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2011年12月

風船爆弾と、別世界につながる暗渠 後編

またも、更新が遅れてしまい、いつの間にか世の中は大晦日です。
実は足の骨を折ってしまい、なんだかんだと、PCに触れないまま時が過ぎていました。全治3か月ということなので、おそらく今後しばらく暗渠さんぽが出来なくなってしまいます(幸い記事は溜まっているので更新できますが)。今年はずぅっと思うように暗渠のことも出来ずに来たので、来春以降、もう少しできたら良いなあと思っています。今年やる予定だった、「桃園川旧流路と名称の謎について」をメインのテーマに、それ以外にも行きたいところ、縁のあるところなどを来年に持ち越したいと思います。
というわけで、今年最後の更新は、前回の続きの生田近辺の記事となります。はじまり、はじまり~~。

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さて、専修大学の敷地のある山から、下ってゆく道路に出て、向ヶ丘遊園駅をめざします。山間の住宅地のようなところを、暗渠はいねがー、と、きょろきょろしながら。

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すると・・・あった!あった!これもきっとすぐ上から湧いているはずです。

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さらさら流れています。クランク状に曲がって下る。
五反田川支流のようです。たまらず、追います。

しばし住宅の間の道なきところを流れ、

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上流部分ではみごとに蓋暗渠となるのでした。

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しかも、こんなふうに、ジェットコースターみたいな下り方をして!!

龍の腹のようでもある!カコイイ

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蓋が、雑に開いているのはご愛嬌(川崎だから)。

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ちょっと、違う大きさの蓋がまぎれているのも、ご愛嬌(そう、川崎だから)。

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こんなにのどかな場所でなんで暗渠にしてるのか、よくわからない感を醸しつつも暗渠は曲がりくねり、

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また別な流れと合流します。
両側の山からぞくぞく湧いてるみたいです。

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この合流する流れは、建築資材で蓋されまくってます。

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さらに、上流のほうからも1本下ってきてます。この道の先には、地図には何も書いてありませんが、戸隠不動尊跡地というものがあります。平成5年に焼失してしまっているようです。

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いま遡ってきた水路は写真右奥から手前に来るもの、戸隠不動尊跡地方向から来る流れが写真左手前から奥に行くもの。

さらにさらに、写真左方向からも一本伸びてきて、こんなふうに合流しまくっています。

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その、左からの流れは山の麓を這ってくる蓋暗渠で、これがなんとも気になります。自転車で見えにくくなっちゃってるけど。
山を登ってたしかめにいくと・・・そこは、

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こんなんなんってました!
ほたるの里!!?
水路が、湿地が、田圃が・・・・!!

このあたりから、「なにこれー!」「すごーい!!」と、筆者歓声をあげまくります。

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山から下りる、ウッドな階段がありました。その先は・・・

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パラダイス!!!

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湧いてる!!なんかジャバジャバしてる!あきらかに湧水!!

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池あり!

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田圃あり!

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ワイルドな水路あり!

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ワイルドな水路の来る先を見つめると、ここがどこなのかわからなくなってきます。いまは昭和なのだっけ。ここはどこなのだっけ。

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谷戸の、両側を小さな、けれどたのもしい小川が走っています。これは、西側の一すじ。

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これは、東側の一すじ(藪の中ですね・・・)。小さな滝のようなものもありました。すべてが自然のままです。

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両側の小川のほかに、谷戸の中央をくねるようにして何すじかが流れています。

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ふと、ノルウェイの森の「野井戸」のことを思い出しました。
もし、いま足元にあるウッドデッキがなかったなら、とても気を付けて歩かねばならなくて、きっといくつもいくつも野井戸があって、いくらでも落ちてしまうかもしれない。

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そんなことを思いながら、ウッドデッキの下を見てみたら、じゅくじゅくと水が湧いていました。いちめんの湿地帯だったんですね。

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しかし、こんな場所があったなんて、ぜ~んぜん知りませんでした。比較的最近できたのかと思ったら、やや古めの看板もあって「ハンノキ林の植物」のことが書かれていました。見上げてみます・・・ハンノキはどれかな。
平地の湿地にはハンノキを中心とする高木林があり、湿地独特の植物群落をつくっていたけれど、いまは湿地が開発されほとんど見られないので、このハンノキ林は貴重。とのことです。

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まむし看板の出現です。まぁ・・・いる、よねぇ、きっと。週末でしたが、かなり人が少なめなので、まむしもノビノビ生活してるかもしれませんね。

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谷戸を登っていく形で歩いていきます。相変わらず湧いてます。でも、なんか、水がそんなにきれいじゃないのです。油分のようなものがまぎれてたり、王禅寺みたいな黄色っぽい感じがあったり。なぜだろう?土の性質なのかもしれないけど・・・、入り口のほうの湧水は澄んでいたのに。

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ミニ谷頭みたいな場所もちょこちょこあって、そういうところにはこんなふうに池ができていたりしました。やっぱりそんなに澄んでいなくて、生き物のざわめきも感じないけれど。・・生き物のざわめきは、むしろ、この崖の上部から聞こえてくるのです。

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ちょうど、専修大学の校舎が崖の上に建っているのでした。いくつかの楽器のおと、学生が生活する感じが、尾根のほうからしてきます。なんとも不思議な感じです。大学生たちは、この崖下にこんな自然があること、知っているのかな。知らないんじゃないかな。それとも、デートに使ったりするのかな。。

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この谷戸はいまは草地・湿地だけれど、以前は水田だったようです(gooの昭和38年航空写真)。
両側に水路、斜面は雑木林。真ん中に水田や畑が昔からあって、周りを囲む雑木林は、まきや炭、肥料を作るために育てられたものなのだそうです。案内板によれば、どうやらカブトムシやクワガタがいるらしいです。あ、もちろんホタルの里なので、ゲンジボタルも。

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それにしても、コンクリ蓋暗渠を追ってきて、こんな景色に到達するなんて。思いもよらぬ、ぜいたくな暗渠さんぽとなりました。

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だって、谷から上がればすぐに、この風景ですよ・・・。

今いたところはどうやら、生田緑地の一部のようです。生田緑地で有名なのは日本民家園やばら苑の方面でしょうか、川崎市内最大の緑地で、昭和16年からあるようです。今回は歩いていませんが、生田緑地周辺にはいくつか戦争遺跡があるようで、なかでも驚いたのは地下壕です。生田緑地の地下(東口駐車場の奥)には、「高さ2~3.5メートル、幅2~4メートル、総延長268メートル」の大きな地下壕が残っているというのです。東芝が軍需の地下工場にしようとしたところ、使用前に敗戦となってしまったもののようです(「フィールドワーク 陸軍登戸研究所」より)。
ほか、枡形山には探照灯基地や、高射砲陣地があったといわれます。前出の専修大学キャンパスには、戦時中は日本電気生田研究所があって、電波兵器の研究をしていた、ということです。

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さあ、尾根に戻って終わるのではなく、ちゃんとさきほどの湧水の行く先を見届けたいと思います。最初に小川を見つけた地点まで戻って、下流を臨むと、さっそくコンクリ蓋暗渠がありました!しかも、横のガード付タイプの、幅広な立派なやつです。

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道路を横断するという、萌えポイントもしっかりと押さえてくれています。

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山の下をじりじりと流れて、

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唐突に、ものすごい角度で曲がりますw

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コンクリ蓋の終わった先は、写真左側の手すりに囲まれた中で、開渠になって、そして小田急線をくぐります。うっはー、見どころが多すぎ!

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暗渠の終わりを喜び勇んで見に行くと・・・、あれ?水量、これだけ・・・?あんなに湧いてたのに・・・

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まあ、いいか、とりあえず先に進みます。線路を渡って、続きを探します。川崎において水路を見つけたいときには、アレです。アレw ゴミ捨て場w

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やっぱり、ゴミ捨て場の下にありました。こっち側は2連で、後ろには物置みたいなのが見えます。

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ずいぶんアクロバティックに置いてあります。・・・どうやって出し入れするんでしょ・・・

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水路は何も気にせず、流れてきます。

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反対側もゴミ捨て場で、珍しい(お手製だろうな~)からし色の木蓋でした。

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もうすぐ五反田川です。いい感じの眺めです。

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トリプルゴミ置き場、気に入っちゃったので何枚もw 道路を横断する暗渠も見えますね。

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こんなふうな、ざっくりとした支流暗渠もありました。

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いよいよクライマックスです。ジャバァー!
なるほど!水量が少ないと思ったら、下を雨水管が通ってたんですね。むしろそっちのほうが多いかも。

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しゃがんで見てみると、合流口の間際までは開渠で来ていることがわかります。

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それにしても、ゴール地点の五反田川はずいぶん曇った色でした。すぐ近くに二ヶ領用水が流れていますが、こっちのほうが水質はずっと綺麗です。
この後、仙川に寄って下水道写真家:白汚零さんの展示を見させていただき(お話もしていただき、ホント感謝です!2012年下水道カレンダー、および来年の暗渠内写真を楽しみにしています)、下北沢に寄ってテト家をひやかして(コンクリートドリンク、良かったなあw)帰ってきました。

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さてさて、今回の行程です。水色が今回追った五反田川支流の暗渠&開渠。「ホタルの里支流(仮)」とでも言ってしまいましょうか。そしてその、ホタルの里の湿地帯が、水色の枠内です。湧水に癒されたい人に、おすすめです。個人的には、暗渠蓋が途切れた直後の、別世界突入ぶりにしこたま感動しました。

さて、これで今年の更新はおしまい。ずいぶんと記事を書けない時期が続いていましたが、それでも読みに来てくださった方、コメントくださった方(ツイッター上でも)、本当にありがとうございました。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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風船爆弾と、別世界につながる暗渠 前編

何か月も前の写真で記事を書くことに早くも飽きてしまい、
なおかつ久しぶりにいろいろ歩けた日があったので、
今回は川崎にとんで、軍事モノと自然派モノで一本、書こうと思います。

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ここは生田の駅です。
降りると、いきなりワイルドな崖がお出迎えしてくれます。
今なら、紅葉も付いた、秋の渓谷のような景色が待ってます。・・・ちょっと、びっくり。
ここ、駅前だよねえ??

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崖下を流れるのは、五反田川という川です。
さっそく、五反田川の支流暗渠が向こうから走ってくるのが見えます。合流口からは湧水のようなものが滴っていました。

落ち葉の間を縫って、ゆったりと曲線を描き・・・紅葉もいいけど、暗渠もね、っていうくらい、カーブするコンクリ蓋のうつくしさったらないです。

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てくてく歩いていくと、明治大学の生田キャンパスにたどりつきます(この日、道でマンホール写真を撮りまくっている女の子がいました・・・親近感w)。

キャンパスは崖の上にあるのですが、それにしてもだいぶキツイ上り坂ですね。

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このキャンパスは、谷に囲まれた土地にあります。この地図における敷地の境界線は殆どが崖のようなもので、北に向かう2つの谷戸に挟まれています。
なぜそんな立地なのかは、後述する、以前の所有者の意図に拠ります。
ちなみに、地形図や航空写真を見ると、2つの谷戸は南端でつながっているようにも見え、不思議な地形です(そう見えるだけなのかもしれないけど←今回はそこまで歩いてない)。

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そういえば、崖の上。
ってことは、その下には?
・・・やっぱり、ありました、一流。

ここは登校路門という門らしいですが、その門の真ん前をちいさな流れが横切っていきます。おそらくそれほど遠くない場所で湧いてきた水が、こんなに深いところを通って、

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門の所でだけ暗渠になって(このゴミ袋の下で、かつ、階段の下)、

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そして線路のほうに向かい、五反田川に合流するようです(この藪の中)。

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さて、門から急斜面を上ってゆくと、さっそく軍事遺構があります。
生田神社と、その境内にある登戸研究所碑。ここ明大生田キャンパスは、旧陸軍の研究所(登戸研究所/正式名称は第九陸軍技術研究所)があったことで知られています。登戸研究所とは、兵器開発の第一科、生物化学兵器やスパイ用品開発の第二科、偽札製造の第三科、製造工場の第四科からなる、秘密戦のための研究所です。勤めていた人でさえ中で行われていたことを知らなかったり、そもそも、その存在自体も、秘匿とされていたものです。

そして戦後、慶応、北里、巴川製紙などがこの地を使い、1950年に明治大学が購入、今に至ります。生田神社は、明治大学が豊穣の神などを祀りなおしたもので、もともとは弥心神社という、陸軍軍事技術有功章の賞金で建立された神社です。その当時は、戸山ヶ原(登戸研究所の前身)から分祀した、発明の神が祀られていたといわれます。また、殉職した勤務員を慰霊したり、勤務員が徴兵された時にはここで出征式を行ったりしたのだそうです。

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・・・見るものは色々とあるのだけど、大学に来たならば、学食を覘くのが自分的お約束です。
お~、学食、やってました。そばのお店で、「ぶた天そば」と「ミニカレー」。しめて520円也。
ぶた天、もっと薄い肉だと思っていたのに、わりと厚くしっかりしてました。そばも中太のしっかりめ。味は、カレーもそばも、ちゃんと学食味!これがおいしいんだよね~~。けっこう多かったので、お腹いっぱいになりました。

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お隣にも学食棟があって、しかも、その前には次なる軍遺構がありました。
消火栓です。少し埋もれちゃってますが、陸軍の☆マークがついてます。

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キャンパスの南側へと歩いていくと、喫煙所のところがとても良い眺めでした。

谷を挟み、向こう側の崖上には団地が見えます。この団地、大学とは無関係のようですが、実はかつてはここと同じ陸軍の敷地で、第四科の製造工場があった、とされています(工場、と言っても5~6人ずつが作業する小規模のもの)。
また、四科の敷地は生田中学校あたりまであったとされますが、前掲の地図では、中学校の敷地にかかるかのように、地下を貨物線が通っています(破線)。まだ文献を見つけていませんが、工場で生産したものを、貨物線を使って運んでいたのでは?と、想像してしまいます。

それから、なぜこのような崖上に建っているのかというと、電波兵器の開発のため高台に、という意図があったようです。もとは新宿の戸山ヶ原にあった秘密研究所ですが、1937年に登戸実験場(後に改称)をつくり、電波兵器の実験を開始しています。

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さ、キャンパスの北西の端につきました。ここが登戸研究所資料館です。
外からだと新しく見えますが、もともとコンクリート製の、第二科の戦争遺跡で、それをきれいにして保存しているようです。生物兵器開発が行われていた建物で、史料によっては「枯葉剤研究室」と載っています。それを、2009年まで明大農学部の研究棟として使用していたそうです。

今も内部には、古い水場や、暗室へのアプローチ(クランク)がそのまま残っています。
12月17日まで風船爆弾の展示をやっていたので、それを見にきたのでした。風船爆弾(「ふ号兵器」)は、第一科の開発による、実際に使われた兵器であり、おどろくほど高い技術(高度維持装置や着弾時の自爆装置など)と、日本の知恵(和紙とこんにゃく糊)があわさったもの。そしてその和紙は、埼玉県小川町に流れる清流を使って、手すきで作られたもの、という、ここでも「川」が関わってくるものなのです。
他の科のこともたくさん説明されていて、気合の入った展示でした(お金も手間ひまもかかってる感じで充実!)。複雑な気持ちにはなるものの、記憶しておくべき内容が多く、かなりおススメの資料館です。

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資料館はキャンパス内でも標高が高いところにあり、すぐ下に軽い崖がありました。そこらへん一帯は農学部のものらしく、いろんな植物等が育っていましたが、なんとミニ田圃みたいなものもありました。そして、そんなに寒い日ではなかったにもかかわらず、日陰にある田圃の水はしっかりと凍っており、「この程度の天候で氷ができるんだったら、そりゃたしかに東京の川沿いにも氷室ができるわけだ」などと、妙に納得したのでした。

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あ、そうそう、これも地味に遺構です。
資料館前に、陸軍時代の防火水槽がありました。まるくて、まあまあ大きいです。

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資料館のすぐ南には、弾薬庫があります。じつにひっそりと。
弾薬庫と呼ばれていますが、登戸研究所で作られたもの(小型缶詰爆弾、鞄型カメラや蛇毒入り注射器、毒入りチョコレートなど)を入れておく場所だったようです。

登戸研究所の建物は、次々なくなってきており、2011年まで残っていた五号棟(贋札の印刷工場)が2月の見学会を最後に解体されてしまった今、当時のまま残る建物は、この通称・弾薬庫ばかりとなってしまいました。

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図書館の近くには、二個目の消火栓がありました。
かつては火薬を使うような兵器も開発されていたこの地には、もっとたくさんの消火栓があったはずですが、構内に現存するのはこの二個のみなのだそうです。

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これは花壇のようになっていますが、資料館前の防火水槽をみてしまうと、これも同様、防火水槽に見えてしまうんですが・・・どうかな?

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おおきなヒマラヤ杉たち。
このヒマラヤ杉は、登戸研究所時代の写真にも写っており(もっと若い姿で)、当時からあったものだそうです。また、このヒマラヤ杉付近は当時の道のかたちがそのまま残っているのだそうです。

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そして、ラストの遺構がこれ。動物慰霊碑です。
1943年に陸軍技術有功章の賞金(当時の1万円、いまの1千万円ほど)の3割ほどを使って建てられたものだそうです。実に大きな立派な碑なのですが、敷地の端も端といったところに、ひ~~っそりと立っています。
動物実験を行っていた科が建てたそうなのですが、登戸研究所に勤めていた方でも、違う科の方はご存じなかったりするそうで、前出の弥心神社(同時期に建立)に比べて圧倒的に知名度が低いようです。現在たまたま明大の農学部がそのまま動物慰霊祭などで使っているため現存するけれど、もしそうでなかったら、残っていなかったかもしれない・・・?とてもひっそりとした碑だったようです。そして、この、「動物」のなかにはおそらく、実験対象となったヒトのいのちも入っているのでは、というふうに考察されている・・・重みのある碑です。

ところで、この慰霊碑の後ろの空き地が崖下になっており、かつ草ぼうぼうなのでとても気になり、動物を捨てた場所だったのではなどと想像めぐらせていましたが、大学の方に聞いたところ、3年ほど前まで建物があったそうで。たしかに、後で資料を見ると、しっかり民家らしきものが建っているのでした。

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慰霊碑は、ほぼ正門の所にあります。正門を出ると・・・そこに広がるのは、お隣の谷戸でした。明治大学のお隣は専修大学で、専修大学のグラウンドのようです←明治大学のグラウンドでした。このグラウンド・・・昔は田圃で、川が流れていたことでしょう。

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坂をっていると、気になる感じで道端に祀られている神様が。その地面には、じっとりと湧水が・・・そう、ここは川崎だし、湧水やら開渠やら暗渠やらをもう少し追って帰ろう、と、もっと歩く決心をします。うん、向ヶ丘遊園まで歩いて行こう。

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早速、ちょっと粗い素材の全面包囲型暗渠発見。その暗渠は直角に入り込んでくる支流をもっているようで、

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その支流は今まで見たこともないような、ヒューム管剥きだしタイプ!!
こんなんアリですかー?

さすが川崎、やっぱりすごいぞ!

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と、思っているうちに、あっさりと五反田川のほうに流れて行ってしまいます。

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さて、先ほど見たグラウンドのある谷戸の、下のほうを横断しようとすると、おお、調整池!
しかも、この調整池、専修大学が管理してる!!
いままで、自治体が管理している調整池しか見たことなかったので、ちょっと興奮しました。

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へぇ~、見た感じは平均的な調整池という感じです。
大学もがんばってるのねぇ。
この下流にある住まいを、守ってるのですねぇ。

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今日は乾いてますが、耳を澄ますと、どこかからせせらぎの音がします。
お、あの草ぼうぼうの中に水路が一筋。

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ここから五反田川方面に注ぐようです。

さてさて、この後、もうちょっと探検は続きます。が、長くなってしまうので、後編に分けて書きたいと思います。

陸軍中野学校、そして登戸研究所に関する記事(しかも暗渠に絡めた)を、書いたわけなので、そのうち習志野にも行かなけりゃなぁ・・・とも、思ったりするのであります。そして、これら秘密系の施設のうち、前者二つが、同じ大学の敷地になるという不思議。

<参考文献>

山田朗 2011 文化財講演会「明大キャンパスの戦争遺跡」講演資料
姫田光義 監修 旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会 編 2009 フィールドワーク陸軍登戸研究所 

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京都の平地では暗渠と出会えないの巻

なんだか急に、寒くなりました。
未整理の写真をながめていると、まだまだ今年のあたたかい(というか暑い)時期のものがあって、いまの寒さとは差がありすぎて、記事にするのも妙かな、と思ったりもします。

けれど、寒い時期の写真がいっぱいあるわけでもないのです。なので、今年の春~夏の記事をいくつか書こうと思います。
夏に、京都に出張する機会がありました。

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自分の発表があったり、飲み会があったりで、なかなかさんぽをする時間もないけれど、朝早めに起きてぶらぶらしてみました。

早速、ものすごく素敵な銭湯を発見!錦湯です。
このつくり・・・東京で見てる銭湯とはまるで違うかたち。

入ってみたくてたまりませんが、朝御飯前の時間なので、開いてはいませんでした。

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時間は限られているので、とにかく帰れる範囲で歩きまわります。

残念ながら高低差の無い場所で、暗渠らしいものも全然なく、おのずと注目するはマンホール。下水道蓋が東京のものとちょっと似ていました。

側溝の蓋にも、なかなかすごいものがありました。・・・私・・・!?

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鴨川まで出て、川べりを歩きます。もちろんお店はどこも開いていないので、川床の下を流れている水路を見ながら歩きました。

京都には何回か来ていますが、これまで気には留めなかった場所です。・・・なんとなぁく、裏側部分を見たくなったわけですw

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鴨川もながめます。

流れはずいぶんと浅くて、広い。そして、整備されていて、水もきれいな印象でした。東京の各開渠とはだいぶ異なる印象です。

後からタクシーの運転手さんに聞いたところ、鴨川は以前は”暴れ川”だったのだけど、底を浅くして広げることで、今は大丈夫、とのことでした。その”浅さ”がとても徹底している印象でした。

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上の写真の右端に、暗渠の吐口のようなものが見えています。

拡大。暗渠のように見えるけど、後方には向こう側が見えます。つまり、河川が合流しているようです。

琵琶湖疏水の分流が、まわりまわってきているように地図では見えましたが、よくわかりません;;

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川床の下の流れに戻りましょう。

鴨川同様、浅い水路にちょうどよい勢いで水が流れていきます。淀みも嫌な匂いもなく、しかし魚は棲んでいなくってちょっと味気ない。でも、クレソンが群生してました!あぁ、むしゃむしゃしたい。

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四条大橋からあるき始め、三条大橋まできたところです。橋の下には、写真内に見えるようなミニ橋があって、ミニ調整池のようなものがあるように見えます。

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うーん・・・ミニ調整池っていっても、この大きさではあまり役に立たない気がする・・・不思議な空間でした。よくわからないまま。

そろそろ、朝御飯を食べて宿に帰らないと、集合時間に遅れてしまう・・・。川沿いを離れます。

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また銭湯。明治湯です。

やっぱり、東京で見慣れている建物とは違うようです。
京都ではこういうタイプが多いのか・・・?帰ってからwebでみてみたところ、町家ふうのつくりが多いとのこと。2階は住居になるものらしく、この2階の存在がだいぶ印象を変えていると思います(集会場でもあるのかと思ってました)。東京だったら、上までズドーンと屋根、ですからねぇ。換気の仕方とか、異なるのでしょうか。

また、京都市内の銭湯は大正・昭和初期から残る建物が多く、前掲の錦湯なんて、昭和2年からあるとのことでした!リンク先の、洋風銭湯もすごいですねぇ。実にカッコイイ。これらも見てみたかったです。

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もひとつ銭湯。ここは桜湯の入口。

桜湯は、錦湯と明治湯にみられた町家ふうのつくりではなく、ビルの中に入っているようでした。
それにしても、この”サウナチェリ”の看板が秀逸。”チェリ”だし、添えられた絵がかわいすぎるし、串かつおでんも同列だし・・・
がつんがつんと響いてくる看板です。

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朝のさんぽはそのくらいにして。
あとは、同僚たちと行った観光の記録です。同僚たちとはぐれないようにしつつ、水関係のものを撮った記録といいましょうか・・・。

タクシーで龍安寺へ行ったのですが、その途中にあった暗渠っぽいもの(向こう側の歩道)。

同僚はわたしの暗渠趣味を知っているので、「運転手さんになんか訊きなよ~」(告っちゃいなよ~、的なノリで)という話になって、おそるおそる質問をしたところ、前述の鴨川の話のほか、

・堀川通の「堀」は、明治まであった運河であり、伏見からの入口だった。今は親水空間。
・お土居(おどい)が北の方に残っていて、これは鴨川の氾濫を防ぐ堤防の役割もしていた。北野天満宮内にも残っている。

などと情報をいただけました。運転手さん、ありがとうございました!

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龍安寺につきました。入るとすぐに池が見えてきます。鏡容池。かつてはおしどりがおり、おしどり池とも呼ばれたそうです。
この池、出現する角度にと~っても違和感を覚えたのですが・・・

やはり人工池のようです。後ろの山から湧水はありそうなので、それをどーんと土を盛って(そこにいまわたしが立っている)せき止めたようです。

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だから、目の前は池、立ってるところは盛り土、背後には急峻な崖。という、違和感ありまくりな地形になっているのでした。まさにダム!日本庭園ダム!

ふと目の前には石が二つあり、「水分石」と書いてあります。いったい、どんな面白い由来のある石なんだろう、って不思議がっていたのですが・・・、池の水量を測るための石なんだそうでした。

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帰りの新幹線まで、あと1箇所くらいしか行く時間がなさそうです。なるべく近くをということで、なんとなく、古典で見たことのある仁和寺にいこうかということになりました。

ぶらぶら歩いて向かっていると、小川発見!
ちょうど、背後が山です。朝のさんぽでは不発だった、谷と水路。北部に来ると地形に起伏が出てくるのですねぇ。

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で、ワクワクしながら歩いていましたら。

きたーーー!

アレが道路を横断しているじゃないですか!!突如しゃがみこんで興奮し始めるわたくし。

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その下流はこうでした。
さきほどの開渠とそっくりな感じで、流れ落ちていく水路。
どうやら、さっきの流れもこの流れも、同じ御室川(桂川の支流)という川に流れ込むようです。

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その、上流部は暗渠として続いていたので、鼻息荒くしてさかのぼります。

同僚たち、「これなの?これなのね?」とついてきてくれます。やさしい!

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でも、すぐに開渠に戻ってました。
このナナメっぷりがちょっといいですね。柵の向こうで開渠になり、ずっと山奥まで続いている様子。

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すぐそこにあった、町内会の地図に水路が描かれています。なんか良いですねぇ、水が豊富です。

右上に「原谷へ」と書いてありますが、この原谷(はらだに)という場所は左大文字の山の奥の一帯をさすらしく、別な地図を見ると原谷から市内へ向かう道は「氷室通」と呼ばれるようでした。・・・氷室!!

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もう、興奮し続けています。京都、山間部には水の豊かな気配がします。

ここは仁和寺の敷地の脇なんですが、石垣からジュクジュクとした浸み出しがみられます。

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そして、仁和寺の敷地を囲う、石垣のところにはこんな滝のようなものがありました。
ナニコレ!ナニコレ!ってなって、ガン見していたところ、背後から「それ、なんだかわかるー?」という声。・・・向かい側の敷地にいらした庭師さんが、声をかけてくださったのでした。
庭師さんによると、これは排水溝なのだそうです。石垣の上に敷地があって、そこに雨が降るとここを通るのだけど、雨の日はそれはもう滝のようにここをジャバジャバと流れるのだそうです。
面白がって、この開いてる箇所に手を突っ込んで写真を撮ってみましたが、空の土管があるだけでした(ちょっと、こわい)。

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上部はこうなっています。

ここから雨水を落とすわけです。いったい、どんだけの水が押し寄せてくるんだ・・・

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で、石垣のすぐ下には、一見ふつうの側溝が伸びています。
雨の日はさきほどの滝も含むわけなので、結構な許容量のはず・・・

その側溝は、おとなしく下っているように見えますが、

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なぜか下流に向かうにつれて、逆にだんだんと蓋が盛り上がってきて、

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ぶつっ。

っと、こんなふうに終わります。なんだこれw

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よくわからないけど、とりあえず仁和寺に入ります。

お寺の山門からふと見下ろすと、ささやかな側溝が手前を流れていますが、横断歩道のこちら側に橋のようなものが見えます。水路が通っていたであろう橋。

で、ここで観光はタイムアップ。

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ランチは先斗町で、花柳というお店で軽めのコースを食べたり、酒に菊を浮かべたりしました。元・お茶屋さんという、空間が良い感じ。

ほんとは、外の床で食事がしたかったのですが、いかんせん9月。川床が暑過ぎて、断念してしまったのでした。考えてみると京都には何回か行っているのに、一度も川床で食事をしたことがない・・・。

さてさて、暗渠のさんぽはほとんどできていない今回の旅。ただ、有名なお寺の周辺にも、楽しめそうな暗渠関連のものがある、ということもわかりました。南側にも起伏のある土地がある、ということを聞いたので、次に京都に行く機会あらば、南端と北端を攻めよう、と思っているところであります。

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