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2012年11月

谷田川暗渠の裏表と古河庭園支流(仮)

前回に続いて、谷田川を下ってまいります。

染井銀座商店街にちょうど出るところで目につくのが、この看板。

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「昼食」どーん。気になります・・・。

以前は、谷田川の流路は右に折れる染井銀座商店街ルートのみと思っていたのですが、実は奥へ直進する区界ルートもあります。つまり、この看板を出しているお店は、暗渠沿いめし屋になる、ということ。益々、気になります・・・。

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つくも、というらしいです。
「7品付き定食」「ご飯二杯まで同じねだん」まるで学生街のようなフレコミ。外語大があったころの名残なのかどうか・・・。染井あたりは歩いていても、この定食屋さんのニーズに沿うような人とはあまりすれ違わない気がするので、なんとも気になる看板です。この手書き感もね。

のれんには「本店」とあるので、支店もあるようです。

さてこの暗渠めし屋さん。開店まもない時間帯に、お腹もすいていないのに入ってみました。
カウンターと座敷があるのですが、まず目に飛び込んでくるのは金魚。金魚です。
寿司屋さんのショーケース的なものの上に、金魚の水槽があってブクブクしています。そして入ってすぐの座敷席には、食事用のテーブル上に水槽があり、金魚を眺めながら食事をする格好になっています。
・・・しかも、けっこうでかい立派な金魚。

もし魚料理を食べることになったら、わたしはその視界に耐えることができるのだろうか?そんな一瞬の怯えを感じ、奥座敷の金魚無し席に座ることにしました。

注文。「表に書いてある、7品付きのやつ下さい。」と言ったところ、どうやら定食は種類がけっこうあって、そこから選ぶようです。肉じゃがや焼き魚など、ホッとする系のラインナップ。

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アジのひらき定食(680円也)にしてみました。
小鉢3つ、アジ、お味噌汁、おつけもの。おつけもの2種を「2」でカウントして計7品・・・か?
小鉢は、いかと大根の炒め煮や小松菜の煮たのなど、なかなか美味。そしてお味噌汁には柚子が一切れ入っていて嬉しいかんじ。

もうひとつの小鉢はどう見てもさつま揚げだったのですが、おばさんが厨房からおもむろに「マヨネーズ、かけてもいい?」とやって来、「?????」となります。その正体は、ジャガイモの揚げたのだったのですが、たしかにマヨネーズがあってよかったという味でした。
・・・「最近の人はマヨネーズ厭だって言うからさぁ。」わたしの小鉢にビュウッとマヨネーズを絞り、そう言って立ち去るおばさんを見送る、あの不思議な感覚は忘れられません。

食べ終わってしばし地図を眺め、トイレに行ったのですが、トイレにももれなく金魚はおりました。和式トイレの正面奥に、水槽が2台鎮座(しかも薄い板の上に置いただけ)。しゃがんで、立ち上がるときに頭を打つロケーションです。
もれなく頭を下からその板に打ちつけ、ぐわんぐわん揺れる金魚たち。わたしも金魚も、たいそう心細い思いをした瞬間でした。

そんな、ありがたい店「つくも」。金魚好きの方におススメでございます。

さて、この後、谷田川暗渠を下ろうとするなら道は2通り。商店街を行くか、区界を行くか。藍染川桜酒マラソンの時に通らなかった、区界のみちをゆきましょう。

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いま写っている「家庭料理はせがわ」も、暗渠沿いめし屋と言えます。この看板だけ見ると和食屋さんぽいかもしれませんが、入口にまわるともっと混沌としてまいります・・・そして、ウェブを見てみると300円でカレー系のランチが食べられるみたいですね!へぇぇ~。

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通るたびに写真に撮っちゃうのがここ。染井荘と井戸のようなもの。「染井」感があるので。

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さすが区界、暗渠らしい空間です。

裏表、などと書きましたが、どちらが表でどちらが裏か、というのは、簡単には決められませんね。

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もしかすると暗渠者的にはこっちの道の方が、「表」感があるかもしれません。

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しばらく進むと、暗渠は大きめの通りと一緒になるかのように見せかけて、

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区界は次の瞬間、かくっとこう折れます。
「ほぉ、こう来るか!」と唸る場所。

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その先、氷室の裏を通ったりしながら、区界はクイッと南下してしまうのですが、暗渠は区界と別になり、もう一本の流路に近づいていくのでした。複数あったこの谷田川の流れは、霜降橋のあたりでひとつになると言われます。

その前に、旧古河庭園の排水が流れ込んでくる場所があります。

古河庭園は明治の初年、陸奥宗光が別宅として作ったものが始まりのようです(つまり江戸の大名屋敷ではない)。明治32年に古河家へ譲渡、大正3年に古河虎之助が拡張と改修を行い、大正12年までのわずかな期間、本宅としていました。戦後は大蔵省の所管となり、地元の強い要望から昭和31年に有料庭園として公開されます。

バラの写真で有名な旧古河庭園ですが、行ったことがありませんでした。まさか最初の訪問目的が、谷田川支流を探るため、になろうとは。

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それは、とてもとても暑い日でした。

ジョサイア・コンドル氏の設計による(厳密にいうと後から小川治兵衛が和風庭園を作庭したらしいけど)”洋風から和風への漸次移行”を味わう余裕なく、”洋”をすっ飛ばして一目散に池を目指します。
リバーサイドさんが旧古河庭園の中をじっくりとレポートされていますので、内部についてはそちらをご覧ください。

坂道を下ります。谷田川の谷戸への傾斜を巧みに利用した庭園であるので、この坂も谷田川が削った崖をベースにしているわけです。

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低いところに来ると見え始める心字池。約300坪もあるそうです。
三四郎池同様、この庭のために掘られた人工池であり、余土で南側に丘が盛られています。

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池の水が流れ出し、下へと流れていくところが今日の観察ポイントです。

なお、池へと注ぐ水路もあって、そこには立派な滝がありますが、井戸水ポンプアップでの補給によるものです。(池自体には、いまも僅かに湧水があるそうですが。)

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庭園内での流末。橋をくぐっていよいよ隅っこに来ます。
このあたりからテンションが上がってきます・・・わたしが見たかったものは、この流末部分なので。

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門の少し手前で、開渠は終わっていました。敷地の排水はすべて、外園車道に沿った下水に吸収されて、裏門から谷田川に流れている、とのこと。すなわち、裏門近辺が最大の興奮ポイントです。

ではそそくさと庭園を去り、裏門の外側を舐めるように味わうとしましょう。

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裏門の向こうは、うら寂しい公園でした。
余ったんでしょうかね・・・土地がね・・・。ちなみにここは水路敷ではありません。

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でも水路敷っぽくって好きです、こういうの。

ウゥ、さみしい・・・

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この、壁から左へと延びてゆく何処かが、谷田川への排水ルートになっているはずなのです。

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この道か?

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それともこの道か?縦に延びる道は、何本かあります。が、どこも暗渠っぽさがいまひとつ。

釈然としないまま一度家に帰り、近代デジタルライブラリー(しかすけさんthxです!)の古地図を見ると、いま見てきた道はどれも該当しないのでした。今はもう住宅に飲まれてしまった場所に、排水路があるのでした。どうりで!

Furukawamap

現代の住宅の並びを見ると、実は一目瞭然なのです。yahooさんありがとうございます。ちなみに谷田川を青点線で示します。
水色の丸で囲んだ、真ん中にある不自然な隙間。

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その隙間にあたる場所は、古河庭園の壁から見ると、ココから始まり、

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ココから出てくるのでした!

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・・・って、今もあるとは!!!
なんと護岸が残っています。僅か数メートルですが、暗渠らしい感じで残っています。しかし、明らかに道ではないので、一人で入ってキャッキャしていると、とても危ない人だと思われる気がします(一人でキャッキャしてましたが)。

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お向かいはクリーニング店でした。水路の跡はここで消えてしまうけど、なんとも清々しい気持ち。

ただし、下水道台帳ではこの位置に下水管はありませんでした。両側の道に付け替えられたのでしょう。

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いま見た水路の水も流れ込んでいた、川跡=霜降銀座商店街を、ウキウキ歩きます。あ、この焼鳥屋さん(SHOGUN)も、なかなかよいですよ。イートインできる場所があって、そこでおいしい焼鳥をつまみ、背後にある冷蔵庫から缶ビールを自分で取って飲む。そんな気さくな暗渠めし屋さんです。

商店街沿いが多いように見える谷田川ですが、ときどきこういう小さなタカラモノが埋まってもいます。清々しい気持ちで、谷田川をさらに下りてゆきます。待て、次号。

<参考文献>
北村信正「旧古河庭園」
清水龍光「水」

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谷田川巣鴨支流(仮)と「あの橋」

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東京「暗渠」散歩、発売となりました。すでにお買い求め頂いたみなさま、どうもありがとうございます。

きっと他の著者さんもそうではないかと思っているのですが、自分の場合は担当した3暗渠とも、文字数の都合でかなりの情報を割愛せざるを得ませんでした。本文に入らない情報をキャプションに押し込めたら、それも削ることになってしまったり。。
そもそも、文中では全く触れていない支流もあります。内容的にはささやかだけど、自分としては発見だったりおもしろかったりしたものが、もっとたくさんあるのです。そういった割愛分を暫くブログにて綴っていきますので、併せて楽しんで頂ければ幸いです。

まずは、当ブログでの登場回数が少ない谷田川から。
巣鴨からやってくるので巣鴨支流(仮)ととりあえず呼ばせていただき、それと「あの橋」をご紹介します。・・・「あの肉」みたいな言い方ですけども。

藍染川桜酒マラソンをした際、HONDAさんがちょろりと言ったひとこと。「北からももう一本あるんですよ」・・・逆川のあたりかと思いましたが、もっと西に、それらしき谷がありました。北区と豊島区のちょうど区界となっています。

Sugamap


こんな感じ(yahooさんありがとうございます)。・・・ありそうですよね。
地図を見て「ここらへんから始まりそう」などと適当極まりない予測をし、でも念のためもう少し端からスタートしよう、と思いました。それが、区界と都電荒川線のぶつかる位置でした。

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都電に乗り、新庚申塚で降車。
・・・しかし予想に反して、その谷は電車からも既に見えているのでした。暗渠者どうしが乗っていたなら、車内で顔を見合わせ頷くレベルです。

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しかも、この界隈では実に珍しい、蓋が。

ここが上流端と思しきところ。しかし池らしいカタチは残っていません。もう少し北にお寺が固まっている場所があり気になりますが、地形的にはそこから来ているかは微妙です。では、この水路の始まりは何なのか・・・排水なのか、湧水があったのか、文献はいまのところ見つかっていません。

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微妙ですが、敷石ではないと思います。思いたい、という願いも込めて。

コンクリ蓋が出てくるのは、あとにもさきにも、ここだけ。

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さあ、下っていきましょう。

お岩通りを横切ると、

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じつに暗渠らしい狭い道が続きます。

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両岸が高い。苔むしている。

人の出入りは割とあって、洗濯物を干すひと、近所の方同士のごあいさつ、そんな生活感のある暗渠です。

Sugamoneko

横の茂みに猫が隠れていたり。

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いい雰囲気。そういえば、区界にしてはボサボサ感が少ないような気がします。

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ツギハギ護岸にミニ階段。

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ミニナナメ階段。

洗い場でもあったのでしょうか・・・?

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お、クリーニング屋さんだ。
細道の奥まったところにあり、近所にお店もないのにクリーニング屋さんだけがあって、だいじな暗渠サインという感じです。

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道は少々太くなります。武蔵野中・高の脇を通ります。
左岸がどんどん高くなっていく感じ。

Gaigodai

左岸の道を見上げれば、向こうには丘(高校~西ヶ原みんなの公園)。そしてその先に石神井川がつくった谷があるので、この丘を少し上っただけで空が大きく見えます。

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中流部あたりから、傍流があったような雰囲気と、2流をつなぐ水路跡のようなものが出現します。田圃だったのかな。

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下流では、かくっと折れて、

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左岸がいよいよ高くなって、そして大きな道路に出て、この先は行方不明。どうにか流れて、谷田川と合流するはずなのですが、合流点の名残はありません。

後日追記:
この支流、谷戸ラブさんが取り上げてらっしゃいました。「
染井あたりの続き」。独特の口調でうつしだされる、暗渠沿いのおもしろいものたち!

地形と併せてみてみると、こうです(google earthさんありがとうございます)。

Sugamomap

巣鴨支流(仮)は、点線で示しました。一応長池も丸で囲みました。

この陰影図を見ると、他にも窪んでいるところがあるのが気になります。近辺には湧水池がいくつもあったことがしばしば描写されますが、その位置はかならずしも一致しないのでここでは自信なさげに書いておくとしましょう。

たとえば、

Ike

江戸期には、いま立っているあたりに池があり、この道を小川が下っていくようでした。

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池跡は現在住宅地でありわかりづらく、小川も暗渠度の低い道で。うろうろしていると、その小川沿いには遺跡のようなトマソンのようなものがありました。

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もうすこし、ぐるぐると窪地を探して歩いてみます。
慈眼寺前に出てきました。

・・・何気なく歩いていると、

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ん・・・?

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こ、これは・・・?

「し」しか読めません(泣)!!誰ぞ、これ読めるお方はおらぬか~~。

で、この位置でこれを見ると、いやでも「あの橋」の親柱なのではないか、と思ってしまうわけです。

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不染橋のね!

以前谷戸ラブさんが書かれ、通っていたはずなのにあっさり見逃していた自分を反省した、この橋。
藍染川(谷田川)と関連はしているのだろうけれども、文献上はまだ手掛かりのない、この橋。

1つめの石と不染橋親柱との位置関係は、こうです。

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ワンペア。
こんなに遠く離れていても、傾き加減が一緒なところが、微笑ましくありません?w

しかし奥の親柱は完全に車止めであり、この日も通りすがりの自転車が「ガッ!」とぶつかっていってしまい、気が気ではありませんでした。・・・おねがい、「自転車ガッ」だけはやめてあげて・・・

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水路として描かれることはないのだけど、慈眼寺近辺の、この道も怪しいんですよねえ。暗渠感があるんです。ここは豊島青果市場のやや北に位置するのですが、青果市場裏手斜面にも湧水があったということなので、ここはその水が流れていたかもしれません。あるいは、右手に見える墓地ごと、湿地帯だったかもしれません。

慈眼寺本堂の場所も江戸時代は湧水池だったようです。

Sugamomap2

住宅地にあった池を左、慈眼寺の位置を右に、水色の丸で示しました。ほかにも長池の右上あたりに湧水池と言われるものがまだあります。谷田川の源流部は、こんな風に湧水点が入り乱れていたのでした。

さて。ここらへんで、一杯といったら、やきとん高木でしょう。巣鴨の方に戻るけど。
実に硬派な飲み屋さんであります。頑固おやじのような入口(でもバイトさんは若い女性)。いぶし銀の店内。やきとん、モツ煮をはじめ、古き良きツマミ類。わたしはモツ煮の”モツ以外”を食べるため、モツのみのモツ煮がくると惨敗するのですが、ここはそうでした。イヨッ、硬派!

Takagiya

異彩を放つものとして、焼酎の牛乳割があります。焼酎はまるで水道水みたいな顔をして、コップでやってきます。牛乳は見ての通り。これをホッピーのごとく混ぜて飲むのです。ウコンハイを飲んでいるときのような、体にやさしい気持ちに・・・なっていたかどうか、あまり覚えていません。
うまいかまずいか、それはあなた次第。

さて、数回は谷田川をのんびり下っていきたいと思います。

<参考文献>
江戸東京重ね地図(CD-ROM)
「滝野川 第4号」

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暗渠めし 東京競馬場西門前食堂群

既に大手の書店では販売しているようなので、告知します。
11月26日発売予定の”地形を楽しむ東京「暗渠」散歩”(本田創編著、洋泉社)の一部を執筆させていただきました。
暗渠に興味を持ちはじめた頃、「暗渠」という語で検索してみてもそんな書籍は見つかることはなく・・・あの手この手で探し、少しずつ暗渠のことが書いてあるものを集めてきました。今こうやって暗渠の本に自分も関わらせていただけたことは、かなり感無量です。関係者の皆様に心より感謝しつつ・・・東京のさまざまなエリアをカバーしている良本だと思いますので(わたしは例によって自分の思い入れのあるちょこっとしか書いていませんが;;)、お買い求めいただけたらうれしいです。

                       ***

と言いつつ、全然暗渠本とは関係のない内容で開始。今回はギャンブルめしの素晴らしさについて、とくとお伝えしたいと思っております。

前記事では、お祭りなのにアルコールが一切無い、という不思議な場に出くわしてしまいました。なので、なぜかおにぎりを二人で三つも頬張り、酒ではなく野菜の鍋を啜り、コロッケをビール抜きで食べ・・・。そして東武線から武蔵野線に乗り換えて、「貨物線だねぇ」「”浦和”が多すぎだねえ」なんてぶつくさ言いながら、ガタンゴトン終着駅までやってきたのでした。

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そして、府中本町から歩いてくると、そこに広がるものは・・・!

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うおー・・・。

実は、わりと最近、東京競馬場にギャンブルめしを味わいにきたのですが、以前とは打って変わった空間になっていたことに、ちょっと落胆して帰ってきたのでした。
周辺にある飲み屋で知っていたのは「加藤屋」くらいでした。でもそこもまあ、それほど引力があるわけでもなかった(外見的に)。でも、なんとなく諦めきれなくてボヤっと検索していたら、こういうサイトがヒットしたのです・・・。
ただ、こういう古いものって、現地に行ってみるともう無い(道路やマンションになっている)、とか、建て替えられた、とか、そういうパターンも想定しておかないと、かなり参っちゃうのです。なので、とにかく最後まで半信半疑で向かいました。だから、なおさら、感動・・・あったよ、あった・・・オケラ街道・・・

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うおおー、この、屋根の上に書いてあるメニュー!昭和!
昭和の東京などで、「中華そば30円」と書かれた看板が目を引く商店街の写真がよくありますけど、それとなんら変わらない雰囲気なのです。浅草あたりではまだまだ現役かもしれないけれど、いまやあちこちで消滅してしまった雰囲気。

さあさあ、お店は何軒も並んでいます。どこに入る・・・?

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・・・ここで、わたしたちはあるものに気づいてしまいました。

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「千鳥」の下!・・・これ、暗渠じゃね?うん、これ暗渠だよねたぶん。

後ろを振り返ってみると、

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あああ、もうこれ間違いなく暗渠だよね。そしてこのフェンスの向こうは開渠なんじゃないだろうか。

ここにあるってことは、府中用水だということ。以前、アトリエ77(川の絵本のお店)に来たときに、これの一本北を走る水路を見ていました。コンクリ蓋暗渠でやってきた府中用水が、開渠となって競馬場にまっすぐ向かっていくという、ドラマチックなものでした。

眩暈がするほど、網の目状に張り巡らされた府中用水。これは市川用水と呼ばれる、府中用水の主流路のひとつのようです。ちょうどこの付近は橋場というようでした(府中街道に渡した橋に関係?)。

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立小便厳禁ですかそうですか・・・。開渠むき出しの頃は、トイレだと思う人もいらしたのでしょうか。
恋焦がれてやって来た飲み屋街で、思いもよらなかった水路と出会う。酔いが回らないうちに、下流も追ってみます。

すると、千鳥さんのところで店の下に潜った暗渠は、

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このように、飲み屋さん数軒の下をくぐって流れているのでした。

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まだまだ店の下。店蓋、ってことか・・・。

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さらに下流にいくと、こうやってややカーブして競馬場に入っていきました。あとはもう追えません(でも、競馬場に入っていく・出てくる水路はいつかは網羅したいです)。
トイレが真後ろにあります。後述のお店たちにはトイレがないので、このトイレは西門飲みには必須の場所。

ん。待てよ。飲み屋さんの真下を通っている・・ということは・・・?
お店を覘いてみます。そろーり。

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うおおお!!店内にコンクリ蓋暗渠が見えている・・・!!すご・・・目がまんまるになります。
もうまずはこの「みなみや」で飲むこと決定。

店に入ると、店員さんが「いらっしゃーい、どうぞ、奥のテレビの近くに座ってね~」と言ってくださるんですが、いえいえわたしたちの目当てはレース観戦ではないのです。と、可能な限り入口側に座りました。

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ポテサラとモツ煮、ビール。

あれ、美味い!このポテサラ、ベーシックに美味い富士食堂ほどではないけどなかなかのクオリティ)。モツもやわらかくて美味しかったらしいです。

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・・・で、コンクリ蓋暗渠を見ながらビールをちびり。

チラッ。

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つづいて、銀ムツの煮つけと熱燗も。
うぁぁぁぁ煮つけ美味いいいいいい!!味付けも絶妙にちょうどいい。この、菜っ葉がまた・・・煮汁をじゅうぶんに絡ませて口に運べば、もうハフーンです。

ここ、日替わりのお魚メニューがけっこう充実しているようでした。この日は、ほかにもアコウダイの塩焼きやサバ味噌があって迷いました。

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その、魚のならぶケースを見るふりをしながら。

チラッチラッ。

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メニューの配色も素敵でした。
しかしここ、揚げ物が一切ないんです。

こういうとこ来て、揚げ物を食べないってのはどうも調子が出ません。
ってなわけで、暗渠上からは外れてしまいますが、品数の豊富そうな「かめや」さんに移動してみました。

「かめや」は、今の「みなみや」の建物がものすごく頑強に思えてくるような、トタンとベニヤ板と、廃材のような柱でできたお店で。椅子もきっと手作りだと思います・・・それがまた、かなり良いんです。。

こんどは揚げ物から選びます。

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アージーフーラーイー。
アジが立った!アジが立った!

いやー、盛り付けがうつくしい。背後に見えているお新香盛り合わせも、料亭のようなうつくしさで登場しました。
で、これもまた味のクオリティも高いんです。ただ、お値段もまあまあ。アジフライは700円でした。マグロ刺なんて1800円で、これは勝ったとき用のメニューなのだろうな。

最初はお客さんは2人しかいなかったのですが、徐々に増え始めました。そろそろ最終レース、といった時間帯。
何人かのお客さんが、「おかえりなさーい!」と声掛けをされていました(わたしたちは「いらっしゃい」)。

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わははは、赤ワインがあるwなぜここにwww って、もう赤ワインって言いたいだけで頼んでしまいました。そんな、いろんなことのバランスがおもしろいお店でした。

気づけば、周囲はほぼ満席になりつつあり。6人くらいの団体さんが、万馬券祝いの「かんぱーい!!!」を盛大にやっていました。万馬券祝いで他のテーブルにマグロ刺を配ってくれたりしないかしら・・・とちょっと待ってみましたが、そんな現象は起きませんでした。

ああ・・・すごい非日常だなあ。週末だけ出現する、この空間。

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・・・で、そろそろ帰ろうかという頃。外の景色が一変していました。

最終レースの時間帯に合わせてオープンエア席が出来るのです。各店、ここで本気を出し始めるようで、焼き鳥の煙が昼間の数倍増しくらいになってます。
人がどんどん店に吸い込まれ、最初「みなみや」で座ることのできなかった蓋暗渠の真上席にも、この時間なら座れるみたい。

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あまりに良い眺めなので、ぐ~っと見入ってしまいました。

で、こういう方向で、あの人たちの足もとを府中用水が流れてんだよな。という視点ももちろん忘れずに。

帰ることが出来なくなってしまい、今度は中華そばのある「南里」さんの外席にどっかり。モロキュウ、熱燗。そして〆の中華そば。

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目の前に暗渠があるんだよなー、なんて思ってほくそ笑みながら、ずるずる~。

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・・・チラッ。

                        ***

Huchu

今回見た水路を濃いブルーの点線で示しました。ほかの水路は水色で。周囲はこのように、府中用水ラッシュのようです。

いかがでしたでしょうか。以前書いた江戸川競艇場前のめし屋さんも、なぜか素朴な姿の暗渠上にあり、そして非常に美味でした。今回も・・・これって不思議な共通点。自然と、次なるギャンブル美味暗渠めしの存在を期待してしまいます。

次回からは、暗渠本で書ききれなかった情報を補う趣旨の記事が続くと思います。が、ときどき、一服の清涼剤のように暗渠めし記事などを挟みつつ行く予定です。どうぞ、よろしくお願いします。

<参考文献>
菅原健二「川の地図辞典 多摩東部編」
くにたち郷土文化館・府中用水土地改良区「府中用水」

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首都圏外郭放水路調圧水槽見学

かねてより行きたいと思っていた、春日部の首都圏外郭放水路特別見学会に行ってまいりました(Uちゃん、情報ありがとうございました!)。
特別見学会。ありがたい響きです。

首都圏外郭放水路とは(ここをご覧になる方たちはみなさんご存じだと思いつつも)・・・当ブログのおすすめ本にも載っている「ニッポン地下観光ガイド」の説明を要約すると、

春日部周辺には小さな川が多く、しばしば氾濫していたため、それを防ぐために地下につくられた人工の川(立坑およびトンネル)と水槽。水槽=調圧水槽といい、地底湖のようなイメージで、地下25mほどの深さに、長さ177m、幅78mの、サッカー場がすっぽり入るほどの空間である。

といったもの。タイトルにもあるように、首都圏外郭放水路見学、というのは現在、この調圧水槽見学、と同じことだと思います(トンネルの見学はできないので)。

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これは現地にあった地図ですが、たしかに数本の川が平地に並んでいます。断面にすると、中川~綾瀬川の部分は”皿のような地形”であり、水が溜まりやすいのだそう。皿の部分を蛇行している川の名は、綾瀬川、元荒川、大落古利根川、倉松川、中川(幸松川、第18号水路、などもみられる・・・気になる名前がいくつかありますが、置いといて)。その更に外側、見沼代用水と江戸川のあたりまでくると、灰皿の上みたいなかたちになっています。

外郭放水路は写真の赤い部分にあります。”皿部分”の水路沿いに5つの立坑をもち、それぞれの水路で水位が上昇し越流堤を超えた場合、その水は各立坑に流入。地下を結ぶトンネルを通り、調圧水槽でストップします。そして調圧水槽で水勢を弱め、スムーズに江戸川に吐き出すのです。(こんな風に文章でグダグダいくより、ここの動画を見たほうがカッコいい!第三立坑のドロップシャフトがとくにカッコいい!)

すべて、地下での出来事。もともと地下ものが好きな自分としては、暗渠趣味より前から行きたかった場所でもあるのですが、平日に行けないわけでもないのだけれど、事前に予約するのが面倒くさい。そして遠い、遠すぎる・・・。この2つがネックとなり、行けていませんでした。
なので、この特別見学会が、しかも暗渠さんぽに行きたくならないような微妙な天気の日に行われて、とてもありがたかったのでした。

久しぶりに東武線に乗り、南桜井駅で降り、バスで向かいます。バスで向かう道の隣、とても引込線跡っぽかったけど、よくわからず。社会科見学好きそうな20~30代の人たちや、お祭り目当ての家族連れなどを乗せ、満員バスがゆくよ、ゆくよ。

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バスを降りると、目の前にもう庄和排水機場がありました。左を見れば、放流口もありました。すべてが、どでかい・・・。

この下に、調圧水槽で溜まった水をゆるやかに排出するための機械があるようです。どうやら、ガスタービンを使ってポンプでくみ上げる、つまりポンプ所と同じ構造になっているようでした。

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そしてシールドマシン時計(の、奥に見えるのが放流口の水門です、たぶん)。
首都圏外郭放水路トンネル工事で使用したシールドマシンの面板だということで・・・いやぁ考えたもんですねぇ。高原にある花時計みたいに輝いていますねぇ!

これまで、トンネル工事見学で使用中のシールドマシンは見たことがありますが、こんなふうに加工されたものは初めて見ました。日比谷共同溝工事では、任務を終えたシールドマシンの面板はバーナーで焼き切られ鉄くずになった、ということなので、このように保存されているのは、なんとも素晴らしき事哉。・・・みうらじゅん&山田五郎の男同志という番組のキーワードに「シールド工法」を投稿したことがあるくらいには(そして不採用)、好きです、これ。

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ざくざく歩いていると、お祭りの会場に出ます。特別見学会の日は、地元のお祭りと一緒なのです。混まないように開始間もない時間にやってきたので、このお祭りのにぎわいはまあまあ、という感じでしょうか。

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案内板がありました。
1つ前の写真は、この案内板のほぼ「現在地」で撮っています。つまり、お祭り会場の真下が調圧水槽というわけです。

うほほ・・・お祭りで何か食べる前に、調圧水槽の見学に行くとしましょう。いざ、この地下へ!

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ここが、地下への入り口。

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ぐるんぐるん、かくんかくんと降りていきます。

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地底にたどり着きました。思ったほど潜る感じではなかったです。

さあ、「地下神殿」ともいわれる空間が、すぐそこに・・・!

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AP+0.173。

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ほんとうは水しか入れない場所に、人がこんな風に居る不思議。

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柱に残る模様。
生ビールを上手に飲んだとき、ビアジョッキに残る泡跡のよう。

・・・きっと、そんな風に規則的に水を排出している、おりこうさんの跡。

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ここらへんまではよく水が来るのかな。

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床にも跡。これは清掃の跡(わからない)?

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水の跡。

最近溜まった雨水なのかもしれないけど、横から浸み出している地下水に見えなくも、ない。

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あそこを人が歩くことはあるのかな。

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立坑が出現。
前述のように立坑は5つあるのですが、そのうち「第一立坑」だけは、この調圧水槽に横付けされており、見学時に見ることができます。

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雨で溢れ、向こうの立坑に溜まった水が、ここから入ってくるわけですね・・・。

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この階段の存在感といったら。
ここを人が下りることは、あるのかな。

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一段上のところ。土が規則正しく溜まっていました。この土がなんなのかは、謎です。

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中の雰囲気は・・・たしかに非日常的で、よかったのです。が。
正直、これまでステキすぎる写真を見て、ステキな妄想を繰り広げすぎてしまったのかもしれません。前掲書では”ある人はギリシャのパルテノン神殿を連想するかもしれない”とまで書いてありましたが・・・期待しすぎてしまったのでしょうか、パルテノン神殿は実物を見ましたが・・・ごにょごにょ。自分としては、地下もので比較すると、大谷石採掘場のほうが神秘ポイントは高いかなと思います。材質や暗さの違いなので、人によると思いますけどね。。

ともあれ、配られた資料によれば、ここは今までに73回の稼働実績があり(大体年に5~10回)、水害の減少に貢献しています。もっとも多かった時の排水量が、”日本全国にある小学校のプールの水を集めた量とほぼ同じになるよ!”などと書いてあり・・・いやはや、規模がデカすぎてよくわかんないけど、それってすごいんじゃないだろうか!

で、また階段を上って外に出て、

Gaikaku21

調圧水槽の上で、よさこいソーランをききながら、野菜たっぷりヘルシー鍋と、コロッケとおにぎりを食べました。
でもね、手打ちそば、焼きそば、焼き鳥に揚げ物・・・いろいろとおいしそうなものはあるのに、アレが無いんです・・・アレが。お祭りなのに、アレが。なので、アレを求めてこの後、武蔵野線で延々ある場所に向かうことにしました。
内容的には全然関係ないけれど、次記事に つ づ く。

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電信隊の原さんぽ

杉並の古い地図を見ていると、気になる箇所があります。

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(杉並区郷土博物館「杉並の地図を読む」昭和14年より)

暗渠者としては思わず水路を見てしまいがちなのですが、この地図の場合は真ん中をクネクネする桃園川の北方にある空間にも、水路と同じくらい惹きつけられてしまうのです。帯状にまっすぐに孤立した原野。これはいったい、何??
いくつかの地図に同じような空間があり・・・そしてまもなくその謎は解けました。

ここは、阿佐ヶ谷では「電信隊の原」という通称名で呼ばれていた場所。
中野の囲町から天沼まで続く、陸軍の演習用地だったのでした。正確にいうと最初は鉄道隊が、つぎに電信隊(第一電信連隊)が使っていたそうです(後に詳述)。そして敗戦後、昭和25~27年頃には居住者に払い下げられ・・・つまり今は単なる住宅地です。たしかに何度も横切っている場所ばかり、特におもしろかった記憶もありません。

けれど、わたしはこの帯状のもと陸軍用地に対して暗渠と同じくらいに興味を抱き、「通しで歩きたい!」という気持ちを持っていたのでした。
では、実際にその電信隊の原に行ってみるとしましょう。

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スタートを西端、ゴールを東端ということに定めて開始。天沼の日大二高が西端にあたります。
日大二高といえば、かつて天沼川がふらふらと流れていた場所。この記事のコメント欄で、地元の方が付近のかつての様子を詳細に教えて下さっています。今読んでもウットリするコメント・・・。

かつてのここを、写真で見てみましょうか・・・

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昭和22年の航空写真(gooさんありがとうございます)。
日大二高(写真左側)の右手から、不自然にのびている区画がそれです。ぼうぼうとした芝生が、そこだけ綺麗に刈られているかのような(でも実際はここがむしろぼうぼうの原野で、周囲の住宅地が整然だったのだけれど)。

Densin3

では、現代の電信隊の原を歩き始めましょう。

右手に団地があります。前掲の航空写真でもこのあたりに集合住宅っぽいものがありますが、たぶん違うものでしょうね。

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ここらへんにしては珍しく五差路などあります。古い道とでも交わるのでしょうか。

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わかってはいましたが、やっぱり住宅街にある真っ直ぐなただの道です。

実際の軍用地は幅30~50mほどであり、鉄道隊の時は鉄道線路の敷設や機関車の運転訓練、電信隊の時は電線架設演習に使われたのだそうです。どちらも、この細長な土地が適しているわけです。

もう少し具体的に。ここでどんな訓練が行われていたかというと、

・線路を敷く、外す、機関車を走らせる(鉄道隊)
・地雷爆破演習(鉄道隊)
・コイルに電線を巻いたドラムを背負い、電話線の架設演習(電信隊)
・つるはしで地面に穴を掘り、次の兵が電柱を穴の傍へ置き、次の兵が電線を木の枝などにかけ、その次の兵が電線を電柱に結び付ける。後年は電柱を立てず雑木に架線していた(電信隊)
・無線がないので手動の電話機で本部と連絡をしていた(電信隊
←矢嶋氏の記憶画には、原野に座りこんで糸電話のような電話をかけている様子が描かれている

周辺には民家があったわけで。地元の方々とどうかかわっていたかというと、
・子どもは毎日のように見に行った。たまに機関車に乗せてもらうと大自慢
・休日はいたずら防止のために線路から外してあったトロッコを、大勢の子どもで線路に乗せて遊んだ
・演習で田畑を荒らされたりもしたが、いつも損害金を払ってくれたのでとくにトラブルはなかった
・演習でできた穴に雨水がたまり、大きな池になっていたので泳いだ
・地雷爆破演習の前には用地に入らぬよう村に連絡がきたが、子どもも大人も怖いもの見たさに見物に行った

こんな、ほのぼのとしたエピソードも詰まっているのでした。

かつてはそんなことが繰り広げられていた空間が、今は、こうです。

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この、面影のなさといったら!そこらへんは暗渠と違いますね~。
道は、ときに狭くなったり途切れたりもします。でも、基本的に天沼~中野までほぼ直進で行けちゃうんです。それが面白くて。

それから、ふと見つけたのは、阿佐ヶ谷地区の電信隊の原沿いには井戸が多いということ。

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近年できたような感じもする、周囲を装飾された井戸。

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古めかしく立派な井戸。

これはすごい・・・!
もと共同井戸だったのでしょうけれど、こんなにも広い洗い場は、いまだかつて見たことがありません。

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個人所有と思しき屋根付き井戸もありました。

こんな風に、大切に遺されている井戸がいくつもありました。暗渠沿いを歩いているような気分になりましたが、しかし地形はむしろ台地寄りです。

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住宅地をひたすらゆくだけなので、単調と言えば単調です。
ちなみに、陸軍用地の境界石が残っているということを後で知りました。うー、見つけられませんでした。参宮橋の陸軍境界石はなんの脈絡もなく見つけられたというのに。今回気づかなかったのはとても残念。そのうち見つけて、追記したいと思います!

・・・ちょっと飽きてきて、のほほん歩いていると、

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突如現れる暗渠的空間!!
いやー、このときは興奮しました。細く狭く、地形的には自然河川ではなさそう。でも、暗渠っぽいのです。それなのに、電信隊の原沿いのまっすぐ道のひとつ。

さらに、この狭い道を進んでいくと驚くべき光景が・・・

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突如現れる「まったり処」!!なにこのまったり感・・・。

この極細路地の入口には看板すらなく(営業日は看板でてるのかしらん?)、かと思えば黒板に手書き・・・すさまじい隠れ家ぶり。
というか、ものすごく度肝を抜かれます。だってあの狭い道の真ん中ですよ。

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店構えもびっくりで、まるで人んちのベランダじゃないですかw えー、このベランダの2席だけってこと?飲み物1杯でここで短時間まったりするという意味なのでしょうか??

・・・かなりの謎具合だったこのまったり処は、この情報によると、どうやら内部にも席があり、おいしい食べ物も提供してくれる飲み屋さんのご様子。若干ほっとしました。排水路的暗渠カフェ、ということで、一度は来てみたいと思っています。

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衝撃のまったり処もふくめて、この排水路暗渠っぽいところを、振り返ってパシャリ。

後日、師匠に会う機会があったので、電信隊の原に暗渠っぽいものがありましたと報告したら、陸軍用地の排水路はあっただろうからね・・・というコメントをいただき、師匠のお墨付き?でここは暗渠ということにいたしたいと思います。

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水、とか書いてあるしね。

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もう少し行くと、お伊勢の森児童遊園が現れます。
すぐ近くにある阿佐ヶ谷神明宮が伊勢神宮の分社であることから、この一帯はかつて通称「お伊勢の森」と呼ばれていました。なかでもここは元伊勢の地といわれ、天祖神社の石柱があったとか(今は神明宮に移されています)。

杉の大木が生え鬱蒼とした場所で、演習の原っぱもススキや野ばらの生えた寂しい寂しいところで、住民は追いはぎを恐れながらこわごわ通っていたのだそうです。けれど、電信隊が演習に来てラッパを吹くときだけは、安心して通れたのだそうです。そんな安堵の気持ちも込めてか、「ラッパの森」とも呼ばれていました。

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もう少し行けば馬橋公園です。
今は池のある静かな公園、そしてグラウンドでは子どもが運動をしているような場所ですが、この場所も陸軍用地でした。

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昭和22年の航空写真です。
電信隊の原はやはり浮いています。左側にどーんと写っているのは陸軍気象部です。

日露戦争で気球が効果的だったことから、中野鉄道隊に陸軍気球隊を併設。大正2年に鉄道隊は千葉へ移り、中野気球隊は飛行隊に編成替えとなりました。
そして、陸軍はこの地に壮大な計画を立てます。日大二高までの軍用地を幅100mに広げて滑走路にしようとし、この馬橋公園を含む場所を飛行機格納用地として買い上げました。ここに、飛行場を作る計画を立てたのです。まさに、いま歩いてきた場所のことです。
けれど、滑走路予定地内に民家が多い、狭いなどの理由から計画は中止となりました。

昭和1年、おじゃんとなった飛行機格納用地には陸軍通信学校ができました。昭和14年には通信学校が移転、かわりに陸軍気象部が入りました。

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次は昭和38年の航空写真です。
敗戦後、陸軍気象部は運輸省・気象庁の気象研究所となりました。広大な敷地は縮小され、白梅学園(現秀和レジデンスとNTT)と馬橋小学校に払い下げとなりました。敷地の南側に小学校が出来ていることが、写真からもわかると思います。

昭和55年には、その気象研究所も筑波へ移転することとなりました。
・・・杉並新聞を見てみると、この移転に際して地元住民が運動を繰り広げていたことがわかります。もともとこの土地は、農地と宅地を強制的に(飛行機格納用に)陸軍から接収されたもの。その、農家を含む地元の方々がここを是非公園に!と強く願ったのでした(昭和46年)。昭和56年には決着がつき、公園化が決定しました。
ここでは、陸軍用地へのネガティブな思いも滲んでいる気がします。

いまも、気象研究所跡地周辺不燃化まちづくり、という看板が馬橋公園の片隅に立っており、気象研究所跡地を公園として払い下げたことが簡単に書いてあります。
不燃化まちづくり・・・そういえば、当時の杉並新聞にはたしかに火事の記事がめちゃめちゃ多かったんですよね。この土地は最終的には地元の方の役に立ったということなのでしょうか。

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気象研究所の名残といえる、気象庁の宿舎。馬橋公園の隣にあり、現役です。
ちなみに、このあたりの場所から、高円寺のエトアール通り奥へ向かう桃園川支流がひとつ、流れ出しています。このリンク先の記事の続きを書く用意はしてあるのですが・・・むにゃむにゃ

気象部隊の名残はもうひとつ、場所が離れますが、高円寺氷川神社にもあります。

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唯一の気象の神様ということで、しばしば取り上げられる”気象神社”です。天気予報のまじないに因んだという、下駄タイプ絵馬たちが並んでいます。表は建前、裏には本音が書いてある・・・と言う人もいましたが、裏には何も書かれていない下駄が多そうでした。

社殿脇に由緒が書いてありました。陸軍気象部の構内(現馬橋公園)に昭和19年に造営、空襲により焼失したが再建。終戦後、気象部隊解散に伴い高円寺氷川神社に移設。社殿の腐蝕が甚だしかったため、平成15年に社殿新設。インターネットで気象神社の様子を公開中で、夜間はライトアップされるのだそうですw。

電信隊の原にまつわる歴史・・・ひろがります。

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馬橋公園からふたたび歩き出すと、道から、家を一軒隔てただけの位置にまた道があります。

暗渠か?と見紛うほどの違和感ぶり。家を一軒隔てただけで道があるときって、だいたい暗渠があるパターンなので・・・。でも、ここはそうじゃない。

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道は狭くなったり、太くなったり、舗装がなくなったりしながら進みます。

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ある家が更地になっていました。こういうふうに見ると、1軒分だけ挟んで道があることがわかりやすいと思います。

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また更地がありました。これ、今回いちばん原野っぽい風景だなあ。
こんな感じの空間を、兵士が走り回っていたのでしょうか。

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そろそろゴールが近付きます。高円寺の、庚申通りやらあづま通りやら、にぎやかな商店街をするする横断します。
最後までまっすぐでしたね。

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やがてゴールにたどり着きます。電信隊の原の東端にあたるのは、今年オープンしたてほやほやの、中野セントラルパークです。

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公園の一角には、このように親水空間がありました。もよもよと水が湧いています、人工的に。

つながるなあ、と思うのは、ここは以前湧水が豊富だった場所なのです。天神川の水源であったり、たかはら支流の水源がすぐ近くであったり。他にも掘ればすぐにたくさん湧いてくるような土地です。この人工池がそれを計算に入れているのかいないのかはわかりませんがね・・・

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セントラルパークはぴっかぴかですが、すべてが新しくなったわけではなく、このように古い木もあります。いつの時代からのものか・・・

この土地を最初に使用したのは綱吉で、ご存じ”御囲い”を作りました。1695年末に犬の収容を開始し、15年間存続したそうです。

次に使ったのは陸軍関係の施設。陸軍鉄道隊、電信隊、気球隊兵舎が明治30年に創設されました。後に交通兵旅団司令部も。これらの施設の影響で、中野駅の需要は随分増加したようです。以前書いた中野駅移転にも、この話は関わります。
やがて鉄道隊と気球隊は千葉に移転。残った電信隊は、第一電信連隊と改称しました。その後、昭和13年にここに出来たのが陸軍中野学校でした。
戦後は警察大学校と警察学校になりましたが、平成13年に移転しています。

つい数年前までは、コンクリートの塀に囲まれ、鬱蒼とした廃墟的空間でした。その秘密めいている感じがなんとも好きだったのですが・・・。

着々と工事は進み、今年3月には公園や商業施設を含む、やたらと綺麗な場所となりました。

長い長い、変遷の歴史がここにあり。むかしの写真を見てみます。

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昭和22年の航空写真です(gooさんありがとうございます)。

陸軍中野は極秘部隊ですから、校門には「陸軍省通信研究所」と小さな表札が出ていただけ(憲兵隊と思う人が多かった)、といいます。
また、写真からは切れてしまっていますが、大正~昭和初期の地図では、中野駅からこの敷地内へと分岐する引込線が見られます。

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昭和38年。この頃は警察学校のはずです。敷地内左下に自動車訓練場のようなものがありますが、まさにこれがちょっと前までは横から見えていました。

ちなみに、中野セントラルパークは軍用地の一部にすぎず、残りの場所はサンプラザ、区役所、中野税務署に区立体育館、NTTなどになっています。

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いまのすがた。いやはや、ものすごい変わりようです。

中野セントラルパークには、ショップやレストランがいくつもあり、開放的なテラス席もいっぱい。この日は、テラス席狙いでスペイン料理にするか英国パブにするか迷って、

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英国パブ"THE FooT NiK"でビールを飲むことにしました。

外の昼ビールはホントにんまいな~~。背後ではモンテディオ山形の試合と、それを見守るサッカーファンで盛り上がってました。

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チキン&チップス、ソーセージロール、生ハムとマッシュルームのサラダ。どれも美味しく、たいへん満足しました。ほかのも食べたくなるなーこれは。
来年4月からは大学がオープンし、人口密度がぐっと高まるでしょうから、今が行き時かもしれません。

なんだか、中野らしさがちょっと失せた気がしますが・・・。でも、隣に座った夫婦が「こういう場所が出来て、ほんと良かったね。」と言っていたので、こういう場所を待っていた人だってきっとたくさんいるのでしょう。

これにて、電信隊の原さんぽはおしまい。

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明治期から終戦まで、中野~荻窪の北に、不自然にあった陸軍のための原野。
いまも名残がこんな風に地図上にもあります。

西端も東端も水の湧きやすい土地である、という不思議なつながりを持ちつつも、井戸がいくつもあり、1ブロック隣に道路がありながらも、暗渠ではない道。ちょっと平坦だけど、真っ直ぐな電信隊の原を、ラッパの音を想像しながら歩くのも、そんなに悪くないかもしれません。

※気球隊をはじめとし、いくつかの部隊の入れ替わりについて、文献によって若干のばらつきが見られます。本記事にも間違いがありましたら申し訳ありません。

<参考文献>
杉並区教育委員会「杉並の地名」
杉並区教育委員会「杉並の通称地名」
杉並区郷土博物館「杉並の地図を読む」
杉並区郷土博物館分館「荻窪の古老矢嶋又次が遺した記憶画」
杉並新聞 第1889号
杉並新聞 第2202号
「サンモールのあゆみ」
中野区立中央図書館「中野交通ノスタルジィ part1」
森泰樹「杉並区史探訪」
森泰樹「杉並風土記 中巻」

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蕎麦窪で蕎麦をたぐる

新蕎麦の季節ですねぇ。

蕎麦といえば、馬橋村の絵図に”蕎麦窪”と書かれた場所があります。窪という名が示すように、蕎麦窪には水路=天保新堀用水が流れていました。
天保新堀用水は、馬橋村にもともとあった自然流が、天保10年の飢饉で枯れてしまったため、善福寺川から取水した人工水路とつなげたもの。その、もともとあった水路の記述にも、「そば窪から二派に分かれて東流」というものがみられます。

絵図から現在の場所を推測することは難しかろうと思いつつ、蕎麦窪に行ってみたいと思います。

Soba1

天保新堀用水を、青梅街道の北から下っていきます。

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阿佐ヶ谷にしはら公園。
おそらく蕎麦窪はここらへんのことかな、と思っています。

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公園よりも下流で、天保新堀用水は二流に分かれるようでしたので・・・。
その話は、過去(桃園川支流を歩く その37馬橋川たち②)にも触れています。このあたりは「たかっつる」という通称の水田地帯だったので、田圃のために水路が用・排水の2流あったのかもしれません。

Soba4

暗渠としてはっきりと残ったのはこちらの、金太郎のいる流路のみ。この先は桃園川合流地点へと北上していきます。

さて。この蕎麦窪という場所の存在を知って、真っ先にわたしが思ったことは、

「ここで蕎麦を食べたい。」

コレ。

コンビニなどの蕎麦を買ってきて公園で食べるか、蕎麦焼酎のお湯割りをここで飲んでお茶を濁すか・・・。あれこれ考えた末、「新蕎麦の季節に、最寄りの蕎麦屋で食べよう。」という最も安全な結論にたどりつきました。

蕎麦窪上に蕎麦屋さんがあれば理想的だったのですが、そうもうまくはいかない。最寄、と思われるものは2軒あったのですが、こちらの店に行くことにしました。

Soba5

豊年屋
青梅街道沿い、南阿佐ヶ谷駅のすぐ近くです。
ここは天保新堀用水沿いでもないし、窪地でもないけれど、青梅街道のそばなんで。。

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ちょっと疲れていたので、とろろそばを頼みました。
町の蕎麦屋さん的な味でしたが、天ぷらをつけなかったというのに結構な満足感でした。(わたしは蕎麦推しの県に生まれておきながら、長年「天ぷらをつけないと麺類は食べられない(単調すぎて)」という微妙なひとだったのです。。)
丼ものの種類も豊富で、それぞれに蕎麦のセットがあったので、よく食べる客層なんでしょうか。

後ろに座った男性たちは、酒とそのつまみを次々頼んでいました・・・わたしはその後仕事があったので頼めず・・・くぅぅ、良いなあ。定食屋さんや酒場のにおいもする蕎麦屋さんでした。

ってことで、蕎麦窪のそばで食べたぞ、新蕎麦!
位置関係は以下のとおりです。

Sobakubo

・・・じつはこの話には悲しいオチがありまして。
どうやら蕎麦窪の名の由来は、”青梅街道のそば(傍)の窪地であるから”のようなのです。しばらくの間、”蕎麦が採れたので蕎麦窪”なのだと思っていたのですが、そのような説はまだ見かけていません。
さぞ芋が採れたのかと思った芋窪は”いの窪”からきているというし、蟹ヶ谷は沢蟹がいた以外の説のほうが説得的だったりします。食べ物地名に行くと、すぐさま「ここで○○が採れたんだね!」と思う癖を、そろそろ脱しなければいけません。。

もうひとつ、蕎麦がらみで今やりたいと思っていることは、古川沿いの”狸蕎麦”という旧地名の場所(狸橋付近)で、たぬきそばを食べること。
蕎麦を売ったときの代金を翌朝見ると木の葉だった、などという伝承からついた地名のようで、江戸期の地図には”狸蕎麦”という地名が書かれています。古川に架かる狸橋の名の由来ともなっています。・・・と、HONDAさんが以前書かれていることを今知りましたw。麻布七不思議のひとつとされ、こんなふうにまとめて下さっているサイトもあります。狸そば水車、なんてのもあったのですねぇ~~。

つまり、狸蕎麦はちゃんと”蕎麦”から来ている地名なわけです。福沢諭吉が蕎麦を食べに来ていた、などと、蕎麦屋さんもあった模様。今はどうなっているのでしょうか?

・・・さて、狸橋近くの蕎麦屋さんを探さないと。

※「地産地消」カテゴリを新設しました。

<参考文献>
森泰樹「杉並風土記 中巻」
「武蔵国多摩郡 馬橋村史」
「増補 港区近代沿革図集」

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続・牧場数珠つなぎ

前に、四谷軒牧場の変遷の話を書いたことがあります。
紅葉川の源流部を探索しているときに出会った、四谷軒牧場という存在。その歴史は四ツ谷から始まり、杉並(高円寺や荻窪)に出張所を展開し、後に赤堤に移転した、というものでした。けれど、赤堤の牧場は約30年ほど前になくなり、高円寺にあった販売店の名残も、つい最近失われてしまったようです。

そのむかし、新宿や渋谷には、いくつも牧場がありました。しかし都市化とともに牧場は中野や杉並へ、さらにはもっと郊外へと、転々としてきました。(いま23区内に唯一残っている小泉牧場さんって、すごいなあと思います。ちなみに白子川沿い。)
なぜ、”暗渠さんぽ”なのに牧場の話?・・・杉並あった牧場はすべて川沿いだった(根拠が示してあるのはこちらの記事の下部)ために、暗渠のついでに牧場のことにも関心がいき、いつのまにか四谷軒牧場に関する情報が貯まっていました。
雪印乳業史料館など、行ってみたいところも出てきましたが、北海道なので行けていません。

そんなわけで、今回は四谷軒牧場に関することの、数珠つなぎ。

                        ***

既に書いたように、出発点は四ツ谷です。
ここのコメント欄でのsumizome_sakuraさんとのやり取りにより、牧場と販売店が異なることにも目が向けられるようになりました。成程かつての名簿には、住所が2つ載っている牧場がいくつか。
四ツ谷時代の四谷軒牧場は、
・四谷区麹町にある「本店」と、内藤新宿北裏町の牧場。
・神田区美土代町にある「本店」と、代々幡町代々木の牧場。
こんなふうに分けて記載されていました。初期には代々木にものれん分けがあったのですね。

牧場に関する史料を見ていると、ある牧場で修業した人が、他の地で同じ名の牧場を開くことがあります。その場合、牧場主の名字が異なっているのですが、この四谷軒牧場の場合は、四谷も代々木も、それから後述の赤堤も同じ名字、すなわち家族経営で拡大されていったもののようです。

拡大中の四谷軒牧場は、高円寺駅前に販売店を設けました。

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昭和初期にはレトロな2階建てだった販売店は、いつしか駅前のビルヂングに。そしてこのビルの中に販売店”四谷軒乳業”が入っていたようですが、今はもう表記はありません。

では、もうひとつの展開先、荻窪店を見に行ってみましょう。荻窪と書かれていましたが、住所でいうと下井草にありました。
まずは過去の航空写真から。gooさんありがとうございます。

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昭和22年の航空写真はぼやけていて、もどかしい気持ちになることが多いのですが、牛舎っぽいものが見えます。どうやら高円寺店とは異なり、こちらは牧場と販売店両方があったようです。

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昭和38年の航空写真も見てみましょう。
昭和22年には1ブロックまるまるあった敷地が、左半分だけになっているように見えます。が、まだ牛舎があるようです。妙正寺川が牧場の南に、くっきりと流れています。

・・・今はどうなっているでしょうか。

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航空写真のブロックはここです。新しめのマンションになっていました。
勿論牧場の残像などありませんが、

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けれど、このように。
四谷軒は明治乳業の特約店となり、今も同じ場所で牛乳を売っているのです。

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その隣を、今も妙正寺川が流れているのでした。

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敷地内に入ることはできませんが、壁越しに少し古そうな石灯籠が見えます。これは牧場時代からあったものかもしれないな・・・だったらうれしいな・・・などと勝手によろこびつつ。

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後から地図を見てみたら、建物にも「四谷軒」の名が残っていました。gooさんありがとうございます。

ちなみに30年ほど前のゼンリン住宅地図には、このマンションの位置に「明治牛乳 四谷軒」と書いてあり、隣に「マム」と書かれた建物がくっついていました。「マム」が何なのかよくわかりませんが・・・。おそらく最近建てられたであろうこのマンションに、牧場の名が残っていることは嬉しく感じます。

この下井草の牧場は、四ツ谷の牧場主の子孫(2代目か3代目か忘れてしまいました;)が大正期に開いたものだそうです。
本体の牧場は暫く四ツ谷に身を置いていたものの、昭和初期に赤堤に移転することになりました。

赤堤の四谷軒も、航空写真で見てみましょう。まずは昭和22年から。gooさんありがとうございます。

S22tutumi


真ん中の区画、ちょっと変わった形をしていますが、まるまる牧場のようです。牛舎が斜めにあります。
左端から斜めに北沢川が流れていますが、ちょっとした田圃の用水路という感じですね。

S38tutumi


昭和38年。牧場にはあまり変化はありません。北沢川やそのあげ堀が左下に見えます。北沢川は1ブロック隣を流れていたということになります。
・・・んん、牧場の中になんだか米粒みたいなものが見えますね・・・

S38tutumiup_3


これ、牛じゃね?ww わはは、多分牛が写ってますww

さてこの土地、今はどうなっているでしょうか。

Gentutumi

今は区画だけが残っています。
北沢川の暗渠を水色点線で示しましたが、地図上の表記(ココだけ見ると)からはもはや、川跡も牧場跡もわからないような場所になっています。

・・・さて、跡地に行ってみましょう。

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経堂で降り、北沢川暗渠を歩いて行こうと思ったら、こんなふうに工事中でふさがれていました。
入れないので、団地の間の道を歩いていきます。

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最後のほうで少しだけ緑道を歩けました。
すると、「暗渠めし」候補になりそうな、暗渠沿いの料理屋さんを発見。

このすぐ先で赤堤通りとぶつかるので、1ブロック東へ行きます(ほんとは、この近辺は北沢川支流と思しき暗渠開渠がとっても面白いんですけどね~・・・)。

あの、変わった形の区画へと。まずはどーんと新しめのマンションが建っており、

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その裏にひっそりと牛魂碑がありました。
四谷軒牧場の、堂々たる名残。

裏に、牧場の歴史について書いてあったのですが、大量の蚊に囲まれてしまい、読むことにまったく集中できませんでした。

Aka4

ここは、マンションと住宅ばかりの区画でした。空き地のような場所を見ていると、少しだけ牧場のイメージが膨らみます。
ネット上で、ここに四谷軒と名のついた建物があるという情報を得ていたのですが、このブロックにはありませんでした。なんとなく名残惜しくて、付近をうろうろしていたら、

Aka5

ありました・・・!嗚呼、こんなに遠慮がちな感じで。
しかも、牧場とは異なる、ひとつ南のブロックにありました。しかし、昭和22年の航空写真を見てみると、その南のブロックも牧場の敷地のように見えなくはないのです。ここにも、牛が居たのかな・・・?
なんの因縁か、一階には動物病院が入っていました。

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(四谷軒)スカイマンションから空を見上げます。

牧場の空は、広い。

Yotuyaken_3 

なぁんて、しみじみしていたのですが、帰ってから地図を凝視すると、実はこのへん、「四谷軒」ラッシュみたいなのです。経堂(四谷軒)スカイマンションが地図の右上に載っていますが、北沢川沿いに他にも四谷軒は展開されていました。これらは未確認なので、いずれ見にいこうと思います。

Aka7

それから。この四谷軒の名残のある一帯には、何たる因縁か、焼肉屋さんまであるではありませんか。
地産地消(←牧場跡で牛乳飲んだりと以前から兆候があると思いますが、こういうのが好きなので、地産地消もいずれ特集化したいと思いますw)願ったりー!、と思いましたが、夜しかやっていないようで、開店前でした。涙。えっと、乳牛の牧場なので焼肉は違うだろうという突っ込みはナシでw

その焼肉屋さんの名は、からし亭。・・・実は、からし亭は都内に数軒展開しており、どうやら高円寺(厳密にいえば東高円寺)が本店のようです。そんなわけで、高円寺にある、からし亭に行きます。

Karasi1

からし亭、実は間をあけて何度も行っていますが、あれこれチャレンジしているようで、いくたびにメニューが変わっていく印象です。ビールセット、なんてものが出来ていたので、まずはそれを。
ビールと韓国風冷奴。プハー!

Karasi2

カルビとソウルチキン(コチュジャンと蜂蜜味)。ハラミ、野菜、ホルモン(←これは食えない)。再びカルビ。
焼き焼き。もぐもぐ。ゴクゴク。

ここ、3年ぶりくらいに来ました。たしかチヂミが美味しかった気がするけど、

Karasi3

これまた新しい(自分にとっては)メニュー、トルピンアイスがあったので、それを頼みました。アイス、フルーツをまぜまぜして、もぐもぐ。バニラアイスはミルクの味がして、そういえばこれもまた牧場の味。

ふー。ごちそうさまでした!

                        ***

からし亭、ウェブを見る限りでは、東高円寺店から最初に出した支店が赤堤店のように見えます。
四谷軒牧場を追って、高円寺駅前の支店跡から始めた今回の記事。数珠をつないでいったら、最後にまた高円寺に戻ってきたというわけです。川(暗渠)と牧場の関係もさることながら、こんな風にぐるーりとつながり、そして還っていくこと、なんとも面白いなと感じます。
・・・”四谷軒”なのに、四ツ谷以外の土地にその名前が散らばっていって、もしかしたら住んでいる人たちは何も知らないかもしれない。それでもそこで牛乳を買い、その地で牛肉やアイスクリームを食べている。わたしもその縁をたどって、いつも以上に美味しく、食べものを食べている・・・。

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