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風船爆弾と、別世界につながる暗渠 前編

何か月も前の写真で記事を書くことに早くも飽きてしまい、
なおかつ久しぶりにいろいろ歩けた日があったので、
今回は川崎にとんで、軍事モノと自然派モノで一本、書こうと思います。

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ここは生田の駅です。
降りると、いきなりワイルドな崖がお出迎えしてくれます。
今なら、紅葉も付いた、秋の渓谷のような景色が待ってます。・・・ちょっと、びっくり。
ここ、駅前だよねえ??

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崖下を流れるのは、五反田川という川です。
さっそく、五反田川の支流暗渠が向こうから走ってくるのが見えます。合流口からは湧水のようなものが滴っていました。

落ち葉の間を縫って、ゆったりと曲線を描き・・・紅葉もいいけど、暗渠もね、っていうくらい、カーブするコンクリ蓋のうつくしさったらないです。

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てくてく歩いていくと、明治大学の生田キャンパスにたどりつきます(この日、道でマンホール写真を撮りまくっている女の子がいました・・・親近感w)。

キャンパスは崖の上にあるのですが、それにしてもだいぶキツイ上り坂ですね。

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このキャンパスは、谷に囲まれた土地にあります。この地図における敷地の境界線は殆どが崖のようなもので、北に向かう2つの谷戸に挟まれています。
なぜそんな立地なのかは、後述する、以前の所有者の意図に拠ります。
ちなみに、地形図や航空写真を見ると、2つの谷戸は南端でつながっているようにも見え、不思議な地形です(そう見えるだけなのかもしれないけど←今回はそこまで歩いてない)。

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そういえば、崖の上。
ってことは、その下には?
・・・やっぱり、ありました、一流。

ここは登校路門という門らしいですが、その門の真ん前をちいさな流れが横切っていきます。おそらくそれほど遠くない場所で湧いてきた水が、こんなに深いところを通って、

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門の所でだけ暗渠になって(このゴミ袋の下で、かつ、階段の下)、

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そして線路のほうに向かい、五反田川に合流するようです(この藪の中)。

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さて、門から急斜面を上ってゆくと、さっそく軍事遺構があります。
生田神社と、その境内にある登戸研究所碑。ここ明大生田キャンパスは、旧陸軍の研究所(登戸研究所/正式名称は第九陸軍技術研究所)があったことで知られています。登戸研究所とは、兵器開発の第一科、生物化学兵器やスパイ用品開発の第二科、偽札製造の第三科、製造工場の第四科からなる、秘密戦のための研究所です。勤めていた人でさえ中で行われていたことを知らなかったり、そもそも、その存在自体も、秘匿とされていたものです。

そして戦後、慶応、北里、巴川製紙などがこの地を使い、1950年に明治大学が購入、今に至ります。生田神社は、明治大学が豊穣の神などを祀りなおしたもので、もともとは弥心神社という、陸軍軍事技術有功章の賞金で建立された神社です。その当時は、戸山ヶ原(登戸研究所の前身)から分祀した、発明の神が祀られていたといわれます。また、殉職した勤務員を慰霊したり、勤務員が徴兵された時にはここで出征式を行ったりしたのだそうです。

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・・・見るものは色々とあるのだけど、大学に来たならば、学食を覘くのが自分的お約束です。
お~、学食、やってました。そばのお店で、「ぶた天そば」と「ミニカレー」。しめて520円也。
ぶた天、もっと薄い肉だと思っていたのに、わりと厚くしっかりしてました。そばも中太のしっかりめ。味は、カレーもそばも、ちゃんと学食味!これがおいしいんだよね~~。けっこう多かったので、お腹いっぱいになりました。

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お隣にも学食棟があって、しかも、その前には次なる軍遺構がありました。
消火栓です。少し埋もれちゃってますが、陸軍の☆マークがついてます。

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キャンパスの南側へと歩いていくと、喫煙所のところがとても良い眺めでした。

谷を挟み、向こう側の崖上には団地が見えます。この団地、大学とは無関係のようですが、実はかつてはここと同じ陸軍の敷地で、第四科の製造工場があった、とされています(工場、と言っても5~6人ずつが作業する小規模のもの)。
また、四科の敷地は生田中学校あたりまであったとされますが、前掲の地図では、中学校の敷地にかかるかのように、地下を貨物線が通っています(破線)。まだ文献を見つけていませんが、工場で生産したものを、貨物線を使って運んでいたのでは?と、想像してしまいます。

それから、なぜこのような崖上に建っているのかというと、電波兵器の開発のため高台に、という意図があったようです。もとは新宿の戸山ヶ原にあった秘密研究所ですが、1937年に登戸実験場(後に改称)をつくり、電波兵器の実験を開始しています。

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さ、キャンパスの北西の端につきました。ここが登戸研究所資料館です。
外からだと新しく見えますが、もともとコンクリート製の、第二科の戦争遺跡で、それをきれいにして保存しているようです。生物兵器開発が行われていた建物で、史料によっては「枯葉剤研究室」と載っています。それを、2009年まで明大農学部の研究棟として使用していたそうです。

今も内部には、古い水場や、暗室へのアプローチ(クランク)がそのまま残っています。
12月17日まで風船爆弾の展示をやっていたので、それを見にきたのでした。風船爆弾(「ふ号兵器」)は、第一科の開発による、実際に使われた兵器であり、おどろくほど高い技術(高度維持装置や着弾時の自爆装置など)と、日本の知恵(和紙とこんにゃく糊)があわさったもの。そしてその和紙は、埼玉県小川町に流れる清流を使って、手すきで作られたもの、という、ここでも「川」が関わってくるものなのです。
他の科のこともたくさん説明されていて、気合の入った展示でした(お金も手間ひまもかかってる感じで充実!)。複雑な気持ちにはなるものの、記憶しておくべき内容が多く、かなりおススメの資料館です。

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資料館はキャンパス内でも標高が高いところにあり、すぐ下に軽い崖がありました。そこらへん一帯は農学部のものらしく、いろんな植物等が育っていましたが、なんとミニ田圃みたいなものもありました。そして、そんなに寒い日ではなかったにもかかわらず、日陰にある田圃の水はしっかりと凍っており、「この程度の天候で氷ができるんだったら、そりゃたしかに東京の川沿いにも氷室ができるわけだ」などと、妙に納得したのでした。

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あ、そうそう、これも地味に遺構です。
資料館前に、陸軍時代の防火水槽がありました。まるくて、まあまあ大きいです。

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資料館のすぐ南には、弾薬庫があります。じつにひっそりと。
弾薬庫と呼ばれていますが、登戸研究所で作られたもの(小型缶詰爆弾、鞄型カメラや蛇毒入り注射器、毒入りチョコレートなど)を入れておく場所だったようです。

登戸研究所の建物は、次々なくなってきており、2011年まで残っていた五号棟(贋札の印刷工場)が2月の見学会を最後に解体されてしまった今、当時のまま残る建物は、この通称・弾薬庫ばかりとなってしまいました。

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図書館の近くには、二個目の消火栓がありました。
かつては火薬を使うような兵器も開発されていたこの地には、もっとたくさんの消火栓があったはずですが、構内に現存するのはこの二個のみなのだそうです。

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これは花壇のようになっていますが、資料館前の防火水槽をみてしまうと、これも同様、防火水槽に見えてしまうんですが・・・どうかな?

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おおきなヒマラヤ杉たち。
このヒマラヤ杉は、登戸研究所時代の写真にも写っており(もっと若い姿で)、当時からあったものだそうです。また、このヒマラヤ杉付近は当時の道のかたちがそのまま残っているのだそうです。

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そして、ラストの遺構がこれ。動物慰霊碑です。
1943年に陸軍技術有功章の賞金(当時の1万円、いまの1千万円ほど)の3割ほどを使って建てられたものだそうです。実に大きな立派な碑なのですが、敷地の端も端といったところに、ひ~~っそりと立っています。
動物実験を行っていた科が建てたそうなのですが、登戸研究所に勤めていた方でも、違う科の方はご存じなかったりするそうで、前出の弥心神社(同時期に建立)に比べて圧倒的に知名度が低いようです。現在たまたま明大の農学部がそのまま動物慰霊祭などで使っているため現存するけれど、もしそうでなかったら、残っていなかったかもしれない・・・?とてもひっそりとした碑だったようです。そして、この、「動物」のなかにはおそらく、実験対象となったヒトのいのちも入っているのでは、というふうに考察されている・・・重みのある碑です。

ところで、この慰霊碑の後ろの空き地が崖下になっており、かつ草ぼうぼうなのでとても気になり、動物を捨てた場所だったのではなどと想像めぐらせていましたが、大学の方に聞いたところ、3年ほど前まで建物があったそうで。たしかに、後で資料を見ると、しっかり民家らしきものが建っているのでした。

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慰霊碑は、ほぼ正門の所にあります。正門を出ると・・・そこに広がるのは、お隣の谷戸でした。明治大学のお隣は専修大学で、専修大学のグラウンドのようです←明治大学のグラウンドでした。このグラウンド・・・昔は田圃で、川が流れていたことでしょう。

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坂をっていると、気になる感じで道端に祀られている神様が。その地面には、じっとりと湧水が・・・そう、ここは川崎だし、湧水やら開渠やら暗渠やらをもう少し追って帰ろう、と、もっと歩く決心をします。うん、向ヶ丘遊園まで歩いて行こう。

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早速、ちょっと粗い素材の全面包囲型暗渠発見。その暗渠は直角に入り込んでくる支流をもっているようで、

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その支流は今まで見たこともないような、ヒューム管剥きだしタイプ!!
こんなんアリですかー?

さすが川崎、やっぱりすごいぞ!

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と、思っているうちに、あっさりと五反田川のほうに流れて行ってしまいます。

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さて、先ほど見たグラウンドのある谷戸の、下のほうを横断しようとすると、おお、調整池!
しかも、この調整池、専修大学が管理してる!!
いままで、自治体が管理している調整池しか見たことなかったので、ちょっと興奮しました。

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へぇ~、見た感じは平均的な調整池という感じです。
大学もがんばってるのねぇ。
この下流にある住まいを、守ってるのですねぇ。

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今日は乾いてますが、耳を澄ますと、どこかからせせらぎの音がします。
お、あの草ぼうぼうの中に水路が一筋。

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ここから五反田川方面に注ぐようです。

さてさて、この後、もうちょっと探検は続きます。が、長くなってしまうので、後編に分けて書きたいと思います。

陸軍中野学校、そして登戸研究所に関する記事(しかも暗渠に絡めた)を、書いたわけなので、そのうち習志野にも行かなけりゃなぁ・・・とも、思ったりするのであります。そして、これら秘密系の施設のうち、前者二つが、同じ大学の敷地になるという不思議。

<参考文献>

山田朗 2011 文化財講演会「明大キャンパスの戦争遺跡」講演資料
姫田光義 監修 旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会 編 2009 フィールドワーク陸軍登戸研究所 

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コメント

<補足>
今回の文末は、ユキヒロタカハシ・スタイルを意識してみました。

投稿: nama<補足> | 2011年12月20日 (火) 11時48分

「ンタタタ タタタタ!」
「Oh!ベリーフェイマース ユキヒロタカハシ エンディーング!!」ですなw
ってこの感じ、誰がわかってくれるか楽しみですww

投稿: lotus62 | 2011年12月20日 (火) 18時10分

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