電信隊の原さんぽ
杉並の古い地図を見ていると、気になる箇所があります。
(杉並区郷土博物館「杉並の地図を読む」昭和14年より)
暗渠者としては思わず水路を見てしまいがちなのですが、この地図の場合は真ん中をクネクネする桃園川の北方にある空間にも、水路と同じくらい惹きつけられてしまうのです。帯状にまっすぐに孤立した原野。これはいったい、何??
いくつかの地図に同じような空間があり・・・そしてまもなくその謎は解けました。
ここは、阿佐ヶ谷では「電信隊の原」という通称名で呼ばれていた場所。
中野の囲町から天沼まで続く、陸軍の演習用地だったのでした。正確にいうと最初は鉄道隊が、つぎに電信隊(第一電信連隊)が使っていたそうです(後に詳述)。そして敗戦後、昭和25~27年頃には居住者に払い下げられ・・・つまり今は単なる住宅地です。たしかに何度も横切っている場所ばかり、特におもしろかった記憶もありません。
けれど、わたしはこの帯状のもと陸軍用地に対して暗渠と同じくらいに興味を抱き、「通しで歩きたい!」という気持ちを持っていたのでした。
では、実際にその電信隊の原に行ってみるとしましょう。
スタートを西端、ゴールを東端ということに定めて開始。天沼の日大二高が西端にあたります。
日大二高といえば、かつて天沼川がふらふらと流れていた場所。この記事のコメント欄で、地元の方が付近のかつての様子を詳細に教えて下さっています。今読んでもウットリするコメント・・・。
かつてのここを、写真で見てみましょうか・・・
昭和22年の航空写真(gooさんありがとうございます)。
日大二高(写真左側)の右手から、不自然にのびている区画がそれです。ぼうぼうとした芝生が、そこだけ綺麗に刈られているかのような(でも実際はここがむしろぼうぼうの原野で、周囲の住宅地が整然だったのだけれど)。
では、現代の電信隊の原を歩き始めましょう。
右手に団地があります。前掲の航空写真でもこのあたりに集合住宅っぽいものがありますが、たぶん違うものでしょうね。
ここらへんにしては珍しく五差路などあります。古い道とでも交わるのでしょうか。
わかってはいましたが、やっぱり住宅街にある真っ直ぐなただの道です。
実際の軍用地は幅30~50mほどであり、鉄道隊の時は鉄道線路の敷設や機関車の運転訓練、電信隊の時は電線架設演習に使われたのだそうです。どちらも、この細長な土地が適しているわけです。
もう少し具体的に。ここでどんな訓練が行われていたかというと、
・線路を敷く、外す、機関車を走らせる(鉄道隊)
・地雷爆破演習(鉄道隊)
・コイルに電線を巻いたドラムを背負い、電話線の架設演習(電信隊)
・つるはしで地面に穴を掘り、次の兵が電柱を穴の傍へ置き、次の兵が電線を木の枝などにかけ、その次の兵が電線を電柱に結び付ける。後年は電柱を立てず雑木に架線していた(電信隊)
・無線がないので手動の電話機で本部と連絡をしていた(電信隊)←矢嶋氏の記憶画には、原野に座りこんで糸電話のような電話をかけている様子が描かれている
周辺には民家があったわけで。地元の方々とどうかかわっていたかというと、
・子どもは毎日のように見に行った。たまに機関車に乗せてもらうと大自慢
・休日はいたずら防止のために線路から外してあったトロッコを、大勢の子どもで線路に乗せて遊んだ
・演習で田畑を荒らされたりもしたが、いつも損害金を払ってくれたのでとくにトラブルはなかった
・演習でできた穴に雨水がたまり、大きな池になっていたので泳いだ
・地雷爆破演習の前には用地に入らぬよう村に連絡がきたが、子どもも大人も怖いもの見たさに見物に行った
こんな、ほのぼのとしたエピソードも詰まっているのでした。
かつてはそんなことが繰り広げられていた空間が、今は、こうです。
この、面影のなさといったら!そこらへんは暗渠と違いますね~。
道は、ときに狭くなったり途切れたりもします。でも、基本的に天沼~中野までほぼ直進で行けちゃうんです。それが面白くて。
それから、ふと見つけたのは、阿佐ヶ谷地区の電信隊の原沿いには井戸が多いということ。
近年できたような感じもする、周囲を装飾された井戸。
古めかしく立派な井戸。
これはすごい・・・!
もと共同井戸だったのでしょうけれど、こんなにも広い洗い場は、いまだかつて見たことがありません。
個人所有と思しき屋根付き井戸もありました。
こんな風に、大切に遺されている井戸がいくつもありました。暗渠沿いを歩いているような気分になりましたが、しかし地形はむしろ台地寄りです。
住宅地をひたすらゆくだけなので、単調と言えば単調です。
ちなみに、陸軍用地の境界石が残っているということを後で知りました。うー、見つけられませんでした。参宮橋の陸軍境界石はなんの脈絡もなく見つけられたというのに。今回気づかなかったのはとても残念。そのうち見つけて、追記したいと思います!
・・・ちょっと飽きてきて、のほほん歩いていると、
突如現れる暗渠的空間!!
いやー、このときは興奮しました。細く狭く、地形的には自然河川ではなさそう。でも、暗渠っぽいのです。それなのに、電信隊の原沿いのまっすぐ道のひとつ。
さらに、この狭い道を進んでいくと驚くべき光景が・・・
突如現れる「まったり処」!!なにこのまったり感・・・。
この極細路地の入口には看板すらなく(営業日は看板でてるのかしらん?)、かと思えば黒板に手書き・・・すさまじい隠れ家ぶり。
というか、ものすごく度肝を抜かれます。だってあの狭い道の真ん中ですよ。
店構えもびっくりで、まるで人んちのベランダじゃないですかw えー、このベランダの2席だけってこと?飲み物1杯でここで短時間まったりするという意味なのでしょうか??
・・・かなりの謎具合だったこのまったり処は、この情報によると、どうやら内部にも席があり、おいしい食べ物も提供してくれる飲み屋さんのご様子。若干ほっとしました。排水路的暗渠カフェ、ということで、一度は来てみたいと思っています。
衝撃のまったり処もふくめて、この排水路暗渠っぽいところを、振り返ってパシャリ。
後日、師匠に会う機会があったので、電信隊の原に暗渠っぽいものがありましたと報告したら、陸軍用地の排水路はあっただろうからね・・・というコメントをいただき、師匠のお墨付き?でここは暗渠ということにいたしたいと思います。
水、とか書いてあるしね。
もう少し行くと、お伊勢の森児童遊園が現れます。
すぐ近くにある阿佐ヶ谷神明宮が伊勢神宮の分社であることから、この一帯はかつて通称「お伊勢の森」と呼ばれていました。なかでもここは元伊勢の地といわれ、天祖神社の石柱があったとか(今は神明宮に移されています)。
杉の大木が生え鬱蒼とした場所で、演習の原っぱもススキや野ばらの生えた寂しい寂しいところで、住民は追いはぎを恐れながらこわごわ通っていたのだそうです。けれど、電信隊が演習に来てラッパを吹くときだけは、安心して通れたのだそうです。そんな安堵の気持ちも込めてか、「ラッパの森」とも呼ばれていました。
もう少し行けば馬橋公園です。
今は池のある静かな公園、そしてグラウンドでは子どもが運動をしているような場所ですが、この場所も陸軍用地でした。
昭和22年の航空写真です。
電信隊の原はやはり浮いています。左側にどーんと写っているのは陸軍気象部です。
日露戦争で気球が効果的だったことから、中野鉄道隊に陸軍気球隊を併設。大正2年に鉄道隊は千葉へ移り、中野気球隊は飛行隊に編成替えとなりました。
そして、陸軍はこの地に壮大な計画を立てます。日大二高までの軍用地を幅100mに広げて滑走路にしようとし、この馬橋公園を含む場所を飛行機格納用地として買い上げました。ここに、飛行場を作る計画を立てたのです。まさに、いま歩いてきた場所のことです。
けれど、滑走路予定地内に民家が多い、狭いなどの理由から計画は中止となりました。
昭和1年、おじゃんとなった飛行機格納用地には陸軍通信学校ができました。昭和14年には通信学校が移転、かわりに陸軍気象部が入りました。
次は昭和38年の航空写真です。
敗戦後、陸軍気象部は運輸省・気象庁の気象研究所となりました。広大な敷地は縮小され、白梅学園(現秀和レジデンスとNTT)と馬橋小学校に払い下げとなりました。敷地の南側に小学校が出来ていることが、写真からもわかると思います。
昭和55年には、その気象研究所も筑波へ移転することとなりました。
・・・杉並新聞を見てみると、この移転に際して地元住民が運動を繰り広げていたことがわかります。もともとこの土地は、農地と宅地を強制的に(飛行機格納用に)陸軍から接収されたもの。その、農家を含む地元の方々がここを是非公園に!と強く願ったのでした(昭和46年)。昭和56年には決着がつき、公園化が決定しました。ここでは、陸軍用地へのネガティブな思いも滲んでいる気がします。
いまも、気象研究所跡地周辺不燃化まちづくり、という看板が馬橋公園の片隅に立っており、気象研究所跡地を公園として払い下げたことが簡単に書いてあります。
不燃化まちづくり・・・そういえば、当時の杉並新聞にはたしかに火事の記事がめちゃめちゃ多かったんですよね。この土地は最終的には地元の方の役に立ったということなのでしょうか。
気象研究所の名残といえる、気象庁の宿舎。馬橋公園の隣にあり、現役です。
ちなみに、このあたりの場所から、高円寺のエトアール通り奥へ向かう桃園川支流がひとつ、流れ出しています。このリンク先の記事の続きを書く用意はしてあるのですが・・・むにゃむにゃ
気象部隊の名残はもうひとつ、場所が離れますが、高円寺氷川神社にもあります。
唯一の気象の神様ということで、しばしば取り上げられる”気象神社”です。天気予報のまじないに因んだという、下駄タイプ絵馬たちが並んでいます。表は建前、裏には本音が書いてある・・・と言う人もいましたが、裏には何も書かれていない下駄が多そうでした。
社殿脇に由緒が書いてありました。陸軍気象部の構内(現馬橋公園)に昭和19年に造営、空襲により焼失したが再建。終戦後、気象部隊解散に伴い高円寺氷川神社に移設。社殿の腐蝕が甚だしかったため、平成15年に社殿新設。インターネットで気象神社の様子を公開中で、夜間はライトアップされるのだそうですw。
電信隊の原にまつわる歴史・・・ひろがります。
馬橋公園からふたたび歩き出すと、道から、家を一軒隔てただけの位置にまた道があります。
暗渠か?と見紛うほどの違和感ぶり。家を一軒隔てただけで道があるときって、だいたい暗渠があるパターンなので・・・。でも、ここはそうじゃない。
道は狭くなったり、太くなったり、舗装がなくなったりしながら進みます。
ある家が更地になっていました。こういうふうに見ると、1軒分だけ挟んで道があることがわかりやすいと思います。
また更地がありました。これ、今回いちばん原野っぽい風景だなあ。
こんな感じの空間を、兵士が走り回っていたのでしょうか。
そろそろゴールが近付きます。高円寺の、庚申通りやらあづま通りやら、にぎやかな商店街をするする横断します。
最後までまっすぐでしたね。
やがてゴールにたどり着きます。電信隊の原の東端にあたるのは、今年オープンしたてほやほやの、中野セントラルパークです。
公園の一角には、このように親水空間がありました。もよもよと水が湧いています、人工的に。
つながるなあ、と思うのは、ここは以前湧水が豊富だった場所なのです。天神川の水源であったり、たかはら支流の水源がすぐ近くであったり。他にも掘ればすぐにたくさん湧いてくるような土地です。この人工池がそれを計算に入れているのかいないのかはわかりませんがね・・・
セントラルパークはぴっかぴかですが、すべてが新しくなったわけではなく、このように古い木もあります。いつの時代からのものか・・・
この土地を最初に使用したのは綱吉で、ご存じ”御囲い”を作りました。1695年末に犬の収容を開始し、15年間存続したそうです。
次に使ったのは陸軍関係の施設。陸軍鉄道隊、電信隊、気球隊兵舎が明治30年に創設されました。後に交通兵旅団司令部も。これらの施設の影響で、中野駅の需要は随分増加したようです。以前書いた中野駅移転にも、この話は関わります。
やがて鉄道隊と気球隊は千葉に移転。残った電信隊は、第一電信連隊と改称しました。その後、昭和13年にここに出来たのが陸軍中野学校でした。
戦後は警察大学校と警察学校になりましたが、平成13年に移転しています。
つい数年前までは、コンクリートの塀に囲まれ、鬱蒼とした廃墟的空間でした。その秘密めいている感じがなんとも好きだったのですが・・・。
着々と工事は進み、今年3月には公園や商業施設を含む、やたらと綺麗な場所となりました。
長い長い、変遷の歴史がここにあり。むかしの写真を見てみます。
昭和22年の航空写真です(gooさんありがとうございます)。
陸軍中野は極秘部隊ですから、校門には「陸軍省通信研究所」と小さな表札が出ていただけ(憲兵隊と思う人が多かった)、といいます。
また、写真からは切れてしまっていますが、大正~昭和初期の地図では、中野駅からこの敷地内へと分岐する引込線が見られます。
昭和38年。この頃は警察学校のはずです。敷地内左下に自動車訓練場のようなものがありますが、まさにこれがちょっと前までは横から見えていました。
ちなみに、中野セントラルパークは軍用地の一部にすぎず、残りの場所はサンプラザ、区役所、中野税務署に区立体育館、NTTなどになっています。
いまのすがた。いやはや、ものすごい変わりようです。
中野セントラルパークには、ショップやレストランがいくつもあり、開放的なテラス席もいっぱい。この日は、テラス席狙いでスペイン料理にするか英国パブにするか迷って、
英国パブ"THE FooT NiK"でビールを飲むことにしました。
外の昼ビールはホントにんまいな~~。背後ではモンテディオ山形の試合と、それを見守るサッカーファンで盛り上がってました。
チキン&チップス、ソーセージロール、生ハムとマッシュルームのサラダ。どれも美味しく、たいへん満足しました。ほかのも食べたくなるなーこれは。
来年4月からは大学がオープンし、人口密度がぐっと高まるでしょうから、今が行き時かもしれません。
なんだか、中野らしさがちょっと失せた気がしますが・・・。でも、隣に座った夫婦が「こういう場所が出来て、ほんと良かったね。」と言っていたので、こういう場所を待っていた人だってきっとたくさんいるのでしょう。
これにて、電信隊の原さんぽはおしまい。
明治期から終戦まで、中野~荻窪の北に、不自然にあった陸軍のための原野。
いまも名残がこんな風に地図上にもあります。
西端も東端も水の湧きやすい土地である、という不思議なつながりを持ちつつも、井戸がいくつもあり、1ブロック隣に道路がありながらも、暗渠ではない道。ちょっと平坦だけど、真っ直ぐな電信隊の原を、ラッパの音を想像しながら歩くのも、そんなに悪くないかもしれません。
※気球隊をはじめとし、いくつかの部隊の入れ替わりについて、文献によって若干のばらつきが見られます。本記事にも間違いがありましたら申し訳ありません。
<参考文献>
杉並区教育委員会「杉並の地名」
杉並区教育委員会「杉並の通称地名」
杉並区郷土博物館「杉並の地図を読む」
杉並区郷土博物館分館「荻窪の古老矢嶋又次が遺した記憶画」
杉並新聞 第1889号
杉並新聞 第2202号
「サンモールのあゆみ」
中野区立中央図書館「中野交通ノスタルジィ part1」
森泰樹「杉並区史探訪」
森泰樹「杉並風土記 中巻」
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コメント
私のブログにコメントいただきありがとうございました。
更に深堀してあって勉強になりました。ご教示感謝します。
東京「暗渠」散歩、スリバチ地形散歩(1&2)持っております。(スリバチは皆川さん石川さんのサイン入り)「水路をゆく」担当編集の大野さんとは街歩きした際に水路や暗渠でも盛り上がりました。
当方、仕事の関係上、杭とか赤道青道畦畔関係はある程度嗜んでおります。
今後ともご指導のほどよろしくお願いします。
投稿: 革洋同 | 2014年2月 8日 (土) 15時51分
>革洋同さま
ご丁寧なご挨拶をいただき、感謝申し上げます。
また、暗渠本のお買い上げもありがとうございました。
おお・・・大野さんも、ときどき一緒に遊ばせていただいております。これは共通の知人が多そうな、といいますか、何処かでお会いしているかもしれませんね。
>杭とか赤道青道畦畔関係
お仕事で関わっていらっしゃるのですか。わたしは興味でつまみ食い程度の知識ですので、こちらこそ、是非ともいろいろご教示頂きたく思います。また記事を拝見しにまいりますね。どうもありがとうございました。
投稿: nama | 2014年2月 9日 (日) 16時35分