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2012年2月

桃園川銭湯巡礼 その1 藤乃湯とやきや

蓋コレクションに追加するのを忘れていた蓋が19枚あったので、さらに追加しました。→蓋コレクション館

どうやら撮影順に並ぶようなので、新しく追加したものが下の方にある場合もあります。今回追加したものは、日野、益子、松本、大田区、川崎あたりの蓋たちです。また、写真をクリックすると場所や蓋の説明(?)が出てくるので、ぜひ1蓋1蓋ご覧いただければと思います。

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さてさて。

待望(←自分にとって)の新シリーズの開始でございます。
その名も、桃園川銭湯巡礼
桃園川沿いを本流支流と歩きつつ、かつて川べりにあった廃銭湯、そしていまも活躍している銭湯をひとつひとつ楽しんでゆく。に、とどまらず、「風呂あがりに一杯」を楽しめるお店も、あわせてご紹介しようってな企画です。

ちょうど、この企画を思いつき、第一弾を実行しようとしていたまさにその日(タオルと風呂グッズを持参して出勤)。友人がわたしに「好きそうだと思って。」と、贈ってくれたのが”昼のセント酒(久住昌之著)”。それが、ちょうど手元に届いたのです。そのような本が出版されていたとはつゆ知らず・・・いやいやいや、好きなの好きじゃないのって、まさに今晩、タオル持って銭湯行って一杯ひっかけようとしてるから!うおー!!なにこのシンクロニシティ!!

と、かなり興奮しまくったんですが、生憎その日は猛烈に寒い冬日となってしまったのでした。だからね、初回は銭湯、入ってないんです・・・呑んだだけ。

ゴホンゴホン・・・でも記事は決行します。まずは、桃園川本流を上流から河口まで行ってみたいと思います。
となると、降り立つは荻窪の駅。

桃園川を、千川上水の分水の分流地点からたどります。
教会通りとの交差を経てまもなく。

かつて、この水路沿いに「蔦の湯」という銭湯があったと言われます。

Fuji1

このタイル張りの道が追分用水ともいわれる桃園川の最上流部のひとつにあたる暗渠みちで、道路右側に蔦の湯がありました。

Fuji2

下流側から見ます(今度は左側が跡地)。銭湯跡っぽさがあまりわからない場所です。残念。
これが、桃園川の最上流部にある銭湯跡となるわけです。

蔦の湯は、井伏鱒二が利用していたといい、没後まもなく廃業してしまったとも聞きます。じっさい、荻窪風土記には、蔦の湯に朝湯に行くという描写が出てきます。
写真右手の一角に、昭和の風情が少しだけ残っていました。荻窪の裏道(暗渠でもないところ)を歩いていると、ときどきそういう場所があります。

つぎ、桃園川をゆるゆる下り、藤乃湯をめざします。
今度は、現役銭湯です。お、煙突がみえてきましたよ。

Fuji3

・・・って、あれ?こんなカタチしてたっけ?違和感ありまくり。

過去の記事を見返してみたら、2009年には煙突はまだこんな感じ。最近あたらしくしたみたいですね。なんだか、ロケットみたい。

Fuji4

表に回れば、以前と変わらぬ姿がそこにありました。

・・・閉まってます。ええ、昼に来たんで閉まってますね。
ええ、夜には行ってないんで中の様子は報告できません(涙)。後日行ったらここに書き足します!

ちなみに今回初めて気づいたんですが、藤乃湯にはお客様用駐車場のスペースもありました。秀の湯で初めてそういうのを見て、随分笑ったのですが。なんだ、頻繁に通っていた道にも同じようなのがあったのか・・・。

Fuji5

もう少し下流の銭湯跡まで見に行きましょう。
支流も元気かなっとパトロールして。結構好きな、天沼二丁目支流です。はい、二丁目さん、お変わりありませんね~。
撫でさせてくれるうえ、ゴロンゴロンしてくれる人懐こい暗渠猫も居ました。ね、こっち向いてる。・・・そんで、もう一匹ソックリなコ写真の右手でちっちゃくこっち向いてるw

Fuji6

このあたりに、かつて「庚申湯」という銭湯があったと言われます。以前地元の方からコメントをいただき、跡地が魚屋さん(写真右)の向かい(写真手前側)であると教えていただきました。このときいただいたコメント、いま見返してもワクワク。
庚申湯は、杉並区の銭湯組合の記録には載っていますが、30年前のゼンリンには載っていません。探してみると、天沼熊野神社社報に庚申湯の煙突が写っている写真が載っていました。天沼には建物がまだまばらで、銭湯の排水が桃園川になみなみと流れていたであろう風景。なんと、昭和8年の写真です。蔦の湯よりももっと前になくなってしまったようです。

この跡地のすぐ南(写真手前側)に、庚申塔があります。ただしこの庚申塔は、もう少し南にあったものを移動したらしいのですが、でもきっとこの庚申湯の名の由来なんだと思います。

さあ、これで廃銭湯と銭湯あるきは終わり。

Fuji7

風呂は入っていないんだけれども、飲み屋に行こう。今回行こうとしているお店は、「やきや」。
なかなかよさげな立ち飲み屋さんです。といっても、わたしは「立って飲むと早く酔ってしまう」という思い込みがあって、立ち飲み屋さんには普段ほとんど行きません。雰囲気は大好きなのですが。

したがって、天沼に住んでいた時代、やきやの看板はほぼ毎日のように見ていたんですが、素敵だなーと思いつつも、素通りしていたのでした。

その看板が指していた店の場所がここらへんのはず。青梅街道と線路の間にあるあの空間。あれー、なんか空き地がとても増えている。その空き地から見える、この風景。

Fuji8

店は見つかりません。
ないぞないぞ、と言いながらも、このあらわになった建物をバシャバシャ。

よくわかっていないけど、ここも再開発されてしまうのでしょうか?駅前にあった頃のとても良い感じの鳥もと。移転した鳥もとに、ようやく慣れてきたのに。2度も追われてしまうなんてことは、あってほしくないなぁ。

Fuji9

えっと、探しているのは「やきや」でした。駅前をウロウロ。
あ、井戸です。以前、満洲会をやったとき、みつけてはしゃいだ駅前の井戸。

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ウロウロしまくっていたら、また井戸を見つけました!

いやー、全然気付かなかったなあ今まで。なんて思ってたけど、良く見るとこれとても新しいですね。防災用に新たに掘ったのかな?

Fuji11

おおお、もういっこありました!

この井戸もなんか新しいですね。それにしても、こんな狭いエリアに3つも。しかも実に堂々と井戸があります。うれしくなります。
新しいものだとしても、この界隈の雰囲気にちゃんと合っていて、ずっとそこに居たかのよう。

・・・で、「やきや」が南口に移転していたことが判明しました。北口のこの場所にあることで、なんとか藤乃湯帰りに一杯が成立すると思うんですが、南口に行ったら湯ざめするんじゃないかなぁ・・・ま、いっか。今日は風呂入ってないからw

Fuji12

いざ、やきやです。
どう見ても「パブ ヴァニラ」に負けてます。

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新しい看板に店内。でも、暗くて狭くて良い感じ~~。

なんと、ここ、イカ料理専門なのです。それだけでも嬉しいのに、値段がすごい。そのほとんどが170円なんです(号泣)。
これ、ゲソ焼きに、イカさし。おいしいです。熱燗呑みます。マヨネーズつけて、七味振ります。なにこれ幸せすぎる!
入口寄りのカウンターでやってましたが、奥にはとっくに幸せになってる真っ赤な人たちがいっぱいおりました。混んでます。

Fuji14

とくに、このイカのみみが美味かった!ヅケにしてあったのが焼かれて、えもいわれぬ旨さ~~!おやじ、酒おかわり~~!

ほか、売りきれちゃってたけど、イカ大根だって食べたかったし、ゲソ揚げだって美味いに違いないよ。珍味系は苦手なわたしですが、わたあえとか塩辛とかも人気なんでしょうな。・・・すごいコスパです。なぜ、毎日素通りしていたのか、天沼時代のわたしの馬鹿。すごい満足感で店を出ました。

Fuji15

なお、藤乃湯のとなりにも、ごらんのとおり飲み屋さんがあります。
ひとっぷろあびたら、此処でいっぺえ、でも、いいかもしれませんね。

Yakiya

今回の行程はこちら。水色の点線が桃園川です。
あえて桃園川沿いの銭湯しかご紹介していませんが、もっと駅前に、かつて寿湯という銭湯もありました。一応書いとくと、現役でやきやに一番近いお風呂屋さんは湯~とぴあ荻窪です。銭湯料金ではないけれど、湯~とぴあも露天風呂で中央線の音がいっぱい聞けるので、そういう意味では好きだったりします。

次回は、本流下りの続きなので、阿佐ヶ谷周辺を予定しています。おたのしみに~。

・・・しかし、シリーズ開始一回目にして、銭湯特集なのに銭湯に入っていないというこのグダグダ感。・・・だって寒いんだもん!

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西荻窪ひみつ暗渠 善福寺川城山下支流(仮)

べつに、ひみつでもないんだけれど。
西荻窪には何本か暗渠があるのですが、それらに関する文献がとても少ないのです。
だから、ひみつめいてる暗渠ってことにしちゃいます。

松庵川はファンが多くて、行ってるひとも多いみたいだけれど、それでも関連文献は1~2個しかない、というありさま。今日とりあげる暗渠はもっと少なくて、いまのところ「杉並史跡散歩地図」で暗渠マークがついていただけで、ほかにはまだ文献が見つかってないものです。

西荻窪の駅、北口から出て、暗渠の先っちょへと向かいます。
その途中、まずはここ、銭湯跡地です。北口から線路沿いに、東へ進んだところ。

Siro1

むかしこの場所には、「第二喜志の湯」という銭湯があったらしいです。
銭湯跡地って、きれいさっぱりとマンションになることが多いイメージ(だいたい3階建ての)なんですが、ここは建物が残ってます!
いまは楽音という音楽スタジオになっているのですが、中身だけ入れ替えたみたいで、もう明らかに銭湯。ビルにはめ込みのちょっと新しい類の銭湯。写真だと伝わりづらいかな?前まで行って、うろうろしてみると、だいぶ雰囲気がわかると思います。

Siro2

それから、ここは、高射砲陣地があったとされる場所。
この桃井第三小学校校庭に、かつて高射砲が設置されたといわれます。目的は、荻窪にある中島飛行機工場を守るためであり、他にも久我山、松ノ木、下井草の計4か所に設置されたといわれます(「杉並風土記」より)。
ところが、gooの昭和22年航空写真を見ても、他の4陣地は写りこんでいるのに、ここだけは確認できません。うーん、ほんとにここにあったのかなあ?

Nakase

・・・この写真は中瀬中学校にあったとされる高射砲陣地。横を井草川が通っています。

Siro3

高射砲陣地は、水辺が近く、高くなっている位置に作られる傾向があるように思います。たしかにこの場所は、川も近いし、高台になっているようです。・・・ま、よくわからなかったのでこれは宿題として。

そこから、北へ進むこと2~3ブロック。

Siro4

暗渠の始点が出現します。一見、家の庭みたいな感じですが、やはり庭に混ざりきれていない雰囲気があります。

Siro5

そこから、細いコンクリ蓋の連続です。

Siro6

この暗渠はとても直線的です。用水路なのでしょうか。

家の塀のとなりに、擬態しそこなったような木の塀。

Siro7

その先、アパートの玄関になっていて、さらに先がこれ。
ゴミ捨て場になっています。
こんな雰囲気だったら、いつもはこの車止めを飛び越えて奥まで行っちゃうんですが、このときは残念ながらまだ足を怪我中でした。回り込むのさえひと苦労だったので、奥までは行けませんでした。・・・うーん、そんな理由で行けなかったとは悔しい。

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先回りします。
すると、一時通行止めを言われてしまいました。

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奥には飛び出しかけたマンホールと、苔が見えます。クランクになっています。

Siro10

その下流。地面にはかつて車止めが入っていたであろう、穴が見えます。
もっともっと水路敷アピールがなされていたんでしょうね。

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その、使用済の車止めはなぜかこんなふうに立てかけられていました。・・・これ、あの穴にはめてみたいぃぃぃ・・・

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橋跡、および、まっすぐなコンクリ蓋暗渠が始まります。さあ、杉並の本領発揮。

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左側の壁のヨレヨレ感と、暗渠のまっつぐさの良いコントラスト。

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道路と交差するときには、だいぶ盛られるようです。いつのものなのか、新しめの土嚢。

Siro15

だんだんと深くなって良い感じの道になってきて。
お約束の暗渠猫が登場しました。このコ、暗渠沿いにすまして座っていたので呼んでみたら、みゃーみゃー鳴きながらこっちに一目散に来てくれるじゃないですか! さわり放題です。でも、わたしではなく、後ろに居た近所のおばさんのところに行きたかったみたいでした。。。哀

Siro16

ここらへんは新しめのアスファルトで盛られていて、車止めもきれいです。近年工事が入ったんでしょうねえ。

Siro17

でもなぜか、その盛りが薄くなっていって、またコンクリ蓋になります・・・なんでしょう、アスファルトが切れちゃったのでしょうか・・・北国育ちとしては、ここに雪が積もったら、ぜひともミニスキーで滑りたい。

Siro18

反対側からみるとこんな感じ。

Siro19

そのさき、カクッと曲がって、

Siro20

また道路と交差盛り。

階段とスロープから選べます。やさしいですね。

Siro21

さて、これがラストの直線。

Siro22

フィニッシュです。中田橋のあたりで善福寺川に注ぎます。

で、この暗渠はいったいなんなのか。
冒頭に書いたように、なんだかはわかりません。でも、形状は用水路っぽいです。

なにか手がかりを得ようと西荻図書館に寄ったら、その一帯がかつて「城山」と呼ばれていたことが分かりました(橋名になって残っています)。図書館前にある案内板には以下のように書いてあります。

城山とは、善福寺川によって形成された急崖な舌状台地上に位置し、現在の西荻北二丁目19・33番一帯を指します。城山と言う地名の由来について、荻窪八幡神社の由緒書によれば、「後冷泉天皇の永承6年(1051)に、源頼義が奥州下向の際、この付近に布陣し、康平5年(1062)凱旋した時、八幡神社を修め、部将を停めておいた場所で、後世この一帯が城山の名を有した」と記されています。
 明治中頃までの城山は、杉や松等の密生する雑木林でしかも篠笹が群生しており、人が分け入ることもできないほどであったと言われています。当時は、善福寺川も台地直下を流れており、川から引かれた水路が城山の下を通っていました。また、七ツ井戸と呼ばれた井戸は、城山の南側に一列に7ツ並んで掘られていたようで、何故か土地の人々からは近付くことも恐れられていました。
 この鬱蒼とした雑木林も、大正11年の西荻窪駅の開設、昭和2年の区画整理事業等の影響によって徐々に失われ、昭和30年代前半までは辛うじて残っていましたが、今ではその面影は全く消え失せ、住宅地や公共施設としての新しい姿を見せています。

とても気になるのが、城山の下を通っていたという”川から引かれた水路”。これが、そうなのでしょうか?たしかに、城山のすぐ南側を通過してはいます。が、始点がよくわからないので、善福寺川から取水しているのかどうかわかりません。
「杉並風土記」では、水車を動かすのに落差をつけるため、蛇行する川から城山の下を一直線にトンネルを掘って水路を作ったことが書かれています。つまりは水車堀ということですから、今回辿ったような長めのカクカクした流路は違うような気がします。
「武州多摩郡上荻久保風景変遷誌」によれば、善福寺川の堰から取水した水が、城山の底を通っていた、しかも七つ井戸の底をこの水路が通っていたといいます。ずいぶん深いところに流れる水路であることがうかがえ、やっぱり、今回のものとは違うような気もします。
ただし、善福寺川が蛇行していたときの流路と照らし合わせる必要もあるので、結論が出せません。

・・・詳細はわからないままです。
とりあえず、この暗渠だって城山の下を通っているわけなので、城山下支流(仮)と名付けてしまいましょう。
Siroyamap

ヤフーの地図を拝借します。だいたいこんな感じの流路です。
関根橋のところに堰があったといいますから、そこから南下する暗渠をみつけることができれば、城山下支流(仮)が上述の水路と一致するかもしれません。みつけられなければ、なにものかわからないまま・・・要再訪、ですね。

Siro23

城山のあたりにはこんな風な、ちょっとかわいい集合住宅もありました。

駅へと向かう帰り道、ふと、懐かしい感じのする道がありました。むかし西荻に住んでいたときに、たぶん図書館の帰りに通った道です。上京した最初の年だと思います。
歩いていたら、石焼き芋屋さんが向こうからやってきたので、焼き芋が食べたいなと思い、ひとつ買ったのでした。わたしのイメージする焼き芋は、中がほっくり黄金色で、そして1本100円くらいで、甘くてとってもおいしいやつなんですが(山形ではそういう焼き芋屋さんにしか出会わなかった気がする)、そのとき買った焼き芋はおっきいけど中はべしょっとしていて薄い黄色で、甘くもおいしくもなくて、なのに1000円近くしたんです。
これには海外旅行でぼったくられた時以上のショックを受けて、速攻で山形の友人に「東京の焼き芋はひどい」と愚痴ったことを覚えています。

・・・お腹がすいてきました。

Siro24

パパパパパインで仕上げます。西荻の南口のわりとすぐのところに、パイナップルラーメンのお店があると聞き、もう、ずっとそわそわしてました。
初訪問時にはたいてい、シンプルなラーメンを食べようとするわたくしですが、このときは塩ラーメンの全部乗せを意味する「塩ラーメン、いっぱいん」を頼んでしまいました。
完全に「いっぱいん」と言いたいだけです。

店は予想以上に混んでいて(並んでいて)、そして店主の方のパイン愛が予想以上にすごく(パインの置物多数、パイン柄の服、飲み物もパイン系)。
肝心のラーメンですが、実にふしぎでした。スープには多量のパイナップル果汁が入っていると聞きます。が、麺をすすると、実においしい塩ラーメンなんです!だけど、スープを飲んだり、具のパインを食べたりすると、「・・・ん?」ってなるんです。で、またスープに麺を絡ませて食べると、すごくおいしい!って思うし、チャーシューも玉子もおいしい。で、またパイン食べて「・・・ん?」。の、繰り返しなのです。ミルフィーユ。
うーーん、なんて面白い体験なんだ、これは。きっと病みつきになる人がいそうな、そんな西荻っぽい味がしました。

暗渠も食べ物も、奥が深い、西荻の街。もう一本のひみつ暗渠も、よくわからないまま記事にすることになりそうです。

 

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紙はこぶ、十条倉庫の汽車ポッポ

ご連絡 蓋コレクション館を久々に更新しました。地方の蓋を中心に、11蓋追加されておりますので、よろしければご覧ください。

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さてさて、期せずしてラーメン×暗渠の記事が2つ続きました(ほんとはあと2つあるんですが、置いといて)。今回は、久しぶりの”ゆるやか鉄”記事にしようと思います。
ちょうど、味噌maxさんとlotus62さんが王子・十条の左側をやっておられるので、わたくしは右側をば。

2011年の、5月のさんぽ。王子駅で降ります。
Kita2_2

何度か降りたことはある駅ですが、今回、ちいさな水路が線路をくぐっていることに気づきました。

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ちょろちょろと水が流れています。

Kita3_2

顔をあげると・・・、このときは、さくら新道もあったのでした。
王子駅のホームから見える、さくら新道のトタンの赤が、良い色だなと思って思わず写真に収めたのでした。

Kita4

ホームから北を眺めます。
JRの線路のとなりに、まるで合成写真のように、セピア色の線路が横たわっています。
これが、本日のテーマ、北王子線(日本製紙十條工場北王子専用線)です。

北王子線は、1927年に須賀線(後述)とともに開業しました。
もともとは「王子製紙株式会社十條工場」へとつながる専用線です。王子製紙の本社は東銀座で見かけましたが、最初は王子にあったわけですね、そっか、そりゃそうか。
今回はこれを、ゴールまで歩いてみたいと思います。

Kita6

では、駅から出て、北王子線に沿って歩き始めましょう。
上を新幹線が走っています。北王子線線路は一番コッチ側にあるので、横目で見ながら歩けます。

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あれ・・・、線路沿いに、なんだかへんな土地。

Kita8

線路がだいぶこっちに近づいてきます。
JRのほうは砂利がきれいに敷かれているのに、北王子線の線路には草がぼうぼうしてます。自分の鉄度合はそんなに高くないので、そもそも、この北王子線がいま現役なのかどうか、このときは知らずに歩いています。なんでここに来たかったかというと、マイ地図を眺めているときに、ここに引込線を見つけたから。ただそれだけでした・・・。

Kita9

歩道橋があったので上ります。
あ~、良い眺めじゃ~。
あ、そろそろ右に逸れていきそうですね。

Kita10

というわけで、一緒に右に曲がっていきます。
ふと、車止めに目が行きます。水路があったのか・・・?実は、ここに来たいと強く思った背景にあるのは、lotus氏の書いている新金貨物線の記事。この、新金貨物線を通して、わたしは「そうか、貨物線を歩けば、交差する水路跡がぼうぼうとした好い塩梅に残っているのが見られる!」と、一気に貨物熱が上がったのでした。
なので、線路と交差する水路がないか、期待して見てみるんですが・・・、ここはあんまり暗渠サインがないです。。

Kita11

おお、踏切。
この専用線、現役ではあるのだろうな。そんな雰囲気の踏切。

Kita12

凛とした線路。
草が生え、鉄は細くてよれよれに見えるけど、でも迷わず伸びてる。

Kita14

線路も見るけど、暗渠もね。こんなふうに違和感のある・・・水路っぽい土地があって、この延長線上にもあやしい場所がいくつかあって、暗渠かもなあ、などと思ったのですが、よくわからないままです。
しかもこれ、北王子線と交差しないし。そう、新金貨物線みたいに贅沢に水路と交差する線路じゃないのよ、ココは!(ちょっとがっかり。)

Kita15

ペコちゃんの飴を舐めます。・・・今回の記事に登場する食べ物はこの飴だけ。
この時期、わたしは胃を壊していて、一日中ろくにものを食べられないという状態にありました。いつもだったら、王子に来たならあれやこれや、ってなるんですが、もちろん酒なぞ呑めません。幸い体は動くので、歩くのですが・・・、そうそう、こんな時期も、あったよなあ。。

Kita16

あ、あの奥の建物は。
新幹線で帰省するとき、いつも見える建物。
窓からぼぉっと眺めていると、このカラフルな「木」がとてもよく目に留まって、そのたびに、なにかのホールとかかな、いや駐車場かな、などと、少しだけ想像するのでした。
結局、答えが出ないので、次に目に入ってくる川とか鉄塔とかに意識が行き、この建物がなんだかはわからないまま。そうやって、何年も。

そうか、ずっと気になってたあの建物が、今回のゴール地点なのか。

Kita17

ゴールに向かう前に、ちょっとだけ目を東に逸らしましょう。
かつては、北王子線の途中から、同じく貨物線の須賀線が分岐していたといわれます。須賀線は、大日本人造肥料(現・日産化学工業)へとつながる専用線でした。
いやぁ・・・大日本人造肥料ってなんかすごい響き。人造のあたりかな。

須賀線との分岐地点が、いまは公園になっていて、暗渠の公園みたいに違和感ありありな感じでそこにあるんです。その公園を分岐後の位置からみたのが上の写真です。

Kita18

須賀線は向こうに延びていきます。

「北区の鉄道遺産群」という鉄道総合技術研究所の方の講演を、北王子線めあてで聞きに行ったことがあるのですが、「ポニーワンレントラス」というちょっとすてきな言葉は覚えられたものの、北王子線の話はほっとんど出てこなかったのでした。むしろ須賀線のことが少し話されました。須賀線開業時に、「AB10形蓄電池機関車」を新製し用いたそうで、なぜなら須賀線沿いには周囲に火薬工場があったため、スパークすると危ないから。
この線路(今は見えないけれど、想像して)の先には、火薬工場があったんだな~。他にも須賀線が通るエリアには色々な工場があったので、いつか須賀線も歩いてみたいものです。

Kita19

北王子線に戻ります。

近づいてみると、建物の壁には白い鳥が舞っていました。
あれ、黒い鳥もいる。

Kita20

ここが到着地点のようです。
会社の門には「日本製紙物流株式会社」とありました。冒頭では王子製紙の専用線だと書きましたが、ややこしいことに現在この場所にあるのは日本製紙物流です。

印刷局に葉書用紙を補給するため明治43年に設立された王子製紙は、戦後の財閥解体に伴い3つに分割され、うちこの十條工場は十條製紙となり、のちに日本製紙となります。その日本製紙がこの工場跡を引き継いだため、現在ここにあるのは日本製紙系の会社になるようです。敷地はもっともっと広かったのですが、1943年に工場が閉鎖し、1976年に団地になったようです。

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外から、中をながめます。

後から知ったのですが、北王子線はこのとき、東日本大震災の影響で運転を休止していたのでした。ここで輸送しているものは、岩沼・石巻の工場で生産された紙なので・・・。

写真の、後ろに積まれている紙たちは、もしかすると震災前のものなのかもしれません。

Kita22

この、機関車たちも、いつまた動かしてもらえるのかわからないまま、じっと待っていたのかもしれません・・・。

ニュースを見たら、北王子線は2011年7月に一部運転を再開(現地の鉄道と工場の一部が操業を開始したため)したようです。朝1本のコンテナと昼に返却コンテナの1日1往復。通常は1日4往復ということなので、まだまだかもしれないけれど、でも再開はうれしい。
その後のニュースが出てこないので、いま北王子線がどのくらい復活しているかはわかりません。

Kita23

外側をぐるぐる歩いていると、ふとこんなのが。

「花咲けば 十条倉庫の 汽車ポッポ」

ふふふ。ほんわかしますねぇ~。

Kita25

ちなみに、時層地図をみたところ、この道をはじめ、周囲にはぐるりと水路があったらしいです。
それから、工場脇に大きな運河のようなものがあったようです。その運河、もともとは「神谷堀(甚兵衛堀)」という、江戸時代に排水を目的として掘られたものが、明治時代に製紙工場の新設に伴い拡張され、物資の搬出先にも利用されるようになった、というもの。
注: 神谷堀と甚兵衛堀は一緒にしてはいけないという記述もwebで見ましたが、ちょっと詳細が分かりません。

進んでいくと、巨大な団地。古地図を見ると、その団地のあたりから神谷堀が始まっていたようです。

Kitaouji

gooの昭和38年の航空写真を見てみると・・・、こんな風に、神谷堀ははじまって、隅田川につながっていたのでした。結構広いですね。

Kita27

今は埋められています。神谷堀の跡を隅田川まで行ってみると、跡地はこんなふうに駐輪場や公園などになっていました。神谷堀公園には、護岸が残っているそうです。
北王子線に交差してくる水路がなかったのは残念だけれど、むかしは北王子線のゴールから、またつながっている水路があった。そこには、東北で作られた紙が運ばれてきてた・・・つながる、つながる。

結構前のさんぽ記録ですが、なんだか、さまざまな思いが去来する記事でありました。   

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田圃の中におけるとんこつラーメンの食し方

今回は、桃園川沿いのちょっとした、ちょっとしたお話。

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東高円寺と中野の間に、田中稲荷という神社があります。
見逃しそうなほどに小さく、ひっそりとした空間ですが、中に入り案内板を見ると、ここが「受持神」を祭神とした旧高円寺村の農家の守り神であることが書かれています。
農家の守り神。きっと重要な場所だったのでしょう。以前は初午の日に家々で赤飯を炊いておむすびをつくり、神前に備えて豊作を祈願していたそうで、案内板によれば今も稲荷講がつづいているようです。一時期近所に住んでいましたが、恥ずかしながら知りませんでした。

また、桃園川沿いに広がっていた水田の中にあったことから「田中稲荷」という名であることも書かれています。

田んぼの中にあるから田中。だなんて、わかりやすすぎるようでいて、実はあんまりわかっていなかったこと。最初にこの田中稲荷の由来を知った時には、「ほう!!それで田中!?しかも、桃園川沿い!」と、ずいぶん興奮したものです。
明治あたりの古地図を見ると、たしかに田んぼの中にお社マークが書いてあります。そして、今自分がいるこの足元にも、田んぼが広がっていた。つまり桃園川の水がここまできていた・・・そう想像するのもまた、嬉しかったものです。

・・・ここら辺までは、すぎなみ学倶楽部をはじめあちこちに書いてあることだし、ちょっとイイ話、として心に留めておくだけだったかもしれません。
が。ある日、たまたま通りかかったら(ってこの道はしょっちゅう通っていた道だったのですが)、・・・田中稲荷の、脇の塀から何かが飛び出している。

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2本、ちょこんとはみ出ている。四角い石のようなものが。

目をまあるくして近寄ります。・・・これ、親柱じゃない?
うおおおお、橋?欄干?残ってるのっ???

小走りで裏に回ってみます。すると、

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あー。・・・。
親柱じゃなかったみたいです。神社の囲いだったようで。こうやって見てもまだ橋っぽいですけどねぇ。

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というわけで、一瞬にして失恋気分なのでありました。
いま、田中稲荷の隣にはこんなふうな駐車場があって、だけど三角でいびつな形をしています。

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gooの昭和38年航空写真を見てみましょう。緑の○の中が田中稲荷です。
当時は駐車場の部分までが境内のようで、さきほどの囲いが現役です。広い空間があり、木々も鬱蒼としています。
ちなみに上部には開渠の桃園川が見えます。タマリマセンな~!

<後日追記>「杉並風土記」に、田中稲荷に関する話が載っていました。
先述の、初午の日の豊作祈願の赤飯のおむすび。これを家に持ち帰り、鶏に食べさせると、鶏が狐に盗られないといわれていたので、近所の方は頂いていたそうです。が、子どものころ、帰る途中に食べて親に怒られた、というお話と・・・
境内の松の木(大正初めに枯れてしまった)に、真夜中に人を呪いながら釘を打ち込むと、呪われた人に災難が起こるという迷信があり、じっさいに釘が何本も打ってあった、というお話。
やっぱり地元の方のお話っておもしろいなぁ。

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いまでも、田中稲荷から北へと歩いていくと、すぐに桃園川に到着します。
稲荷橋が架けられている、今歩いてきた道は、堀之内新道と呼ばれるものです。妙法寺の檀家総代をしていた関口兵蔵というひとが、明治29年にに私財を投じて作ったものだそうです。旧中野駅からここを通り、東高円寺のニコニコロード、蚕糸の森公園の西側を経て、妙法寺の門前まで続く道。

中野の方にはY字路があり、「ほりのうち道」と書かれた石碑があるので、堀之内に行く道なのだということは、なんとなく思っていました。
この付近から中野駅に行く場合、大久保通り→中野五差路→駅前、という経路と、この堀之内新道→桃園通り→レンガ坂→駅前、という経路がありますが、この付近の歴史を知らなかった頃から、わたしはなんとなく後者が好きで、そちらばかり通っていました。前者の方が高低差が少ないにも関わらず、です。
なんとなくトコトコと、まぁるい坂道を上りながら、駅から離れた細道になぜかある商店街、古いお店たちの跡、中華屋さん、飲み屋さん、おせんべい屋さんをのぞき、井戸をながめ、桃園通りやレンガ坂の賑やかな道を闊歩する。・・・なつかしさや、ほんのりした温かさがある道。実はその道が、明治~昭和初期のひとたちが旧中野駅と妙法寺を往復していた道だったのでした。

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さて。
田中稲荷に戻ってきましょう。
実は、田中稲荷のすぐ隣に、好きなラーメン屋さんがあります。その名は「ばりこて」。

ラーメンの好みって特に分かれるものだと思うけれど、わたしにとっては、おいしいとんこつラーメン屋さんです。今日は、ばりこてラーメンのnama流食し方をお目にかけましょう。

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頼むのは必ず「博多ラーメン」600円也。麺は「ばりかた」で。

一杯目は、にんにくを匙に一杯入れ、食します。
にんにくを混ぜたら、数枚入っているチャーシューたちを麺の下に押し込み、とにかくズルズルと麺を食べます。一心不乱に。隣人と会話するなんてもってのほか。TVに気を取られてもならない。

麺が半分になったら、替え玉のことを意識し始めます。

心の中でカウントダウンをしてゆき、残り三口ほどになったなら、

「すみませ~ん、替え玉、”かた”でお願いします。」

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替え玉はすぐさまやってきますが、その間に残りの麺をすべてすすり、すすったなら、目の前にある「すりごま」をおもむろにつかみます。一匙、二匙、三匙・・・、五匙ほどでしょうか、「胡麻ラーメン」になったなと自分で感じるまで、すりごまをふりかけます。

替え玉をスープに流し込み、上からもすりごまを少しふりかけ、胡麻ラーメンぽさを向上させます。

そして、替え玉をすすりはじめます。今度は、チャーシューを少し食べても良い、と自分に許可します。チャーシューは大事に、麺の合間合間に三枚ほど食べます。

さて、さきほどと同様、途中から次なる替え玉のタイミングを意識します。

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同じ要領で「かた」を頼みます。お腹がいっぱいになりそうなら、「替え玉、半分、かた」にします。ここは「替え玉半分」があるのですばらしい。

またも、待ちながら麺をすすり、次は「高菜」を少々、スープに混ぜておきます。ここの高菜は、けっこう辛いので、たくさん入れてしまうとスープの味が帳消しになるので注意。
いよいよチャーシューは全部食べてしまい、替え玉があるからと控え目に絡ませていたスープも、もう麺に絡ませ放題です。

こんなふうに味を変えながら3杯たのしみ、満足したならすぐに帰ります。並んでいることもあるお店なので。。

ほか、280円で博多らしいおつまみがいくつかあるし、餃子もあります。これらを先に呑みながら食し、〆に麺を食べるという手もあります。
けっこう遅くまでやっているので、終電で帰ってきてここで〆る、なんてこともありました。

・・・なぜ神社の話から、ラーメンについて力説する流れになっているのか。それは、ここにラーメン屋さんがあるのだから、仕方ありません。
今は駐車場とラーメン店に挟まれ、小ぢんまりとしている田中稲荷社ですが、むかしはひらけた土地の中に、堂々と建っていたことでしょう。それを想像しつつ、
「嗚呼、むかしはこの足元にも、桃園川の水が流れていた時期があったんだなあ~~」と思いながら、「すみませ~ん、替え玉、”かた”で!」なんて言うのも、オツじゃあありませんか。

ちなみに、田中稲荷は高円寺天祖神社の境外末社であるとも書かれています。高円寺天祖神社の周辺にも桃園川の水に関するお話がありますが、それはまたの機会に。

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