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2012年8月

マボロシのフィッシングセンター

「杉並新聞」を少しずつ読んでいます。
1ページ1ページ見るのでとても時間がかかるのですが、杉並ローカルな話題と昭和30~50年代の独特の言い回しに、目が離せなくなるのです。

今回は、そんな杉並新聞から、胸キュン杉並ネタをひとつ。

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行先は、ここ、善福寺川松ノ木支流(仮)です。

以前松ノ木支流(仮)の記事を書いたとき、nasunokaoriさんから成田東にあった釣り堀のことについて、情報を頂きました。このときと、このときです(コメント欄参照)、本当にありがとうございました。
その情報によれば、松ノ木支流(仮)の少し西に、”杉並フィッシングセンター”という釣り堀が、比較的短期間あったということでした。
とても胸おどる情報で、ぜひ、そのフィッシングセンター跡を見に行こう、と思っていました。

ええと、このあたりだったかな・・・。

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支流から、陸に上がります。この階段、なんで一番上がクイッてなってるんでしょうね・・・

パラパラと杉並新聞を読んでいたとき、まさにこの”杉並フィッシングセンター”がオープンする、という記事があったのでした。
ときは昭和44年、暮れ。翌年の元旦から、成田東に杉並区内最大の釣り堀(1800㎡)がオープンすることを告知する内容です。80人がいちどきに”へらぶなつり”を楽しめる、2つのマンモス釣り堀のほか、金魚や色鯉専門の2つの釣り堀もあるという。へらぶなつりは一日600円、半日400円・・・。

杉並区内の太公望たちは、大喜びしたことでしょう。

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ここがその、杉並フィッシングセンターのあった場所です。
近辺に駐車場はいくつもあれど、新聞のおかげで住所が特定できていたので、迷うことはありません。

ふむふむ、ここだったのか~。たしかに広いな~。

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釣り堀というと、なんとなくもと池だったり取水排水の便の良さそうなところだったりと、低地を思い浮かべますが、ここは思っていたより高い場所にあります。

このフィッシングセンターは、もとは養鶏場だったのでした。
経営者がこの地に移住してきた昭和6年、善福寺川流域は田圃や雑木林しかなく、この位置から大宮八幡までは民家が一軒もなかったそうです。・・・しかし次第に住宅が増え、近所から苦情が出てしまったため、38年やってきた養鶏場を閉めざるを得ない状況になりました。
そして、色々考えられた結果、家族揃っての釣りファンであることもあり、鶏舎跡を釣り堀とし、再スタートすることになったのだそうです。

昭和45年1月の新聞には、オープンしたての杉並フィッシングセンターの広告も出ていました。”ミノファーゲン製薬横入ル”、と。

しかし、nasunokaoriさんも触れられているように、この釣り堀はそんなに長くは存在していなかったようです。どんないきさつで、廃業することになったのかはわかりません。記事内には経営者の方のお名前まで出ていたので、その後どうされているのか、妙に気になってきました。

・・・すると、駐車場のすぐ近くに、経営者の方のお宅がありました。この駐車場の管理をされているようでした。なんとなく安心して、帰路につきます。

の、前に、自分のサガというか・・・釣り堀の排水ルートがないかどうかも、気になってしまいます。

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この丘のあたりにはそんな暗渠らしい道はありませんが、ゆるやかに、松ノ木支流(仮)の方に下っていく道があります。

で、その道を下りきったところと松ノ木支流(仮)の間には、

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こんな空間があります。ここ、あやしい。
柵の向こうにはフィッシングセンター跡が透けて見えます。うん、勝手にここを排水路跡と思って今後は歩くことにします。

もうひとつ、釣り堀ネタを。
nasunokaoriさんのコメントには、”高円寺にあった屋内釣り堀”の話もありました。それについての記事も昭和40年のものに見つけました。

どうやら杉並で最初の”屋内釣り堀”は、昭和38年に高円寺に出来たもの(=おそらく、教えていただいた小杉湯近くのもの)であるようです。そしてその後の1~2年でアレヨアレヨと杉並には11軒の屋内釣り堀が出来たのだそうです!
商店街のど真ん中、いずれも一等地。アクセスもよく、手ぶらで釣りが楽しめて、朝から夜11時頃までやっていて・・・。夜はサラリーマン、昼は子どもで人気だそうで。鯉、フナ、うなぎに、金魚、メダカ・・・”金魚すくい”まで!

随分とたのしそうに思えましたが、実は記事は、この屋内釣り堀業を憂慮するトーンで綴られていました。景品や買取りなど警視庁で禁じている行為を行っていたものがあったり、夜営業もあるので青少年のたまり場にならないかといったたぐいの心配がされていたのでした。

その後、屋内釣り堀に関する記事は出てきませんでした。
昭和30~40年代には釣り堀・屋内釣り堀業はかなり流行っていたことがうかがえますが、爆発的に増えたぶん、短命に終わったものも少なくない気がします。何かの規制がかかってなのか、経営悪化なのかはわかりませんが・・・。HONDAさんがかつて書かれていた釣り堀ブームについて、杉並を通してやっと実感が持ててきました。
釣り堀。大正から在る阿佐ヶ谷の釣り堀そのなりたちについての記事のように長くやっているものと、上記の釣り堀ブームのときに出来たものでは、立地や川との関連性等で違いがありそうです。また触れる機会があれば、調べてみたいテーマです。
現在まで残っている屋内外釣り堀さんたちにエールを送りつつ。

<参考文献>
杉並新聞第1307号(昭和40年8月12日発行)
杉並新聞第1716号(昭和44年12月25日発行) 

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日本堤ポンプ所見学

誰もが認める猛暑のある日。
日本堤に行ってきました。

前に来た時のようには、もう迷いませんぜ。

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以前もちらりと書いた、音無川(の下流というか山谷堀の付け根というか)と千束堀川の接続地点にあるこのポンプ所がこの日の目的地です。その水路跡に、まず佇みます。でも、どうやらこっちの入口は裏口だった模様。ぐるっとまわって・・・

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入口でジュースなどをもらい、ヒィフゥ言いながら2階に上って、施設内を見学させてもらいます。これまでの見学会同様、下水道局の方がリレーで説明してくださいました。

ここは、台東区の一部に降った雨水を集め、排水するためのポンプ所なのだそうです。なんでか、今まで来たポンプ所はすべて雨水専用なんです。

ガスタービンと、ポンプの上端が見えます。

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次は、ここから階下に行きます。

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雨水が通る、大きな大きな管。

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これがポンプです。両国のものに比べたら小さいけれど、そのぶん近くで見ることができます。
2種類のポンプが6台ありました。以前は、2台だったのだそうです。

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このスクリューが回転して水を吸い上げます。

しかし・・・なんだか、これまで見学してきた施設と違って、屋内に居ても妙~に暑いんです。ほかと違って地下深くではないので、ひんやりしてないというのもあるだろうけど、空調は??・・・ここ、普段は無人なのだそうです(だから空調設備が機能しないのかどうかわからないけど;;)。もとは有人でしたが、今は蔵前ポンプ所からの遠隔操作をしています。

ポンプを間近で見たら、あとはすぐ横の出口からヒョイッと出て見学はおしまいw

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そしてお土産をもらい、帰りは正面らしき側から出ました。それにしても大きな建物で、無人だなんてびっくりします。

頂いた資料によれば、ここはもともとは”浅草ポンプ所”という名でした(住所が浅草田町だったため)。大正11年に誕生した、煉瓦造りのレトロな建物で、地元のひとたちからは”赤レンガ”と呼ばれていたのだそうです。その後”田町ポンプ所”に、そして昭和36年に”日本堤ポンプ所”に改称しています。
完成直後の写真を見ると、放流口がポンプ所の真ん前に見えます。大きなアーチ形の吐口が5つも。その位置は吉原側であり、つまり山谷堀ではなく千束堀川のほうに向かっているように見えます・・・千束堀川が、まだ開渠だったのでしょうか?

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昭和23年の航空写真を見ると(gooさんありがとうございます)、こんなふうになっていました。赤レンガ時代のポンプ所です。千束堀川のうち、ここだけが残され、山谷堀がL字型に延びているように見えます。山谷堀本流にはずいぶん船が泊まっています。
先述の5つの吐口が、この写真でも見えていますね。

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昭和38年の写真(gooさんありがとうございます)では、こうL字の先端は埋め立てられ、そして建物が建て替えられています。現在の建物は昭和37年につくられたということなので、この写真は、まあ(なんか前後するけど写真が前のなのかな;)、だいたいその時期ということになります。

千束堀川のうち、このポンプ所脇の部分だけ埋められた年代が違うということでしょうか。そして、

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その名残は、今も地面のちょっとした違和感として残っています(yahooさんありがとうございます)。

・・・では、ここに集められた雨水は、どのような経路で放流されるのでしょうか。
実はこの話を通し、今回初めて、下水道局の方と暗渠の話を積極的にすることが出来ました!!放流先は、山谷堀暗渠(=雨水排水専用管渠)なのだそうです。

つまり、今の山谷堀の真下には、下水がさらさら流れているのではなく、大雨が降ったときにだけ雨水が押し流される・・・すなわち普段はカラカラのときが多い、ということになりそうです。

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いっぽうで、隅田川の潮位によっては、海水がポンプ所まで遡ってくることもある、というお話も伺いました。ここの地下で、海水の塩分が検出されることがある、と。

ここで素朴に思うのが、「では、満潮時に大雨が降ったらどうなる?」ということ。尋ねてみると、下水道局の方曰く、「ポンプの強い圧力で押し流す!!」とのことでした。それだけ聞くと怖いけれど、その前に、上流にある堀切の水門で調節し隅田川の水位を下げるのだそうです。そんなふうに人々の知恵でシステマティックに支えられつつ・・・満潮×大雨時の山谷堀の地下では、そのような雨水と海水のせめぎあいが生じるようです。

考えてみれば隅田川の潮位により海水が云々というのは、開渠だった頃の山谷堀と同じ現象かもしれません・・・しかし現代の山谷堀暗渠では、大雨のときにはちょっと不自然なことが起きて、そうじゃないときにはカラカラのことが多いのかもしれなくて、でも、付近の方々の暮らしを守る、大切な場所であることは間違いありません。

過去の山谷堀について、マナイタブログに秀逸な考察があります(”源頼朝と山谷堀”)。太古の山谷堀・・・そして今の、この姿を、交互に想ってみるのもまた一興かと思います。

さて、この日のお昼は、と・・・

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土手の伊勢屋。ポンプ所から至近距離です。
この建物に一度入ってみたかったのです。

そして、もちろん・・・

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天丼、どーーーん!
いちばん安い(イ)天丼ですがこのすんばらしいボリューム!!イカやわらかーーーいー。エビでかーーーい!

モウモウに暑い日だったわけですが、熱っつい緑茶に、熱っつい味噌汁。そして熱っつい揚げたての天ぷらとご飯をかき込んで。ん~、江戸っ子だね!おいしいので、最後の一粒まで食欲が落ちません。

ふぅ。団扇でひと仰ぎ、ひと休み。閉店間際だったので、そそくさと。

おとなりも名店、桜鍋の中江。ここも未訪で、いつか、と思っているお店です。
吉原行く前に馬肉で精力つけて、ってね。・・・中江だけじゃなく、もう少し三ノ輪寄りには”吉原土手 馬肉の千葉屋”もありました。

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開店前?のようでしたが、タテガミなどの表示が見えます。馬油もたくさん売ってます。
どうやら酒場放浪記でも立ち寄った模様。馬肉ハンバーグなんてあったんですね。

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土手の薬屋もありました・・・”土手の”って、きっと江戸の頃からの呼び名なのでしょうね。

続いて、吉原へ。

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いやはや、ポンプ所でも伊勢屋でも、熱い中やせがまんをし続けていたら、だいぶ体がマイってきました。当初は吉原に残る妓楼を探索して帰ろうと思っていたのですが、見られたのはたまたま通り道にあったこの建物だけ。・・・でもコレ、すごい迫力。
おはぐろどぶリベンジは、またの機会といたしましょう。

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千束堀川を下って帰り、あとは、夜のビールを少しでもおいしくしようと、テクテク歩いて浅草へ・・・行こうとしたら、軽い熱中症になってえらいめに遭う、というオマケつきでした。
夏のさんぽは、気を付けなきゃいけませんね・・・。とほほ。

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今回いただいたお土産はコレです。
エコバック、ウェットティッシュ、洗い物用ハケ、油拭きとり用紙、レシピ集など。あと、お花。
下水道局さま、今回もどうもありがとうございました!

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暗渠めし 溝の口”玉井”

溝の口駅前の一角。
闇市の名残のある商店街の中を、二ヶ領用水の分水が走っています。

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んで、その分水の上で、飲めるお店もあったりします。

かとりや”という焼鳥屋さんに行こうとしたんですが、この日はお休み。
溝の口といったらかとりやだ、と、lotus62氏が言うのですが、行っても満員だったり、お休みだったりで、わたしゃまだ食べたことがありませんの。

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でもかとりやさんの他にも、暗渠上に席のある飲み屋さんがあります。
いま写っているのは、焼肉屋さん”二の鉄”。七輪が見えますね。あれ、いまウェブ見たらここ安いなー。

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この日立ち寄ったのは、隣の”玉井”。
店内席、外の椅子席(=暗渠上の席)、外の立ち飲み席(席?)とありますが、立ち飲みだと一杯目の飲み物がなんと100円。へへへへへ。

・・・ほんとは暗渠席が良かったのですけど、混んでて、ね。

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やきとり。
なんだか新しくできたお店のような雰囲気なんですが、実は昭和42年からやってる大衆酒場なのだそうです。ただ、本店は別な場所で、この玉井の系列店が溝の口には何軒も展開しているようです(さっきの二の鉄もそうみたい)。

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おでん。鶏がらスープ使用らしいけど、思ったより濃い色。
最初の3品は50円です。暑いけど、なんでか頼んじゃう。

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そして暗渠席からは電車も見えるという。

さっきの二の鉄と、この玉井の暗渠席は一見つながっているんですが、どこかに境界線があるようで、玉井に来たお客さんが二の鉄の暗渠席に座ろうとして次々断られていました。二の鉄だと、暗渠の上で電車見ながらお肉焼けるんだね~それもいいな。

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あ~、いい気持ち。

お、古い電柱。電話番号がいいですねぇ。
庵魚堂さんによると、水路の上はむかしはもっとカオスだったとか。

今もまだまだ楽しいこのエリア。さくっと1、2杯、今晩あたり如何?

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カニの谷の鉄塔

安田成美の歌声でどうぞ。

・・・カニの谷に行ってきました。

蟹ヶ谷に行きたい。と、思っていました。だってあそこは、軍事ものと谷の場所。なにより、わたしは蟹が大好きなんです。一番好きなのは、毛ガニ。つぎは、ワタリガニとズワイガニが互角の戦い。山形の鮎茶屋で、鮎の塩焼きを食べつつ、サワガニの味噌汁をすするのも非常においしいです。

ちょうど、横浜時層地図も出た時分。蟹ヶ谷もぎりぎり載っていて、まるでカニパンのように入り組んだ谷戸たちに、気分はいやでも盛り上がる。そんな場所です。

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これがカニの谷です。google earthさんありがとうございます。
猫またぎさんも、つい最近記事にされています(蟹ヶ谷をたどる)。わたしとは反対向きにたどってらっしゃるようですね。

それにしても何故”蟹ヶ谷”なのでしょうか。
神の祭祀を行う場を意味する”神庭(かにわ)”、急崖の地につけられることのある地名”カニ”、沢蟹がいたから、など、諸説あるようです。川崎に住んでいるある方は、実際に家の隣に水が湧き、沢蟹がいると仰っていたので、地名の由来であったかは不明としても、沢蟹がいる(た)可能性も低くない場所ではあります。

さて、現地へ。まずは最も標高の高いところまで行ってみます。
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バス停で降り、トコトコ歩いていると、あらまあ懐かしや。

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マンホール多発地帯。

などなど、あいかわらず川崎はたのしい。

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ふう、来ました。
蟹ヶ谷槍ヶ崎住宅や明石穂団地などがあり、バスターミナルがあります。2005年まで四方嶺住宅という団地もあったようですが、現在はそれらしき場所はだだっぴろい原っぱになっています。

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最も高いと思われる場所には、お店屋さんがありました。けれどシャッターが閉まっています・・・。
今でもたくさんの人がここには住んでいるはずなのに、なぜか買い物できる場所が団地付近にはありません。

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”商店街”はありました。
が、今や”商店”は小さめのデイリーヤマザキがあるのみでした。・・・。

さあ、本日のさんぽはここから。まずは、蟹ヶ谷にあるはずの谷川を探します。さきほどの陰影図の、谷の南端を目指します。

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早速、すごい眺め・・・!

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だいぶ下ったところに専念寺というお寺の入り口があります。
地形図を見ると、この奥に、メインの谷頭があるようなのです。

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お寺の駐車場には既に、待ちきれない水たちがジワジワ湧いていました。

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入ると、池がありましたが、湧水池のようには見えませんでした。
しかし、その上にあたるところには墓地があって・・・このように、みごとな墓地谷頭になっていました。
目黒の高福院の墓地(渋谷川支流の上流端であり、同じく墓地谷頭)を思い出しました。それを、更に凝縮したような場所でした。

ここで湧いた水が、おそらく以前は池になっていて、そして左右の崖からの水も集めた川が、

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ここから始まります。専念寺の門のところから。

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流れは門を出、コンクリ蓋暗渠となります(ガードレールの向こう)。

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矢上川をめざしてさらさらと北上します。
矢上川蟹ヶ谷支流(仮)とでも呼びましょうか・・・。

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左右から更に支流がやってきます。
両側は急峻な崖ですから、「そりゃ、来るよね」などとブツブツつぶやきながら歩きます。

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ときどき、のぞき穴もあります。
中には、勢いよく湧水が流れています。

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左岸にちょっと変わったマンションがあって、その脇からも、支流がにゅっと。

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うわはは!なんだ、これ?(すべり台?w)

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歩道の下を流れてゆきます。

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下流は暗渠らしい道になっています。

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この後いったん建物に遮られますが、

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矢上川に到着します。
あれ、水が出てこないぞ・・・?と思ったら、ここにはポンプ所があって、これはおそらくポンプ所の雨水放流口。

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お隣では蟹ヶ谷支流(仮)のきれいな水が合流していました。

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ちょっと上流にはコンクリ蓋暗渠と防火水槽様のものがありました。このへん、小さな谷戸が多いので、こういうのがいっぱいありそうです。

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暗渠のとなりには、畑があり葱が育っていました。
右手には幼稚園があって、夏祭りの準備中。子どもが遊びまわっていました。

・・・さて、軍事ものの話に移ります。
蟹ヶ谷には、かつて海軍の東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊がありました。といっても、今下ってきた谷底にあったのではなく、左岸の丘の上と、もうひとつ西の谷に隊は居ました。

昭和5年、蟹ヶ谷に旧日本海軍の通信基地橋村短波受信所がおかれ、昭和12年にに東京通信隊・蟹ヶ谷分遣隊と改称。その役割は短波受信専門の通信基地であり、世界の情報を傍受していました。
丘の上には22棟の建物と、無線通信用の鉄塔6基があり、多くの電柱とアンテナ線を張り巡らしていたといいます。

既述のように蟹ヶ谷は傍受専門であり、送信専門は船橋分遣隊と戸塚分遣隊です。ここで、谷戸ラブさんの最新記事とも不思議とコラボしますw。

そしてその遺構ですが・・・、6基の鉄塔は次第に撤去され、今は航空管制用として1基だけ残っている、と言われるので、それを見に行きます。まさに、最初に降り立った、あの団地の中に。

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いったん下り終えた谷を、こんどは北側から上ります。
継手多発地帯。

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丘の上に戻ってきました。
さきほどの、槍ヶ崎住宅の東には、公務員蟹ヶ谷住宅と、国税局蟹ヶ谷宿舎がどーん、どーん、と建っているのですが、国税局の団地は立ち退き後のようでした。

ここで鉄塔を探し回ったのですが、無い、無い・・・。
情報が殆ど得られていませんでしたが、どうやら、2010年頃に最後の一本も撤去されてしまったようです。

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なんとなく、ここ、でしょうか・・・。
地図を見ると東京航空局とか書いてあるし、戦時中にあったものの名残を感じていた(地図上では)んですが、2012年現在、着々とそれらは姿を消しているようでした。

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団地の端っこはまるで展望台のようでした。矢上川沿いに広がる低地を一望できる丘の上、いかにも通信向きの地。

残念ながら今回は見られなかった鉄塔ですが、航空写真では在りし日の姿を見ることができます。

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さらば、蟹ヶ谷の鉄塔。(わたしは会うことも出来なかったけど。)

もうひとつ。蟹ヶ谷分遣隊は、この地に地下施設もつくっていました。
さきほどの谷の1つ西、”城法谷(じょうほうや)”というところに、です。通信関連の部隊との繋がりをイメージさせられる名ですが、由来についてはよくわかりません。

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この、城法谷にあった地下施設の模型を、平和館でみることができます(手前の水路は二ヶ領用水)。

この日は平和館に寄り、イメージを膨らませたうえで、ここに来ています。しかし、ただでさえアップダウンの激しい川崎で若干疲れ、かつ、鉄塔が見つからず、意気消沈気味でした。そんなところに、この看板が飛び込んできました。

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名残があった・・・!
整備された比較的新しそうな公園でした。しかも、地下に雨水貯留施設が埋め込まれている、興味深い場所です。
気を取り直して、地下壕を探しにゆきます。

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今度は、蟹ヶ谷のように谷底にちゃんとした道がない(畑や企業の用地のみ)ので、いったん谷を下りきり、そして遡ることにします。すると、早速暗渠です。

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遡ると、開渠になり、

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ふたたび暗渠になります。
のどかなのどかな、畑の脇を流れる小川です。

・・・いや、むしろ農家の方の私道ぽくて、無目的に歩くにはハードルが高い道だったんですけど。おそらくここは、久末谷戸ともいうようなのですが、自分としては矢上川城法谷支流(仮)と呼びたいです。

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城法谷支流(仮)のコンクリ蓋暗渠は、クネクネ続いたかと思うと、その先クッと直角に折れ、

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唐突に人工池が現れます。妙に黒いんですが・・・生き物の気配は、とてもありました。蟹っ!?と思ったら、ザリガニでした。

ここでも湧きそうな地形ですが、さらに上の方から湧水が注ぎこんでいます。その上は、渓流のような蓋暗渠で、さきほどの城法谷公園の方につながっていっていました。

そして、この池の隣には、

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地下壕の入口がありました。

今も山林と竹藪と畑といった風景が主なこの谷戸ですが、戦時中もそのような風景だったようで、その中に軍は昭和18年に2つの耐強受信所(地下壕)をつくりました。地下壕の中には電信室があり、多くの通信機材が置かれていたそうです。傍受した内容は、東京通信隊本部や日吉の連合艦隊司令部にも伝えていたといわれます。

地下壕は厚さ40センチメートルのコンクリートでアーチ状に作られ、3か所の出入口がありました。これはその1つで、現在唯一外から見ることのできるもののようです。

地下壕入口のすぐ脇に、こういったことが書かれた説明板が立っていました。そしてそのまん前を、コンクリ蓋暗渠が走っています。
説明板、コンクリ蓋、人工池の位置関係はというと、

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こうなっています。つまり、池のすぐ向こうが地下壕入口なのです。なんという三位一体・・・。

城法谷は、清水も湧いている緑豊かな谷戸だった、と、戦時中の記録にはあります。隣の蟹ヶ谷がそれなりに開発されているのに対し、ここはその雰囲気が今も残っています。

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けれど、畑の緑、山の緑の脇に、にょっきりと現代の人工物も同居していて。 地下には過去の人工物が眠っていて。いろいろなものが在る谷戸です。

さて、概ね見たいものは見たので、帰ります。

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蟹ヶ谷から下ったところに、たつみという中華屋さんがあります。ここにはなんと”カツカレーラーメン”をはじめとする、ワンダーな世界が広がっているようなのですが、涙を飲んでスルー。
だって、わたしは今日は蟹を食べたいんだもの!・・・と、憲兵隊分遣隊が置かれていた、溝の口に移動します。

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滅多に頼むことのない、カニサラダ。
え?そりゃ蟹じゃないって・・・?うぇへへ。

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そして大好きなカニ汁。こんにちは蟹さん。

と、蟹を口にして満足げに帰路に着いたのでした。季節はずれの、蟹づくしさんぽ。毛ガニも食べたかったなぁ。

<参考文献>
「平和ウォーキングマップ川崎」平和マップづくり実行委員会

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