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2012年10月

桃園川銭湯巡礼 その3 さよなら2つの宮下湯

桃園川という廃川と、それから川沿いにあった廃銭湯を愛で、現役銭湯に浸かり飲み屋に行く。というこのシリーズ。1、2回では桃園川本流を、荻窪から阿佐ヶ谷へと下ってまいりました。

阿佐ヶ谷の玉の湯を過ぎると、本流沿いには銭湯は暫くありません。

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次に登場するのは、極狭支流(※)のところで見かけた、第三宮下湯。以前の記事では第二宮下湯、って書いてましたけどねハッハーw
その第三宮下湯、極狭支流沿いなのだけど、本流にもわりかし近いのです。入ったことないので、入ってみようかな~、と。

※この支流に関する過去記事は、「北側支流(仮)、極狭支流(仮)」、「極狭支流(仮)には続きがあった」の2つです。「暗渠週間のまとめ」の途中でも、上流部の写真が少し出てきます。・・・そう、この極狭支流(仮)に関しては、まだ全貌をしっかりとは書いていないのでした。書きたいんだけども。。

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相変わらず狭くて、バイクがとまってる。

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極狭支流(仮)をあえて通って、第三宮下湯前に出ます。すると・・・あれ。あれ?

なんと・・・廃業?

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まさかの廃業でした。
エトアール通りにはしょっちゅう来ていたのに、この銭湯がなくなるということに、わたしはひとつも気づいていませんでした。

閉められてから少し時間が経っているのでしょう、取り壊し寸前といった感じ・・・

なんともいえない気持ちを胸に、ひとまず別の銭湯を目指します。極狭支流(仮)を遡りつつ。

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この日はたくさん歩いていて(後で確認したら、田柄川の一部→谷戸前川を上流端から河口まで歩いた日でしたw)、かいた汗をどうしても流したくて、もう本流沿いでなくていいからどこか入ろう、と思って。

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なみの湯に行ったら定休日でした。土曜日を定休にするなみの湯って、けっこう強気だなあと思う。

ええい、もう暗渠沿いとか関係なくていいから入ろう、と思って小杉湯に移動。
ちょうど、”ペアで銭湯”なるキャンペーンをやっていたので、アイスクリーム券を貰ったりしました。

それにしても、第三宮下湯は残念でした。実は”宮下湯”という銭湯もわりと近年までありました。むしろわたしは、第三宮下湯よりもはるかに、宮下湯の前を歩いていたのでした。

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ここが宮下湯跡地です。
わたしが覚えているのは、ビル銭湯で「サウナ」とでかでか書かれていたものです。でも、ここも一度も入らないうちになくなってしまいました。

・・・いまもこのようにあまり変わり映えのしないビルなので、なくなったことが暫くわからないほどでした。
もし、今でも宮下湯があったなら、きっとペアで紹介する飲み屋さんは「七面鳥」になるんじゃないかな・・・w

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名残として、コイン・ランドリーの看板があります。ただ、このコイン・ランドリーの入り口がどう見てもインド料理屋さんの入り口なので、コインランドリー自体も実在するのかどうかわかりません。乾燥器、って漢字ちがくない・・・?

これ書いてて思うんですが、「第二宮下湯」も、あったりしたのでしょうか?ちょっと、情報が得られていません。

ほかにも、高円寺駅付近(の桃園川本流近辺)にはかつて、何軒も銭湯がありました。

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ここにあったのは高円寺湯。高円寺浴場と書かれている場合もあります。緑道のごく近く。
2000年まであったようで、ネット上に感想が残っていたりします。2000年、というと、わたしも前を通ったことがあるはずなんですが・・・記憶にない。

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お向かいに堀萬米穀という、ふるくていい感じのお米屋さんがありました。いまも看板があります。残念なことに、今年廃業されてしまいました。

営業時に堀萬米穀の方に、むかし水車を使っていなかったか聞いてみましたが、そういう話は聞いていないそうです。けれど、桃園川の洪水の話はしてくださいました。桃園川の水は溢れるとこのお米屋さんのところまでも来たので、入口に段差を付けたのだそうです。このビルの前の段差は、たんに標高が少し高くなっているからかと思っていたのですが、実は水害対策だったのでした。

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もう一軒。環七の近くに千代の湯という銭湯があったそうです。銭湯名簿には載っていましたが、手持ちの住宅地図にも、ネット上にも高円寺の千代の湯の話は見かけません(なお、今回紹介した銭湯の情報は他はすべてネット上で見られます)。

むかしの住宅地図では、この写真の付近に”千代○”と名のつくアパートがあったので、そこが跡地かしらんと思って現地に行ってみましたが、いまやそのアパートさえもありませんでした。
・・・手がかり、なし。個人的にかなりマボロシ度が高いと思っている千代の湯。じつは、千代の湯にまつわる、とても興味深い情報もあるので、それはまたいずれ書こうと思います。

さて。廃業、定休、と、結局暗渠沿い銭湯には入れませんでしたが、第三宮下湯の帰りに行こうと思っていたお店を紹介します。

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センプレピッツァ
突然高円寺に現れた激安本格ピザ屋さん。TVや雑誌にも出でいるので、もはや有名店か?暗渠好きさんでも一部の人がリピーターになっている様子で、支店情報まであります。

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ピザがほんとに安くてうまいんです・・・最初チラシで見かけて、1枚280円からという値段設定におどろき、多少ダメダメでも怒らないからと思って食べてみたら、しっかりきっちり美味しい本格ピザでもっとおどろき。秘密はチーズ屋さんがやっているからとかなんとか・・・。
それまでのピザコスパ界ナンバー1だと思っていた赤坂見附のポポラート(500円でおいしい)をあっさり抜き去りました・・・。

上の写真で背後に酩酊状態の若いもんが写っているように、アルコールも置いてます。ビールやワイン。手前と奥に席があります。それが開放的で、またいい。

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季節限定のペペロンチーノ味ピザをたのみ、店先でビールぐびぐび。
・・・の前に、連れからコミカルにビールをこぼされてしまいました。割と派手に鞄にかかったりしたんですが、その少し前にも、別なひとからビールをこぼされ、それがまた同じ鞄だったので、「この鞄が悪いのだ」という話に落ち着きました。

まあそれはどうでもいいんですが、この美味しいワンコインピザ、サクッと飲んで帰るのにもいいと思うんですよね。春だったら、くるりと巻いてテイクアウトし、近所の公園で食べるのも素敵です。

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本日ご紹介したスポットはこちら。最近まで頑張ってくれていた第三宮下湯さんと、数年前まで頑張ってくれた宮下湯さん。高円寺湯さんに、千代の湯さん。おつかれさまでした、そしてありがとうございました。

桃園川銭湯巡礼シリーズ、3回の記事のうち、なんと1回しか予定した銭湯に入っていません。そうこうするうち、湯冷めする季節が近づいてまいりましたが、さてさてどうなることやら。

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洲パラダイス崎

今回は、色町のことを。

おはぐろどぶの記事を書いたとき、水道尻(大門から見て突き当たりの地名)の位置を1つ間違えていました。それで、自分が「おはぐろどぶだ」と思って歩いていた道も1本間違えていた(西端のみ)ということになり、リベンジリベンジ、と思っていました。

吉原にいくときは三ノ輪から歩いていくことが多いのですが、このときは浅草から。大門ではない方から入っていきます。

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弁天池跡に立ち寄ります。江戸初期まで、付近は湿地帯で多くの池が点在していたといいます。明暦の大火後、その湿地の一部を埋め立て、吉原遊郭が移ってきました。造成の際に池の一部が残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、弁天池や花園池と呼ばれたそうです。関東大震災で多くの女性が弁天池で溺死してしまったといい、供養のための観音像がたてられています。

吉原神社にも立ち寄ります。新吉原の四隅にはかつて、稲荷社が祀られていました(榎本稲荷、開運稲荷、明石稲荷、九郎助稲荷)。明治5年(明治29年とする文献も有)にその4社と玄徳稲荷社(衣紋坂=後述にあった)を合祀し吉原神社となり、さらに昭和10年に吉原弁財天が合祀されています。

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吉原神社の境内にはこのような地図が貼られていて、釘づけです。神社の裏にあるお宅で買えるというので、玄関で買わせていただきました。帰ってから東京人の「吉原」号を見たら、おなじのが載ってましたけどね・・・

ええと、今回はタイトルにもあるように、吉原がメインではありません。が、吉原の地図を載せます(yahooさんありがとうございます)。
水色部分がおはぐろどぶ、すなわち遊女が逃げないように掘られた水路であり、その内側が吉原(新吉原)です。昭和シェルと書いてある辺りが大門で、そこから道がクイッと3回曲って、廓内部に向かっています。そのクイッとした道は、衣紋坂あるいは五十間坂と呼ばれ、つまり坂だったのですが、今は傾斜はありません。道のかたちだけが昔のままです。

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冒頭で書いた、わたしが間違えていた道は、大門の反対側、最も南西の水路でした。一本内側の大きめの通りだと思っちゃってたんです。

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正しくは、ここ。細めの道です。

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遊女が逃げぬよう、と書きましたが、これじゃちょっと運動神経の良い遊女なら飛び越えられるような幅ではありませんか。
実は、吉原のおはぐろどぶは、最初は5間(約9m)もあったものが、近代になり2間に狭められたということです。狭められた経緯については、まだ調べていません。
おはぐろどぶには9カ所の跳ね橋が架けられていたものの、通常は上げられていたため、大門しか出入りには使えなかったといい、・・・とすると、この道の何処かにもきっと跳ね橋があったはず。

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このように廓内部に比べ、ガクッと低くなっています。
おはぐろどぶは戦後埋められ、現在暗渠サインは乏しいですが、このように地形がどぶ跡の存在を教えてくれるようです。

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廓内部に残るカフェ―建築。
以前、日本堤ポンプ所に見学に来たとき、体力不足で見つけられなかったものです。遊郭部さんによると、正金という屋号だったようですね。

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こちらはカフェー建築かどうかわからなかったものですが、構造がよくわからなくて。どうなっているんだろうこの中は?

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北西側の水路跡も低くなっています。ほらこのように(奥を走る道がおはぐろどぶ跡、手前側の少し高くなっているのが廓内部)。

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北東側のおはぐろどぶ跡もぐっと下がっています。この石垣が、おはぐろどぶの痕跡ではないかとされるもの。戦後しばらくは、もっとあちこちに、おはぐろどぶの石積みが残っていたといいます。

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google earthで見てみましょう。

吉原の内部がまるで島のように、ぷっくりと高くなっているのがわかると思います。
湿地帯に土を盛り、その上に煌びやかな建物と着飾った遊女を並べた地。その周囲はぐるりと壁に囲われ、水路が走り、淀み、くろぐろとしたそのドブは、外の世界に行くことを固く阻んでいる。
・・・そんな情景を、この陰影図から思い浮かべることができませんか?

さて、ほかの遊郭はどうだったでしょうか。

日を改めて、洲崎遊郭跡にも行ってまいりました。

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洲崎神社に立ち寄ります。
元禄13年創立。当時は海岸にして絶景、浮弁天といわれ、海中の島に祀られていました。今では想像もできませんが、付近は海岸が入り組み、遠浅の海は潮干狩りや砂遊びができ、大勢の人でにぎわったといいます。

境内には波除碑もありました。洲崎は津波に何度も遭った地で、そういえば墨東奇譚にも少しその記述があります。1791年の高潮のあと、幕府は洲崎弁天社(現洲崎神社)から西方一帯を買い上げて空き地としています。明治期の地図では、たしかにそこが空き地となっています。

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すぐに大横川南支川があり、弁天橋がかけられています。この水路は、遊郭を囲む水路のうちの一本(西端)で、吉原でいうところのおはぐろどぶと同じような機能でした。

水路が見えるのはここまでで、以降は想像しながらのさんぽ。

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廓を目指して歩くと、護岸が残っていました。内側は、洲崎川の埋められた跡。洲崎川も、遊郭を囲む水路のうちの一本(北端)です。現在は緑道公園になっています。

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まだ廓内には入っていませんが・・・大門近くのこの場所、テトリス以上の建物の積み重なり方に圧倒されます。
呑みに来てみたいけど・・・ゴールデン街的なハードルの高さがあるな~。

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洲崎橋跡を渡ります。

ここから見えるは、前述の洲崎川跡の緑道です。

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洲崎は北が大門です。周囲の水路について、埋め立てられたものを濃い水色、現存するものを薄い水色で示しました。

いまは「東陽」という町名ですが、かつては洲崎弁天町といいました。もともと遊郭(根津遊郭の移転先)のために海を埋め立てて造成された土地。明治10年頃に、石川島の囚人の手でつくられたといいます。当時はこの四角のうち3方向が川、1方向(南端)は海でした。

開業時は妓楼は片側に集中し、残りは草がぼうぼうの原っぱ。埋立地なので水が湧かず、飲料水は毎朝水売りから買ったそうです。そんな場所がやがて洲崎遊郭として栄えたのち、赤線地帯の”洲崎パラダイス”となります。

”洲崎パラダイス”だったときに訪れた方の記述によれば、”洲パラダイス崎”とかかれたアーチの下、ちょうど”崎”の文字の下に交番があり、巡査が座っていたそうです。このアーチからまっすぐ伸ばした道の突き当りにはコンクリートの堤防。一歩入れば、若尾文子や京マチ子のような、映画のヒロインそっくりな女たちが迎えてくれるんじゃないか、といった気持になったのだそうです。

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そんなふうに気持ちが高揚する人もいた、入口は大体このあたりです。
写真奥の、道が少し盛り上がっているところが運河なので、その手前までが洲崎パラダイスです。

穏やかな街並み。石川島造船を中心とした、軍需工場の寮になっていた時期もあるといいますが、いまや、ビルと住宅ばかりです。

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も、もんじゃグラタンとな・・・。

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金春湯。長方形の区画の、右側と左側にバランスよく銭湯があります。反対側には弁天湯がありました。弁天湯の周囲にはレトロなお店や飲み屋さんが見られましたが、こちら側は住宅ばかり。

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さて、周囲の水路を意識しながらぐるりと回りましょう。

歩いていると、護岸が気になります。向こうにはさきほどの大横川南支川です。自由にさんぽしているのですが、この護岸=塀がしばしば見え、暗黙に圧迫されている気がしてきます。

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ここは廓の南端。今は汐浜運河が通ります。
以前はここに海がひろがっていました。

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続けて廓の東端までくると、団地が見えてきます。明治の地図では、この場所には警視庁洲崎病院(三業病院)がありました。

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そして、東端には水路は無く、塀だけが残っています。

娼妓たちが逃げぬように、塀はこのように刑務所の如き高さで、そして以前は塀の上にガラスの破片が埋め込まれていた、といいます。

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どうやら塀の中には煉瓦が埋め込まれています。
中の煉瓦が崩れ、無造作に置かれていた場所もありました。とても古そうです。

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塀の向こうは、地面がぐっと高くなっていました(フェンスの付け根あたりが地面)。そこには、今は幼稚園、小学校、中学校が連なっていますが、明治期の地図では、まるまる「洲崎養魚所」となっています。材木置き場、となっている時代もありました。

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ある地点からはこのように、表面がはがれ、ペンキが塗られます。・・・なんだか、壁芸術度がかなり高そう。

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ここから左側は、ほかの塀と同じようなシンプルなものになってしまいます。他の3方は普通の壁なのに、なぜこの洲崎病院跡の一角だけ、このように凝った意匠なのでしょうか。どうも、遊郭造成時からありそうな古さなのですが、この一角以外は作り替えたのか?当時からこうなのか?謎です・・・

団地の隣には、追善供養の碑が立っていました。

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少しだけ中の写真も。つい最近までカフェー建築が残っていたといわれる場所です。
残念ながら建物は撤去されていました。ほかにも、正面が作り替えられるなど、洲崎の有名なカフェー建築(たとえば東京DEEP案内で紹介されているような)は姿を消したようです。タイルの使われたおうちや、気になる建物はありましたけれども・・・

では、空から、以前の洲崎を見てみましょう。明治期には、洲崎遊郭の周囲はぐるりと水路でした。新吉原のおはぐろどぶには排水(湿地の湧水もあり?)が流れていたのに対し、洲崎には海水が流れていたわけです。

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昭和22年(gooさんありがとうございます)。
洲崎川、大横川南支川はあり、右側の水路は埋立られて貯木場のようになっています。南側は海です。

写真の左下に野球場のようなものが見えます。その形は現在ゴルフ練習場として引き継がれています。
この野球場とは別物ですが、廓の東には9日間だけ公式戦に使用された、洲崎球場というものがありました。洲崎球場にはさまざまな伝説があるらしく、詳しいことは野球系のサイトに譲りますが、野球選手もかつては洲崎で遊んでいたといわれます。

戦後、洲崎遊郭は赤線街”洲崎パラダイス”となりました。小説や映画の舞台ともなり、洲崎のイメージは、遊郭よりもパラダイス、なのかもしれません。

その後。
昭和33年、洲崎パラダイス廃業。廃業前夜に訪れた人たちは、お祭り騒ぎを想像していったところ、街は妙にしんとしていたといいます。既に店を閉めているところも随分あったそうです。
そんなふうに、ひっそりとパラダイスの灯は消えたのでした。

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昭和38年(gooさんありがとうございます)。洲崎川はまだありますが、南側の海はずいぶん埋め立てられています。

洲崎川の埋立時期は昭和40年頃といわれます。もともとは海だった場所を埋立てたわけですから、ここに”水路”としての洲崎川が存在していた時期は短く、大体昭和初期~昭和40年代に限られます。

さて、洲崎の中は大体歩きました。ひとまずごはん。

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食べ物屋さんの選択肢はそれほどはありません。行列のできているラーメン屋さん、ナポリタンがありそうな喫茶店、それからとんかつ屋さん。・・・店先のホワイトボードの「アジフライ定食」に「活」がついているのを見、それに惹かれてとんかつ天勝でお昼ご飯としました。

活アジフライ定食。いや~、おいしかったです!たいてい、アジフライにはソースをかけるのですが、こういう新鮮なアジフライは醤油で食べたくなります。

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さて、吉原と洲崎との比較をしてみたいと思います。

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吉原のかたち。

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洲崎のかたち。

どちらもが、”遊郭おなじみのつくり”であるため、地図の上ではふたつの街はこんなにも似ています。

けれど、実際に降り立ってみると、このふたつの街はあまりにも違います。
ソープランドが建ち並び、脈々と土地の歴史が受け継がれる濃い街吉原と、カフェー建築がほぼ消え、淡々とした道と住宅街が広がる没個性化のすすむ街洲崎。そういった雰囲気の違いは、地図からはわからないこと。

さらなる違いは、その閉塞感です。

Yoshimap1 

吉原は前述の如く、このように周囲のほうが低くなっています。

Suzamap1

洲崎は、周囲のほうが高くなっています(google earthさんありがとうございます)。
同じ、水辺を”埋め立てて造った”場所であるのに。

勿論遊郭時代の吉原も、高い塀とその先の水路という条件は等しいといえます。しかし、洲崎の場合は、その向こうは海。どこに向かって歩いても、コンクリートの頑丈な壁。土地の高低差がそれを煽る。ああ、逃げられないのだなあ、と、現代の街並みを歩いていてさえも、思ったのでした。そんな体験を今でも三次元的にできる場所は稀ではないでしょうか。吉原の派手さとはまた異なる、洲崎の凄味があると思います。

”水路”に着目して、色町跡を歩いてみる。すると、色町の個性が見えてくるかもしれません。

<参考文献>
・上村敏彦「花街・色街・艶な街-色街編-」
・江東区教育委員会「おはなし江東区 川と橋の話」
・Collegio No.20 (東京戦災白地図・洲崎弁天町)
・杉浦康「消えた大江戸の川と橋」
・「東京人」 No.237 (特集”江戸吉原”)
・都市環境研究所「水辺のまちの形成史400年」
・三谷一馬「江戸吉原図聚」

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