の人は見学したそうですが、今でも大きいトラックが通ると下に抜けてしまうんじゃないかと不安になって、なるべく端っこを歩くようにしている人もいるそうです。

夜になると川が白く見えるので道と間違えて人が落ちたとか、人が自転車ごと落ちて引き上げるのが大変だったとか、馬が落ちて皆で引き上げたとか、橋まで行くのが面倒で丸太を渡ったら落ちて死んでしまったとか、だから遊びに行くときは「川に気をつけて」と言われたものだとか・・・いくつも残るエピソードは、藍染川=落ちると怖いもの、ということを、子どもの頃から沁み込ませるには十分。

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藍染川周辺が市街地化してくると、川は汚れ、保健衛生上、交通上、防災上等の問題が生じました。昭和2年に三河島町長が東京府知事に下水道工事について上申しています。
昭和7~8年には、新三河島駅から上流と、町屋火葬場前から下流が暗渠となりました。昭和3~11年の地図を見ると、開渠の始まりから貨物線の間までは開渠のままで、新三河島駅から上流の僅かな区間のみが蓋され(下流部はまだ開渠)、その箇所が最初に着手されたのだとわかります。
ところが、満州事変の影響で工事は中断してしまい、しばらく残りは開渠のままで放置。再開は昭和31年、すべてが暗渠となったのは昭和35年でした。

とはいえ、蓋がけ後も、流量の多い幹線らしく、豪雨のときは冠水することもあったそう。さらに分水させるバイパス下水管が30年代後半に作られています。

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町屋駅前を通過します。ああそういえば、町屋駅前のパチンコ屋さんはもとは池で、戦時中までは釣堀があったそうです。この水は藍染川に注いでいたかしら・・・?

駅を過ぎたらまもなく、3つめの橋。子育橋といいます。

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子育橋はここ、博善社通りに架かっていました。町屋斎場の前です。斎場の裏にも沼があったとか、古地図では水路が見られたりとかで、いつもなら足を延ばしますが、わりと近い日にここでの告別式に出たばかりであり、その方のことを強く考えてしまってどうも斎場の水路跡を探す気にはなれませんでした。

子育橋には地蔵橋という別名もあります(子育地蔵が近くにあったのでしょうか)。

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子育橋のところは随分盛り上がっていて、地面の色も違っているので、もしかすると橋の構造物の名残かもしれません。

この3橋のほかにも、藍染川には木の橋がところどころに架かっていたそうです。大正期には約13橋、昭和初期には約16橋ほど。藍染川1号橋~同9号橋などといった、番号で呼ばれる小さめの橋だったようで、これらは昭和36年までにほぼ撤去されています。

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下水処理場の脇を通って、いよいよ河口です。
この三河島の処理場は、もともとは東京市の施設であり、当時郡であった三河島の人々はその恩恵を受けられなかったのだそうです。下水処理場は使えないわ、他区のための排水路が通されるわ・・・三河島村民のふんだりけったり感が前述のような区史にも表れているような気もします・・・

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隅田川に注ぎます。
この河口部分は、もともと町屋の火葬場への入堀のようになっていました。藍染川は、この入堀につなぐ形でつくられたのでしょう。藍染川に比べ入堀はやや幅広く、すこしうねっていました。今現在の道路のかたちにもそれは残っています。

さて、・・・おやつを食べよう。

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町屋駅前にもどり、ふと目についた正統派喫茶、みどり園でホットケーキとホットオレンジジュースをたのみました。コーヒーを頼もうとしたのですが、ホットオレンジジュースって何・・・と、引っかかってしまったわけです。ルノアールのホット野菜ジュースが悪くないように、ホットオレンジジュースも悪くなかったです。斎場帰りの人々が、思い思いに話をしていました。

現在、藍染川跡には分水地点からまるまる、藍染川幹線が走っています。藍染ポンプ所により三河島処理場へ連絡し、処理水を隅田川に放流しているといいます。いっぽう、もともとの谷田川に走るのは、谷田川幹線(か、無名の下水道)です。・・・つまり、現在もっとも「藍染川」の名を残しているのは、地上においても、地下においても荒川区といえるのではないでしょうか。
汚水の川となってからは忌々しくもあったのかもしれませんが、荒川区民がきれいな藍染川とともに暮らした時代も、たしかにあるのです。

さいごに。
大正のはじめ、氾濫の多かったこの藍染川の川底を浚い、その土を付近の地主であった冠権四郎氏の土地に盛ったという話があります。そして、そこに大正5年にできたのが冠町1~3丁目と冠新道。いまは平坦な土地に見える商店街ですが、ここは藍染川の土でできている、というわけです。
・・・わたしには山形で暮らした記憶しかありませんが、実は赤ん坊の頃、少しだけこの冠新道に住んでいました。いまでも、実家には荒川区と書かれた母子手帳があります。祖母が身体を壊さなければ、父が地元に帰るという選択をしなければ、わたしはこの小学校に通っていたかもしれない・・・と、藍染川沿いに建つ第6日暮小学校を見るたびに、あるような無いような縁を感じるのです。

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藍染川のものがたりを書きたくなったのも、どこかで、血が騒いだのかもしれません。

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東京「暗渠」散歩では、2枚の小さな写真と、少しのキャプションで紹介された、もうひとつの藍染川。その背後には、たくさんのものがたりが詰まっています。

<参考文献>
荒川区教育委員会「荒川(旧三河島)の民俗」
荒川区教育委員会「街かどで拾ったよもやま話集」
荒川区民俗調査団「荒川区民俗調査報告書」
荒川区役所「荒川区土木史」
荒川区役所「新修荒川区史下巻」
荒川区立第六日暮里小学校創立40周年記念誌「ろくにち」
荒川区立第六日暮里小学校創立60周年記念社会科学習資料「ろくにち第三集」
白汚零「地下水道」
菅原健二「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」
東京都下水道局 2013年下水道カレンダー
谷中・根津・千駄木 其の三十七 
谷根千工房「谷根千同窓会」

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谷田川与楽寺支流(仮)と「あのラーメン」

谷田川支流下りを再開します。
流れで「あのラーメン」なんて書いちゃってますが、これで何処のラーメンか予測がついた人がいたらすごいことです。ラーメンについては、後半に。

谷田川について調べていたとき、田端あたりの土地勘が無いわたしにとって、いくつもある「坂」が、谷田川の谷のものなのか否か、ピンときませんでした。なかでも田端駅の近くに少し前まで湧水があった不動坂があるとされ、それがどちら向きなのかは見に行かないといけません。

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谷田川の谷底から、いったん尾根まで上がります。すっごい切り通し!

ちなみにこのちょっと南に、谷田橋がうつされた田端八幡神社や、赤紙仁王の東覚寺があります。
最近知ったことですが、かつては東覚寺にも湧水があり、相当の水量があったということなのです(住職談)・・・もしかすると谷田川に流れ込んでいたかもしれません。東覚寺そのもの、そして付近の風景は道路新設のためにずいぶん改変されたようで、何度か歩きましたがあやしげなものは感じませんでした・・・。

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前述の、不動坂。
北向きでした。ふーん、じゃあ谷田川は関係ないのね・・・って、いうわけでもありません。

そういえば谷田川沿いにある神社のうち、水神社よりも風貌を気に入っているものがあります。

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田端不動。このあやしげな存在感。
実はこの田端不動、もともとはさきほどの不動坂にあったのでした。不動坂には”不動の滝”という湧水が池となって、さらに滝となって下に落ちていた場所があり、その不動の滝に田端不動が祀られていたそうなのです。
明治45年に田端駅拡張工事があったとき、田端不動はまず谷田川通りに移され、つぎに昭和10年に谷田川の改修(暗渠化)工事があり、そのときに現在の位置に移されたのだそうです。
もともと神社があった場所の、滝はいつしかなくなり、スリバチのような沼が残り・・・、そして沼もなくなり・・・そのスリバチのような沼には芦が茂り、ヒルが棲み、フナや沢蟹などがとれたのだそうです。

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いまの風景。不動坂の石垣はジメジメとしていて、寒冷地の高山植物が生えていた、などという記述も見ましたが、わたしが行ったときには見当たりませんでした。

さて不動坂は北向きだったわけですが、高台を挟んで向い合せになっている「与楽寺坂」が、谷田川の谷に降りていく坂です。

近代デジタルライブラリー、”瀧野川村大字田端字東居村”を見てみると、明治期には与楽寺坂に水路があったことが示されています。ちょうど、与楽寺の少し北で始まり、与楽寺の前を通り谷田川に注ぐので、与楽寺支流(仮)と名付けることにしましょう。

Tabatamap

地図(yahooさんありがとうございます)にプロットすると、このような感じです。谷田川・藍染川暗渠は、痕跡が少ないものが多いので・・・はてさて、この支流のかおりは、いまどのくらい残っているのでしょうか。

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始点はこのあたり。
右に向かって谷田川へと下る谷が続いていくのですが、ここらへんでグ、グッと地面に食い込んでいきます。前掲の地図では西側にもうひとつ上流端が分かれていますが、そちらは歩いた感じでは痕跡を感じませんでした。・・・水源は何であったのか。排水路なのか、崖からの湧水であるのか、いまのところ不明です。

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下っていきましょうか。
しっかし、急だな~!

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擁壁にはこんなものが埋まって、というか突き出て、というか。味わい深し。

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水たちはシャーっと下ります。
左手には与楽寺の敷地がつづきます。
与楽寺といえば、「賊よけ地蔵」。その昔、寺に賊が押し入ったとき、お地蔵様が僧に変身して追い払った、という言い伝えがあるようです。盗賊というより賊っていう響きの方がなんとなく好きだな。。

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お、またあった。
古~い排水管は、与楽寺支流(仮)の隠れ名物かもしれません。

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谷がなだらかになってきました。
与楽寺の門を通り過ぎます。境内はむかし子どもの遊び場だったそうですが、今はしぃんとしています。

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しぃんとしているのは、境内だけではなく、その向かいがこんな更地になっていることも関係するかもしれません。奇妙にスカッと空が抜けています。ここだけ、違う街みたい。
位置的には東覚寺前にできたあの道路の延長という感じがします。谷田川沿いに、今後数年おきにこういう風景が広がるのでしょうか・・・

ちなみに、与楽寺の近くには脳病院があり(たしかに近デジの地図上にもあります)、現在でも病院の厚い鉄骨の残骸が残っている(注意して見ると)、という記述を見かけましたが、このときは気づきませんでした。はたして今も遺構はあるのでしょうか?

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与楽寺支流(仮)はここを通り(おっ、クリーニング屋さん)、

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気になる木の前も通り過ぎ、

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カクっと曲がり。
この奥だけ、道ではなくなるようです。

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僅かに開いたこの隙間が与楽寺支流(仮)の下流部分です。
これまでずっと「道」だったのに、豹変しましたね・・・僅かに側溝のようなものがあります。通れないので、反対側に回ります。

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・・・すると、

Yoraku16

水路跡が残っていました!
ただの、雨水用の側溝に見えるかもしれませんが、この微妙~な凹み具合と違和感たかはら支流中流部の、”家の余りもの持ち込み護岸”あたりの凹み具合を彷彿)。もう、すぐそこに谷田川通りがあります。最後の最後に暗渠らしさが味わえる、もったいぶった支流さんでした。

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ほかにも、谷田川沿いのいくつかの風景は失われていました。

Konkuri

コンクリート工場(砂利だっけ?)。

Sumitomo

最初に谷田川を下ったときにはあった、大日本住友製薬の建物があったところは長いこと工事現場です。
あいかわらず、嗚呼写真に撮っておけばよかった、とか、嗚呼もっとキレイに写真に撮っておけばよかった、とか、後悔したりしています。

                       ***

                     

・・・さて、ゴハン。
いま歩いてきたあたりには、【賑やか暗渠】谷田川暗渠にしては珍しく、そんなにお店がありません。もうちょっとだけ足を延ばすと、よみせ通りに入り、食べ物がいろいろ出現します。
もう少しだけ歩き、へび道入口にある、とても気になっていたお店に行くことにしました。

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中華、砺波
すでに味わい深い外観。

しかし砺波が気になっていた理由は、外観よりも、これでした。

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かにつめラーメン・・・。
かにつめフライ×2と、鳥唐が乗っているように見えます。

解説しよう。わたしは蟹がとても好きなのです。そのために蟹ヶ谷にだって行くくらい。
かにつめは、蟹らしさが少ないのでそんなに好きではありませんが、それでも「かにつめラーメン」のこの引力は異常。

入ってみました。内装、期待に応える昭和ぶり。良いです!ほか、焼売ライスやコロッケライスといった、惹かれるメニュウもあり。
いやいや、ここは初心貫徹で「かにつめラーメン下さい!」

Tonami3

どーんwww
サンプルよりもかにつめが増えてるパターンwww

かにつめは、良くも悪くもかにつめフライでした。で。ラーメンは非常にシンプル。そっけないくらいにシンプル。でもね、これが悪くないんですよね・・・。むしろこれ好きかもw
けれど、悲しいかな最後の一口まで、かにつめフライとラーメンの一体感はありませんでした。

ラーメンをすすっていると、隣の席に外国人夫婦が着席しました。ガイドブック片手に、日本語は喋れないご様子。
えっ・・・なぜこの店に・・・?向かい側には蕎麦屋さんがあるし、いろいろお店はあるだろうに・・・なぜ?
ちょっと驚いていると、お店のおばちゃんは手慣れた感じで、お店の外にその外国人さんを案内し、サンプルから食べ物を選ばせています。なにこの慣れてる感じ・・・まさかここはガイドブックに載っている有名店なのか??

もう目が離せなくなり、しばらく座っていました。彼らは天津麺と、餃子を頼んでいました。箸を巧みに使い、ラーメンをお椀に取り分け・・・しかし次の瞬間、そのお椀の中に大量の醤油とラー油を・・・!!!ヒィィィィやめてぇぇぇ・・。女性の方は、ラー油がうまく注げないご様子。そこに、お店のおばちゃんがやってきて、「こうやるのよ」と親切満点の笑顔で女性のラーメンの上にラー油をどぼどぼ振りかけます。・・・ポーカーフェイスの奥底で悶絶するわたし。
更にそのあと、おばちゃんはお店の電話で、長電話を始めました・・・すごい大声で。外国人夫婦もわたしも、帰りたいのに帰れない。なんというすごい店なんだろう、ここは。蟹に導かれた素敵な出会いに、満足して琵琶橋を渡って帰ってまいりました。

谷田川暗渠沿い、実は濃い店が点在しているのかもしれません。
さて、次回は位置をちょっと変えて、藍染川のもうひとつの物語をお話しする回にしたいと思います。

<参考文献>
東京都北区郷土研究会「北区百話」
田端郷土史編纂委員会「田端郷土誌」
「北区史」
近代デジタルライブラリー(web)

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桃園川銭湯巡礼 その4 香藤湯と酔処三輪

谷田川を下っている最中でしたが、箸休め。桃園川本流沿いの銭湯を紹介するシリーズを挟みたいと思います。前回、高円寺駅近辺まで来て、今回はそろそろ中野区に入ろうという位置まで来ています。

杉並区高円寺エリアの本流沿い、残す廃銭湯はあと1つ。
稲荷湯といいます。

Inari

ここが、稲荷湯のあった場所です。ニコニコロード沿い。
いま、白いフェンスのようなものがあるところが、たぶん入口で、奥に向かって敷地が広がっています。一昔前は、ここにお客さんの自転車がざぁっと並んでいたかもしれませんね。

Inari2

稲荷湯の名の由来はおそらく、田中稲荷からきていると思われます。田中稲荷については、この記事で詳述しました(ラーメンが食べたくなっちゃうので閲覧注意!w)。この道は実は、堀の内新道でもあり、中野のほうに歩いていくと田中稲荷や稲荷橋を通ることになります。

稲荷橋をこえ、もっとずんずん中野へ向かっていくと、こんどは現役銭湯に出会います。

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香藤湯
「北欧サウナ」ってなんだろう?、と以前から気になっていた銭湯です。

ビル銭湯なのですが、入ってみると、とってもクラシック。富士山をながめながら、気泡・超音波・座・寝・水の各種風呂に入れます。サウナは別料金。
木の桶がカコーン・・・。
親子連れが、男湯と女湯の壁越しに会話をしていたり。・・・広くはないけど、そんな、レトロ感が満載でした。

外は寒くなってきてはいるけど、十分あったまったので、湯冷めしないうちに飲み屋さんへっと・・・堀の内新道をさらに中野方面へ歩いていきます。すぐに中華屋さんやバーや焼鳥屋さんがぽつぽつ在るエリアにさしかかるのですが、この日はなぜか閉まっている店が多く、

Koto2

数少ない中からここ、「三輪」を選びました(あれ、検索には引っかからない・・・)。

たしか、ここ以前は違う飲み屋さんだったと思うのです。が、何だか思い出せませぬ。ともかく、何の情報もなく、外からはチラッとメニューが見えるだけなので、賭けるような気持ちで入店。

Koto3

ところが・・・突き出しがこれでございます。「肉じゃがか、ブリ大根どっちがいいですか?」と聞かれたので、「一つずつ!(二人なので)」と即答。

肉じゃがの白滝の美しい結ばれよう、ブリ大根の大根の美しい面取られよう・・・。
そして、おいしい・・・。

デキルな、おぬし!しかも、このコースターを赤と青で出してくるかわいさw

Koto4

気を良くして、いろいろ頼みました。アサリの酒蒸しは上品なスープと、ざくざくした長葱が良い感じ。

シーフードマカロニグラタンも気になったなあ・・・。炭水化物系も充実。

Koto5

揚げ物メニューが充実していたので、何か頼みたくなり、メゴチの天ぷらを。揚げたて、あつあつ、むっちり!

これぁ良い店だな。でも常連さん率が高いかもしれなくて、一人で入るのには勇気が要りそうだな(自分は)。常連さんはカウンターでワイワイしてらして、「カレーのご飯抜きちょうだい!」とか「カレーにコレ入れて」とか、自由に楽しんでらっしゃいました。

Koto6

ふと壁を見ると、カエルグッズと猫グッズが多めなのも好印象でした。

Kotomap


位置関係は、こんな感じです。
香藤湯の前に描いた流れは、杉並区史跡散歩地図に暗渠マークが載っていたので。やや北の崖で、清水が湧いていたといわれます。
稲荷湯は桃園川本流からは遠い気がするかもしれませんが、実は、旧流路(後日検証予定)のすぐ近くです。

ところで、先日、杉並郷土史会の方と少しだけお話しする機会がありました。そこで、ちょっと聞きたいなと思っていたことを、うかがうことができました。
それは、かつて銭湯排水を側溝や開渠に流していた時代、寒い日には水路から湯気が上がっていなかったか、ということ。もともとは、団子坂の坂上にあった銭湯の話を読んだ時に、杉並でもそういう景色があったのではと、気になっていたことです。

その方のお返事によれば、YES、でした。
銭湯の排水が流されていた側溝は、残念ながら蓋がされてはいたものの、寒い日は隙間の穴から湯気がもうもうと上り、「まるで温泉街のようだった」とのことでした。

 

Kotof


たとえばココでも、こんな景色があったかもしれません(絵が下手過ぎてゴメンナサイw)。

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『かつて桃園川沿いには今の何倍もの銭湯があった。廃湯が落とされていた桃園川やその支流では、冬には湯気が上がったりしていたのだろうか。』(東京「暗渠」散歩 pp70.)

・・・きっと、温泉街のような景色が、桃園川沿いのあちこちにもあったはず。これからの季節、銭湯や銭湯跡の前を通るさい、そんなことを想像してみてはいかがでしょうか。

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谷田川木戸孝允邸支流(仮)と「あの欄干」

谷田川を下りながら、暗渠本では触れられなかった支流を紹介するシリーズ。舞台は駒込へとうつります。

木戸孝允(の別)邸が駒込にありました。そして、その邸内にも湧水池があったといわれます。木戸邸跡に向かうには、谷田川の谷底からこ~んな階段を上っていきます。

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ずいぶんと存在感のある階段。
東京の階段DBには、「駒込1丁目のクランク型階段」として紹介されています。

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もともとは広大だった木戸邸の敷地は、現在は分割されているようです。
先ほどの階段を上り、台地の上をてくてく歩いていくと、トーア駒込マンションという文字が見えてきます。このマンションは、木戸邸が3分割されたうちの中央部分に当たります。

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道路を迂回し南側に回ると、木戸邸があったことを示す石碑がありました。

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さて、湧水があったということはどれだけの窪みかな?
残念なことに、ぼーん、ぼーんと大きな建物が立ちふさがっていて入れません。急崖があることだけは、なんとなーく、隙間から見えます。

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幸運なことに、その一角がたまたま工事中でした。
いま、自分が立っている位置が道路の位置。突然深い谷が出現することが、工事現場からも感じ取れます。で、いかにも水が湧きそう、とは思うのですが、湧水池(の名残)など全然見ることができません。

・・・昔の写真ではどうでしょうか。木戸別邸は、昭和20年に空襲で焼けてしまったといいます。たしかに、昭和22年の航空写真ではここは焼け野原であり、ぼやけていて池があるかどうかもわからず、そして敷地の全貌もわかりませんでした。

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昭和38年になると(gooさんありがとうございます)、周辺には住宅が建っています。写真中央部分の、木々の間に水面が見えます。
右寄りにある民家がおそらく土居さんという方のお宅であり、このお宅と庭園が最後まで昔の面影を残していた、と言われますが、平成9年に取り壊されてしまいました。

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現在の航空写真。土居邸の後に駒込パークハウスというマンションが建っています。土居邸の庭には「フ」の字型の池があり、昭和50年頃までは湧水が見られたそうです。が、その池のあった位置にも建物が被さってしまっています。この谷頭の最後の湧水、今はどうなっているのか・・・

丸印のところには、いまも池がある雰囲気です。約10年前の情報だと、3分割された土地にはそれぞれ池があり、水を循環させていたようです。今もそれぞれ、マンションの中庭として、この谷頭の自然を利用してはいるみたい。

左側の敷地は以前は電通生協会館でしたが、これも今は新しいマンションになっているようで・・・それが売出し中の記事に、「木戸邸別邸があったこと」をウリとしている文言を発見w まあとにかく木戸邸はとても広く、その1軒の敷地に現在は何百?何千?人という人が住んでいる、というわけですね。

さて、水源探しはこのくらいにして、そこから流れる谷田川支流を追ってみましょう。

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谷を見ることはあきらめ、外からまわっていくしかありません。
坂を下っていく途中に石碑があって、ここは江戸時代後期以降旗本本郷丹後守の下屋敷であったこと、石碑は将軍から獲物を下賜されたことなどが書いてある貴重な史跡であること、明治になると木戸孝允がここを別邸としたことなどが書いてありました。

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限られた道を、なるべく谷に近づくように通ります。ここは谷戸の縁といったところでしょうか。

この壁の左端あたりが、豊島区と文京区の区界です。すなわち、谷の続きにあたるのかもしれません。

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そして、この写真奥の赤茶色のマンションの右端が区界。マンションの左側の土地がだいぶ高いので、この建物自体谷底にあるのかもしれません。

おそらく、木戸邸の急崖で染み出すように湧き出た水たちは、目の前の道路を横断するように流れて、

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この、丸印のところ=区界を下って行ったと思います。豊島区駒込と、文京区本駒込の間です。

明治期の地図だと、上流は描かれていないのに、むしろここに水路が出現します(もう少し南にも湧水池があったかのような描かれ方で)。

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この隙間がさっきの区界の反対側です。
ココから出て、

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ココを通り、

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谷田川へ注いでいたと思われます。

閉じられた上流端。途中からは追えますが暗渠感が乏しく、区界であることと、明治期の地図に一部だけ載っていること、くらいしか根拠のない支流です。が、ここも一応、谷田川支流と捉えたいと思います。

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駒込といえば花街(神明三業地)があったところでもあります。
この写真は三業地のエリアで撮ったもの、奥にちらりと見えるのがさきほどの谷底マンション。つまり、木戸孝允邸支流(仮)と駒込の花街はとても近く、というか、支流は花街の端っこを掠めて流れていたと思われます。
花街のあった低地は、谷田川本流の右岸ともいえます。大正10年に営業開始、数年でめざましい発展を遂げたというこの花街と、すぐ横にある田圃や水路との風景の組み合わせを、見てみたかったものです。最盛期で芸妓は400人ほどもいたといい、今の「静かな住宅地」からは想像もつきません。戦後、料亭34軒をマークしたのを最後にあとは衰退の一途で、現在は名残もほとんどありません。。

さて、一杯いくか。

ちょうど谷田川・藍染川の記事を書くため、このへんをウロウロしていたとき、「のみちけ」なるもののチラシを見つけました。
駒込巣鴨、谷根千などで展開している企画で、のみちけ公式ホームページはコチラ。5枚1綴りが3000円のチケットで、加盟店でお得に飲むことができます。基本スタイルはチケットを1枚(=600円)出せば、酒1杯と食べもの1つ。この時点でもうお得なのです。そして選択肢が結構多い(夏は50軒ほどだったかな)!チラシを見るだけでわくわくしてしまい、夏に”谷田川のみちけマラソン”をしてきました。
そう、暗渠酒マラソンと「のみちけ」のコラボレーションです。5枚綴りのチケットを1日で使い切る=5軒ハシゴする、という暴挙に出てきました。最初の3軒は谷田川沿いです。

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最初の1杯は、立ち飲み「逆転クラブ」で生ビールと焼鳥2本、ポテサラのセット。の予定だったのですが、ありがたい誤算?で、この日はポテサラがおでん盛り合わせになってやってきました!わーいうれしい!

近所のおじさま方が集う気さくな良店。ですが、あと4軒あるのでサクッと去り、

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2軒目は少し下って、板前で焼鯖と焼酎。サバがとても美味しかった!

3軒目はさらに下って家和(は、もう加盟をやめたっぽい?)でブロッコリーとホタテの炒め物ともう1品と紹興酒。なんと突き出しの枝豆もサービスという大増量。

そこからは谷田川を離れ、4軒目は駒込駅前のホワイトヒマラヤでネパール風鶏唐(うまい!結構いっぱいくる!)とレモンサワー。5軒目は巣鴨方面に移動して、ロイヤルスターシップでカレー(ルオーっぽい美味しいカレー!)とビール。・・・かなりの満足感でした。店とメニューの組み立てを考えるのもすごく楽しかったです。
※メニューは季節で変わることもあるようです。そしてエリアがまた拡大するみたいですね。

・・・なんだか記事が詰め放題の様相を呈してきましたが、最後に小ネタをひとつ。
タイトルは、「だんだん見えづらくなるあの欄干」です。

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HONDAさんが、中里用水ガードのところに橋の欄干が埋め込まれている、という実におもしろい発見をし、藍染川桜酒マラソンのときにはここは重要撮影ポイントとなりました。

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その後、谷田川・藍染川の項を書くことになったので、この欄干と用水ガードは是非入れたいなあ、と思い、改めて写真を撮りに行きました。

自転車が邪魔だなあ。それから、ホワイトバランスを酔っ払っておかしくしてしまった・・・。なので、もう一度日を改めて、撮り直しをすることに。

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再訪。

うぅ・・・自転車増えてる・・・。しかもヤな感じに・・・。

Rankan

今回の記事を書くために、再々訪。・・・見えづらさ進化してる・・・

結局、一番写りが美しいのは、最初にこの欄干の存在を知ることとなったときの、HONDAさんの記事だったのでした。ガードレールもないしね。わたしがこの欄干とガードを美しく撮ることができるのは、いつの日か・・・。

<参考文献>
清水龍光「水」
上村敏彦「東京花街・粋な街」

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