三四郎池からの、小川のほとりで晩酌を
最近たまたま目にしたものに、東京大学の”三四郎池(正しくは育徳園心字池)からの谷川”なる描写があって、思わず二度見してしまいました。東京大学の工学部3号館の建て替え工事を行う際に発見されたのだそうです。
三四郎池は、江戸初期に加賀藩によってつくられた湧水池ですが、現在は井戸水を循環させているそうで、水が流れ出ているわけでもありません。したがって三四郎池から流れ出る川、なんて、考えたこともありませんでした。ところが、ある日lotusさんが果敢にその流れを妄想しながら探検していました。・・・ははぁ、そうか、川があったかもしれないのか・・・などと心の片隅で思いつつ居たのではありますが・・・
早速三四郎池へ向かいます。
いまは人が数人、静かに佇むのみの、なんとも静かな場所です。
もともと荒れ地だったこの地は1617年頃に加賀藩の所有となり、立派な庭園となっていったそうです。案内板によれば「八景・八境の勝があって、泉水・築山・小亭等は数奇をきわめた」とのこと。
その池をつくるために地面が掘られ、その土砂を使って”サザエ山”なる山(江戸湾や富士山まで見えたという)がつくられ、そして池の脇には氷室もあったそうです。
池は、主に来客を接待する場所として使われたと考えられていますが、もうひとつ、火除け地としての機能も有していたようです。計6回(少なくとも)は火災に遭っている加賀藩邸の、避難場所として、そして消火用水として泉水を使っていたとも考えられています。
それは、この地が大学のものとなってからも同様で、三四郎池は、関東大震災の際には罹災者の避難場所となったと推測されており、また、池の水を消火用水としたことが本郷区史に載っているそうです。
さて、今回見た記述では、この池から流れ出した水路があったとされます。ということは、藍染川方面(根津方面)にそれが合流する水路もあったということ。
・・・そこで、また異なる機会に発見した暗渠のことを思い出しました。それは、言問通りから南東へのびる道のこと。
上の地図で、キャンパスの周囲をぐるっと囲うように水色のマークをつけたところです。この道を歩いていると、不自然に余っている車道やトイレ、連続麻雀杯マンホールがあったり、そもそもクネクネしていて崖下だったりと、暗渠感満載なのでした。そして明治の古地図を見ると、やはりそこには水路が描かれているのでした。おそらく、藍染川もしくは五人堀に注いでいたことでしょう。
そして、三四郎池から川が流れ出る場所は、いくつかの資料では、上の地図の水色の点々の位置に示されています。その点々のすぐ右下には氷室があったとされます。
池の、該当する場所へ降りて行ってみます。
・・・こっち側、現在は浅いです。水門も見当たらないし、こんなふうに自然に浅い感じになっています。
この位置から、水が出て行ったと思しき方向へいくと、
こうなっています。盛り土でしょうねぇ・・・(またはフェイク岸)。
この場所は1871年に文部省用地として摂取されたそうです。そして、1897年から周辺に医学系の建物が建設され始め、その過程で前出の”サザエ山”は無くなったそうです。その、山を崩した土を使って、三四郎池から流れ出る水路(幅約1.8m)は埋められた、とのこと(その頃には既に空堀だったよう)。
そしてもともと”将軍に氷を献上するため”つくられていた氷室はこの時期にはもはやお役御免であり、キャンパス編入後には撤去されたようです。
大学の校舎がどんどん建築されていったころ、この地の凹凸もどんどんなくなっていったことでしょう。今や川跡の手掛かりとなるはずの谷っぽいものなど皆無ですが、池から出た流れは、この写真のどこかを流れていたはずです。
左手にあるのは安田講堂ですが、考えてみれば安田講堂は崖を挟むように建っているのでした。崖下、川・・・そういえば、な風景です。
視線を右にずらします。かろうじて、今低いのはこちら側。なんとなく、ここら辺を通っていただろうか・・・などと思いながら、歩きます。
写真奥に見える白い壁が、冒頭で書いた、工学部3号館の建設現場の囲いです。
後から資料と照合してみたら、大体この道か、あるいは左側の植え込みか、そこら辺を小川が流れていたようでした。
緑の点々が、三四郎池からの流れです。その流末のほうで、真ん中を川が通っている建物が、工学部3号館というわけです。
”工学部3号館地点は両端が高く、真ん中の流路に向かって低くなる、谷のような地形をしていた”のだそうです。・・・明治のときは、地形無視で、おっきな建物を建てたわけなのですねぇ。
さあ、今ならその工事現場をちょろりと覗くことができます。
下からボコボコ出ている円柱は、帝国大学時代の柱のようです。
正直、谷地形は感じ取れないんですが、なぜか最近出てきた工事現場萌えみたいな感覚があいまって、うれしくなってきますw。
調査のために掘った形跡(たぶん)も見えます。
実はここの見学会があったらしいのですが、今年の3月ということでしたから・・・たとえ情報を得たとしても、それどころじゃなかったろうなぁ、自分。
でもなんとなく、発掘現場の見学会なんてものがあったら、今後は行ってみたいかも。そんなアンテナも立てておきたくなりました。
今度は工事現場を角度を変えて見ただけ。写真の向う側に向かって、下り坂になっています。その向うに、この小川が注ぐらしき水路があります(この水路のことは、またいずれ)。
池からの流れだの小川だの書いていて、そろそろ面倒くさくなってきました・・・言っちゃっていいですか、呼んじゃっていいですか、この流れのことを、三四郎川(仮)と!
三四郎川(仮)の流れは、この写真では右手から入ってきて、やや右曲がりに奥に進むといった感じです。そしてこの流路に区切られるようなかたちで、加賀藩上屋敷と水戸藩中屋敷があった、とのことです。ここにおいてもやはり、川は境目の役割だったのですね。
そしてほとりには、加賀藩の家臣の長屋があったのだそうです。
三四郎川(仮)が通り抜けた、その先にあるのが弥生門。
この前の道の手前側に、三四郎川(仮)が流れ込んでいたであろう水路があります。
その流末は、明治の地図では曖昧です。江戸期の古地図でも、載っているものをまだ見つけられません。・・・宿題ですね。
この門から入るとすぐの、工事現場の壁のところに、いくつか発掘調査の報告が貼られているのでした。これは暗渠好き大興奮の瞬間!
まずは、水路からの出土品。これは桶と漆椀。
長屋にあった地下室(穴蔵のことかな?わくわく)とみられる土坑、それと川沿いの大きな土坑とあるようなのですが、後者はゴミ穴なのだそうです。
そのゴミ穴から出てきたのは、食べかすや生活用品、とくに酒徳利・・・参勤交代=単身赴任の武士が晩酌を楽しんでいたのだろう、と考察されていて、ふっと武士たちに親しみがわいたのでした。
これは井戸です。
「底を抜いた桶を逆さにして積み上げた」タイプの、江戸時代の井戸です。
それが良好な状態で残っています。
そしてそして、これが、三四郎川(仮)の姿です。
石組み部分と、側板で仕切られている部分(木枠部分)とがある、”ややラフ”なつくりなのだそうです。そうかぁ、ラフなのかぁ・・・。
小さな川だったことがうかがえます。この川のほとりの長屋で、武士たちは何を思いながらお酒を飲んでいたのでしょう・・・
なんと橋の遺構まで出てきたそうです。
ここに写っているのは、石橋に使われた石積み、それから橋の基礎である”銅木”というものです。ここは丁寧に作られているみたいです。
うぅーん、おなかいっぱいになりました。暗渠らしさなどほぼ無いのですが、裏付ける資料と、今だけ覗ける発掘現場、というのが美味しいポイントでしょうか。あとは、調査の報告書が発行されるのがとても楽しみです。
工事はまだ時間がかかりそうですが、もし興味をもたれた方がいらしたら、こういうふうに地面が見えているうちに、見に行くことをお勧めします!
<参考>
三四郎池ランドスケープリノベーションプロジェクト(web)
東京大学新聞第2549号
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コメント
ヤラレタw
この水路跡の写真は感動的ですねえ。
それと、そこで暮らしたであろう武士たちのことも。
東大の工事現場展示も素敵ですが、それをこんな思いで眺めるのも素敵ですね。
投稿: lotus62 | 2011年7月20日 (水) 12時55分
>lotus62さん
lotusさんがああいうことを言っていなかったら、わたしはこの資料に目を留めなかったかもしれないんですよね~。
色々思い浮かべられて素敵なんで、この工事現場の展示、機会があったら見てみてくださいまし。
投稿: nama | 2011年7月20日 (水) 17時54分
こんにちは。こちらでははじめまして
三四郎池からの水路!?興味深く読ませてもらいました。
地図で水色点線の、言問通りからの谷筋は、わたしも歩いたことがあります。下流部はすごく暗渠らしい場所ですよね。ただ、上流の谷が、江戸~明治にかけて射撃訓練場に使われていたそうで、谷底がフラットな長方形に改変されてしまっているのが残念でした。
投稿: いいらさん | 2011年7月20日 (水) 18時35分
>いいらさん
コメントありがとうございます!
憧れのいいらさん・・・感激です。
たしかに射撃訓練場でしたね。実は自分は軍事萌えもあるので、あそこを通る時はそれはそれでうれしくなってしまうのでした。もとの地形や水源についてまだ知らないので、もうちょっと探検してみようと思っています。
投稿: nama | 2011年7月22日 (金) 12時06分