« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

サッカー通りはスリバチ通り?

いつだったか、しかすけさんが1つ30円くらいのコロッケを買ったというので、すごく食いついてしまったのです。
そして教えてもらったお店は、わりと職場の近くだったのです。とはいえ活動圏ではないので、しばらく行かれませんでした。

ある日、ついにコロッケを買いに行ったら、あれ? あそこに谷があるぞ?

Soc1_2

写真だとわかりづらいかもしれませんが、セブンイレブンあたりの交差点が谷底です。その角にあるイタリアンに何回か来ていたのに、なぜ気づいていなかったんだろうか。。

そして、その谷底交差点を曲がると、また。
今立っている場所は谷底のはずなのに、右手にまた同じような景色が見えるのです。

今度はあそこが谷底になってる・・・

Soc2

この通りは、文京区にある金花商店街、あらため、サッカー通りです。サッカーミュージアムがこの通り沿いにあることは知っていましたが、サッカー通りという名だとは。でも、すごくわかりやすい名前ですねw 個人的には金花のほうが情緒があって好きですが(金花は、商店街の在る旧町名、金助町と新花町から一文字ずつ取ったそう)・・・。

見えている谷底をまた目指します。

この坂は、「文京区の坂道」という資料によれば、傘谷(からかさだに・かさだに)坂という坂です。むかしは傘をつくる職人さんが住んでいたとのこと。
「坂」というと、一方向へ傾斜しているイメージですが、ここはこんな風に谷の上り・下りワンセットとなっており、ちょっと珍しい気がします。

Soc3

いちばん低いところへ下りて行くと、右を見ても上り坂。

Soc4

後ろを向いても上り坂。

Soc5

左を向いても上り坂!?

・・・え、当然、前を見ても上り坂だし、もしかしてここは緩やかな1級スリバチだったりするのでしょうか??
えー!すごい、こんなところに1級スリバチが?か、会長ぉぉぉ!

・・・一応、前方に同じくらい低い標高の場所があったので、その道も見に行きます。

Soc6

すると、そこでも、右を向いても上り坂!
えええ、こんな地形ってあり得る??

Soc7

ちなみに、このスリバチの谷底には目的地の肉屋さんがあるのでした(そういえば、しかすけさんもこコロッケの説明のときに「谷底にあります」と書かれていたんでしたww)。

コロッケ、待っててね、もうちょっとだけ待っててね。

Soc8

さて、一番低い地点の最後の道。左を見ると・・・、
ああ、こっちには水の出口がありました。なんだか、がっかりしたような、ほっとしたような。

司馬遼太郎の「街道をゆく 本郷界隈」に、傘谷坂についての記述がありました。

傘谷坂を南から入ると、坂が北に向かってくだっていることがわかる。左手の湯島幼稚園の門前を通りすぎてくだりおわると、こんどはのぼり坂になる。
頭上に、雨雲があった。雨脚がひどくなってきたので、軒下に入って雨宿りをした。雨はやみそうになく、目の前の谷(下って上る折れ目)が、みるみる水溜まりになった。

・・・まさにこの場所のこと。雨水が出口をすぐに見つけられなくて迷い、溜まっていく感じが描写されています。

後で地形を見てみると、

Yusimap

こんなふうになってたんですね!googleさんありがとうございます。

これはもう、立派な谷戸ですね。流れ込む先は、東の低地。古石神井川の支流だったでしょうか、それとも、この辺が海だったときの小さな入り江だったでしょうか、それともその後に流れ出した一本の短い川なのでしょうか。この短い暗渠に関する情報は、今のところ見つかっていません。今は流れる先が、迂回しつつも神田川しかないように見えるので、一応神田川支流の扱いで、金花支流(仮)と勝手に呼んじゃおうかなと思います。
後日追記:金花支流(仮)もいいけれど、傘谷からとって「傘谷支流(仮)」もいいかなと思い、コメント欄でのやり取りを経て「樹木谷支流(仮)」もアリだなと思うようになりました。
ちなみに、ブラタモリ(江戸の食)によれば、この谷の河口部にかつて田んぼがあり、神田の由来となったとのこと。

ちなみにgooの古地図、明治時代にはこの水路が部分的に載っています。

あ、・・・コロッケ。

Soc9

これこれ、これを買いに来たの。一徳精肉店の揚げ物。おっちゃんが、初見のわたしに向かって「天気が良くなって、良かったねぇ!明日もよろしくね~!!」と明るく話しかけてくれる、気さくでよい店でした。
コロッケ40円、メンチ80円、ハムカツ60円。(しかすけさんはたしかコロッケ3個買っていくらって話でしたね。)

コロッケは、じゃがいもと玉ねぎだけなのだけど、玉ねぎのシャリシャリ感が手作りっぽくてとてもすてき。メンチは、小ぶりだけどしっかりとおいしい。おやつにバクバク食べたい感じの味。ハムカツも、ほっとする味。満足いくコスパで、近所にあったらいいのになぁ、と強く思うようなお店でした。

Soc10

もう一軒、この通りには寄りたいお店があります。
けっこう有名店かもしれませんね、オザワ洋菓子店。ここの、”いちごシャンデ”がめちゃくちゃベッピンさんなのです。
クッキー、いちご、生クリームの上にチョコがかけてあって、その構成要素だけでもうかなりかわいい。見た目もキノコみたいで実にかわいい。こんなにかわいいお菓子があって、いいんだろうか。

・・・いままでずっと、”いちごシャンテ”て読んじゃってましたけど。間違ってたのね、自分。会話でも思いっきり”シャンテ”って言ってました・・・恥ずかしい。でも”シャンテ”のほうが雰囲気に近い感じがするんだけど。

ビールに合わせる揚げ物と、このかわいいお菓子を買い、満足して商店街を後にしました。

結果、出口はあったので1級スリバチではありませんでしたが、りっぱな2級スリバチであると思います。また、傘谷坂を下っているときの疑似スリバチ感が、なんともいえずたのしい地だと思います。
コロッケ目的で訪れたサッカーな街の、意外な発見でありました。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

紅葉川をねちねちと歩く 外伝 牛込城のお濠たち

以前、紅葉川の前哨戦として牛込川の記事を書いていました。そして、牛込城のお濠に関する記事も書いてみたいな、などと言っていました。
わたしはお城への興味はさしてないのですが、暗渠の調べものをしているとときどき、そこにあった川がかつてお城の濠の役割を果たしていた、という記述を目にします。とくに中世の城は、周囲の川をよくまあ上手に使うものだと感心するほどです。(ちなみに桃園川にもそういう場所があります。)
そして、その、城に利用されている「川」たちのほうに、どうしても関心が行きます。牛込城も、周囲の自然河川を時には少し手を加えつつも、巧みに使っていたようです。

どれどれ、牛込城を取り囲むお濠たちはどんな面々だったでしょうか。実はすべて牛込川および紅葉川の記事で出てきた川たちなのですが、今回は頭上に城(といっても居館中心の素朴なもの)があったという視点で、読んでいただければと思います。

舞台となる、牛込城近辺の地形はこんな感じです。googleさん毎度ありがとうございます。

Usigomejomap

牛込城を赤丸、城郭をオレンジの点線で示してあります。牛込城の規模や建物の位置などについては、記録がないため不明とされており、文献によっても示し方がまちまちです。これは、比較的広範囲を示している、「牛込改代町とその周辺」内の予想図を参考にしたものです。

牛込城本丸の位置は、今の光照寺一帯と言われます。袋町に位置しており、「袋町」と聞くと低地にありそうに思うのに、高台にあってちょっと意外でした(道が袋小路なのでという由来のようです)

Koshoji

ここが光照寺。城に関するものは、お寺の前の説明板しかありません。

道向かいにある日本出版クラブのほうにも説明版があり、そこには地下三十尺で大きな横穴が発見されたと書いてありました。三十尺?横穴?いったい何だったのでしょうね・・・。

さて、以下、この牛込城を取り囲むお濠を順に紹介します(「牛込神楽坂若宮町小史」「神楽坂界隈」等を参考に)。
まずは北側の濠。

Kita

城の北側に位置するこの谷は、牛込川のものです。
それも、ちょうどお城のあたりは谷が深く、崖がきつくなっています。

Nanzoin

牛込川の水源について明らかになっている情報はまだ一つ。この、南蔵院の本堂前にかつて弁天池があり、そこから流れ出る川だったようです。
弁天堂があり、近くの坂に「弁天坂」の名がついていることからすると、なかなか大きい池だったのかも、とも思うのですが・・・(でも、谷はもっと西まで伸びるのです。別な水源もあったはず・・・)

明治のものでしょうか、南蔵院前を描いた絵には、門前に橋が架けられ、水路っぽいものが書かれているように見えます。
いま、南蔵院の敷地には池はないし、水っ気もないし、とても狭く感じます。

Usigometani

流れ出した先は、こうです。牛込川の谷は、現在大久保通りになっています。道路だけ写すとわかりにくいですが、両側にしっかりとした崖があります。この坂を牛込川は下ってゆきます。川を追うのは、今回は省略。

あ、牛込川の合流口らしきものを見つけたので載せておきます。なんとなく、合流口は今無いのではと思っていましたが、クルーズで神田川限界遡上をしていただいたさいに(onoさん本当に感謝!)、それらしき位置に古そうな穴が開いていたので、これではないかなと思っています。

Usigome_2

雨の翌日だったので、汚水がちょろちょろ出ちゃってますね。。

では、西側の濠はというと、まずこの位置。

Nisi1

ここが短い谷になっています。
ただし、今この谷に道はありません。家々の隙間になっているわけでもありません。

・・・神楽坂近辺をうろうろしていて時々困るのが、区割りの難しさです。この西濠の谷をたしかめるためには、ハイパー☆コの字ウォークをしないといけません。

Sawa_2

この道も、見えている限り交差してくる道がないんです。。。

さて、道路を進んでいくと深い谷があるのがわかるでしょうか。
この谷は写真左にいくにつれて浅くなり、右に行くにつれて深くなります。むかしは南町辺りを水源とし、前出の南蔵院の池に注いでいた沢があったそうです。そして、その沢を濠としていた形跡があると言われています。
水源は現在は住宅街に埋もれてしまい、わかりません。

このへんは閑静な住宅街ですが、ある日ぽつっと「FULL ON THE HILL」という肉まん屋さんが出来ていました。目黒五十番の支店という、かわいらしい店舗(すぐそこに神楽坂五十番があるのにw)。
このときは持ち帰りましたが、その場で食べられるようふかしてある肉まんもあります。野菜がしゃきしゃきする、ヘルシー肉まん!牛込城さんぽのおともにもモッテコイ!です。

Nisi2

そして、今の沢に対してやや西南にずれた位置にあるこの谷。ここがさきほどの沢とつながり、西濠となっていたのではないかという文献もありました・・・そのつながっているかどうかも、住宅街に埋もれて探索が出来ません。

その谷とは、

Sadohara1

開渠に感動していた、砂土原町支流(仮)のことです。

これを下ってゆくと、

Sadohara2

たしかにお濠っぽい?w

南側はこれまでねちねち攻めてきた、紅葉川の谷です。

Minami

いまは外濠通りになっています。
紅葉川跡として紹介していましたが、牛込城があった当時は、ここら辺は沼地であったようです。

Momijie9

城に近づいていくあたりの場所・・・この道の左手に崖があります。

Momijif1

日仏学院の前の崖。こういった険しさが、城の防衛に役立っていたと思うと、現地での感じ方がまた少し豊かになる気がします。

さてさて東の濠は、

Higasi

ここです。
わりと最近に書いた、熱海湯支流(仮)にあたります。

Atami1

この谷底から始まる熱海湯支流(仮)は、”はっきりとわかる濠跡”とまで書かれています。さあ・・・濠の特徴ってどんなものかはわからないんですが(川跡となんか違うのかな?)、

Atami9

石垣の脇を流れて行く、この風景なんてまるでお城の堀のよう・・・とは、思いますw(けれど、牛込城には石垣などはほとんどなかったと言われます;)。
この、石垣の中にあるのが東京理科大学です。

いま牛込城の本丸があったあたりは静かなものですが、それよりやや低い土地に、大きなビルをいくつも持っているのが東京理科大学。その敷地は櫓などがあったかもしれないという、お城の敷地とも重なっているのです。外濠の方向から見上げると、大学のビル群がお城みたいにこの地を陣取っているように見えなくもないというか、なんというか。そして学生たちが城下町を闊歩する・・・

そんなわけで、今回のお食事は理科大学食のカレー。250円でございます。
ベーシックだけど決して軽くはなく、どろり、まったりとしたカレーでした。こういうの、時々食べたくなるんだよね~・・・。

さて、この外伝をもって紅葉川関連の記事はしばらくお休みしたいと思います。紅葉川さん、いろんな思い出をありがとうございました。

Rika

| | コメント (0) | トラックバック (0)

紅葉川をねちねちと歩く その13 河口近辺とまとめ

紅葉川編、そろそろ終わります。
この川に関しては、杉並でもないのに、ずいぶん時間をかけてねちねちやってきたものです。もともとは、わたしの非常勤先(院生の頃からやらせていただき、結構長くお世話になったところ)が紅葉川下流沿いであったため、愛着のあった暗渠でした。そして、少し歩いてみると、その支流たちの表情の豊かさ、歴史の複雑さにヤラれてしまい、13記事も書く羽目になりました。
・・・その非常勤先を、ついにこの3月で辞めることになりました。紅葉川沿いに頻繁に行くことも、なくなるでしょう。この非常勤先と、そこで出会ったたくさんの人たちへの感謝の心をこめて、紅葉川河口近辺のことを書いてゆこうと思います。

外濠が途切れる位置に、以前はマクドナルドがありましたが、今は跡地にカナルカフェブティックという店が出来ています。その前の交差点(というか飯田橋駅前の交差点)には、連続麻雀杯マンホールがあります。

Momijil1_2

つまり、下水が交差しているはずなんですが・・・。なぜか、ナナメ。で、一個しかない(交差しているときには2つあることが多いんです、lotus氏の解説参照)。
向きからして、外濠の排水かしらんとも思ったけれど、下水道台帳を見ると、どうやらここは交差ではなく、市ヶ谷幹線の片割れが直角に曲がっている位置でした。連続麻雀杯マンホールの役割はゴミが溜まりやすい場所のお掃除ですから、この下水管が直角に曲がる場所だって該当するわけです。

Momijil2

その交差点を過ぎると、紅葉川沿いにはこんなすてきな食べ物屋さんが立ち並びます。

ジャンボ餃子で有名な、神楽坂飯店。一升チャーハンや、百ヶ餃子だってありますよ。
それから、ラーメンえぞ松。よく知らずに入ったら、皆がホイコーローを食べていたので、つられて食べました。建物上部にもずいぶん強調してホイコーロって書いてありますねw
山形の地酒の店は知らなかったなぁ。インドールもステーキも実は未食です。・・・しかし、いい眺めだなぁ。

Momijil3

その向かいには、ラムラのビルがそびえたつ。
下水道台帳を見ると、ラムラのあたりには「外濠」と記されていて、キュンとします。外濠の水が暗渠になって前を流れているのです。

ラムラは、もともとあった外濠を埋めて建てられたものです。
付近を新宿区地震ハザードマップで見ると、新宿区で唯一「液状化の発生可能性が高い地域」となっています。ラムラの位置はもちろん、隣のカナルカフェ付近やラムラ北西の道路・商業用地も含まれており、この辺りに大がかりな埋め立てがあったことが物語られます。それは直接的には外濠ですが、もっともっと以前から、ここは水っけのある、ぐじょぐじょした土地だったのでしょう・・・この場所は川の合流地点であるため、水があふれることが多く、昔は自然の遊水池があったといわれます。

Momijil4

ラムラの前には、親水ゾーンがあります。
これは川のふりでしょうか、外濠のふりでしょうか。

Momijil5 

ここもラムラの向かいですが、さっきからちょっと下った位置です。
見えている坂は、軽子坂。ここは、揚場町という地名が示すように、川から船荷を揚げる場所でした。荷揚げをする人のことを軽子といい、軽子が通っていたから(或いは住んでいたとする文献も有)軽子坂というそうです。
そして、ちょうどこの軽子坂の下(横断歩道の辺り)に、無名の石橋が架けられていました。紅葉川(と便宜上書きますが下流部=大下水との表記です)を渡るための石橋です。水路の幅は1.8mで、7枚の石からなる石橋だったそうです。横断歩道のシマシマが、石橋に見えてきませんか・・・?

あとはもうすぐ、河口です。

Momijil6_2

これがおそらく、神田川との合流口。船河原橋のところにあります。
この合流口は神田川クルーズ(2回目は水位が高く、階段ぶりがわからなかったので1回目の写真を採用)の際に間近で見ており、内部に階段のあるようなつくりが気になっていました。今でも謎が解けたわけではないですが、白汚零さんの下水道写真が参考になるような気がしています。下水道内では、合流部にこのような階段を作ることがしばしばあり、それは水勢によるコンクリートの摩耗を防ぐ目的があるのだそうです。・・・つまり、この合流口、以前はかなり水量があったと考えることも出来るわけです。

ちなみに、船河原橋は「とんど橋」という別名を持っています。この下に水堰の捨石があり、水音が高く「とんど」と響くため、という由来です。「どんどん」を見かけることは多いですが、「とんど」ってちょっとおもしろいw たしかにちょっと音が高そう。

・・・さて、河口まで来たので、紅葉川辿りはこれにて終了。最後、名称等について少々まとめておきます。

紅葉川はさまざまな名前を持っていて、風流なものが多いです。

全体をさす名称として、「紅葉川」「楓川」「長延寺川」「外濠川」などがみられます。
上流部分は「桜川」「捨川」など。
下流部分は「大下水」「柳川」「長延寺川」などで、大下水のことを「紅葉堀」とする資料もあります。紅葉堀は(おそらく紅葉川を参照して)便宜的につけられただけの様子。
上流・下流の境目はどうやら防衛省のあたりになるようです。
あれこれありますが、手持ちの資料では「紅葉川」と呼ぶものが比較的多いです。

このうち、由来について記されたものは、川沿いに柳が植えられていたため、とされる「柳川」のみ。・・・いやはや川の名称の由来って、探すの難しいですね。

また、流路について、新しい情報を得ました。以前、「外濠との関係」にて、紅葉川の歴史について曖昧なまま終わりましたが、その後「紅葉堀」に関する資料を通し、ひとまずは答えが出た形です。

「紅葉堀」は、前出の軽子坂にて、昭和62年に配電線地中化工事中に見つかった遺構です。江戸期の下水施設にあたることが判明し、さらに、”1641年に堀千之助に命じて作らせた石垣積み下水堀”ということまでわかっています。
蓋は無く、大久保方向からの落水と四ツ谷近辺の上水・悪水を流す下水が、市ヶ谷八幡宮付近で一本化され、それらの水を神田川に流すための水路ということです(この流路はまさしく紅葉川です)。

さらに、この紅葉堀は、もともとあった自然河川である紅葉川を整備して下水道にしたものといわれます。江戸では、こんな風に、宅地化のために自然河川を大下水に整備し直す例がいくつかあるようです。

紅葉川の谷に作られた2つの水路、外濠と紅葉堀(大下水)について、どちらが自然河川としての紅葉川を濃く継承しているのか、というと、今回の調べでは紅葉堀に軍配が上がるわけです。

ただし、江戸期の遺跡調査によれば、玉川上水や大下水の余水が外濠に流入していた形跡がみられ、上水・下水・外濠はところどころで繋がっていたといえます(江戸期の下水は屎尿を含まないので、汚い話ではありません)。したがって、紅葉堀の余水の流入口が、外濠のどこかにあった(=紅葉堀と外濠が繋がっていた)可能性は低くありません。
呼称が上流と下流で分かれる場合があることは前述のとおりですが、紅葉川を2つの別々の川として記述している資料もあります。それが最初は不思議に感じられましたが、たとえばこの記事の最後から2枚目の写真のような、大きい合流口は、もしかすると紅葉堀の余水を大量に流すところで、あたかも上流部の河口のように見えた、かも、しれません。。ちょっと自信ないけど、そんな風にも考えられると思います。

紅葉堀の発掘調査により、紅葉堀の遺構には現在ヒューム管が通っていることもわかりました。つまり、江戸期に掘られたこの下水路は、今も下水道として利用されているのです!古く、そして紆余曲折の歴史を持つ紅葉川。その名残は、いまもしっかりと地中にあるのでした。

・・・最後までねちねちと書いてしまいましたが、そろそろ打ち上げにまいります。食べ物屋さんも、とっておきを紹介したいと思います。
それは、山手線内でのコスパ最強を誇る(と思っている)、飯田橋の「やまじ」。

先に書いたように、わたしは飯田橋近辺で、なかなかの時間まで仕事をする日が年に30回ほどあって、そんなときは飲み屋さんを探し歩いていました。
なんとなく、「今日は千代田ビル飲食街のどこかがいい」と思った日がありました。あの、飯田橋のベッカーズの向かいにある、古~いあやしいビルです。ラーメン高はしは閉まってるけど、それ以外の飲み屋さんがどれも開いています。が、店内が分かりにくくてなかなか決められない。で、相方が「よし、ここにしよう!」と背中を押してくれたのが「やまじ」でした。

1階は立ち飲みですが、2階には椅子があります。2階の窓からは、総武線のホームと電車が、反対側に神田川が見えるという、すばらしすぎるロケーションです。

さらに、メニューが殆ど300円以下。なかでもすさまじいのが、その日の日替わりメニューで、オール250円。ホワイトボードいっぱいに書いてあります。お好み焼とやきそば、玉子焼は微妙に変化しながら毎日あります。お好み焼はふわふわでとても美味だし、玉子焼の具は変わり種が多くて楽しい。

前金制なので、机の上に百円玉を並べておいて、注文するたびに支払います。このね、机に百円玉を並べておく感じがまた、ゲーセンで格ゲーをやりつづける時のあの感じを彷彿とさせて、少年心なんだかオヤジ心なんだかわからない興奮をもたらします・・・!

で、250円だからとあまり期待しないでいた、料理が実はすごい。おじさんがひとりでちゃっちゃっと作るのですが、枝豆は茹でたてが。刺身のツマは切りたてのみずみずしい大根が。くるのです。ツマが美味いってものすごいことだと思う。丁寧だし、料理センス(&クリエイティビティ)がすっごく良いんです!

Momijil7

ある日のやまじ。
じゃがバター+イカの塩辛。このメニューは他店でもありますが、実は塩辛が苦手なので食べた事ありませんでした。結論から言うと、うまかった!実にうまかった。今後はじゃがバターを食べるために塩辛を作ってもイイとまで思いました。これ、250円です。

Momijil8

飲み物は、やまじオリジナルのワインサワー。いまだにワインの味を認識したことがありませんが、おもしろいのでついつい頼んじゃいます。

Momijil9

ある日の興奮メニュー。
鮎の雑炊。出汁のきいたおいしい雑炊の中に、焼いた鮎の身が1尾ぶん。あと、大量の鮎の卵が入っていました。プチプチしていておいしい。すごく贅沢!
少し前に、母親が鮎の雑炊を作ってくれたことがあるのですが、工程がなかなか面倒くさそうでした。うーん、そんなに手の込んだ料理が、やまじでは250円。

Momijil10

ある日の興奮メニューその2。鰤の照り焼きのお茶漬け。
前日の残りなのか買ったものなのか、鰤の照り焼きは焼き立てではなかったのですが、でもどどーんとお茶漬けの上に乗っていて、これがまたうまーいの。そもそも、ブリ照りのお茶漬けって思いつかないもの。おやっさんグッジョブ!なんとまあ、250円。
たくあんの無造作っぷりがいいですね。器もプラスティックだったり変な柄だったりするんですが、やまじでは器を気にしてはいけません。

Momijil11

ある日の仰天メニュー。山菜蕎麦と天ぷら。
うあ、何の天ぷらだったか忘れてしまいました。揚げたての野菜天が4つほど、別皿できてくれました。これを、山菜蕎麦に入れて食べる・・・で、まさかの250円。

写メに残っている写真たちなんですが、どうも炭水化物系にわたしは反応しやすいようですね。実は、日替わりメニューでやきそば以外の炭水化物系は結構レアです。

もっともっと色々あります。とにかくコスパがいい。楽しすぎる・・・ってんで、去年は一時期、毎週来ていましたww それでもまた行きたい。そんな、すばらしいお店です。紅葉川歩きのフィニッシュに、ぜひぜひおススメです。

<参考文献>
「江戸の上水道と下水道」←sumizome_sakuraさん、情報提供ありがとうございました!
「神楽坂界隈」
「神楽坂まちの手帖 第10号」
「川跡からたどる江戸・東京案内」
「神田川再発見}
「新宿区史 第一巻」
「東京の公園と原地形」
「紅葉堀遺跡 地下鉄有楽町線飯田橋駅出入口工事に伴う緊急発掘調査報告書」

| | コメント (4) | トラックバック (0)

西荻窪ひみつ暗渠 松庵川のおもいで

松庵川の情報は、とても少ないです。HONDAさんが「幻の川」と表現するように、とても少ないです。書いてあるものといえば、「杉並の川と橋」、それから杉並区郷土史会会報、それから少しの古地図。

ただし、現地には痕跡がある(しかもとてもおもしろい)ので、歩くことをたのしみながら、あれこれ想像を膨らませまくる、そんな風に見てきた川でした。

今回、ちょっと情報が増えたので、該当する場所にだけ行ってみることにしました。

西荻窪で降り、南方向へと歩きます。

Shor1

暗渠の前に・・・、長崎亭跡地。
長崎亭のちゃんぽん、香ばしい風味で美味しかったのにな。去年も、食べに来たのにな。閉店してしまったそうです。

Shor2

松庵川の、今回の目的地以外はパトロール気分で眺めます。

上流部、健在です。

Shor4

線路の方向からやってくる支流も健在ですね。

Shor5

お!家があったはずの場所が駐車場になっています。もちろん入ってゆき・・・
タナボタで見られた開渠がこれです。

Shor6

後ろを見ると、井戸の残骸もありました。
向こうに向かって、ゆっくり動き出す空母のような。

Shor7

西荻と言えば、M学苑。誰しも一度は、電車の中の広告を「なぜ、これ?」と思いながら見つめたことがあるでしょう、M学苑。その、M学苑の建物の脇を覘いた写真がこれ。
M学苑の真後ろを、松庵川は通ります。

Shor8

以前からある駐車場の、奥の開渠もパトロール。

あれ、赤い鉄板蓋がある。一部は暗渠だったのか~、ここも。
わはは、座椅子蓋もありますねw

Shor9

開渠はそよかぜ通りへと流れこみ、暗渠となります。

Shor10

天狗湯の横にあるコインランドリー前に、こんな蛇口がありました。
どうやら地下水を提供してくださるようなのですが、貰う量はほどほどにしないといけないのですね。・・・そんなに大量に持ってく人がいたのですねぇ、きっと。

Shor11

天然石・半身浴コーナー、ミルク風呂、W噴出立ちシャワー、歩行コーナー、アロマテラピースチームバス・・・天狗湯、よくみるとけっこうすごい。

そして、そのすぐ先に、高井戸第四小学校があります。今回の目的地は、ここ。
高井戸第四小学校は、松庵川ととても縁のある学校です。その昔、学校の敷地は低くなっていて、松庵川が雨天時にあふれると水が溜まっていたそうです。畑にも出来ず、ゴミ捨て場のようになっていたところ、盛土をして学校にしたそうです。

近所の方の話によると、むかしは松庵川にも鯉、鮒、ざりがになどがたくさんいて、子どもたちもよく遊んでいたそうです。菖蒲が咲いたり、ホタルが飛んでいる光景もここにあった、と。

Shor12

見たかったものは、これです。校庭にある丸い池。これ、松庵川暗渠に使用されているコンクリート管なのだそうです。
後述しますが、氾濫時の松庵川にはなかなかすさまじいものがあったようで、近隣の方々はだいぶお困りだったようです。昭和46年についに、3億円かけて暗渠化がなされたとき、高井戸第四小学校では余った下水管をもらって、この池にしたのだそうです。
・・・直径二メートル以上はあろうかという、なかなか大きい管。松庵川の歴史の一部は、こんなところに眠っているのでした。

Shor13

そこから流れ出した水が、短い川のようになっています。きれいだったころの松庵川のイメージなのでしょうか?
なんと流末は松庵川暗渠に注ぐのです。

Shor14

手前に井戸がありました。地下水を汲み上げ、これをさきほどの流れに回しているようです。

Shor15

松庵川、という名は、杉並郷土史会会報において田中士郎氏が書いたもの(「観音川と松庵川」)が初出と思われます。ほか、呼び方としては「大宮下水溝」「大宮前下水」などがみられます。
いっぽう、西荻南~南荻窪~宮前~松庵あたりに住むひとびとにとっては、ここは大正のころは「悪水堀」だったり、昭和では「宮前ドブ」だったり、たんなる「ドブ」だったりという呼ばれ方であったようです。

「雨といえば、高四名物”悪水ぼり”のはんらんー」なんていう記述もありました。たらいに乗って学校に来る子もいたそうです。善福寺川が増水して逆流すると、ナマズが押し上げられてここまできた話。正門前の橋が流され、近所が床上まで浸水する話。近所の金魚屋さん(もしかして、ここかな?)から金魚が流れ出し、ドブに住み着いた話・・・
氾濫がひどい時には、近所の人は高井戸第四小学校に避難しに来て、伊勢湾台風のときには130名近くの人々が2週間も避難していたそうです。かつてはその水が溜まっていた低い場所を、盛って学校にして、こんどは行き場を失った水で困って、学校に助けられるという流れが少し皮肉なように感じますが。。。今じゃもう水はあふれないし、小学校は避難所としての機能を残し、地元の人を守っています。

昭和51年に、暗渠の上にいまのような植え込みが作られ、高井戸第四小学校のみんなで名前を考え、「そよ風通り」となったといいます。・・・そよ風通り・・・。ドブに困らされたこの地域の方々の思いが、詰まっているような気がします。

今回、見たかったのはここまでだったので、西荻の駅に戻るとします。

Shor16

カエル設計、という気になっているバーを偶然見つけました。
カエルグッズがいっぱいで、たのしそう。

Shor17

で、雑貨屋巡りでもしようと、ふらふら歩いていて、ふと横を見ると、あれ?あんなところに谷がある。高井戸四小のやや西に、このような谷地形がうっすらとあって、支流の存在を思わせます。

Shor18

といっても、暗渠サインはまるでなく、よくわかりませんでした。谷は、ここをゆるゆる下って松庵川へ・・・。

謎の多い松庵川。こんなふうに、ちょっとずつちょっとずつ、秘密を解き明かしていく感じがまた、おもしろいと感じました。

さあ、お昼ごはんにしましょう。

Shor19

以前、美容師のSさんという方にお勧めしてもらった、女子大通りの彩虹です。その方曰く、「どれも丁寧に作ってあって、何を食べてもおいしい」とのことでした。

鶏の唐揚げ薬味ソース。ネギのほかにパセリの入ったソースで、さわやかにおいしい。もちろん唐揚げもおいしい。

Shor20

あと、ゴマ辛みそ麺セット(910円、焼売2個とミニ炒飯つき)の、炒飯が特に美味しかったです。上に乗っているのが、グリンピースではなく枝豆なんです!なんかうれしい!そしてチャーシューがいっぱい入っていて、ラードの風味がたっぷり。

丁寧につくって下さる分、待つ時間も長めなのですが、じゅうぶんその甲斐のあるお店!でした。

<参考文献>
杉並郷土史会会報第127号
杉並郷土史会会報第131号
荻窪小学校創立30周年記念誌「おぎくぼ」
高井戸第四小学校創立40周年記念誌「わたしたちの高4小」

| | コメント (3) | トラックバック (1)

神田川あげ堀くだり

思いのほか楽しかった暗渠。
ある日、明大前から方南町まで歩きました。ほんとうは別の目的があったのだけど・・・

明大前から甲州街道を過ぎ、神田川に向かう谷を下りるあたり。

水道道路沿いに歩いていると、ふと、細い暗渠のような道が見えるのです。ヤマト運輸の集積所のすぐ横。

Zbun1

階段の中に、マンホール蓋が鎮座しています。

これはあやしい。

Zbun2

降りてみると、やはりそこは暗渠のようでした。神田川は、すぐそこ。

これは、支流なのか、あげ堀なのか?

Zbun3

井の頭線の線路を、ここからくぐっていくようです。
ちなみに、線路の向う側は蛇行する広めの道です。

Zbun4

おや、井の頭線の下に合流口がありました。
30年前のゼンリン住宅地図を見ると、明大前の切り通しのところからこの位置まで(厳密にいうとこの位置の数メートル手前で暗渠になっている)、井の頭線のすぐ横を水路が走っています。あの崖からしみ出す湧水と、雨水の排水路であったでしょうか。おそらく、この合流口はその出口だったのだと思います。

では、この穴といま歩いてきた暗渠が関係ないかというとそうでもなくて。下水道台帳を見ると、さきほど歩いてきた暗渠(=水路敷との表示アリ)からと、”線路の向こうの蛇行する広い道”を通ってきた下水とが、2つ前の写真のマンホールの位置で合流しています。この合流口は、その下水管が大雨時に神田川に排水させてもらう穴になっているようでした。

Zbun5

さて、さきほどの暗渠を下っていくとします。

水道道路に戻り、遊び場90番の向こうに道が続いているのを確認します。

Zbun6

和泉中学校、和泉小学校の敷地脇を通ります。プールもこちら側にあります。
すごい崖です。

Zbun7

きたー!
道を一本わたると、すごく狭くなってます!

Zbun8

狭いし、くねるし、上物ですねぇ。
ちなみに明らかに塗ってしばらく経っている「ペンキ塗りたて」の街灯がいくつもありました。

Zbun9_2

へんな盛り上がりをみせるアスファルト。

ちなみにこのへん、池があったかもと「杉並の川と橋」に書かれています。原典にあたっていなため場所が特定しづらいのですが、この周辺に池や沼がいくつもあって、幾筋もの流れが神田川本流に向かっていたのだそうです。

Zbun10

東を見ると、向こうに立派な崖が見えます。
池や沼がいくつもあったという話、うなずけます。

Zbun11

暗渠沿いに鉄塔が建っていました。

そして・・・鉄塔の下が、いつも見る立ち入り禁止地帯ではなく、民家のお庭になっていました。。
なんだろうこれ、なんかシュールだな。と思いつつ、鉄塔下庭園をパシャリ。

Zbun12

わーい、金太郎だ金太郎だ!

Zbun13

金太郎の先、ちょっと広い道になります。左手に広がるのは、日大鶴ヶ丘高校のグラウンド。
おもしろいことに、この水路さんを尊重してくれているのか、グラウンドの壁が川筋に沿ってグネグネしてるんですよね。地図で見てもグネグネですが、実際はもっと曲っているように感じます。

Zbun14

ふたたび細くなります。

金太郎の縦置き!
こりゃ~珍種です。

Zbun15

くねる、くねる。

この暗渠を通っている間、ずっと、「神田川ごめんね、いままで来なくってごめんね」と謝っていましたw。神田川さんたら、こんなに素晴らしいものをお持ちだとは・・・。

神田川水系の暗渠が好きなくせに、神田川自体にはさほど来ないできた自分を反省したいと思います。

Zbun16

その後、道はふたたび太くなります。

マイ地図には載っていない、「和泉がけ公園」なる表示を見つけたので、どれどれ、どんだけの崖っぷりなのか見せてもらおうじゃないの、と、やってきました。

たしかに崖でしたw

Zbun17

しかも、崖の上はお墓です。

ほかに目的もあったし、じゅうぶん満足したので、この暗渠を離れます。

今回の暗渠、神田川のあげ堀のようで、リバーサイドさんが「和泉東分流」として紹介されているものでした。
どうやら、今回の記事よりも2本上の橋「永高橋」から分流し、この「がけ公園」のすぐ下流にある弁天橋のところで合流するものだったようです。

Izumimap

簡単に、今回歩いた部分だけ示します。

さあ、その後、方南町で一杯ひっかけていきたいと思います。
方南町の良い感じの商店街をぶらぶらしていると、目に止まったのが”一心太助”というお店。「300円」のメニューがずらりと並んでいるのです。

レバ刺し
ウナギかば焼
カレイ唐揚げ
サンマ焼き
牛カルビ焼き
レバ唐揚げ
うな丼
にぎり寿司(6貫)
ちらし寿司
etc・・・

その300円と思えないラインナップにしばし見とれていると、店から出てきたおじさんが、
「それ、本当だから!(ニカッ)」・・・保証されてしまいました。
4時台だった気がしますが、店内、近所の方々がすでに宴会をひらいてるご様子。期待していいんじゃない?ってことで、入っていきます。

お通し(200円)は、やわらかな焼鳥(タレ)がきて、さっそく美味しいので一安心。
飲み物も安い・・・!

メニューが豊富なので、迷います。
「刺身盛り合わせ(3点)」が300円ていうのもすごいな。
もう、この値段だったら、2切れずつ薄いのが3種類でも、結構うれしいと思うよ。

そんな気持ちでまず刺盛をたのみます。

Zbun18 

どーん!!

マグロ5切れ、寒ぶり3切れ、サーモン2切れ。
ぶ、ぶあつい。・・・エビがおまけみたいに乗ってる・・・。

ちゃんとおいしい(さすがもとお寿司屋さん)!
なんかものすごい気がするぞ、ここ。

200円メニューもある。
各種鍋ものが400円。
でも、とりあえず300円をもう1品攻めてみます。
かなり迷いましたが、「ロースカツ」。
ロースカツは脂身があるので苦手なんですが、そのお得感が知りたくて頼んでしまいました。スーパーのお惣菜だと、1枚でもう300円くらいするのじゃないでしょうか。それにキャベツの千切りなどが添えられて、それが居酒屋で300円だったらもうだいぶうれしいもんです。

Zbun19

どどーん!!!

「・・・えっ。・・・えっ?」ってなります。

え、2枚?
山盛りのキャベツの横に、きゅうりが3切れくらいと、あと厚めでピチピチしたトマトが5切れくらい座ってます。

Tasuke_2

これ300円だったよね?あ、いや、そうか、もしかしたら二人分来るシステムで、これは600円なのかもしれないね。いやでも、これ600円もかなりすごいぞ。(ちゃんと300円でした。)

とにかく、頭の理解が追いつきません。

食べてみます。
なにこれうまい!!
まず、揚げたて。
お肉は、ヒレみたいにやわらかい。しかも、脂の位置が端っこに寄ってるので、わたし的にはとても食べやすく、うれしかったです。

うーん、300円で、揚げたてでお肉もよくっておいしくって、カツ2枚で野菜もりもりってどういうことなんだろう。
もしかして、おやっさん明日でお店閉めちゃうから大サービスとかなのかな。もしくは、ご高齢でなんかいろいろ間違えてしまったとか。(違います。)

やっぱり、理解が追いつかないです。だ、大丈夫なのかな・・・。

次に、「牛肉のたたき」を頼んだら(もちろん300円)、150~180gの肉が出てきて、しかも作りたてとのこと。うまいのよ、ちゃんとうまいのよ。
で、まだ2人で3品しか食べてないのに、お腹いっぱいなのよ・・・。

ほか、気になるメニューとして、肉サラダ、海鮮サラダ、スパゲティ、などありましたが、もう食べられません。
300円メニューは数えたら全部で82品ありました。そのほかにも日替わりのおすすめが多数・・・っていうか、「なんでも言ってよ、作るから」と、店主さんが気軽にいろいろ作ってくださいます。今日の日替わりに載っていた、クリームシチューやさざえなんかも、気になったけれど、すごいことになりそうで断念。

Zbun20

店の内外に何枚か貼られている、謎のメッセージ。

いやー、全然知らなかったぞこんなにすごい店なのに!と思ってググると、その驚愕ぶりが伝わってくるレポートがいくつか。方南町という立地のためにあまり知られていないのでしょうか・・・。

どうやらカツカレーもあるらしい。ラーメンにはなにやらいろいろ入っているらしい。あの店主の感じからいって、この2品もどえらいことになると思います。ああ、早くもう一度行きたい!

コスパが良すぎると、「うれしい」「おどろき」を超えて、「心配」になるのだ、という経験をさせていただいた、超優良店でありました。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

夜の馬尿川

もしかしたら、こんな演歌のタイトルがあるかもしれない。

今回は新宿区に移動。馬尿川(ばにょうがわ)あるきです。※最初「馬屎川」と書いていましたが、「馬尿川」に改めました。
馬尿川は、結構人気が高そうで、リンクを貼らせていただいている方のなかでもすでに、

庵魚堂さん (本当に)失われた川
うさぎねこさん ここは新宿#1
味噌maxさん BUBKAとTシャツと私
谷戸ラブさん 馬尿川ちょこっと、と食事

が書かれています。けっこう、みどころがありそうな暗渠のよう。
・・・庵魚堂さんの記事によれば、「馬屎川(ばしがわ)」という名は間違いの可能性があるみたいですが、自分が見つけた、この川の名が書かれている文献は僅かに2つ。その2つともが「馬屎川」と記しているのでした。いろいろ比較して考えてみたいけれども、それはお預けとしましょう。
後日追記:その後、kokutetsu1987さんから「戸塚町誌」をお教えいただき、「馬尿川」「秣川」の記載を確認しました。「戸塚町誌」は、小字名としての秣川について”この辺り多く秣を刈取り置かれたるに起こる”と記しています。ところが、小字名として、同時に馬尿川も存在するのです。この2つの地域は同じ川に沿い、馬尿川のことは”秣川の名に因ぬるものであらう”とあります。正直、これだけではなんともわかりませんが、「馬尿川」がもっとも名前の雰囲気がいいのでw、「馬尿川」として書いていくことにします。
なお、以下に青文字で追記していくものは、すべてkokutetsu1987さんから頂いた情報です。たくさんの情報を、本当にありがとうございました。

地形図を見ているときも、早稲田~高田馬場間にちょっとした谷がいくつかあって、なかでも馬尿川は存在感があるので、「うぉぉ、行ってみてぇ!」となっていたのでした。

骨折が、完治はしていないけれど、松葉杖なしで歩けるようになったある日。

「ワタリガニのチゲがたべたい。」

そう思いました。ワタリガニのチゲが食べたいということは、大久保です。
大久保に行くということは、馬尿川です。
なので、セットで行くことにしました。

Basi1

ゲチゲ。ハレルヤの店内、予約でびっしり埋まっていました。ハレルヤに行くのは何年ぶりかわかりませんが、変ってなくてすごい。でも、大久保の街並みはどんどんどんどん変ってる(なんかものすごく活気づいてる)。

Basi2

ぐつぐつ。ひととおり具を食べたら、

Basi3

辛ラーメンの麺みたいのを入れて、卵と海苔を入れて、〆の麺。
これ、うまいのに・・・あまりうまそうに見えないのはなんでだろう。

Basi4

大久保通りを東に進みます。この近くにかつて友人の家があって、学生時代、新宿で終電を逃した時には何回もお世話になったもんです。なつかしいなあ。
それにしても、賑わっているなあ。

Basi5

その大久保通りから北に曲る道を入ると、川跡です。
といっても、水源についてはわかりません。東京府豊多摩郡淀橋町・大久保村の地図ではこの道の付け根から水路表示となっていたり、相給六箇村絵図ではもう少し下ったところから田んぼと川が始まったりしています。

後日追記:「戸塚町誌」にはこの川の水源について、”諏訪の森弁天池”と書かれています。諏訪の森というのは、もっと北の、現在の高田馬場一丁目あたりをさすはずなので、この上流部の水源については依然謎のまま。

Basi6

ぐんぐん下っているのがわかります。
湧水があったかもしれない。

Basi7

川沿いに、夫婦木神社という神社が出現します。縁結びのほか、よろず生産の大神なのだそうで・・・。小ぢんまりとした境内と近代的?な社務所が印象的でした。

Basi8

高所ドアも出現。
中には階段らしきものも見えて、これ、間違って開けちゃったりしないんですかね。。

Basi9

ふと、右側に路地があります。向こう側には並行するもう一本の道。どうも、その真ん中が一番低い気がするんですが・・・。
並行する2つの流れを記している地図もあるから、今来た道だけが馬尿川じゃないかもしれない。でももう一本はよくわからない。
相給六箇村絵図では、その二本の馬尿川をつなぐ流路がところどころにあるから、この道も、もしかしたら水路だったのかもしれない・・・

Basi11

路地を見つけるたびに入っては、こういったあやしい隙間をじろじろと見ます。

そのうちに、突然風景が変わって、

Basi12

視界がパッとひらけ、W大のキャンパスと戸山公園が現れます。暗渠らしさはまったく消え失せ、この区画は平坦で新しい道を歩くことになります。

このあたりは、かつて陸軍射撃場だった場所。
昭和初年までは三角山という山をめがけて射撃の練習をしていたのが、山を越えて飛んで行った弾で住民が危険な目に遭ったりしたので、昭和3年にかまぼこ型のトンネル式の射撃場が7本できたということです。
こう聞くととても物騒な感じがしますが、近所の子どもたちはしょっちゅう遊びに来ては、落ちている弾を拾って遊んでいたそうです。そんなふうに出入り自由だったようで、ほかにも子どもたちが”佃煮にするほど蜻蛉、蝉、蝗、バッタを捕えてきた”ことも描写されています。

今は、やや無機質な大学の建物と、つくりものっぽい公園があるのみです。
前出の友人はW大理工だったので、まさにこのキャンパスに部室があって、新宿で呑んだ後、夜中に柵を乗り越えて敷地に入って、遊んでたりしました。いや、その時よりも建物がずっときれいになってる気がする。ちょうど、トイレに行きたくなったので、建物の一つでトイレを拝借すると・・・、

Basi13

そこには学食が入っていました。うほー、このパスタプレートA、食べたーい!!

Basi14

で、また進んでいくと団地のようなものがあって、その先グワッと下ります!!なんだこの急傾斜・・・。それと、この諏訪通りという新しい通り、こんなのあったっけ?

Basi15

諏訪通りの先では、馬尿川はこんなステキな道になります。

良いうねり・・・

Basi16_2

空中から生えている木。
ラピュタ・・・

Basi17

暗渠にときどきみられる、妙に余っているスペース。

後日追記:わたしの記憶には残っていなかったのですが、この地点、水の流れる音が凄く、結構な落差で下水道幹線に左右から下水が合流しているところなのだそうです。
また、「戸塚町誌」には”諏訪の森下に釣魚場”があったことが記されていて、諏訪の森(諏訪神社の南あたり)下というと、ほぼこのあたりかもしれません(kokutetsu1987さんによると、この場所のやや東とのこと)。近場の人が気軽に釣りをたのしむような記述だったので、そんなに大きな釣り堀ではなかったかもしれません。

Basi18

むかしからある風の米屋さん。・・・水車はあったのでしょうか?(ないかも;)

後日追記:この、米屋さんの前の崖のコンクリの隙間からは以前は水がしみ出していて、近所のひとは「湧き水」と呼んだりもしたのだそうです。
それから、米屋さんには駄菓子も売っていて、子どもは暗渠に座り込んで駄菓子を食べていたりしたそうです。そんなに遠くないむかしの話です。
もうちょっと下流には、以前釣具屋さんがあったらしい・・・前述の釣り堀にも関係するでしょうか。

その奥に、他の方の記事で見かける率の高い風景が見え始めます・・・!

Basi19

これだ・・・。
なんだろう、この擁壁は・・・。
他に見たことのない形状です。厳かに並んでいます。

Basi20

その上にある集合住宅は、どうやら人が入ってはいないようでした。近いうちに失われてしまう風景なのでしょうか。

Basi21

その先、諏訪公園の横を、ちょっと角度をつけて、バシャバシャバシャ!っと下ります。

Basi22

早稲田通りを横切り、続きの道に入ると、もっとすごい傾斜となり、曲がりくねって流れます。

Basi23

そして、材木店の脇、戸田平橋のやや下流で神田川に合流するようでした。
といっても、古地図ではもう少し手前で左にくねってもう少し上流で合流するようなので、付け替えられたのでしょうか。

Basi24

暗くてちゃんと写ってくれなかったけど、これが合流口。
大きいです。けっこう、立派な川だったのかもしれません。

さて、ゴールしたので、どこかで疲れを癒して帰るとしましょう。

Basi25

馬場の駅前に、気になっていた串カツ屋さんがあるので、行ってみたのですが、肝心の串カツはちょっといまひとつで・・・。だけど、良いもんがありました。クエン酸サワー!!酸っぱくて、うまーい!! クエン酸サワーで疲れを流し、家路につきましたとさ。

馬尿川に、高田馬場、韓国料理に、クエン酸サワー。なんだか、元気が出そうな、復帰戦でありました。

<参考文献>
「新宿区地図集-地図で見る新宿区の移り変わり-」新宿区教育委員会
「新宿区立戸塚第3小学校周辺の歴史」
「わがまち大久保」
「戸塚町誌」

| | コメント (4) | トラックバック (0)

ふとみれば花街、谷端川境井田支流(仮)

ラムネ工場が川のほとりによくあるので、追っていた時期がありました(いや、今も追っているんですが)
花街も、同様。
そして、池袋には、三業地(=花街)と清涼飲料の会社が近接して在る場所があることを知り、ある日いそいそと行ってきたのでした。

ブログが書けない時期もあり、しばらく時間がたち、さてそろそろ記事化しようかと、地図を片手に写真を整理しはじめた、そのとき。
三業地のすぐそばに、もう暗渠としか思えない細い道が通っている・・・!!マイ地図にはこの道が載っていないので、現地では完全に見落としていました。そして、地形図を見てみると、きれいな谷戸がそこにあるではありませんか。
・・・これは、再訪して記事を練り直さなければ。

念のためストリートビューで確認すると、その暗渠の目と鼻の先で道路新設中のようで、街は至るところ歯抜け状態。もしかして、あの暗渠ももうぜんぶ道路に吸収されちゃったかな?ああ、もっと早く気付けばよかったな。少しだけでも、残っているかな・・・?
そんな気持ちで、本日さんぽに行ってまいりました。

Sakamap

さて、その場所とは・・・、水色の丸に囲まれた川跡です。「山手線」と書かれた場所が池袋駅です。住所は、池袋3丁目あたり。(グーグルアースと東京地形図より。lotusさん感謝!)

Sak1

池袋を西口から出て、劇場通りを北上します。初訪時は、池袋三業通りから折れましたが、今回はその手前で曲がります。

池袋の街って、ひどく造成された感と、とにかく人が多い感があって、普段はあまり近寄りません。ところが、今回のさんぽで、あらたな側面を見ることができました。たとえば、

Sak2

こんな風景や、

Sak3

こんな風景や(上に乗っているのはどういう状態なんだろう?)、

Sak4

こんな風景(鉄製だけど物干し?壁をぶち抜くほど重要なものだったはずなのに、ほっとかれてる感満載なのは何故?)。
・・・愛らしい。

さて、暗渠に近寄っていくとしましょう。新しくできつつある道路は、これです。

Sak5

嗚呼・・・、こんなに工事が進んでいるなら、今日見たいものは、もう原形をとどめていないかもしれない・・・と、思いもしたのですが、

Sak6

すぐそばにこんなふうにベコっと低くなっている場所があって、

Sak7

そこには川跡が待っていました!!
地形としてはこの手前側にゆるやかな谷頭のようなものがあり、そこに池でもあったかのような風情がありました。・・・ただ、水源については文献がひとつも見当たりません。後述しますがこの川自体、川として地図に姿を見せるのはただ一度のみです。
冒頭の段彩図のようにきれいな谷があるにもかかわらず、直接的な文献がほとんどなく、とてもマボロシ度の高い暗渠だと思います。

さあ、探検スタート!

Sak8

ずいぶんと大きいマンホールがはめ込まれています。辛うじて蓋が開けられるくらいに路肩が削られています。

Sak9

しかし・・・、ここ、狭い!!狭くて、たのしい!!
思わずしゃがんで、猫目線。

Sak10

ゆるくカーブしたりします。
ちょろちょろと、さらさらと、名もなき川がここに流れていたはずです。

Sak11

こんどは、路肩を削らずにマンホールがぎりっぎり!ぎりっぎり開けられます。しかし、以降、「これ絶対開けられないじゃん」というマンホールが続出します(分量の都合で割愛)。

暗渠上流部の探索中ですが、ワンブロックきたので、三業通りへ話を変えたいと思います。(今回、暗渠←→三業通りと話を切り替えるので、どうかおつきあいくださいませ。)
今来た道の少しだけ東に三業通りが並走しています。その入り口に、大きな染物屋さんがあったので、初訪時はこの道に川があったのではないかと(谷地形ではないんだけれども。むしろ願望で。)思ったほどでした。
いえ、染物屋さん以上の暗渠サインとして、わたしをこの地にいざなった主役は、この方でした。

Sak12

紅矢食品工業株式会社。酒を割る系の飲料をつくっている会社のようです。それ以上、わからなかったのです・・・これまで、ラムネ工場を追うときは、清涼飲料の組合(多くが地ラムネ工場)からリンクをたどっていけばだいたいなんとかなったのですが、この会社はネット上に情報がほとんどありません。しかし、本記事ではラムネ工場とほぼ同じものとみなしたいと思います。

Sak13

そして、このラムネ工場さんが面しているのが、池袋三業通り。飲み屋さんがい~っぱい見えます。昼間なので、ほとんど開いていませんが。夜はどんな感じなんだろうな~?
ただ、三業通りというわりに、料亭などがあまり見当たりません。

Sak14

ブッww
朝から歌えて飲めることを強調する飲食店ww(ただし2回とも開いてませんでした。)
でも、こういう店が池袋の西口に降り立った時から、目につくのなんの。「24時間営業」「夜を待たずに飲める」といった文句がしばしば見られる街、池袋・・・魅力的です。ふらぁっと、そっちに寄りたくなってしまいますw

Sak15

あぶないあぶない、そろそろ暗渠に戻りましょう。
工事のため歯抜けになっている場所に、辛うじて残っている駐車場と、辛うじて少しだけ残っている、壁。その横をすぅ~っと掠めていく川跡。

Sak16

ああ、すごい。なんてすごいんだろう。工事に負けずに、暗渠がしっかりと残っている。
右岸には大谷石の護岸のようなものまで残っている。なんといとおしい・・・。

・・・数年後か、来年か、わからないけれど、そのうちここには新しい道路ができて、ぴかぴかのアスファルトになるのだろうけど、もしかしたら川のところだけでも残っているのかもしれないのかな・・・?

Sak17

あれ、ペットを入れる籠のようなものが。(ロープに焦点合っちゃってますね;)

Sak18

あれ、誰かんちの布団が・・・。誰だ、ここ私物化してるのww
あたらしい道路を待つこの一帯は、結構長いこと放置されているのか、歯抜けのフェンスの中で草がぼうぼうと伸び、そこで鳩が自由に餌を食べていたりして、少しばかりノンビリした感じがしました。

・・・再び三業通りの方に話を戻しましょう。
「豊島区史」によれば、大正から昭和初期にかけて、池袋駅の東側に数十軒できた待合兼小料理屋は、やがて大塚三業地に吸収されたそうです。けれど、残る大部分は地元の反対もあり、西側の、現在の三業通りへと移転し、二業地の許可を受け、やがて三業地になったそうです。

Sak19

見番があったといわれるブロック近くには、料亭らしき店が何軒もありました。
三業通りに面しているお店は気軽な飲み屋さんが多いのですが、一本西側の裏(つまり暗渠側)にまわると、とたんにしっとりとしたお店がぽつぽつとあるのでした。

Sak20

かつて、そうだったであろう場所。

Sak21

今も、そうであろう場所。(このお店は”優良店”と書いてありましたが店の名前がわかりませんでした。いったい、どんな人がどんな風に使うのだろう?)

「東京花街・粋な街」によれば、現在池袋三業地で営業を続けている店は2軒だけとのことですが、歩き回っていると、もっと多くの名残を見つけられます。

それにしても、この付近はあまり”昼間に飯を食らう店”がありません。あれこれ練り歩いて、一軒だけ開いていたので初訪問時に入ったのが”山源”。

Sak22

焼魚定食、750円でござい。
アジの塩焼き、ごはん、お味噌汁、漬物。小鉢が凄い・・・マグロとホタテの刺身、かぼちゃの煮物、冷奴。ええ、刺身が小鉢!うれしいなー、これ!
おいしいし、良かったのですが、このとき自分が座っていたのがカウンター。狭い店内の真後ろに、野球のユニフォーム着たおじさん数人と、その奥さんと子どもと、おじいちゃんおばあちゃんの数家族の団体(しかも常連)客がいて、なんというか、ここ居てイインデスカわたし・・・という気持ちで食べてました。いや、旨かったのよ?

Sak23

暗渠に戻りましょう。図書館の脇を過ぎると、またさらに狭くなっているように感じます。

Sak24

思わず、また猫目線です。
家のつっかえ棒(新)が気になります。

Sak25

家のつっかえ(旧)。・・・もしかしてかつては川がもっと幅広くて、家がせり出していたりしたんでしょうか?

Sak26

道路を挟むと、そこには積まれた木材と暗渠猫が。
てっきり材木屋さんだと思っていたら、これは栄湯というお風呂屋さんだったんですね。マイ地図に載っていない銭湯だったので、やや面くらいました。四角くて茶色いえんとつがにょっきり!

Sak27

栄湯のさき、右岸の高台(軽めの)には、御嶽神社がありました。その境内に入ってみると、遊具スペースがあって、キリンがこわい・・・その後ろに控えるロバ2匹も、のっし、のっしとこっちに無表情で近づいてきそうでこわいw

Sak28

御嶽北公園のゾウもこわすぎるwww

Sak29

三業通りの床屋さんでは鳩が飼われていて、これはかわいいです。

Sak30

さあて、暗渠はそろそろ河口が近いです。ラストの直線。
実はこの付近、左右に牧場にありました。この場所から1ブロックほど手前の左岸に鈴木牧場が、この場所のほぼ右手に和田牧場があったみたいです(「ミルク色の残像」より)。

豊島区はかなり牧場の多かった地区ですが、そのなかでもこの近辺ではこの2軒のみで、それが両方ともこの川沿いでした(井戸により水を賄う牧場もあったということなので、すべてが川沿いではないはずだけれど)。少なくともこの2軒は、この川の水を牧場の運営に使用していたことでしょう。

Sak31_2

ずっとアスファルトの地面だったのに、最後になって初めて、蓋がけの痕跡のようなものに出会いました。

Sak32

いよいよ谷端川に合流します。
最後・・・、ん?

Sak33

なんかちょっと橋っぽいものが?
そして、その手前にちょっとした穴が。この穴から中が見えないかと思ったけれど、見えませんでした;

Sak34

谷端川緑道にいた猫と遊んで、そして、駅へと戻ります。

あたらしく出来る道路には、下水道も新設するようでした。
ヒューム管やら、合流部の桝っぽいものやら。
すぐ横にも、あんなにすてきな下水道が通っているのにな、なんて思いながらも、下水道の部品にはちょっと見惚れます。

Sak35

帰りに豊島区立郷土資料館で買った、「歴史をたずねて 豊島区の文化財」の池袋村を拝借。書き込んだ水色の線が、今回の流路です。
河口部分がかつての地名を「境井田」、流路に対して左側が「大上」、右側が「下上」、そのあたりの字が「上」といいます。下上ってどうなんだ・・・。こうくると、ここは「境井田支流(仮)」としかつけようがない気がします。
流れ込む谷端川の少しだけ東に、クィッと曲った支流のようなものがあって気になりますが、おそらくはこれも境井田支流(仮)の下流部です。境井田支流(仮)が水路として描かれている唯一の地図、明治初期の古地図では、流末は二股となっていて、その片方がこのカギ状の流れに相当するようでした。

江戸時代の池袋村の絵図(「豊島郡の村絵図」より)を見ると、御嶽神社が描いてあり、境内の西にある道に橋が架けられています。位置的には境井田支流(仮)のための橋と考えてもいいかと思います。この小川が、どんな風に人々と関わっていたかはよくわかりませんでしたが、昔からある自然河川なのでしょう。牧場、銭湯、花街、ラムネ工場、染物屋と、暗渠沿いで自分が好きなものをほとんど含んでおり、そして非常に狭いという、私的にはすばらしい暗渠でした。
・・・今回は、上流から下流に話をもっていきつつ、東の三業通りの話を挟む形式にしましたが、実際にさんぽをする場合は、暗渠を下って、三業通りを通って戻ってくるとたのしいと思います。

帰ってきたからわかったことは、ここ、去年猫またぎさんが記事にされているということと、ふろっぐねすとさんにも載っていたらしいこと。猫またぎさんが撮っていた写真と、自分が使おうと思っていた写真が面白いくらいに被っていました。なので、被りが少ないように編集しなおしましたw
偶然にも同じ、境井田支流(仮)と名付けられていました。

さて。再訪時にももちろんご飯は食べています。池袋、西口と言えば中華街w
以前タモリ倶楽部で見た、知音中国食品の、スーパーマーケットの傍らにあるイートインコーナーで中華でもしゃれこむか、と思ったら閉店していました。
なので、わりと近くにあった知音食堂でランチ&酒。

Sak36

麻婆レンコン。うまい。

Sak37

担担麺、これがまた独特。
ゴマ要因を「ピーナツ」がひとりで担い、辛要因を山椒よりも唐辛子がほとんどを担い。けっこう辛いんです。麺は家系みたいな太めの麺。ニンニク、しょうが、ニラなどが効いてとても良い匂いとうま味があるので、辛いんだけど、食べちゃう。そんな麺でした。

最後に、中華食材店があったので、花巻や冷凍春巻を買って帰りました。
ラムネ工場を追って始まったこの旅は、たくさんのお土産をくれて、池袋が大好きになるすばらしい旅でありました。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

桃園川支流を歩く その43 天沼弁天池支流(仮)の上流 &イベント告知

【暗渠イベントのお知らせ】
まずはイベント告知のお手伝いをさせていただきます。3月に、『暗渠散歩会@和泉川 ~ 初心者参加大歓迎!』という企画が予定されています!詳細は、以下。ちゃらぽこさんのページからコピペしちゃいます~。

-------------------------

3月20日(火・祝日)

和泉川の川跡をたどる 「暗渠」散歩会
時間:10時30分~17時ごろ

集合:都営地下鉄大江戸線・西新宿五丁目駅
参加費:1000円(昼食代・交通費別途)

暗渠散歩家・味噌Maxさんはじめ、暗渠方面の皆さまのプロデュースで、西新宿から代田橋駅付近を流れる神田川の支流・和泉川の川跡を歩きます。

現在は普通の道になっている、和泉川。かつては川が流れていた痕跡をたどり、街の歴史に思いを馳せながら、ランドスケープ散歩を楽しみましょう!!

-------------------------

参加表明はTwitterやmixi(ちゃらぽこコミュニティ)などで行われています。どちらもやっていないという方は、ちゃらぽこさんのブログ(メール、電話、直接来店などでもOK)や味噌maxさんのブログのコメントでもいいみたいです。

突然ですが、うめわかさん!ここ、もし見ていらっしゃって、そしてご都合が合うようでしたら、ぜひぜひどうぞ~~(参加表明、ここにされてもいいですしw)。暗渠のひとも、暗渠でないひとも、いろんな方が来られるみたいです。ぜひお気軽に!

-----------------------

さてさて記事のほうは、うふふの桃園川です。

なんともご無沙汰していました、桃園川支流編。
今回は、水源の向こう側にあるちょっとふしぎな支流です。

記憶をたどると、たしか翠月庵さんのサイトでこの支流の存在を知った気がします。
その名は、天沼弁天池支流(仮)。厳密にいうとその上部?
天沼弁天池より下流側の暗渠は見つかりやすいし、何度も歩いているのですが、この上流側にはあるとはあまり想像できないでいました。

Benten1

天沼の弁天池へまず行きます。天沼弁天池公園
いま、ここにある郷土博物館分館でおもしろそうな展示をやっています。「荻窪今むかし 荻窪の古老・矢嶋又次が遺した記憶画」というもので、題名だけ見てもピンとこないかもしれませんが、この記憶画自体は杉並の暗渠をさがしていると、文献で何度も見かけるものです。
まだ見たことのない記憶画があるかもしれない。川が描かれたものはきっと複数あるでしょう。生憎ここに行ったのは展示前だったので、そのうち見に行きたいです。

Benten2

むかしは、この写真の場所も一面の池だったといいます。

今回は、弁天池よりもさらに北へと向かいます。

Benten3

1ブロック裏に回ります。

たしかにあそこ、少しだけ低いかも。右側に入り込む道が見えて、そこが低くなってるように見えます。

Benten4

その道に入ると、いきなり車止めが出現します。

蓋などはない、ただの道路ですが、暗渠のようです。
なにものなのか、よくわからない水路。桃園川なのにまだ行ってない支流。ワクワクします。

Benten5

もうひとつ車止めが出現します。
そして、その左側にとても違和感。

Benten6

橋跡のように見えます。

ここに橋跡があるのだとしたら、この位置を水が流れていたことになりますね。

Benten7

これは少し進んで、振り返った図。

残念なことに、さっきの橋跡で痕跡が消えてしまいます。
橋跡から察するに、手前の家が建っている敷地あたりを通りながら、もう少し上流があったのではないでしょうか。

Benten8

もう少し道なりに行くと、天沼西公園が出現しました。
公園というだけでも過去に池や湿地があった可能性がある気がしてしまいますが・・・、公園の向うに見えるのは東京衛生病院です。この公園と衛生病院の敷地、住宅地図で見るとほぼ一体に見えるくらいの位置関係です。

しめた。マイ地図には衛生病院のところに湧水印がついています。「杉並の川と橋」では、桃園川の水源のひとつに「衛生病院」と書かれているから、以前つけていた印です。衛生病院に池があって、それがこの公園を通り、さっきの水路になっているとしたら・・・なんて、妄想ふくらみます。

けれど、帰って確認してみると、「杉並の川と橋」の本文には衛生病院に池があったなんてことは書かれてはいませんでした。腑に落ちなくて、出所とされている「荻窪風土記」を見てみると・・・正確には以下のような表現です。

教会のカラタチの生垣の入口で落ち合って、天沼八幡様の鳥居の脇にある弁天池のまわりを歩きまわった。一筋のきれいな水の用水川が流れ、それとは別に、どこからともなく湧き出る水で瓢箪池が出来ていた。こういう湧水池は、武蔵野のこの辺には至るところにあるのだと青木が言った。

弁天池と、その近くに瓢箪池があるような表現です。
教会というのは、衛生病院のそばにある教会のことですが、この文章では待ち合わせに使われたに過ぎないようにみえます。そして、この教会(および衛生病院)から、弁天池まではある程度距離があるので、この瓢箪池も、とても衛生病院にあるようには読めないのでした。

桃園川探検の先輩たちが、弁天池と瓢箪池を記入している地図を見せていただきましたが、いまの弁天池公園のあたりに2つ池があるような図でした。
そして、この衛生病院のほうにまで、水路は伸びていないのでした。

でも、この暗渠はここにある。・・・なぜ?

Benten9

とりあえず病院の敷地まで行ってみましょう。

病院のほうに回っていくときに通りかかった、宣伝の多い氷屋さん。

Benten10

衛生病院です。・・・ここ、天沼時代になんかの病気で一度お世話になったことがあります。が、そのころとぜんぜん違う!もっと古っぽくて狭い感じがしたのに、あたらしくて開放的になっている!

案の定、池はありません。うーん、ぶらぶら歩いているだけでは、池があったような地形も雰囲気も感じられません。

ちょっと似てるなあと思ったのが、善福寺池の、池よりも上流部にあった水路たち。あれは、千川上水からひっぱってきたもののようでした。
今回の水路も、そうなのか?可能性はあるとは思います。青梅街道を通ってきた千川上水の分水を、四面道のあたりで天沼本通に分水し、それを引っ張ってくることはできるはず。だけど、そんな記述はどこにもないし、すでに近くを通っている追分用水があるわけなので、ここで分水する根拠は弱いし、説得力は低めです。

衛生病院のあたりが湿地帯のようになっていて、そこから水路でもあったのか?とも考えます。根拠がなにもないので難しいけれど、この一帯は地下水堆があることで有名なので、ありえる話かなと思います。

・・・結局、この暗渠もなんだかわからないままでした。また、ちまちま調べておこうと思います。

暗渠自体があまりに短かったので、他に近隣のことをあれこれ書くとしましょう。

Benten11

道に沿って曲がりながら建つ家。
左側の壁が曲線ぽいのです。

Benten12

奥まったところにある、さとうコロッケ店。
コロッケと、メンチと、串カツを買いました。紙袋を鞄に突っ込むのがちょっと気になって、ビニール袋は貰えないかとたずねたところ、「せっかくカラッと揚げたのをダメにしないようにその紙に入れてあるから。その紙は油しみないから大丈夫。」というコダワリをうかがえたので、紙袋は鞄に突っ込んだのでした。すると、油はしみないけれど、猛烈なコロッケ臭が紙から発せられ、、マイ地図からはしばらくコロッケ臭がすることとなりました。
コロッケ、うまし。

Benten13

炒飯の万博。
くりぃ~む煮炒飯。肉ニラあんかけ炒飯。たか菜、めん太、じゃ子炒飯。いろいろあります。万博ですからね。
でも、万博炒飯っていうのはアリなのか?炒飯の万博の、万博炒飯・・・

ご飯は、ここではなくて、結構前からある喫茶店で食べることにしてました。

Benten14_2

ことぶき通りのクレエルで、ナポリタン。
クレエル、横を通るだけだと、中には煙草を吸うおじさんがぽつぽつ座って黙々とコーヒーを飲んでいる店、というイメージだったんですが、全然違いましたw
さわやかで明るい雰囲気で、かつ昭和っぽい感じがして、店内は女性客が多かったです。てづくりのナポリタンでした。

このことぶき通りは、かつて近くにあった銭湯「寿湯」からついた名です。
寿湯は、なんと杉並で最初にできた銭湯だったみたいです。いまはもうないけれど・・・ことぶき通りも短いながら味があってすてきな商店街ですよ(だいぶ昔よりも変わっちゃったけれど)。

・・・今回の暗渠、水源が積み残しとなってしまいました。桃園川、まだまだわからないことがいっぱいです。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »