紅葉川をねちねちと歩く その6 愛住町支流(仮)
途中になっていた紅葉川をねちねちと下っていく旅を、再開しようと思います。
復習:紅葉川についてはこれまで5つの記事を書いています。
清滝不動尊・五色弁財天からの流れ、四谷4丁目交差点からの流れ、富久町のもうひとつの水源からの流れ、弁天支流(仮)、川田窪支流(仮)とその続き、琵琶湖からの流れ(謎)、の5つで、4つの水源と4つの支流について触れています。その中には、川があった記録有のものと、自分の想像によるものとがあるのでした。
図にすると、こんな感じです(水色部分)。
このうち、弁天支流(仮)については現在の建物等からの想像ですし、防衛省敷地内の琵琶湖からは川があったかどうかわかっていません。そして今回も、川があったとされる文献には行きついていないものの、現在の地形から川があった可能性が高い、と推測しているもの、つまり再び妄想編となるわけです。
・・・と、始まりましたが、今回はまず腹ごしらえをしてから。
曙橋近くの餃子の星、というお店でランチ。「餃子」という文字に弱く、見たらすぐ食べたくなってしまうわたし。このお店は、美味しいのかどうかわかりづらい外観でしたが、入ってみたらオオアタリ!!
入ると、台湾っぽい良いにおいがしています。そして頼んだのがこれ、「星の麺セット」、ラーメン・餃子3つ(でかい)・杏仁豆腐付でなんと600円!しかもラーメンがこんなに具だくさんで。もれなく美味しいんです(あ、ラーメンは並だけど満足するってこと)。
ビールは290円で、冷奴付。机に置いてある自家製ラー油をかけると、もうそれだけで美味しい麻婆豆腐みたいになります。
いやぁ~、コスパが素晴らしくよくって、満足いたしました。
お店を出ると、すぐ脇は暗闇坂でした。暗闇坂って、あちこちにありますねぇ。
・・・思わず「ももんがぁ~、ももんがぁぁ~~、お、お、ももんがぁ~・・・」と、歌ってしまいます。ここの暗闇坂のことじゃあ、ないけれど。
さて、今回辿るのは、紅葉川の支谷のようなものがある、愛住町です。これまで、紅葉川を随分左岸ばかり見ながら下ってしまったようです。なので、右岸をちょっと上流のほうまで戻ります。
略地図を再掲すると、緑色の部分となります。
その、付け根のところから遡りましょう。
本流をてくてく歩いていると、道が分岐します。
この写真の左手の道に入っていきます。
そこは緩やかな坂道になっていて・・・、少しのぼってから振り向いた様子。
左手のお店やさんの看板に「飲料水店」と書いてあります。以前、コメント欄にて、鍵ノ手さんから飲料水屋さんのお話をいただいたことがあります。
調べてみると、江戸期には上水の余水などを水船に載せ、江東地域などの飲料水の無い地域へ運び、水屋が売り歩いていたとのことです(「江東区にみる水利用の歴史」より)。水船業者が水を得る玉川上水の「吐水口」は日本橋のほうであったようなので、このエリアは関係のないお話のようにも思えますが・・・、この飲料水店はもっと後の時代できた清涼飲料水を売るお店なだけかもしれませんが・・・、たまたま、玉川上水の余水吐は尾根を越えたすぐそこにあります。ここが、江戸のころからあったお店だったりしたら、面白いんですけどねえ。
さ、遡ります。
お寺と、すごい崖が見えてきます。浄運寺、法雲寺、正応寺、安禅寺、と、タテにお寺が連なっています。
ここ愛住町は、1636年~に出来た寺町。かつてはチョコっとだけ家があるような地だったのが、牛込~赤坂の外堀開削の際にその地にあったお寺が移転してきたのだそうです。
お寺の向かいには愛住公園があり、ここも土地が高くなっています。
江戸の地図だと、この道の両側にお寺があり、現在より6軒多く建っています。
明治期になると2軒減り、明治の終わりころから公園側の土地に学校が建ち始めます。
今は、学校はなくなり、公園とマンションです。
だんだん深くなる谷。
ここまでくると、ちょっと無理やり切り通してる感もあり・・・。しかし、陰影図で見ると、このちょっと下くらいまでは、自然な谷戸であるように見えます。
水源も定かではないですが、この道自体は江戸期からあったようなので、崖からの湧水をあつめた一流があるような気がしてなりません。。
(日当たりの都合で、後ろを振り返りながら写真を撮っています。)
さあ、登り道もそろそろ終わります。右手にあるのは、イタリアン?カルネヴィーノというお店っぽいです。お肉料理が、美味しそううぅぅ・・・これもまた、暗渠(たぶん)沿いレストランですねぇ。
さあ、これで、愛住町支流(仮)があったと思しき谷は登りました。
後日追記:この通りは「湯屋横丁」と呼ばれていて、その由来はここに風呂釜を並べて湯を沸かし、無料で入浴をさせていたことから、だとのこと(四谷探訪マップより)!お風呂きたー。・・・しかし、それはいったい、どんな光景だったのでしょう?
もう少しすすむと、ふと、脇に怪しい路地がありました。
一本西にある道路とを結ぶ、なんともあやしげな道です。思わず引き寄せられて・・・
・・・こんな。なぁ~んか、あやしい・・。
でも結局なんだかよくわかりませんでした。
江戸や明治の地図を見ても、ここには道も川もありません。建物が並んでいる隙間のようではあるので、細~い排水路があったりしたら、面白いんだけどなあ。
そしてそのあやしい道を抜け出ると、目の前に出現するのが、ほとりカフェというカフェでした。
・・・ここは、川のほとり?ちょっとうれしくなって、入って中国茶を飲みました。
店員さんに、ここが川のほとりだったのかどうか聞いてみると、オープンしたてのお店で、この地の昔のことはご存じないよう。店名の由来は、「ほとり」という言葉に”ある人の縁につながる人”という意味があり、そんな風に人と人とが出会ってゆける場になるようにと、ねがいを込めてつけたのだそうです。(もうひとつ何か仰っていた気がするのだけれど、結構前のことなので記憶が薄れてしまいました。。)
川跡とは関係のない由来でしたが、わたしのなかでは「川のほとり」のイメージが豊かに膨らみ、ちょっと良い出会いとなった気がします。
さ、紅葉川再開第一弾は、暗渠的にはインパクトの薄いものとなってしまいましたが、ここからまた支流を堪能しながら、下り始めたいと思います。ちなみに、「川跡からたどる江戸・東京案内(菅原健二著)」にも紅葉川が登場しています。そこでの記述は、
田安家下屋敷(四谷4丁目)あたりの湧水や悪水と、富久町の饅頭谷の湧水をあわせて東に向かい、現在の靖国通りの南側に沿って流れ、曙橋付近でジク谷(川田窪のこと)の流れをあわせた。
となっており(括弧内はnama追加)、やはり愛住町(および他の妄想支流)の記述がありません。しかし、文献によっては紅葉川の水源のひとつについて「愛住町」と記しているものもあります。すくなくともこの谷のどこかに、小川があった可能性は高いと考えています。あったらいいなぁ、愛住町支流(仮)。
と、ここまで書いて、旧ふろっぐねすとさんを見たら、この谷のことをはっきり「支流」って書かれてますね。きっと根拠となる文献が存在するはず・・・要、再調査。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
最近のコメント