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紅葉川をねちねちと歩く その10 外濠との関係

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そろそろ、紅葉川編を再開したいと思います。紅葉川については、9つの記事を書いてきましたが、その殆どが支流中心でした。(支流が面白いからなんですけどね。)

今回は本流に戻りたいと思います。前回、左岸の長延寺谷まで行ってしまいましたが、戻って戻って・・・本村町あたりまで戻って。ここは坂町~本塩町あたりの本流跡です。

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防衛省が見えます。防衛省敷地内にも湧水池があったことについては、以前触れました

実は、この付近の紅葉川本流って、さまざまな描き方をされていて、なんだか難しいのです。ある地図では靖国通り沿いに描かれ、ある地図ではわたしがいま立っている靖国通りの一本南に描かれる、といったように。付け替えられたのかもしれないし、アチコチ流れていたので表記が一様でないのかもしれないし。

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ある地図では、こっちに本流は進みます。

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道はカクッとクランク状に曲がっていますが、川もこう曲がっていたかもしれないし、そうでもないかもしれない。
後日追記:このクネクネ道、地元の方が「昔は川だった」と仰っていたそうです。昭和ひとケタ生まれ(推測)の方のようなので、紅葉川らしき水路についての「昭和初期に暗渠化された」という下水道局の記述と併せて考えると、実際にご覧になった可能性もあると思います。
いまでも、この近辺は大雨が降ると水が集まってくるといい、そんなことも川の名残と感じてしまいます。(44zippyさん、情報ありがとうございました。)

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ともかく、地形も道の感じもさして特徴がなく、比較的暗渠っぽくない道だと思います。

が、ここをまっすぐ流れて、

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外堀通りに出ます。これは川が出たところから南側を眺めたところ。

ある古地図では、この道に沿って四ツ谷駅のあたりから小川のようなものが流れてきています。この歩道のあたりでしょうか。

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その四ツ谷から来た流れは、ここを下って行って、紅葉川本流と合流するようなんですが・・・やっぱり、跡形もないですね。

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ここは市谷八幡町の交差点付近、上流方向を振り返ったところです。
富久町、四谷4丁目、愛住町、河田町、荒木町、本塩町、など、あちこちの水をあつめてきた流れが、ここでまた四ツ谷方向から来た水とあわさり、市ヶ谷駅の方向に流れていくのです。

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川の感じがわからずとも、車の流れだけは、今でも脈々と。

最近は足の怪我のため、タクシーで移動することが増えたのですが、この場所をよく通ります。もちろん、いつも紅葉川のことを想像しながら通っています。

Itigaya

さきほど、流路の描かれ方が一様でない、と言いました。今回歩いた紅葉川本流は、この地図に緑色でプロットした部分です。
ほか、たとえば明治19~21年の地図には黄色部分まで、明治28年の地図には濃い水色部分まで、紅葉川らしきものが描かれています。また別な地図には、薄い水色のような流れが描いてあったりもします。

地図には一定以上の小さな水路は描かれないので、地図だけを鵜呑みにするわけにもいきません。現在の地形や建物からは推測もしづらいし、この近辺はとくに川跡探しが難しいエリアだなあと思っています。

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もう少し本流を下ると市谷八幡があって、その次の市谷左内町のブロックが、妙な区割り!
このお隣に長延寺町があるので、通ろうとしたら、通り抜けられないのでした。
この区割り・・・おそらく昔からあるのだと思うんですが、なぜこんなにも袋状なのか。気になります。

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こんどは、流路から外れ、市ヶ谷の駅のホームから紅葉川方向を見ます。

合流口らしきものが見えます。これは下水道台帳を見ると、外堀通りの南側の雨水管(前掲の地図の四ツ谷から来る緑色部分)と、靖国通りを通る下水管に接続しており、後者は大量に雨が降った時にのみ溢れる仕組みだと思われます。
紅葉川の名残、というと、船河原橋の合流口が挙げられやすいように思いますが、この合流口も紅葉川と関わりがあるものだと思います。

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市ヶ谷駅をもういちど。
飯田橋側のお濠より、市ヶ谷側のお濠にいるカモのほうが、かわいくってお気に入りです。それから、この外濠の下には有楽町線の留置線もあって、紅葉川名残の合流口が見えて、市ヶ谷フィッシュセンターもよく見えて、そしてここは駅・・・なんか色々な素敵さを秘めた駅ですね。

ところで、紅葉川について考えるうえで難しいなと思うことが、この、外濠との関係です。この辺りの外濠は紅葉川の谷を利用して作られたとされますが、紅葉川自身がその後どうなったかについては、文献上あまりはっきりしないのです。

古地図を見ていると、上述したように、上中流部も年代により微妙に描かれ方が異なっています。下流部も含め、紅葉川流路には色々な付け替えがあった可能性があるし、外濠と一体化したのか否かについても、なかなか読み取ることができません。「東京ぶらり暗渠探検」では紅葉川に割かれるスペースが残念ながら少ないのですが、外濠造成時に紅葉川は濠に取り込まれた(ので消えた)とする説と、外堀通りの北側を流れ神田川に到達していたとする説とある、と書かれています。

あまりに気になるので、自分でも調べてみました。いくつか関連する記述を抜粋してみましょう。

①「千代田区史 上」に外堀に関する地図があり、「長延寺川の谷」(=紅葉川の谷)が利用されたように載っている。

これだけでは、紅葉川自身がその後どうなったかはわかりませんが、

②鈴木理生氏が「季刊 神楽坂まちの手帖10号」に書かれた「神田川・外濠・神楽河岸」では、外濠は江戸時代初期に「喰違見附の土手の最南端を谷頭にした小さな川」と、「三光町交差点辺から靖国通りを経て防衛庁前から市ヶ谷濠に合流する川」の2つの谷を利用して作られた、としている。
③「東京の公園と原地形」(田中正大著)によれば、外濠の北側は長延寺川の谷を利用しているとされる。この長延寺川(=紅葉川)を堰き止めたものが飯田濠、牛込濠、新見附濠(明治以降)になっている市ヶ谷濠は市ヶ谷見附に堤を築いたものだが、長延寺川本流ではなくてその支谷を堰き止めたもの
④「神楽坂界隈」(新宿区郷土研究会著)では、紅葉川らしき流れを「外濠川(仮)」とし、外濠はジク谷(注)を利用したものとしている。(注:「ジク谷」は以前愛住町支流(仮)のときに川田窪のこととしましたが、この文献ではジク谷は市ヶ谷近辺の谷全体をさしているようです。)

②の1つめの川は、更なる紅葉川水源のようにも見え、胸が高鳴ります(③の後半も同様)が、いまは外濠の話なので置いておき。・・・②の2つめの川は紅葉川と同じ流路ですが、「市ヶ谷濠に合流」という表現により、外濠に取り込まれるように読めます(そして面白いことに、この説を取ると、最後から2枚目の合流口が②の2つめの川の直接的な名残のように見えてきます・・・)。
③、④も紅葉川自身が外濠となった、という書き方であり、外濠造成以降の紅葉川については言及されません。一方で、

⑤「江戸名所図会」の市谷八幡宮では、八幡宮の階段を下りきったところに、水路が描かれている。その護岸の低さや幅の狭さからいって外濠とは考えにくい。「東京の空間人類学」(陣内秀信著)でも、この絵について「下には川が流れ」という解説をしている。
⑥大正11年の東京市牛込区の地図を見ると、外濠の北西にしっかりと水路が描かれている。それは、富久町から来る流れが現防衛省の前を通って来る流れとつながっているようだし、最終的に神田川に注いでいる。
⑦「神楽坂界隈の変遷」では、明治20年内務省地理局図をもとにした地図に、外濠に並行する水路が載り、「市ヶ谷田町ヨリ流ル大下水」とされている
⑧「川の地図辞典」では紅葉川のことを、「現防衛省の南側を現在の靖国通りに沿って」、「四谷見附方面からの流れを合わせ」、「市谷から飯田橋へ外堀通りに沿って流れ」ているとする(菅原健二著、「川跡からたどる江戸・東京案内」も同様)。

⑧については、いつの時代を指すかにもよるでしょうが、江戸と言っているので、外濠が出来た後になお、また別に紅葉川の流れがあったのだと読むことができます。
⑤、⑥、⑦については、外濠と並行する水路の存在を示すものであり、これが紅葉川なのかどうかが非常に知りたいのですが・・・、

わたしとしては、外濠は紅葉川の谷をたしかに利用しているけれど、紅葉川の流路は外堀通り沿いに小川となって生きつづけた、と捉えたいな、と思っています。「江戸の川あるき」(栗田彰著)の紅葉川の項で、下流部分は大下水扱いされていた、と書かれています。この大下水が、上記⑤~⑦の水路にあたるのだ、と考えることが出来ます。
だいぶ自分の願望にまみれた考察ですが、市ヶ谷~飯田橋間を歩く際、この足元に昔は紅葉川が流れていたんだ、と思えたらうれしいし。この後紹介するいくつかの支流、それから、牛込城まわりの崖からしみ出した湧水などが、明治や大正も、神田川までさらさらと流れつづけていた、と思えたらうれしいし。

外濠との関係を考えるとき、いくつか紅葉川の別名が登場しました。紅葉川については、色々な呼称と流路がみられます。それについては、最終回にまた、お話したいと思います。またも写真が暗渠感に乏しいものばかりでしたが、今回はこれにて失礼つかまつる。

後日追記:コメント欄でのsumizome_sakuraさんとのやり取りにおいて、新たに探した情報。
紅葉川下流部に関して、1641年に石垣の大下水(幅約1.8m)が作られたという記録が「御府内備考」に残っているそう。市ヶ谷近辺の町の下水も流していたとのこと。昭和初期に暗渠化されて現在は市ヶ谷幹線になっている(下水道局webより)。

お濠を掘ってみたものの(紅葉川兄)、しまったこれじゃ水が処理しきらんじゃないか、ってことで、新設された紅葉川弟。異なる運命を辿り、いまは外濠と市ヶ谷幹線とに分かれて、わたしたちを助けてくれる紅葉川兄弟・・・。
とも考えられるし、石垣の大下水はもとからあった水路を強化したものと捉えれば、旧紅葉川=親であり後に大下水、濠=子、とも考えることが出来る。

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コメント

外濠北西部の一帯は、掘削のときにかなり人工的な地形改変をうけたようですね。

旧紅葉川の谷底も外濠よりもっと浅くて広く、市ヶ谷~飯田橋間では、外濠の真ん中あたりから今の外堀通りまで幅があったみたいです。名所図会の挿絵や迅速測図にでてくる道路際の溝(水路)は、旧紅葉川の谷底のちょうど西端ぐらいにあたるようです。

まあ、考えてみれば、濠を掘っても降水や湧水は減らないわけで(笑)。旧紅葉川が運んでいた水量と同じだけ、どこかにもっていかないといけない。外濠は土橋で区切られているので、神田川に接続する牛込見附北側まで、ある程度の量を運ぶ必要がある一方で、濠にも水を補給しないといけないので、それぞれの濠にそそぐ水路もあったはずです。
そのどちらもが、旧紅葉川の後身にあたるのではないでしょうか。

あと、旧紅葉川の川底は現在の地表面の2m下ぐらいだったようですから、市ヶ谷八幡町交差点付近の靖国通りは、旧紅葉川の河道そのものではなく、土を埋めて嵩上げしたものではないでしょうか。
だとすると、自然の傾斜が途中で断ち切られて、妙に平べったい地表面になるはずで。この付近の水路跡や川跡がわかりにくかったり特定しにくいのは、一つはそのせいかと。

……などと考えて裏付けを探していたら、面白い本を見つけました。『江戸の上水道と下水道』吉川弘文館。いろいろ面白いのですが、とりあえず二つほど。

(1)外濠の北西部だけでなく、南西部の溜池なども川を人工的に堰き止めてつくったものだそうです。源流は鮫河橋の谷あたりで、当時の名は「赤坂川」。溜池ができたあとは、これも「大下水」と名を変えて、溜池とも接続しつつ外濠の横を流れていたそうです。
というわけで、甲州街道を軸にして、外濠北西部=旧紅葉川流域と南西部=旧赤坂川流域はきれいに対称的になっているようですね。もともとの地形も、人工的な改変のしかたも。

(2)市ヶ谷近辺の台地には、標高29~30mあたりに透水層があるそうです。現防衛省の、元尾張藩屋敷の発掘調査でわかったのだとか。尾張藩屋敷の最初の頃は、屋敷地の西端(今の外堀東通)の標高30m地点、合羽坂側と弁天谷側の両方に湧水源があり、二つを結ぶ水道がさらに東に延びていたそうです。
その先はたぶん琵琶湖でしょう。池の標高もちょうど30mくらいなので、池自体にも湧水源があったと思います。自然の池か人工かはわかりませんが、尾張藩屋敷の造成時に一帯を大規模に整地しているので、江戸時代に紅葉川に流れ出ていたとは考えにくいようです。
どうも、この標高30mというのが付近の地形の鍵になっているようですね。例えば金弁財天も余丁町の出世稲荷も、念仏坂の坂上もほぼ標高30m。念仏坂の横に滝があったというのも、うなづけます。
そう考えると、いろいろ思い当たることがあって。標高図を片手に、またあの辺を歩いてみたくなりました(^^。

投稿: sumizome_sakura | 2012年1月15日 (日) 21時55分

>sumizome_sakuraさん

うおぉ~、興奮のコメントありがとうございます!

旧紅葉川の谷底の情報、どうもありがとうございました。そんなに幅広かったのですね。外濠は甲武鉄道の線路敷まであったと聞くので、すると外濠は紅葉川よりちょっと右にずれるような位置に作られたのでしょうか(だとしたら何故でしょうね?氾濫しやすかったのでしょうか・・・)。

>旧紅葉川が運んでいた水量と同じだけ、どこかにもっていかないといけない。

そうなんですよね。それをぜんぶ濠にやってもらっていた可能性も否定できないか?、などと考えてしまうと迷ってしまうのですが、

>そのどちらもが、旧紅葉川の後身にあたるのではないでしょうか。

わたしもこう考えたいです。
そうそう、他に史料はないかと見ていたら、下水道局のwebに、この大下水のことが載っていました。1641年に石垣の大下水(幅約1.8m)が作られたという記録が「御府内備考」に残っているそうです。紅葉川のことには触れられていませんが、紅葉川と重なる水源をもち(栗田氏が書いているので同じ表現なのですが)、さらに市ヶ谷近辺の町の下水も流していたとのこと。そして、昭和初期に暗渠化されて現在は市ヶ谷幹線になっている、と。
お濠を掘ってみたものの(紅葉川兄)、しまったこれじゃ水が処理しきらんじゃないか、ってことで、新設された紅葉川弟、みたいな感じでしょうか。
異なる運命を辿り、いまは外濠と市ヶ谷幹線とに分かれて、わたしたちを助けてくれる紅葉川兄弟・・・(玉川兄弟みたいになってしまった;;; これ、あとで本文に補足したいと思います)。

標高についての情報もありがとうございます。標高については実はあまり気にしたことが無いのです、っていうか、正確に言うとまだ標高についてまで気が回らないんですよね、初心者ゆえに。なので、30m説は目から鱗ぼろんぼろんです。念仏坂の滝なんて、曙橋通りから眺めているだけだと、上に湧水があるなんてなかなか思えないですから・・・うーん、自分もあれこれプロットしてまた歩いてみたいです!
あと、赤坂川と紅葉川の運命って似ているんですね~!とにかく、すごく面白いです。その本探してみたいと思います。

投稿: nama | 2012年1月16日 (月) 18時47分

ずれた位置につくった理由は、濠の内側、つまり江戸城側の岸を高い絶壁にするためですね。水面の上から下まで。そうすると敵がのぼりにくくなるので。
そのために、江戸城側の斜面を削ってほぼ垂直にした上で、さらにそれにつづく谷底の一部を深く掘り下げて、出た土を濠の両側に盛っています。外濠の両岸はほぼ垂直の壁になっていて、かつ江戸城側の岸が反対側より5~10m高いのですが、それはこうした工事によるものです。見下ろす方が戦いやすいので。

例の本にあった後藤宏樹さんの論文によると、赤坂の溜池も大きくは同じ構造で、やはり旧赤坂川の谷の、江戸城側を垂直に掘り込んでつくってあります。ただ、旧紅葉川の濠では旧谷底の一番深かったところが濠内にありますが、溜池では旧谷底の一番深かったところは濠の外に出ています。江戸時代の赤坂川の流路がほぼそれにあたるそうです。
一見、奇妙な造り方ですが、玉川上水ができるまでは、溜池は江戸都市域南部の上水源でもあったので、下水と池とをより強く分離する形にしたのでしょう。その分、溜池の方がより人工的な造りになっています。
外濠南西部が明治の早い時期に消滅したのに対して(溜池は江戸時代から埋まり始めていたそうです)、北西部が現存する理由の一つはそれではないかと。同じ「兄弟」(笑)でも、北西部の方が元の自然河川=「兄」をより濃く引き継いでいて、だから消えにくかったのではないでしょうか。

標高30mは私も目から鱗がぼろぼろでした。
市ヶ谷付近は東京の他の凸凹地と少し様子がちがっていて。坂の傾斜がきつくて谷がよくえぐれているだけではなくて、坂の一番上あたりや台地上に池や水源らしきものがあります。それが独特な雰囲気を醸し出していて楽しいのですが、標高30mに地下水層があるとすると、その独特さの謎が一挙に解ける感じでした。
まあ、それ以上に、谷から見ると、いわば頭上を地下の川が流れていることになるわけで。そう考えただけで、軽くご飯三杯分ぐらいワクワクしました。

投稿: sumizome_sakura | 2012年1月17日 (火) 02時57分

あ、「弟」と「兄」ではなくて、旧紅葉川一家の「兄」の方が「親」の血を濃く引き継いでいて、ですね(^^;;;

投稿: S | 2012年1月17日 (火) 03時04分

>sumizome_sakuraさん

謎解きコメントありがとうございます!なるほど・・・確かに九段側って高くなってますね。あれは旧紅葉川の谷底の土も入ってるんですねぇ。そういう、考える材料が増えると、どんどん面白くなりますね。
赤坂方面は自分は土地勘もないし、アウェー感覚だったんですけれど、こうやって紅葉川と比較しながら考えてみたら随分楽しめそうです。良いヒントをありがとうございました。
市ヶ谷近辺の独特さ。わたしは本当は杉並以外をねちねちやるつもりは無かったのが、ただ縁があったので書いていたら盛り上がってきちゃった、という流れなんですがw、そういえば、抜弁天(の池)は周囲の地形もよく見えるので、いつも「なんでこんなとこに?」と思うし、琵琶湖の解説をしてくださった自衛官さんも高い位置であることを不思議そうにしてました。

>親、兄、弟

そうそう、そういうイメージですww
でも、なんとなく、今までの情報からお濠の方が早く出来たのかなと思ってそちらを兄としましたが、考えてみたら石垣の大下水を作った年が明らかになっているだけ。つまり、石垣の大下水は水路の強化に過ぎず、もともと小川が(なんらかの凹みやドブが)残っていた可能性だって否定できないのでは。そうなると、どっちが兄かわからなくなってくるという・・・いやむしろ親と子の二者の可能性もあるっていうことになりますよね。また疑問がひとつ増えて、楽しくなってきてしまいましたw

投稿: nama | 2012年1月18日 (水) 18時13分

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