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2012年5月

富久町のその後

紅葉川のねちねち歩きをしていたとき、水源をもとめて、訪れていた富久町(”四ツ谷と富久町の水源”)。そこには立ち退きによる歯抜けとなった、風前の灯のような住宅地と、それにより露わになったスリバチ地形と、神秘的な不動尊がありました。

風前の灯のような、とは思ったけれど、でも、そこにある新しめのアパートや、まだまだ生活感のある家を見ると、ここが消えるのはそんなにすぐではないのじゃないか、とも思っていました。いや、そのように「思いたかった」だけなのかもしれません。

年末年始に足を折り、タクシー通勤をせざるを得なかったとき、富久町の前をかなりの確率で通っていました。そして、そのとき初めて、富久町の工事がかなり進んでいるらしいことに気づきました。
けれど、この折れた足で富久町を歩き回ることは出来ないし。・・・かなり悶々としていたことを覚えています。

その後、またも時間が経ってしまいましたが、先日やっと足を運んできました。

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新宿御苑で降り、北上します。
まもなく、工事のため囲われたエリアが出てきます。クリーニング屋さんの看板だけが残っていたり。
左側には、行列用の椅子が置かれたラーメン屋さんがあって、だいぶ気を取られました。

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富久町に限らず、紅葉川近辺ではあちこちで道路がつくられかけているので、この工事エリアが今日目指しているものなのか、否か、気づくのに少し時間がかかりました。
足もとが右に向かって傾斜しているのを見、あの窪地の近くにいるかもしれないということにやっと気づきます。

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ああ・・・。
思ったよりも、ずっと工事は進んでいるかもしれない。この裏側に谷頭があるのだけど、裏側には行けないことを悟ります。

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1枚前の写真の角にある、小さく、古びた良い感じの焼鳥屋さんも閉店していました。入ることにためらいを覚えながらも、とても気になっていた店だったのですが。

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このあたりに、古いマンションがあって、裏側から見るとやたら階段が飛び出ていて面白いなと思っていました。

とすると・・・水源に在った清滝不動尊は?どこへいったんだろう??

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道路沿いに遷ってきてました。
でもこの並びのお店も立ち退き始めているため、この場所にずっと居られるものなのか、どうか。

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それにしても、急激に行程が進んだ感があります。都市再生緊急整備地域・・・。てっきり、道路ができるのだと思っていましたが、土壌汚染が理由のようです。新宿区のサイト。現場には「土壌汚染対策工事」とあり、項目としては「鉛」と書かれていました。

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柵の上に手を伸ばし、中をパシャリ。富久町の湧水が見えます。再開発後は、ここに湧いていた水のイメージをたのしむことは、もう出来ないんだろうな。

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・・・。

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現場の大きさも大規模ですが、このプレハブもずいぶん大きいです。

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再開発後、こぉんなビルが、建つんだそうです。

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そういえばここには、雨の日とか、夜とか、あまり眺めの良くないタイミングでばかり来ていた気がします。夕暮れにきたとき、子どもが遊んでいた公園がこの左手にありました。

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ドギャーンとか言っていた崖は、東側だけ残っていました。横倉の壁のようだと言った滑り台は、跡形もなく。

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古めの階段が日なたぼっこ中。これは、残るのかなあ・・・?

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以前、牧場跡の近くに牧場関係出木杉くんエリアがあると書いていましたが、そのエリアも富久町に隣接していました。その一つであるハンバーガー屋さんは、ぎりぎり残っていました。

良いなと思っていた場所が失われてしまうことは、たびたびあります。再開発を反対まではしないし、復活させろとまでも思わないし、・・・暗渠趣味はある意味失われたものを想像してたのしむ部分もあるし。
それでも、今回のような変貌に出くわしてしまうと、喪失感や無力感は少なからずあるし、それを「仕方のないことなんだ」と思うようにしている、といった感じです。嗚呼写真をもっと撮っておけば良かったといった後悔をするのも、いつものこと。

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帰り道に遭遇した、こんな風景(電線にかかっているのは薔薇です)。
こんな風景も、いつのまにかなくなってしまうのでしょうか。

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サクシュコトニ川エスカロップ

わたしの中学校の修学旅行は、北海道でした。
そのときに「好ーきーですー、サッポロー」の歌を、バスガイドさんから叩き込まれたため、今でも札幌に行くと、しばしばその歌が脳内リピートで流れてしまいます。・・・だから今回は、ときどきその歌が流れながらのさんぽ。

好ーきでーすだーれよーりもー♪

出張で札幌に行ってきました。北海道大学。入った途端に、この親水空間!

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ここは、野川公園!?

・・・ほかにも、構内に水辺がいくつもいくつもありました。ただし、最初の印象は、ただそれだけ。

札幌市内は、ほとんど碁盤の目であり、地形もあまり凹凸があるようには思えないので、実のところ暗渠にはそれほど期待していませんでした。ただし、駅名を見ると、川に因みそうなものがときどきあります。何か支流暗渠のようなものが見つかりはしないかと、ふらっと「中の島」という駅で降りてみました。

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中の島、という地名から想像するのは2つの川に挟まれた島か、湿地帯のような場所です。じっさい、中の島は、札幌を流れる大きな川、豊平川と、その支川である精進川の間の島になっているように見える場所でした。
これが、精進川です。

それから、駅前の地図に「水産庁北海道さけますふ化場」とか「独立行政法人さけ・ます資源管理センター」とか載っているので、思わずそこまで行ってみました。

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この左手の建物がそれです。すぐ脇を、精進川が流れています。施設の中には、孵化させる空間っぽいものがありました。

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付近には、斎場や「水車町」という町もありました。川沿いなんだな、と感じます。ただ、期待するような支流暗渠や旧河道らしい空間にはいっこうに遭遇しないのです、碁盤の目がひたすら続くのです。・・・こんな、2つの川に挟まれた土地でさえ。

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しかし、銭湯はありました。東豊湯。積雪のためでしょうか?こんなつくりです。

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気になるマンホールもありました。「札下」とか「ト札下」とか書いてあるんです。・・・札幌下水道なのかな、しかし札とは読めない・・・札幌の札と、北海道の北を合わせた文字なのかな。そして「ト」はいったい何なんだ・・・と、悶々としていたら、やなぽんさんが教えてくださいました。これは、札幌市下水道のもののようです。それから、「ト」がつくのは、中の鉄筋が太い増強蓋である、ということまで教えていただきました。ほか諸々、ぜひこちらを参考に。→以下、札下マンホの説明記事(やなぽんさん、ありがとうございました!)
http://yanapong.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html
https://sites.google.com/site/machiyomi/tetsubuta/hokkaido/sapporo#3

そういえば、札幌って碁盤の目に沿って「北〇条西〇丁目(〇内は数字)」のような住居表示の仕方が多く、とても独特ですよね。白汚零さんが、札幌は下水道幹線の名付け方も独特で、アルファベットと数字の組み合わせなのだ、と仰っていたのを思い出しました。

・・・それにしても、暗渠がないなあ。暑い日だったので、珍しくガラナなんか飲んでみたけれど、自販機の隣にゴミ箱がある確率が異様に少ない。あと、信号が”勝手にスクランブル”っぽいところが多い。色々とユニークな街だなあ、ここは・・・。

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ふう。とりあえず昼ごはん。
みよしのの餃子カレー。今回初めて食べた札幌B級グルメですが、ハンバーグカレーみたいに、コレは大アリ。しかも380円なんです!カレーは野菜とひき肉のやさしい味、餃子は福しんぽい味。学食みたいでいいなあ。近所にあったらいいなあ。周囲の人の餃子カレー注文率も高かったです。愛されてるのね。満足!!

・・・で、暗渠のことはほぼ諦めかけていました。

しかし、北大をうろうろするうち、どうやら冒頭の親水空間を流れている川は、昔から流れていた川を整備したものらしい、ということがわかってきました。

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その名は、サクシュコトニ川というらしいです、どうやら。
というわけで、今回歩けたサクシュコトニ川を、遡る感じでレポートしたいと思います。

この写真は、復活したサクシュコトニ川がひととおり整備された空間を流れおえ、暗渠に入っていく出口のところ。

・・・サクシュコトニとは、どういう意味なのか?アイヌ語で、
サ=浜のほう
クシュ=通る
ということから、サクシュ=浜のほうを通る(この場合の浜=豊平川)、なのだそうです。また、
コトニ=窪地
から、「窪地を流れる川のうち、豊平川に最も近い川」という意味になるようです。

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さきほどの出口から上の流路をながめると、こんな感じに、美しい窪地にある草原の中を、控えめに、しかし淀むことなく、さらさらと流れています。

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ちなみに、暗渠を経てもう少し下流に行くと、新川という川に合流するようです(もともとは「コトニ川」に合流するということでしたが)。新川に合流する流れはほかにもあって、北大隣にある競馬場の周囲(の、道路下でした。元同僚がタクシーの運転手さんから「この道路は暗渠だ」と別な場所で言われたそうですが、こんなふうに大きな暗渠が下をくぐる道路が何本かあるのでしょうか)を流れてここで開渠となるこの川たちもそのひとつ。この水はどこからやってきたのでしょう・・・

ほんとは色々気になりますが、時間も体力も限られているので、北大キャンパスに的を絞ります。さきほど草原の中を流れていたサクシュコトニ川、つぎに出逢ったのはこの場所でした。

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以前は水量も豊かで、サケが遡上していたといわれます。都市化が進み、1951年ころから水量が減り始め、枯れてしまったそうです。そのとき、上流部は河川としての役目が終わってしまったけれど、下流部はサクシュコトニ川としてその後も存続していたといいます。
このあたりの地点は、その、存続していた部分にあたるみたいです。

「遺跡庭園」北端までは昔の風情そのままに、灌漑用水や自然水等の水路として利用されている、と案内板にありました。それがだいたいこの場所なのですが・・・

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遺跡庭園というのは、これです。

正しくは「遺跡保存庭園」。大学構内のサクシュコトニ川の両岸には、竪穴式住居跡が多数残っているのだそうです。それらは、明治期の絵地図にも地面の窪みとして描かれています。現在は埋まってしまい、見えないものが多いですが、この「遺跡保存庭園」の中にはまだ窪みが残るといいます。

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ひろいひろい、原始林の中を歩いていると、ふとこんな風に、穴らしきものと「アイヌの住居」と描かれた立札があります。この一帯には深さ50センチ、直径5~8メートルになる穴が30以上もあるのだそうです。奈良時代末~平安にかけての村落。

・・・これが大学の中・・・?ひとり、こんな原始林の中にいることがとても不思議に思えてきます。

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遺跡庭園の脇には、空の水路がありました。雨水の排水路なのか、必要な時だけ水を通す用水路なのか不明ですが、この先はサクシュコトニ川につながっていました。

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もう少し上流には、こんな空間。

傍らに牧場?と思ったら、酪農生産研究施設・中小家畜生産研究施設という北大の施設でした。牛さんたちがのんびりと暮らしていました。

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自然そのままの姿の水路が、注目もされずに流れています。自然すぎて、脇を歩くことさえできません。カラスが行水をしていました。

そして次に人目に触れるのが、

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ここです。
かつて川が枯れてしまった時期に、埋められてしまった部分がこの間に挟まっている(=暗渠区間)ようですが、残念、見られませんでした。

1998年ころから、埋め立てられた部分を開削して浄水場から導水する計画が始まったらしいです。(最初は湧水かと思っていましたが、残念ながら処理水のようです。東京と似たようなことが行われているのですねぇ。)
2001年の北大125周年「サクシュコトニ川再生事業」において、その計画は更に進み、再生事業は2003年~2004年あたり。
 http://circle.iic.hokudai.ac.jp/vrmap/Articles/2003SKR/
このサイトを見ると、今回追った水路のうち、まだ暗渠だったもの、通水してないものなどがみられます。また、
http://www01.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition17/toku2.html
このサイトを見ると、サクシュコトニ川は北大キャンパスの形成に少なからず影響を与えていたようだ、ということがうかがえます。

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もう少しだけ上流。とても澄んだ流れがさらさらと流れ、ひとびとがくつろげる椅子があります。明らかに、学生だけではなく、市内のひとたちがこの空間を楽しみに来ていました。

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その、ひとびとが見つめる先は、・・・大野池。こんなに綺麗な池。湧水池かと思うほどです。これまで書いてきたように、この水は浄水場からきている処理水のはずですが。

その上流は、冒頭の野川公園のような親水空間であり、

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遡ってゆくと、ここが始点でした。処理水の出口にあたるところです。

再生したサクシュコトニ川の、源流?地点です。

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なので、川を追うのをやめ、駅へと向かおうと思っていました。すると、先ほどの地点から少し進んだところに、「河」と書かれたマンホールがあったのです。

後で調べてみると、近辺で見たいくつかの「河」マンホは汚水ます表記だったりで、何者なのかよくわかりませんでした。しかし、このときわたしはこれを見て、「もしかするとこの先にまだ上流があるかもしれない」という気に、なぜだか、なったのです。

引き寄せられるように、やや南のブロックに行きました。

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すると、ガクッと下がる空間が出現しました。・・・この雰囲気は、すごくあやしい・・・!!次のブロックに回ります。

すると、

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あった・・・!!!

これはまさしく川跡・・・!

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振り返ると、さらに上流があります。

サクシュコトニ川の跡は、いまでも残っている・・・!

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これまで見てきた、札幌市内の風景とはまるで違う空間が広がります。ずいぶん高低差のある、崖下の川跡です。

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草が伸び放題ですが、川筋は確認できます。
蛇行して、

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こんな風に出てきました。

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曲っている区間は、こんな風にぼさぼさです。とても暗渠風味。
今回最初で最後の、車止め風のものがありました。たぶん、手すりとして使われていたようですが。

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さきほどの蛇行の後は、この裏を通っていました。「井頭龍神」・・・来てますねぇ。

ここは偕楽園という場所であり、かつて「龍神さんの池」があったといわれます。湧水池だったようです。偕楽園には鮭孵化の試験場などが設けられたこともあったといいます。

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偕楽園の脇はこんな風に丸く崖になっています。じわじわとしみ出るタイプの、湧水があったのかもしれません。

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偕楽園から先は、再びワイルドになります。これも川跡。

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護岸には不揃いの石や、陶器や、いろいろなものが混ざっていました。

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コンクリ蓋の出現。下水道台帳で確認してみましたが、この、サクシュコトニ川の上流部の真下には、とくに下水道は通っていませんでした。ここには雨水が流れることもあるのでしょうけど、たいして流れないのかもしれません。

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でもこのコンクリ蓋は、かなりの存在感をもって、行くべきところを示してくれます。

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草で覆われている場所もあるけれど、

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うっとりするような自由なかたち。

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さらに上流は空き地でした。
でも、サクシュコトニ川はしっかりと見ることができます。

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川跡として認識できる最上流部はここです。
ここで、途切れます。このさき、JRの高架の下をくぐり、すぐ隣が水源です。

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水源はここと言われます。

アイヌ語では、湧泉のことを「メム」というそうです。
豊平川扇状地の伏流水は、かつて市内の各地で湧いていました。サクシュコトニ川の水源は、この、京王プラザホテルの西隣にある、建設会社伊藤組の伊藤氏所有の家(住んではいないらしい)にあるメムです。中には入れませんが、庭は外からも見え、盛大に窪んでいることまではわかります。
るるぶのフリペには、ここについて「札幌市内にある最後の泉池があり、サクシュコトニ川の源泉が存在している」とありましたが、外から凝視しても、どうも水面は見えません・・・はてさて。

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明治期の地図にあわせて見てみると、今回たどった川跡は、この水色の流路のうち、もっとも東側にある一本です。

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前述の伊藤氏宅の隣のブロックには北大の植物園があります。北大の植物園は、東大の小石川植物園に次いで、日本で二番目に古い植物園です。その、園内にもかつてメムがあり、コトニ川水系の川が流れ出していました。先ほどの地図でいうと、一本西側の流れにあたります。

ちなみに、水系は異なりますが、札幌ドームのほうには「ラウネナイ川」「ウラウチナイ川」
などと、これまた由来が気になる川たちが今も流れています。

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最後は、エスカロップ(白エスカ)で〆ましょう。

エスカロップは根室のB級グルメですが、ずっと食べたかったもののひとつです。東京都内でも3か所ほど提供する場所を確認しましたが、どうも行けていません。札幌市内では東京よりもさらに多くの店舗が提供していると聞き、アクセスしやすい駅ビルで食べました。
・・・エスカロップの構成要素は、筍入りのバターライス、トンカツ、デミグラスソース、であるはずです。しかしこれは、筍ではなく玉ねぎのバターライス、薄切り肉を重ねたトンカツ、という変化球でした。おーい!筍のやつが食べたいぞー!!
・・・というわけで、エスカロップへの情熱は失せることなく、しかし、暗渠的にはだいぶ満足した、北海道のさんぽでありました。

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桃園川銭湯巡礼 その2 玉の湯と川名

右サイドバーの「おすすめ本」リンクに、久住昌之「昼のセント酒」を追加いたしました。そりゃあ、暗渠と直接関係あるかといったら、ない本ですが。。。この本との出会いについては、その1の記事の冒頭に書いているように、ちょっと運命的なのでした。

久住氏が、三鷹の銭湯に行く章があります。そこでは、風呂(千代の湯。充実した露天風呂があるし、生ビールやおつまみまで提供している、すんばらしい銭湯!)あがりに、すぐ近くにある古い飲食店のうち、「万平」と「ゴング」を見ています。しかし、久住氏はそこで「万平」を選ぶのです・・・いやいやいや、そこは「ゴング」だろう!!というのが、この本に対する唯一の不満です。わたしは「ゴング」の方に入り、美味いとか不味いとかではなく、「やっぱゴングだよなぁ!」と思ったのでした(ふんいき)。

さて。桃園川銭湯巡礼、その1は水源から天沼までの間の、廃銭湯および現役銭湯について書きました。その2は、ちょっと川を下って、阿佐ヶ谷が舞台です。

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阿佐ヶ谷駅北口を出て、目的地に向かいます。今日は、桃園川本流(上の写真)はスルー。

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さらに北にある、桃園川北側支流(仮)が今日のスタート地点です。北側支流(仮)と書いていましたが、ここはおそらく桃園川本流の旧流路のひとつでしょう。そう思うと、支流呼ばわりもなんだかな、というのが最近の心境です。(今年のうちに、旧流路についてはまとめたいと思っていますが、もうしばらくお待ちを・・・)

金太郎が居るし、本流の緑道よりこちらのほうが好きだったりします。この日はベンチに小鳥が居ました。一羽は、「・・・ぐぇ。・・・ぐぇ。」と(あんなのは初めて聞いた)、まるで蛙のような鳴き声だったので、わたしもたまらず蛙の真似をしながら、しばし小鳥と会話。

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その、桃園川北側支流(仮)の続きがこれ。そして、この流路沿いに富士見湯という銭湯がかつてあったようです。おそらく、右手手前のマンションかなーと。ここから富士山が見えたとは思えませんが・・・もう少し崖上からは見えたのでしょうか?

もう少し先に、K師匠曰くかつて水が湧いた場所というのがあるようなのですが、うろうろしてみても「湧きそう」感があまりわからず・・・

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もっと下ります。好きな場所のひとつ。

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この北側の流路は特に、コンクリ蓋職人さんの腕が冴えます。
直角、ゆるいカーブ、いずれもきっちりぴったりと蓋の間の処理が施されています。

さあ、もうすぐ玉の湯です。今日の目的地!

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このコンクリ蓋暗渠は、玉の湯に向かう参道なんじゃないでしょうか。

気持ちが昂ぶります。

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玉の湯
マッサージ風呂や薬湯風呂もあり、サウナもあって、なかなか広い。待合にソファもあるけど、アルコールは置いてないようでした。でも、今日はそのほうがいいのさ。風呂から上がったら、何も飲まないで次の目的地に行くのだから。

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・・・なぜ「コイン」が小さいのか。

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今来た暗渠みちを戻ります。縫い針車止め・・・ふふふ。

タオルを手に持って、ひらひらさせながら歩けばちょっとだけ乾くし、いい感じ。

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到着したのが川名です。まず、「焼鳥割烹」って謳っているのがいいです。割烹といっといてこの外観なのがさらにいいです。もう少ししたら、店先でもうもうと肉が焼かれることでしょう。

この、まだまだ明るいうちにってのがまた、いいです!

川名と言えば・・・、

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食べものの印象より、壁に並んだこのオヤジギャグの印象しかありません。・・・下ネタ多いな。

むしろ、もっともっとたくさん貼られていたと思っていたんですけど、記憶が変化しちゃったのかなあ。でも、前は貼ってあったギャグが無くなっているような気もするし。来るたびに増えてたり、張り替えてあったりしたらまた面白いんですけどねwそんなことはないようです。

さー、ビールを飲もう。

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なぜか、つきだしはフルーツ。オレンジがきたけど、向かいのテーブルにはぶどうも置いてありました。

ビール、ごくごくー!うめぇー!

焼鳥を待つ間、とりあえずと頼んだ煮込みが妙においしかったです。ごぼう、にんじん、大根、こんにゃく、ほかにもさまざまな野菜が入っていて、深~い味。

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で、焼鳥盛り合わせ。ん~、うまい。うまいうまい。
たしかメニューの中で高いのはお茶漬けやゴーヤチャンプルーなどの5~600円台のもので、基本的に100円~300円台で、コスパもなかなか良いと思います。

まだ18時にもならないうちに、席がほぼ埋まって、愛されてる感じがしました。   

今回の行程は以下。川名も玉の湯もばっちり暗渠沿いです。

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阿佐ヶ谷の地図って、ぐねぐね道がひときわ多くって、ほ~んと見惚れちゃう・・・。

銭湯排水が河川に流されていたその昔。いま歩いてきた川には、蔦の湯の、藤乃湯の、庚申湯の、富士見湯の、そして玉の湯の、排水がどぶどぶ流れていたのかもしれない・・・。冬には湯気が立っていたかもしれない。5軒分の銭湯のお湯。それっていったい、どれだけの人が使ったことになるんだろ?・・・上流から、銭湯のことばかり考えながら下ってくると、そんな排水まみれの想像もしてしまう。そしてビールの泡となる。そんな銭湯と、お酒の旅でした。

つぎは、さらに桃園川を下って、高円寺にまいります。

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暗渠沿いカフェ? その4”Outback Steakhouse”

ハテナがついてるように、”暗渠カフェ”のカテゴライズがおかしくなってきてますが。
当初は”暗渠を眺めながら珈琲でも飲める店”のはずだったんですが。なんだか、暗渠沿いにある食べ物屋さん、みたいになってきてますが・・・ごほんごほん

まぁ、行きましょう。今回は、宇田川沿いです。

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富士そば前の、盛り上がった歩道。宇田川暗渠です。こんな風に、席から暗渠が丸見えなお店があります。

それは、渋谷のアウトバックステーキハウス

ステーキっていうより、その日はハンバーグが猛烈に食べたいと思う日なのでした。肉!肉食いてぇ!しかもアメリカンなやつ!行こうぜアウトバック!

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きたぁ。香ばしさとか荒々しさとか、好み~!
ビールぐびぐび~。

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ハンバーガーも、きたぁ。
赤ワインがぶがぶ~。
それにしても、付け合せのマッシュポテト、すんごい大きくないですか・・・。バンズのサイズがおかしく見えてくるこの感じ、アメリカで味わった気がしますよ・・・。

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きた瞬間、いちばん「わぁっ!」ってなったのが、この、ブルーミン・オニオンという名の丸ごとオニオンフライ。でかい、でかい、でかい・・・。
途中まで幸せに食べましたが、後からかなりきついことに。

二人で行ったのですが食べきれず、残りは持ち帰らせてもらいました。そして翌朝も半分くらい残っているブルーミン・オニオンを食べるはめになったのですが、それもなかなかきついものがありました(もう随分前の出来事なのに、あの感覚は今もよく覚えてますw)。

暗渠を目の前に、あんだけお腹が苦しくなった記憶も珍しいです。。。

この、アウトバックの2階の窓際席に座れば、夜だってばっちりこの眺めです。

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でも実は、向かいの”富士そば”のほうが、もっと暗渠ばっちりだっていうw
この富士そばで、かつ丼で一杯などやってみるのも、いい暗渠酒かもしれませんね

後日追記:この記事に関して、富士そばにはアルコールは置いていないのでは、という話になりましたが、どうやら渋谷店ではアルコールを置き始めたようです。グッジョブ!

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梅見る暗渠、清水口支流(仮)

今回は、千川上水から杉並方面を潤すために分水されていた、六ヶ村分水(当ブログでは千川分水と表記)のひとつを辿りたいと思います。

六ヶ村分水については、すぎなみ学倶楽部に図入りで説明があります。
それを参照すると、これまで当ブログでは、切り通し口(井草川上流として紹介)、四面道口(四面道口からの田用水として紹介)、天沼口(桃園川上流、追分用水として紹介)、阿佐ヶ谷口(相澤堀として紹介)については記事にしています。今日は、残るもののうち、清水口から分水されているものについて扱おうと思います。

なお、リバーサイドさんがこの暗渠を妙正寺川の四面道支流として紹介されていますが、上記の「四面道口からの田用水」(これは四面道から南側へと流れるもの)と区別するために、ここでは「清水口支流(仮)」と呼びたいと思います。

清水口支流(仮)は、千川上水の水を引き入れ、途中であちこちの湧水を合わせ、妙正寺川に注ぐものです。

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四面道交差点の北側に、このような排水場の建物があります。
で、ここが清水口支流(仮)の始点でもあります。・・・ここから入っていこうと思う人なんて、きっとあまりいないんじゃないかな。

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・・・でもね、抜けられるんです。

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入るとすぐに、広さはそこそこあるんだけど、裏道っぽい空間。(リバーサイドさんが通られた時よりも、整備されているかも!)

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放置バイク?が何台か置いてあって。

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おおきな二本の樹木がにょっきり。

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道路をまたぎ、ここからは、少し、入ってもいい雰囲気になります。おさんぽしている方もいらっしゃいました。

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それでも、地面を見ると、ぼさぼさしています。

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少し歩くと、用水路らしく直角に曲がり、車道と合流。道路の妙に幅広い位置を走ります。あの、幅広い場所が終わるところで暗渠が曲がるわけなので、とてもわかりやすいですw

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畑が現れます。とつぜん、ずいぶん大きな畑が出てくるのですが、この畑の敷地も含め、ここらへんは井口さんという名字の家が多いです。・・・そう、井草川のときに書いた、「草分け井口氏」の子孫と思われます。ちょっと古めで立派なおうちだな、広い敷地だな、と思うときには、井口家率が高い気がします。

さて、いま歩いてきている道、住所はずっと杉並区清水です。清水、という名のとおり、以前は湧水が豊富だった地といわれます。
ちょうどいま歩いている付近は、通称「水の出るところ」とか、「清水頭」と言われていたそうです。

そして、この辺の話で、以前から気になっていたものがありました。それは、まいまいず井戸のこと。
荻窪風土記で、井伏鱒二氏が以下のように記述しています。

ところが私のうちの近所の曽我医院のそばに、昔から清水と言われていた大型の四角い古井戸がある。(そのため、この土地を清水と言ったり、清水町と言ったりした)最初、これは丘の斜面にあったまいまいず井戸の枡形の段々を削り取った残欠ではないか。そんな風に言われているそうだ。

これもじゅうぶん、興味を引く記述なんですが、これに対し、

この辺りは井戸を掘るのに苦労する所ではないので何かの思い違いであろう。

と、羽鳥氏が「杉並の川と橋」内で井伏鱒二氏をバッサリ。
このバッサリっぷりがおもしろくて、妙に気になっていた場所でした。

そして、井戸の持ち主と身近な井口氏が種あかしをしてくれています。
結論から言うと、やはり、まいまいず井戸ではない、ということです。以下、時系列にまとめると、

・もともとは低湿地(3~40坪ほど)にあった湧水池(池は半坪ほど、崖下にあり、細流が流れ出ていた)で、常時清冽な水がこんこんと湧いていた(~昭和10年頃まで)。
・湧水は田圃に使えないので、持ち主の井口氏が南側から土を運び、盛土をして畑に作り替えた。その時に、池に大きな土管を埋め込んで、湧水を小川に流した(昭和10年頃)。
・昭和23年、通りがかりの祈祷師が、「これは水の神に対する冒瀆だ」的なことを言い、確かに家には長患いの者が居たので、泉を復元することにした。そのさい、土を取り除き、土止めのために漬物石を円形に積み上げたすり鉢状の形とした。

こういった経緯で、井戸にしてはちょっと気になる形状のものが、この地に生まれたわけです。通りがかりの祈祷師っていうのがまたおもしろい!

その井戸が、こ・れ・だ。

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確かに、石で覆われた穴がそこにあります。覗き込んでみましたが、残念ながら湧いているさまは確認できませんでした。というか、水面が見えませんでした・・・。
前出の井口氏は、平成7年の清掃時に湧き出るさまを見た、というので、普段は蓋をされるなどして、水面は見えないのだろうと思います。
平成7年時点での湧水量は、「10リットル入りのバケツを満たすのに約10秒」・・・たのもしい湧きっぷりですね。いまも、こんこんと湧いているといいのですが。

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井戸があるのが、その竹林の中。すぐ下を支流が流れます。車止めが見えている道が清水口支流(仮)です。
つまり、この井戸で湧いた水は、清水口支流(仮)にすぐに流れ落ちているわけです。今こんこんと湧いているとしても、すぐに下水管に落とされているということなのでしょうか。

ここで水路は再び直角に折れ、

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また、妙にふくらんだ道路の左端をつたって北上し、右に折れます。

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ちなみに、井戸のはす向かいに井伏氏が書いていた”曽我医院”であった場所があります。70年代の住宅地図では曽我医院は現役でしたが、いまはもう閉めていらっしゃるようでした。

この周辺には他にも、川底からもくもくと水が湧いている場所がいくつかあったといわれます。このように多くの湧き水があったことから、江戸中期頃から「清水」と呼ばれる場所となったのだそうです。

水路では昭和10年頃までは藻エビが採れ、ギンヤンマが乱舞していた、とのこと・・・。

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さ、直角に曲がった後の暗渠を追いましょう。コンクリ蓋はないのですが、車止めがあるのでやっぱりわかりやすいです。この支流は親切でいいなw

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流末が近くなってきました。暗渠は二手に分かれます。

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二手に分かれるとき、目の前にパァッと梅の花が広がりました。
暗渠沿いに梅林。梅見にもいい暗渠かもしれません。季節じゃなくってスミマセン・・・

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そしてこの道のつきあたりで桃井のほうからの流れとあわさり、沓掛田圃を潤し、妙正寺川へと注ぎます。今日はいったんここまで。この続きは、柄杓屋口からの分水、つまり桃井を通る支流のときにでも。

今回の行程は以下です。

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さて、ご飯でも食べましょっか。
荻窪駅に戻って、北口でなにかレトロなものでも、と思っていたら、

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がーん!富士食堂が取り壊されている・・・!!

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荻窪の北口は、どんどん歯抜け地帯になっているのですが、つい先日休業→復活をとげた食堂が、突然消えたことには結構なショックです。

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十八番も開いていないし・・・。カレー腹だったので、タマームというお店でカレーを食べることにしました。うん、これはこれでおいしいんだけど、井之頭五郎のスベッてるときのパターン、みたいな心境です。

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・・・と思っていたら、後から路地内に富士食堂の新店舗を発見しました。ほっ。
まだ開店準備中といった感じでした。

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てづくり感あふれる地図。以前みつけた井戸は、ちゃあんとここに反映されていました!井戸は3つあったから、3つめは新しいのかなぁ?

この路地ももうすぐ失われてしまうのかな、と、お店が減ったことに気づくたびに鳥もと旧店舗の喪失感を思い出します。しかし、やきやや鳥もとのように、古き良き店舗がいったん失われても、近くでまた営業していてくれるってのは、なんだか安心します。富士食堂、オープンしたら食べに行くぞーー!

<参考文献>
井口昭英「井草のむかし」
井伏鱒二「荻窪風土記」
杉並区教育委員会「杉並の地名」
杉並区郷土博物館「杉並の川と橋」

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暗渠さんぽのルーツ

なんで、蛙が好きなんだっけ?
緑色好きが先か蛙好きが先か、忘れてしまうこともあるけれど、もともとは緑色。
中学生のときに諏訪湖のほとりで見た、東山魁夷の「緑のハイデルベルク」。
この絵に使われた、緑の持つ豊かさにやられ、そして緑色が大好きになった。
これが、蛙好きのルーツ。

なんで、暗渠が好きなんだっけ?
時々聞かれて、理由が1つではないから、うまく答えられないこともあるけれど、
もともとは地下が好きだったことによる。
小学生のときにやった、龍泉洞の研究・・・、いや、実はもっとさかのぼって、
幼少期にかこさとしの「地球」という絵本の、地下に広がる世界に目を輝かせていた。
つまりはこれが、暗渠好きのルーツのひとつ。

今回GWに帰省して、「地球」という絵本にどれだけ惹かれていたかということを、
あらためて味わったのだけれど、さらに、もっといろんなことが繋がった。

これまた、中学生のときにとても好きになった場所がある。
社会科のグループワークで行った、地元の人もよく知らないようなお寺。
今回、久しぶりにそこに行ってみることにした。

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深沢不動尊。山形市のはずれの、山奥の谷戸にある。

立札には「不動明王を祀る、近郊近在になりひびいた古い不動尊。奥の院には多数の石仏あり。八竜川の水源地。」と、ある。

今回車で行ってみて、その山道の長さに驚いた。中学生や高校生だったときのわたし・・・自転車や徒歩で、こんな山道を延々上っていたのか。

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このように、清冽な水が流れてきている。たぶん水源はすぐそこ。

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谷戸には水の流れる音だけがし、人は誰もいない。
何度来ても、そうだった。・・・誰も来ることのない場所。
石仏だけがある。

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足元に目をやると、石段の下からも水が勢いよく湧いている。

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朽ちた鳥居。

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この上に奥の院があり、そこにあった風景がもっとも好きだったのだけど、通行止になっていた。

この奥では、たくさんの石仏が崖にならび、あちこちから湧水が滴っていた。周辺はこれまでの写真のように、鮮やかな緑に覆われていて。幻想的な石仏群、湧水、緑。

いま見えるこの石段の一段一段も、実は湧水で湿っている。こんなふうに緑と湧水により演出された絶景は、ほかに見たことがないように思う。

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これは手水?
参拝客は僅かにいるのかもしれない。

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上の写真の、石段の下からもまた、だくだくと水が湧いていた。

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駐車のためか、参道にはひそかにコンクリ蓋暗渠もあった。

今回いけなかった、石仏群の写真を載せているサイトが少しだけあった。
深沢不動尊・鬼越
深沢不動尊(←こちらも奥の院に行けていないようです)

滴る水と、緑。緑色好きなわたしにとって、あのときからここは、山形で一番好きな場所のひとつになった。

たぶんこれが、湧水好きのルーツ。

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さてまた違う風景。山形市内には歴史ある石積み用水路が何本も走る。
これは御殿堰。と、桜。

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洗い場もたくさん残されている。
思い返せば通学路にも、洗い場がいくつかあった(誰ももう使ってはいないけど)。

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扇状地だからか、水路はどこも勢いよく流れている。
ほぼ直線かと思いきや、蛇行するところもある。

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家々の隙間を縫って、人知れず。

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御殿堰は鰻屋さんの横も通り過ぎる。
ここの鰻はなかなかおいしいので、よく出前で食べていたものだ。もしかしたら、この水路で鰻が採れていた時代もあったのだろうか?

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鰻屋さんの付近は寺町と呼ばれるところ。
今の町名は違うのだが、旧町名でわたしたちも呼んでいた。今でも、お寺がたくさん並んでいる。

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御殿堰は寺町を駆け抜ける。

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墓地のなか、ひときわ音が大きく聞こえる気がする。

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いま、墓地があったのは専称寺。最上義光が駒姫のために建てたという、山形では有名なお寺。

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中学生のある夏、水彩画の宿題が出て、専称寺の境内を描いたことがある。
近所の友人と二人で、この場所に何日も通って、ミンミンゼミの鳴く中、だまって絵を描いた。いや、少しは話したかもしれない、好きな異性のことなどを。
ここ、この水路の縁のあたりで絵を描いたような気がする。

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水路は、寺の中を抜けるときは開渠で大きな音をたて、道路を横断するときは暗渠となる。

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そのさき、市街地を越えて、西部の田畑のほうへ流れてゆく。

この、御殿堰と、八ヵ郷堰にはさまれた場所に、実はかつての花街がある。

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今は飲み屋街となっている。しかも結構好きな感じ。

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花小路、という。アーチが架かる。
近年はレトロ飲食街として観光地化し(ようとし)ているようだが、このアーチはだいぶ前からあるように思う。

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よくみてみると、ところどころに花街の名残があった。
祖父の時代には、芸妓さんもたくさんいたらしい。

わたしにとっての花小路は、子どもの頃の通り道でしかなく、大人になってからもあまり縁がない。
けど、いつも一緒に登下校していた友人(武井咲似)がこの花小路のなかに住んでいて、わたしは何の男気なのか、より遠方のその子を家まで送ってから帰っていた。だから、たんなる通り道とはいえ、とても愛着がある。

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今回、徘徊していたら不思議な並行する水路を見つけた。
ひとつはただの側溝だが、もうひとつは民家の小さなお社から流れ出、下方にある神社(花街のなかの)の脇に抜ける、高いところに人工的につくられた開渠だった。そしてこれは、友人宅の目と鼻の先にあったのだった。
・・・わたし、毎日のようにこれを見ていたんだなあ。けれども、水が流れていたのかいないのか、まったく記憶にない。

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さきほどの花小路のアーチの向こうには、「いっせんみせ」と呼んでいた駄菓子屋さんがあった。いまはもう廃業しているが、店の姿はそのまま。幼稚園くらいの頃から、通っていたと思う。

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いっせんみせを過ぎ、角の駐車場。
???

この日はこの近くで飲み会。

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飲み会はシーロムというタイ料理屋さんだった。
このお店で、高校のとき初めてイエローカレーを食べた。辛くて吃驚したことをよく覚えている。そのときも一緒にいた部活の友人と、「ぐるぐるグルメ」という小サークルを作り、食べ歩きをしていたのだった。ひとりで「山形食べ歩きマップ」を手描きし、市外の友人にプレゼントしたりもしていた。

・・・たぶん、わたしの食べ歩き好きは、このあたりから始まっている(もともとは家族がそうだったからなんだけど)。

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あちこちにある用水路。

わたしは、こんな風景を脇目で見ながら、暮らしていたのかもな。

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コンクリ蓋暗渠も、それ以上にあちこちにある街。

地下、暗渠、開渠、湧水、花街、食べ歩き・・・、東京で出会って燥いでいたこの風景は、実は故郷で深く付き合いのあったものたちらしい。
そんなことが、今回つながった。

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これらすべてが、このブログのルーツ。

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桃園川支流を歩く その45 高円寺南二丁目支流(仮)と、品数の多い料理店

高円寺南二丁目に、ちょっと気になる中華屋さんがあります。
その名は、真華

いえね、遠目に見ててもそんなに気になる外観じゃないんです。「あぁ、昭和だなぁ。」って思うくらいで。

でも、近寄っていくと、

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・・・ん?

ラーメンに、ライスに、コロッケ(2コ)?

あんまりこういう売り方って出会いませんよね。
右上に写っている「中華ランチ」700円も、妙に少年ゴコロをくすぐる命名ですよ(中華ランチについては、上記のリンク先にレポートがあります。なんと、「トルコライスの中華版」!?ゴクリ。)。。。五目焼きそばの上にもいろいろ乗ってまっせ。

うーん、なんなんだ、ここは・・・?メニューを凝視すると、

ハンバーグ・ギョーザ定食680円
アジフライ・ラーメン・ライス定食800円

とか。
「ラーメン&ギョーザ」とか「ラーメン&半チャーハン」とかじゃないわけです。

さんざん迷って、「真華定食(ラーメン・ハンバーグ・ライス)680円」にしました。初訪問なので、お店の名前を冠しているものを、というのが決め手の一つです。いやぁ~、ハンバーグとサラダがついてるのに680円て・・・wプククw

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ラーメンは、シンプルなしょうゆ。ナルトがうれしい。手作りだから安いのかな?と思ったハンバーグは手作りではない感じ(お新香も然り)。
連れはイカリングフライ、アジフライ、コロッケなど揚げ物もりもりの定食を食べておりましたが、冷凍もののようでした。つまり、以前書いた田むらとは対照的なわけですが、これはこれですばらしきB級グルメ店!だと思うのですよ。近所の常連さんもちらほらやってきます。

ラーメンは若干ケミカルですが、それがむしろ、ライスにバウンドさせながら食べるにあたり、いい感じ。さて、いざ、ラーメンライスをば!

ラーメンライス、食法その一!基本型、汁麺飯汁、始め!
まず、ラーメンの汁をひとすすり。ついで、麺をひとすすり。麺を口に入れたまま、飯をガバッと大きくひと口!麺と飯をいっしょに咀しゃくする。これがラーメンライスの醍醐味!

ラーメンライス食法その二!汁海苔飯麺汁!
汁をひとすすり。素早くラーメンの上の海苔をすくい取って、飯をまいて口に入れる。同時に麺をすすりこむ。海苔と麺と飯!この三者混合の味の豊かさを味わうー!

ラーメンライス食法その三、メンマ飯麺汁!
メンマをおかずにご飯を食べる!三口、四口歯ざわりを楽しんだところで、麺をすすりこむ。そして汁を大きくひとすすり。ごくーんと全部ひとのみ!

ラーメンライス、食法極意、乱汁乱麺乱飯乱汁ー!
要するにガツガツズルズルサバサバやるべし!とにかくやるべし! (美味しんぼより引用)

・・・に、加えて時々ハンバーグも食べるわけです。うは、たのしーーww

と、いきなり食事で始まりました、本日のさんぽ。
この、真華のやや東に、桃園川の支流なのではないかと思っているものがあるのです。
実は、以前同じ場所についてレポートしています。そのときは、桃園川緑道から南下し、ビルの地下に埋もれるところで追跡をやめています。が、その後、もっと上流に暗渠サインぽいものをみつけたので、補足しようというわけです。

今回は上流から。

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地形的には川跡らしくない道です。北に向かって下る以外は、平らだし道は真っ直ぐだし、谷でもありません。微塵も。
ただ、なんとなぁく、ここに段々の田んぼがあったなら、しっくりくる風景だなあと思うんです。(明治の古地図では、桃園川の周辺に田んぼはあるのですが、この位置まであったかどうかは微妙です。)

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でも、ここに流路が書いてある古地図なんてひとつもないし、正直言っていまでもここに支流があったかどうか、自信がないんです。
でもでも、なぜかこんな道沿い(お店が殆ど無い)に、唐突に染物屋さん(=暗渠サイン)が現れます。

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そしてもうひとつ、支流を思わせるものが。この隙間、他の建物どうしの隙間よりも明らかに広いんです。そして出口に雨水ます。うーん、気になる!

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でも、隙間より下は暗渠サインどころか道さえもしばしなくなります。仕方がないので、横からまわります。傾きが気になる。

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回ってゆくと、出たぁ、クリーニング屋さん。その、クリーニング屋さんの隣の未舗装の小道が支流暗渠と思っているものです。

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小道沿いには、以前はなかった空き地がありました。

前はこの場所に、廃屋がありました。ほんの最近までだと思います。だって、前回の記事=2009年には、あったのだもの。思えばとても、存在感のある廃屋だったのにな。

ちょうど、写真を撮っているときにご近所の方が出てこられたので、ここにドブがなかったかを尋ねてみました(おじさま、ありがとうございました)。すると、その方の知る限りここは道であり、昔から私道だった、ということでした。

わずかな暗渠サインを見つけてはうれしくなり、しかし古地図や地元の方の証言でかき消されてしょんぼりし・・・一喜一憂。

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そしてこの小道の出口がここ。この、桃園川緑道(杉並区内)の白いレンガのマークは支流の合流口と重なることが多いので、支流サインと呼んでいるものです。

今回はこんなふうに、川跡なのかどうか非常に微妙ですが、カウントします。高円寺南二丁目を通るので、また、ほかにこれといった支流名も思いつかない立地なので、高円寺南二丁目支流(仮)と名付けたいと思います。
上記のようにあまり自信がないので、括弧を2つつけたいような心境・・・。

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いちおう、地図にするとこんな感じ。
いつの日か、白か黒かはっきりさせたい!中華ランチを食べながら、ね。

<引用文献>
美味しんぼ29巻 小学館

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江戸川橋の用水路に排水路

牛込川や紅葉川の資料をあつめているとき、気になっていた場所がありました。
それは、蟹川の河口近くに走っているらしき下水路。水道町西側、かつ改代町東側に町境界を示す下水溝があり、神田川に注いでいたといいます。そして、その跡が今もわかるというのです。

・・・ある日、ベジタリアンの友人と江戸川橋の「ボナ!つぶつぶ」という雑穀料理の店に行ったついでに周辺を散策したら、なかなかいい場所だったので、昼間に再訪することにしました。そして、再訪の際に上述の下水路を見てみることにしました。

神田川の、石切橋のすぐ近くです。

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・・・って、なんだよ!その下水溝跡って、ボナ!つぶつぶの横なんじゃないか(写真右手が店舗です)。
えーと、言い訳をしますと、つぶつぶでご飯を食べたのは夜であり、わたしは遅刻をしていたので江戸川橋駅方面から焦りながら早足で歩いてきたのであり、この暗渠はちょうどその反対側に位置しているのでした。

ともかく。ボナ!つぶつぶのすぐ横を走っている、水道町と改代町の境(というか、最初の数メートルは新宿区と文京区の区界)である細い細い道。これが実にいい感じなのです。

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ざくざくと入っていきます。・・・塀の上に大きなクリップが見えますが、ふとんを干すためでしょうか。

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それにしてもひたすら真っ直ぐです。さらに狭まりそうな予感。

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ぎゃー!すばらしい!せまーい!!

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壁もいろいろ。ちょっとすてきな煉瓦がのぞいていたり。
しかしこの狭さ、境井田支流(仮)に迫るものがありますね。

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真っ直ぐはしばらく続きましたが、ちょっと広い道に出ます。

ああ~、もう終わっちゃった。
振り返ります。

しかしその南側にもまだ町境の直線は続きます。

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ちょっとの間広い道となって、その先の町境は直角に折れて、蛇行し始めます。

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その、折れる場所がここ。さっきまでの細くて良い雰囲気が戻ります。
この下水溝の流路に関する記述は、わずかに次のものだけ。
”流末は築地片町から改代町南側往来を横切り北方向へ直線に流下し東古川町の東境界を通り、江戸川に落ちていた”・・・うぅーん、どこから始まる流れなのかが、よくわかりません。この写真の道はたしかに改代町の南側なのですが・・・。

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その南側にある良い感じの道も間もなく終わります。
ん、右側の壁は、なんかの工場?

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いえいえ、銭湯でした。竹の湯
それが、銭湯はだいたい載っているマイ地図になぜか載っていないのです。近辺に3軒の銭湯を見つけましたが、いずれも載っていません。なんでだろう?

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竹の湯の向かいあたりで、北から支流のようなものが合流します。
鉄板蓋が少しだけ見えて、あとは植物がのっかっていて、家と家の隙間を走ってくるのですが、1ブロックいったら消えていました。
何かの排水路だったのでしょうか?この近辺は地下水位が高く、水が湧きやすいようなので、すぐそこで湧いていたのでしょうか?

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道なりに進むと、伝久寺、田中寺という寺の前をカクカクと通ります。
伝久寺内にはかつて池があり、そこを水源とした小川が北へ流れ、西に曲って蟹川に合流していたという記述もみられます。したがって、この道はその蟹川支流であるようです。その小川は下水扱いとされ、伝久寺前あたりから板や石で組まれた、実にしっかりとした下水遺構が出てきたそうです。

道としてはさっきまでの暗渠とつながっているかもしれないのだけど、こちらは西流して蟹川に向かうという・・・。蟹川の河口近辺には、何筋もの細流がみられるので、いま来た道もなんとなく蟹川につながっている、細流のひとつなのかもしれません。

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ブッw

その小川跡にはこんな看板がありました。さすが印刷業の街。付近にはたしかに印刷会社が何軒もあり、フォークリフトが何台も停まっていました。
近辺をフォークリフトが走行するすがたを想像すると、地元の田舎道をトラクターが走っているときのような、妙にほんわかした気持ちになりました。

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再び新宿区と文京区の区界に出てきたので、うろうろします。また、横から支流暗渠のようなものがやってきます。

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未舗装の道路もありました。ここも水路だったでしょうか。

いま歩いてきた道は、改代町をぐるりと囲んだ道ともいえます。このあたりは、もともと低湿地帯であり、明暦大火の後に居住者の労力により埋め立てられ、畑になった土地です。
改代町にある印刷会社が工場を再建するときに、地下からその埋立の形跡が出てきたそうです。遺構は、赤松材(比較的たくさんの)が交互に縦横に組まれ、その上に塵芥の層があり、その上層に盛土がされていたということです。

あの不自然な真っ直ぐさといい、人の手のかかったものなのでしょう。流路の全貌といい、わからないことが多いですが、ひとまず次の目的地に移ります。

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すぐ近くに地蔵通り商店街があるので、浪花家のたい焼きなどを食べつついきましょうか。この商店街、なかなかほのぼのしていて良いです。
地蔵通りの入口には地蔵があり、これは神田川があふれたときに流れ着いたものだといわれるそうです。こんなところにも、川繋がり。

次の目的地は江戸川橋とくくるには少し遠いかも。神楽坂駅のほうが近い、矢来町をめざします。矢来町の西端に、イイものがあるのです。

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その、イイものをめざして、夜に徘徊してました。例によって道に迷い、適当に歩いていたら、突然こんな地形が現れたのでした。

ぽっかりとひらけた低地に、お墓が並びます。きっと蟹川が削った谷でしょう。しかし、あまりに唐突で、想像以上に標高差があったので、「うぉー!なんだここ!!」ってバクバクしましたw

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あんなものを見てしまうと、崖下がどうなっているのか確かめたくなってしまいます(大抵そこに暗渠があるから)。

崖下に向かうべく、早稲田通りを歩いていると、暗渠好きな人だったらたぶん即座に入りたくなるタイプの道が出現します。

入ります。すると、

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その先にこれがあったのでした。
階段界ではきっと有名なはず、マンホール階段。「東京の階段」で一番好きな階段です。マンホール自体が階段になっている、味のある階段。これが見たかった(=イイもの)のだけれど、たまたま暗渠っぽいと入った道にあったので、感動もひとしおです。
・・・ただし、自分が思っていた姿とは少々違っていました。本もしくはリンク先には、古い大谷石の間から雑草の生える以前の姿が載っているのですが、今は写真の通り、すっきり整備されています。

それにしても、なんかここ、暗渠っぽいんだよなぁ。

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マンホール階段の上に出ます。崖下だけれども、谷底よりは高い位置にある、ちょっと不思議な道路があります。・・・しかも、奥は行き止まり。

ちょうど近所の方がいらして、目が合ったので、立ち話をさせていただきました。その方の仰ることには、
・この道路は、以前は酒井家の用水路であったと言われる。
・その方が住み始めた40年前には、この道は未舗装で、歩きやすいように石を置いていた。
・この道もそこに下りる階段も私有地である。
・近所(矢来町)で家を建てるときに、地下から用水路が見つかった。
・このマンホール階段は、以前から危ないので、修繕を依頼していたが叶わなかった。震災後にいよいよ歩きにくくなったので、都に言って直してもらった。
と、いうことでした。

マンホール階段が名所らしく、ときどき写真を撮りに来る人がいることもご存知でした。見た目には味があってすてきな以前の姿も、地元の方からすると使い勝手が悪いものだった、ということなのですね。

それにしても、このちょっと高くなっている道がかつて用水路だったとは。たしかに町境になっているし、あり得る気がします。

うん、満足。そろそろお昼ごはんを食べに行きましょう。

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江戸川橋の近くの、蕎麦人弁慶で昼からいっぺえ。蕎麦味噌に板わさ。それから日本酒は岩手、あさ開の「水神」。なんとも、暗渠さんぽにふさわしい酒ではないですか。

岩手であさ開に寄ったことを思い出しながら、呑みました。

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それにしてもこのお店、ツマミがけっこう充実してるんです。そして、うれしいことに「ちょこっと蕎麦」というメニューがあるのです。そうそうそうそう!それなのよ!飲んで食べたら、〆に蕎麦が欲しいけど、ときにはちょっとで良かったりもするのよ。そしてやってきたちょこっと蕎麦は、しゃっきりとしたおいしいお蕎麦でございました。
呑兵衛の気持ちをようわかっていらっしゃる、優良店でありました。

今回歩いた、江戸川橋あたりの下水溝暗渠と用水路暗渠。どちらも、古地図では水路としては描かれていませんが、町の境として、そしてその雰囲気に水路の名残をとどめており、ちょこっと歩きに相応しいかもしれません。

<参考文献>
神田川ネットワーク「神田川再発見」
伏見弘「牛込改代町とその周辺」
松本泰生「東京の階段」

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