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2012年1月

日本閣と、逃げ出した鯉のはなし

東中野に、日本閣という結婚式場があります。

近くに、暗渠好き・階段好きの方に人気の高い、某階段を擁する暗渠があります。

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この川が流れ込んでいたのが、日本閣の敷地です。

そんな理由だけでも、「日本閣に行ってなにか食べたい。」とわたしを突き動かすには十分でした。とはいえ、都合良く日本閣での結婚式に出られるわけではない。ランチを食べるにもなんか高価だ・・・(美味いとも限らないし)。
そんななか、日本閣のスペースは現在じつはほとんど高層マンションとショッピングモールなのだということをやっと知りました。そして、その中に以前本郷で食べてなかなか美味しかった「栄児家庭料理店」も入っているのだということを、つい最近知りました。

行って、坦々麺を食べねばならぬ。

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JR東中野駅の東口を出ると、もう、すぐに入口です。下に桐ケ谷ガードが通っています。こっち側に来るのは10年ぶりくらいです・・・

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ずいぶんでっかいマンションだなあ。向こう側は神田川。
ま、まずは食欲を満たしましょう。ラーメン!ラーメン!

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汁無し坦々麺。

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まぜまぜ。

山椒が効いて、だいぶビリビリしましたが、ちょうど辛いのが食べたかったので、おいしゅうございました。

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そして伏兵がこれ。
ランチタイムは、水餃子が食べ放題なんです。食べ放題ですよ?(ラーメンと合わせて千円。)ほんで、この水餃子がおいしい!

あー、餃子ってなんでおいしいんだろ。

ゲフー。ごちそうさま!

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日本閣の裏にある大東橋には、年頃の娘は渡るとき振り返ってはいけない(そこで亡くなった女性の霊がついてくるから)などという言い伝えもあったそうで、昔は寂しい場所だったのだろうと思います。
今はなんだか、一帯はぴかぴかで、昔の雰囲気を感じることはできません。この木だけは、ずうっとあったかもしれないけど・・・

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この壁と階段は、やや昔からありそうですね。以前は駅に行くにはここを上って行くしかなかったのでしょうか。

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帰りは、桐ケ谷ガードをくぐって帰りました。先日、HONDAさんが桐ケ谷橋の欄干を発見されていました。この辺りの地名が桐ケ谷だったので、桐ケ谷橋もこのあたりにあったのでしょう。手持ちの資料で、ちょっと南の方の公園にあるらしいことが書いてあったので、そ のうち行ってみたいと思います。

日本閣の歴史はとても面白く、非常に川と縁のあるものです。
大正3年に鈴木磯五郎というひとが釣り堀を始めたのが最初と言われますが、その釣り堀は以下のようなかたちで始まっているのです。以下、地元の方のお話です。

「蚕糸試験場ってね、この2千メーターぐらい行くと農事試験場があったんですよ。そこに大きな池がありましてね、そしてね、雨とか水がでるとね、そこから水が流れ出して、そこのね、魚がみんなわたしの方の池へね、川へね、どんどんどんどん流れ込む。<中略>水がひいちゃうと、こんなでかい緋鯉だとか、鯉がね、たらいに一杯ぐらい難なく捕れちゃう。農事試験場からみんな流れる。
それでわたしんところでね、釣り堀をおやじが始めましてね、あれでも、わたしが覚えましても、三百坪くらいの釣り堀でしたね。それで、こっちの、農事試験場から流れてくる水をね、池へ入れるわけ。」

ところが、エゴの実を使って毒流しをした水が釣り堀に入り、持ち主が懲りてしまう。そこに日本閣創業者の鈴木氏がこの釣り堀をやらせてほしいと申し出、金魚の釣り堀を始める。
「釣り堀しながら、こんだ、お昼になるとお茶を出してた。ね、お茶を出して、こんだ、お昼を出すようになった。なかにはね、「一杯やりてぇんだけど、どうだろう」って。そう言って。「そいじゃ出そうじゃねぇか」って出して。そして、だんだんだんだん伸びたのが、今の日本閣。(「続 中野の昔話・伝説・世間話」より)」

近隣のひとびとは、鯉こくをつくるとき、この釣り堀にバケツを持って鯉を買いに行ったりしたのだそうです。関東大震災以降、畑を売って儲ける農家が増え、そういったひとたちが新井(の花街)から芸者さんを呼んで遊ぶ場所として繁盛したりもしたそうです。

HONDAさんが蚕糸の森公園から小沢川に注ぐ流れがないかと探索されていますが、その元になっているサイト、出典はおそらくこれだと思います。HONDAさんと味噌maxさんがこのことでやり取りしてた気もするんですが、検索で引っかからなかったのでおいときます。

ただしこの物語、このあたりの土地勘がある人だと、引っかかりを覚えるんじゃないかと思うんです。
わたしの場合、まず、「ん、蚕糸試験場に池なんかあったっけ??」
そして次に、「それにしても、蚕糸試験場?遠っっ!」 と、引っかかりました。

まず、蚕糸試験場に池があったかどうか。
現在、池はありますがこれは井戸水をくみ上げて循環しているもの。この地に湧水池があったという記述はみたことがありません。たしかに、蚕糸試験場では多くの水を使うので、排水が気になりはしますが・・・(HONDAさんが歩いた道が排水路だった可能性はあると思います)。
明治42年の地図を見ると、この場所に蚕業試験場はありますが、建物が整然と並んでいるのみで、池は見当たりません。

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昭和23年の航空写真(gooより)でも、池らしきものは東端の丸いものと、入り口付近にありそうに見えますが、いずれも小さく、鯉がいっぱいいるようには見えません。そもそも、ここが溢れたとして、小沢川に流れ込むような川も無いのです。
また、仮にあふれたとしても、東中野に到達するまでにはかなりの迂回を強いられます。以下の地図を見てみてください。

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蚕糸試験場から鯉が逃げたとして、その先は小沢川から神田川と流れて行くのですが、その行程は緑色の点線です。遠!・・・流路はこのように曲がりくねっており、日本閣の場所に鯉が集中して流れ込むのは不自然です。
ちなみに、水色の丸を2つ書きましたが、北側の丸は小沢川蛇窪支流(仮)の途中にあったとされる沼(大正時代のもので、写真も残っている)です。また、この近辺に養魚場があったという話もあります。
南側の丸は神田川沿いですが、いまの中野車庫の位置にも、かつて養魚場があったといいます(3号池まであるなかなか大きいもので、昭和23年頃まであったとのこと)。このような、蚕糸試験場よりずっと神田川に近い位置にも、鯉がいそうな場所はあったのに、話題に出てこないのは違和感があります。

そこで、わたしが考えている仮説はこうです。
蚕糸試験場ではなく、農事試験場だったのではないか。中野の谷戸運動公園のあたりにあった、農事試験場のことです。ここには長いこと池がありました。それから、隣に城山がありますが、城山にはもっと大きな池がありました。そして、この付近を水源として谷戸川が流れており、谷戸川をつたって鯉たちが神田川に行けば、東中野はすぐなのです。

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そもそも、引用したお話においても、「農事試験場」という表現が出てきます。こういった、地元の方のお話は、ときに記憶違い、勘違い、聴き取り違いなどを含むのでしょう。原文の2千メーターという表現は、日本閣と蚕糸試験場との距離ですが、これは後付けではないかと思うのです。
そうすると、「農事試験場からの流れ」は谷戸川のことをさし、谷戸川は神田川の西(旧住所は川添)を北上し、日本閣に注ぐので、なんともしっくりとくるのでした。

ちなみに日本閣、大正3年に「鈴木や」という釣り堀として始まり、大正9年に割烹料理店に、昭和10年に結婚式場になっています。昭和20年に空襲で全焼したものの、同26年には再開、現在に至るということです。

釣り堀はどうなったのでしょうか?
・・・関東大震災を機に、大正13年に阿佐ヶ谷に移転し、現在も「寿々木園」として営業しています。そう、桃園川支流といえる、相沢堀(阿佐ヶ谷川)沿いにあった、あの釣り堀!そういえばあそこは、鯉も釣れるけど、金魚も釣れる・・・東中野の歴史が残っているのだなあ、と、感慨深くなりました。
谷戸川の鯉でもって谷戸川河口ではじまった東中野の釣り堀。その後、阿佐ヶ谷の相沢堀沿いに移転。そう、どちらも桃園川の支流沿いなのです。日本閣と桃園川、実は実は、隠れた縁があるようです。桃園川好きにとっては、うれしい発見、な、おはなしでした。

<参考文献>
「続中野の昔話・伝説・世間話」 中野区教育委員会
「見たい聞きたい記録(のこ)したい-なべよこ観察隊-」
「中野城山居館跡発掘調査報告書」 中野区教育委員会
「青梅街道周辺地域」 中野区教育委員会
「杉並の川と橋」 杉並区郷土博物館
「昔をたずねて」 青少年育成東部地区委員会環境部
「東中野今昔ものがたり」 東中野地域センター
web「すぎなみ学倶楽部」

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紅葉川をねちねちと歩く その12 熱海湯支流(仮)と温泉山

秋だから歩こうだなんて思っていた紅葉川。気づけば秋も過ぎ、雪も降り・・・、それでもねちねちと、だいぶ下ってまいりました。

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前回の、感動の開渠を見た後。南町、袋町と、うだうだ歩いてやってくると、長い下り坂に出会います。坂を下るときというものは、いちばん低いところに川があるはずだと思うので、いやでも胸がおどります。通過してきた「袋町」、池袋的な由来だったら良いのになと思ったのですが、水ではなく道が行き止まり状態だったので袋町、と書いてあるものが多いです。じっさい、大部分が丘の上です。

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その、袋町からの下り坂はクランクになっていて、そして、低いほうへ低いほうへと足を運べば、そこにはひとつの谷があるのでした。このT字路が谷として確認できる最初の場所です。

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その谷は一本の道になっていて、しっとりとした飲み屋さんが並んでいます。小栗横丁という、名前の付いた通りのようです。

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この通りはずっと、両側を崖に囲まれているしっかりとした谷です。その谷底感を味わいながら歩いていると、突然左側に暗渠サインである銭湯が現れます。・・・熱海湯。ふるくて良い雰囲気です。なんとなく名前からして「湯が熱そうだ」と思っていたのですが、実際に熱いみたいですww 

そしてこの道、いくつかの資料により、川があったことが明らかになっています。たとえば、「神楽坂界隈の変遷」では、紅葉川下流部にあたる大下水に、神楽坂下交差点のあたりで合流する、”若宮町近辺から流れてくる裏町の下水”として書かれています。
「神楽坂界隈」では、この道を牛込城の東濠とし、”はっきり解る濠跡””湿地的な水濠の可能性””両崖の高さからいって、かなりの水量があったことさえ想像される”などと記しています。前者は江戸期、後者はさらに前のことをさすわけですが、今日見つけた新宿区のwebでも、ここには”片側(北側)に幅一尺ほどの小川が流れており、この地に湧水が豊かであったことの証である”なんて書いてありました。もしかすると、結構最近まで(たとえば昭和まで)小川はあったのかもしれません・・・。地形からしても、細~い谷が結構な崖に対して鋭く入り込んでいるので、湧水量はわりとあったかもしれません。
ここは、熱海湯に敬意を表し、紅葉川熱海湯支流(仮)と名付けてしまいましょう。

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熱海湯の裏は、すぐにこんな崖です。熱海湯支流(仮)は、長さとしては短いものですが、谷頭だけではなく途中の崖からの浸み出しなどもあったかもしれませんね。

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写真が全然うまく撮れてませんが、熱海湯階段。「東京の階段」にも取り上げられており、この曲がりっぷりが良いと、”景観”で高得点を叩き出しています(「東京の階段」は、紅葉川の谷に絡む階段率が高い気がします、なんだかうれしいです)。階段の上にはちらりと鳥茶屋別館が見えています。鳥茶屋、太~いうどんのうどんすきは食べたことがありますが、むしろお昼の親子丼を食べていません。食べてみたいものです。
それから、神楽坂といえば、花街でもあるわけで・・・この階段を上ったさきに見番があります。今回は写真がないのですが、花街のことを書いたサイトを探すと、写真はいくつも見つかります。たとえば新宿区のサイト。

それから、それから。地元の方の思い出話を集めたものの中に、面白い記述を見つけました。

今の「マサ美容院」のあたりですが、明治も終わり頃まで崖がありまして、温泉山なんで呼んでおりました。今の銭湯とでもいいますか、大衆浴場がありまして前側にはちょっとした休みどころもあり、何となく温泉気分になれそうなつくりで、夏の夕方などは浴衣を貸してくれまして「ええ、ご案内!!」なんて景気のいい声をかけられたものです。
おもて通りには「温泉」って書いた大きな幕が下がってました。階段を上って風呂に行くんですが、この辺の人はたいがいここにはいりに来ました。(「神楽坂界隈の変遷」より)

この温泉山、正確な位置が書かれていないのですが、現在神楽坂近辺を検索すると”マーサ美容室”が神楽坂3-6で出てきます。その位置は丁度、熱海湯支流(仮)の谷から崖を上ったところであり、熱海湯階段を上ったところともいえます。つまり、この場所がかつての”温泉山”であった可能性は高いと思います。
ここからは更に想像ですが、なぜこんな、熱海とは縁のなさそうな場所なのに、”熱海湯”と名付けられたのか、などと考えてみると、もしかすると熱海湯の前身は温泉山の風呂屋だったのではないかと思えてくるのです。場所もほぼ隣。その”温泉感”を引き継ぐべく、熱海と名付けたのではないか・・・想像がふくらんで堪りません。できればお風呂に入りに行って、伺ってみたいところです。

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お風呂上りにはちょうどよい、牛乳屋さんもありましたw
この地が「牛込」だったことを考えると、牧場の名残?なんて・・・w

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その先、道が新しくなってしまいます。東京理科大がちょうど校舎を新築したばかりです。少し前は、もうちょっと見晴らしの悪い石垣があったような気がするんだけど・・・どうだったかなぁ。とりあえず、熱海湯支流(仮)の暗渠みちが残っていて、ほっ。

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もうちょっと下流へ。右側の石垣は理科大のものです。さっきから、大学の敷地に入ってきています。熱海湯支流(仮)は、この道の左側を流れたはずです。

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歩けるのはここまで。あと1ブロックで紅葉川本流に合流できるのですが、奥にみえる建物のところで道はストップです。建物の右側にある隙間のあたりを流れていたのかもしれませんが・・・。

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その隙間を外堀通りから見てみるとこんな感じ。うーん、ちょっと無理があるかな。ここだけ、名残がなくなっているかもしれませんね。
現在、下水道台帳を見ると、さっきまでたどってきた道の下には下水管がありますが、この隙間のところにはありません。

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さてさて、神楽坂までやってきたなら・・・すてきな飲み屋さんはいくらでもあります。その中でも、とくにすてきなのは、有名店ですが”伊勢藤”。このときはつきだしが3つ来たのですが、どれも独創的、そして美味。白鷹を燗で、ゆるゆる呑みました。紹介を見ていると「喋っちゃダメ」なのかと思っていたのですが、お客さんはそこそこ楽しそうに喋っていて、でも心地よい静けさがある、そんな店でした。

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今回の行程。熱海湯支流(仮)を緑色で示します。
かつてあったかもしれない、崖上の温泉山のことを想像しながら、熱海湯で湯につかる。風呂上りには、牛込に思いを馳せながら牛乳を飲む。そのあとは、もちろんお酒・・・そんなたのしみが、この一本の支流暗渠の上で味わえてしまいます。

これで紅葉川の支流は最後の一本です。けれど、江戸城ができる前、紅葉川の下流部右岸には、もしかしたら支流があったかもしれません。今は、跡形もないけれど。それについてもそのうち、調べてみようと思います。
支流の紹介はおいておくとしても、もうちょっと、書き残したことがあります。紅葉川の記事は、あと少しだけ、続きます。

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暗渠さんぽのおとも~あるきたべ・ほっこり秋冬編~

久しぶりに、暗渠さんぽをしながら食べたものたち=あるきたべ特集をしたいと思います。
今回は、秋冬にちょっとあたたまるような、あたたかそうな食べものたちを・・・。

いつかのさんぽで、食べたもの。

まず1つめは、わたしにとって堪らないビジュアルのコレ。

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とりの唐揚げ&揚げじゃがの串! on 指ヶ谷支流(仮)。
じゃがいもが大好きで、北関東の名物「イモフライ」なんて差し出されたらめちゃめちゃ幸せになれるわたくしです。とりの唐揚げだって、先日食べ放題100円のお店に行って唐揚げまみれになったくらいには好きです。
だから、夢のようなコラボ商品。売ってるお店がこりゃまた良い。

オリムピック、というレトロなパン屋さんが白山にあります。

レトロパン好きの方にはたまらないようなラインナップだったり、
「水ようかん」が挟んであるシベリアがあったり、
安売りパンの詰め合わせが端っこからわたしを呼んでいたり、
なぜかレジのところにヤキソバまで売っていておいしそうだったり、
パンの袋も素敵に昭和感。

そんな、油断ならない店です。・・・会計時に、この串を見つけて(しかも90円とかだったんじゃないかな)、小躍りし、そして指ヶ谷支流(仮)沿いで早速パクついたわけです。
この片手で持てて小ぶりなサイズは、まさにさんぽ向きと言えるでしょう。

つぎは、

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ひとくちカニクリームリゾットのコロッケ on 相澤堀(というか桃園川支流というか)。

阿佐ヶ谷駅前のかつて湿地帯だった場所で、年に数回、「大人の縁日」というものをやっています。これは、以前行ったときにたべたもの
これまたさんぽ仕様で、お祭り気分ももれなくくっついて、幸せな逸品でした。
もちろん、ビールもゴクゴク。

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できたてクロワッサン on 初台川。
もう食べちゃって、欠けちゃってますがミニクロワッサンですね。
代々木上原の駅前をさんぽしていたときに、かわいいパン屋さんがあったので(レトロ系じゃないほうの「かわいい」)、思わず入っちゃったときのもの。代々木上原の駅前って暗渠がうじゃうじゃしているのに、暗渠沿いに買い物し甲斐のあるお店があったりして、羨ましいです。
この後丘を登りながら食べたピロシキも上等な肉まんのように美味しかったです。
・・・奥に見える橋の欄干に感動しながらも、食べることを忘れない、の図。

最後は、デザート。

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ミニたい焼き on 竜閑川。
今川焼が今川橋のあたりで生まれたということをきいて、今川焼を買ってそこで食べようと思ったのだけれど、今川焼ってそんなに都合よく売っていないんです。そんな体験をした日。
代わりに、銀座でミニ鯛焼きみたいなのを買って、神田に持って来たんでした。でも神田駅でもミニ鯛焼きを売っていて、ちょっとショックだったのでした。加えて言えば、このときは竜閑川の流路も若干間違っていたんでした。
暗渠であるきたべをするとき、あまり人がいないような場所が多いので、写真をパチリとやるのはそんなに恥ずかしくないときもあります。でも、このときは平日昼間のオフィス街にひとり・・・結構勇気が要った気がします。いや、いいんだけど。

それと、おまけ。

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暗渠には、ときどき食べ物の罠が仕掛けられていることもあるので、引っかからないように気を付けましょう。  罠 on 紅葉川本塩町支流(仮)。

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紅葉川をねちねちと歩く その11 嗚呼感動の砂土原町支流(仮)

ちょっとだけブログの書き方を変える事にしました。
開設当初から、左右に写真と文字を置いていくスタイルにし、なんとなくそれを変えないできていました。ブラウザによってはズレてしまうけれど、設定を直せばなんとかなるのでと、構わずにきましたが、最近設定を変えてもズレちゃうという人がいたので、これからは写真を真ん中に置く書き方にしてみたいと思います。

さて、前回に続いて、紅葉川本流を少し下りますと、以前ご紹介した長延寺谷支流(仮)の河口を過ぎ、もう一本の支流に出会うことができます。

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出会う・・・というかこの支流、河口部分は既に痕跡がありません。上流のほうをウロウロしていたときに、たまたま見つけたものなんです。

それは、鰻坂のあたりを歩いていたときのこと。鰻坂の由来は、鰻のようにクネっていたからのようです。

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(1つ前の写真の奥を拡大)道の向うに、ちょっとした谷のような場所があります。段々になってます。

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残念なことにその谷っぽい部分は道にはなっていなかったので、並行して走る牛込中央通りを歩きつつ、コの字ウォーク(lotus氏命名)を駆使しての探索です。牛込中央通りは、このように外堀通りに向かって下ってゆくのですが、

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この道を下って行こうとすると、右手にも崖、

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左手にも崖が見えます。さきほどの谷部分は、ここでは、この写真の崖下すぐあたりです。

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鰻坂から見えたほのかな段差がどうやら川跡のようなんですが、どこから始まるかがよくわかりません。この写真より上流(北)には、谷のようなものは見当たりませんでした。

この近辺の路地は旧区画が残っているためか、複雑なものです。コの字ウォークも、ひとつ曲がり角を間違えばだいぶ面倒くさいことになります。そんな、天候の悪いときに行くと実に手ごわいエリアなのですが・・・。下流に行くにつれ、谷がはっきりしてきます。

そして・・・

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なんと。

開渠がありました!

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ほぼ痕跡が見当たらないこのエリアに、開渠が残っているだなんて。
市ヶ谷の駅のすぐ近くに、開渠があるなんて。

ここを見たときのわたしのテンション・・・いやぁ、すごかったです。家の下をすり抜けるように走る、わずかな開渠。まるで宝物!
何度か見に行きましたが、水の流れは確認できませんでした。
大発見!と思っていたところ、ふろっぐねすとさんがさりげなく書いてらっしゃいました。さすがです・・・そしてそのふろっぐねすとさんの旧サイトは最近なくなってしまったようで(猫またぎさんが言及されてます)、とても残念なことです。

この川について、「神楽坂界隈」では、”最高裁判所長官邸から払方町へいく道にある不自然な凹地”があり、”市ヶ谷濠へ落ちてゆく”と記しています。さらに、もっと北側までつながっていたが、ならされてしまった可能性もある、という推測をしています。
前述のように、北側については現在手がかりは無い状態です。それから、「不自然な凹」というほど、不自然なのかどうか、自分にはわかりません・・・

Sado

・・・そんなわけで、上流端をつきとめるのは難しい。今回歩いたさいに川っぽいと思ったものを、地図に水色で示します。市谷砂土原町にあるので、砂土原町支流(仮)としておきましょう。すぐ西に長延寺谷支流(仮)の谷があります。

さっきの感動の開渠から下、河口部分は市谷田町にもかかり、もう谷っぽさは失せてしまいます。「砂土原」という名称の由来ですが、本多佐渡守の屋敷があったので佐渡原と呼ばれたことと、市谷田町を埋め立てる砂土取場であったことの両方からきているもののようです。つまり、やはり市谷砂土原町も市谷田町も、地形が改変されているようです。

Momijie9 

外堀通りを歩きます。つまり本流に合流。
たぶんこの歩道のあたりが、紅葉川暗渠なのだな、などと思いつつ。

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少し東に歩くと、日仏学院があります。古さと白さが良い感じの建物。崖の上にあり、下から見るとこんな聳え方。

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フレンチを気軽に食べられるレストラン(ラ・ブラスリー)が併設されています。
ある日のランチ。千円ほどで、ちゃんとおいしいのです。ランチにはこのワンプレートのほか、2種類ほどコースがありましたが、コースも抜かりなくおいしかったです。
春や秋に、テラス席でワインを飲むのも気持ちいいでしょうね~。

日仏学院の前の坂は逢坂といって、築土神社の飛地社があります。築土神社と書きましたが、これは筑土八幡神社(実は牛込川の流路脇にありました)と以前ならんで建っていた津久戸明神社(第二次世界大戦で全焼し九段北に移転)が残したもの。
そして、お社の前には「堀兼の井」の案内板もあります。掘兼とは「堀りかねる」の意で、苦労して掘った井戸とされ、ほかにもいろいろな地で同名の井戸を見ることがあります。
ここの市谷の堀兼の井には、
「昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。」
という伝説があるのだそうです。
・・・。

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そしてその案内板のすぐ近くに、こんな現代的な井戸が佇んでいるのでした。あたかも簡単に機械で掘ったような井戸が。。。
いや、まさかこれが掘兼の井だったりするのかな・・・

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また別のある日。
外濠にある、カナルカフェでワインを。紅葉川とも縁のある、お濠を目の前に。
こっちは、イタリアンですが、ここのグリーンカレーも好きです。

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すずめ、カモ、鯉、電車、水面などをながめながら、ゆっくり時間を過ごします。

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あそこらへんに、牛込駅の駅舎があったんだよなぁ・・・なんて、見上げたりしながら。そういえば、牛込駅跡のお店もイタリアンですね。

そろそろ紅葉川の河口が近づいています。前半部分から、すでに積み残しの多い紅葉川探索ですが、いよいよ次回は最下流部の支流をご紹介したいと思います。

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紅葉川をねちねちと歩く その10 外濠との関係

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そろそろ、紅葉川編を再開したいと思います。紅葉川については、9つの記事を書いてきましたが、その殆どが支流中心でした。(支流が面白いからなんですけどね。)

今回は本流に戻りたいと思います。前回、左岸の長延寺谷まで行ってしまいましたが、戻って戻って・・・本村町あたりまで戻って。ここは坂町~本塩町あたりの本流跡です。

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防衛省が見えます。防衛省敷地内にも湧水池があったことについては、以前触れました

実は、この付近の紅葉川本流って、さまざまな描き方をされていて、なんだか難しいのです。ある地図では靖国通り沿いに描かれ、ある地図ではわたしがいま立っている靖国通りの一本南に描かれる、といったように。付け替えられたのかもしれないし、アチコチ流れていたので表記が一様でないのかもしれないし。

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ある地図では、こっちに本流は進みます。

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道はカクッとクランク状に曲がっていますが、川もこう曲がっていたかもしれないし、そうでもないかもしれない。
後日追記:このクネクネ道、地元の方が「昔は川だった」と仰っていたそうです。昭和ひとケタ生まれ(推測)の方のようなので、紅葉川らしき水路についての「昭和初期に暗渠化された」という下水道局の記述と併せて考えると、実際にご覧になった可能性もあると思います。
いまでも、この近辺は大雨が降ると水が集まってくるといい、そんなことも川の名残と感じてしまいます。(44zippyさん、情報ありがとうございました。)

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ともかく、地形も道の感じもさして特徴がなく、比較的暗渠っぽくない道だと思います。

が、ここをまっすぐ流れて、

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外堀通りに出ます。これは川が出たところから南側を眺めたところ。

ある古地図では、この道に沿って四ツ谷駅のあたりから小川のようなものが流れてきています。この歩道のあたりでしょうか。

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その四ツ谷から来た流れは、ここを下って行って、紅葉川本流と合流するようなんですが・・・やっぱり、跡形もないですね。

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ここは市谷八幡町の交差点付近、上流方向を振り返ったところです。
富久町、四谷4丁目、愛住町、河田町、荒木町、本塩町、など、あちこちの水をあつめてきた流れが、ここでまた四ツ谷方向から来た水とあわさり、市ヶ谷駅の方向に流れていくのです。

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川の感じがわからずとも、車の流れだけは、今でも脈々と。

最近は足の怪我のため、タクシーで移動することが増えたのですが、この場所をよく通ります。もちろん、いつも紅葉川のことを想像しながら通っています。

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さきほど、流路の描かれ方が一様でない、と言いました。今回歩いた紅葉川本流は、この地図に緑色でプロットした部分です。
ほか、たとえば明治19~21年の地図には黄色部分まで、明治28年の地図には濃い水色部分まで、紅葉川らしきものが描かれています。また別な地図には、薄い水色のような流れが描いてあったりもします。

地図には一定以上の小さな水路は描かれないので、地図だけを鵜呑みにするわけにもいきません。現在の地形や建物からは推測もしづらいし、この近辺はとくに川跡探しが難しいエリアだなあと思っています。

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もう少し本流を下ると市谷八幡があって、その次の市谷左内町のブロックが、妙な区割り!
このお隣に長延寺町があるので、通ろうとしたら、通り抜けられないのでした。
この区割り・・・おそらく昔からあるのだと思うんですが、なぜこんなにも袋状なのか。気になります。

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こんどは、流路から外れ、市ヶ谷の駅のホームから紅葉川方向を見ます。

合流口らしきものが見えます。これは下水道台帳を見ると、外堀通りの南側の雨水管(前掲の地図の四ツ谷から来る緑色部分)と、靖国通りを通る下水管に接続しており、後者は大量に雨が降った時にのみ溢れる仕組みだと思われます。
紅葉川の名残、というと、船河原橋の合流口が挙げられやすいように思いますが、この合流口も紅葉川と関わりがあるものだと思います。

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市ヶ谷駅をもういちど。
飯田橋側のお濠より、市ヶ谷側のお濠にいるカモのほうが、かわいくってお気に入りです。それから、この外濠の下には有楽町線の留置線もあって、紅葉川名残の合流口が見えて、市ヶ谷フィッシュセンターもよく見えて、そしてここは駅・・・なんか色々な素敵さを秘めた駅ですね。

ところで、紅葉川について考えるうえで難しいなと思うことが、この、外濠との関係です。この辺りの外濠は紅葉川の谷を利用して作られたとされますが、紅葉川自身がその後どうなったかについては、文献上あまりはっきりしないのです。

古地図を見ていると、上述したように、上中流部も年代により微妙に描かれ方が異なっています。下流部も含め、紅葉川流路には色々な付け替えがあった可能性があるし、外濠と一体化したのか否かについても、なかなか読み取ることができません。「東京ぶらり暗渠探検」では紅葉川に割かれるスペースが残念ながら少ないのですが、外濠造成時に紅葉川は濠に取り込まれた(ので消えた)とする説と、外堀通りの北側を流れ神田川に到達していたとする説とある、と書かれています。

あまりに気になるので、自分でも調べてみました。いくつか関連する記述を抜粋してみましょう。

①「千代田区史 上」に外堀に関する地図があり、「長延寺川の谷」(=紅葉川の谷)が利用されたように載っている。

これだけでは、紅葉川自身がその後どうなったかはわかりませんが、

②鈴木理生氏が「季刊 神楽坂まちの手帖10号」に書かれた「神田川・外濠・神楽河岸」では、外濠は江戸時代初期に「喰違見附の土手の最南端を谷頭にした小さな川」と、「三光町交差点辺から靖国通りを経て防衛庁前から市ヶ谷濠に合流する川」の2つの谷を利用して作られた、としている。
③「東京の公園と原地形」(田中正大著)によれば、外濠の北側は長延寺川の谷を利用しているとされる。この長延寺川(=紅葉川)を堰き止めたものが飯田濠、牛込濠、新見附濠(明治以降)になっている市ヶ谷濠は市ヶ谷見附に堤を築いたものだが、長延寺川本流ではなくてその支谷を堰き止めたもの
④「神楽坂界隈」(新宿区郷土研究会著)では、紅葉川らしき流れを「外濠川(仮)」とし、外濠はジク谷(注)を利用したものとしている。(注:「ジク谷」は以前愛住町支流(仮)のときに川田窪のこととしましたが、この文献ではジク谷は市ヶ谷近辺の谷全体をさしているようです。)

②の1つめの川は、更なる紅葉川水源のようにも見え、胸が高鳴ります(③の後半も同様)が、いまは外濠の話なので置いておき。・・・②の2つめの川は紅葉川と同じ流路ですが、「市ヶ谷濠に合流」という表現により、外濠に取り込まれるように読めます(そして面白いことに、この説を取ると、最後から2枚目の合流口が②の2つめの川の直接的な名残のように見えてきます・・・)。
③、④も紅葉川自身が外濠となった、という書き方であり、外濠造成以降の紅葉川については言及されません。一方で、

⑤「江戸名所図会」の市谷八幡宮では、八幡宮の階段を下りきったところに、水路が描かれている。その護岸の低さや幅の狭さからいって外濠とは考えにくい。「東京の空間人類学」(陣内秀信著)でも、この絵について「下には川が流れ」という解説をしている。
⑥大正11年の東京市牛込区の地図を見ると、外濠の北西にしっかりと水路が描かれている。それは、富久町から来る流れが現防衛省の前を通って来る流れとつながっているようだし、最終的に神田川に注いでいる。
⑦「神楽坂界隈の変遷」では、明治20年内務省地理局図をもとにした地図に、外濠に並行する水路が載り、「市ヶ谷田町ヨリ流ル大下水」とされている
⑧「川の地図辞典」では紅葉川のことを、「現防衛省の南側を現在の靖国通りに沿って」、「四谷見附方面からの流れを合わせ」、「市谷から飯田橋へ外堀通りに沿って流れ」ているとする(菅原健二著、「川跡からたどる江戸・東京案内」も同様)。

⑧については、いつの時代を指すかにもよるでしょうが、江戸と言っているので、外濠が出来た後になお、また別に紅葉川の流れがあったのだと読むことができます。
⑤、⑥、⑦については、外濠と並行する水路の存在を示すものであり、これが紅葉川なのかどうかが非常に知りたいのですが・・・、

わたしとしては、外濠は紅葉川の谷をたしかに利用しているけれど、紅葉川の流路は外堀通り沿いに小川となって生きつづけた、と捉えたいな、と思っています。「江戸の川あるき」(栗田彰著)の紅葉川の項で、下流部分は大下水扱いされていた、と書かれています。この大下水が、上記⑤~⑦の水路にあたるのだ、と考えることが出来ます。
だいぶ自分の願望にまみれた考察ですが、市ヶ谷~飯田橋間を歩く際、この足元に昔は紅葉川が流れていたんだ、と思えたらうれしいし。この後紹介するいくつかの支流、それから、牛込城まわりの崖からしみ出した湧水などが、明治や大正も、神田川までさらさらと流れつづけていた、と思えたらうれしいし。

外濠との関係を考えるとき、いくつか紅葉川の別名が登場しました。紅葉川については、色々な呼称と流路がみられます。それについては、最終回にまた、お話したいと思います。またも写真が暗渠感に乏しいものばかりでしたが、今回はこれにて失礼つかまつる。

後日追記:コメント欄でのsumizome_sakuraさんとのやり取りにおいて、新たに探した情報。
紅葉川下流部に関して、1641年に石垣の大下水(幅約1.8m)が作られたという記録が「御府内備考」に残っているそう。市ヶ谷近辺の町の下水も流していたとのこと。昭和初期に暗渠化されて現在は市ヶ谷幹線になっている(下水道局webより)。

お濠を掘ってみたものの(紅葉川兄)、しまったこれじゃ水が処理しきらんじゃないか、ってことで、新設された紅葉川弟。異なる運命を辿り、いまは外濠と市ヶ谷幹線とに分かれて、わたしたちを助けてくれる紅葉川兄弟・・・。
とも考えられるし、石垣の大下水はもとからあった水路を強化したものと捉えれば、旧紅葉川=親であり後に大下水、濠=子、とも考えることが出来る。

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桃園川グルメエリア

あけまして、おめでとうございます。
新年1発目の記事には、やっぱり桃園川を持ってきたくって。かねてよりしまっておいた、小ネタ記事でご挨拶に代えたいと思います。

桃園川を歩いていると、本流であれ支流であれ、食べ物屋さんに遭遇することはあまりありません。どうしても川からちょっと逸れて何か食べることになるのですが、その「ちょっと逸れて」も、川が目視できないくらいの距離であることもしばしばです。

ところが、川からそれほど離れずに、しかも秀逸なお店が2軒もあるエリアがあります。

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そのお店とは・・・
一軒目は、「伊賀」です。
すでに、味噌maxさんがこのお店の威力について良質なレポをされています。

いや~・・・ここ、前を通ると確実に気になっちゃうと思います。だって、だって、・・・ハンバグ!!

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おそるおそる入って、ハンバグ頼みます。店内には伊賀方面のなにかが貼ってあり、だから伊賀なのか?と、ちょっともやっとしたことを覚えています(前すぎて詳細が思い出せない;;)。

ハンバグ定食。これがうまい!!ハンバグはやわらかく、ソースがこれまた好みの味。目玉焼きの焼き加減絶妙。スパゲティもうまい!ご飯がすすみます。コスパがとても良いです。

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これはハムカツ。
さっくさっくです、揚げたてですよ奥様!!

この2品を食べただけですが、むむぅ・・・このオヤジ、デキルな。きっと料理のセンスが良い人だな!そんなことを思いました。

他にもいろんなメニューがあって、どれもうまいんじゃなかろか。外観も中の雰囲気も実に良いし。たまに行ってはいろいろ試したい店です。

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外観はこう。
宮園荘、という古びたアパート?の1階にあります。この地は確かに以前は宮園でした。2階への入り口は、ここが宮園だった頃でストップしているかのようでした。

「きたなシュラン」も来たみたいです・・・どうも、素敵だと思って入る店、きたなシュランと被る確率高いです。

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店から外に出て、ふっと左に目をやると、道路のところに桃園川のモッコリが見えます。

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桃園川本流の中でも、「宮園橋」の欄干がそのまま残っているという名所の一つ。

そんな良い場所のすぐ近くに、伊賀はあります。

他にも、桃園川の旧本流の「かうしんばし」、西町天神支流、牧場跡開渠など、桃園川関係のワクワクが詰まっているエリアでもあります。

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もう一軒は、伊賀のはす向かいにあります。「イルプリモ」というイタリア料理店。(この写真は以前の記事の使いまわしですが・・・)
よしながふみが「愛がなくても食っていけます」で絶賛している、濃厚イタリアン。この写真はボンゴレですが、これだってねっとり美味しい!ほか、蟹やエビのトマトクリームのパスタ、リゾット。ジェノベーゼ系。なんでもおいしいです。ランチがちょっとお得で、ワインでも飲んじゃったらとってもしあわせです。

この、中野~高円寺においてもわたしが良店と思っている2軒が揃っている、桃園川グルメエリア。暗渠さんぽのついでに、ぜひお勧めしたい場所です。

今年も、こんなふうに色々食べつつ、暗渠を歩いていきたいと思いますので、どうぞ、よろしくお願いします。今年がみなさまにとっても、少しでも良い年でありますように!

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