« 2011年4月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月

紅葉川をねちねちと歩く その6 愛住町支流(仮)

途中になっていた紅葉川をねちねちと下っていく旅を、再開しようと思います。

復習:紅葉川についてはこれまで5つの記事を書いています。
清滝不動尊・五色弁財天からの流れ、四谷4丁目交差点からの流れ富久町のもうひとつの水源からの流れ、弁天支流(仮)、川田窪支流(仮)とその続き琵琶湖からの流れ(謎)、の5つで、4つの水源と4つの支流について触れています。その中には、川があった記録有のものと、自分の想像によるものとがあるのでした。
図にすると、こんな感じです(水色部分)。

Momijimap_2 

このうち、弁天支流(仮)については現在の建物等からの想像ですし、防衛省敷地内の琵琶湖からは川があったかどうかわかっていません。そして今回も、川があったとされる文献には行きついていないものの、現在の地形から川があった可能性が高い、と推測しているもの、つまり再び妄想編となるわけです。

・・・と、始まりましたが、今回はまず腹ごしらえをしてから。

Momijia3_2

曙橋近くの餃子の星、というお店でランチ。「餃子」という文字に弱く、見たらすぐ食べたくなってしまうわたし。このお店は、美味しいのかどうかわかりづらい外観でしたが、入ってみたらオオアタリ!!
入ると、台湾っぽい良いにおいがしています。そして頼んだのがこれ、「星の麺セット」、ラーメン・餃子3つ(でかい)・杏仁豆腐付でなんと600円!しかもラーメンがこんなに具だくさんで。もれなく美味しいんです(あ、ラーメンは並だけど満足するってこと)。
ビールは290円で、冷奴付。机に置いてある自家製ラー油をかけると、もうそれだけで美味しい麻婆豆腐みたいになります。

Momijia4_2

いやぁ~、コスパが素晴らしくよくって、満足いたしました。

お店を出ると、すぐ脇は暗闇坂でした。暗闇坂って、あちこちにありますねぇ。
・・・思わず「ももんがぁ~、ももんがぁぁ~~、お、お、ももんがぁ~・・・」と、歌ってしまいます。ここの暗闇坂のことじゃあ、ないけれど。

さて、今回辿るのは、紅葉川の支谷のようなものがある、愛住町です。これまで、紅葉川を随分左岸ばかり見ながら下ってしまったようです。なので、右岸をちょっと上流のほうまで戻ります。
略地図を再掲すると、緑色の部分となります。

Momijimap_3

その、付け根のところから遡りましょう。

Momijib22

本流をてくてく歩いていると、道が分岐します。

この写真の左手の道に入っていきます。

Momijib23

そこは緩やかな坂道になっていて・・・、少しのぼってから振り向いた様子。

左手のお店やさんの看板に「飲料水店」と書いてあります。以前、コメント欄にて、鍵ノ手さんから飲料水屋さんのお話をいただいたことがあります。
調べてみると、江戸期には上水の余水などを水船に載せ、江東地域などの飲料水の無い地域へ運び、水屋が売り歩いていたとのことです(「江東区にみる水利用の歴史」より)。水船業者が水を得る玉川上水の「吐水口」は日本橋のほうであったようなので、このエリアは関係のないお話のようにも思えますが・・・、この飲料水店はもっと後の時代できた清涼飲料水を売るお店なだけかもしれませんが・・・、たまたま、玉川上水の余水吐は尾根を越えたすぐそこにあります。ここが、江戸のころからあったお店だったりしたら、面白いんですけどねえ。

Momijib24

さ、遡ります。

お寺と、すごい崖が見えてきます。浄運寺、法雲寺、正応寺、安禅寺、と、タテにお寺が連なっています。

ここ愛住町は、1636年~に出来た寺町。かつてはチョコっとだけ家があるような地だったのが、牛込~赤坂の外堀開削の際にその地にあったお寺が移転してきたのだそうです。

Momijib25

お寺の向かいには愛住公園があり、ここも土地が高くなっています。

江戸の地図だと、この道の両側にお寺があり、現在より6軒多く建っています。
明治期になると2軒減り、明治の終わりころから公園側の土地に学校が建ち始めます。

今は、学校はなくなり、公園とマンションです。

Momijib26

だんだん深くなる谷。

ここまでくると、ちょっと無理やり切り通してる感もあり・・・。しかし、陰影図で見ると、このちょっと下くらいまでは、自然な谷戸であるように見えます。

水源も定かではないですが、この道自体は江戸期からあったようなので、崖からの湧水をあつめた一流があるような気がしてなりません。。

Momijib27

(日当たりの都合で、後ろを振り返りながら写真を撮っています。)

さあ、登り道もそろそろ終わります。右手にあるのは、イタリアン?カルネヴィーノというお店っぽいです。お肉料理が、美味しそううぅぅ・・・これもまた、暗渠(たぶん)沿いレストランですねぇ。

さあ、これで、愛住町支流(仮)があったと思しき谷は登りました。
後日追記:この通りは「湯屋横丁」と呼ばれていて、その由来はここに風呂釜を並べて湯を沸かし、無料で入浴をさせていたことから、だとのこと(四谷探訪マップより)!お風呂きたー。・・・しかし、それはいったい、どんな光景だったのでしょう?

Momijib28

もう少しすすむと、ふと、脇に怪しい路地がありました。

一本西にある道路とを結ぶ、なんともあやしげな道です。思わず引き寄せられて・・・

Momijib29

・・・こんな。なぁ~んか、あやしい・・。

でも結局なんだかよくわかりませんでした。
江戸や明治の地図を見ても、ここには道も川もありません。建物が並んでいる隙間のようではあるので、細~い排水路があったりしたら、面白いんだけどなあ。

Momijib30_2

そしてそのあやしい道を抜け出ると、目の前に出現するのが、ほとりカフェというカフェでした。

・・・ここは、川のほとり?ちょっとうれしくなって、入って中国茶を飲みました。
店員さんに、ここが川のほとりだったのかどうか聞いてみると、オープンしたてのお店で、この地の昔のことはご存じないよう。店名の由来は、「ほとり」という言葉に”ある人の縁につながる人”という意味があり、そんな風に人と人とが出会ってゆける場になるようにと、ねがいを込めてつけたのだそうです。(もうひとつ何か仰っていた気がするのだけれど、結構前のことなので記憶が薄れてしまいました。。)

川跡とは関係のない由来でしたが、わたしのなかでは「川のほとり」のイメージが豊かに膨らみ、ちょっと良い出会いとなった気がします。

さ、紅葉川再開第一弾は、暗渠的にはインパクトの薄いものとなってしまいましたが、ここからまた支流を堪能しながら、下り始めたいと思います。ちなみに、「川跡からたどる江戸・東京案内(菅原健二著)」にも紅葉川が登場しています。そこでの記述は、

田安家下屋敷(四谷4丁目)あたりの湧水や悪水と、富久町の饅頭谷の湧水をあわせて東に向かい、現在の靖国通りの南側に沿って流れ、曙橋付近でジク谷(川田窪のこと)の流れをあわせた。

となっており(括弧内はnama追加)、やはり愛住町(および他の妄想支流)の記述がありません。しかし、文献によっては紅葉川の水源のひとつについて「愛住町」と記しているものもあります。すくなくともこの谷のどこかに、小川があった可能性は高いと考えています。あったらいいなぁ、愛住町支流(仮)。
と、ここまで書いて、旧ふろっぐねすとさんを見たら、この谷のことをはっきり「支流」って書かれてますね。きっと根拠となる文献が存在するはず・・・要、再調査。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

つくりかけの下水道見学

勝島ポンプ所に行ってきました。
ちょうど、下水道月間で”勝島幹線工事”のようすが見学できるということなので。(”勝島”という言葉も初めて聞いたほどアウェーな場所ですが、見学日が一日しかないため、近所の下水道はほぼ見られなかったのでした。)

Katu1 こういう見学系は、当日行こうとして涙をのんだこともあるため、前日に電話で予約の必要を確かめました。すると、「予約は要らないけど、午前中に小学生の見学が多いから、昼過ぎに来たらゆっくり見られますよ。」とのありがたい情報をいただきました。

なので、お昼をちょっとまわったくらいに行くことに。初めて鮫洲という駅で降り、レトロな写真屋さんなんかをながめながら、てくてく。

若干道に迷って、明らかに遠回りをし、汗だくになりながら到着。

・・・そこには、下水道局の方々と、結構な数の先客がいました。
ゆっくり見られるかと思いきや・・・。小学生はいなかったけれど、かわりに地元の「○○町内会」のご一行がバーン、といらっしゃいました。
そしてその町内会の方々(平均年齢7~80歳といったところ)と一緒に見学ツアーに参加することになりました。和気あいあいの団体さまの中に、自分、ひとり。なんたるアウェー感!

Katu2_2

まあ、いいんです。以前、水の科学館の見学で自分以外小学生、という状態だったときのやりづらさよりはマシです。筆記具と白紙を手に挑みます。

まず最初はDVD鑑賞。アニメを使って下水道のしくみを解説するものですが(割愛)・・・、神田下水の使用時の映像が見られて、しかも動画だったのでちょっと感動しました。

さて、この勝島幹線工事の概要について簡単に書いておこうと思います。
工事の目的は、立会川・勝島運河等の水質改善のため(合流式下水道システムによる汚水流入を減らすため)、勝島ポンプ所の汚水を森ヶ崎幹線に送水するためのトンネルをつくるといったもの、つまりは合流改善(lotus62さんが書かれた記事へリンク)の一環です。

Katumap

上の写真で、ピンクの線が引っ張ってあるところが、今回の工事ルート。勝島ポンプ所が発進基地で、森ヶ崎幹線に到着地点があります。このように、2点を結んで直角に掘り進めるようなのですが、赤丸をつけた部分にこの工事の特徴があります。
この部分で”勝島運河潮通し水路(潮通しボックスカルバート)”の基礎杭(RC杭)という障害物に遭遇してしまうので、ここを通過する際に地盤改良および切断・除去を行う・・・これが大きな特徴の一つであるとのこと。

Kouhou この図のような状態になるってことらしいです。
そしてその地点をもう少し見やすくヤフー地図で見てみると、

Katumap2

この赤丸のところです。しながわ区民公園の下。
つまり、しながわ区民公園は、勝島運河とボートレース平和島をつなぐ、もと運河のように見えるけれど、その下には海水の流れる暗渠がある、ということ??・・・うーん、これちょっと興奮します。
ふだんの川跡に対する興奮とはちょっと違う気もするけど、これはこれで面白い。

Katu3

見学場所には、色々と説明的な紙も貼られていました。

現在行っている工事は二次覆工であり、一次覆工では銅製セグメントを、二次では内側に強化プラスチック複合管を設置、という風に2重にするようです。で、その間には隙間が出来てしまうので、エアーモルタルで埋めるっていうことみたいです。(全く詳しくないので、間違えていたらご指摘お願いします。とくにエアーモルタルの使い道の記憶が微妙。)

Katu4

強化プラスチック複合管も展示されていました。

こんな感じです。これが一番内側で、下水が通って行く道というわけですね。

Katu5

そしてそして!
これが今回の特徴的な工法、”特殊泥土圧式シールド工法”を可能にする、ジェット噴射付きシールドマシン!!

この超高圧ジェット水を障害物(今回はRC杭)に噴射し、反射音から位置・材質等を確認します。
ついで、超高圧地盤改良材を噴射し、周辺地盤の安定や既設構造物の防護を行います。
そして、切断材を超高圧で噴射し、障害物を切断・破砕しマシン内に回収します。

この3つのシステムにより、潮通しボックスカルバートの支え部分を、壊すどころかもっと頑丈にして掘り進められるというわけです。なんだかすごい!超高圧まみれ!

Katu6

あー、なんかもう、実物を見る前からだいぶ興奮してしまいました。但し周囲には町内会の皆さんがいるので、黙って静かに興奮していました。

さ、見学はいよいよメインディッシュ。ヘルメットをかぶり軍手をはめて、地下に下りて行きます。
阿佐ヶ谷駅前の貯留管工事見学のときには 降りられなかったので、2倍わくわくしています。

Katu7

さあ、降りたー。

これが下水道のつくりかけだー!

ここに見えるは、まだ一次覆工の状態ですね。銅製セグメントがむき出しで、ところどころ湿っていました。スタッフの方いわく、結露だということでした。

ここは地下8mですが、とてもひんやりしています。

Katu8

この、バッテリー機関車で、荷物を内部に運んで行くようです。

・・・町内会には、ひとり仕切り役のおじさまがいらして、その方が「自分が常に最後尾から行きますから!」とわたしの後ろに居り、そしてその位置からあれこれ皆に話しかけます。つまり、自分も町内会の一員みたいな感じで見学が進みます。うん、まあ、いいの、もうそんな感じで。。

Katu9

うれしいことに、中に入れます。

先導するスタッフが、「ここらへんは○○の下あたりですね~」と地上の場所について解説し、町内会の皆さんが「おぉ~!」と感動しているのに、まったくついていけなかったのがさみしかった。。建物も交差点名もわからないもの・・・

Katu10

工事の途中なので、中にはさまざまな線や、穴などがあります。

これはクラウトホールといって、裏側の隙間に裏込め材を注入するための穴(今は閉じてます)。

結露があるくらいで、地下水が流れ込んだりはしていませんでした。

Katu11

さ、ここが折り返し地点。ここから先は、二次覆工まで出来ている、つまり出来あがった下水管です。地上で見たサンプルと一緒ですね。

見ているときは真っ暗でしたが、フラッシュをたいたら、こんな風に奥の方が曲がっていることがわかりました。

Katu12

なぜ曲がっているのか?・・・それは、首都高があるからだそうです。

この写真ではいま見てきた下水管が赤い点線で示されており、上の写真を撮った位置が赤丸のところです。
このすぐ先に首都高速1号羽田線が走っており、この橋脚はさすがに迂回しないといけないため、わずかに曲がるのだそうです。

Katu13

さあ、もう一度最初の写真をのっけます。

いま、見ることが出来たのは、勝島ポンプ所のところから、わずかに1cmくらい(写真上で)の区間。で、残りの区間は二次覆工が終わっているそうです。つまり、あとちょっとなんですねえ。

Katu14

このように2つの立孔をあけてのシールド工事でした。

この図は、阿佐ヶ谷駅前の貯留管工事のときに見たものと似ているので、少し理解しやすくなった気がします。

Katu15

・・・帰りがけに勝島運河をのぞいてみたら、なんだか白く、くもっている。うーん、やっぱり勝島運河は汚れているのかな?

けれどもっとよく見てみると、ボラのような小魚が群れをなしていました。
この下水管が完成して、もっときれいになったなら、もっと色々な魚がみられるでしょうか?

Katu16

そうそう、今回の見学では、思いがけずお土産をもらえました。

下水道局のエコバック。油断快適って書いてあるトイレットペーパー。油などの拭き取り用ふきん、汚泥で出来たマグネット、カッターシート。など。
見学できるだけでうれしいというのに、ありがたいことです。

・・・この下水管は、来年2月には使用し始めるとのことなので、中に入るのはこれがラストチャンスでした。この場合川跡ではなく、新しくできる下水管としての暗渠でしたが、これはこれで好きかも。やはり、普段は見ることのできない、地下に埋められたものを見られる、というだけで、なにかグッとくるものがあるようです。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

三四郎池からの、小川のほとりで晩酌を

最近たまたま目にしたものに、東京大学の”三四郎池(正しくは育徳園心字池)からの谷川”なる描写があって、思わず二度見してしまいました。東京大学の工学部3号館の建て替え工事を行う際に発見されたのだそうです。
三四郎池は、江戸初期に加賀藩によってつくられた湧水池ですが、現在は井戸水を循環させているそうで、水が流れ出ているわけでもありません。したがって三四郎池から流れ出る川、なんて、考えたこともありませんでした。ところが、ある日lotusさんが果敢にその流れを妄想しながら探検していました。・・・ははぁ、そうか、川があったかもしれないのか・・・などと心の片隅で思いつつ居たのではありますが・・・

Sansi1

早速三四郎池へ向かいます。

いまは人が数人、静かに佇むのみの、なんとも静かな場所です。

もともと荒れ地だったこの地は1617年頃に加賀藩の所有となり、立派な庭園となっていったそうです。案内板によれば「八景・八境の勝があって、泉水・築山・小亭等は数奇をきわめた」とのこと。
その池をつくるために地面が掘られ、その土砂を使って”サザエ山”なる山(江戸湾や富士山まで見えたという)がつくられ、そして池の脇には氷室もあったそうです。

池は、主に来客を接待する場所として使われたと考えられていますが、もうひとつ、火除け地としての機能も有していたようです。計6回(少なくとも)は火災に遭っている加賀藩邸の、避難場所として、そして消火用水として泉水を使っていたとも考えられています。
それは、この地が大学のものとなってからも同様で、三四郎池は、関東大震災の際には罹災者の避難場所となったと推測されており、また、池の水を消火用水としたことが本郷区史に載っているそうです。

さて、今回見た記述では、この池から流れ出した水路があったとされます。ということは、藍染川方面(根津方面)にそれが合流する水路もあったということ。
・・・そこで、また異なる機会に発見した暗渠のことを思い出しました。それは、言問通りから南東へのびる道のこと。

Sansimap

上の地図で、キャンパスの周囲をぐるっと囲うように水色のマークをつけたところです。この道を歩いていると、不自然に余っている車道やトイレ、連続麻雀杯マンホールがあったり、そもそもクネクネしていて崖下だったりと、暗渠感満載なのでした。そして明治の古地図を見ると、やはりそこには水路が描かれているのでした。おそらく、藍染川もしくは五人堀に注いでいたことでしょう。

そして、三四郎池から川が流れ出る場所は、いくつかの資料では、上の地図の水色の点々の位置に示されています。その点々のすぐ右下には氷室があったとされます。

Sansi2

池の、該当する場所へ降りて行ってみます。

・・・こっち側、現在は浅いです。水門も見当たらないし、こんなふうに自然に浅い感じになっています。

この位置から、水が出て行ったと思しき方向へいくと、

Sansi3

こうなっています。盛り土でしょうねぇ・・・(またはフェイク岸)。

この場所は1871年に文部省用地として摂取されたそうです。そして、1897年から周辺に医学系の建物が建設され始め、その過程で前出の”サザエ山”は無くなったそうです。その、山を崩した土を使って、三四郎池から流れ出る水路(幅約1.8m)は埋められた、とのこと(その頃には既に空堀だったよう)。

そしてもともと”将軍に氷を献上するため”つくられていた氷室はこの時期にはもはやお役御免であり、キャンパス編入後には撤去されたようです。

Sansi4

大学の校舎がどんどん建築されていったころ、この地の凹凸もどんどんなくなっていったことでしょう。今や川跡の手掛かりとなるはずの谷っぽいものなど皆無ですが、池から出た流れは、この写真のどこかを流れていたはずです。

左手にあるのは安田講堂ですが、考えてみれば安田講堂は崖を挟むように建っているのでした。崖下、川・・・そういえば、な風景です。

Sansi5

視線を右にずらします。かろうじて、今低いのはこちら側。なんとなく、ここら辺を通っていただろうか・・・などと思いながら、歩きます。

写真奥に見える白い壁が、冒頭で書いた、工学部3号館の建設現場の囲いです。

後から資料と照合してみたら、大体この道か、あるいは左側の植え込みか、そこら辺を小川が流れていたようでした。

Sansimap2

緑の点々が、三四郎池からの流れです。その流末のほうで、真ん中を川が通っている建物が、工学部3号館というわけです。
”工学部3号館地点は両端が高く、真ん中の流路に向かって低くなる、谷のような地形をしていた”のだそうです。・・・明治のときは、地形無視で、おっきな建物を建てたわけなのですねぇ。

Sansi6

さあ、今ならその工事現場をちょろりと覗くことができます。

下からボコボコ出ている円柱は、帝国大学時代の柱のようです。

正直、谷地形は感じ取れないんですが、なぜか最近出てきた工事現場萌えみたいな感覚があいまって、うれしくなってきますw。

Sansi7

調査のために掘った形跡(たぶん)も見えます。

実はここの見学会があったらしいのですが、今年の3月ということでしたから・・・たとえ情報を得たとしても、それどころじゃなかったろうなぁ、自分。

でもなんとなく、発掘現場の見学会なんてものがあったら、今後は行ってみたいかも。そんなアンテナも立てておきたくなりました。

Sansi8

今度は工事現場を角度を変えて見ただけ。写真の向う側に向かって、下り坂になっています。その向うに、この小川が注ぐらしき水路があります(この水路のことは、またいずれ)。

池からの流れだの小川だの書いていて、そろそろ面倒くさくなってきました・・・言っちゃっていいですか、呼んじゃっていいですか、この流れのことを、三四郎川(仮)と!

三四郎川(仮)の流れは、この写真では右手から入ってきて、やや右曲がりに奥に進むといった感じです。そしてこの流路に区切られるようなかたちで、加賀藩上屋敷と水戸藩中屋敷があった、とのことです。ここにおいてもやはり、川は境目の役割だったのですね。
そしてほとりには、加賀藩の家臣の長屋があったのだそうです。

Sansi9

三四郎川(仮)が通り抜けた、その先にあるのが弥生門。

この前の道の手前側に、三四郎川(仮)が流れ込んでいたであろう水路があります。
その流末は、明治の地図では曖昧です。江戸期の古地図でも、載っているものをまだ見つけられません。・・・宿題ですね。

Sansi10

この門から入るとすぐの、工事現場の壁のところに、いくつか発掘調査の報告が貼られているのでした。これは暗渠好き大興奮の瞬間!

まずは、水路からの出土品。これは桶と漆椀。
長屋にあった地下室(穴蔵のことかな?わくわく)とみられる土坑、それと川沿いの大きな土坑とあるようなのですが、後者はゴミ穴なのだそうです。
そのゴミ穴から出てきたのは、食べかすや生活用品、とくに酒徳利・・・参勤交代=単身赴任の武士が晩酌を楽しんでいたのだろう、と考察されていて、ふっと武士たちに親しみがわいたのでした。

Sansi12

これは井戸です。

「底を抜いた桶を逆さにして積み上げた」タイプの、江戸時代の井戸です。
それが良好な状態で残っています。

Sansi13

そしてそして、これが、三四郎川(仮)の姿です。
石組み部分と、側板で仕切られている部分(木枠部分)とがある、”ややラフ”なつくりなのだそうです。そうかぁ、ラフなのかぁ・・・。

小さな川だったことがうかがえます。この川のほとりの長屋で、武士たちは何を思いながらお酒を飲んでいたのでしょう・・・

Sansi14

なんと橋の遺構まで出てきたそうです。

ここに写っているのは、石橋に使われた石積み、それから橋の基礎である”銅木”というものです。ここは丁寧に作られているみたいです。

うぅーん、おなかいっぱいになりました。暗渠らしさなどほぼ無いのですが、裏付ける資料と、今だけ覗ける発掘現場、というのが美味しいポイントでしょうか。あとは、調査の報告書が発行されるのがとても楽しみです。
工事はまだ時間がかかりそうですが、もし興味をもたれた方がいらしたら、こういうふうに地面が見えているうちに、見に行くことをお勧めします!

<参考>
三四郎池ランドスケープリノベーションプロジェクト(web)
東京大学新聞第2549号

| | コメント (4) | トラックバック (1)

花色街暗渠 鳩の街編

長いこと、暗渠の記事を書いていなかった気がします。
3月以降、仕事の量がほぼ2倍になっていて、それは震災に絡んで増えたものや延期になったもの、震災とは無関係に去年から予定されていたものや突発的に増えたもの・・・自ら志願したものや断り切れなかったものなど、ずいぶん色々なこと。加えて仕事以外のことで、今までになく胃を壊すという悪循環で、自分の記事作成はおろか、他の方のブログさえ読めないでおりました。
けれども暗渠のネタはずいぶん溜まっています。そろそろ、少しずつ書いていこうと思います。

---------------------------------------

今回は、前の記事の続きです。色街と暗渠の旅、鳩の街編。
玉ノ井を歩き回り、西井堀沿いに移動していって、地蔵坂通り付近でぜひとも寄りたい店がありました。

Muko11

吉備子屋
ここは、暗渠趣味のもっと前から、わたしの食べたいものリストに入っていたきびだんごのお店です。

もともと行きたかったところに、ある日、KLOさんのサイト上で闊歩マンさんから、「吉備子屋の屋台が向島百花園前に出店している」という、鼻血の出そうな情報をいただきました。この屋台の感じがまた素朴で良いのなんの。
・・・けれど、実際に向島百花園に行ってみると、屋台は見当たらず。吉備子屋の店舗に行ってみると、店員さんが「今日はあんまりにも暑いんで、屋台はナシにしたのよ。いつもは行ってるんだけどね~。」だ、そうで。今日だけっすか!まあ、たしかにお団子を作る工程で、目の前で茹でるというものがあって、いかにも熱そう。・・・去年の夏の終わり、そう、あの酷暑のできごとでした。

そんな暑いなかですが、食べたいもんは食べます。きびだんご、ウマー!!!でした。やわらかくて、素朴な味で、何本でもイケそうです。ここにも興水舎のラムネを置いていました。

Muko12_2

そして次の目的地へと、西の方に向かいます。
墨堤通りから降りてくる、小さい階段。・・・裏道との間にずいぶんと段差があるようです。

これから向かうは、鳩の街。前回書いた、玉ノ井の色街が東京大空襲で焼けてしまったため、焼け出された業者5軒、娼婦12人が移動してきて、細々と営業を再開した地です。

Muko13

まもなく鳩の街通りに到着します。

もとはといえば、KLOさんの写真を見て、とても惹かれたのでした。そして暗渠の匂いはしないだろうかと、やってきたのでした。

まだ通りの入口に立っただけですが、商店街として実に味わい深い雰囲気を持っているような、そんな予感がしてしまいます。ここの歴史について、知らないとしても。

Muko14

通りを歩く前に、入口付近(墨堤通り側)でとても気になったものがあります。

橋の遺構でしょうか?・・・この後ろに建っているのは、ラブホです。ラブホの外壁とは不釣り合いなこのコンクリートは、川や川関係の名残だと思いたくなってしまいます。

わずかに向こうには、隅田川。「濹東向島の道」(鈴木都宣著)では、この地点を”隅田川の入江である、銅像堀”と言っています。以前はここらへんによく荷物船が係留されており、西村勝三という人の銅像が立っていたそうです。

Muko15

ここは、鳩の街通りの裏道です。このように一本のちょっといびつな道が、鳩の街通りの西側を並走します。

前掲書によれば、ここに明治期、”古川”という川が流れていたそうです。古川は先ほどの銅像堀から取水し、北十間川に向かって流れていきます・・・色街のすぐ裏を。
この古川の岸に隅田川の運ぶ土砂が積もって陸地が増え、鳩の街商店街通りはそのために出来た、川沿いの土手道であったと描写されています。

Muko16

・・・とはいえ、古川の暗渠であるはずの裏道には、暗渠サインはほとんど見られませんでした。裏道と、鳩の街通りを交互に歩きます。

商店街にはふるくて、思わず見とれてしまう建物が連なります。銭湯とお米屋さん。

Muko17

そして今回の目当てのひとつ、カフェ―建築。
それらしき建物は、鳩の街商店街に対して東側、つまり、古川とは反対側の裏道に何軒も残っています。

「デウスエクスマキな食堂 向島迷宮地帯」(kekkojinさん著)でも、娼街は一本裏道に連なっていた、と記されています。
「モツ煮狂い 第二集」によれば、鳩の街のピークは1955年で、業者108軒、従業婦は329名もここにひしめいていたとのこと・・・。想像ができません。今の鳩の街商店街は、ほのぼのとした音楽が流れ、夕餉の買い物のおばさまが会話し、子どもが駆け回る。そんな雰囲気です。

Muko18

凝った丸みやタイル使いが独特のうつくしさを持つ、建物。ここには、ピカピカのネオンや、お客さんを誘う女性の声が、またたいていたはず。

・・・この情景を、わたしは「濹東綺譚」の映画を見ることによって、少しだけ味わうことができました。(見る機会があったのは、1960年山本富士子主演のほうです。)
お雪の家の前に溝(どぶ)があったことは、前回の記事でも書きました。映画ではその溝がいつも中央に配置され、娼婦たちはその溝の前にしゃがんで歯磨きをし、口をゆすいだ水を溝にペッと吐いたり、雨で溢れるとキャーキャー言いながらどじょうをすくったりしていました。排水も流れ込むはずの、あまりきれいではなさそうな溝(ちなみに1m幅くらいのハシゴ式開渠)だけれど、女性たちは溝とともに(溝に対し肯定的に)生活をしていたように見えました。

・・・ここ、鳩の街ではどうだったでしょうか。脇を流れる古川や、他にもあったかもしれない排水路を、女性たちは愛でていたでしょうか。

Muko19

ちなみに、明治44年の地図を見ると、古川らしき流れを確認することができます。細~い、流れです。それから昭和30年代までは、ぽつ、ぽつ、と区切られたように水路のしるしを見ることができます。

今はどこも、ただの道ですが・・・、近くには井戸がありました。

それから、「濹東向島の道」によれば、吉備子屋のところで触れた地蔵坂通りも、川沿いの道であったそうです。現在の交通公園のあたりが平作堀という入江(隅田川の)で、中川へと注ぐ川があったとのこと。
そして、この地蔵坂通りと古川跡を挟んだ地域は、古代には大きな川であったのではないか、と考察されています。つまり・・・、

Bokuto

この、黄色と水色に挟まれたエリアは、大昔は川底だったかもしれないのです。曳舟駅なんてまるまる入っちゃいますね。うーん、面白い!

明治44年~大正の地図では、地蔵坂通り沿いに溝川を見ることができます。昭和5年には暗渠化されたようですが。実はさんぽ時には、この資料を入手していなかったので、地蔵坂通りはきびだんごで頭がいっぱいになりながらスルーしていました。要、再訪。

Muko20

帰り道は、またてくてく歩いて、行きたかったところへ。
向島のレトロな喫茶店(なのか?)「カド」で、活性生ジュースです。いやいやここも・・・、すごいです。他に似た雰囲気のお店は見たことがありません。

さてさて、それなりに満足した鳩の街と暗渠のさんぽでしたが、後に買った「デウスエクスマキな食堂 向島迷宮地帯」を読んでみて痛恨の見落としに気付きました。どうやら、鳩の街の裏路地に、150円~300円でもんじゃを提供する、すばらしきお店があったようなのです。それから、京成白髭線の跡のこと、白髭の防災ロボット団地のこと、ちゃあんと書いてあって脱帽の一冊です。そしてこのエリア、やっぱり素敵です。
鐘ヶ淵でチューハイを飲む旅でも企画し、またそのうちに、訪れたいと思っています。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年8月 »