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三四郎池支流(仮)の流れる先は

昨年、三四郎池から流れ出す小川のことを書きました。
その、小川が注ぐ先のことも、少しだけ。その水路は明治の古地図に載っていたので、在ったことはわかったけれど、それ以上はわからぬままでした。

その後、たまたまスリバチ学会の飲み会で、この地のことにお詳しい考古学の原さんという方にお会いし、お話をうかがうことが出来ました。そして原さんの研究から、いくつか新たなことを知りました。

その情報も含めて、今回は三四郎池から流れ出した水の行く末について、ご紹介したいと思います。

いきなりですが、流末から遡ることにします。
その流れはおそらく、不忍池に注いでいたはずです(但し、時期によっては不忍池の外側を巡る下水路に注いでいたかもしれない)。

Kura1

となると、スタートはここ(河口)らへんです。
写真の奥に見えるのが不忍池。藍染川が注ぎこみ、忍川が流れ出す池です。今は両方の川とも、暗渠になっていますが・・・。

後述しますが、不忍池も埋められて以前と違う形になっているし、池の手前には大きなマンションやビルがぼんぼん建っていて、正直言って河口部の流路はよくわかりません。

Kura2

で、最初はそんなふうにいい加減にスタートして、遡ってゆくとします。
早速道がくねっています。

まず最初に出会うのは境稲荷という神社です。境稲荷という名は、忍が岡(上野台地)と向が岡(本郷台地=忍が岡の向かいにあったことによる)の境に鎮座することからついているそうです。
写真左手の赤い柵が、境稲荷のもの。

そしてこの境稲荷には、立派な井戸があるのです。

Kura3

本殿裏にあり、とても古くからの湧水であると言われます。江戸の地誌にも「弁慶鏡ヶ井」(弁慶が見つけたかららしい)とあり、名水として知られていたようです。

説明板によれば、この井戸は一時埋め戻されたのですが、昭和15年に再び堀り出し、東京大空襲で多くの被災者を飢渇から救ったのだそうです。

Kura4

そして、井戸のすぐ脇には東大の門があります。池之端門。
井戸とは至近距離ですが、いったいどのくらいの学生が弁慶の井戸のことを知っているのでしょうね・・・。

そして、この池之端門にも、水路の名残があります。

Kura5

橋の遺構です。

今回追っている水路は、つまり、三四郎池から流れ出た水は、この下をさらさらと流れていたことでしょう・・・。

Kura6

さらに遡ります。右岸を見上げれば、この景色。池之端門から入ってゆく長いカーブの上り坂があるのですが(この写真で車が通っているところ)、そんな急峻な崖の下に水路は流れます。

原さんによれば、この擁壁の内部にあったのは富山藩であり、明治期にここに射的場(後述)および道路がつくられたことにより、もともとの土手が削られて今の形に改変されたようです(「東京都下水道局 台東区池之端一、二丁目付近再構築 その2 工事に伴う発掘調査概要報告」より)。

ちなみに、今回の水路は、暗闇坂に沿い、東京大学の敷地の脇をぐるりと流れ続けます。

Kura7

通り沿いに氷室がありました。
暗渠サインのひとつと思っているものです。この道に水路が描かれた古地図を発見する前は、こういった暗渠サインを見つけては、ガッツポーズを(心の中で)したものです。

Kura8

そして氷室のもう少し先には、このような違和感空間があります。道が突如広くなり、いや、広くなりすぎ、空間が余っているのです。

先に行って振り返ってみると、こうです。

Kura9

妙に余っている土地に、車が何台も止められています。
公衆トイレが悠々と建っています。
たしかこの場所に、連続麻雀杯マンホール蓋もあったはずなのですが、今日はどれかの車の下に眠っているのでしょうか。

・・・暗渠を歩いていると、ときどき、このように妙に余った空間に出会うことがあります。桃園川の島田軒牧場支流(仮)では、こんなふうに。神田川支流の牛込川では、こんなふうで、ここにはかつて橋が架かっていたことが近代デジタルライブラリーでわかりました。

ただし、そういう余った空間をすべて水路に結び付けるべからず。三土さんによると、本郷にある三角地帯は、神社の参道の名残なのだそうです。あの三角地帯も、真ん中に車が止まっていたりして、今回のものと雰囲気が似ています。余談ですが、そこを最近歩いてみたら、三土さんが取り上げていた「宮前青果店」は、取り壊されてぽっかりと空き地になっちゃっていました・・・。

はてさて、今回の空間は、どんな事情で形成されたものなのでしょうか?

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疑問は置いておいて、とりあえずもう少し遡っていきます。

上段の擁壁、チーズドッグみたいだな・・・(と、このタイプの擁壁を見るといつもお腹がすく)。

Kura11

石垣には、埋まりかけた排水溝の名残を2つほど見ることも出来ます。原さんによれば、この排水溝は江戸のものではないとのこと・・・明治のものなのでしょうか。いずれにせよ、一時期はキャンパス内の排水がここから出て、三四郎池支流(仮)の水と合わさっていたのですね。

Kura12

やがて、弥生門に到着します。
三四郎支流(仮)が流れ出てくる場所であり、今きた水路との合流点にあたるはずの場所。ただし、前回の記事の後に得た資料によれば、実際の合流点は厳密にはここよりももう少し東(写真でいうとやや左)であったようです。残念ながら、現在の地形からの推測は難しいように思います。

三四郎池支流(仮)の記事のときには、目の前の工事現場の壁に、発掘された遺跡のかずかずが写真&説明付で展示されていましたが、今はもうありません。工学部三号館の工事も、少しずつ進んでいます。

Kura13

弥生門を過ぎると、その上は 言問通りまで道(暗闇坂)が続きます。

Kuramap_2 

明治の古地図を見ると、水路は弥生門より上にも(地図の緑色点線部)あるようだったのですが、水源が不明です。
江戸の古地図では、今きた水路が三四郎池の排水のための水路(=水色の点線部)として描かれており、緑色部分の水路は存在しません。しかし、明治期には側溝がある・・・後述しますが、明治期には黄緑枠の部分に射的場ができるので、その排水路ととることもできますが、それでは最上流部の説明がつきません。最上流部は、降雨時にのみ水路として機能する、普段は乾いた排水溝だったのでしょうか・・・?

ここで、水路を遡るのはひとまず中断して、少し腹ごしらえをします。

Kura14

今遡ってきた川跡沿いには、嬉しいことにカフェがあります。まさしく暗渠カフェ。
竹久夢二美術館の併設カフェ、港やです。

「野菜の甘みぎっしりカレー」を食べました。鶏肉のうまみ、それから野菜の甘みがしっかりとして、新妻のようなかわいらしさを感じる一皿でした。
実をいうとこのとき、もう15時くらいになっていて、軽食は済ませてあったしカレーを食べる必要は全くなかったのですが、暗渠カフェを見つけてしまったので食べざるを得ませんでした。そして美味しくいただきました!

・・・さんぽはもう少し続くのです。今歩いていた場所から少し東に行くと、東京大学の浅野キャンパスがあります。
冒頭に書いた新しい情報というのは、この浅野キャンパスにかつて池があったというものでした。

浅野キャンパスは、弥生キャンパス・本郷キャンパスの一部とともに、水戸藩駒込邸(1693~1869年)跡です。主に中屋敷として機能していたようです。

「向ヶ岡弥生町の研究」によれば、この、駒込邸の庭園は、忍ケ岡に植えられた桃と、不忍池の借景によるみごとな眺望であったようです。現在、不忍池をこの地点から見ることはできません。それは、ビルが建った影響もあれば、不忍池が埋め立てられたことにもよります。明治期に、不忍池に競馬場を作る(ブラタモリでやってましたね)さいに、池の北側を埋めた・・・つまり、その前は不忍池はもっと大きく、駒込邸の庭先から見えるほどであったというわけです。

そして「江戸の下水道を探る 享保・明和・安永の古文書から」によれば、1747年に、”雨水や下水が不忍池に流れ込み、その土砂などで不忍池がだいぶ埋まっている”から”いっそ埋め立てて町にして欲しい”という提案が町奉行から老中に出されています。そして出来たのが下谷池之端町。つまり、その以前は不忍池はますます駒込邸の近くにあったと推測されます。

・・・しかし、駒込邸内の庭園にも池があったのです。「向陵彌生町舊水戸邸繪図面の解読と描かれた施設の検討」によれば、不忍池を見下ろす位置に、なかなか立派な池があったことが明らかになっています。

Asano

原さんの「農学部生命科学総合研究棟地点の成果」内、Ⅳ-7図の一部を転載します。図の右側に立派な池が描かれています。3つの橋が架けられた、1つの長い池です。傍らに井戸もあったようです。
ちなみに、図の下側の水色の帯は、今回遡ってきた水路で、水戸藩駒込邸と加賀藩の地境に沿っていたことがわかります。

Kura15

いまの地図に合わせてみます。浅野キャンパスの地図はこんな感じ。そして、池があったらしい場所に、ものすごく雑ですが(笑)水色で描いててみました。

さあ、実際に、池があった場所に行ってみましょう。しずかなしずかな、浅野キャンパス内に入ってゆきます。

Kura16

情報基盤センターを過ぎ、池のあった方向に向かって歩きます。ほんとだ、低くなってます。今わたしが立っているあたりには、江戸期には庭園を臨む建物があり、目の前に美しい池のある整備された日本庭園が広がっていたはず・・・。

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ここらへんが、橋の架かる池があったあたりです。職員住宅が並んでいます。
歩いていてふしぎだなと思うのが、ここはたしかに邸内のほかの場所よりは低いけれど、写真左手には実はもっと低い土地があり、お寺が並んでいること。池があるとしたら、そのお寺の位置にあるほうが感覚としては自然です。

・・・しかし、原さんのお話によると、お寺と職員住宅の段差はほぼ昔のままであり、崖上であるこの辺も、水が湧きやすい場所であるらしいです。

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ここには、長い池のうち、もっとも大きく広がった部分があったはずです。
つまりここも駒込邸の一部でしたが、この場所は現在、大学敷地に挟まれた住宅地です。

この、本郷キャンパスと浅野キャンパスの間にある住宅地は、かつて射的場であったことで知られています。射的場は、明治9年に警視局によって建設され始め、明治21年に大森(現大森テニスクラブ地図で見ると形がそっくり!w)に移転するまで存在しました。その後は埋め立てられ、宅地化されました。今ではむしろ射的場跡のほうが土地が盛り上がっています。

この射的場をつくるにあたり、江戸期までは自然な谷戸の形をしていた土地を、改変したようです。駒込邸内にはもともと北と南に2つの谷戸がありました。南側の谷戸、つまりスリバチ状の場所を選んで、四方に土手を作り、さらなる谷地形をつくることで、両側の台地を自然の防護壁としたそうです。・・・ここで思い出したのが、マセ口川源流部にある深い谷にあったとされる射撃場。そうか、安全のために谷戸に射撃場をつくる例は、わりとあることなのか。笄川、馬尿川(←あまり谷が深くなさそうだけど)にも。岩手でも見かけました。

ちなみに、射場中央には長方形の池があり、古地図を見ると射場の半分以上を占める大きな池であったことがうかがえます。”射場の掘削にて発生した湧水や雨水が発射場に及ぶのを防いでいた”のではないかと原さんは考察しています。
この射的場には弾薬庫や食堂もあったそうです。食堂・・・わたしは先ほどカレーを食べましたが、カレーを提供するにはまだ早い時代でしょうか。ここでは何が食べられていたのでしょうね?

話を戻すと、射的場あった時も、ここには池があったわけですが、駒込邸時代の池はそれよりやや南東にずれています。原さん曰く、この場所にまだ「(駒込邸の)池が残っているはず」とのことだったので、非常に喜んで、「行ってきます!」と返したところ、「池は埋め立てられて、遺跡として残っている可能性が高い」という意味で仰っていたもようでした。。。いつか、この地下で発掘が行われ、池跡がでてきたら、どんなにか素敵でしょう。

Kura19

さて、その射的場跡住宅地の端っこから、前述の違和感空間へと伸びる道があります。違和感空間の写真を再掲します。

Kura8

実は、この空間は、駒込邸の切手御門(奥の家がある場所)の前であり(前掲の原さんの図にもあります)、水戸殿の表門通りだったのでした。その名残が、いまも区画に残っているのかもしれません。
しかし、もうひとつ、ここがこんなに広い理由を、水関係からも考えられるような気がしています。ここは、三四郎池支流(仮)と、駒込邸の泉水の合流地点だった可能性もあると思うのです。また、前掲のⅣ-7図のように、邸内の雨水の半分は切手御門に流れてきます。スムーズな排水、という意味でも、ある程度この場所に広さが要ったのではないでしょうか?

たんに、坂を上ったり大学内を歩いたりしただけの今回のさんぽですが、江戸のひとびと、明治のひとびとが随分と手を加え続けた土地、そして、池や川がつくられ、埋められていった土地であることがわかりました。そんな歴史を足の裏に感じながら、たんなる坂道を上っていくのも、またおもしろいかな、と思います。

・・・この記事は、本当は3月中に掲載しようと目論んでいたものでした(時間が足りず、かないませんでした)。この記事の周辺に、わたしが長らくお世話になった本務先の職場があり、そこもこの3月に退職したためです。そこで出会った、たくさんの人たちへの感謝の心をこめて、わたしを育て見守ってくれた、この地に対する愛情をこめて、この記事を書きました。3月はなんだか、感謝してばかりでしたが、ふたたび感謝したいと思います。
今回はそんな、個人的な思いのとっぷり詰まった暗渠さんぽでした。

後日追記:本記事は、2011年12月に開催された、スリバチ・フィールドワーク(原さんが解説員)と重複する部分があると思われます。
ここ(「長方形のスリバチ」「水戸藩主も眺めた丘」)も併せて参考になさってください。

<引用・参考文献>

原祐一  2007 「東京大学本郷構内の遺跡 農学部生命科学総合研究棟地点発掘調査報告 第Ⅳ章 農学部生命科学総合研究棟地点の成果」 東京大学構内遺跡調査研究年報7
原祐一 2009  「東京都下水道局 台東区池之端一、二丁目付近再構築 その2 工事に伴う発掘調査概要報告」
原祐一 2009  「向ヶ岡弥生町の研究 -向ヶ岡弥生町の歴史と東京大学浅野地区の発掘調査の結果- 徳川斉昭と水戸藩駒込邸」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9
原祐一 2011  「教育学部総合研究棟地点・インテリジェント・モデリング・ラボラトリー地点の成果 第一節 『向陵彌生町舊水戸邸繪面図』の解読と描かれた施設の検討」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書10
柳下重雄 2005 「江戸の下水道を探る 享保・明和・安永の古文書から」

なお、原さんの研究成果の一部は、こちらで見ることができます。
東京大学埋蔵文化財調査室の刊行物

原さん、たくさんのことを教えてくださって、ありがとうございました。記して感謝します。

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1-9 さんぽ:その他の暗渠」カテゴリの記事

コメント

ああー大森テニスクラブにあった射的場はここから移転したものだったのですか!
以前山王の池尻堀を記事にしたときに、猫またぎさんに
「そこの上流はたぶん大森テニスクラブに繋がっているのでは」と指摘をいただいたことがありました。
やはり移転後も、(湧水か排水かわからないけど)そこを起点に流れがあったというのもまたいとおかし、です。

投稿: lotus62 | 2012年4月12日 (木) 14時07分

>lotus62さん

大森テニスクラブには射的場の碑があるらしいですね。
ああ、池尻堀の記事は読んだはずなのに、土地鑑がなさすぎて頭の中でうまくつながりません;;;
大森テニスクラブの地形も知りませんが、射的場があったのなら谷戸の可能性が高いのでしょうね。防壁としての役割についての言及が多いですが、水があると火薬にもしものことがあったときに消火に使えるんでしょうか(←適当)。これもまた立派な暗渠サイン。

投稿: nama | 2012年4月12日 (木) 14時13分

東大の池之端門に水関係の遺構があったんですね。
あまり池之端門には縁が無く、龍岡門を抜けて、区のプールによく行きました。
藩邸の池、興味深い見解で、じっくり読んで色々推測させてもらいました。
不忍池も競輪場やら地下駐車場やら受難をかいくぐって今の姿があると思うと感慨深いです。
擁壁のくだり、共感します~。原宿ドック!正式か判りませんが土木の世界で「ワッフル擁壁」なる用語を聞いた事があります。
遠目で見ると網目にしか見えませんが、至近で見ると確かに食欲刺激されますね。

投稿: 谷戸ラブ | 2012年4月12日 (木) 17時00分

谷戸地形を利用した火薬庫は、現在の目黒自然教育園がそうですね。三方を谷と水で囲んであります。

それに比べると、射撃練習場は、警視庁の浅野や大森も、軍の青山や戸山も、防火対策は目立たず。弾丸とか大量に保管してなかったのでは。

ちなみに、この間、青山の流れ弾が広尾の日赤病院まで飛んでいたというのを読んで、浅野や大森ではどこまで流れ弾が飛んでいたんだろう、と気になっています。
警察だから、あまり強力な火器はもってなかったのかな。

投稿: sumizome_sakura | 2012年4月12日 (木) 20時00分

>谷戸ラブさん

こんばんは。あのプール、よく行かれていたのですか。わたしは入ったことありません。。
不忍池、たしかに受難の歴史ですね。地下駐車場は、池の水が全部抜けちゃったんでしたっけ。戦時中も畑になっていたし、たとえ大きさが変わっても、今こうやって水を湛えていることはすごいことなのかもしれませんね。
ワッフル擁壁!!じゅるる。・・・質感も色もまったく食べものっぽくないのに、食欲を刺激できるこの形状には恐れ入っちゃいますねぇ・・・w

>sumizome_sakuraさん

あ、目黒の火薬庫はあそこでしたっけね。そういえば和泉の火薬庫って逆に崖上・・・?むむむ。

射撃練習場の防火対策について、目にしたことがないのですが、そうですか、あんまりしてなかったのかもしれないのですね。
流れ弾の話、戸山では亡くなった方までいらっしゃるみたいで・・・。
大森についてはわかりませんが、浅野については原さんがホントに良く調べてらっしゃって、参考文献内にいくつか記述があります。羅列すると、
・脚気病院では被弾被害あり(発射場からの距離500m以上)
・癲狂院でも治療への支障と被弾被害あり
(↑でもお隣さんですからね・・・もっとも遠い被弾場所はわかりません;;)
銃は小銃のようで、
・M9年時点で警視庁が使用していた銃は、「エンヒール銃 7000(エンフィールド銃)」
・M13年には「一三年式村田歩兵銃」(陸軍が採用。陸軍もここを使用していたとのこと)となり性能向上
とありました。

そして今思い出しましたが、今回の記事は昨年末のスリバチフィールドワーク(不参加)と重なってる可能性が高いですね。記事内に付記しておかなきゃ~。

投稿: nama | 2012年4月12日 (木) 21時38分

おお、ありがとうございます。

明治初期の銃器でも、流れ弾は結構飛ぶんですね。戸山とか、大変だっただろうな。
あと考えみれば、射撃場で銃弾に火がつくと、四方八方に弾丸がとぶわけで、消火なんかしておれませんよね。遠巻きにして、自然鎮火をまつ他なさそうです(^^;;;。

投稿: sumizome_sakura | 2012年4月13日 (金) 22時58分

>sumizome_sakuraさん

そういえば自分は銃(コルト)を撃ったことはあるけれど、どのくらいの飛距離があるものなのか・弾丸単独で引火するとどんなことになるのか、考えたことがなかったです。
小銃で500mって考えてみるとすごい気もするけど、そもそも比較対象が脳内にない・・・。
弾丸はその場で爆発じゃなくて四方八方に飛ぶんですかね?だとしたら恐ろしすぎ・・・

投稿: nama | 2012年4月14日 (土) 09時15分

>谷戸ラブさん

不忍池の水抜け事件、千代田線工事のときでしたね。混同してしまったようで、失礼しました。

投稿: nama | 2012年4月14日 (土) 10時15分

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