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2012年4月

桃園川支流を歩く その44  エトアール・ヨコギール支流(仮)

久々に戻ってまいりました。杉並、そして高円寺。
今回は、桃園川に注ぐ、短い短い支流です。

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エトアール通り。高円寺駅からパルを下ってきて、右折するとあります。
入り口に、富士川食堂という有名な食堂があります。

以前、この通りのもっと奥のほうにある桃園川支流を、「エトアール通り奥の支流」として紹介していました。そこはコンクリ蓋が劇的な途切れ方をしていて、水源までの流路について、考え甲斐のある暗渠です。・・・先日、ミッシングリンクを探るさんぽをしてきましたが、それはまた別の機会に。

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エトアール通りは、昔からある味わい深いお店と、新しい古着屋さんやカフェが混在する、たのしい通りです。

見慣れた、高円寺の街並み。

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・・・?

見慣れすぎていて、これまでまったく気にも留めていなかったのですが、エトアール通り沿いにコンクリ蓋のようなものがありました。

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狭い路地。ずっとコンクリ蓋が続くように見えます。

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こういった蓋の場合、たんなる敷石で終わってしまう場合も少なくありません。ですが、この、目地の詰まり方と、それから途中にマンホールが挟まれているのを見ると、これを暗渠と思っていいのじゃないかと思います。

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(違う日に撮影)奥まで行ってみましょう。

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後半は新しいアスファルトでした。

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最後に、かわいい顔をしたパンダ顔マンホール蓋が鎮座。

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流末は桃園川に注ぎます。
すぐそこに見えるのは宝橋です。ということは、わたしの暗渠趣味の始まりの場所でもあるんですが、こんな目と鼻の先に気づかぬ支流があったとは。なんておもしろい!

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実は、エトアール通りを挟んで、反対側にも水路は続いていました。

なので、ここは、なにも考えずに”エトアール・ヨコギール支流(仮)”と呼ぼうと思います。
桃園川の、ささやかなささやかな支流です。

はい、支流のことはこれでおわりw つぎは、エトアール通りの隠れ名店をご紹介しましょう。

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エトアール通りには、魅力的な食べ物屋さんがいっぱいあります。先に触れた富士川食堂はザ・定食屋さんだし、ほかに、餃子専門の小ぶりな店構えがすてきな柳亭、外で食べようか中で食べようか迷う粉もののあまから亭、ランチビールが290円の天丼屋さん・・・。

以前の記事では「揚げ物中心定食屋さん」と表現していた、とんかつ田むらに入ります。

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そんなにインパクトのある外観ではないため、中がこんなすてきなことになっているなんて、思わないかもしれない。

で、デリシャスランチ630円!? すすすすスペシャルランチ、630円??? この内容!この値段!

まず迷います。
別な黒板にも、 「取合せ定食 650円」なんて載ってます。取合せ定食の中身は、

1番:メンチカツ、イカフライ、生姜焼、ライス、味噌汁
2番:串かつ、エビフライ、ハンバーグピカタ、ライス、味噌汁、サラダ
3番:文化サバ、野菜サラダ、味噌汁、ライス

です。はぅぅ・・・。
このほかにも、トンカツとかの通常メニューぽいものがずらり、です。

とりあえず瓶ビール。付属の小鉢はほうれん草の胡麻和えだったのですが、その味付けが自分のものととても似ていました。つまりこの店は、あえる直前にゴマをすっているし、もしかしたら作りたてかもしれない。そしてなにより、他の料理も自分の好みの味付けである可能性が高い!かも。

なんて、ワクワクしてきます。

さんざん迷って、デリシャスランチにしました。

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どーん!!  デリシャス!!

少々待ちますが、それはすべて手作りしているからだとわかります。
ちょこっと添えられた白菜の漬物も、手作りの味がしました。
ぷりぷりのエビフライ。しっとりとしたメンチカツ。クリームが家庭的な味のカニコロッケ。歯ごたえのある鶏肉で思ったより食べでのあるチキンピカタ。つやつやとしたデミグラスソース。どれも美味しく、そしてとてもお腹いっぱいになりました。

とてもおすすめなお店ですが、さんぽと組み合わせる場合、この短いエトアール・ヨコギール支流(仮)だけじゃカロリーを相殺できなさそうですねww

エトアール・ヨコギール支流(仮)は、おそらく桃園川が整備された後の、そして高円寺が宅地化された後の、近くの施設の排水路じゃないかなと思います。こんな、商店街のすきまのちいさな暗渠。もしかしたら、あなたの街にもあったりするかもしれません。

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藍染川桜酒マラソン

去年、花見を兼ねて行おうと思っていた暗渠酒マラソン。
先日、無事に開催することができました。

久しぶりのマラソン記事なので、暗渠酒マラソンの趣旨について再掲しておきます。初回である竜閑川焼酎マラソンでは、以下のように決めていました。

企画コンセプト:(竜閑川の)埋立てられた掘割沿いを歩きながら、飲み屋を飲み歩く。遺構が少ないが飲み屋は建っている、下町系暗渠に対する新しい味わい方の提案。

さらに、細かいルールとして、
・川沿いを逸れずに歩きながら、適当な飲み屋を何軒かはしごする。
・メイン走者は掲げた種類の酒を1杯は必ず飲むこととし、伴走者はそれに限らない。
・つまみは自由。

を、掲げています。

これまで、焼酎縛りの竜閑川焼酎マラソン、ビール縛りの忍川ビールマラソン、を開催しました。そして、藍染川桜酒マラソンは前2回とは異なり、酒の種類で縛らずに「桜を見ながらの酒」、また、青空宴会も含む、という特別ルールとすることにしました。
※後半部では居酒屋に何軒も入ることを考えると、人数は少なめに抑える必要があったので、広く周知できませんでした。

・・・去年、花見どころではなかった春を過ごし、今年、まだ花見どころではない人もいらっしゃるだろう中、いろいろな思いを抱えながら、花見をする人はしたのだろうと思います。
わたしもいろんなことを思いつつも、それなりに準備をし、楽しみに臨みました。

では、マラソンレポートに入りたいと思います。まずは、巣鴨駅に集合。そこから、マラソンスタートです!

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源流である染井霊園を目指します。この辺の隠れ名所の一つだと思っている縄ばしご屋さんを通り過ぎ、霊園入口にあった「禁糞」という張り紙に衝撃を受け、のら猫に気を取られ・・・(こんな風になんだかんだと時間を取られちゃうのです)、霊園に入っていきます。

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染井霊園の桜は、残念ながらほぼ散っていました。なので、上を見上げても桜色ではありませんでしたが、そのかわり、地面は桜色の絨毯でした。歩いていると、はらり、はらりと桜が落ちてきて、それもまたよきかな。
ここ(目の前の窪地)に長池があり、藍染川の水源となっていた、といわれます。

と、いっても、

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藍染川の谷はこんな形をしています。(google earthさんありがとうございます。)古石神井川の谷を間借りするような形なので、源流部が所謂源流部らしいバランスをしていません。

長池は、お隣にある中央卸売市場(巣鴨御薬園跡)の土地までまたがる、大きなものだったようです。霊園には別な場所に丸池もあるという情報もありましたが、今回は突き止められず。

長池のほかにも、このあたりにはかつて至る所に湧水口があり、また、大根の洗い場もところどころにあったということです。今回の地図には載っていませんが、もう少し北にも谷がいくつかあって、川はそれらの水も集めて流れていました。

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長池から流れ出す川跡に沿って、歩き始めます。

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少し行くと、慈眼寺のところに不染橋の親柱(このまえ谷戸ラブさんが書かれてました)。わたしはマラソンのロケハンに来た1年前、この前を思いっきり通っているのに、見過ごしていました(がくーっ)。そしてその奥にある家のあたりが、少しだけ低くなっています。そこに、かつて釣堀藍染園という釣堀があったといわれます。
さっそく盛りだくさんな最上流部。このあたりは、「池ノ尻」という地名だった時代があるようです。

第一回目の給水にします。
給水ポイント(①)は、かつての海軍火薬製造所→外語大跡地、そして藍染川に西から迫る谷戸(の、公園)。そこで、レジャーシートをひろげ、チャーシューや玉子焼きやおにぎりと、日本酒をやっちゃいます。まだ午前中、11時にもなってないくらい(悦)。(なんと、給水中の写真を撮っていない・・・。)

ささっと飲み食いをしたら、大人な感じでさっと移動。支流が通っていたり、植木屋さんの伊藤伊兵衛宅の池があった場所などもありましたが割愛します。

本流に沿って下っていきます。

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やがて染井銀座商店街と流路が重なります(商店街の北に区境があり、そちらも流路のようですが)。
染井銀座商店街は、マンホールが桜型になっているすてきな商店街です。
さっきからわたしは藍染川と連呼していますが、場所によって呼ばれ方が違います。このあたり、即ち上流部では谷戸川と呼ばれていたようです(そして田端あたりまでは谷田川がとても優勢)。でも、ここでは用語の統一ってことで藍染川と呼ばせてください・・・

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染井銀座商店街は、猫のたくさんいる場所でした。この猫は犬と向き合ってくつろいでいたのだけど、シャッターチャンスをのがした!犬、逃げた!

さてそろそろ、2回目の給水です。給水ポイントは染井コミュニティ広場(②)。そこはすばらしき猫公園で、ろっちさんもレポートされていました。人なれしているし、とてもかわいい猫さんたち(またも写真を撮っていなかったので、ろっちさんの記事をご覧ください)。
桜もありつつ。缶ビールをプシュッ!と開けて、しばし猫さんとご歓談いたしました。・・・またも、給水中の写真がない・・・orz
ここではそんなに食事をしなかったけれど、猫の引力でなかなか長居した気がします。

で、伊藤つつじ園(崖下湧水をくみ上げた人工池)、染井跡(井戸跡、現染井稲荷)といった湧水ポイントはすっとばし、一行は大きい湧水池があったらしい林武平邸跡地を目指して、本流から逸れます。

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商店街から、豊島区と北区の区界に沿って南下します。その道は狭く未整備で、池からの流れはここを通っていたのかな、と思わせるような雰囲気が漂っていました。入口は魚屋さんで、バケツに入ったどじょうを「むかしはこの川で採れてたかな」なんて眺めたり。

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そして辿り着いた池跡は、たぶんだいたいここらへん。
左手に崖、そして道は中央のみ緩やかに凹んでいて非常に興奮する眺めでした。汽船会社で富を築いた林家の敷地はとても広く、庭内にはテニスコートと大きな湧水池があったそうです。

もうひとつ、目指した支流がありました。それは、駒込~西ヶ原にあったといわれる小川です。林家の池跡から東に回って、駒込3-6と3-8の間にあったという水源を目指して歩いていると・・・、

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突如現れる絶景。支流脇にある、妙義神社の桜のうつくしいこと・・・!
神社のロケーション自体、みごとな岬っぷりで、それだけでもため息が出るほどで・・・。この美しさはこの写真では伝わりませんねぇ。とにかく、藍染川散策をするならば、妙義神社は入れたほうがいい場所です、ホント。

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水源は上述の場所で、そのなだらかな谷頭で湧いた水と、津藩藤堂家下屋敷の下水とをあわせ、妙義神社の下を通り、このような狭い、いい谷を通って霜降橋の辺りで藍染川に注いでいたようです。妙義支流(仮)とでも呼びたいところです。

下流には亀の湯というどっしりとした銭湯があり(以前は妙義湯という名だったという)、その脇も小川は通っていたようです。ほかにもよく見ると、お店の名前などに「妙義」が残っていました。

合流地点である霜降橋霜降銀座のゆるキャラ、しーちゃんもお忘れなく!ちなみに霜降銀座商店街のページは川の情報も多くて秀逸)には、肉のホンダがあり揚げ物がいろいろあります。そこで、次の揚げ物を仕込み、次なる給水ポイントへ。
つぎのポイントは、実は流路を若干逸れてしまう(マラソン的にはダメなこと)んですが、んーーー、まああげ堀とかあったかもしれないしいっか!と、無理やり採用された、東中里公園(③)。またもレジャーシートを敷き、食べつつ飲みつつ桜を愛でます。   Σまた、給水中の写真を撮っていない!

で、青空宴会はこれが最後なので、ひととおり飲み食べきり、また移動します。

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つぎなる名所、中里用水ガードを通過。
「用水ガード!!?」と、暗渠のひとびとを盛り上がらせる、ニクい場所。

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しかも、ガード脇にはこのような埋め込まれた橋があります。以前HONDAさんが教えてくださって、ずっと見たかったものでした。
今みたいにガードされる前の、もう少しくだけた風景をHONDAさんが記事にしています

・・・ここまでの行程をいったん地図に示します。(yahooさんありがとうございます。)

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木戸邸の池と書かれたものにまだ触れていませんでしたが、ここも割愛してしまいました。旧木戸孝允別邸であり、湧水で池を作り、下水を藍染川に流していたそうです。その湧水池は、木戸邸の敷地が分割された際に3つに分かれ、うち一つにはわずかに湧いていたようですが、近年マンションが建てられてしまいました。
また、左岸にある古河庭園の池も、藍染川の水源のひとつといわれます。

また、駒込には三業地(神明三業地)がありました(往時は400人の芸妓さんが居たものの、戦争を通し衰退)が、若干当時の建物が残っていたらしいんですが、もったいないけどスルー。谷田川通りを下ります。

交差点でもたもたしていたら、昔のことを語ってくれるおじさんがいました。その方は水源も流末も把握していて、そして、はっきりと「谷田川」と仰っていました。「藍染川じゃない」、と。この川のことを藍染川と呼ぶのはもっと下流のほうであり、「ここではそうは呼ばない」という意思が強く伝わってきた瞬間でした。

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この近辺(田端)には田んぼが多く、洗い場が5つほどもあったといいます。それから、近デジだと細かい水路があちこちにあったりします。
谷田川通り、というダイレクトな名前の立派な通りもありますが、こんなふうな狭い道の方が実は区境であり、こちらも流路であったようです。

しばし、酒も飲まずに区界を歩き進める一行。

・・・それにしても、時々「あっちに地蔵があったから」とか、「いい看板建築があったから」とかの理由で、あさっての方向に人が消えては、小走りで戻ってくるのが面白かったですww

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動坂と交わる地点にはかつて谷田橋という橋が架けられており、それが田端八幡神社(けっこう上)にあるので、見に行きました。ここもHONDAさんが記事にされていますね。

もっと南に行くと、動坂遺跡という太古の湧水点があったのですが、そして谷戸ラブさんお勧めのパン屋さんもあったのですが、断腸の思いでスルー。

さらに下流へ行くとやがて、北区、文京区、荒川区、台東区の区界がぞくぞく現れる場所があって、さらに下ると、藍染川の氾濫をおさえるために大正2年につくられた、谷田川排水路の分岐点があります。”谷田川”排水路、と書かれた文献のほうが多い気がするんですが、その暗渠上につけられた名は”藍染川”通り(&藍染川西通り)・・・荒川区になってくると、藍染川って呼んでも良くなるということなんでしょうか。

その後の流路も、本流は文京区と台東区の境を、そして支流が台東区と荒川区の境を流れます。

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それが、ここ。藍染川の別称として「境川(区界なので)」というのがあることを、実感する瞬間です。すぐ西にはよみせ通りが通っているのですが、この細い支流のほうをあえて行きました。

このあたりは低湿地で、本流までの湿地帯が蛍沢と呼ばれていたようです。その名の通り、蛍の名所とされ、藍染川の別称として蛍川というものもあります。また、シジミ川とも呼ばれるほど、シジミが採れていたそうです。

うろうろしていたら、大使館というすばらしく気になるお店がありました。ここで給水できたら良かったけど、残念ながら休憩中。「大統領」があると思えば「質屋おぢさん」もあるし、ここらへんはすごいね。

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蛍沢からの支流を追っていくと、やがて区界の道ではなくなり、カーブを描いて本流に合流してゆきます。その、流末部分には防災倉庫があったり、この写真のようなあやしい空間に木の蓋?みたいなものがあったり、

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こんなふうな余った隙間となり、暗渠らしさがグッと上昇します。
この写真が合流点。もう少し下流に行くと、琵琶橋が架かります。
琵琶橋の架かる道の右岸側には団子坂があり、坂道には細い溝があり、きれいな水が流れて藍染川に注いでいたといいます。坂上の銭湯が捨て湯を流し、あたたかいので、子どもたちが長靴で溝に浸かっていたりしたそうです。

・・・ずいぶんながいこと、酒を飲んでいない気がします。疲れてきたのでよみせ通り沿いにある焼鳥屋Kに飛び込み(④)、喉を潤しました。焼鳥うまかったな、ここ。 ふぅ、写真(略

Kを出ると、すてきな屋根の工場。かつて、リボン工場だったとき、ここから色水が藍染川に排水されていたといいます。

しばし左岸ばかり見てきましたが、右岸にも湧水点があります。
千駄木2~3丁目には崖下の民家が湧水をためた池をつくっている、という記述を2つほどの文献で目にし、非常に見てみたかったですが現存しない可能性もあり、時間もないので割愛。

須藤公園は松平備後守の屋敷跡で、いまも立派な公園です。戦前までは湧水だけで滝ができていたそうです。いまでも湧きそうな地形ですが。

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そしてそれよりも気になっちゃったのが、須藤公園脇のあやしい埋め跡。
2個ありました。なんだったんでしょねー?これは。
今見返してみると、縁に水抜きが集中していて、それもなんだか思わせぶり。

だんだん急ぎ足になってきます。元根津(古い根津神社の社地)、海蔵寺といった、過去の湧水ポイントは時間がないのですっとばし、汐見小裏の崖をてくてく歩きます。この崖がまた立派で、大正までは豊富に湧水が滴り、”竹筒を崖に刺すだけで良質の飲料水が得られ、水道不要の地”とまでいわれたそうです。

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次は、太田ヶ原とも言われるやや高いところにある湧水池。太田道灌の子孫、太田備中守の屋敷跡であり、大きな池が2つあったようです。その跡は、どうなっているか知らなかったのですが、今はこのようなワイルドな公園として、崖下の池の雰囲気が残っていました!これうれしいなー。
ここから、藍染川に向かってほぼまっすぐに支流が流れ、そこにはウナギが棲んでいて、採って食べたという話まで残っています。

その支流に沿って下り、へび道(へび道の記事はこちら)をくねくね歩いて根津に到着します。

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ここまでの行程は、こんな感じです。その後もみどころはあったのですが、以下の要領ですっとばしてしまいました・・・。

時間の都合で、まさかの根津神社の池たちを割愛。それから、根津には明治21年に洲崎に移転するまで、立派な遊郭がありましたが、それにはほとんど触れず・・・。
ひとつ前の記事で書いた、駒込邸内の2つの谷戸のうち、ひとつは藍染川の支谷で、それをせきとめて池にしていた場所がその後東大の野球場になったのですが、スルー。
藍染川の聴き取りをした文献には大概出てくる、「バンズイ(金魚屋で、藍染川氾濫時に金魚が溢れ、近隣の子どもが喜んで掬ったという)」跡地は横目で確認程度。
江戸期に藍染川の水はけを良くするために旗本5人で掘ったという五人堀についてもほとんどスルーで、むしろ根津の路地を練り歩いて孤独のグルメに出ていた「すみれ」を見つけてはしゃいだりしました。すみれで呑めたらすごく素敵でしたが、若干席が足らずに、「(おじさんの)膝の上なら空いてるよ」などと仰る先客の膝の上に同行者の男性が座る図を想像して「ウーン」と思ったりしました。

もう外は暗い。
急ぎ足で不忍池へ向かい、忍川ビールマラソンのときの集合地点で一本締めをしました。これで、2回分のマラソンがつながって、ちょっとうれしかったな。

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・・・で、打ち上げは上野の、肉の大山です。最後の給水のみ、写真が撮れていました(涙)。

大山は、とにかく秀逸な店。混んでいたので、入口の立ち飲みエリアで、やみつきメンチ(100円)をパクつきながらハイボールを飲みます。うまいんだこれが!

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そして中に入って、また飲みます。
今回初挑戦したのが、プレミアムメガ純ハイ。・・・でっか!
470円ほどで、めっちゃでかいです。持つだけで腱鞘炎になりそう。ってか重いんで持たないで呑んでました。そして濃いww飲んでも飲んでも減らない、果てしない!  最近出ていたジャン酎欲がちょっとおさまりましたw

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そして、大山ステーキ。この肉肉しいかんじと、ソースがうまいのよ。われわれ、3回頼んじゃったのよ。それから本日2回目のコロッケも食べなきゃね・・・カレーコロッケもうまいんだね。。

と、まあ、夜は更けていったのでした。

反省点としては、酒マラソンのわりに酒を飲んだくれなかったこと。
よく考えてみたら、酒マラソンはもともと、あまり遺構のない暗渠の楽しみ方として考えたものだったのでした。竜閑川や忍川のように、あまり凹凸のない、どちらかというとオフィス街でやると、ある程度酒に集中できるわけです。それが、藍染川のように遺構も支流もいろいろ楽しめてしまうところだと、寄り道しまくっちゃうわけですよ。。
なので、なんだか中途半端な感じになっちゃったなー、行程が長くなって疲れた人もいたかなー、なんて、反省しております。

この反省を次につなげ、またそのうちに企画したいと思います。ご参加のみなさま、グダグダ企画におつきあいくださり、ありがとうございました!

4/25 HONDAさんのご指摘により、陰影図内の長池の位置、および、第3給水ポイントの記述について訂正しました。

<参考文献>
上村敏彦 「東京花街・粋な街」
菅原健二 「川の地図辞典」
清水龍光 「水」
原祐一 「教育学部総合研究棟地点・インテリジェント・モデリング・ラボラトリー地点の成果 第一節 『向陵彌生町舊水戸邸繪面図』の解読と描かれた施設の検討」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書10
森まゆみ 「路地の匂い、町の音」
横山恵美 「豊島区の湧き水をたずねて」 豊島区郷土資料館研究紀要第11号

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三四郎池支流(仮)の流れる先は

昨年、三四郎池から流れ出す小川のことを書きました。
その、小川が注ぐ先のことも、少しだけ。その水路は明治の古地図に載っていたので、在ったことはわかったけれど、それ以上はわからぬままでした。

その後、たまたまスリバチ学会の飲み会で、この地のことにお詳しい考古学の原さんという方にお会いし、お話をうかがうことが出来ました。そして原さんの研究から、いくつか新たなことを知りました。

その情報も含めて、今回は三四郎池から流れ出した水の行く末について、ご紹介したいと思います。

いきなりですが、流末から遡ることにします。
その流れはおそらく、不忍池に注いでいたはずです(但し、時期によっては不忍池の外側を巡る下水路に注いでいたかもしれない)。

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となると、スタートはここ(河口)らへんです。
写真の奥に見えるのが不忍池。藍染川が注ぎこみ、忍川が流れ出す池です。今は両方の川とも、暗渠になっていますが・・・。

後述しますが、不忍池も埋められて以前と違う形になっているし、池の手前には大きなマンションやビルがぼんぼん建っていて、正直言って河口部の流路はよくわかりません。

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で、最初はそんなふうにいい加減にスタートして、遡ってゆくとします。
早速道がくねっています。

まず最初に出会うのは境稲荷という神社です。境稲荷という名は、忍が岡(上野台地)と向が岡(本郷台地=忍が岡の向かいにあったことによる)の境に鎮座することからついているそうです。
写真左手の赤い柵が、境稲荷のもの。

そしてこの境稲荷には、立派な井戸があるのです。

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本殿裏にあり、とても古くからの湧水であると言われます。江戸の地誌にも「弁慶鏡ヶ井」(弁慶が見つけたかららしい)とあり、名水として知られていたようです。

説明板によれば、この井戸は一時埋め戻されたのですが、昭和15年に再び堀り出し、東京大空襲で多くの被災者を飢渇から救ったのだそうです。

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そして、井戸のすぐ脇には東大の門があります。池之端門。
井戸とは至近距離ですが、いったいどのくらいの学生が弁慶の井戸のことを知っているのでしょうね・・・。

そして、この池之端門にも、水路の名残があります。

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橋の遺構です。

今回追っている水路は、つまり、三四郎池から流れ出た水は、この下をさらさらと流れていたことでしょう・・・。

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さらに遡ります。右岸を見上げれば、この景色。池之端門から入ってゆく長いカーブの上り坂があるのですが(この写真で車が通っているところ)、そんな急峻な崖の下に水路は流れます。

原さんによれば、この擁壁の内部にあったのは富山藩であり、明治期にここに射的場(後述)および道路がつくられたことにより、もともとの土手が削られて今の形に改変されたようです(「東京都下水道局 台東区池之端一、二丁目付近再構築 その2 工事に伴う発掘調査概要報告」より)。

ちなみに、今回の水路は、暗闇坂に沿い、東京大学の敷地の脇をぐるりと流れ続けます。

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通り沿いに氷室がありました。
暗渠サインのひとつと思っているものです。この道に水路が描かれた古地図を発見する前は、こういった暗渠サインを見つけては、ガッツポーズを(心の中で)したものです。

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そして氷室のもう少し先には、このような違和感空間があります。道が突如広くなり、いや、広くなりすぎ、空間が余っているのです。

先に行って振り返ってみると、こうです。

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妙に余っている土地に、車が何台も止められています。
公衆トイレが悠々と建っています。
たしかこの場所に、連続麻雀杯マンホール蓋もあったはずなのですが、今日はどれかの車の下に眠っているのでしょうか。

・・・暗渠を歩いていると、ときどき、このように妙に余った空間に出会うことがあります。桃園川の島田軒牧場支流(仮)では、こんなふうに。神田川支流の牛込川では、こんなふうで、ここにはかつて橋が架かっていたことが近代デジタルライブラリーでわかりました。

ただし、そういう余った空間をすべて水路に結び付けるべからず。三土さんによると、本郷にある三角地帯は、神社の参道の名残なのだそうです。あの三角地帯も、真ん中に車が止まっていたりして、今回のものと雰囲気が似ています。余談ですが、そこを最近歩いてみたら、三土さんが取り上げていた「宮前青果店」は、取り壊されてぽっかりと空き地になっちゃっていました・・・。

はてさて、今回の空間は、どんな事情で形成されたものなのでしょうか?

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疑問は置いておいて、とりあえずもう少し遡っていきます。

上段の擁壁、チーズドッグみたいだな・・・(と、このタイプの擁壁を見るといつもお腹がすく)。

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石垣には、埋まりかけた排水溝の名残を2つほど見ることも出来ます。原さんによれば、この排水溝は江戸のものではないとのこと・・・明治のものなのでしょうか。いずれにせよ、一時期はキャンパス内の排水がここから出て、三四郎池支流(仮)の水と合わさっていたのですね。

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やがて、弥生門に到着します。
三四郎支流(仮)が流れ出てくる場所であり、今きた水路との合流点にあたるはずの場所。ただし、前回の記事の後に得た資料によれば、実際の合流点は厳密にはここよりももう少し東(写真でいうとやや左)であったようです。残念ながら、現在の地形からの推測は難しいように思います。

三四郎池支流(仮)の記事のときには、目の前の工事現場の壁に、発掘された遺跡のかずかずが写真&説明付で展示されていましたが、今はもうありません。工学部三号館の工事も、少しずつ進んでいます。

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弥生門を過ぎると、その上は 言問通りまで道(暗闇坂)が続きます。

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明治の古地図を見ると、水路は弥生門より上にも(地図の緑色点線部)あるようだったのですが、水源が不明です。
江戸の古地図では、今きた水路が三四郎池の排水のための水路(=水色の点線部)として描かれており、緑色部分の水路は存在しません。しかし、明治期には側溝がある・・・後述しますが、明治期には黄緑枠の部分に射的場ができるので、その排水路ととることもできますが、それでは最上流部の説明がつきません。最上流部は、降雨時にのみ水路として機能する、普段は乾いた排水溝だったのでしょうか・・・?

ここで、水路を遡るのはひとまず中断して、少し腹ごしらえをします。

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今遡ってきた川跡沿いには、嬉しいことにカフェがあります。まさしく暗渠カフェ。
竹久夢二美術館の併設カフェ、港やです。

「野菜の甘みぎっしりカレー」を食べました。鶏肉のうまみ、それから野菜の甘みがしっかりとして、新妻のようなかわいらしさを感じる一皿でした。
実をいうとこのとき、もう15時くらいになっていて、軽食は済ませてあったしカレーを食べる必要は全くなかったのですが、暗渠カフェを見つけてしまったので食べざるを得ませんでした。そして美味しくいただきました!

・・・さんぽはもう少し続くのです。今歩いていた場所から少し東に行くと、東京大学の浅野キャンパスがあります。
冒頭に書いた新しい情報というのは、この浅野キャンパスにかつて池があったというものでした。

浅野キャンパスは、弥生キャンパス・本郷キャンパスの一部とともに、水戸藩駒込邸(1693~1869年)跡です。主に中屋敷として機能していたようです。

「向ヶ岡弥生町の研究」によれば、この、駒込邸の庭園は、忍ケ岡に植えられた桃と、不忍池の借景によるみごとな眺望であったようです。現在、不忍池をこの地点から見ることはできません。それは、ビルが建った影響もあれば、不忍池が埋め立てられたことにもよります。明治期に、不忍池に競馬場を作る(ブラタモリでやってましたね)さいに、池の北側を埋めた・・・つまり、その前は不忍池はもっと大きく、駒込邸の庭先から見えるほどであったというわけです。

そして「江戸の下水道を探る 享保・明和・安永の古文書から」によれば、1747年に、”雨水や下水が不忍池に流れ込み、その土砂などで不忍池がだいぶ埋まっている”から”いっそ埋め立てて町にして欲しい”という提案が町奉行から老中に出されています。そして出来たのが下谷池之端町。つまり、その以前は不忍池はますます駒込邸の近くにあったと推測されます。

・・・しかし、駒込邸内の庭園にも池があったのです。「向陵彌生町舊水戸邸繪図面の解読と描かれた施設の検討」によれば、不忍池を見下ろす位置に、なかなか立派な池があったことが明らかになっています。

Asano

原さんの「農学部生命科学総合研究棟地点の成果」内、Ⅳ-7図の一部を転載します。図の右側に立派な池が描かれています。3つの橋が架けられた、1つの長い池です。傍らに井戸もあったようです。
ちなみに、図の下側の水色の帯は、今回遡ってきた水路で、水戸藩駒込邸と加賀藩の地境に沿っていたことがわかります。

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いまの地図に合わせてみます。浅野キャンパスの地図はこんな感じ。そして、池があったらしい場所に、ものすごく雑ですが(笑)水色で描いててみました。

さあ、実際に、池があった場所に行ってみましょう。しずかなしずかな、浅野キャンパス内に入ってゆきます。

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情報基盤センターを過ぎ、池のあった方向に向かって歩きます。ほんとだ、低くなってます。今わたしが立っているあたりには、江戸期には庭園を臨む建物があり、目の前に美しい池のある整備された日本庭園が広がっていたはず・・・。

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ここらへんが、橋の架かる池があったあたりです。職員住宅が並んでいます。
歩いていてふしぎだなと思うのが、ここはたしかに邸内のほかの場所よりは低いけれど、写真左手には実はもっと低い土地があり、お寺が並んでいること。池があるとしたら、そのお寺の位置にあるほうが感覚としては自然です。

・・・しかし、原さんのお話によると、お寺と職員住宅の段差はほぼ昔のままであり、崖上であるこの辺も、水が湧きやすい場所であるらしいです。

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ここには、長い池のうち、もっとも大きく広がった部分があったはずです。
つまりここも駒込邸の一部でしたが、この場所は現在、大学敷地に挟まれた住宅地です。

この、本郷キャンパスと浅野キャンパスの間にある住宅地は、かつて射的場であったことで知られています。射的場は、明治9年に警視局によって建設され始め、明治21年に大森(現大森テニスクラブ地図で見ると形がそっくり!w)に移転するまで存在しました。その後は埋め立てられ、宅地化されました。今ではむしろ射的場跡のほうが土地が盛り上がっています。

この射的場をつくるにあたり、江戸期までは自然な谷戸の形をしていた土地を、改変したようです。駒込邸内にはもともと北と南に2つの谷戸がありました。南側の谷戸、つまりスリバチ状の場所を選んで、四方に土手を作り、さらなる谷地形をつくることで、両側の台地を自然の防護壁としたそうです。・・・ここで思い出したのが、マセ口川源流部にある深い谷にあったとされる射撃場。そうか、安全のために谷戸に射撃場をつくる例は、わりとあることなのか。笄川、馬尿川(←あまり谷が深くなさそうだけど)にも。岩手でも見かけました。

ちなみに、射場中央には長方形の池があり、古地図を見ると射場の半分以上を占める大きな池であったことがうかがえます。”射場の掘削にて発生した湧水や雨水が発射場に及ぶのを防いでいた”のではないかと原さんは考察しています。
この射的場には弾薬庫や食堂もあったそうです。食堂・・・わたしは先ほどカレーを食べましたが、カレーを提供するにはまだ早い時代でしょうか。ここでは何が食べられていたのでしょうね?

話を戻すと、射的場あった時も、ここには池があったわけですが、駒込邸時代の池はそれよりやや南東にずれています。原さん曰く、この場所にまだ「(駒込邸の)池が残っているはず」とのことだったので、非常に喜んで、「行ってきます!」と返したところ、「池は埋め立てられて、遺跡として残っている可能性が高い」という意味で仰っていたもようでした。。。いつか、この地下で発掘が行われ、池跡がでてきたら、どんなにか素敵でしょう。

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さて、その射的場跡住宅地の端っこから、前述の違和感空間へと伸びる道があります。違和感空間の写真を再掲します。

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実は、この空間は、駒込邸の切手御門(奥の家がある場所)の前であり(前掲の原さんの図にもあります)、水戸殿の表門通りだったのでした。その名残が、いまも区画に残っているのかもしれません。
しかし、もうひとつ、ここがこんなに広い理由を、水関係からも考えられるような気がしています。ここは、三四郎池支流(仮)と、駒込邸の泉水の合流地点だった可能性もあると思うのです。また、前掲のⅣ-7図のように、邸内の雨水の半分は切手御門に流れてきます。スムーズな排水、という意味でも、ある程度この場所に広さが要ったのではないでしょうか?

たんに、坂を上ったり大学内を歩いたりしただけの今回のさんぽですが、江戸のひとびと、明治のひとびとが随分と手を加え続けた土地、そして、池や川がつくられ、埋められていった土地であることがわかりました。そんな歴史を足の裏に感じながら、たんなる坂道を上っていくのも、またおもしろいかな、と思います。

・・・この記事は、本当は3月中に掲載しようと目論んでいたものでした(時間が足りず、かないませんでした)。この記事の周辺に、わたしが長らくお世話になった本務先の職場があり、そこもこの3月に退職したためです。そこで出会った、たくさんの人たちへの感謝の心をこめて、わたしを育て見守ってくれた、この地に対する愛情をこめて、この記事を書きました。3月はなんだか、感謝してばかりでしたが、ふたたび感謝したいと思います。
今回はそんな、個人的な思いのとっぷり詰まった暗渠さんぽでした。

後日追記:本記事は、2011年12月に開催された、スリバチ・フィールドワーク(原さんが解説員)と重複する部分があると思われます。
ここ(「長方形のスリバチ」「水戸藩主も眺めた丘」)も併せて参考になさってください。

<引用・参考文献>

原祐一  2007 「東京大学本郷構内の遺跡 農学部生命科学総合研究棟地点発掘調査報告 第Ⅳ章 農学部生命科学総合研究棟地点の成果」 東京大学構内遺跡調査研究年報7
原祐一 2009  「東京都下水道局 台東区池之端一、二丁目付近再構築 その2 工事に伴う発掘調査概要報告」
原祐一 2009  「向ヶ岡弥生町の研究 -向ヶ岡弥生町の歴史と東京大学浅野地区の発掘調査の結果- 徳川斉昭と水戸藩駒込邸」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9
原祐一 2011  「教育学部総合研究棟地点・インテリジェント・モデリング・ラボラトリー地点の成果 第一節 『向陵彌生町舊水戸邸繪面図』の解読と描かれた施設の検討」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書10
柳下重雄 2005 「江戸の下水道を探る 享保・明和・安永の古文書から」

なお、原さんの研究成果の一部は、こちらで見ることができます。
東京大学埋蔵文化財調査室の刊行物

原さん、たくさんのことを教えてくださって、ありがとうございました。記して感謝します。

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